南京事件 初歩の初歩

 一体、「南京」で何があったのか。

 本来は笠原氏なり秦氏なりの新書を一冊読めば大体のところはわかるのですが、ネットではその手間すらかけずに、ネット情報のみでいい加減な発言をしている方を見かけることが珍しくありません。

 例えば、よく見かける「南京大虐殺はなかった」という表現にしても、発言者はどこまで意味をわかって発言しているのか。

 「中国側のいう30万人規模の大虐殺はなかった」ということでしたら、この点は日本側研究者のほぼ合意ですので、理解できないことはありません。しかし「南京における(少なくとも数万の)大規模な虐殺」の存在まで否定してしまうというのは、ちょっと無理な議論でしょう。
*掲示板では「なかった派」という奇妙な自称を行う方を多くみかけます。そしてそのような自称を行う方は、一体何が「なかった」と言いたいのか、自分でもはっきりとわかっていないことが多いようです。「大規模な虐殺」の存在さえ承知していれば、そもそも「なかった」という表現を使用することに違和感を覚えるはずなのですが。

 本サイトを立ち上げてから既に5年が過ぎました(2008年1月現在)。その時々の私の関心事をいきあたりばったりにコンテンツ化していたサイトですので、「南京事件」について全く知識を持たない方にとっては読みにくいものになってしまっているのではないか、と懸念します。

 またネットでは、「何があったか」を包括的に説明するサイトがほとんど存在しません。そのことも、「なかった派」という奇妙な「派」の存在を許容する一因になっているのかもしれません。

 本コンテンツは、「南京事件」に全く知識を持たない方向けに、「初歩の初歩」を解説することを目的とします。全部読むのが面倒な方は、各章の最初の太字部分にのみ目を通していただければ、一応の「概要」はおわかりいただけると思います。
*なお、このうちいくつかの内容は、いずれコンテンツ化することを予定していたものです。将来コンテンツを作成した際には、コンテンツへのリンクのみ残すことになると思いますので、ご承知ください。




 まずよく誤解されるのですが、「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません。基本的には、数多くの中小規模の「事件」の集積です。

 よく「南京大虐殺の存在を証明しろ」という大上段に振りかぶった議論をする方を見かけるのですが、その点さえ承知していれば、ネット掲示板の小さなスペースでそんなことが不可能であることぐらい、すぐにわかるはずです。

 「証明」のためには、数多い事件群についてそれぞれ資料を並べ、検証を行うという膨大な作業が必要になってきます。(ついでですが、そのような「証明」を求める方は、まず確実に、「基本的な入門書」すら読んでいません)


 「南京事件」は大きく、「捕虜殺害(敗残兵殺害を含む)」と「民間人殺害」に分けることができます。以下、「捕虜殺害」の例として「幕府山事件」「安全区掃討」「下関の捕虜殺害」などを取り上げ、「民間人殺害」については「スマイス報告」に重点を置いて説明していきたいと思います。
*上記のうち、「「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません」の部分に、意外だった、との趣旨のコメントをいただきました。しかしこのことは、「南京」論議に加わる方でしたら「常識」の範囲に属することで、例えば「史実派」の代表的論客である笠原十九司氏も同趣旨のことを述べています。

**掲示板では、
「中国はもともと民間人殺害のみを問題にしており、捕虜殺害は問題にしていなかった」、あるいはもっと極端に、「捕虜殺害は戦闘行為の延長だから問題ではない」という暴論を見かけることがあります。実際には、早くも1946年「南京軍事法廷判決」主文で「捕虜および非戦闘員を虐殺」したことが問題とされていますし、また「捕虜殺害」は、よっぽどの理由がない限り、明確な国際法違反の行為であることは明らかです。

***一般に「南京事件」というのは、「殺害」だけではなく、掠奪・暴行等の数々の「犯罪的行為」の集積として理解されます。ここではわかりやすく、「殺害」のみにスポットを当てていることをご了解ください。




 幕府山事件

 「南京事件」中、最大規模の「捕虜殺害事件」として知られている事件です。

 第十三師団山田支隊は、南京城北部を進軍中、大量の投降兵に遭遇しました。その数は、当時の公式発表に従えば一万四千人余りと伝えられます。この捕虜群はいったん幕府山周辺の建物に収容された後、12月16日から17日にかけてほとんどが殺害されてしまいました。

 従来この事件については、両角業作連隊長の手記などに基づき、「捕虜は解放したり逃亡したりで最終的には4000人。軍の殺害命令に抵抗して残りを解放しようとしたが、アクシデントにより結局そのうち一部を殺害することになった」という趣旨の、いわゆる「自衛発砲説」が定説になっていました。

