「南京の実相」を読む (2)
戸井田議員の奇妙な「解釈」


さてそれでは、「南京の実相」の書きぶりを確認してみましょう。「顧維鈞演説」にかかる部分、全文です。

『南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった―』より


《国際連盟議事録の資料としての価値》

 検証するにあたって、「南京大虐殺」があったとする一九三七年十二月十三日から翌三八年二月までの公文書を重要な一次資料と判断して、 第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日〜二月二日)の議事録を入手した。(資料2)

 その中で、顧維鈞中国代表は「南京で二万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、 国際連盟は、一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。この事実は、東京裁判での二十万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解三十万人と桁が違う。

 また、その国際連盟議事録の「二万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。 ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる「第三者」ではなかったのである。フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教授は中華民国政府の顧問だった。

 蒋介石軍の将兵は、一九三八年一月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている。 その時点で「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、顧維鈞中国代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。

 顧中国代表は、「戦時国際法違反」になる事実を確認できなかった事で、「デマ」に基づく新聞記事を援用せざるを得なかった。

 「南京大虐殺」論争は、様々な資料に基づいておこなわれて来たが、 中国としても一番正確に把握していた時に出した「二万人の虐殺」との数字と「行動を要求」していた事が記載されている国際連盟議事録が白眉の史料である。

 そして、南京陥落前後から国民党は、約三〇〇回もの記者会見をしていたが、その中で一度も「南京虐殺」があったと言っていない。 それは、「南京虐殺」がなかった事の証明と主張している研究者がいるが、国際連盟議事録は、その状況証拠を裏付ける事のできる決定的資料である。 国際連盟の会議の場で顧中国代表が「南京虐殺」を訴えても無視された事を、中国は再度記者会見で訴えていなかった。

 この議事録の問題は、二〇〇七年二月二十一日衆議院内閣委員会で取り上げられ、戸井田とおる衆議院議員の質問にたいして外務省は「中国代表の顧維鈞という人物が、 南京における旧日本軍兵士による殺害や略奪行為について言及した(略)一方、決議においては、南京事件について明示的な言及はございません。」と明確に答弁している。(資料3)

 この国際連盟の議事録は、『ドイツ外交官の見た南京事件』(石田勇治・編集・翻訳大月書店、二〇〇一年)でも要約され紹介されている。

 しかし、「二万人の虐殺」と「何千人もの女性が辱めを受けた」事は記載されているが、顧維鈞中国代表が国際連盟に「行動を要求」した最重要部分を「以下、略」として削除している。

 この議事録は、二〇〇一年に明らかになっていたので、資料価値を低く見る研究者もいるが、「行動を要求」していた事まで明らかになっていなかったのである。

 また、南京問題小委員会は第百会期国際連盟理事会の議事録を翻訳した昭和十三年二月十八日付外務省機密文書「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」を発見した。(資料4)

 その中の〈四国会談に於ける決議案作成事情〉(英、仏、蘇、支)の項で「…顧(中国代表)が第一に提出したる対日制裁の点は英仏の拒絶に依り(略)」との状況にもかかわらず、 決議の採択を前にした演説で顧維鈞は「日本の侵略の事実、日本軍の暴行、第三国の権益侵害、等を述べ連盟の行動を要求する趣旨の演説を為せり」とある。

  その演説の要旨は、広田弘毅外務大臣に報告されていた。この機密文書を総覧すると、事前会議で日本非難決議の通らない事を承知していたにもかかわらず、 顧中国代表が執拗に国際連盟の「行動を要求」していた実態が明らかになっている。

 これは、中国の「南京大虐殺」の政治宣伝の原点が、顧中国代表の国際連盟での演説にあり、ここからスタートしていたと見る事ができる。

 中国の「南京大虐殺」の「政治宣伝における犠牲者数」は、八十年代が「三十万人〜四十万人」と中国側が認めたが、 南京の状況を一番把握していた当時の「政治的犠牲者数」は「二万人」だったのである。(P40-P41)
 


 戸井田議員の書きぶりを見ていると、中国は「南京虐殺」に対して、日本を懲罰する「行動を要求」したかのように錯覚させられます

 しかし、前稿で書いた通り、顧維鈞は、別に「南京での虐殺」に対して「行動を要求」したわけではありません。 また、「南京での虐殺」への非難決議を求めたわけでもありません。従ってタイトルのような、「国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった」という事実は存在しません。

