東中野氏の徹底検証 9
上海路の死体


 日本軍の南京侵入直後に「逃げようとして日本軍に射殺された避難民」の話が、いくつかの資料に登場します。以下に見るように、東中野氏は、この話自体を、あっさりと否定してしまいますが・・・。

 

スミスの講演と同じような証言を、フィッチも行なっている。 ティンパーリ編「戦争とは何か」は、南京のフィッチやベイツが上海のティンパーリに送った手紙を、そのまま検証もしないで、ティンパーリが緊急出版した本だが、その第一章で執筆者のフィッチは次のように書いた。
十三日、午前十一時、日本軍を安全地帯に発見と、初めて伝えられた。 私は国際委員会の二人の委員と一緒に日本軍と会うため、車に乗って行った。 安全地帯の南端の入り口で、小人数の分遣隊にちょうど出会った。そのとき、日本軍は何ら敵意を示さなかったが、それからしばらくして日本軍の出現に驚いて逃げた避難民二十人を殺したのであった。
日本軍の避難民射殺が十二月十三日正午頃、安全地帯の南端で、フィッチの眼前で起きたというのである。が、傍点部(「ゆう」注 ここでは下線にしました)の記録は、フィッチの主張を除けば、日、米、独の記録のどこにもない。

それもそのはずだろう。傍点部,正午頃と言えば、日本軍は未だ現場(安全地帯)に到達していなかった。日本軍が掃蕩のため安全地帯に入るのは、翌十四日のことであったからだ。

(中略)

フィッチの記録が出てからおよそ一年後に「南京安全地帯の記録」が出ている。国際委員会の九号文書(十二月十七日付)から、参考までに、関係部分を引用する。
<十二月十三日の午後、我々は日本軍兵士を率いた部隊長が漢中路で休んでいるのを見つけました。 我々は部隊長に安全地帯がどこにあるかを説明し、部隊長の地図に印をつけました。三つの赤十字病院についても失礼のないように注意を喚起し、武装解除された兵士のことも話しました。>
一読して分かるように、これはフィッチの記録と同じ場面である。,隆礎耋は「安全地帯の南端」にあたる。ただ、フィッチの記録と、九号文書には、二つの違いが見られる。

一つは時間である。十三日の午前十一時なのか、十三日の午後のことなのか、ちょっと食い違っているが、さして大きな問題ではない。

もう一つは、フィッチの言う、日本軍の出現に驚いて逃げた避難民二十人が日本軍に殺されたという記述が、九号文書にはない。 九号文書は公的な文書である。フィッチの記録は私的なものである。このように比較検討する時、フィッチの記述の不正確さがよく分かると言えよう。

(「徹底検証」P201〜P202)


 

 さて、フィッチの記録については、上の記録とは別に、このような文書が残っています。(渡辺久士さんにご提示いただいたものです)

 
"NANKING DOOMED 1937-1938"
George A. Fitch, "My Eighty Years In China", Mei Ya Publications
First printing,1967, pp.100-101
Revised Edition, 1974, pp.94-95


 In the meantime the attacking soldiers commenced coming over the great wall. I jumped into my car and drove down to see what damage had been done. At the southern edge a small advance detachment was approaching. The officer in charge spoke neither Chinese nor English and the little Japanese I had learned in my childhood was utterly inadequate. He brought out a map of the city and pointed on it to what was evidently the Safety Zone. It was gratifying to find that the Army had been informed about it and I felt we could hope for security. How wrong I was! When I turned to leave, two or three Chinese who were curious to see what was happening, turned and ran, afraid, now that I was gone. A couple of the Japanese soldiers shot them dead before they had gone fifty yards. This was disquieting, but it was nothing compared to what was to come.



