| 東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (4) |
| 第十六師団と捕虜 ―その3 堯化門の捕虜― |
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12月14日昼頃、歩兵第三十八連隊は、南京の東方、仙鶴門鎮あるいは堯化門附近で、大量の投降兵に遭遇しました。その数は資料によって異なりますが、7200名とも4000名とも、あるいは10000名とも言われます。 この投降兵は捕虜となり、そのまま南京の捕虜収容所に収容された、というのが「南京」論議で巷間伝えられる「常識」になっています。 東中野氏もその「常識」をベースに、これを「日本軍の人道的な捕虜取扱い」を証明する最大の材料として使っています。 しかし関係する資料を改めて確認すると、東中野氏の意図するような「人道的な日本軍」のイメージは必ずしも形成されないことが見えてきます。以下、東中野氏の記述などに沿って、「堯化門の捕虜」の運命を探ってみることにしましょう。
この大量の敗残兵が投降してきたのは、南京陥落の翌日、12月14日の昼頃でした。 しかし日本軍は、簡単にこの「投降」を受け入れたわけではありません。実は、「殺害」と紙一重の「捕虜受入」でした。 東中野氏は「人道的な日本軍」を強調したいがために、この事実を誤魔化し、資料の「トリミング」を行っています。
沢田証言によれば、「約七千」の捕虜は殺されずに武装解除された。佐々木旅団長は「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」との命令を出したが、「俘虜を受け付けずに処刑せよ」というのが旅団長の真意であるとすれば、殺されなかったのはおかしい。従って、「捕虜を受付けるな」というのは「処刑せよ」という意味ではない。 東中野氏は明言を避けているようですが、氏の言いたいことを要約すれば、こんな感じになるでしょうか。 *いずれにしても、 「俘虜を受付くるを許さず」はずなのに「捕虜」にしてしまった時点で、東中野氏の説明は支離滅裂なものになるのですが・・・。 しかしこれは、自説に不利な部分を隠蔽する、典型的な「トリミング」と言わざるを得ません。実は沢田証言には、「続き」があります。
東中野氏は下線部までで「引用」を止めてしまっていますが、続きを見ると、「軍司令部」は、「直ちに銃殺せよ」との命令を出していたわけです。 「捕虜」として収容することになったのは、現場指揮官がこの命令に抵抗した結果であったに過ぎません。抵抗せずに素直に命令に従っていたら、これらの捕虜は殺害されていたはずでした。 この「捕虜収容」事例をあたかも「軍司令部の基本方針」の結果であるかのように描くことは、東中野氏の明らかなトリックです。
この捕虜群はその後、とりあえずは上麒麟門の、にわかづくりの「捕虜収容所」に収容されたと伝えられます。 しかし、投降兵全員が「捕虜」として収容されたのかどうか。当時の南京戦の雰囲気を考えれば、「捕虜」として受付けられずに殺害された投降兵も多数いたのではないか、と推測することことも十分可能でしょう。 その中で東中野氏は、例によって「資料の都合のいい引用」を行います。
さて、小原日記の原典を確認してみましょう。赤字が、東中野氏が引用をスルーした部分です。
「山のような」「銃殺された捕虜の屍体」の話は、「伝聞」とはいえ、事実である可能性を無視できないものです。東中野氏はあえてその「可能性」を隠蔽しました。 そしてこの捕虜群は、17日、南京方面に護送されました。
東中野氏は、「小原日記」と「野戦郵便旗」の「捕虜目撃」の部分を引用し、無事南京に辿りついたことだけを強調します。しかし東中野氏の「引用」を見る時には、「引用されていない部分」に注意する必要があります。 「小原日記」の原文を確認してみましょう。