 しかし1990年代には研究が進み、これが戦友会組織による「口裏合わせ」であった可能性が高いことが明らかになっています。


*本事件をめぐる議論の詳細は、以下のコンテンツで採り上げ済であることから、こちらでは省略します。関心のある方は、下記リンク先をご覧ください。

「幕府山事件(1) 16日「魚雷営の虐殺」まで」 

「幕府山事件(2) 17日の惨劇 「解放」が目的だったのか」





 安全区掃討


 12月13日、日本軍は南京を占領しました。逃げ場を失った中国軍兵士は、大挙として軍服を脱ぎ捨て、難民が避難していた安全区に逃げ込みました。

 14日から16日にかけて、日本軍は、避難民の中から元兵士とおぼしき人物を選別し、そのまま揚子江岸などに連行して殺害しました。歩兵第七連隊の戦闘詳報によれば、その数は七千人弱、と伝えられます。その選別方法はアバウトなもので、その中には大量の民間人が混入していたものと見られます。

 さらに17日の入城式後も、「安全区掃討」は続きます。佐々木到一少将によれば、1月5日までに、さらに二千名が摘出されました。
*こちらの「二千名」については、いったん「旧外交部に収容」されたとの記述があり、捕虜として収容された可能性はあります。しかしベイツの手記によれば、この時期、「元兵士だと名乗り出れば助命する」と騙して元兵士を摘出し、少なくとも数百人を殺害する事件が生じており、「安全区掃討」による殺害が続いていたことは確実です。
 なお、ここで「処分」された元兵士たちの大半は、戦意を失って逃げ惑うだけの「敗残兵」であり、国際法が想定する「民服を着て敵対行為を行うゲリラ」=「便衣兵」ではありません。「便衣兵」というのは当時の日本軍の「誤解」であったに過ぎず、東中野修道氏ですら「便衣兵」という表現は使用しないのですが、なぜかネットではこの表現を使う方を多く見かけますので、念押ししておきます。

 また、「民間人巻き込まれの責任は便衣兵戦術をとった中国側にある」との暴論も見かけます。そもそも南京では「便衣兵戦術」の存在は確認されていないのですが、例え南京戦以前の上海戦での「便衣兵」を問題にするとしても、日本軍の責任は免れません。

 日本軍は「民間人混入」のリスクは十分に承知していたはずです。殺害しなければならない切迫した事情もなかったのですから、そのまま生かして「捕虜」としておけばよかっただけの話でしょう。


 さらに、投降しなかった中国兵は戦闘の意思があると見られても仕方がない、との論もありますが、これもまた当時の南京の事情を理解しない暴論です。実際問題として、降伏した中国兵たちは、結局のところ最終的にはかなり高い確率で殺されてしまっています。投降兵を平気で殺してしまう側が、「投降しない」ことを非難するのもおかしな話でしょう。
*「あまりに多数であったために裁判が不可能であった」という論もあります。しかし裁判が不可能であるからと言って、ただちに「殺してもいい」ということにはなりません。裁判ができないのであれば、これまた、殺さずにそのまま捕虜にしておけばよかっただけの話です。



*「大量の民間人混入」については、こちらのコンテンツをご覧ください。

安全区 敗残兵狩りの実相

○ヴォートリン日記に見る連行事例



 ネットには、「国際法」の強引な解釈により、「殺害」には問題がなかった、という主張を行う方も存在します。ただし論壇では、右派論客を含め、「安全区掃討」には問題があった、とする見方が主流であると見られます。ここではあえて、右派論客の見解のみを紹介しておきましょう。


秦郁彦氏

○座談会「歴史と歴史認識」より 


 南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウィークポイントなんです。

(中略)

 捕虜の資格があるかないかはこの際関係ありません。その人間が、銃殺するに値するかどうかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なんです。

 私が不思議でしようがないのは、なぜ収容所に入れ、形ばかりでも取り調べをして軍律会議にかけてから処分にしなかったのかということです。のちにBC級戦犯が裁かれたときも、軍律会議にかけていれば、戦犯は死刑にはなりませんでした。

(『諸君!』2000年2月号 P86)



○座談会「問題は「捕虜処断」をどう見るか」より

 捕虜としての権利がないから裁判抜きで殺していいということにはならない。自然法に照らしても不法でしょう。古代の暴君ならともかく、こいつは悪い奴だから、その場で処刑していいというのは、文明国がやることではない。捕虜の扱いはお互い様ですから、それなりに尊重し、労働をさせれば一定の給与を与え、自国の兵士と同程度の食料を与えるのは交戦国の義務でした。

(『諸君!』2001年2月号 P134)