 このあたり、戸井田議員の勘違いでないとすれば、悪質なトリックです。


 また議員は、国会質問で外務省から「中国代表の顧維鈞という人物が、 南京における旧日本軍兵士による殺害や略奪行為について言及した(略 )一方、決議においては、南京事件について明示的な言及はございません」との答弁を引き出したことを自慢げに述べていますが、これも当り前の話。 誰も「南京」問題を決議に盛り込むことを提案せず、だから決議に盛り込まれなかっただけのことです。


 以下、戸井田議員の議論を、詳しく見ていきましょう。


< 目 次 >

1.「2万人虐殺」の情報源

2. 蒋介石への軍事報告?

3.300回の記者会見

4.『ドイツ外交官の見た南京事件』



「2万人虐殺」の情報源


『南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった―』より

 その中で、顧維鈞中国代表は「南京で二万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、 国際連盟は、一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。この事実は、東京裁判での二十万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解三十万人と桁が違う。

 また、その国際連盟議事録の「二万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、 米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。 ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる「第三者」ではなかったのである。フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教授は中華民国政府の顧問だった。
 
(中略)

 「南京大虐殺」論争は、様々な資料に基づいておこなわれて来たが、中国としても一番正確に把握していた時に出した 「二万人の虐殺」との数字と「行動を要求」していた事が記載されている国際連盟議事録が白眉の史料である。 


 そもそもこの時期、中国国民党はどの程度「南京」に関する情報を得ていたのか。議員は「中国としても一番正確に把握していた時」と書きますが、 これはさすがに無茶な表現です。常識で考えても、時間が経てば経つほど、「情報量」は増えていくに決まっています。



 顧維鈞演説が行われたのは、日本軍の南京占領の、1か月半後のことでした。

 「事件」当時、南京は日本軍占領下にありましたから、中国側として独自の調査など行いようもありません。中国側が、「南京」についての本格的調査を始めることができたのは、ようやく終戦になってからのことです。

 中国側にとってこの時期、情報源は、「南京安全区国際委員会」の外国人たちからの情報などを元にした外国紙の記事、 あとはせいぜい、あったとしても、南京からの脱出者からの断片的な聞き取り程度しかなかったものと推定されます。
*「南京事件資料集 2中国関係資料編」には、当時中国の新聞「大公報」に掲載された膨大な「南京事件」関係の記事が収録されていますが、 顧維鈞演説の時期、2月2日以前の記事は、すべて外国人情報をベースにしています。また同書には、「南京事件」を体験した中国人の手記が12本掲載されていますが、 最も時期の早い「京敵獣行目撃記」でも初出は2月7日でした。

**なお、「南京」問題におけるほとんど唯一の統計調査、「南京地区における戦争被害」(いわゆる「スマイス調査」)が行われたのは1938年3月のこと、その発表は同年8月のことでした。



 こんな状況でしたので、顧維鈞が、1938年2月2日時点の演説のベースに「外国紙情報」を採用したのも、無理なからぬところでしょう。




 顧維鈞演説の「南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ」の部分は、『デイリー・テレグラフ』などの報道に基くものであったようです。 その記事自体は日本では確認困難ですが、同記事の「大公報」への転載(『南京事件資料集 2中国関係資料編』所収)、及びアジア歴史資料センターの資料で内容を見ることができます。

*戸井田議員は、「「二万人の虐殺」は・・・「ニューヨーク・タイムズ」などの報道に基くものだった」と、明らかに間違った認識を示しています (ニューヨーク・タイムズ」記事はダーディンによるもので、「市民二万人虐殺」の表現は登場しません)。おそらく戸井田議員は、「デイリー・テレグラフ」の記事を確認できなかったのでしょう。
 ここでは「大公報」への転載を紹介します。全文はとんでもない長文になりますので、ここでは最初のリード的部分のみ、掲載します。


「大公報」記事より

暴敵の獣行、世界に知れわたる

民国二十七年三月二十八日

 ◇英紙、敵兵の凶悪な姿を暴露
 ◇南京の敵、大使館前でついに公然とわが婦女を辱める


 イギリスのロンドンで販路がもっとも広いディリー・テレグラフは、敵の南京・抗州一帯における残虐行為に関する同紙中国駐在記者の詳細な報告を発表し、 南京の外国人の南京日本大使館に対する報告・抗議の文件を引用している。ここにとくに記載する。

