平気で嘘をつく人?

「発信する会」ラーベ批判を検証する


 1937年12月。日本軍が間近に迫る中華民国の首都南京に、十数名の外国人が残留しました。

 彼らの目的は、残った民間人を戦禍から守ることでした。「安全区国際委員会」を設立し、人々を安全区に集め、日本軍の南京占領が平和裡に行なわれるよう、中国政府・中国軍とも数々の交渉を重ねました。そして日本軍の占領後は、日本軍のあまりの暴虐ぶりに驚きつつ、必死に民間人を守る活動を行ないました。

 彼らは多くの記録を残しましたが、日夜違わない超人的な活動ぶりには驚かされます。その記録を素直に読めば、彼らの献身の動機が、「反日」などというセコいものではなく、純粋なヒューマニズムから来るものであったことは明らかでしょう。なかにはベイツのように、家族を日本に住まわせ、子息を日本の学校に通わせていた「親日家」もいました。


 しかし今日の日本には、彼らの「南京アトローシティ」告発を逆恨みしてか、そんな彼らの活動をあえて貶めようとする人々が存在します。そのサンプルとして、「史実を世界に発信する会」のブログを取り上げてみましょう。




 ブログは、いくつかの資料を並べつつ、「「転々と横たわる砲爆撃の犠牲者」(戦死体)の話が、いつの間にか「無差別の市民殺害」へとすり替わっ」た、と主張します。


「大虐殺派」が資料集からカットしている英文資料を見ると、「市民虐殺」の噂が生産されていく露骨な過程を見て取ることができます。

「転々と横たわる砲爆撃の犠牲者」(戦死体)の話が、いつの間にか「無差別の市民殺害」へとすり替わっていきます。まさに典型的な「伝言ゲーム」なのでその様子をご紹介します。

12月11日:日本軍入城の2日前(マギー)
昨日(12月11日土曜日)、私は鼓楼病院の救急車でキャピトル劇場の応急手当室へ何人かの負傷兵を連れてゆきました。私の到着直前に、大きな砲弾が道に落ちて11人が死亡しました。(中略)
大学内の中学校を過ぎて Hua Chung Road へ着く前に、沢山の死体が道に横たわっているのを見たのです。1軒の家が砲弾に直撃され、20人近い人々が死亡しました。7、8名が道に投げ出されていました。顔面に大きな穴のあいた33歳の息子の死体があり、傍らで可哀想な老夫婦が悲嘆にくれていました。
彼等はただ悲しむだけでした。沢山の人々が物珍しそうに廻りにたっていたので、直ちに立ち去り身を隠すように言ってやりました。支那の群衆はこのようなことに誠に無知です。
いつ他の砲弾が飛んでくるか危険なのです。

12月12日(フォースター)
城門は軍用以外は事実上閉じられています。日本軍はまだ市の外です。
(中略)私は、最もよいのは支那軍が出来るだけ早く撤退して、日本軍が静かにそのあとを引き継ぐことだと思っています。一昨日、何発かの砲弾が新街口近くの中山路に落下しました。15人の死者が出たのです。昨日も9人の死体が路上に横たわっていました。買物籠を持ち幼い女の子を連れた老女、屋台を運んでいた中年の男性、1人の兵士、1人の少年や三十歳代の一人男性などです。即死は幸運で負傷は悲惨です。昨日、11日コーラと私は、何か手助けにならないかと鼓楼病院へ自転車を走らせました。私達は路上に負傷兵を見付け、救急車の手配をしました。空襲は続いており、飛行機は市の南部を攻撃していました。数ケ所で大災が発生していました。

12月13日(日本軍が入城した日:スマイス)
 我々は上海路を南下していったが、日本軍は見なかった。神学院の近くで、約20人の市民の死体を見出した。[あとから聞いたところでは、彼等は走ったために日本軍に殺されたということだった。これはこの日の恐ろしい話で、走った者は誰でも殺されたり傷つけられたりしたのだ。我々は指示していたのに、人々には届いていなかった。(この部分は12月20日の追記)]しかしながら道路上では、1人の日本兵が銃を背にして、何ごとも無かったように自転車に乗って走っていた。我々は彼を呼び止めて尋ねたところ、将校は新街口近くの漢中路で見付けられるだろうと言った。確かに、約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、その反対側では沢山の支那人の群衆が彼等を眺めていた。私達は将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書き入れた(彼の地図には安全区は示されていなかった)。彼は、日本兵を攻撃する者がいない限り病院は大丈夫だと言った。

