「南京の実相」を読む (1)
「2万人すら認めなかった」
というトリック

 2008年11月、『南京の実相』という本が発売されました。

 本来であれば、東中野修道氏や田中正明氏レベルの「トンデモ否定本」がまた一つ増えた、で終わってしまうところです。

 しかしこの本が、戸井田とおる議員を始めとする自民党の「議員の会」の手になるものであったために、なぜか一定の「権威」を持ってしまったようです。



 そもそもこの本、副題の「国際連盟は「2万人虐殺」すら認めなかった」からして、大きなトリックがあります。

 この題を見た方は、間違いなくこう錯覚するでしょう。

1.中国は、国際連盟に、「南京2万人虐殺」に対する非難決議を求めた。

2.しかし各国は、これを否定、もしくは無視した。

3.それは、各国が、「南京2万人虐殺」をウソだと考えていたからである。



 しかし、「南京の実相」に収められている「国際連盟議事録」を読めばすぐにわかりますが、「中国が「南京虐殺」に対する非難決議を求めたが、 各国はそれを無視した」という事実は存在しません。



 まずは「国際連盟第百回議事録」に沿って、どのようなやりとりが行われたのかを見ていきましょう。

*理事会議事録の全文は、こちらに掲載しました。


 事前の四ヶ国会談(英、米、ソ、中)を経て、国際連盟第百回理事会に、こんな決議案が上程されました。

『国際連盟理事会(ジュネーブ)決議文』 

1938年2月1日付

文書番号C・六九/一九三八/七

 内容 − 中国政府の提訴にもとづく決議案

 理事会は、
 極東情勢を考慮し、
 前回の理事会以降も、中国での紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の意とともに銘記し、
 中国国民政府が中国の政治的経済的再建に注いだ努力と成果にかんがみて、いっそうの事態の悪化を憂慮し、
 国際連盟総会が一九三七年一〇月六日の決議によって、中国にたいする道義的支援を表明し、あわせて、連盟加盟国は中国の抵抗力を弱体化させ、現下の紛争における中国の困難を助長しかねないいかなる行動も慎み、 それぞれが中国支援拡大の可能性を検討すべきであると勧告したことを想起し、
 国際連盟加盟国にたいして上記の決議に最大限の注意を喚起し、
  東アジア紛争に特別な利害を有する理事会加盟国が、同様の利害関係国との協議を通じて、極東紛争の公正な解決に寄与するため、今後のあらゆる手段の可能性を検討するいかなる機会も逸さないことを確信する。


(『ドイツ外交官が見た南京事件』P136)


 抽象的でわかりにくい文面ですが、要するに、1937年10月国際連盟総会の、中国に対する「道義的支援」決議を、改めて確認する、という内容です。

 しかしこれは、中国にとっては「妥協の産物」であり、決して満足のいくものではありませんでした。 首都南京が陥落し、まさに存亡の危機にあった中国国民政府が求めていたものは、「道義的支援」などという曖昧なものではなく、 中国に対する物資援助、日本に対する経済制裁など、国際社会の具体的な行動でした。


 しかし米、英は、中国に対する同情心は持っていたものの、具体的な行動を起こすところまでは、世論が熟していませんでした。

 アメリカにとって日本は大きな貿易相手国であり、「制裁」を行えば逆にアメリカ経済が苦境に陥りかねない。そして日本をあまり刺激すると、今度は自国が戦争に巻き込まれるかもしれない。 ・・・そんな懸念が、あったと伝えられます。(伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』、鈴木晟『アメリカの対応 戦争に至らざる手段の行使』(軍事史学会「日中戦争の諸相」所収)、他)

