「南京の実相」を読む (1) |
「2万人すら認めなかった」 というトリック |
2008年11月、『南京の実相』という本が発売されました。 本来であれば、東中野修道氏や田中正明氏レベルの「トンデモ否定本」がまた一つ増えた、で終わってしまうところです。 しかしこの本が、戸井田とおる議員を始めとする自民党の「議員の会」の手になるものであったために、なぜか一定の「権威」を持ってしまったようです。 そもそもこの本、副題の「国際連盟は「2万人虐殺」すら認めなかった」からして、大きなトリックがあります。 この題を見た方は、間違いなくこう錯覚するでしょう。 1.中国は、国際連盟に、「南京2万人虐殺」に対する非難決議を求めた。 2.しかし各国は、これを否定、もしくは無視した。 3.それは、各国が、「南京2万人虐殺」をウソだと考えていたからである。 しかし、「南京の実相」に収められている「国際連盟議事録」を読めばすぐにわかりますが、「中国が「南京虐殺」に対する非難決議を求めたが、 各国はそれを無視した」という事実は存在しません。 まずは「国際連盟第百回議事録」に沿って、どのようなやりとりが行われたのかを見ていきましょう。 *理事会議事録の全文は、こちらに掲載しました。 事前の四ヶ国会談(英、米、ソ、中)を経て、国際連盟第百回理事会に、こんな決議案が上程されました。
抽象的でわかりにくい文面ですが、要するに、1937年10月国際連盟総会の、中国に対する「道義的支援」決議を、改めて確認する、という内容です。 しかしこれは、中国にとっては「妥協の産物」であり、決して満足のいくものではありませんでした。 首都南京が陥落し、まさに存亡の危機にあった中国国民政府が求めていたものは、「道義的支援」などという曖昧なものではなく、 中国に対する物資援助、日本に対する経済制裁など、国際社会の具体的な行動でした。 しかし米、英は、中国に対する同情心は持っていたものの、具体的な行動を起こすところまでは、世論が熟していませんでした。 アメリカにとって日本は大きな貿易相手国であり、「制裁」を行えば逆にアメリカ経済が苦境に陥りかねない。そして日本をあまり刺激すると、今度は自国が戦争に巻き込まれるかもしれない。 ・・・そんな懸念が、あったと伝えられます。(伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』、鈴木晟『アメリカの対応 戦争に至らざる手段の行使』(軍事史学会「日中戦争の諸相」所収)、他) *例えば、アメリカ大統領ルーズベルトは、1937年10月5日、 「平和を愛する国家は,こういう戦争をおこそうとしている国家に共同行動をとるべきだ」と、激しい非難演説を行ないました。 しかし、大統領の発言は、アメリカを戦争にひきこもうとするものであり、 他国のことにかかわりあって、アメリカの自由と民主主義を犠牲にしようとするものである、というアメリカ世論の猛反発を受け、ルーズベルトは発言を撤回する結果となりました。(守川正道『1930年代アメリカの中国政策』=『1930年代中国の研究』所収、P414-P415) 上の文面での妥協を余儀なくされた中国でしたが、決議案が上程された時、中国代表の顧維鈞(Wellington Koo)は、 「次」につなげるべく、「制裁」を求める大演説を行いました。 演説は、こう始まります。
顧維鈞は、日本の「乱暴極まりない侵略」を非難し、まずは「無差別爆撃」を持ち出しました。これは既に、前年の総会でも「非難決議」がされていたことから、中国側にとっても訴えやすい材料だったのでしょう。 次に顧維鈞は、「南京」での「残虐行為」に触れます。
「南京」について触れた部分は、長大な全体のうち、たったのこれだけです。 *顧維鈞演説が、全て外国紙報道をソースにしていることにご注意ください。 「南京事件」は日本の占領地における事件でしたので、この時期、中国はほとんど独自情報を入手していなかったものと思われます。 続けて顧維鈞は、日本による傀儡政権の設立、アメリカ砲艦パナイ号の撃沈、商業都市上海の危機、北京傀儡政権の関税率引下げによる他国権益の侵害等、 外国の関心を引きそうな「事例」を次々と並べてみせます。「南京」も、そのような材料の一つであったに過ぎませんでした。 そして顧維鈞は、このように訴えました。
中国は必死に日本に抵抗している。日本の侵略をやめさせるために、どうぞ、精神的支援にとどまることなく、 「経済措置」「日本製商品の世界的なボイコット」という具体的な形で、中国を応援してほしい。 これが、顧維鈞演説の骨子でした。 付け加えれば、このような「具体的行動」の訴えは、「第百回理事会」で突然登場したものではありません。1937年ブリュッセル会議など、中国が一貫して国際連盟に訴えてきたことでした。 この1938年2月国際連盟第百回理事会以降も、同年5月第百一回理事会、同年9月第百二回理事会で、同様の訴えが継続されることになります。 つまり顧維鈞は、別に「南京の暴虐」を訴える目的でこの演説を行なったわけではありません 。顧維鈞は演説のごく一部で「南京の暴虐」に触れたに過ぎず、会議でも特段の争点にはなりませんでした。 国際連盟が「認めなかった」ものは、日本に対する「制裁」であり、「南京の暴虐」ではありません。 この議事内容を「国際連盟は「2万人虐殺」すら認めなかった」と「翻訳」してしまうのは、読者をミスリードする「トリック」と言われても仕方がないでしょう。 2010.5.3追記 『顧維鈞回憶録』(3)(中文)に、「第百回理事会」に関する、顧維鈞の詳細な回顧が収録されています。 (「第一節 布魯塞尓(ブリュッセル)会議的余波 (2)中国継続在海外謀求列強和国連的支援」 P46-P58) 章のタイトルの通り、顧維鈞はこの時、各国外交官の間を走り回り、各国の煮え切らない対応に悩みながら、必死に「中国への支援」「日本への制裁」を求め続けていました。 この時の顧の関心は「いかに中国を救うか」という切迫したテーマにあり、「南京事件」どころではなかった、というのが実態でしょう。 ちなみに回憶録のこの部分には、「南京事件」の話は全く登場しません。 顧維鈞の関心が、そんなところにはなかったことは、明らかでしょう。 (2009.7.11)
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