日本軍が南京を占領した1937年12月13日、城内南部にて、2家族11人が殺される、という事件が発生しました。
南京安全区国際委員会のマギーが、死体のフィルム撮影を行うとともに、この事件に関する記録を残しています。
生き残って事件の証言を行った少女の名からこれは「夏淑琴さん事件」と呼ばれていますが、この「夏淑琴」さんはニセ証人ではないか、との疑念を提示したのが、東中野修道氏でした。
これに対して夏さんは、2001年、東中野氏を「名誉毀損」で訴える訴訟を南京で起こしました。 2005年、東中野氏は東京で「名誉毀損に基づく損害賠償等の債務の不存在」の確認請求を行いましたが、これを知った夏さんが東京の法廷に「反訴」を行い、2006年6月より裁判が開始されています。
この訴訟については、東中野氏の側に、不用意な点があったのは否めないでしょう。K−Kさんの批判 にも見られる通り、「ニセ証人」と決め付けるには、東中野氏の論拠は、あまりに薄弱です。直接本人に聴取を行って自分の疑問点を問いただす、という程度のことすら行っていません。
「直接対決」を求める夏さんに対して、東中野氏は、南京の法廷の完全無視といい、東京での裁判への不出廷といい、どうも「逃げ」の姿勢をとっている印象すらあります。
東中野氏が「ニセ証人」との疑念を提出したのは、氏の著作、『南京虐殺の徹底検証』でのことでした。普通であれば、「名誉毀損」で訴えられたのであれば、相手に対する言動には慎重になるところです。
しかし東中野氏は、外国である「南京の法廷」を甘く見たのか、南京での提訴の直後、あえて夏さんへの「疑念」を追加する論稿を発表しました。『SAPIO』2001年8月8日号に掲載された、「私を訴えた南京事件"虐殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ」です。
東中野氏は、ここで4つの「疑いの根拠」を提出しました。以下、見ていきましょう。
*「夏淑琴さん事件」については、当時のマギーらの記録、及び戦後の夏さん自身の証言など、十数件の「資料」が存在します。
この記録・証言の内容は、必ずしも整合したものとはいえず、また、細部での食い違い、明らかにおかしな点が、多数見られます。
東中野氏などは、そのような齟齬を誇張して取り上げて、「事件が本当にあったのか」というレベルにまで疑念を拡大しようと試みます。
しかし冷静に考えれば、当時の混乱した状況では完全な記録を残すのが困難であったこと、夏さん自身が当時8歳と幼かったこと、夏さんの証言は主として戦後になってからの「回想」であること、
彼女自身必ずしも「細部の整合性」に拘っている気配がないことから、細部に齟齬が生じるのは当然のことでしょう。
小学校も卒業できず、字を覚えたのも戦後になってから、という彼女の境遇を考えれば、あれが精一杯の「証言」であるのかもしれません。
夏さんは、「家族を目の前で次々と殺されていく」という、平和な社会に暮らす我々には想像もつかない、大変な体験の持ち主です。事件のショックで細部を忘れてしまうこともあるでしょう。また、当時の年齢を考えれば、夏さんの記憶の内容は、「家族が次々と殺されていく」現場の視覚的・聴覚的記憶、日本兵に怯えて隠れていた時の恐怖感が中心であると思われ、
細部は夏さんの頭の中で「再構成」されたものである可能性も十分に考えられます。
そのような証言であってみれば、そもそも「細部の齟齬」を問題にすること自体、あまり意味がないことでしょう
。彼女の証言内容に細部の誤りがある、と指摘するのであればともかく、「証人であること」自体に根本的な疑念を提出するのであれば、相当に強力な「根拠」が必要となります。
そして東中野氏は、以下見るように、到底そのような「強力な根拠」の提示に成功しているようには思えません。
**このコンテンツは、「名誉毀損裁判」の論点に直接関わることを目的とはしません。あくまで、この論稿における東中野氏の論理の妥当性の検討を行なうものです。
なお、私は「裁判」自体には全く関わりを持っていませんので、このコンテンツは、別に「原告側の主張」ではないことは、念押ししておきます。
***本コンテンツで利用した夏さん事件関連の資料については、K-Kさんの「南京事件資料集」、
または当サイトの「夏淑琴さん事件の証言集」で確認することができます。
< 目 次 >
論点1 「検証のなされていない」マギーの記録
論点2 「近所の老女性」は「叔母さん」か?
論点3 「7歳」か、「8歳」か
論点4 日本軍には「アリバイ」がある
まずは、東中野氏の文章からです。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺 目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
検証のなされていない準公式記録
この事件を最初に活字にして世に発表したのは英文の『南京安全地帯の記録』であった。
これは当時の南京在住の欧米人たちが組織していた南京安全地帯国際委員会が日本大使館に手渡した文書の記録で、その中には南京市民被害の記録もあった。
これらを、中華民国政府の一機関か外郭団体と思われる国際問題委員会が監修し、燕京大学教授の徐淑希が編集して、1939年に上海のケーリイ・ウォルシュ社から出版したものである。
その「事例219」は次のように伝えていた。 (傍点、①②③は筆者) (「ゆう」注 傍点は下線とした)
「ジョン・マギー氏が説明してもらったところによれば、①12月13日から14日にかけて、城南のある一家13人のうち11人が日本兵に殺され、女たちは強姦されて②手足を切断された。
この話は生き残った③2人の小さな子供が語った。 ( マギー)」
これが日本軍の残虐行為を示す準公式記録として世界に定着している。
たしかに国際委員会委員ジョン・マギーの記録という事実が信憑性を高めているようである。
しかしマギーが責任をもって記録したというのであれば右の傍点部を、彼は訂正する必要がある。
というのはマギー自身が書いた記録はこの他にも1月30日付のマギーの妻宛の手紙、1月30日のマギー自身の日記、上海の知人宛への手紙のほか、邦訳にして一〇〇〇字を超える長文の記録もあるが、
そのいずれも①は12月13日で一致している。
②の「手足切断」という言葉は彼のどの記録にも見当たらないから、これは創作である。
③については「一人」の小さな女の子が語るのを近所の「老女性」や一人の「親戚の男性」に「確認」して、彼は記録していたのである。
そして右の記述には次の事実が付け加えられねばならない。マギーが聞き書きしたのは、事件が発生したといわれる1937年12月13日の直後でもなければ、
生き残ったという子供が発見されたという12月27日の直後でもなければ、死体が片付けられる前でもなかった。それは事件が起きたという日から47日もたった翌年の1月末であった。
もう一度念を押しておくが、『南京安全地帯の記録』に出て来るマギーの記録は検証がなされた上での記録ではなかった。事件発生から1 か月以上も噂にならず、突如「老女性」に案内されてマギーは現場に行ったのである。しかも写真撮影のために一度片付けられたとみられる死体が外の路上には並べられていた。
それをマギーは写真に撮った。そして、一人の少女と二人の大人(案内した近所の老女性と少女の親戚の男性)が待っていて、マギーに話をしたのである。 これが、この事件の記録されるに至った経緯である。
(東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺 目撃者こそ"虚構の産物"だ』 =『SAPIO』2001年8月8日号 P26〜P27)
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東中野氏がここで問題にしてる『国際委員会の記録』は、「国際委員会」が日々の日本軍の暴行事件の記録を収集し、日本側当局に訴えるための「記録」です。いわば「第一報」であり、細部に正確性が欠ける部分が出るのは、当り前のことです。
マギーはその後、いくつかの記録を残し、事実経緯を正確なものに修正しています。それで十分であり、
