東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (4)
第十六師団と捕虜
―その3 堯化門の捕虜―


 12月14日昼頃、歩兵第三十八連隊は、南京の東方、仙鶴門鎮あるいは堯化門附近で、大量の投降兵に遭遇しました。その数は資料によって異なりますが、7200名とも4000名とも、あるいは10000名とも言われます。

 この投降兵は捕虜となり、そのまま南京の捕虜収容所に収容された、というのが「南京」論議で巷間伝えられる「常識」になっています。東中野氏もその「常識」をベースに、これを「日本軍の人道的な捕虜取扱い」を証明する最大の材料として使っています。

 しかし関係する資料を改めて確認すると、東中野氏の意図するような「人道的な日本軍」のイメージは必ずしも形成されないことが見えてきます。以下、東中野氏の記述などに沿って、「堯化門の捕虜」の運命を探ってみることにしましょう。



 投降兵を受け入れるまで

 この大量の敗残兵が投降してきたのは、南京陥落の翌日、12月14日の昼頃でした。

 しかし日本軍は、簡単にこの「投降」を受け入れたわけではありません。実は、「殺害」と紙一重の「捕虜受入」でした。

 東中野氏は「人道的な日本軍」を強調したいがために、この事実を誤魔化し、資料の「トリミング」を行っています。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より


 白旗を掲げてきた大量の投降兵を受け入れる

 
本章の冒頭で述べた独立野戦重砲兵第十五連隊第一中隊の戦闘をもう一度見てみよう。 独立野戦重砲兵第十五連隊は、馬群から三キロ北の仙鶴門鎮で、十二月十三日午前零時半から夕方までのおよそ十八時間、一万の逃走兵集団と戦っていた。 このとき敗退した逃走兵集団は、中山門から東北に一〇キロの仙鶴門鎮からさらに西北五キロの堯化門へと撤退していたが、それからどう出てくるのか、まったく予断を許さなかった。

 中島師団長の「陣中日記」 (Ⅰ三二五頁 ) によれば、翌十四日正午のこと、それまで「相当ノ戦意ヲ有シ」ていた逃走兵集団が「漸次戦意ヲ失ヒ投降スル」に至ったのである。その投降兵集団を捕虜として収容したのが奈良三十八連隊であった。


 奈良三十八連隊「戦闘詳報」第十二号の「戦闘詳報第十二号附表」は、「数千名ノ敵、白旗ヲ掲ゲテ前進シ来リ」 (I 五九四頁 ) と記している。 『小戦例集』第四輯(第三十六例 ) も「約七千、堯化門附近ニ於イテ投降セリ」と記している。

 すでに述べたように、その七時間前に、佐々木旅団長の「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」という旅団命令が出ていた。この旅団命令を、俘虜(POW)を受け付けずに処刑せよという意味に解釈するとすれば、「約七千」は処刑されねばならなかった。

 ところが、彼らを武装解除した独立攻城重砲兵第二大隊の沢田正久少尉は次のように証言している。

《敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃投降してきました。その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。 多くの敵兵は胸に〈首都防衛決死隊〉の布片を縫いつけていました。俘虜の数は約一万( 戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶しています)でした》 (「証言による〈南京戦史〉⑤」七頁 )

 このように日本軍は逃走兵集団を「武装解除しました」とある以上、京都十六師団はこの時点で彼らを「捕虜」にしていたことになる。

 しかし問題はその先であろう。 旅団命令の「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」や、中島師団長の日記の「百、二百ニ分割シタル後、適当ノケ処(カ処)ニ誘キテ処理スル予定ナリ」の「処理」を、 「殺す」の意味に解釈すれば、京都十六師団は逃走兵集団を武装解除はしたものの、彼らを捕虜とは認めずに適当な場所に移して殺したことになる。

(同書 P119-P120)


 沢田証言によれば、「約七千」の捕虜は殺されずに武装解除された。佐々木旅団長は「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」との命令を出したが、「俘虜を受け付けずに処刑せよ」というのが旅団長の真意であるとすれば、殺されなかったのはおかしい。従って、「捕虜を受付けるな」というのは「処刑せよ」という意味ではない。

 東中野氏は明言を避けているようですが、氏の言いたいことを要約すれば、こんな感じになるでしょうか。
*いずれにしても、 「俘虜を受付くるを許さず」はずなのに「捕虜」にしてしまった時点で、東中野氏の説明は支離滅裂なものになるのですが・・・。


 しかしこれは、自説に不利な部分を隠蔽する、典型的な「トリミング」と言わざるを得ません。実は沢田証言には、「続き」があります。

沢田正久氏の証言 (独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)

  第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は、太平門に突進する佐々木支隊(38i 基幹)に協力することであったが、南京が陥落した12月13日、 仙鶴門鎮付近で「首都防衛決死隊の夜襲」をうけ、かつ多数の投降捕虜を得たので、その状況を略述します。

