暴を以て暴に報ゆる勿れ

ー蒋介石の戦後捕虜取扱い方針ー


 2012年2月20日、名古屋市の河村市長は、表敬訪問を受けた中国側代表に対し、「南京事件はなかった」という趣旨の発言を行いました。

「南京事件なかった」と河村氏発言 中国からの訪問団に

 名古屋市の河村たかし市長は20日、表敬訪問を受けた同市の姉妹友好都市である中国・南京市の共産党市委員会常務委員らの一行8人に対し、 1937年の南京事件について「通常の戦闘行為はあって残念だが、南京事件というのはなかったのではないか」と発言した。

 河村市長は旧日本兵だった父親が南京で45年の終戦を迎え「温かいもてなしを受けた」と話していたことを明かし 「8年の間にもしそんなことがあったら、南京の人がなんでそんなに日本の軍隊に優しくしてくれたのか理解できない」などと述べた。

 さらに「真実を明らかにしないと、とげが刺さっているようなものでうまくいかない。一度、討論会を南京で開いてほしい」と求めた。(毎日jp 2012年2月20日)

 「南京大虐殺はなかった」というのであればともかく、「南京事件はなかった」とは、大胆な発言です。 しかもその根拠が、旧日本兵であった父親が南京で「温かいもてなしを受けた」では、何とも心もとありません。



 しかし「歴史トンデモ派」とでも呼称すべき「右派政治家」の一部は、あえてこの河村発言の擁護に走りました。

石原都知事:「河村君正しい」

 東京都の石原慎太郎知事は24日の定例記者会見で、河村たかし名古屋市長が南京事件を否定した発言について「河村君の言うことは正しいと思う」と擁護した。

 石原知事は「あれだけの装備しかない旧日本軍が、あれだけの期間に40万の人を殺せっこない。 絶対にない、物理的に。戦争のどさくさですから、人を殺したのもあったかもしれない。しかしそれをもって、大虐殺というのは本当に心外だと思うし、違うと思う。 さんざん検証してきたんだから。私は彼を弁護したい」と述べた。(毎日jp 2012年2月24日)


 河村発言は、「南京事件はなかった」というものです。それを石原都知事は、「40万の虐殺はなかった」にすり替えてしまいました。 「40万の虐殺」など、中国側も主張していないのですが。

 また、「なかった」根拠が「物理的に」では、こちらもいささか根拠薄弱です。例えば「装備」について言えば、 第百十四師団だけで、約三百万発の弾薬を携行しています。南京派遣軍全体では、おそらく数千万発にのぼるでしょう。

 
河村市長の「南京大虐殺」否定発言を擁護

 政治団体「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長は26日、 大阪市内で講演し、河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言に関し「間違いない。わたしも日本の汚名をそそぎたい」と述べ、河村氏を擁護した。

 山田氏は、当時の南京安全区国際委員会が作成したという文書に基づき 「日本の南京占領後に、人口が20万人から翌月には25万人に増えている。虐殺があったのに増えるのか」と指摘。 河村市長が中国側に南京市での討論会開催を打診していることに関し「南京でやったら駄目だ。第三国のインドがいい」と述べた。(共同)

(日刊スポーツcom 2012年2月26日)

 こちらは、相も変わらず陳腐な「人口増加論」です。




 このような「援護射撃」に力を得たのか、河村市長は、最初の発言の1週間後、記者会見の席で、「発言は撤回しない」と宣言しました。

河村市長「真意伝わらなかった」 南京発言撤回はせず

 河村たかし名古屋市長は27日の定例会見で、南京事件を否定した自らの発言について 「発言の趣旨が南京ではあたかも何もなかったと誤解されたとすると、遺憾である」 と述べた。また、「相互理解と友好親善をいっそう深めるために南京市と名古屋市で率直な意見交換、話し合いをしたいという私の真意が伝わらなかった」とも訴えた。

 だが、河村氏は「30万人もの非武装の中国市民を日本軍が大虐殺したことはないと思っており、 『いわゆる南京事件はなかったのではないか』と申し上げたことは撤回しない」と語り、発言そのものは撤回しない考えを改めて示した。

(朝日新聞デジタル 2012年2月27日)