既に日本大使館に報告されてしまった「準公式文書」をわざわざ「事後的に」書き直すのも、おかしな話でしょう。
そもそも、「マギーの第一報」の伝えられ方が多少不正確だからと言って、それが何で「夏淑琴さん=ニセ証人」説の論拠になるのか。理解できないところではあります。
東中野氏の文に対するコメントとしてはこれで十分なのですが、ここではさらに、「事例219」の文の成立過程を推理してみましょう。
さて、そもそも東中野氏は、これがマギー自身が「記録」を行った文章である、と思っているのでしょうか。
氏の「マギーが責任をもって記録したというのであれば」という表現からは、そのようにしか読み取れません。
実際どうであったかは、記録の冒頭の「ジョン・マギーが説明してもらったところによれば」という語を見れば明らかです。
つまりこれは、マギー自身が記録したものではなく、マギーの口頭報告をもとに誰かがタイプで記録したもの、と見られます。
おそらくその「口頭報告」の聴取の過程で、「不正確さ」が混入したのでしょう。記録する方も、毎日、何十件となく、同種の記録を行っていたのです。
あるいは、マギーの報告をリアルタイムで記録せず、あとでまとめて「記録」を行ったのかもしれません。
または、後の「マギー証言」から類推されるように、マギーから報告を受けたスマイスが、さらに別人にタイプを命じた、という可能性も考えられます。
どうやら、日々多忙を極めていたマギーには、日本大使館への報告前に、いちいち「自分の報告がどのように記録されていたか」を確認する余裕はなかったようです。「東京裁判」におけるマギーの証言を見ます。
極東国際軍事裁判速記録より
○ブルックス弁護人 次に強姦及び掠奪の件に付ても、あなたは誰かに報告されたことがありますか。さうして報告されたならば其の報告の官職・地位、或は当局はどう云ふ所であつたか、
或はどう云ふ人に報告したかと云ふことを御存じですか。
○マギー証人 さう云ふ不法行為が沢山ありましたが、それを一々幾ら報告したか覚えておりませぬ。
「ルイス・スミス(スマイス)」さんに色々私が報告しました。
「ルイス・スミス」さんは、当時の安全地帯の委員会の書記でありまして、此の安全地帯委員会と云ふのは、後に国際救済委員会と変つたものであります。
勿論私は田中さんとの会話に於て或る一つのことは報告致して置きましたが、沢山私は見たものでありますし、又、忙がしかつたので一々報告は致しませぬでした。
私は主として中国人側の方に働いて居りましたので、外人の方には関係は少なかつたのであります。
○ブルックス弁護人 「マギー」証人、私の興味を持つて居りますのは、あなた御自身が御覧になつたり、若しくはあなた御自身が御報告になつた件だけでありますが、
あなた御自身が御覧になりました事件に付きまして、あなたが是等の御報告をなさつたのは、其の事件が起つてからどの位の期間が経つた後のことでありますか。
○マギー証人 私は「スミス」さんに沢山報告しましたが、其の報告は委員会の報告書の中にちゃんと書いてある筈でありまして、其の報告にはちゃんと報告者の名前も出て居ります。
自分自身でも二、三見たことがありますが、何件「スミス」さんに報告したか覚へて居りませぬ。
(『南京大残虐事件資料集1』P105)
*読みやすくするために、「モニターによる訂正」は地の文に押し込めてあります。 |
この証言を見る限りでは、マギーはスミス(スマイス)に各事件の報告を行ったが、それがどのように報告されたかということまではほとんどフォローしておらず、
事後的にも「自分自身でも二、三見たことがありますが」程度の関心しか持ち合わせていなかったと見られます。
余談になりますが、どうも氏の文章には、意図的な「印象操作語」が目に付きます。
例えば氏は、「マギーの記録は検証がなされた上での記録ではなかった」と書きます。
しかしマギーは現場に出向き、死体を確認した上で、直接関係者から事情を聴取しているわけです。「8歳の少女」から話を聞きだして「事件の再構成」を試みるマギーの労苦は、想像するに余りあります。
これ以上、具体的にどのような「検証」を行えばいいのか。東中野氏がもしマギーの立場であったら、それ以上の「検証」ができたはずだ、とでも言いたいのでしょうか。
また、「「手足切断」という言葉は彼のどの記録にも見当たらないから、これは創作である」というのも、何とも意図的な表現です。
素直に「誤認である」と書いておけば済む話でしょう。
最後の「写真撮影のために」というのも、何の根拠もない、東中野氏の単なる「想像」であるに過ぎません。
東中野氏の文章を、続けます。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
事件発生から1か月以上も噂にならず、突如「老女性」に案内されてマギーは現場に行ったのである。しかも写真撮影のために一度片付けられたとみられる死体が外の路上には並べられていた。
それをマギーは写真に撮った。そして、一人の少女と二人の大人(案内した近所の老女性と少女の親戚の男性)が待っていて、マギーに話をしたのである。これが、この事件の記録されるに至った経緯である。
このように検証がなされていない記録が一方にあり、他方で「少女Cは私です」と名乗り出たのが夏淑琴氏であった。彼女の証言はマギーの当時の記録よりも詳細であった。
「生き証人」の出現とあって、夏淑琴氏の証言がマギーの記録の信憑性を決定的にするとともに、日本軍の残虐性を示す実例として世界に広められたのである。
しかし一寸待っていただきたい。冒頭で述べたように、本当に夏淑琴氏は「少女C」と同一人物なのか、その証言は正しいのか。これを検証することは当然の自明の理である。
一般に、二人が同一人物であると証明するのはまず写真である。しかし「少女C」の写真は存在しない。マギーは「少女C」の写真は撮っていなかったのである。
だが、マギーが南京陥落から「14日して、このフィルムに出て来る老女性が近所に戻って、二人の子供を発見した」と記すように、第一発見者である「老女性」の写真は存在する。
写真を見ると、路上に筵でくるまれた死体があり、老女性がその中に立っている。この老女性がマギーに少女と一緒に話をした一人であった。
ところが、この老女性と思われる人物が次の証言集に出て来る。夏淑琴氏が名乗り出て初めて行なった証言は、朱成山編『侵華日軍南京大屠殺幸存者証言集』(南京大学出版社、1994年)と、
その邦訳の『この事実を― 「南京大虐殺」生存者証言集』(南京大学出版社)に出ているが、そこに彼女の叔母の王芝如という女性が出てくるのである。
まず叔母である王芝如が証言し、続いて夏淑琴氏が「王芝如はわたしの叔母で、今言ったのはみんな事実です」と語って証言している。王芝如の証言から見てみる。
「日本軍が南京で大屠殺をやった時に、我が家に留まっていた9人のうち、7人殺害されました。
小さい女の子が二人残りましたが、7歳のが刺されて負傷し、3歳のが脅えておかしくなりました。 刺されて負傷したこの姪が中山門外の竹林新村にいる夏淑琴なのです」
このとき王芝如は72歳、夏淑琴は55歳であった。7歳の少女が55歳の夏淑琴だというのだから、この間に48年の歳月が流れていたことになる。
従って王芝如は当時24歳であったことになり、これは1937年から48年間が経過した1985年の証言であったことになる。
さらに、王芝如は語る。
「20何日かして家に帰って見たら、家には死体が7つ転がっていたのです。
父と母と夫の姉の主人とが殺害されていて、一番上の姪(20歳)と二番目の姪(18歳)と夫の姉とが活きながら踏みつけ死されていて、7歳の姪が幾太刀か刺されて意識を無くしていて、3歳の姪が恐さに気が変になっていて、一番小さい姪が日本軍に突っつき殺されていたのです」
マギーが第一発見者という「老女性」は王芝如であったかのようである。
しかしそのとき王芝如は24歳であり、マギーが第一発見者として写している女性は老女性で、24歳にはとても見えない。
このように当時の記録と夏淑琴氏の証言とを突き合わせてみると、早くも多くの矛盾点と疑問点が出て来るのである。
(P26〜P27)
(『SAPIO』2001年8月8日号 P27)