(略)

(「ゆう」注 12月14日)それから一時間ぐらいして午前8時ごろ、衛兵所に行ってみると、驚くなかれ、楊山に向かって西方から続々と敵の大部隊が登ってきます。中隊長に報告すると、中隊長は「友軍ではないか」と疑ったほどでした。

 直ちに全員分散展開、このとき早くも放列付近には敵の弾雨が集中しはじめました。中隊長の命令により、わが方は取りあえず火砲一門を操作、威嚇のため、零分画射撃を行いました。

  敵は山の反対斜面に移るとともに、稜線上の観測隊に向かって、チェコ機関銃で盛んに射撃してきましたので、われわれは墓地を利用して、接近する一部の敵と相対しました。 やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃投降してきました。

 その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。

 俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でした、 早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言ってきましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。 「それも不可能」と断わったら、やっと、「歩兵四コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い」ということになり、私も中山門近くまで同行しました。

 この「首都防衛決死隊」は、重機関銃、迫撃砲を中心に装備され、正規兵の外に一般市民の志願兵(大学生など)もかなり加わっていました。 全員軍服姿でしたが、英語を話す者、ブローニングの肩掛け大型拳銃を持っている者も居り、集団行動は、よく統制がとれていました。

(略)

 ちなみに、私が陸士を卒業する直前の昭和12年6月、市ヶ谷の大講堂で飯沼守生徒隊長から記念講演「捕虜の取扱いについて」を聞き、捕虜は丁寧に取扱わねばならないと教えられました。 その生徒隊長は、いま、上海派遣軍の参謀長であります。

 卒業後僅か五ヵ月の今日「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、誰が命令を下したのか。当時、私の胸の痛かった印象は、従軍中はもとより今日に至るまで、私の脳裡から離れません。

(「証言による『南京戦史』(5) =『偕行』1984年8月号P7)

*下線部は東中野氏の引用部分です。


 東中野氏は下線部までで「引用」を止めてしまっていますが、続きを見ると、「軍司令部」は、「直ちに銃殺せよ」との命令を出していたわけです。 「捕虜」として収容することになったのは、現場指揮官がこの命令に抵抗した結果であったに過ぎません。抵抗せずに素直に命令に従っていたら、これらの捕虜は殺害されていたはずでした。

 この「捕虜収容」事例をあたかも「軍司令部の基本方針」の結果であるかのように描くことは、東中野氏の明らかなトリックです。




 上麒麟門捕虜収容所への収容、南京への護送


 この捕虜群はその後、とりあえずは上麒麟門の、にわかづくりの「捕虜収容所」に収容されたと伝えられます。

 しかし、投降兵全員が「捕虜」として収容されたのかどうか。当時の南京戦の雰囲気を考えれば、「捕虜」として受付けられずに殺害された投降兵も多数いたのではないか、と推測することことも十分可能でしょう。


 その中で東中野氏は、例によって「資料の都合のいい引用」を行います。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より

 目撃された堯化門の捕虜の大群

 堯化門で投降してきた約七千の敗残兵たちは幾つかに分けて護送されたと思われる。それは次のような目撃があるからだ。

 輜重兵第十六連隊(京都)の小原輜重兵の「陣中日記」から紹介する。

十二月十五日・・・その中、一通り山を越えて、少し平らかな所に村があった。そこに驚くべき光景にぶつかった。 竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮二、〇〇〇人の捕虜が我が軍の警戒裡にうようよしてゐるのだ。これには驚いた。

 後で分ったのであるが、これは南京攻撃に於てこれだけの捕虜があったのだと。話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。 彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。彼等の中には支那服を軍服の上に着て、カムフラージュしてゐるものもあると
》 ( 一三四頁 )

 小原輜重兵は句容から湯水鎮の南京高原を通って、南京平野に出てきたところで、急拵えの竹矢来で囲まれた広場に大勢の捕虜がいるのを目撃した。 その場所がどこかは確定できないが、「約七〇〇〇人の捕虜」とか「白旗を掲げて降参」してきたと聞いているところからすれば、それは堯化門付近で投降してきた約七千の敗残兵たちであったと思われる。

 日本軍が堯化門で大量の中国兵を捕虜とした十二月十四日から一日が経った十五日に、二千人の捕虜が小原輜重兵たちに目撃されていた。(P122)


 さて、小原日記の原典を確認してみましょう。赤字が、東中野氏が引用をスルーした部分です。

小原孝太郎日記『日中戦争従軍記』より

 十二月十五日

 その中、一通り山を越えて、少し平らかな所に村があった。そこに驚くべき光景にぶつかった。竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮二、〇〇〇人の捕虜が我が軍の警戒裡にうようよしてゐるのだ。これには驚いた。 後で分ったのであるが、これは南京攻撃に於てこれだけの捕虜があったのだと。話によると、約七〇〇〇人の捕虜があったさうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。 中には勿論戦闘中捕虜になったのもあり、色々だ。彼等の中には支那服を軍服の上に着て、カムフラージュしてゐるものもあると。