*強調部は「ゆう」によるものです。

*「ゆう」注 最初の「大虐殺派」が資料集からカットしている」というのは、明らかな間違いです。外国人の記録を集めた"EYEWITNESS TO MASSACRE"は「南京事件」に関心を持つ方でしたら大抵は持っている有名な本ですし、部分訳はあちこちに見ることができます。あまりいい訳とはいえませんが、「この事実を・・・②」という題名で、邦訳も出ています


 マギー、フォースターが見た「砲爆撃の犠牲者」を、スマイスは「無差別の市民殺害」の犠牲者であると誤認した、というわけです。

 そしてブログは、この「伝言ゲーム」の「犯人」は、スマイスと同行して共に死体を目撃したラーベである、と決め付けます。


【前回のおさらい】
ラーベが見たという「上海路の20体の死体」は、実は日本軍入城以前の12日の段階でマギーとフォースターにも目撃されていた「砲爆撃の犠牲者」であった。(地図を見ればドンピシャであることがお分かり頂けると思います)

そして、ラーベと同道したスマイスも同じ死体を見ているが、日本軍に射殺されたとは考えていなかった。
…にもかかわらず、ラーベは「市民の死体を調べたら、背中を撃たれていた」「100〜200mごとに市民の死体が転がっている」と、見てきたような嘘をついた。

【今回のテーマ】
ラーベはなぜ「市民が日本軍に射殺されている」というデマを言いふらしたのか?

【分析】
実は、ラーベは日本軍が入城する前から、南京の住民に対して「外を出歩いたら日本軍に機関銃で射殺される」という噂を大真面目で宣伝しようとしており、彼がデマを流したのはこの「自説」を撤回したくなかったからだと思われます。

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(13日スマイス)
私はミルズや他の人々と、今の緊急事態に人々が為すべきことを示した大至急の印刷の指示の仕事を始めた。ラーベは日本軍が路上で機関銃を準備するだろうと考えたので、我々は人々に隠れるように言った。この言葉は我々の家屋部を通して伝えられ、のちにはチラシによることになった。
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(20日スマイス加筆)
あとから聞いたところでは、彼等は走ったために日本軍に殺されたということだった。これはこの日の恐ろしい話で、走った者は誰でも殺されたり傷つけられたりしたのだ。我々は指示していたのに、人々には届いていなかった。
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つまり反日家のラーベは、「外を出歩いたら機関銃で撃たれるぞ」と街中に言いふらして「難民の保護者」面をしていたわけですが、実際には入城部隊は大人しく、市民も先遣隊に群がって見物しているような有様で、ラーベが密かに期待した光景は出現しませんでした。

引っ込みがつかなくなったラーベは、たまたま目にした上海路の死体を「逃げようとして日本軍に射殺された」ということにして面目を保ちたかったのでしょう。

 全く他の資料に当たらずにこの文を読んでも、この粗雑な「論理」にはすぐにいくつかの疑問が生じることと思います。

 「砲撃」は11日、スマイスが死体を目撃したのは13日。安全区のメインストリートである上海路で、2日間も死体が放置されていたのか? マギーは死体の数を「7、8名」、フォースターは「9名」と書いているが、それがどうして「20名」に膨らんでしまったのか? 当時は外国人同士で緊密な情報交換を行なっていたはずなのに、どうして「11日の砲撃による死体」の情報がラーベ・スマイスに伝わらなかったのか? スマイスは「砲撃による死体」と「銃撃により背中から撃たれた死体」の区別もつかなかったのか?

 ブログは当然、このような「疑問」をすべて無視します。


 しかし、この珍説の致命的な弱点は、マギー、フォースター、ラーベそれぞれが目撃した「死体」の場所を「ドンピシャ」同一であると思い込んでいることです。以下、見ていきましょう。




 まず、スマイス、ラーベが目撃した死体の場所です。(読みやすいように拙訳をつけましたが、参考程度としてください。以下の訳も同じです)

スマイスの手紙


Monday morning, Dec. 13th
(略)
At the office we decided Rabe and I must contact the Japanese at once. So we got Cola, who could speak some Japanese, and started out to explain three things to them― as high an officer as we could find: The Zone, the new Red Cross Committee, and the fact there were some disarmed soldiers that had entered the Zone.