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さて、「第一発見者」はどのような人物であったのか。以下、記録を並べておきます。
マギーの記録より
『マギー牧師の解説書』より
一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。
(『ドイツ外交官の見た南京事件』P177 )
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『夫人への手紙 マギー』より
14日後にこの子のお隣の年取ったおばさんが戻ってきたときに、二人は救い出されたのだ。
(『この事実を・・・』② P328)
*原文は "an old woman neighbor"であり("Eyewitnesses To Massacre"P191)、
「近所の老女」と訳す方がより適切であると思われます。
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『フォースター文書』より
二週間たって近所のお婆さんがもどってきた時に発見され救出された。
(笠原十九司氏『南京難民区の百日』P255) |
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夏淑琴さんの証言より
本多勝一氏『南京への道』より
二週間ほどたったとき、近所のおばあさんが二人をみつけた。
このおばあさんを二人は知らなかったが、剪小巷にある「老人堂」へつれていってくれた。
(文庫版 P202) |
『南京大虐殺と原爆』より夏さんの講演
そうして私たち二人は死体を収容しにきた人たちによってやっと発見されて
(同書 P18) |
落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より
十日ぐらいしてから紅卍字会の人々が死体探しに来たんですが、そのとき私と妹を見てまだ生きていることに気づいたんです。
(同書 P116)
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星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より
あの惨事から一〇日ほどたっただろうか、数人の老人が敷地内に入ってきて、生きている人がいるかどうか調べたり、何か探し物をしているようだった (夏さんは、彼らは何か食べ物を探しにきたのではないか、と推測する)。
夏さんと妹は人の気配に気づいて「避難所」に隠れたが、その老人たちが中国語で話していたので、大丈夫だと思いそこから飛び出した。すると、近くにいた老婆が「あっ! まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。
(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153)
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マギーの記録、夏さんの証言のすべてを通じて、「第一発見者」が「叔母さん」であることを示唆する資料はありません。
「第一発見者」は、「近所のおばあさん」なのか「死体探しに来た人」なのか。夏さん自身の記憶も混乱しているようでよくわかりませんが、
少なくとも血縁関係のない「老人」によって発見されたことは間違いなさそうです。
*なお「東京裁判証言」では「非常に年を取った母方の祖母さん」となっていますが、「母方のお祖母さん」は「事件」で殺されておりますし、
他の資料群との整合性もありませんので、これはマギーの勘違い(あるいは「速記ミス」)と考えるのが妥当でしょう。
2011.5.5追記
中国語で「母方のおばあさん」に相当する言葉として「姥姥(ラオラオ)」がありますが、これは同時に年取った婦人への一般的な尊称でもあります。
中国語の「姥姥」をマギーが「母方のおばあさん」と翻訳してしまった、という可能性も、あるいはあるのかもしれません。
さて、ここで東中野氏の紹介する王さんの証言を、もう一度見直してみましょう。
『この事実を・・・』より
王芝如:日本軍が入ってくる前は、家は小荷花巷でした。中国侵略日本軍が南京で大虐殺をやった時に、我が家で中華門の内新路口の家に留まっていた九人の内、七人殺害されました。
小さい女の子が二人残りましたが、七歳のが刺されて傷し、三歳のが脅えておかしくなりました。刺されて傷したこの姪が今は中山門外の竹林新村にいる夏淑琴なのです。
日本軍が南京を占領した時、わたしは夫に付いて小さい子供二人を連れて難民区へ避難しに行き、父と母と、夫の姉とその主人、それに姪五人とが家に留まっていました。
難民区へ着いてから、家にいる者を迎えに夫に戻ってもらうつもりでいたのですが、何とそこに着いたら出て来れなくなったのです。
二十何日かして家に帰って見たら、家には死体が七つ転がっていたのです。父と母と夫の姉の主人とが殺害されていて、
一番上の姪(二十歳)と二番目の姪(十八歳)と夫の姉とが活きながら踏みつけ死されていて、七歳の姪が幾太刀か刺されて意識を無くしていて、三才の姪が恐さに気が変になっていて、
一番小さい姪が日本軍に突っつき殺されていたのです。その時の惨状は言葉ではとても形容できません。
夫はそれらの死体を見て狂わんばかりに気忙しく走りまわり、とうとう棺桶を一つ見つけて来て、卍字会が板を四枚下さり、それに家の大きな戸棚を使って、草々に弔い事を片付けたのでした。
(同書 P114〜P115)
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実は、叔母の王さんは、自分が「第一発見者」であるとは、一言も言っていません。叔父夫婦との関わりについては、夏さん自身、繰り返して「証言」を行っています。
落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より
十日ぐらいしてから紅卍字会の人々が死体探しに来たんですが、そのとき私と妹を見てまだ生きていることに気づいたんです。それで助けられて孤児院に入れられました。
もちろん私は歩けなかったので背負ってもらいました。
その後何日かして母方のおじが私たちふたりを探し出してくれて引きとってくれたんです。
(同書 P116) |
星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より
あの惨事から一〇日ほどたっただろうか、数人の老人が敷地内に入ってきて、生きている人がいるかどうか調べたり、何か探し物をしているようだった (夏さんは、彼らは何か食べ物を探しにきたのではないか、と推測する)。
夏さんと妹は人の気配に気づいて「避難所」に隠れたが、その老人たちが中国語で話していたので、大丈夫だと思いそこから飛び出した。すると、近くにいた老婆が「あっ! まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。
年が明けて三八年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。
それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。
それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。
(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153〜P154) |
笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より
当時、私の家族は哈おじさんの家を借りて住んでいましたが、哈家の四人とも全員が日本兵に殺害されてしまったのです。 私は"老人堂"でしばらく世話になっていましたが、その後、叔父が難民区から家に戻ってきて、よその人から私たちが"老人堂"にいるということを聞いてやってきて、
私たちを連れ出しました。
(同書 P133)