*例えば、アメリカ大統領ルーズベルトは、1937年10月5日、 「平和を愛する国家は,こういう戦争をおこそうとしている国家に共同行動をとるべきだ」と、激しい非難演説を行ないました。 しかし、大統領の発言は、アメリカを戦争にひきこもうとするものであり、 他国のことにかかわりあって、アメリカの自由と民主主義を犠牲にしようとするものである、というアメリカ世論の猛反発を受け、ルーズベルトは発言を撤回する結果となりました。(守川正道『1930年代アメリカの中国政策』=『1930年代中国の研究』所収、P414-P415)



 上の文面での妥協を余儀なくされた中国でしたが、決議案が上程された時、中国代表の顧維鈞(Wellington Koo)は、 「次」につなげるべく、「制裁」を求める大演説を行いました。


 演説は、こう始まります。

『国際連盟 理事会第100会期 議事録』より

M.Wellington Koo(中華民国) 議長、私が皆様の前で決議案についての中国政府の見解を表明する前に、国際連盟理事会がこの状況にあってなしうること、 また私どもがぜひ希望することに関して、ここ数か月間に発生した変化の状況を私が皆様に説明することをお認めいただけると私は信じます。

 第18回総会が日本軍の対中侵入に関する中国政府の訴えについての昨年10月6日の決議を採択して以来、日本は中国領土の乱暴極まりない侵略を継続し、強化しています。

 日本軍は中国北部においてそれ以来黄河を渡り、孔子の生誕地である聖なる山東省の首府である済南を占領しました。 中国中部では、中国軍は、日本の陸海軍および航空隊のきわめて恐ろしい襲撃に約3か月勇敢に抵抗した後、上海地区から1937年11月に撤退せざるを得ませんでした。 南京もそのように脅かされ、中国政府は沿岸から1、000マイルも離れた重慶に遷都することを迫られました。

 昨年12月における杭州と南京に対する日本軍の執拗な攻撃は、これら2つの重要な都市と揚子江デルタのもっとも豊かで人口稠密な地域の占領という事態に立ち至りました。

 日本海軍は福建省および広東省の沿岸にある数多くの中国領諸島を占領し、広東および中国南部の侵略を繰り返し試みています。

 日本軍航空隊は、世界各国一致の非難を無視して無防備都市の無差別爆撃を継続し、中国市民の大量虐殺を行ってきます。17州を下回らない人口稠密地帯に広範囲にわたる継続的な空襲が行われました。それは西北部の内陸にある甘粛省にも、南東部にある広西省にも及び、大量の死者を出しました。しかもその大部分は婦女子です。

(『南京の実相』P89)


 顧維鈞は、日本の「乱暴極まりない侵略」を非難し、まずは「無差別爆撃」を持ち出しました。これは既に、前年の総会でも「非難決議」がされていたことから、中国側にとっても訴えやすい材料だったのでしょう。

 次に顧維鈞は、「南京」での「残虐行為」に触れます。

『国際連盟 理事会第100会期 議事録』より

M.Wellington Koo(中華民国) 

 さらに、高い軍紀を誇りにしてきた日本兵が占領地で繰り広げる残虐で野蛮な行為は、戦火に打ちひしがれた民衆の艱難辛苦をさらにいっそう増大させ、礼節と人道に衝撃を与えています。

 あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、外国の新聞で報道されているので、ここでいちいち証拠をあげるには及ばないでしょう。

 ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景にかんする『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。 このリポートは一二月二〇日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものであります。特派員は簡潔な言葉で綴っています。 「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち」。

 日本兵が南京と漢ロ(「ゆう」注 原文は"Hangchow"。「漢口」ではなく「抗州」が正しい) でおこなった残虐行為についての信頼できるもうひとつの記録は、米国人の教授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、 一九三八年一月二十八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』紙に掲載されでいます。 南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。

 金陵大学緊急委員会の米国人議長は一九三七年一二月一四日、日本大使館に書簡を送り、「私たちはあなた方にたいして、日本軍と日本帝国の名誉のために、 そしてあなた方自身の妻、娘、姉妹のために、あなた方の兵士から南京市民の家族を守っていただけるよう強く要請します」と書きました。 しかし、「この声明にもかかわらず、残虐行為は野放しで続いた」と特派員は書き記しています。