(中略)

We went down Shanghai Road and found no Japanese soldiers on Kwangchow Road. Near the Seminary we found a number of dead civilians, about 20, whom we later learned had been killed by the Japanese because they ran. That was the terrible tale that day, any one who ran was shot, and either killed or wounded. Our instructions were off, but had not reached the people! But among that street we found a Japanese soldier, riding nonchalantly along on a bycycle with rifle strapped over his back. We hailed him, and he told us we would find an officer on Han Chung Lu near Sing Kao Ko. Sure enough we found a detachment of about 100 men sitting on the south side of the road, and a large group of Chinese civilians on the opposite side looking at them. We tried to explain to the officer the Zone and drew it on his map of Nanking, note it was not on his map. He said the Hospital would be all right if there was no one in there that shot at the Japanese. About the disarmed soldiers he could not say.

"EYEWITNESS TO MASSACRE" P255〜P256


(「ゆう」訳)

12月13日 月曜日朝
(略)
 事務所で、ラーベと私が一刻も早く日本軍と接触しなければならない、と決まった。そこで、日本語を少し話せるコーラを伴ない、可能な限り上級の将校に対して、以下の3つの事項を説明するために出発した。すなわち、安全区のこと、赤十字のこと、そして、安全区には武装解除されたいくらかの兵士たちが存在すること、である。

(略)

 我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、逃げ出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、逃げ出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示(訳注.避難勧告)は、人々に届かなかったのだ!

 しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを背負い、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。

 はたして我々は、約100名の部隊が通りの南側に腰掛けているのを発見した。中国市民の大集団が通りの反対側から彼らを見ていた。我々は将校に安全地帯のことを説明しようと試み、彼が持つ南京の地図に記入した。(彼の地図にその表示がなかったことに注意されたし)  彼は、そこに日本軍を狙撃する者がいない限り、病院のことは心配するに及ばない、と言った。武装解除された兵士については彼は何も言えなかった。

2010.10.17  Stiffmuscleさんより、"run"は「逃げる」と訳すことが妥当であるなど、いくつか翻訳ミスの指摘をいただきましたので、修正しました。以下の翻訳も同様です。


ジョン・ラーベ日記 

12月13日


 We drive very cautiously down the main street. There's a danger you may drive over one of the hand grenades lying about and be blown sky-high. We turn onto Shanghai Lu, where several dead civilians are lying, and drive on toward the advancing Japanese.

("The GOOD MAN of NANKING"P66)


 我々は、たいへん用心してメインストリートを進んでいった。手榴弾がころがっており、踏みつけると空に吹き飛ばされる危険があったからだ。我々は上海路に曲がり、そこでいくつかの市民の死体を見つけ、そして前進してくる日本軍へ向けて車を走らせた。

*「ゆう」注 「南京の真実」の訳は間違いだらけですので、英語版より翻訳しなおしました。なお、ラーベ日記のこの日の部分は時間軸に混乱が見られますが、細かい話になりますのでここでは省略します。「死体」が「上海路」にあった、ということだけをご記憶ください。


 スマイスは、上海路を下り、「神学校」(Seminary)の近くで死体を目撃しました。ラーベもまた、「上海路」と明記しています。のちに触れるフィッチの記録と合わせると、死体の場所は、「上海路と漢中路の交点、上海路をやや安全区側(北側)に入ったところ」と断定して差し支えないでしょう。

 「昭和12年7月 軍令部 新南京市実測詳図」で見ると、ちょうど上海路と漢中路の交点、西北(左上)に「金陵神学院」がありますので、「Seminary」の近く、というスマイスの記述とも一致します。(普通の地図では、もう少し北側の、道の右側(東側)に「金陵神学院」があります。あるいはこちらは、「分館」だったのかもしれません)



 次に、マギーが目撃した死体の場所です。

 
『マギー 夫人への手紙』より


 Then yesterday (Saturday, Dec. 11th) I took some wounded soldiers in the Drum Tower ambulance to a dressing station for wounded soldiers in the Capitol Theatre. Just before I arrived a large shell had fallen in the street and killed about 11 people. Two motor cars were burning immediately opposite the Capltol Theatre in front of the Fu Chang Hotel.