恩源付記



 南京金陵大学の教授とアメリカの布教師は、日本軍隊の南京と杭州両地における種々の暴行に対して、つねに教会本部に報告を提出し、 かつ日本大使館に手紙を出して一切を申し述べた。

 各報告と手紙によって、記者は現在、はじめて南京・杭州一帯の日本軍の暴行を暴露できる。すべての報告は、ひとしく大量の惨殺・強姦および略奪行為を描写している。

 ある布教師の見積りによれば、南京で殺された中国人は約二万人に達し、なお無数の婦人と幼女が残酷にも日本軍に蹂躙されたといわれる。 各種の報告を提出し、手紙を出した人々は、みなその姓名を発表することを望んでいないが、しかしすべての文件は、みな記者がこの目で実際にみたものである。その完全な真実性はいささかも疑わしいところがない。

 日本当局がその軍人に対していささかも取締りを約束しないことに対しては、各方面がみな非難を加えている。日本大使館の職員の前で、日本軍人は公然と種々の口に出せないような暴行をおこなっているとのことである。

(以下略 顧維鈞演説との細部の対比等を確認したい方は、 全文をこちらに掲載してありますので、ご覧ください)

(『南京事件資料集 2中国関係資料編』 P52-P53)



 念のためですが、この「2万人」という数字は、別に何らかの「調査」を行った上のものではなく、初期段階における「見当」であったに過ぎません。

 この時期、中国の報道では、「被害者数」につき、さまざまな数字を確認することができます。 個々の記事については『南京事件資料集 2中国関係資料編』に掲載されている膨大な中国紙報道をご覧いただくことにして、ここでは石島紀之氏による要約のみ紹介します。


『南京事件資料集 2中国関係資料編』より

第1編 解題(石島紀之)

 第喫圓砲蓮南京事件当時に発行されていた中国の新聞のなかから、南京事件およびそれに関連した記事を収載している。

 これらの記事は、この事件についての第一次的資料でありながら、これまでに系統的に紹介されたことがなかった。 最近、発刊された『南京戦史資料集』(偕行社、一九八九年)には、上海で発行されていた英字新聞『チャイナプレス』と『ノースチャイナ・デイリーニューズ』の記事の一部が翻訳・収録されているが、 中国紙の記事は収録されていない。

 このように当時の第一次的資料が充分に紹介されてこなかったことは、南京事件否定派に東京裁判による南京事件捏造説を主張させる根拠の一つともなった。 しかし本書を読めば明らかなように、当時の中国の新聞はこの事件をきわめて重視し、日本軍の犯罪行為をきびしく糾弾していたのである。

(略)

 南京事件の犠牲者の数については戦争中という当時の状況下では、当然、さまざまな推測が流され、明確な数字は示されていない。

  殺された市民の数は、十二月二十五日の外国人の最初の情報が五万人と伝え、以後、最低一万人(三八年二月十六日付)から最大八万人(三八年二月二十日付)の数がだされている。強姦された女性の数については、『ノースチャイナ・デイリーニュース』の情報として八千人から二万人の数があげられている(三八年一月二十二日付)。(P8-P9)

(以下略)
 


 顧維鈞が紹介した「2万人」の数字は、これらの数字の概ねミディアムであり、当時の認識としてはそう無茶なものではなかった、と言えるでしょう。


 なお戸井田議員は、これをあたかも中国の公式見解であるかのように偽装していますが、この時期、中国として正確な数字など把握のしようがなく、実際には上の通り、 「ある布教師の見積りによれば」と、外国紙情報をそのまま読み上げただけに過ぎませんでした。

 例えば阪神大震災でも、「9.11事件」でも、「事件」発生の直後に、「見当」の被害者数が報道されました。しかし後日の正式調査により、その数字は大幅に修正されました。 この「2万人」も、そのような、「正確な情報がない段階での初期情報」として受け止めておけばいいだけの話です。

 戸井田議員の「政治的犠牲者数」という表現は、無茶が過ぎます。
*参考までに、「ある布教師の見積り」との関係は不明ですが、馬俊超・南京市長が国際委員会に宛てた手紙の中に、 「ところがよく知られているように、日本軍は南京占領後、しかも難民区内において、非武装の民衆を二万人も虐殺し」との表現が出てきます(1938年2月13日『大公報』記事=『南京事件資料集 2中国関係資料編』P40-)。 ただし言うまでもありませんが、馬俊超は南京陥落前に南京を脱出していましたので、この数字も単なる「見当」、もしくは伝聞に過ぎません。