河村名古屋市長:南京事件発言を修正

 名古屋市の河村たかし市長は27日の定例記者会見で、南京事件を否定した自身の発言について「(被害者が)30万人とされるような組織的な大虐殺はなかったのではないかとの趣旨だった」と説明し、 発言を事実上修正した

 そのうえで「南京ではあたかも何もなかったと誤解された。南京市民の皆様にも誤解があったと理解してもらいたい」と釈明した。 ただ、以前の発言は撤回しないとも述べた。

 南京事件の被害者数については「非常に多くの意見があるので、(今後)率直に話し合いたい」と述べ、自身の見解について明言を避けた。 また「形式的な交流促進ではなく、もっと多くの日本人が南京市に住んでもらえるようにしたい。(南京事件について)率直な議論ができる日が来るよう願っている」と話し、改めて南京市側に意見交換の場を設けるように求めた。

(毎日jp 2012年2月27日)

 よく見ると、自分の当初の「南京事件はなかった」発言を、「30万人もの非武装の中国市民を日本軍が大虐殺したことはない」という趣旨だった、と強弁してしまっています。毎日が報じる通り、事実上の修正、と考えていいでしょう。

 しかし、中国側も主張していない「30万人もの非武装の中国市民」虐殺を否定しても、何の意味もないのですが。 河村氏は、中国側の主張内容すら十分に理解せずに、一体どんな「議論」をするつもりなのでしょうか。

 ここでは河村発言のうち、「終戦後の中国側の捕虜取扱」にテーマを絞って、実態がどうであったのかを見ていくことにしましょう。


2012.3.10追記

 その後河村氏は、何と、自分の認識は政府見解と「ほとんど同じ」、とまで「軌道修正」を行ってしまいました。

河村氏、発言撤回を否定…政府見解「僕と同じ」

 南京事件に関する発言を巡り、名古屋市の河村たかし市長は5日、2月議会の本会議で、 「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」とする政府見解について、「僕の言っていることとほとんど同じだ」との見解を示した

 その上で、改めて発言の撤回を否定した。共産党市議の質問に答えた。

 さらに市議が「政府見解に同意するか」と質問すると、「政府見解には30万人虐殺のところは入っていない。同じ趣旨ではないかと思うが分からない」とした。

 政府は「被害者の具体的な人数については諸説あり、正しい数を認定するのは困難」としている。

(2012年3月5日19時27分 読売新聞)


 河村氏の最初の発言は、「通常の戦闘行為はあって残念だが、南京事件というのはなかったのではないか」 「8年の間にもしそんなことがあったら、南京の人がなんでそんなに日本の軍隊に優しくしてくれたのか理解できない」でした。

 今回の発言は、明らかに当初の発言と整合しません。「非戦闘員の殺害や略奪行為」が「通常の戦闘行為」である、とでも強弁するつもりでしょうか。

 いずれにしても、今回の発言が、「河村発言支持」を打ち出した一部右派勢力にとって、頭が痛いものであることは間違いありません。



 河村発言を待つまでもなく、蒋介石が日本軍捕虜に対して寛大な取扱いを指示していた、という事実は、よく知られています。

 蒋介石は、日本の降伏宣言の前日8月14日に、このような演説を起草しました。(発表は15日)


蒋介石演説『暴を以つて暴に報ゆる勿れ』より

 (1945年8月14日 於重慶)

 この戦争はわれわれ人類に互助互敬の精神を発揚し、われわれに相互信任の関係を確立し、また世界戦争と世界平和が、不可分のものであることを証明した。 かくて今後における戦争の発生を不可能たらしむるに足ることを証明したのである。

 このやうに話してゐるうちに、余はキリストの山上の教への中にある「汝己れの如く人を愛せよ」および「汝の敵を愛せよ」の二句を思ひ出し実に限りない感慨の湧くのを覚える。(P5-P6)

 同胞諸君。われわれ中国人は、旧悪を思はず、人に善をなす、と云ふことがわが民族の伝統的な至高至貴の特性であり、われわれが一貫して声明したのは、「われわれは日本軍閥を敵とするが、日本人民を決して敵と認めない」と述べたことを思ひ出さなければならない。

 今日敵軍は既にわれわれと同盟軍によつて打倒された。われわれは当然かれが一切の降伏条件を忠実に履行するよう厳重にこれを求めるものである。

 しかしわれわれは決して報復を企図するものではない。敵国の無辜の人民に対してはなほ更侮辱を加へるものではない。 われわれはただかれらに憐憫を表示し、かれらをして自らその錯誤と罪悪を反省せしめんとするだけである。