I got rid of my wounded soldiers just as the Japanese bombers came overhead and when the anti-aircraft guns near at hand were firing very hard.

We got out of that place as soon as possible and went back to the hospital. Soon some people came saying a number of people had been wounded inside the neutral zone. We took the ambulance and this time went down a back street also taking the Ford.

After passing the University Middle School and before we arrived at Hua Chung Road we saw a number of dead bodies lying in the road. A house had been hit by a shell and close to 20 people killed, 7 or 8 of them being hurled into the street.

A poor old couple were simply frantic as their son, aged 33, was lying dead with a huge hole in the front of his face. They were simply beside themselves with grief. Great crowds were standing around out of curiosity and I told them to leave immediately and get behind something. The masses in China are certainly unintelligent about such things. There was danger that another shell might arrive at any moment.


(「ゆう」試訳)

 そして昨日(12月11日、土曜日)、私は鼓楼病院の救護車にいた何人かの負傷兵を、首都劇場にある負傷兵用の前線救護所へ連れていった。私が到着する直前、大きな砲弾が通りに落ち、およそ11名の人々が殺された。2台の自動車が、福昌飯店の正面にある首都劇場のすぐむこう側で燃えていた。負傷兵を降ろし終わったとたんに、日本の爆撃機が頭上を飛んでいって、近くの高射砲が猛烈に火を吹いた。我々は、できるだけ急いでその場を離れ、病院へ戻った。

 まもなく何人かの人が、多くの人々が中立地帯内で負傷した、と言いにきた。我々は救護車に乗り、さらにフォードにも乗って、今度は裏通りを下っていった。

 金陵大学付属中学(the University Middle School)を過ぎてHua Chung Roadに着く前、我々は多くの死体が道に横たわっているのを見た。家に砲弾が命中し、20人近い人々が殺され、そのうち7人か8人は通りに投げ出されていた。

 哀れな老夫婦は、33歳の息子が顔の正面に穴が空いて死んで横たわっているのを見て、半狂乱になっていた。彼らは悲しみで我を忘れていた。多くの群集が好奇心から回りを取り囲んでいたが、私は彼らに、すぐにその場を離れて何かの後ろに隠れるように言った。中国の大衆はこのようなことには全く知識を持たない。いつ他の砲弾が襲ってこないとも限らないのに。




 この砲撃については、ラーベも記録を残しています。


ラーベ『南京の真実』より

十二月十一日 九時

 ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者十三人。

(『南京の真実』P97-P98)

*英文では、"at the middle school"となっています。

 マギーのいう"Hua Chung Road"は、文字通り訳せば「華中路」となりますが(通常、"Hua"は「華」に、"Chung"は「中」に対応します)、そのような名の通りは南京にはありません。おそらくは「金陵大学付属中学」のすぐ南にある、「華僑路」の誤記であろう、と推定されます。

*文字だけを見ると「漢中路」(Hun Chung Road)とも似てはいますが、ラーベが"at the middle school"と場所をピンポイントで明示していること、マギーの「・・・を過ぎて・・・に着く前」という書きぶりから可能な限り場所を特定したい意向が伺えること、から、中学校のすぐ南の「華僑路」と解釈しておくのが自然でしょう。なお、無理やり「漢中路」と読んだとしても、ラーベ・スマイスの死体目撃地点とは到底一致しえません。


 「裏通り」が「中学」の東側か西側かは判然としませんが、とりあえずは道をまっすぐに進んだ東側と見ましょう。それぞれの場所は、次の地図の通りとなります。

安全区南部の地図



 左は「昭和12年7月 軍令部 新南京市実測詳図」、右は「ドイツ外交官が見た南京事件」P42の地図。①がマギーが目撃した「砲撃による死体」の場所(金陵中学付近)、②がラーベ・スマイスが目撃した死体の場所(金陵神学校付近)です。

 文章の解釈によってそれぞれ若干場所はずれるかもしれませんが、間違っても「ドンピシャ」同一ということはありえません。(ひょっとしたらプロガーは、「金陵神学校」と「金陵中学」の区別がついていなかったのかもしれません)

 フォースターの方は、図示する必要もないでしょう。


フォースター『夫人への手紙』より

DEC.12th.
 