 そこで一応調べて、銃殺なり使役に使ふなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のやうになってゐるさうだ。南京は七分通り片が付いたらしい。


(『日中戦争従軍記』P134)

*下線部は東中野氏の引用部分です。


 「山のような」「銃殺された捕虜の屍体」の話は、「伝聞」とはいえ、事実である可能性を無視できないものです。東中野氏はあえてその「可能性」を隠蔽しました。



 そしてこの捕虜群は、17日、南京方面に護送されました。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より
 


 さらに入城式の十二月十七日にも捕虜の大群が目撃されている。

 再び小原輸重兵の「陣中日記」から引用する。(P124)

 《十二月十七日・・・・捕虜が来た!!

 一昨日見たあの村にゐた捕虜だ。銃剣つけた一個小隊位の兵の間に挿まれて、くるはくるは、数知れずくる。駆けてゐつて聞いてみたら、約四〇〇〇人の捕虜だといふ。

 ・・・こんなもの連れていって何するのだらうか― 、南京へ行くのだらうか― 、みな銃殺だといふ者もあるし、南京で使役に使ふのだといふものもある》
(一三七頁)(P124-P125)

 これは日本軍が堯化門で大量の中国兵を捕虜とした十二月十四日から三日後の、十二月十七日の記録である。小原輜重兵は今度は「約四〇〇〇人の捕虜」と聞いている。「一昨日見たあの村にゐた捕虜」だとは確定できないが、大量であるため堯化門の七千人のうちの四千であったのは確かであろう。

 ともあれ堯化門の捕虜が護送されているのが南京城外の紫金山東方でも目撃されていた。

 そしてまた上海から南京に急行してきた佐々木元勝野戦郵便局長も捕虜の大群を同じ日の十二月十七日の夕暮れ時に目撃している。

《トラックの帰り、中山門の前のところから、また武装解除の支那兵の大群に会う。 [七千二百名とか] おびただしい乞食の大行列である》
(『野戦郵便旗』二二〇頁 )

 このように、日本軍が堯化門で投降してきた中国兵を護送していたのは確実であったことが分かろう。彼らが数日をかけて護送されていた以上、処刑されたとは考えられないが、その後も見ておきたい。

(P124-P125)


 東中野氏は、「小原日記」と「野戦郵便旗」の「捕虜目撃」の部分を引用し、無事南京に辿りついたことだけを強調します。しかし東中野氏の「引用」を見る時には、「引用されていない部分」に注意する必要があります。

 「小原日記」の原文を確認してみましょう。

小原孝太郎日記『日中戦争従軍記』より

 十二月十七日

 捕虜が来た!! 一昨日見たあの村にゐた捕虜だ。銃剣つけた一個小隊位の兵の間に挿まれて、くるはくるは、数知れずくる。駆けてゐって聞いてみたら、約四〇〇〇人の捕虜だといふ。な三三や三八や二○聯隊が此の方面の戦闘で捕へたものであると―。これを護衛してゐるのもみなそれ等の聯隊の兵隊さんなのだ―。

 
こんなもの連れていって何するのだらうか―、南京へ行くのだらうか― 、みな銃殺だといふ者もあるし、南京で使役に使ふのだといふものもある―。 要する(に)わからないが、捕虜は二○、○○○人あったのが、これだけに処分したのだといふ事である。

(『日中戦争従軍記』P137)

*下線部は、東中野氏の引用部分です


 小原氏は、捕虜殺害の噂を聞いています。前の引用文と合わせると、小原氏は「相当数の捕虜が殺害されたらしい」という認識を持っていたことは明らかでしょう。東中野氏が自説の補強材料として小原氏の文を引用するのであれば、これらの部分をスルーすることは、決してフェアな態度であるとは言えません。

*余談ですが、東中野氏がわざわざ「みな三三や三八や二○聯隊が此の方面の戦闘で捕へたものであると―。これを護衛してゐるのもみなそれ等の聯隊の兵隊さんなのだ―」の部分を「・・・」に置き換えて「ぶつ切り引用」を行った動機は、容易に推察できます。 この部分が、氏の説明、「大量であるため堯化門の七千人のうちの四千であったのは確かであろう」と矛盾するからでしょう。

 後述の通りこの方面では第二十連隊も1800-2000名の捕虜を獲得していますので、その捕虜も混じっていた可能性はあります。しかし第二十連隊が第三十八連隊の「堯化門の捕虜」の護送に参加していたとの証言もあり(東史郎証言など)、 とりあえずはこれは「38連隊」以外の部隊が護送に参加していたことから小原氏が誤解したもの、と考えるのが最も自然かもしれません。