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要するに、「叔父」「叔母」は、孤児となった夏さんを、引き取ってくれた方であったに過ぎません。
当然「現場」には足を運んだでしょうが、別に「第一発見者」であったわけではありません。
東中野氏も、せめてこれらのインタビューアと同じように夏さんに直接話を聞きさえすれば、こんなとんでもない勘違いをすることもなかったでしょう。
2006.12.12追記
東中野氏は、2005年の著書「南京事件『証拠写真』を検証する」でも、なお「勘違い」を続けているようです。
東中野修道氏『南京事件 「証拠写真」を検証する』より
この証言が正しいとすれば、そのとき(昭和十三年)二十四歳であった王芝如が「第一発見者」となり、 マギー師を案内したことにもなる。
しかし写真の「女性」は二十四歳には見えない。しかも死体発見後は早々に弔い事を片づけたと言われているのに、 「早々に弔って片付けた」死体を写真撮影のために、事件発生から一ヵ月半後に、再び出してきたのであろうか。
(同書 P193)
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氏の「勘違い」はともかくとして、王証言の関連部分を読み直してみましょう。
『この事実を・・・』より
王芝如:
夫はそれらの死体を見て狂わんばかりに気忙しく走りまわり、とうとう棺桶を一つ見つけて来て、 卍字会が板を四枚下さり、それに家の大きな戸棚を使って、草々に(ママ)弔い事を片付けたのでした。
(同書 P115)
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東中野氏は、ここで、「早々に」の前に「死体発見後は」という語を挿入する「トリック」をやらかしています。
王さんは別に、「死体発見後早々に」「弔い事」を行なった、と語っているわけではありません。
「気忙しく走りまわり」、「とうとう」棺桶を見つけたわけですから、「棺桶」を手に入れるまでにはかなりの時間がかかった、と考えられます。
「棺桶」をみつけてきてやっとのことで「弔い事」を終えたのは、マギーが死体検分を行なった後であった、と見るのが妥当でしょう。 そうでなければ、現場に死体がそのまま放置されていたわけがありません。
ちょっと考えれば、すぐにわかる程度のことなのですが。
さて、次の東中野氏の論点は、夏さんは当時、7歳だったのか、8歳だったのか、というものです。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
思い違いは通用しない
夏淑琴氏は右の証言でも、事件当時「7歳」であったと証言していた。それから2年後の1987年の証言においても、本多勝一著『南京への道』によれば、「当時 7 歳」と語っていた。
しかしマギーは「少女C」の年齢に関しては常に「8歳の少女」と記録していた。そこで問題になるのは、夏淑琴氏の言う7歳が数え年7歳(満6歳)ではなく満7歳(数え年8歳)を意味していたのかである。
もし夏淑琴氏が数え年8歳の満7歳であったとすれば、マギーの記録した「8歳」と一致することになる。笠原十九司著『南京難民区の百日』は後者の数え年8歳(満7歳 ) と解釈している。
しかし最近になって存在が明らかとなった史料、たとえばマギーの4月2日付マッキム氏宛の手紙は、「中国式計算」で「9歳の少女」と「5歳の子供」が生き残ったと記録していた。
マギーは数え年という「中国式計算」があることを知っていたのである。
従って「8歳の少女」が数え年9歳(満8歳)であったことは否定できない。 それゆえ「少女C」の名前がマギーによって仮に夏淑琴と記録されていたとしても、「少女C」と夏淑琴氏とは、年齢が満8歳と満7歳と違う以上、単なる同姓同名に過ぎず、私たちがよく経験しているように別人ということになる。
ちなみに、夏淑琴氏は「7歳」と二度も語っていたにもかかわらず、1994年に日本で講演したおり当時何歳であったとは言わず、「1929年5月5日生まれ」と述べるにとどめている。
当時の年齢を言外に「満8歳」と述べて、辻棲をあわせたのである。
(『SAPIO』2001年8月8日号 P27〜P28)
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東中野氏の「論理」が成立するためには、最低でも、
1.マギーの書き残した「年齢」が確実なものであり、
2.夏淑琴さんの回想する「当時の年齢」もまた確実なものである、
という「大前提」が必要です。
どちらか片方だけでも怪しげなものであるのならば、「年齢の相違」を材料に夏さんを「ニセ証人」と決め付けることはできなくなります。
マギーが聞いた「年齢」です。
『マギー牧師の解説書』より
彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。
(『ドイツ外交官の見た南京事件』P177)
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『極東国際軍事裁判』におけるマギー証言
其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、
其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、
(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95)
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言うまでもありませんが、当時の中国には戸籍制度すらありませんでしたから、マギーが何らかの「公的書類」で年齢を確認したとは考えられません。
現実問題として、マギーの一番の関心は、「日本軍の暴行の具体的な状況」でした。その中で、証言者の年齢が「8歳」と語られたとしても、幼い子供の「証言」からの「事件の再構成」に精一杯のマギーが、いちいちそれを「それは数え年ですか、それとも満年齢ですか」と聞き返すはずもありません。
マギーにとって、「年齢」はたいした問題ではなく、おそらくは、本人なり周囲の大人なりが「8歳」だと言うからそのまま書いた、というだけの話でしょう。
なお、「極東軍事裁判」証言では、「約八歳から九歳位」と曖昧な表現に後退しています。
私は「マッキム氏宛の手紙」を確認しておりませんが、「数え年か、満年齢か」などという細部にマギーがあまり気を遣うはずもなく、
「8歳」というデータだけをもとにして「思い込み」をしてしまった可能性が高いものと思われます。
さて一方、夏さんの語る「当時の年齢」です。
夏淑琴さんの証言より
本多勝一氏『南京への道』より
夏淑琴さん(五七)は当時七歳だった。
(文庫版 P197) |
『この事実を・・・』より
その時わたしは七歳で、妹は三歳でした。
(同書 P115) |
『南京大虐殺と原爆』より夏さんの講演
私は南京で一九二九年五月五日に生まれました。
(同書 P15) |
早乙女勝元氏『南京からの手紙』より
私たちは当時、新路口というところに住んでいて、私は七歳でした。
(同書 P77)
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落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より
夏淑琴女史は一九二九年生まれで当年六十六歳。日本軍が南京に入ってきたときは八歳だった。
(同書 P114)
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笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より
私は一九三〇年に生まれ>、日本軍が来たときは七歳でした。・・・・ 当時、私は七歳でしたが、小学校へは行けませんでした。文字を学習したのは成人してからで、解放後の一九五一年の識字運動の時になります。
(同書 P133)
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|