The day before yesterday some shells dropped on Chung Shan Road near Hsin Chieh K'ou. Fifteen persons were killed. Yesterday nine of the corpses were still lying on the pavement. An old women with a young girl with their market baskets, a middle aged man who made his living carrying a travelling kitchen, a soldier, a young boy about fourteen and a young man of thirty, etc. Fortunately death must have been immediate as the wounds were horrible.
("EYEWITNESS TO MASSACRE"P116)


(「ゆう」訳

十二月十二日。

 おととい、何発かの砲弾が、新街口に近い中山路に落ちた。15人が殺された。きのう、9人の死体がまだ舗道に横たわっていた。 買い物かごを持った少女と一緒の老女、行商で身を立てている中年の男、兵士、14歳ぐらいの若い少年と30歳の若い男、その他。即死した方がましなぐらいの、ひどい傷だった。



 「新街口近くの中山路」(安全区の東の境を走る道路)と「上海路と漢中路」の交点がどうして「ドンピシャ」同一の場所、ということになるのか。地図を見ずに文章を書き飛ばしているとしか思えません。




 なお、プロガーは気がつかなかったようですが、スマイス・ラーベらが銃撃死体を目撃した場所のすぐそば、「金陵神学院」が、日本軍南京入城以前に爆撃なり砲撃なりを受けた、という記録は存在します。砲撃死体が「いつの間にか「無差別の市民殺害」へとすり替わっ」た、と主張するのであれば、こちらの資料を出した方が、まだしももっともらしかったかもしれません。

 先回りして、こちらについても解説しておきましょう。

『南京の状況 − 十二月十一日』

グレイ暗号電報
発信:南京、海軍無線局経由
受信:一九三七年十二月十一日午後八時九分

ワシントン国務長官宛

第一〇三六号 十二月十一日午後六時

一、今日の午前、市の南部および光華門の内側に、砲弾が激しく撃ち込まれていたが、午後になるとさらに町中に向かって撃ち込まれるようになった。

 砲弾は一発は福昌ホテルの前の中山路に落ち、約五〇人が殺された。一発はホテルの後ろに落ちた。そして一発は五台山地区のアメリカ聖書教師養成学校(American Bible Teachers Training School)に落ち、施設に少し損傷があった。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編 P101)

*「ゆう」注 "American Bible Teachers Training School"には、よくこのように「聖書教師養成学校」に類する直訳がつけられますが、これは「金陵神学院」のことです。こちらのリンク先をご覧ください


スティールの記事

<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特電
南京、十二月十一日


 日本の爆撃機がまたやって来て、わずか六〇〇ヤードの距離にある付近の小山に爆弾が投下されたときには、アメリカ大使館は激しく揺れ動いた。その小山では中国軍の一高射砲が飛来する飛行機ごとに激しく、しかし効果なく弾丸を浴びせていた。

 昨日の爆撃で損害を受けた財産のなかに、アメリカ人の運営する金陵神学院がある。爆撃は学院の門を吹き飛ばし、歩行者二人を死なせ、多くの人々を負傷させた。一砲弾が城南の長老派教会の窓を破壊した。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編 P465)


ダーディンの記事

上海十二月二十二日発
 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

 爆弾は安全区内の多くの地点に落下した。中山路にある福中飯店の前と後ろに落ちた砲弾により、大勢の民間人が死亡した。ほかにもアメリカ伝道団の金陵神学院に近い五台山にも砲撃があった。しかし、安全区に撃ち込まれた砲弾は、故意のものとも、一貫したものとも思われず、おそらくは、大砲を新たな場所に設置した時、射程距離を計るために落下したものと思われる。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編 P435)



フィッチの手記

 ちょうど紫金山の上空に日本軍砲兵の観測気球が見えましたが、おそらく大砲攻撃を指揮するためのものだったのでしょう。重砲は南門をうち砕き、市内に砲弾が落下していました。

 翌朝、安全区内のちょうど南端に数発の砲弾が落ち、聖書師資訓練学校(The Bible Teachers Training School=金陵神学院)と福昌飯店附近で、約四〇人が死にました。 われわれの調査員であるドイツ人のスパーリング氏も、後者すなわち彼が住んでいる福昌飯店の近くで、軽いけがをしました。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』 P28)