小原氏は、捕虜殺害の噂を聞いています。前の引用文と合わせると、小原氏は「相当数の捕虜が殺害されたらしい」という認識を持っていたことは明らかでしょう。 東中野氏が自説の補強材料として小原氏の文を引用するのであれば、これらの部分をスルーすることは、決してフェアな態度であるとは言えません。 *余談ですが、東中野氏がわざわざ「みな三三や三八や二○聯隊が此の方面の戦闘で捕へたものであると―。これを護衛してゐるのもみなそれ等の聯隊の兵隊さんなのだ―」の部分を「・・・」に置き換えて「ぶつ切り引用」を行った動機は、容易に推察できます。 この部分が、氏の説明、「大量であるため堯化門の七千人のうちの四千であったのは確かであろう」と矛盾するからでしょう。 さて、佐々木手記の方も見ておきましょう。「七千二百名とか」の捕虜は、本当にそのまま捕虜収容所に収容されたのかどうか。「野戦郵便旗」のオリジナル版である、「日記」から引用します。
東中野氏のイメージする「平穏無事な捕虜護送」風景とは、だいぶ印象が変わってきます。少なくともこの時点では、「引率の将校」は捕虜を殺すつもりだったようです。 部隊関係者には「捕虜として収容された」と証言する者もおり、これが今日では定説に近いものになっていますが、次項に見るとおり、実際には微妙なものであると思われます。 *「捕虜として収容された」証言としては、例えば次のようなものがあります。
さてここで、東中野氏の記述を離れます。 この「堯化門の捕虜」については、そのまま南京の捕虜収容所に収容され、やがて半数は労役に、半数は汪兆銘軍に参加した、というイメージが広く流布しています。 そのイメージは、次の板倉由明氏の文によりつくられたものであるようです。
これは、次の榊原主計参謀の証言に基いた記述であると思われます。
しかしよく読むと、榊原参謀は、この捕虜が「堯化門の捕虜」であるとは一言も言っていないことに気がつきます。 榊原参謀の言う通り捕虜収容人数が「約四千位」で、かつ少なくとも四千人以上の「堯化門の捕虜」がそのまま収容されたのであれば、捕虜収容所の捕虜の大半は「堯化門の捕虜」であることになります。 南京の捕虜収容所に収容された捕虜は、どこから来たのか。その出自を示す資料は、ほとんど残されていません。私が確認できたものは、次の3点です。
いずれの資料からも、収容された捕虜が「堯化門の捕虜」であったことを裏付けることはできません。 ヴォートリン日記では「12月16日」の敗残兵狩りによる捕虜が存在していたことが示唆されていますし、森五十男氏証言では「下関付近その他で捕虜となった将兵たち」とのことで、むしろ「堯化門」以外の捕虜が主力であることを伺わせます。 また森証言を見ると、上海に労役に送られなかった約二千名は、そのまま5年後にも「非転向」のまま「捕虜収容所」に収容されていたようです。 板倉氏の「約半数が昭和十二年末ころ上海に送られたものと見られ、残りが汪兆銘の南京政府軍に編入されたという事実はよく知られている」との記述とはっきりと矛盾します。 板倉氏が、どのような資料からこの記述を行ったのかは、不明です。 *「南京戦」の捕虜が汪兆銘政府に参加した例としては、劉少将の事例が知られています。 しかし劉は「堯化門」の捕虜ではなく「難民区に避難し」ていたものであり、また「模範監獄」に収容されたものでもありません。 あるいは板倉氏は、この事例と混同したのかもしれません。
田中氏は「南京戦」の捕虜が大挙として汪兆銘軍に参加したかのようなイメージをつくっていますが、よく読むと、氏が論拠とする梁証言には、「南京」などという語はどこにも見えません。 「主として南京戦、武漢作戦における捕虜」というのは、田中氏の勝手な「解釈」です。 この梁証言をもって「南京戦の捕虜が生き残って汪兆銘軍に参加した」と主張するのは、ちょっと無理があるでしょう。 そもそも「南京戦」の捕虜は、「四千」なんて数ではなかったはずです。 「堯化門」を含む南京城東方方面でも、38連隊が捕えた「7000名」なり「4000名」なり以外に、歩兵第二十連隊第三大隊が捕えた1800-2000名程度の捕虜が存在します。(*) *森王証言、及び「牧原日記」によります。日付に多少のズレはありますが、牧原日記に出てくる「九中隊」は森王氏の「第三大隊」に属しますので、両者は同一の捕虜、と考えていいでしょう。