 もしも暴を以て敵のこれまでの暴に報ひ、凌辱をもつてかれらのこれまでの誤つた優越感に応へるならば、冤と冤は相報ひ、永久にとどまることはない。これは決してわれわれ仁義の師の目的ではない。(P6)

(蒋介石『暴を以て暴に報ゆる勿れ』(白揚社刊)所収)
 


 蒋介石はなぜ、中国人を大量に殺傷した憎むべき「敵国日本」に対して、こんな寛大な方針を採ったのか。

 それは必ずしも、蒋介石自身が述べるような「きれいごと」ばかりではなかったかもしれません。一般的には、このように見られています。

加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』より

 翌(「ゆう」補足 八月)一五日、天皇の玉音放送が流れた同じ日、蒋介石自らがマイクの前に立ち「以徳報怨」の演説を全中国と全世界に向けて行った。戦争最大の被害国である中国が加害国である日本に対して、報復ではなく徳を以て臨むことを宣言し、中国の統一と復興のために一致団結を呼びかけたこの演説は、さまざまな政治的配慮と同時に抗日戦を勝利に導いた蒋介石の決意と自信の表れでもあった。(P177)



 支那派遣軍の対応は、混乱のなかで対応を見誤った関東軍と大きく異なっていたが、中国本土に一〇〇万を超す部隊を抱えつつ軍組織がそのまま維持されていたことの意味はきわめて重く、蒋介石も、ほとんど無傷だった支那派遣軍をいかに降伏させて、復興に活用していくかに大きな関心を寄せていた。「以徳報怨」演説は、この無傷の日本軍を強く意識したものであった。(P178-P179)



石川禎浩『革命とナショナリズム』より

 かれ(「ゆう」補足 蒋介石)は内外に向けたその演説で、八年間にわたって受けた苦痛と犠牲を回顧し、 これが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、日本人にたいする一切の報復を禁じた。「不念旧悪」(過去の罪悪をいつまでも怨むなかれ)、「輿人為善」(人のために善を為せ)という言葉で「人の道」を強調した演説の精神は、のちに「以徳報怨」(徳をもって怨みに報う)の四文字に集約され、敗戦国日本にたいする中華民国の基本方針と見なされるようになった。

 むろん、この方針の背後に、共産党を圧伏するために敗軍を利用しようとする国民政府の意図がなかったとはいえないだろうが、大戦を経て「大国」の誇りを持つに至った中国側の度量の大きさに、多くの日本人(とりわけ中国にいた日本の軍民)が感銘を受けたのは間違いない。(P233-P234)




 蒋介石自身の言葉で、確認しましょう。

『蒋介石秘録14 日本降伏』より

 『投降受け入れ作業が幸い予定の目標を達成できたことは、すこぶる欣快である。共産党と投降接受を争ったときの状況をいま回顧すると、ワナや謀略があいついで仕掛けられ、まことにきわどい情勢であった。しかしついに困難を突破して、任務を完成することができた。

 昨年(一九四五年)八月、日本が無条件投降を宣言したとき、私(蒋介石)はただちにラジオ放送で演説を発表し、中華民族が伝統とする至高至貴の徳性は「不念旧悪」と「与人為善」であり、 決して日本人民を敵とせず、また敵人のかつての暴行にたいして報復を加えないことを説明した。これによって敵軍と偽軍(汪兆銘政権の軍)は安心して投降し、共産党に煽動と誘惑の機会を与えることがなかったのである。

 また、日本が投降の条款を順調に執行しおえたのも、もとよりわれわれの平時の威信が著しかったことによるが、同時に、われわれの態度の誠実さに感じたためである』

(一九四六年十二月三十一日、今年の総反省)
 

 何のことはない、「共産党」との「投降接受」争いを優位に展開するため、との説明です。 来るべき共産党との覇権争いに備え、少しでも旧日本軍の兵器を多く接収しておきたい、という考えがあったものと思われます。

 しかしたとえ「裏」があったとしても、元敵国兵士に対するこのような寛大さは、おおいに称揚されるべきことでしょう。もし日本軍が同じ立場に立っていたら、敗北した敵軍の元兵士をここまで厚遇することができたかどうか、疑問です。