○『南京事件 増補版』

 情状を考慮する余地はあるとしても、「全然審問を行はずして処罰をなすことは、現時の国際法規上禁ぜらるる所」(立『戦時国際法論』)と解釈するのが妥当かと思われる。

(同書 P315)



 
中村粲氏

○「「南京事件」の論議は常識に還れ」より


 安全区で摘発された「便衣兵」の中には(A)私服狙撃者、(B)私服帰順者、(C)兵と誤認された市民−が混在してゐたのであり、この中、不法な交戦者としての便衣兵は(A)だけである。更にその私服狙撃者としての便衣兵でさへ、武器を棄てて我軍の権内に入つた段階では捕虜なのであり、秩序や安全を脅かすことのない限り捕虜として遇すべきもので、重大な理由なく処断するのは戦時国際法違反になるであらう。

(『正論』平成11年5月号 P278)



○「敵兵への武士道」より

 軍司令官には無断で万余の捕虜が銃剣刺殺された。それを「便衣の兵は交戦法規違反である」と強弁してはならず、率直に(それは)戦時国際法違反であり、何より武士道に悖る行為であったことを認めねばならぬ。

(興亜観音第二十四号=東中野修道氏『再現 南京戦』P344から再引用)


原剛氏

『板倉由明「本当はこうだった南京事件」推薦の言葉』より

 まぼろし説の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長としての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた「便衣兵」は、国際条約「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。

しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。
(同書 P9)


 
松本健一氏

○座談会「問題は「捕虜処断」をどう見るか」より

交戦者としての特権を失うのは事実でしょうが、捕虜でなければ、必ず殺されるというわけでもないはずです。

「捕虜の資格」について、正式の裁判にかけられて取り調べの上で決定され、その判決によって死刑になるのならば合法でしょうが、捕虜でないからという理由で捕まえた敵国兵士を戦場で裁判にもかけずに勝手に処刑することは国際法上からも容認されていないはずです。

(『諸君!』2001年2月号 P134)


北村稔氏

○『「南京事件」の探求』より

 筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文運用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。両者の論争は「虐殺派」優位のうちに展開している。

(同書 P101)


さらに吉田裕氏によれば、東中野修道氏に近い立場の方も、このような発言を行っているとのことです。

吉田裕氏『南京事件論争と国際法』より

 さらに、中垣秀夫の「南京事件の検証(2)」も、「かなり中国側に譲渡した考えであることを承知の上で、裁判なき捕虜殺害イクオール虐殺としたと結論づけている。なお、中恒は元防衛大学校教授で、東中野氏が中心となっている日本「南京」学会の理事でもある。東中野氏の孤立は、もはや明らかである。

(『現代歴史学と南京事件』P79)



吉田裕氏『破綻した南京大虐殺の否定論者たち』より

 この点と関連して重要なのは、昨年(「ゆう」注 1999年)の七月三一日に自由主義史観研究会の主催で開催された「20世紀最大のウソ『南京大虐殺』にとどめを刺す連続講座とシンポの集い」である。

 この集会で、東中野・藤岡両氏などとともに報告にたった元外交官の色摩力夫氏は、ハーグ陸戦法規は正規軍には無条件で、民兵・義勇兵には先の四条件付きで適用されると明言した。

 それだけでなく色摩氏はシンポの発言で、司令官が逃亡した軍隊の将兵は当然のこと、軍服を脱ぎ便衣に着がえた正規軍兵士の場合でも、実際に敵対行為を行わない限り、捕虜となる資格を持つと主張したのである。

 これは名指しこそ避けているものの、東中野氏の国際法理解に対する正面からの批判だった。

 これに対して東中野氏は、南京安全区国際委員会のメンバーは、日本軍による捕虜の処刑を違法であるとは認識していなかったという意味のことを簡単に述べただけで、まともな反論をいっさい行えなかった。

(「現代歴史学と南京事件」P85-P86)



*問題は、このように言い換えるとわかりやすくなるでしょう。目の前に、「ひょっとしたら悪いことをしたかもしれない人々」が何千人と存在している。彼らを、「怪しいから」という理由だけで、そのまま処刑してしまって構わないのか。

常識で考えても、そんなことが許されるわけがありません。最低限「裁判」を行わなければ、その「処刑」の正当性を担保することはできない。上記の原剛氏や秦郁彦氏の見解は、そのようなものと理解できるでしょう。