また、同じ第十六師団に属する「歩兵第三十三連隊」も、相当数の捕虜を得ています。
「数万人」に達したであろう捕虜のうち、榊原証言によれば、「捕虜収容所」への収容が確認されたのはたった四千人程度であるに過ぎません。 「魁 郷土人物戦記」では虐殺されたのは「極めて一部」ということになっていますが、単純に考えても、「極めて一部」などということはありえないでしょう。 一定数の「逃亡」、あるいは「釈放」はあったかもしれませんが、大半は「処分」されてしまったものと見られます。 「堯化門の捕虜」については、 部隊関係者の証言の通り、ひょっとするとそのまま南京捕虜収容所に収容されたのかもしれません。 しかし上に見るとおり、「捕虜収容所」には少なからず「下関」の捕虜や「軍官学校」の捕虜も混じっていました。 榊原証言の通り、仮に当初の捕虜の数が「四千人」しかいなかったとするならば、「「堯化門」の四千名(七千名?)の捕虜がそのまま南京に収容された」という説明には、疑問を持たざるを得ません。 *次項で取りあげますが、南京の捕虜収容所に収容された捕虜の数は、当初、「四千人」ではなく「一万人」だった可能性はあります。 しかしいずれにしても、一月中旬時点では「四千人」しか残りませんでした。
さて東中野氏は、収容所に収容された捕虜の「その後」について、こう書きます。
これだけ見ると、捕虜たちは無事助命されて、平穏無事に労役に従事していたように思われます。しかしどうも、必ずしも捕虜収容所に収容された捕虜全員が最後まで殺されることはなかった、ともいえないようです。 以下、二つの資料を見ます。
「最初」の「一万人」が、一月六日には「三千六百七十人」に減少した、とのことです。榊原主計参謀は、「極東軍事裁判」などでは「放免」により減少した、ととれる証言を行いましたが、秦郁彦氏によれば、このような証言があるようです。
おそらくこの証言を受けてか、秦氏はこのような発言も行っています。
上の資料と榊原参謀の極東軍事裁判証言と組み合わせると、あるいはこんな「推理」が可能かもしれません。 当初収容所に収容された捕虜は(「堯化門の捕虜」が含まれていたかどうかはともかく)約一万人いた。 しかしそのうち半数以上は榊原参謀が「数日出張した留守に殺されて」しまい、四千人が残った。 榊原参謀は、そのうち半数を上海に送った。 「極東軍事裁判」では「捕虜殺害」の事実を証言するわけにはいかないので、はじめから捕虜の数は四千人しかいなかった、ということにしておいた。 上記資料の証言内容がやや曖昧であるため断定はできませんが、こう考えれば、一応上の資料群の整合性は確保できることになります。 実際問題として、「捕虜」を養う余力が十分にある状況であるにもかかわらず交戦中の敵国兵士を何の条件もなく釈放した、と考えるよりは、実は「殺してしまった」と考える方が自然でしょう。 *秦郁彦氏は、上の証言を「三十八連隊捕虜」のものとして理解しているようですので、ここではそれに従いました。 ただし稲田正純氏の伝える榊原証言は、「幕府山事件」の捕虜のことを示している可能性もあるように思います。 堯化門で捕虜になった七千人なり四千人なりは、南京の捕虜収容所に収容され、最終的には「労役」なり「汪兆銘軍への参加」なりの運命を辿った、というのが定説に近いものになっています。 しかし資料をよく読みなおすと、その根拠は必ずしも十分なものではなく、彼らが実際に最終的に助命されたのかどうかは不明としか言いようがありません。むしろ、そのうちかなりの多数が殺されてしまった可能性も見えてきます。 東中野氏はこの「捕虜収容」事例を、「人道的な日本軍」のイメージづくりにフルに利用しようと試みます。しかし以上見てきたとおり、氏は資料の都合の悪い部分はすべてカットするなど、研究者としては大変問題のある行為を行っていまず。 資料をきちんと読み直すと、とても東中野氏が主張するようなイメージを得ることはできないでしょう。 (2007.10.7)
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