夏さん自身、「当時の年齢」はおろか、「生まれ年」についても曖昧である、と解釈するのが、最も自然であるように思われます。
50年前の「当時の年齢」など、いちいち計算しなければわかるはずがありません。最初は当時「7歳」と語っていたようですが、『南京大虐殺と原爆』での証言では「1929年5月5日生まれ」。
計算すると、「満8歳」ということになります。最新の笠原氏の聴取では「1930年生まれ」、すなわち「満7歳、数え年8歳」ということになり、証言の「揺れ」が見られます。
夏さんは、小学校にすら行っていません。そして、幼い時に「孤児」になり、叔父夫婦に引き取られて、貧しい、苦難の多い日々を送っていました。 「戸籍制度」すらない当時の中国であってみれば、このような環境で育った夏さんが、自分の「年齢」「生まれ年」が曖昧なのも、理解できないことはないでしょう。
ひょっとすると、自分の生れ年を、「西暦」ではなく、当時の「公式の暦」であった「民国」で覚えており、それを「西暦」に換算する時に混乱したのかもしれません。
いずれにしても、「ニセ証人」と決め付ける前に、「夏さんには自分の生まれ年が曖昧である事情があったのではないか」ということを考えるのが先でしょう。
だいたいこの程度のことでしたら、本人に直接話を聞きさえすれば、あっさりと氷解するものではないか、と思われます。
*余談ですが、東中野氏の、「それゆえ「少女C」の名前がマギーによって仮に夏淑琴と記録されていたとしても、
「少女C」と夏淑琴氏とは、年齢が満8歳と満7歳と違う以上、単なる同姓同名に過ぎず、
私たちがよく経験しているように別人ということになる」という記述は、理解に苦しみます。
マギーの記録には「夏淑琴」などという字句は全く登場しませんので、この部分は東中野氏の勘違いでしょう。
*2006.12.12追記
その後「年齢」に関して、「裁判」における被告側の準備書面では、このような説明が行なわれました。
「原告夏淑琴は,新暦で1929年5月5日に生まれた。
もっとも当時の中国では,旧暦でしかも数え年が当然であったから,生誕した時点で1歳となり,その後は旧正月を迎える度に1歳ずつ年を重ねていくというのが年齢の計算方法であった。
そのため実際に生まれた日というのは重視されておらず、原告は自己の正確な生誕日を知らない。
1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて、便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。
特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。」
東中野氏の根拠の薄い「批判」よりも、はるかに合理的な、納得しやすい説明であると思います。私の「解釈」で正解だったようです。
東中野氏は、これに続けて、「姉妹の年齢」を「疑問」の材料にします。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
さらに夏淑琴氏の証言する5人姉妹の年齢も矛盾している。
最初の1985年の証言は、長姉、次姉、本人、妹、末妹の年齢を、20歳、18歳、本人7歳、生き残った妹3歳、幼い妹と語っていた。しかし二回目の1987年の証言は、
15歳、13歳、本人7歳、生き残った妹4歳、生後数か月の乳児と語っている。
自分を基準に考えると、これほどの差は出ないはずである。しかも自ら名乗り出てきての証言であり、証言する前に事前に準備ができていたから、
これが思い違いであったという言い訳は通用しない。
決して変わることのない事実を、一人の人間がこのように変えて証言するということは、証言それ自体を疑わせることになるだろう。
(東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』 =『SAPIO』2001年8月8日号 P28)
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さて、まずはマギーの記録からです。
『マギー牧師の解説書』より
何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、
一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。
(『ドイツ外交官の見た南京事件』P176)
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繰り返しますが、マギーは別に「公的書類」などで年齢を確認したわけではないでしょう。証言者たちから「年齢」を聞き、それをそのまま記録しただけの話である、と思われます。
そして、周囲の方、あるいは夏さん自身、姉妹の年齢をどこまで「年齢」を正確に覚えていたのか、怪しげなものがあります。
学校に行っていれば「学校の種類(中学、高校)」「学年」でおおよその年齢を認識することも可能かもしれませんが、夏さんの一家は、そんな教育状況にはなかったようです。
夏さんが、かなり年上の姉の年齢を正確に覚えていなくても、特に怪しむには足りません。
ましてや、親戚の人々が、自分の甥や姪の年齢を正確に把握していなくても、それは無理なからぬことでしょう。
私自身、毎年変わる「甥や姪の年齢」などとっくにフォローできなくなっています(辛うじて「学年」で把握できる程度であり、仮に学校に行っていなかったら、完全に把握不能です)。
東中野氏への批判としてはこれで十分でしょうが、そんな中で、なぜ「姉の年齢」に関する夏さんの「証言」が揺れたのかを、推理してみましょう。
「最初の1985年の証言」を私は確認することができませんでしたが、おそらくこれは、夏さん自身姉の年齢を把握しておらず、王叔母さんの認識に引き摺られたのではないか、と思われます。
『この事実を・・・』より
王芝如さんの証言
父と母と夫の姉の主人とが殺害されていて、一番上の姪(二十歳)と二番名の姪(十八歳)と夫の姉とが活きながら踏みつけ殺されていて、
七歳の姪が幾太刀か刺されて意識を無くしていて、三才の姪が恐さに気が変になっていて、一番小さい姪が日本軍に突っつき殺されていたのです。
(同書 P115) |
何度も書く通り、姪の50年前当時の年齢など、「叔母さん」が正確に把握していなくても、何の不思議もありません。おそらくは王叔母さんは、薄い記憶を辿って、
十分な確信のないままに「年齢」を語ったものであると思われます。「叔母さん」にとっても、「年齢」は別に証言のポイントではなく、あまりこだわる部分でもありません。
そしてこれ以降の夏さんの証言は、「上の姉15歳、下の姉13歳」ということで、一部を除き概ね一致しています。
夏淑琴さんの証言より
本多勝一氏『南京への道』より
夏淑琴さん(五七)は当時七歳だった。九人家族は労働者の父(当時四〇歳、以下年齢はいずれも当時)を中心に、
母(四〇)、長姉(一五)、次姉(一三)、妹(四)、末妹(生後数カ月の乳児)のほか、母方の祖父母(いずれも六〇代)がいた。つまり子供は女ばかりの五人姉妹である。
(文庫版 P197) |
『南京大虐殺と原爆』より夏さんの講演
上の姉は当時十五歳、二番日の姉は十三歳でした。
(同書 P16) |
早乙女勝元氏『南京からの手紙』より
その父を中心にして、母と、十五歳の上の姉、十二歳の下の姉、そして私、四歳の妹、生まれてまだ数ヵ月しかたっていない末の妹と、女ばかりの五人姉妹です。
(同書 P77)
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落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より
われわれがかぶっていたふとんがはがされ、十五歳の一番上の姉がまずベッドから引きずり出されて着ていた服を全部はがされました。
そしてベッドのそばにあったちょっと低い机の上で強姦したのです。二番目の姉は十三歳だったのですが、やはり衣服を脱がされてベッドの上で犯されました。
(同書 P114)