**なお「2万人」の数字は、他の資料には一切登場せず、その根拠は不明です。のちに外国人の認識は、 「城壁内およびその周辺」で「一万二千人」というのが一般的なものになります(極東軍事裁判ベイツ証言、スマイス報告)。



 また戸井田議員は、「ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる「第三者」ではなかったのである」と書き、記述内容が「偏向」していることを示唆しようと試みます。

 しかし、南京に残留していた外国人は、別にこの2人だけではありません。「南京残留西洋人リスト」(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P134-P135)によれば、 22人の西洋人が南京に残り、救済活動を行っていました。

 そのうち、ラーベ、スマイス、ウィルソン、マッカラム、ヴォートリン、ミルズ、フォースター、マギーなどは、それぞれ手記を残していますが、 ベイツ、フィッチの記録と比較しても、特段違和感を感じるものではありません。

 もし二人の発言が、戸井田議員のいうように「デマ」であったとしたら、残りの外国人たちが黙っていないでしょう。 議員の発言は、「反日感情を持っている人間が書いたものだから偏向しているに決まっている」という、単なる偏見に基いたものです。


 例えば、どちらかといえば「否定派」寄りのスタンスを持つ北村稔氏ですら、このように発言しています。

北村稔『「南京事件」の探求』より

 当初、筆者は日中戦争の英文資料には、国民党の戦時対外宣伝政策に由来する偏向が存在するはずだと考えた。 しかし、ティンパーリーのWHAT WAR MEANS、『中文中国年鑑』など代表的な国民党の戦時対外刊行物には、予想に反し事実のあからさまな脚色は見いだせなかった。

 残虐行為の暗示や個人的正義感に基づく非難は見られるが、概ねフェアーな記述であると考えてよいのではないか。
少なくとも、一読して「嘘だろう」という感慨をいだかせる記述は存在しない。

(同書 P123-P124)



 なお、ベイツが本当に「中華民国顧問」であったのか。これは東中野修道氏の「発見」に依拠したものでしょうが、その根拠が新聞紙名も日付もわからない一片の切り抜きであり、 他の資料には一切そのような肩書きが登場しないことを考えれば、「史実」として認定するには材料不足でしょう。

 例え「顧問」だったとしても、「顧問」というのは英語に直すと「アドバイサー(adviser)」、すなわち単なる「助言者」であり、ベイツの専攻が歴史学であったことを考えると、別に「情報工作」に関係していたとは限りません。

 またベイツは当時、妻を日本に置き、子どもを日本の学校に通わせていました。反日感情を持つ人物が大事な子息をわざわざ日本の学校に任せるとも考えにくく 、「事件」の前まではベイツは親日感情を持っていた、と推定することも十分可能でしょう。ちなみに当時の東京日日新聞の記事では、 ベイツは「親日家」と紹介されています。

*詳しくは、拙コンテンツ「ベイツ=中華民国顧問説」をご覧ください。




蒋介石への軍事報告?

『南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった―』より

 蒋介石軍の将兵は、一九三八年一月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている。

 その時点で「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、顧維鈞中国代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。 顧中国代表は、「戦時国際法違反」になる事実を確認できなかった事で、「デマ」に基づく新聞記事を援用せざるを得なかった。
 


 議員は「蒋介石軍の将兵は、一九三八年一月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている」と書きますが、 氏は根拠資料を挙げておらず、私もその事実を確認することはできません。

 「軍事報告」と聞くと、ネットの定番、「何応欽軍事報告」を思い出します。 しかし何応欽の報告は、別に「安全区から脱出」した「将兵」からの報告に基いたものではありません。安全区に逃げ込んでいた将兵としては、イタリア大使館に隠れていた郭岐が有名ですが、南京脱出は三月十二日のことです。

 従って「一月」時点で、蒋介石が「南京」の状況に関する詳細な報告を受けていた、と断定することはできません。 繰返しますが、資料を見る限り、顧維鈞演説時点では、蒋介石政府は「南京事件」に関する独自情報をほとんど入手していなかった、と見られます。


 この時点における中国の主要な情報源が外国紙の情報であったことは事実でしょう。 しかしその新聞記事が「デマ」に基いている、というのは、戸井田議員の根拠のない偏見であるに過ぎません。