なお念のためですが、私個人としては、「形ばかり」の裁判さえすれば「処刑」は正当化される、と読まれかねない秦郁彦氏の見解には、違和感を持たないでもありません。

 私見ですが、「安全区掃討」の是非は、「国際法」のややこしい議論に突入するまでもなく、「常識」で考えればいいことだと思います。

 もう戦闘は終了しているのに、戦闘意欲を失った元兵士を片っ端から引っ張り出し、そのまま何キロも歩かせてまとめて殺害する。しかもその中には誤認連行された民間人も大量に存在している。「虐殺」だと感じれば、普通の感覚でしょう。


 実行部隊であった歩兵第七連隊の戦友会ですら、こんな「感想」を漏らしているそうです。

『南京戦史』より

 歩七参戦者とは戦友会長以下と編集委員が再度会談し、当時の状況としては掃蕩命令を忠実に実行したとのことであったが、最近(昭和六十三年末)同師団の土屋委員の質問に対し「今にして思えば、聯隊長の当時の状況判断については痛恨の情に堪えない」と答えられた。

(同書 P331)




 下関の捕虜殺害

 揚子江岸の下関(シャーカン)地区は、捕虜殺害の最大の舞台となった場所でした。目撃証言も数多く存在しますので、事実自体を否定する論者は存在しません。
※なお以下の例の中には、一部「2 安全区掃討」で捕えられた中国兵の虐殺も混在していることをお断りしておきます。

 日本側の証言の一例として、従軍画家、住谷盤根氏のものを挙げておきます。

「証言による『南京戦史』」(10)より

住谷盤根氏の回想 (第三艦隊従軍画家、安宅乗組)

―南京陥落後の捕虜殺害―
     (雑誌『東郷』58年12月号)

 その時「陸軍からの問い合わせの電報があって、捕虜の処分はどうなっているか?」と第三艦隊司令部から、問い合わせがかかってきた。福岡参謀は「未だ判りません。すぐ調べて報告します」と返電して部屋の外へ出て行かれた。私は直ちに福岡参謀の後に従って、士官室に戻った。

 士官室ではこの問題を知っていて、若い中尉(名前は忘れた)が、家宝の銘刀を軍刀に仕込んだのを握って「今晩一つ試してみたいのです。未だ一度も使っていないから」と力んで士官室を出て行かれた。夕食がすんで大分たってからである。

 私も中尉に従って士官室を出て校門を降り、下関埠頭を左の方に行って、紅岸の鉄の垣根(手すりの低い棚)のところへ行った。道路の右側に捕虜が五人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいたようだが、夜の暗がりでよく見極められない。

 陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅に帰った。

 夕方暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。他にも捕虜があったのではないかと考えたが、ともかく何万という捕虜は、南京に関する限り、あるはずがないことは確実である。

(「偕行」1985年1月号 P32)
*「ゆう」注 原文通り紹介しましたが、「何万という捕虜は・・・あるはずがないことは確実である」というのは、ちょっと無茶な発言でしょう。

 他にも証言は多数あり、この時期、下関地区を舞台に、同様の捕虜殺害事件が多数生じたことは疑いようがありません。



 さらに、「安全区掃討」の一環であると思われますが、「外国人記者の前で堂々と行われた」捕虜虐殺事例を挙げておきましょう。

 南京には、陥落当時、5人の外国人報道関係者(ダーディン、スティール、スミス、マクドナルド、メンケン)が残留していました。彼らは、12月15日にオアフ号などの船で南京を去りますが、その時に、「処刑光景」を目撃しています。


『ニューヨークタイムズ』 一九三七年十二月十八日

F・ティルマン・ダーディン

 捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。

 安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P418)

 
『シカゴ・デイリー・ニュース』一九三七年十二月十五日

A・T・ステイール

<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。

 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。

 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P465-P466)

 
ロイター通信・スミス記者の講演 

 一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。

 出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。

 その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P49)

*「ゆう」注 記者ごとに人数の微妙な相違が見られますが、別に数えたわけではなく、ざっとの「目視」ですのでやむえないところでしょう。

 この「捕虜殺害」は、17日の入城式が終わった後も継続されました。詳しくは、

下関の光景 入城式後の「捕虜殺害」

をご参照ください。

 12月26日に南京の宣撫工作委員長に任命された佐々木到一少将の手記にも、1月5日、「城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す」との記述が見られます。




 その他の捕虜殺害

 漢中門や八十八師司令部等、「捕虜殺害」は随所で行われました。ここではわかりやすい「虐殺」事例として、「66連隊事件」を取り上げてみましょう。


 12月12日、中華門を攻略していた歩兵第66連隊は、「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と中国軍に投降勧誘を行い、その結果1500人余の中国軍兵士が投降してきました。

『野州兵団奮戦記』より

 一方、中華門突入の任務を解かれた渋谷第一大隊は、久留米の軽装甲車隊と共同し、敵の城門閉鎖によって城外に取り残された敵の掃討作戦に当たっていたが、攻撃を続行すること三時間で、敵を降伏させた。敵は白旗を掲げ立てこもった民家からぞくぞくと出てきた。