 (『ドイツ外交官が見た南京事件』P138-P139)


「南京」について触れた部分は、長大な全体のうち、たったのこれだけです。

*顧維鈞演説が、全て外国紙報道をソースにしていることにご注意ください。 「南京事件」は日本の占領地における事件でしたので、この時期、中国はほとんど独自情報を入手していなかったものと思われます。


 続けて顧維鈞は、日本による傀儡政権の設立、アメリカ砲艦パナイ号の撃沈、商業都市上海の危機、北京傀儡政権の関税率引下げによる他国権益の侵害等、 外国の関心を引きそうな「事例」を次々と並べてみせます。「南京」も、そのような材料の一つであったに過ぎませんでした。


そして顧維鈞は、このように訴えました。


『国際連盟 理事会第100会期 議事録』より

M.Wellington Koo(中華民国) 

 国際連盟の将来に関しかくも多大な疑問と不信がある現在、理事会が侵略国にその行為を思いとどまらせ犠牲となった国を援助するための、 連盟に対する信頼を回復しその権威を取り戻すような効果的な措置をとることが義務でもあり機会でもあることを、中国政府は心から信じます。

 極東における破廉恥な侵略に対処するにあたり、断固とした建設的な政策を採用することは、世界の平和愛好国家の何億人という人々の承認と支持を受けるでしょう。

 極東における侵略軍の行為を思いとどまらせる目的で経済措置を適用することを連盟に求めて、各国政府に対して繰り返される人々の意思表示および訴え、 日本製商品の世界的なボイコットを組織し促進すること、これらはみな世界の世論が正義と平和のために規約の条項の適用を求めていることを示すのに資するものです。

(『南京の実相』P93)


 中国は必死に日本に抵抗している。日本の侵略をやめさせるために、どうぞ、精神的支援にとどまることなく、 「経済措置」「日本製商品の世界的なボイコット」という具体的な形で、中国を応援してほしい。

 これが、顧維鈞演説の骨子でした。



 付け加えれば、このような「具体的行動」の訴えは、「第百回理事会」で突然登場したものではありません。1937年ブリュッセル会議など、中国が一貫して国際連盟に訴えてきたことでした。

 この1938年2月国際連盟第百回理事会以降も、同年5月第百一回理事会、同年9月第百二回理事会で、同様の訴えが継続されることになります。


 つまり顧維鈞は、別に「南京の暴虐」を訴える目的でこの演説を行なったわけではありません 。顧維鈞は演説のごく一部で「南京の暴虐」に触れたに過ぎず、会議でも特段の争点にはなりませんでした。

 国際連盟が「認めなかった」ものは、日本に対する「制裁」であり、「南京の暴虐」ではありません。


この議事内容を「国際連盟は「2万人虐殺」すら認めなかった」と「翻訳」してしまうのは、読者をミスリードする「トリック」と言われても仕方がないでしょう。



2010.5.3追記

 『顧維鈞回憶録』(3)(中文)に、「第百回理事会」に関する、顧維鈞の詳細な回顧が収録されています。 (「第一節 布魯塞尓(ブリュッセル)会議的余波 (2)中国継続在海外謀求列強和国連的支援」 P46-P58)

 章のタイトルの通り、顧維鈞はこの時、各国外交官の間を走り回り、各国の煮え切らない対応に悩みながら、必死に「中国への支援」「日本への制裁」を求め続けていました。

 この時の顧の関心は「いかに中国を救うか」という切迫したテーマにあり、「南京事件」どころではなかった
、というのが実態でしょう。

 ちなみに回憶録のこの部分には、「南京事件」の話は全く登場しません。 顧維鈞の関心が、そんなところにはなかったことは、明らかでしょう。

(2009.7.11)


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