300回の記者会見


『南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった―』より


 そして、南京陥落前後から国民党は、約三〇〇回もの記者会見をしていたが、その中で一度も「南京虐殺」があったと言っていない。それは、「南京虐殺」がなかった事の証明と主張している研究者がいるが、国際連盟議事録は、その状況証拠を裏付ける事のできる決定的資料である。

  国際連盟の会議の場で顧中国代表が「南京虐殺」を訴えても無視された事を、中国は再度記者会見で訴えていなかった。
 


 この文を読んだ方は、間違いなく、誰かが「約三○○回もの記者会見」の記録を一回一回精査して、 その上で「南京虐殺」に関する記録がなかったという結論を出した、という意味であると考えるでしょう。


 実際はどうであったのか、確認しましょう。元ネタは、東中野修道氏『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』に紹介された、「外事課工作概況」であると思われます。
*東中野氏はこの本の随所で、知ってか知らずか、「工作」=「謀略工作」と印象づける記述を行っています。 しかし、「工作」は中国語では、単に「仕事」、あるいは「業務」の意味です 。例えば「教育工作者」といえば、別に教育界に対する工作員のことではなく、単純に「教育関係の職業に従事する者」を指します。 「外事課工作概況」は、普通の日本語に直せば「外事課業務概況」となるでしょう。


 東中野氏は、関係部分を、この本のあちこちに細切れで翻訳しています。P48に原文の写真がありますので、これを手がかりに氏の翻訳をつなぎあわせて、全体としてどういう文章であったのか、確認してみましょう。 (翻訳がない部分は、中国語原文をそのまま掲載しました)

『外事課工作概況』より

 外国の新聞記者、外国人居留者、及び大使館領事館職員との連絡。

(一)記者会見(「ゆう」注 原文は「新聞会議」)の開催。 本処は、一九三七年十一月一日に漢口に事務所を開くように命じられてから、日程にしたがって中国駐在の各国新聞記者、及び各国駐在公館の武官やニュース専門要員を集めて記者会見を開いた。

 わが党、政、軍の指導者、長官、及び内外の著名な学者を招いて、交互に講演を担当してもらい、外事課がその通訳を担当した。講演者の解説と説明、記者の質問と弁明については、すべて詳しく翻訳し説明した。

 ・・・一九三七年十二月から一九四一年四月までの四十二ヶ月間、漢口、重慶の地で合計六百回の記者会見を開き、前後して講演した者は百人ほどになる。説明の便宜のために、時期を分けて次に説明すると、

(一)一九三七年十二月一日から三八年十月二十四日まで、漢口で行った記者会見では、軍事面については軍令郎より報告し、政治面は政治郎が担当し、外交面は外交部が発言して、 参加者は一回の会見で平均五十数人であった。会見は合計三百回開いた。

 除固定発言人外開会時復別的党国要人、各派学者出席講演報告、平均毎星期一次、共計四十余次。(「ゆう」注 「星期」=「週」)

 このほか臨時軍事報告は本処で招集したり、長官公邸で開いたりした。その他の重要問題、あるいは国際変化にたいして、責任ある長官の対応報告が必要なときには、本処は直ちに臨時招集して、 発言人〔スポークスマン〕公署で、会見を開いた。例として、孔祥煕院長は中央銀行で記者を接待し、張群副院長は塩業ビルで記者を集めて談話する等、平均毎両週一次、凡二十数次。

(ニ)民国二十八年(1939年)一月一日から三十年四月三十日まで・・・

(中略)

 通常及び臨時会議のほか、外国人記者は民衆文化団体、国民外交協会、反侵略分会、新聞同業者の集会などに参加するよう、毎週平均二回、外事課から外国人記者に通知し、 外国人記者を指導した。各集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は、毎回平均三十五人であった。一九三八年一月から一九四一年四月までの前後二十八ケ月間に、記者会見は合計二百五十回開いた。



 なんと、これだけです。

 「三百回」の「会見」を開いた、という記録はあります。しかし上の通り、文書からその個別内容を確認することは、ほとんどできません。

*ついでに書けば、「記者会見」というと、スポークスマンが出てきてひな壇に座り、「何時何分 国民政府軍令部発表!」とでもやっているような、かしこまった光景を連想します。 しかし「記者会見」の原文を見ると「新聞会議」となっており、実態としても、外国人記者を招いて、 要人が講演したり、意見交換をしたりする、気楽な場であったようです。