 降伏した敵は千五百余人。敵の戦死者七百人。人員にして敵の一個聯隊分であった。また捕獲した兵器は高射砲二、対戦車砲二、野砲一、トラック一、重機六、軽機二十、小銃千五百、拳銃五十、各種弾薬合計五万発であった。

 千五百人という多数の捕虜を得たのは渋谷大尉が、日本軍に投降しようと白旗を掲げる自軍の兵士を城壁上から射殺するのを見かねて、最初に投降した三人の兵士に「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と叫ばせた。このため多数の兵士が投降してきたので、江南鉄道のレール上に集めて武装を解除し、負傷者は衛生兵が日本軍と同様に手厚く治療してやった。これを目撃した中国兵は安心してぞくぞく投降したのであった。

(P273)
 

 『奮戦記』の記述はここまでですが、部隊の公式報告『戦闘詳報』によれば、この捕虜は、結局こうなってしまいました。

歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』

(十二月十三日)午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地西南方谷地第三中隊は路営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり
(略)
各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す

(「南京戦史資料集」 P667)
 

 何とまあ、「命は助けてやる」と投降を勧誘しておいて、結局は全員殺してしまったわけです。 誰が見ても、弁解のしようがない「虐殺」です。

 さすがにこの事件には、頑固な否定派、大井満氏もあきれてしまったようで、こんなコメントを残しています。

大井満氏『仕組まれた"南京大虐殺"』より

 捕虜の不法処断

 このように、ここまでにいわゆる不法殺害なるものは見られないが、しかし純然たる不法行為にあたるものが、まったくなかったかというと、残念ながらそうは言いえない。

 それは雨花門外において、百十四師団所属の六十六聯隊第一大隊が、千二百四十の捕虜を、家屋に収容してから少しずつ連れだしては処断しているのだが、この場合は明らかに不法な行為と言わざるをえない。
『高松半市氏 第一大隊第四中隊

 数はそれほど多くはない。その半数くらいであったと思う。私の中隊で処分したのは百名くらいと思う。当時中隊で満足に行動できる兵は七、八十名で、捕虜監視に多くの兵力を割くことは不可能であった。』
(『南京戦史』)
 食糧もなかったためと記録にはあるが、これは便衣兵ではない。いかに激戦の最中とはいえ、不法な捕虜殺害であることは明らかだ。

 ただ数となると、第一大隊のみの行為とあるから、四ケ中隊であることからして、千二百は誇大戦果と見られ、高松氏の言うように、実数は半分の六百程度ではないかと思われる。

(同書 P199〜P200)
*「ゆう」注 一応原文通り紹介しましたが、加害者側は「人数」を過少申告する傾向がありますので、実際の人数は半分くらい、というのは必ずしも信頼できないものであると考えられます。 上の通り、部隊のいわば「公認戦史」である「野洲兵団奮戦記」ですら「1500人余」の数字を挙げています。

 

 その他、中小規模の「捕虜殺害」は、当時至るところで行われていたものと考えられます。

 例えば歩兵第33連隊の「戦闘詳報」には、こんな文言が登場します。

歩兵第三十三聯隊『南京附近戦闘詳報』 第三号附表

昭和十二年十二月十四日  南京城内戦闘詳報鹵獲表
 

 

俘虜
区分 将校 准士官下士官
員数 一四 三,〇八二

備考

一、俘虜は処断す

二、兵器は集積せしも運搬し得す

三、敵の遺棄死体
 
区分 十二月
十日
十一日 十二日 十三日 以上四日計
死体(概数) 二二〇 三七〇 七四〇 五,五〇〇 六,八三〇
備考 十二月十三日の分は処決せし敗残兵を含む

(「南京戦史資料集1」P499、または「南京戦史資料集」旧版P605)

 実際にどのような状況で殺された捕虜なのかははっきりしませんが、軍隊の公式報告にすら「俘虜は処断す」と堂々と書いてしまうあたり、当時の日本軍のメンタリティを伺わせます。

*「捕虜殺害」の例として、次のコンテンツがあります。

「馬群」の捕虜殺害




 また、投降兵を受け付けずにその場で殺害してしまった事例も多数存在します。激戦の最中ばかりでなく、戦闘終了後も「投降兵をその場で殺す」事件が頻発していたようです。

小原孝太郎氏「日中戦争従軍日記」より

十二月十七日 二十七班が乾草の徴発に行ったら農家の藁の中に敗残兵が四名隠れてゐたので、それを捕へて来た。 自分等の△△△が業物を抜いてずばっと一刀のもとに切捨てたら、首がぶらんぶらんしてゐた。 次に△△△の△△△が抜くなりやったが、首は落ちなかった。 △△△△がついで、俺のを手本にしろといふなりずばっと飛閃一陣、首は前にころがって血汐がそれを追っかけてほとばしった。 物凄い腕だ。