 スティールの記事では「死者2名」。グレイ電報、ダーディンの記事には死者が発生したとの明記はなく、せいぜい「施設の損傷」を報告しているにとどまります。

 フィッチのみ、金陵神学院と福昌飯店での死者合計「40人」との記述が見られますが、グレイ電報で「福昌飯店」での死者が約50名と明記されていることと合わせると、そのほとんどは「福昌飯店」での死者であり、金陵神学院での死者は少数であった、と思われます。

 以上を総合すると、「金陵神学院」ではたいした規模の被害は出なかった、と見るのが自然でしょう。

 被害を受けた「金陵神学院」の「門」被害が、上海路側にあったのか、あるいは他の通りの側にあったのかは判然としません。しかし、上海路側であったとしても、「上海路」というメインストリートの死体が2日間も放置されていたとは考えにくく、また、ここまで多数の記録に明記されている「砲撃」にラーベもスマイスも無知であったとは思われません。

 彼らがこの「砲撃」の死体を誤認した、という可能性は、まずないでしょう。




 さて、この「珍説」に対する批判としては、話はこれでお終いになりますが、ここではもう一歩突っ込んで、「銃撃による射殺事件」の詳細を見てみることにしましょう。

 まずそもそも、「20人の死体が日本軍の銃撃により発生したものである」と最初に報告したのは、ラーベではなかったのです。この点について、フィッチは3つの記録を残しています。


フィッチ「一九三七年、クリスマス・イブ 中国、南京にて」

 十三日の午前一一時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー二人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二○人を殺したのです。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P29〜P30)



フィッチ「中国での八十年」より

"NANKING DOOMED 1937-1938"
George A. Fitch, "My Eighty Years In China", Mei Ya Publications
First printing,1967, pp.100-101
Revised Edition, 1974, pp.94-95

 In the meantime the attacking soldiers commenced coming over the great wall. I jumped into my car and drove down to see what damage had been done. At the southern edge a small advance detachment was approaching. The officer in charge spoke neither Chinese nor English and the little Japanese I had learned in my childhood was utterly inadequate. He brought out a map of the city and pointed on it to what was evidently the Safety Zone. It was gratifying to find that the Army had been informed about it and I felt we could hope for security. How wrong I was! When I turned to leave, two or three Chinese who were curious to see what was happening, turned and ran, afraid, now that I was gone. A couple of the Japanese soldiers shot them dead before they had gone fifty yards. This was disquieting, but it was nothing compared to what was to come. 

(「ゆう」訳)  その間に、攻撃軍の兵士たちは城壁を越えての前進を開始した。私は車に飛び乗り、被害状況を調べるために出かけた。南の端に小規模な先遣隊が接近していた。担当将校は中国語も英語も話せず、私が子供時代に学んだわずかな日本語では全く不十分だった。彼は市の地図を持ち出し、明らかに安全区であるところを指差した。軍がそのことについて知らされていたのは喜ばしいことで、我々は安全への望みを持つことができた。

 私は何と間違っていたことか! 私が引き返そうとした時のことだ。二、三人の中国人が、何が起こっているのか好奇心に駆られて見にきていたのだが、今や私が去ってしまったので、彼らは恐怖心からきびすを返して走り出した。二人組の日本兵が、彼らが50ヤードも走らないうちに、銃撃して殺してしまった。これは気がかりなことだった。しかし、その後の出来事に比べれば、これはまだ何でもないことだったのだ。



サウスチャイナ・モーニング・ポスト「南京の暴行」

一九三八年三月十六日

アメリカ人目撃者、侵入者の放蕩を語る

十二月十日、市内に砲弾が落ち始めた。この日には、唐将軍は安全区からの移動をすべて完了していた。安全区には、境界に二〇発の砲弾しか落ちなかったことからみても、日本軍が区を避けて大砲を撃っていたことは明らかである。

十二月十三日、日本軍が城内に入ってきた。安全区の境界でアメリカ人役員が日本部隊に会い、彼らが所持する地図に安全区の印があるのを確かめた。その役員らが背をむける間もなく、この部隊による安全区への一斉射撃が行われ、二〇名の民間人が死亡した。しかしながら、総体的にみて、入城一日目と二日目は安全区は攻撃の対象からはずされていた。

しかし、市の南東部では安全区に避難しなかった多数の民間人が虐殺された。

*訳注 このアメリカ人は南京安全区国際委員会のジョージ・フィッチ。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編 P530-531)