(「ゆう」訳)

  その間に、攻撃軍の兵士たちは城壁を越えての前進を開始した。私は車に飛び乗り、被害状況を調べるために出かけた。南の端に小規模な先遣隊が接近していた。 担当将校は中国語も英語も話せず、私が子供時代に学んだわずかな日本語では全く不十分だった。彼は市の地図を持ち出し、明らかに安全区であるところを指差した。 軍がそのことについて知らされていたのは喜ばしいことで、我々は安全への望みを持つことができた。

 私は何と間違っていたことだろう! 私が引き返そうとした時のことだ。二、三人の中国人が、何が起こっているのか好奇心に駆られて見にきていたのだが、 今や私が去ってしまったので、彼らは恐怖心からきびすを返して走り出した。二人組の日本兵が、彼らが50ヤードも走らないうちに、銃撃して殺してしまった。 これは気がかりなことだった。しかし、その後の出来事に比べれば、これはまだ何でもないことだったのだ。
(以上、翻訳にはあまり自信がありませんので、私の訳は参考程度として下さい。) 


 「安全地帯の南端の入り口」での事件が、より詳しく描写されています。 これに、「十二月十三日、ラーベの行動」で示した、ラーベ・スマイスの関連記述を並べてみましょう。

スマイスの手紙

 我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。 神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。 恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。

"EYEWITNESS TO MASSACRE" P256より拙訳 (原文はこちら) 

ジョン・ラーベ日記 12月13日

 我々は、たいへん用心してメインストリートを下っていった。手榴弾がころがっており、踏みつけると空に吹き飛ばされる危険があったからだ。我々は上海路に曲がり、前進してくる日本軍へ向けて車を走らせた。 上海路にはいくつかの市民の死体があった。 ドイツ語を話す医者を伴なった日本軍部隊が、日本軍将軍はあと2日たたないとやってこない、と言った。 日本軍は北へ向かって行進しているので、我々は彼らを迂回する横道に車を走らせ、武装解除することによって約600人からなる中国人の3部隊を救った。

(英語版からの拙訳)


 「十二月十三日、ラーベの行動」でも見ましたが、この日最初に「安全区の南端」に出向いたのは、フィッチ一行でした。ラーベ・スマイス組は、その後で、同じ場所を通っています。

 フィッチが出向いた直後、逃げようとする避難民が銃撃された。その後で通りかかったラーベ・スマイス組が、その死体を目撃した。 フィッチの記述の「情報源」ははっきりしませんが、以上の資料を総合すると、このように見るのが最も自然であるようです。




さて、東中野氏の記述です。

上の引用文では、東中野氏は、二つの根拠からこの話を否定しようとしています。

1.正午頃と言えば、日本軍は未だ現場(安全地帯)に到達していなかった。日本軍が掃蕩のため安全地帯に入るのは、翌十四日のことであったからだ。

2.一読して分かるように、これ(第9号文書)はフィッチの記録と同じ場面である。・・・フィッチの言う、日本軍の出現に驚いて逃げた避難民二十人が日本軍に殺されたという記述が、九号文書にはない。

しかし、以上の記録を見れば、解説するまでもなく、東中野氏の「根拠」が誤ったものであることがわかると思います。


について言えば、「現場」は「安全地帯(内)」ではなく、「安全地帯の南端の入り口」です。 「掃蕩のため安全地帯に入る」ことと、「南端の入り口」という「現場」に到達することは、また別の問題です。

現実に、ラーベ・スマイス組は、安全地帯の南端を東西に走る「漢中路」で日本軍の「隊長」と出会い、「安全地帯」についての説明を行っています。

東中野氏は、日本軍はこの時にはこの場所には存在しえなかった、と言いたいようですが、外国人3名がそれぞれ「漢中路」での「日本軍との出会い」を語っているわけであり、ちょっと無理があります。

は、そもそも「同じ場面」というのが間違いです。

「第9号文書」はラーベの手になるものですが、ラーベは明らかにフィッチよりもあとに「現場」を訪れています。フィッチが出会った部隊と、ラーベ・スマイス組が出会った部隊は、別のものです。

そしてラーベは、事件の「結果」としての、「上海路の死体」について語っています。 ラーベに同行したスマイスも、これは日本軍に射殺されたものだ、という認識を示していました。少なくとも、外国人たちがこの認識を共有していたことは、間違いのないところでしょう。

 

  蛇足ですが、この日ラーベとフィッチは別行動でしたので、「時間の食い違い」など、双方の記述に差異があるのは当然のことです。


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