| 東中野氏の徹底検証 9 |
| 上海路の死体 |
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日本軍の南京侵入直後に「逃げようとして日本軍に射殺された避難民」の話が、いくつかの資料に登場します。以下に見るように、東中野氏は、この話自体を、あっさりと否定してしまいますが・・・。
さて、フィッチの記録については、上の記録とは別に、このような文書が残っています。(渡辺久士さんにご提示いただいたものです)
(以上、翻訳にはあまり自信がありませんので、私の訳は参考程度として下さい。) 「安全地帯の南端の入り口」での事件が、より詳しく描写されています。 これに、「十二月十三日、ラーベの行動」で示した、ラーベ・スマイスの関連記述を並べてみましょう。
「十二月十三日、ラーベの行動」でも見ましたが、この日最初に「安全区の南端」に出向いたのは、フィッチ一行でした。ラーベ・スマイス組は、その後で、同じ場所を通っています。 フィッチが出向いた直後、逃げようとする避難民が銃撃された。その後で通りかかったラーベ・スマイス組が、その死体を目撃した。 フィッチの記述の「情報源」ははっきりしませんが、以上の資料を総合すると、このように見るのが最も自然であるようです。 さて、東中野氏の記述です。 上の引用文では、東中野氏は、二つの根拠からこの話を否定しようとしています。 1.正午頃と言えば、日本軍は未だ現場(安全地帯)に到達していなかった。日本軍が掃蕩のため安全地帯に入るのは、翌十四日のことであったからだ。 2.一読して分かるように、これ(第9号文書)はフィッチの記録と同じ場面である。・・・フィッチの言う、日本軍の出現に驚いて逃げた避難民二十人が日本軍に殺されたという記述が、九号文書にはない。 しかし、以上の記録を見れば、解説するまでもなく、東中野氏の「根拠」が誤ったものであることがわかると思います。 1について言えば、「現場」は「安全地帯(内)」ではなく、「安全地帯の南端の入り口」です。 「掃蕩のため安全地帯に入る」ことと、「南端の入り口」という「現場」に到達することは、また別の問題です。 現実に、ラーベ・スマイス組は、安全地帯の南端を東西に走る「漢中路」で日本軍の「隊長」と出会い、「安全地帯」についての説明を行っています。 東中野氏は、日本軍はこの時にはこの場所には存在しえなかった、と言いたいようですが、外国人3名がそれぞれ「漢中路」での「日本軍との出会い」を語っているわけであり、ちょっと無理があります。 2は、そもそも「同じ場面」というのが間違いです。 「第9号文書」はラーベの手になるものですが、ラーベは明らかにフィッチよりもあとに「現場」を訪れています。フィッチが出会った部隊と、ラーベ・スマイス組が出会った部隊は、別のものです。 そしてラーベは、事件の「結果」としての、「上海路の死体」について語っています。 ラーベに同行したスマイスも、これは日本軍に射殺されたものだ、という認識を示していました。少なくとも、外国人たちがこの認識を共有していたことは、間違いのないところでしょう。 蛇足ですが、この日ラーベとフィッチは別行動でしたので、「時間の食い違い」など、双方の記述に差異があるのは当然のことです。
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