 この演説は、当時の日本人に、深い感銘を与えたようです。


保坂正康『蒋介石』より

 これが有名な「怨みに報いるに怨みをもってせず」の言である。

 この言は中国に送られていた日本軍兵士や居留民の心を打った。やがて日本に伝えられたときも心に響く言となったのである。

 一九八〇年代に、私が取材したある陸軍省の将校は、この言を十五日の夜になって聞いたとき、人目につかぬよう涙をふいたとも告白していた。(P235)



 元日本軍兵士の体験談として、このような「美談」も聞くことができます。

『若松聯隊回想録』より

 負けたと思つたこと 

K・Y(原文実名)

 私の現役は歩二九であったが、召集は歩六五で会津若松市の兵営に入り、両角部隊の編成で中支の戦線へ行った。 上海戦から宣昌まで足かけ五年の戦場からかえったあと三年で再召集となり、今度は南支へ渡ったが一年ほどで終戦になった。

 終戦になったのは東莞郊外の警備中で、私達は東莞で武装解除をうけ、町はずれの廟に収容された。私達の旅団本部は二百人くらいのもので、ここを集中営と呼び帰国までの不安と焦燥の毎日をおくった。

(中略)

 或る日のこと集中営分哨長の曹長が、集中営に入って来て、私ども数名の下士官を名ざし、集中営の外につれ出した。

 「まさか銃殺するわけでもあるまい」と私達は、彼のいうままに従った。後尾には着剣の歩哨が従っていた。

 曹長は自分らが分哨舎としている民家に私達を案内した。民家の土間はかなり広く、きれいに掃除されており、真中にはいくつも卓を長くよせて、その上にたくさん皿に盛った御馳走がならべられてあった。

 曹長は私ども一人一人の肩をおさえ手まねで椅子にかけるようにいい、自分は一番奥の正面にかけて、通訳の出来る草野軍曹を近くに呼び中国語で話しはじめた。草野軍曹のはなしによるとそれはつぎのようなことだった。

 貴方がたを今日ここに招待したのは、貴方がたとよい友達になりたいからです。私どもは一応は貴方がたに勝ちましたが、自分の実力で勝ったとは思っていません。貴方がたはわが国軍の将校にもおとらぬ学識をそなえ、優秀な技術をもっている人達です。これから東洋の平和を守るためにほ、どうしても貴方がたと手を組まなければなりません。お互に仲よく、東洋の平和のためカを合せてゆきたいと思います。

 今日は皆様が、そろってこの席に出席下さったことは私としてこの上なくうれしい。どうか私達の心をうけ、何もないがゆっくり歓談してもらいたい。


 ここにならべた料理はまことに恥かしいものだが、われわれが自分の給料からお金を出し合い求めたもので、決して軍の指令でもなく、軍から経費をもらったわけではありません。吾々単独の考えからこの宴をもうけましたので遠慮なく召し上っていただきたい。貴方がたと同席して宴を催すことは吾々の名誉です。

 この言葉に、何か難題でももちかけられるのか、まかりまちがえば銃殺かとも思っていた私達は、全くあっけにとられてしまった。

 歩哨達数名はもとより、話し終ると曹長はみずからも立って私どもにチャンチューをついでまわった。

 私達は当時は、高梁飯に塩をふりかけ日常の食事としていた。魚や肉などは口にすることは出来なかったが、この食卓はそんな私達の目には全く豪華に見えた。 魚のフライ、豚肉と野菜のいためもの、ニワトリの丸むし、その他さまざまのしかも、大皿いくつかにもりあげたものを食い放題というすばらしいご馳走で夢ではないかとさえ思ったほどだった。

 日本兵の場合だったら捕虜が、たばこや、酒などねだるようなときには蹴とばしたり、生意気いうなと叩いたりしたのを私も見たことがあった。

 私はこの時、彼等をチャンコロなどとさげすみ呼んでいたことが恥かしく顔のあからむ思いであった。彼等のこのおおらかさに、私は人間的信頼を感ずるとともに、私達などよりはるかに人間的規模の大きいことを感ぜずにはいられなかった。

 私が本当に「負けた」と思ったのはこの時であった。

(同書 P303-P306)
 