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星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より
家族は、父(四〇歳)・母(四〇歳)・長姉 (一五歳)・次姉(一三歳)・長妹(四歳)・末妹(乳児)のほかに、母方の祖父母も合わせて九人だった
(年齢はおおよそ)。
(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153)
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笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より
一九三七年に父が殺された時は、三〇歳から四〇歳の間でした。当時私はまだ小さかったので、はっきりした年齢はわかりません。父は痩せていて背が高かった。
母は背の小さい人でしたが、母の年齢については分かりません。
私には二人の姉がいて、当時、上が一五歳、下が一三歳でした。私にはさらに四歳の妹がいました。さらに日本軍に殺害された満一歳にならない妹が一人いました。
(同書 P133) |
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こちらの方は、マギーの記録にある年齢をそのまま述べたのではないでしょうか。
叔母さんは「20歳、18歳」と言っていたが、考えてみれば、そんなに上ではなかったような気がする。 むしろ当時のマギーの記録の方が自分の「感覚」に近い。以上は私の想像になりますが、その程度の話ではないか、と考えておけば済む話でしょう。
なお星勝氏の記録では、「年齢はおおよそ」という記述が見られます。
「年齢」については、正確なところは誰にもわからず、星氏の記述どおり「おおよそ」のものであると捉えておくのが、最も妥当であると思われます。
*2006.7.30追記 このコンテンツを作成した時点では見逃していたのですが、夏さんは、笠原氏の上の聴取記録に続けて、
「いま話したような家族の状況は、私はまだ小さかったので、叔母が話してくれたのを聞いたのです」
との発言を行っていました。
従って、揺れ動いたのは「叔母」の認識であり、「叔母」は当初は昔の曖昧な記憶に頼って「20歳、18歳」と言っていたが、その後マギーの記録に触れて「15歳、13歳」と認識を修正した、と見るのが妥当でしょう。
夏さんは自分では姉の年齢はよくわからず、叔母の認識通りに語っていたのであると思われます。
さて、東中野氏の記述に戻ります。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
自分を基準に考えると、これほどの差は出ないはずである。しかも自ら名乗り出てきての証言であり、証言する前に事前に準備ができていたから、
これが思い違いであったという言い訳は通用しない。
決して変わることのない事実を、一人の人間がこのように変えて証言するということは、証言それ自体を疑わせることになるだろう。
(『SAPIO』2001年8月8日号 P28)
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たかが「姉の年齢の相違」などという細かい問題を捉えて、ここまで執拗な記述を行う東中野氏の感覚には、違和感を感じざるをえません。
「そもそも「姉の年齢」は「おおよそ」のものであり、夏さん自身、よくわかっていない」という一番自然な解釈を、なぜ東中野氏はとらないのか。
この記述はもう、「揚げ足取り」でしかないでしょう。
ついでですが、「事前に準備ができていた」のであれば、初めからマギーの記録通りの証言を行うものであると思います。
さて、最後に東中野氏は、「犯行時刻には日本軍兵士は現場に存在しえなかった」という「論」を展開します。
ここで東中野氏は、「アリバイ」という強烈な言葉を使ってしまいました。「アリバイ」とまで書く以上は、
1.「犯行時刻」が具体的に確定していること、
2.その「犯行時刻」に、「犯人」と目される人物が、犯行現場に物理的に存在しえないこと、
は最低限の要件となると思います。
「犯行時刻」は幼い夏さんの曖昧な記憶によるものでしかなく(それも何十年も後の「回想」です)、
また、「何万人になるかわからない日本兵の行動」を個々に把握することなど不可能であることを考えれば、「アリバイ」なるものを証明することは一見困難なことであるように思われます。
ともかく、東中野氏の文章を見ていきましょう。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
日本軍にはアリバイがある!
当時のマギ
ーの記事には、「12月13日、約30人の兵士が南京の東南部の新路口五の中国人の家にきて、中に入れるよう要求した」とある。
それから惨殺事件が繰り広げられたとマギーは言うのであるが、その時刻がマギーのどの記録にも書かれていなかった。
ところが夏淑琴氏は本多勝一著『南京への道』のなかで犯行時間は「朝9時ごろ」と証言している。
また1994年の証言でも「冬の朝」と証言している。
事件の現場は「新路口」という点で一致していた。「新路口」は夏淑琴氏の証言によれば「中華門の内」であった。マギーの証言でも「南門の内側」であっ
った。
では、12月13日の朝9時頃「中華門の内側」に日本軍はいたのか。
中華門は日本軍が進撃してくる前から激戦地となることが予想されていた。12月8日、支那軍司令官・唐生智の避難命令が出て、事実上全ての市民が城内の安全地帯に避難していた。
夏淑琴氏の家の付近の何家族かがこの危険地域に残っていたとは大いなる疑問だが、ここでは不問に付すとして、問題は日本軍の動向である。
中華門の攻撃を担当したのは宇都宮第114師団と熊本第6師団であった。
日本軍の南門(中華門)完全占領は11時半であった。
西沢弁吉著『われらの大陸戦記−
歩兵第六六連隊第三中隊の歩み』(1972年)は「突撃隊はつぎからつぎと同じ動作をくり返し全員が城壁の一部を占領、13日午前10時日章旗をふって万歳を叫んだ。
66連隊旗は突撃隊より遅れて午前11時35分山田連隊長と
共に(中略)中華門の城壁上にひるがえった」と記している。
第114師団の歩兵第66連隊命令は「連隊ハ十三日午前十一時三十分南京南門ヲ奪取」と明記している。
第6師団の歩兵47連隊第2中隊の陣中日記は12月13日「連隊ハ主力ヲ以テ一二・〇〇城壁ノ線出発」と記す。
すなわち13日の正午ごろ南門付近の日本軍は初めて城壁の線を出発して城壁の内部に入ったのである
(なお光華門その他から入った部隊が役割分担を無視して中華門の内側に来たという事例は指摘されていない)。
13日午前「9時」ごろ日本軍の両師団は南門(中華門)の完全占領に必死で「南門の外」にいたのである。
日本軍にはアリバイがあり、夏淑琴氏の言う「9時」ごろには殺人現場にいなかった。
夏淑琴氏が自らを当時マギーに証言した「少女C」だと主張するのであれば、「少女C」なる夏淑琴氏の言う事件の犯人は、日本軍ではなかったことになる。
当時マギーに証言した「少女C」の証言が正しいと主張するのであれば、その証言内容と夏淑琴氏のそれとが全く違うから、被女はあの「少女C」とは別人だと認めざるを得ないのである。
証言からウソは断固排除せねばならない。そのように検証して初めて、全ての人々の人権と名誉も守られるのである。
(『SAPIO』2001年8月8日号 P28)
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さて、まずは「犯行時刻」です。常識的に考えても、当時8歳の夏さんが、50年以上前の「犯行時刻」を正確に記憶していると考えること自体、無理のあることであるように思えますが、
とりあえずは、夏さんが証言する「犯行時刻」を見ていきましょう。
夏淑琴さんの証言より
落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より
一九三七年十二月十三日の午前九時か十時頃だったと思います。当時、中華門のそばに住んでいた私の家に大勢の日本兵が入ってきたんです。