午後も十六班が敗残兵を捕へて来た。ピストルを擬した銃剣つけて、とびこむなりつかまえてしまった。彼等は腹がへって動けないのだ。大抵の敗残系はみつけられると、武器を放り出して両手をあげて降参するさうだ。十六班がつかまへて来た捕虜は中隊の使役に使ふことにした。

(『日中戦争従軍日記』P136-P137)


佐々木元勝『野戦郵便旗』より

入 城 式


 十二月十七日

 一同トラックで中山陵に出かける。ここは中山門を出て、右手の松林丘陵のドライブ道路を走るとすぐである。陵の巾の広い階段を私たちが上がりかけた時、一組の兵隊がガソリン罐を徴発してもどってくる。一人新しい青竜刀を持っている。

 敗残兵が一人後手を縛られ綱で曳かれてきたので私は驚いた。ガソリン罐は陵墓の階段途中にある附属建物にあったものらしい。敗残兵は近くの松林か、どこかからひょろひょろと現われたのである。背が高く痩せ、眼がぎょろつき軍鶏みたいである。

 負傷しているらしく、飢え疲れているのであろう、階段横の芝地から道路へ下る時のめる。まったく情ないくらい、胸を道路に打ちつけて、二、三度のめる。連れて行かれるのが嫌らしくもある。中山陵の前、松林の中の枯れた芝生でこの敗残兵の青年は白刃一閃、頸を打ち斬られてしまう。亡国の悲哀がひしひしと私の胸に迫る。

(『野戦郵便旗』(上) P219) 

 常識で考えても殺すことが必要な状況であるとも思われず、これは明らかに「虐殺」と判断できると思います。
*念のためですが、ネットではよく「投降兵はその場の判断で殺してしまって構わない」という誤解を見かけます。実際にはハーグ陸戦条約第二十三条で「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」は明文で禁止されており、上の二例は明らかな国際法違反の事例です。もし殺害が許されるケースがありうるとしても、それは極めて限定的なものです。



 民間人殺害 スマイス報告

 「捕虜殺害」は部隊の作戦行動として行われただけに、日本側にも豊富な資料が残されています。しかし「民間人殺害」については、日本側のデータは多くないのが実情です。
*「加害証言」が少ない事情としては、それを抑圧する「風土」の存在も考慮に入れておく必要があるでしょう。

なぜ「証言」しないのか 「加害証言」を拒む土壌―


 しかし「多数の民間人殺害」は間違いなく存在していたと考えられます。中国側証言は、(個別事例には完全に信を置けないものが存在するとしても)いやになるほど豊富ですし、日本側にも「証言」は存在します。
*中国側証言では、夏淑琴さんの事例が、東中野氏を相手どった名誉毀損裁判もあって有名になりました。

「南京虐殺」を語る 夏淑琴さん事件の証言集

夏淑琴さんは「ニセ証人」か? −東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって−

続・夏淑琴さんは「ニセ証人」か? −東中野修道氏『「南京虐殺」の徹底検証』を検証する−



 例えば日本側の証言としては、このようなものがあります。当時の雰囲気を伺わせる証言です。

「佐々木元勝氏の野戦郵便長日記」より

12月17日 快晴

 朝方、上海兵站部の兵が、年寄りの支那人を射殺した。

 
この支那人は、どこをどう間違えたのか、入場式のある街近くに来て、警備の兵に捕えられ、ウオーウオーと盛んに弁明する。一旦釈放され帰りかけたが、引き戻されて防空壕に連れ込まれ、銃声一発、二発、射殺された。返くの宿舎の歩哨に補助憲兵が二人立っていたが、何とも去わない。殺された支那人が馬鹿で、不運なのである。

(『証言による「南京戦史」』(9)=『偕行』昭和59年12月号P11)

斉藤忠二郎氏 『知られて居ない南京戦史』より

 あくる日、伊藤衛生軍曹を長とする掃蕩隊に加わった。この時は別方向で、京滬街道の左側を行った。周囲一〇〇メートル位の台地とまではいかない高見の所に民家があった。点検すると、老婆が出て来て、一方の口か。我等の登って来た方向に逃げた。「それっ、射てっ」と言うので撃った。倒れて、もがきがなくなる迄、撃った。伊藤軍曹が一番弾丸をつかった。