 蒋介石の真の思惑がどうであれ、中国側の意外なほどの「寛大さ」が、日本兵の心を融かしてしまった事例、と言えるでしょう。



 しかし、すべての中国人がこの方針に納得し、旧日本軍への恨みなど忘れてしまった、と断言してしまうのであれば、それもまた「行き過ぎ」というものでしょう。

『岡村寧次大将資料(上)』より

 要するに中国軍官民のわが方に対する態度は、一般に良好であったが、何分広大な地域であるから、局地的には日本軍官民に対し、侮辱暴行、不法行為等も発生し、 中には一生涯中国人を恨むなどと申していた邦人もあったし、一面反日感の根強さを思わしめるものも無きに非ずであった。(P13)



一二月六日

 本日の中国新聞に載った昨日の私の記者会見の記事は、中日両国の提携や、我方に有利な事項は一切抹消され、専ら戦勝者としての雑件ばかりを取扱っている。親の心子知らずではあるが、 その大衆の対日反感の根強い点も察しなければならない。(P58)

 
山中徳雄『南京一九四五年』より

 そんなある日、医者から帰ってくると由上氏の奥さんが戸口に呆然とたっていた。わけを聞くと今しがた三、四人の中国人が土足であがりこみ何かを持っていったということであった。(P37-P38)

 さきに妻が帰国の際、大抵のものはもって帰っている筈で、これというものはなかったが、それでも調べてみると背広が二着ばかりなくなっている。由上家のものも無くなっているようであったが、まあ怪我がなかったことが何よりの幸せですよ、と奥さんを慰めたことであった。

 この頃になると他の居留民の間でも、しばしばそうした事件があちこちで聞かれるようになってきた。街を歩いていて、いきなり殴られたり、石を投げつけられるといったようなことも、再々おきているようであった。

 些細な事件であってもこうして幾つも事件が重たってくると、次第に居留民の間にも不安が募ってくるのは当然のことである。領事館や居留民団でも放っておくことができず、より安全な生活を守るために中国側と折衝して、ついに邦人は一カ所に集まって生活することになった。お互いが集中生活をすることによって、お互いの安全を守ろうというのである。(P38)

 旧日本軍に対する「怨み」は、民衆の心の中にはまだ燻っていた、と見るべきところです。河村市長の見方は、単純に過ぎます。



 以上、河村市長の父親が受けた「厚遇」は、単に蒋介石の捕虜取扱方針の反映であるに過ぎませんでした。「南京大虐殺」の有無とは、全く無関係なものです。

 もう一度、河村発言を読み返しましょう。

「南京事件なかった」と河村氏発言 中国からの訪問団に

 名古屋市の河村たかし市長は20日、表敬訪問を受けた同市の姉妹友好都市である中国・南京市の共産党市委員会常務委員らの一行8人に対し、1937年の南京事件について 「通常の戦闘行為はあって残念だが、南京事件というのはなかったのではないか」と発言した。

 河村市長は旧日本兵だった父親が南京で45年の終戦を迎え「温かいもてなしを受けた」と話していたことを明かし 「8年の間にもしそんなことがあったら、南京の人がなんでそんなに日本の軍隊に優しくしてくれたのか理解できない」などと述べた。

 さらに「真実を明らかにしないと、とげが刺さっているようなものでうまくいかない。一度、討論会を南京で開いてほしい」と求めた。(毎日jp 2012年2月20日)

 父親が「温かいもてなしを受けた」ことがどうして「否定」の根拠になるのか。河村氏は自ら、歴史的背景への無知を暴露してしまっています。



2013.4.7追記

 上海満鉄事務所の所員の回想に、こんな一節があります。

『長江の流れと共に 上海満鉄回想録』より

 南京支所 中島邦蔵

 南京からの引揚者から聞いた話によると、十二年十二月日本軍による虐殺事件の行なわれた南京では、新聞面でその当時の被害回想記事がセンセイショナルに報道されるばかりでなく、 居留民は強制収容所に抑留され、自由を奪われると同時に、前非の反省を迫られるなど、物心両面の圧力を蒙むった模様である。

(P67)
 
 河村氏の言とは裏腹に、終戦直後に於ても南京の「被害回想記事」が報道されていたようです。

(2012.3.4)


HOME 次 へ