(同書 P114)
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星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より
一二月一三日(南京陥落の日)の朝九時ごろ、夏さん一家の朝食がすんで、それぞれの家事をしていた。
(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P148)
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早乙女勝元氏『南京からの手紙』より
十三日の昼近くだった、とおぽえています。
(同書 P77)
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南京大虐殺と原爆』より夏さんの講演
一九三七年十二月十三日の冬の朝、大勢の日本軍が私の家にやってきました。
(同書 P15) |
笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より
一九三七年一二月一三日、午前一〇時ごろ、私の家では、姉が米を洗い、野菜を洗い終わって、これから昼食の支度にかかるところでした。
(同書 P134) |
*なお、当時マギーらが残した記録は、すべて「日付」までとなっており、時間帯を特定する記述はありません。
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以上、夏さんの証言は、「朝9時」もしくは「9時か10時」とするものが多いのですが、なかには早乙女氏の聴取のように「昼近く」と語っているケースもあります。その時の状況も、「朝食がすんでそれぞれの家事をしていた」り、「これから昼食の支度にかかるところ」であったり、必ずしも一定しません。
「時刻」や「直前の状況」についての夏さんの記憶は、かなりあやふやなものであることが伺えます。
こんな中で、夏さんの「証言」だけを頼りに「犯行時刻」を「9時」(もしくは10時)と断定することには、無理があるものと思われます。
それでもおおまかに、「午前中」である、ということは言えるかもしれません。さて、この時間内に日本軍が夏さんの家附近に達する可能性が全くなかったのかどうか。次に、日本軍の動きに目を転じましょう。
まず、問題の「中華門」の占領は、12月13日午前3時30分であった、と伝えられます。(資料により差異はありますが、ここでは、最も権威ある『南京戦史』の記述をとります)
『南京戦史』より
歩兵第十三聯隊は、中華門に至る橋梁が破壊されていて午後に至っても外濠を渡ることができない。
第一大隊(大隊長・十時和彦中佐)配属の工兵第二中隊の軽渡橋架設特別班が、外濠に仮橋を架設したのは十二日十四時三十分である。
ようやく攻撃路が出来て、まず城門爆破の工兵特別班が橋を渡り、続いて第二中隊がこれを渡って城壁にたどりつき、工兵の爆破作業によって城門左側城壁の突撃路を補足して城壁を登ったのは十三日一時である。
工兵隊が土嚢を除去して城門を開放したのは三時三十分であった。
(P219)
|
日本軍は、13日未明には、「中華門」をはじめとする南京城の各城門の制圧を終えていました。この時点では中国軍の組織的抵抗は終焉しており、城内は事実上の「軍事的空白地帯」と化しています。
東中野氏の言うように、「9時ごろ」の段階でもなお「南門の完全占領に必死」だったはずはありません。
すべての部隊の「戦闘詳報」が揃っているわけでもありませんし、「公式の記録」には残らなくても、夏さんの言う「朝9時から10時」の時点ですら、
小部隊が他の部隊に先行して城内に進入した可能性まで否定しきることはできないでしょう。
記録では、城内掃蕩の開始は、「10時10分」と伝えられます。
『南京戦史』より
十二日払暁から攻撃前進を起こした歩兵第二十三聯隊は、九時概ね城壁の南四百㍍の線に進出した。聯隊長は第二大隊に城壁の攻撃を命じた。
(中略)
聯隊長は第三大隊に、第二大隊を超越して城壁の占領を命じ、十四時四十分第九中隊(長肥後大尉)が突撃路を上って西南突角の城壁を占領した。
城壁脚で第三大隊が第二大隊を超越する際混淆したが、第二大隊も第三大隊に続いて突撃路を上り城壁を占領した。
夜に入って牛島師団長は城壁上から南側に下り、歩兵第二十三聯隊長は第九中隊を城壁上に残して敵の逆襲に備え、主力を城壁南側地区に集結して十三日の攻撃を準備した。(P220)
南京城壁西南角を占領した後、水西門の占領任務を有する牛島第三十六旅団長は、十三日歩兵第二十三聯隊に水西門の攻撃を命じた。
水西門は城西の主要な城門で、 十三日八時、歩二三は城壁西南突角の破壊口を通って城内に入りその西南隅に集結した後、十時十分、第三大隊は城壁に沿う地区を、第二大隊はその東を北進した。(P222) |
ご覧の通り、東中野氏の「すなわち13日の正午ごろ南門付近の日本軍は初めて城壁の線を出発して城壁の内部に入ったのである」という記述は、
『南京戦史』によって完全に否定されています。
これらの部隊が実際に現場附近を通りかかったかどうかまではわかりませんが、少なくとも十時半から十一時頃までには、「現場」に到達することも十分に可能なはずです。
夏さんの記憶による「犯行時間」が「9時か10時」で、部隊の現場への到達可能時間が「10時半から11時」であるのならば、十分に「誤差の範囲」ということができるでしょう。
少なくともこの部隊については「アリバイ」は成立しない、と考えるのが妥当であると思われます。
さらに、南京城南東側の「光華門」から「十時ごろ」に進入した部隊もありました。
『南京戦史』より
その後、十一、十二日にわたり、戦果の拡張につとめたが奏功せず十二日、軍砲兵による城壁破壊射撃の成果を利用して突入を準備中、敵が退却を開始したので、
十三日午前六時ごろ光華門両側の城壁を完全に占領した。
右翼隊(歩兵第六旅団)は、十一日概ね中山門東方五百㍍の稜線から、工兵学校クリーク(護城河)の線に進出したが水濠に阻まれた。
十二日、軍砲兵が城壁に破壊口を概成して突撃を準備したが、夜半中国兵が退却したため、十三日六時ごろ、中山門南側の城壁を占領した。
こうして、十三日午前八時ごろまでには、師団の全正面にわたり、城壁に部隊を進めることができた。その後、右翼隊(第六旅団)主力をもって城内掃蕩に任じたが、
左翼隊の歩兵第十九聯隊は十時ごろ光華門から城内に進入し、東南部を掃蕩して通済門西側地区に兵力を集結した。
(P172)
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この部隊は、残された記録を見る限りでは中華門付近は通過しなかったようですが、「現場に到達できた可能性」ということだけを問題にするのであれば、この部隊にもまた「アリバイ」は存在しないことになります。
さて、東中野氏の文章を読んだ方は、日本軍の城内進入は正午ころであったのではないか、という印象を受けると思います。以下では、東中野氏の挙げる資料を、検討していきましょう。
まずは、歩兵第66聯隊です。東中野氏の記述を、再掲します。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
日本軍の南門(中華門)完全占領は11時半であった。
西沢弁吉著『われらの大陸戦記−
歩兵第六六連隊第三中隊の歩み』(1972年)は「突撃隊はつぎからつぎと同じ動作をくり返し全員が城壁の一部を占領、13日午前10時日章旗をふって万歳を叫んだ。
66連隊旗は突撃隊より遅れて午前11時35分山田連隊長と
共に(中略)中華門の城壁上にひるがえった」と記している。
第114師団の歩兵第66連隊命令は「連隊ハ十三日午前十一時三十分南京南門ヲ奪取」と明記している。
(『SAPIO』2001年8月8日号 P28)
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以下、歩兵第66聯隊の『戦闘詳報』を紹介しますが、西沢氏の「回顧」はどうやら「戦闘詳報」をもとにしたものであるようです。
『歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』』より
十二月十三日
五、午前七時〇分予定の如く行動を起し機関銃を斉射して聯隊主力の城門進入を援護すると同時に当面の掃蕩を開始す 午前七時四十分頃日の出を見るや全軍一斉に立ち上り万歳を唱へ遥かに皇居を遥拝し感激にひたる
掃蕩愈々進捗するに伴ひ投降するもの続出し午前九時頃迄に三百余名を得砲弾は盛に城内に命中するを見る
六、午前十時遥に破壊されたる南門城壁上に日の丸の揚るを認め聯隊主力の南京城入城せるを知り全員は隊長の音頭を以て感激の万歳を三唱し皇居を遥拝す
(『南京戦史資料集』(旧版) P672)
十、午後十時〇分左記聯隊命令を受く
歩六六作命第八十六号
歩兵第六十六聯隊命令 十二月十三日午後九時零分 於南京南門北方千五百聯隊本部
イ 南京を死守せし敵は我聯隊の猛攻に依り捕虜千数百名を残し本十三日午前十一時三十五分南京南門を奪取し次て掃蕩隊をして指定区域を掃蕩し
残敵約百名を斃し南京を明朗化せり 尚鹵獲兵器弾薬物資数多得たり
(同 P674) |
しかし、この「戦闘詳報」に記載されている時刻は、一般的な戦況から考えて、明らかに遅すぎます。だいたい、午前十時段階で「聯隊主力」が中華門を通って南京に「入城」しているのに、「南門」の「奪取」を「午前十一時三十五分」と記述するのも、ちょっと変です。
例えば鵜飼氏なども、この『戦闘詳報』の正確さには疑問を呈しています。
『南京戦史』より
この歩六六第一大隊の掃蕩命令に関し、鵜飼敏定氏(第六師団通信隊小隊長)は次のように回想している。
私は中華門西方付近にいたが、十三日午前七時頃、第六師団の右翼隊右第一線たる歩兵第十三聯隊は、
十二日の夜間作業によって工兵隊の架設した橋(中華門西側至近距離にあった)を渡ってすでに城内に進入していた。
従って「大隊命令」にあるような砲兵の城壁破壊射撃は実際には行われなかったはずである。
(P213)
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他の資料との整合性から考えても、ここは鵜飼氏の認識が正しい、と見るべきであると思います。
次に、「歩兵第47聯隊」です。
東中野修道氏『私を訴えた南京事件"虚殺"目撃者こそ"虚構の産物"だ』より
第6師団の歩兵47連隊第2中隊の陣中日記は12月13日「連隊ハ主力ヲ以テ一二・〇〇城壁ノ線出発」と記す。
(『SAPIO』2001年8月8日号 P28) |
ちょっと考えても、「歩兵第47聯隊」の「主力」が「12:00」に「城壁の線」を「出発」したとしても、すべての聯隊がそうだったとは限りません。
これだけを材料に、「47連隊」の行動が最も早かった、と見なすことには無理があります。
さて、実際にこの「陣中日記」を見てみましょう。
『歩兵第四十七聯隊第二中隊陣中日誌』より
十二月十三日 晴天 南京城南門附近
一、国民政府首都南京城も遂に陥落し霜天高く日章旗各城門に翻へり万歳の声は各所に百雷の如くなり。
Ⅰ 作命一三九第一大隊命令 十二月十三日 一二・三〇 於南門西北城壁上
一、聯隊第一線北側市街には大なる敵なきものの如く、第百十四師団及第二十三聯隊は市街の掃蕩を開始しつつあり
聯隊は主力を以て一二・〇〇城壁の線出発、城壁「シカンセン」高地に亘る市街の掃蕩を実施す
第三大隊は一二・〇〇城壁の線出発「シカンセン」東南側市街の掃蕩に任し、其一部を以て「シカンセン」高地を占領す
(以下略)
(『南京戦史資料集Ⅱ』 P400)
|
ここに書いてあるのは、自分の部隊の行動がそうであった、ということに過ぎません。
ここに「第二十三聯隊」の文字が見られますが、既に見た通り、『南京戦史』によれば、「第二十三聯隊」の掃蕩開始は10時10分でした。
要するに、東中野氏は、
1.夏さん記憶の曖昧さを逆用して、「9時」「朝」を疑問の余地のない「犯行時刻」と断定し、
2.日本軍については、信頼できるデータであるかどうか、ということは無視して、ともかく記録に残る最も遅い時刻を「進入時刻」と断定し、
この両者を比較して、無理やり「アリバイ」の成立を宣言しているわけです。
2007.11.10追記
その後東中野氏側は、夏淑琴さん名誉毀損裁判の中で、この「アリバイ」が成立しないことを認めました。平成19年7月23日付、被告側(東中野氏側)準備書面(第7)からです。
日本軍第114師団の歩兵第115連隊第二大隊は、同月13日午前8時に雨花門から入城した。
その後、同大隊は敗残兵に対する掃蕩を行いながら北上前進し、新路口付近を通過して、午前10時ころ雨花門の北方約1200メートルの所にある法院庁舎に至っている。
|
東中野氏側は、これに続けて、この部隊が本当にそんなことをするだろうか、と問題をすりかえてしまいましたが、ともかくもこの点については東中野氏側の「全面敗北」に終わった形です。
最後に、笠原十九司氏の東中野氏に対する批判を紹介します。
笠原十九司氏『南京事件と日本人』より
歴史学的方法からすれば、南京事件に関する史料や証言のなかには、玉石混淆にさまざまな内容があり、中には不正確のもの、あるいは誤ったものもあり、同一人物の証言でありながら、
記録者や掲載文献によっては証言内容の細部に齟齬や矛盾があるものもある。
歴史学ではそれらの雑多な史料に厳密な史料批判を加えて、信憑性の高い史料を選別して用いる一方、不正確にみえる史料であっても、それらを照合し、
不正確な部分あるいは明らかに誤っている内容を除去し、全体の関連性を検討しながら、歴史事実を裏付けている部分を抽出するなどして、種々雑多な史料を総合的に用いることによって歴史像を構成し、
こういう歴史事件があったと証明していくのである。
(同書 P185)
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笠原十九司氏『南京事件と日本人』より
東中野の夏淑琴証言否定の方法は、「被害者の証言一点でも不明瞭、不合理があれば信憑性がない」という前述した非歴史学的な発想にもとづいている。
夏淑琴の家族の被害状況を記録した資料、文献や彼女の証言記録をいくつか比較して、殺害された家族の人数が一一人と一三人と違っている、共に生き残った妹の年齢が四歳とされたり、
三歳あるいは四歳とされて曖昧であるなど、微妙な違いを摘出して、「夏淑琴が事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起こるはずもなかった」と決めつける(二四八頁)。
東中野は夏淑琴が直接に記録した証言ではなく、事件当時マギー牧師やローゼン外交官が記録したものや、現在、集会における彼女の証言を他人が記録したものを取り上げて比較し、
その証言内容に「一点の食い違いがあってもならない」としている。
歴史学の方法からすれば、この程度の数の相違は事実認定のうえで、ほとんど問題にならない。
いずれの史料、証言記録からも、二家族で十数人が殺害されたこと、八歳の少女夏淑琴とさらに幼少の妹の二人が辛うじて生き残ったこと、という基本事実が符合しているのである。
東中野が引用している本多勝一『南京への道』(朝日文庫)には、本多が夏淑琴から聞き取りをした際に、彼女の背中に残る銃剣の傷痕を撮影した写真も掲載され、さらに、家の間取り
、家族それぞれの死体の場所が分かりやすく図示されており、東中野が疑問、不審点にあげた問題を氷解させる回答になっている。
東中野は前掲の座談会において、「ニセ証人」と書かれたことに深い傷を受けて提訴した夏淑琴に対して
「『南京虐殺」の真実を示したいのであれば、訴えるのではなく、色々な疑問に答えるのが先決ではないでしょうか」と発言している。
東中野の疑問は、夏淑琴が「ニセ証人」であるという妄想的な思い込みに立って出されたものであるから、たとえ彼女が答えても、その中からさらに新たな否定材料を見つけて否定しつづけるであろう。
(同書 P192〜P193)
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(2006.7.22)
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