 ちらばっていた兵が、全部で六人の中国人を捕まえて来た。皆市民服だが、その中で一人屈強な大人の体格はしているが、まだあどけない少年がいた。この六人を、すり鉢池のふちに連れて来た。少年だけは助けようとの論もあったが、結局全部池のふちから射って、すり鉢池に落した。

(同書 P43-P44)
*著者は、第十六師団第十六輜重兵連隊所属。南京事件については、「南京城郊外江東門にある侵華日軍大屠殺遇難記念館の壁に表示された三十万の数字は第二次世界大戦で広島で二十万即死の原子爆弾被害に対置する為に中国人が申出ままに検証もせずに受付けたものである。それに尾鰭をつけたものが、洞富雄の「決定版南京大虐殺」である。洞は著述に当っては日本軍の編成表も南京城の地図も参考にせず、二十年間の垢を上載して書いた、虚構の著述で日本軍を侮辱している」(P3)との立場をとります。上記の事件は、南京陥落直後、南京周辺の敗残兵掃蕩での出来事です。


「南京」へ向う途上ですが、このような事例もあります。

梶谷健郎日記

◇十二月九日 晴

 午前七時起床、七、八名の避難民を捕へ火をたきてあたる。兵、吉澄随聖クリークに落ち服をぬぎ温む。霜降りて寒し。

 八時出発横山橋に至り、村医の家にて顔を洗ひ朝食をとる。珍らしき鰻頭等多数持ち来る。珍らしくも金を使用して物品を買ひおれり。缶入五十本のタバコを呉れる。厚く礼を述べ良民保護の日本旗及腕章等を書き、鈴木部隊梶谷大尉として判を押し、裕々と引上げる。

 正午ころ東口村附近にて道を尋ねんとせしが、皆逃走して誰も居らず。折から水田中、膝まで没して逃走中の支那女を発見。トンヤンピン口口口口ニーライライと呼べど振り反りつつも尚逃走せるにより、距離三百メートルにして一発射てばヨロヨロと水中に倒れ、そのまま再び起たず遂に死せり。 皇軍の作戦上亦止むなしとするも、哀れと言ふも愚なり。

(『南京戦史資料集供P434)
 



 それでは民間人被害者の数は何人だったのか。それを知る手掛かりとなる「統計資料」として、金陵大学(南京)の社会学者であったスマイスが行った、「南京地区における戦争被害」、いわゆる「スマイス報告」があります。

 スマイス調査は、南京城内およびその周辺の「市部調査」、及び南京特別市の6県を対象とした「農業調査」の二本建てです。それぞれについて調査員を現地に派遣し、一定の割合でサンプルを抽出した調査を行っています。

 全文を読めばわかりますが、「人的被害」の他に、「建物の被害」、果ては「家畜」「農具」「貯蔵穀物」の被害まで、こと細かに調査を行っています。そして具体的な政策としては、住民の生活援助のための「貸付制度の拡充」が提言されています。まさに学術的な「社会学的調査」であったわけです。
よく誤解されますが、この「スマイス報告」は、別に日本軍の「暴虐ぶり」を告発するための書ではありません。簡単に言えば、「戦争は終わった。被害状況をきちんと調査して、どうやったら復興できるのか、考えようではないか」という趣旨の学術的調査です。

 戦後の混乱期の中で、調査は必ずしも楽なものではありませんでした。特に「農業調査」では、調査員が中国当局にスパイと疑われて拘束されるなどの理由で(!)、6県のうち1県半はまるまる調査不能となり、実際に調査を行えたのは4県半でした。

 また、日本軍占領下における調査でしたので、調査票の内容にも配慮せざるをえませんでした。調査票には、「軍事行動の結果」を示す略語として「事故」、また「軍事行動以外の日本兵の暴行をさす略語」として「戦争」という言葉が使われています。
*ネットには、この「略語」の使用を、あたかも「スマイス調査が調査結果を日本軍に不利なように捻じ曲げた」かのように記述する論が存在します。しかし調査員は「略語」を承知していたはずですし、「日本軍占領下の調査」であった制約を考えれば、調査グループは当時の制約の中で精一杯の調査を正確にするための努力を行った、と見る方が妥当でしょう。

 調査の困難さ、また「サンプル調査」であることからも、調査の「精度」に一定の限界があることは否めないでしょう。しかし極端に精度が低いとも考えにくいところです。少なくとも「大量の民間人被害者」の存在を否定することはできないでしょう。


 「スマイス報告」では、以下の「民間人犠牲者数」の推定値が示されています。

市部調査
 
死者 2,400人  
行方不明者 4,200人  
合計 6,600人 南京城内およびその周辺
農村調査 死者   26,870人 「南京特別市」6県のうち4県半
  うち江寧県 9,160人 「南京市」が属する県
合計 死者・行方不明者    33,470人  