 フィッチがどのようにして「銃撃」の情報を得たのかは、判然としません。この書き方から見ると、現場を直接目撃しないまでも、少なくとも銃声ぐらいは聞いたようにも思われます。

 いずれにしても、「彼らは恐怖心からきびすを返して走り出した」ところ、「二人組の日本兵」が「彼らが50ヤードも走らないうちに」銃殺した、とかなりデティールが詳しいところを見ると、独自の情報源からその情報を得たものであることが伺えます。

 少なくとも、フィッチが現場に達した時には、「死体」は存在しませんでした。死体の発生は、明らかにフィッチが去った後のことです。「砲撃」による死体が、そのままあったわけではありません。


 そしてその後で、ラーベ・スマイス・コーラの3人が同じ場所を通り、「約20人の死体」を目撃したわけです。スマイスは、この死体が日本軍の銃撃によって発生した、という情報を、フィッチから得たものである、と推定されます。


*東中野氏などは、フィッチの記録と、ラーベ・スマイスの記録を「同じ場面」である、という勘違いをしています(コンテンツ「上海路の死体」)。しかし、フィッチは「午前十一時」、ラーベは「午後」(国際委員会文書第6号)と「時間」が違いますし、また、フィッチの出会った部隊は「安全区」の存在を認識していましたが、ラーベ・スマイスが出会った部隊はそうではありませんでした。スマイスの手紙にも、「ラーベ、コーラ」という同行者の名が明記されています。「フィッチ」と「ラーベ・スマイス・コーラ」は、明らかに別行動です。

**なお、このブログにも、「13日以前に上海路付近で死体の目撃情報が他にもあり(「ゆう」注 だから、「上海路」ではありません)北上してきた日本軍の先遣隊と出会う前に死体を発見した状況からすると、上海路の死体は先遣隊の到達前からあったと考えるのが合理的でしょう」という記述が見られます。こちらも、東中野氏と同じ「勘違い」をしていたようです。

***なおこのコンテンツの目的は、プログの珍説のとんでもなさを明らかにすることですので、「恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや露地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった」(ダーディンの記事)という事実認識の当否にまでは、ここでは踏み込みません。





 しかし、ラーベが「嘘をついた」動機を、 「実は、ラーベは日本軍が入城する前から、南京の住民に対して「外を出歩いたら日本軍に機関銃で射殺される」という噂を大真面目で宣伝しようとしており、彼がデマを流したのはこの「自説」を撤回したくなかったからだと思われます」とまで矮小化してしまうのは、無茶が過ぎます。

 筆者はこれまで、よほどひねくれた生き方をしてきたのだなあ、と感じます。

 最初に述べた通り、外国人たちの関心は、いかにして民間人を守るか、ということにありました。悪い「予想」が外れたら、ああ、よかった、と思うだけでしょう。「自説」を撤回したくないばかりに「デマ」を流した、という決め付けは、真摯に救済活動に取り組んだ彼らに対して、あまりにひどい中傷です。



*追記 同プログのコメント欄を見ていましたら、反論らしきものが載っていました。いずれも一目でおかしなことがわかる問題外の「反論」ではありますが、一応簡単に触れておきます。

1.同じ町内の一丁目と二丁目で「まるっきり、全然違う」と言うようなバカ
→本当に地図を見ているのでしょうか? 「一丁目と二丁目」なんて違いではありません。かつ、双方ともかなりの精度で場所の特定が可能ですので、「まるっきり、全然違う」場所であることは明らかです。

2.そもそも、上海路に死体があったかどうか自体が分からないですよ?「大体そのへん」というだけで…。翌日に、ミルズとヴォートリンが二人で上海路を往復しているはずですが「20人の死体」なんて話はないんです
→あれあれ、プロガー氏によれば「地図を見ればドンピシャ」ではなかったのでしょうか? 「大体そのへん」ということになってしまいました。これではこのプログの論理自体、成立しなくなりますね。上に書いた通り、スマイス・ラーベは明確に「上海路」と書いていますし、フィッチにしても「安全区の南側」で、福昌飯店があった「東側」ではありません。「大体そのへん」というのはプロガー氏の作文でしょう。しかし、ミルズとヴォートリンの日記に「死体」の話がないといって「死体がなかった」という断言はできませんし、もしなかったとしても、目抜き通りの真ん中ですから、それまでに片付けられたのだろう、と考えればいいだけのことです。


 

(2007.2.24)


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