「新聞会議」を「記者会見」と翻訳するのも、東中野氏の印象操作でしょう。

 これだけの内容なのに、どうして「国民党は、約三〇〇回もの記者会見をしていたが、その中で一度も「南京虐殺」があったと言っていない」ということになってしまったのでしょうか。 東中野氏のこの本を読み進むと、後の方に、こんな文が出てきます。

東中野修道氏『国民党 秘密文書を読み解く』より

 南京大虐殺が真実と確認されるや重要問題として、中央宣伝部はいつものように「緊急記者会見」を開催し、目撃者として外国人特派員を招いて講演してもらい、 中華民国政府声明を発表して全世界に伝えた、という記録が、この極秘文書のどこかに必ずやあるはずであった。

(中略)


 南京陥落以来、アメリカの新聞は「日本軍、何千人も殺害」とか、「目撃者の語る〈地獄の四日間〉」「通りに五フィートも積もる死体の山」「民間人多数を殺害」という見出しを掲げた記事を載せていた。 これを見た各国特派員は、さらに詳しい情報を得るため、中央宣伝部の開く緊急の「記者会見」を待ったことであろう。 ところが、中央宣伝部が南京大虐殺の「緊急記者会見」を開いたという記録は、極秘文書のどこにも見当たらない。

(P133)


 どうもこの記述が、「国民党は、約三〇〇回もの記者会見をしていたが、その中で一度も「南京虐殺」があったと言っていない」というおかしな表現に化けてしまったようです。 言うまでもありませんが、「記録が残っていない」と「事実がない」とでは、全く意味が違ってきます。

 東中野氏の本に紹介された上の部分を見る限りでは、この文書は個々の「記者会見」(正確には「新聞会議」)の具体的内容に触れたものではなく、 別に「南京虐殺」に触れる必然性のある文書ではないようにも思われます。

 「記録が、この極秘文書のどこかに必ずあるはずであった」と決め付けられても、ちょっと反応に困ってしまうところです。


 以上、「約三百回」の新聞記者を招いての懇談会を開いたことは事実だとしても、これだけの材料で、そこで「南京」問題が話題になったことは一回もない、 と決め付けることはできないでしょう。

*なお東中野氏は、ダーディン・スティールらの記事があったのだから、中央宣伝部がそれに呼応した「緊急記者会見」を開かないのはおかしい、 という、ちょっと首を捻ってしまいそうな記述を行っています。

「記事」が出たのは事件直後、1937年12月下旬から1938年1月上旬の時期でした。この時期、国民党政府は、独自の情報はほとんど持たない状況だったと思われます。 まさか「外国紙にこんな報道がありました」などという間の抜けた「記者会見」を開くわけにもいかないでしょう。




『ドイツ外交官の見た南京事件』


『南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった―』より


 この国際連盟の議事録は、『ドイツ外交官の見た南京事件』(石田勇治・編集・翻訳大月書店、二〇〇一年)でも要約され紹介されている。

 しかし、「二万人の虐殺」と「何千人もの女性が辱めを受けた」事は記載されているが、 顧維鈞中国代表が国際連盟に「行動を要求」した最重要部分を「以下、略」として削除している。

 この議事録は、二〇〇一年に明らかになっていたので、資料価値を低く見る研究者もいるが、「行動を要求」していた事まで明らかになっていなかったのである。
 


 戸井田議員は最初、顧維鈞演説を、「新資料を発掘した」と大々的に発表しました。しかし実を言えばこの「新資料」、とっくの昔に『ドイツ外交官の見た南京事件』に掲載されており、 「南京」問題にちょっと詳しい方でしたら誰でも知っている代物でした。

 さすがに議員も、この本の執筆までには「資料」の存在を知ったようです。しかし、翻訳者が意図的に「行動を要求」した部分を「削除」したかのような氏の書きぶりは、また、見当違いでしょう。

 議事録を見れば明らかな通り、「南京」問題に関係するのは、「以下、略」の直前までです。何度も繰返しますが、 顧維鈞は別に「南京」問題に対する「行動」を要求していたわけではありませんので、訳者は必要のない部分を省略したまでの話です。

 「行動を要求」したのが「最重要部分」である、という議員の発言は、明らかに頓珍漢なものです。


(2009.7.11)


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