 「南京事件」の範囲をどうとるか、という問題はありますが、これが「スマイス報告」の基礎数値になります。これに対しては従来より「過少説」「過大説」が存在しますが、その詳細はこちらをご覧ください。

スマイス報告をめぐる議論

スマイス報告 農業調査



 論壇でも、この「スマイス報告」に対する否定的な見方はほとんど見られません。例えば右派の秦郁彦氏、板倉由明氏とも、「民間人被害者数」の推定はこの「スマイス報告」をベースにしています。また「まぼろし派」論者にしても、正面から「報告」に批判を加えている例はまずありません。

 その中で、批判的言辞として存在するのは、「スマイスは国民党からカネを貰って報告を作成した」と、調査の「動機」を問題にするものです。
*ただしこの論にしても、スマイスが調査結果を捏造した疑いがある、とまで明確に主張するものではありませんし、そもそも「カネ」を貰ったとしても、当時一級の社会学者であったスマイスが自分の社会的名声を危機に陥れるような行為をするはずもないのですが。

 実はこの批判自体、疑わしいものです。この点については既に、井上久士氏の反論が存在します。

井上久士『南京大虐殺と中国国民党宣伝処』より


 ハロルド・ジョン・テインパリー(一八九八〜一九五四年)はオーストラリア生まれの新聞記者であり、一九三八年に南京大虐殺の資料集である『戦争とは何か』(中国語題名『外人目賭中之日軍暴行』)を出版して、南京の惨劇を世界に知らせた人物として知られている。北村氏は、『曾虚白自伝』の次の部分を引用して、テインパリーは国際宣伝処の工作員であると主張する。



 ティンパーリーは都合のいいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。

 そういうわけで彼が〔南京から-北村〕上海に到着すると、我々は直ちに彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口〔南京陥落直後の国民政府所在地-北村〕に来てもらい、直接に会って全てを相談した。

 我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。

 我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねはならないと決定した。

 テインパーリーは理想的人選であった。

 かくして我々は手始めに、金を使ってテインパーリー本人とテインパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。

〔中略〕このあとテインパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。


 まず問題にしなければならないのは、この『曾虚白自伝』の内容の信憑性である。事件から半世紀以上経って出版されたこの自伝の記述は、すべて正しいのであろうか。すでに渡辺久志氏が指摘していることであるが、テインパリーが南京から上海に来たというのは誤りである。

 この引用文の前の文に、曾虚白は「うまい具合に二人の外国人がおり、南京に留まってこの惨劇の進展を目撃していた。一人はイギリス『マンチェスター・ガーディアン」の記者ティンパーリーであり、もう一人はアメリカの教授スマイスであった」と書いている。北村氏はそう信じているのかもしれないが、テインパリーは当時上海にいて、南京のできごとは目撃していない。南京に滞在していた外国人のリストにもあがっていない。(P248)

 最も問題なのは曾虚白が金を渡してティンパリーに本をかかせたというくだりである。

 ティンパリーの中国語版の訳者言には、「訳者は上海にいた当時ティンパリー氏が数多の貴重な資料を蒐集し、本書を著述して帰国のうえ出版する計画のあることを知った。そこで彼の離滬以前にテ氏に対し図書の翻訳権譲渡方を依頼し、原稿の写本を得た。日夜打ち通して翻訳を急ぎ、原書の出版と同時期に上梓し得るよう努力した」とある。

 つまり原稿を書き始めた後でそれを買い取ったと言っているのである。

 ティンパリー自身は、「本書の出版は全く余個人の意志であって、幾人かの友人が材料の整理選択に当たって余を援助されたとはいえ、その責任は余一人にある」と述べているのであるが、当然ながら金銭のことをふれてはいない。

 しかし上記の訳者言と符合するように、「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」(中国第二歴史トウ案館所蔵)には、「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した。その後彼が書いた『日軍暴行紀実』とスマイスの『南京戦禍写真』の二冊は、大いにはやりベストセラーになって宣伝目的を達成した」とある。

 つまり国際宣伝処が金を渡して本を書かせたのではなく、ティンパリーが「正義感に燃え」て編集した原稿を国際宣伝処は買い取ったのである。

(『歴史学と南京事件』P247-P250)

 ここではティンパリーに重点を置いた記述になっていますが、スマイス調査についても同様でしょう。

 つまり「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」によれば、国民党は事前にスマイスに資金を渡したのではなく、出来上がった調査結果の版権を買い取っただけである、というのが井上氏の主張です。

(2008.1.13)


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