いずれにしても、東中野氏はこのような面倒な議論を回避したかったのでしょう。


 さて、佐々木手記の方も見ておきましょう。「七千二百名とか」の捕虜は、本当にそのまま捕虜収容所に収容されたのかどうか。「野戦郵便旗」のオリジナル版である、「日記」から引用します。

佐々木元勝氏の手記

12月17日 快晴

 夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・。

 (「証言による『南京戦史』(9) =『偕行』1984年12月号P11)


 東中野氏のイメージする「平穏無事な捕虜護送」風景とは、だいぶ印象が変わってきます。少なくともこの時点では、「引率の将校」は捕虜を殺すつもりだったようです。

 部隊関係者には「捕虜として収容された」と証言する者もおり、これが今日では定説に近いものになっていますが、次項に見るとおり、実際には微妙なものであると思われます。
*「捕虜として収容された」証言としては、例えば次のようなものがあります。

松本証言 (歩兵第三十八連隊第十小隊)

「十五日ごろ、南京も陥落して、我々は城内に入らず、郊外の残敵掃蕩ということで、堯化門から下麒麟門のあたりにいました。われわれの方は百人ぐらいでしたか。ところが、そこに大量の敗残兵が現れたんです。次から次へと、出てくる、出てくる、そうですねえ、何千人か、まあ数え切れません。 とにかくわれわれは百人だから、びっくりして連中を隊の方に連行したんです。場所は憶えていませんけど、とにかく、すぐ収容所を作りました。

 ところが、それからが大変です。メシを食わせなきゃならない。幸い、この辺は激戦の跡だったから、大砲の薬莢がたくさん落ちてたんですね。それを拾って、その中に米ツブをほうり込んでやって渡したんです。そして、線路の枕木をひっぱがしてきて、割って燃したんですね。あれは油がしみ込んでいるのでよく燃えました。

 とにかく寝る間もありませんでした。たしか、二、三日たって、もうどうにもならなくなったころ、師団命令で刑務所に送りました。向うの正式刑務所です。食糧は、秋のとり入れのあとだったから、まあなんとかありましたなア。

 われわれもずいぶんいろいろなことをやったが、戦闘外では、決してひどいことはしちゃいませんよ・・・」

(鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」P257)



 捕虜は「中央監獄」に収容されたか?

 さてここで、東中野氏の記述を離れます。

 この「堯化門の捕虜」については、そのまま南京の捕虜収容所に収容され、やがて半数は労役に、半数は汪兆銘軍に参加した、というイメージが広く流布しています。そのイメージは、次の板倉由明氏の文によりつくられたものであるようです。

板倉由明『本当はこうだった南京事件』より

この大捕虜群は、十五日朝から歩三八第十中隊、歩二〇第三中隊、第六中隊その他によって護送され、同日午後麒麟門の公路傍の建物 (工路試験場 ?) に収容され、十七日夕刻、入城式の終わった後中山門から城内に収容された。

(中略)

 なお、城内に収容された捕虜のその後については、『南京戦史』第六章第六節「南京付近に収容した捕虜の状況」に詳しいが、最初一万人程度の捕虜が収容され、翌昭和十三年一月六日に「三千六百七十人もいるそうだ」と第十六師団経理部の小原立一少尉の日記に記されている。 約半数が昭和十二年末ころ上海に送られたものと見られ、残りが汪兆銘の南京政府軍に編入されたという事実はよく知られている。

(P387)



 これは、次の榊原主計参謀の証言に基いた記述であると思われます。

榊原参謀証言

<極東軍事裁判>

 俘虜は南京に行く迄は軍司令部まで送附せられたものは多く入城後約四千位の俘虜を収容しましたが、その半数は上海へ送り、半数を南京で収容して居た。

 自分も幾人かは一般労務に使用してゐるのを見ましたが、残虐な取扱をした事はない。用務がなくなれば放免して居る。現に泗県の劉某は方面してやつた一人であるが、彼に聞けば取扱ひ振りは判ると思ふ。

 俘虜の遁亡・窃盗などは稀ではなかつた。窃盗をして捕へられた者は正式に処断されたと思ふが、遁亡したものは其の儘放置した筈である。

(「南京大残虐事件資料集」1 P258)

*榊原氏の証言は、「南京戦史」にも見られます。人数に微妙な相違がありますので、合わせて紹介しておきます。

榊原参謀証言

<証言による「南京戦史」>

軍の入城式は12月17日であったが、私は入城式に先だち、13、14日頃中山門から市内に入りました。俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食糧や収容場所などが決定していなかったので、「取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時機は速やかに示す」こととしました。

ところが、無錫の倉庫で米約六、〇〇〇袋を押収したとの報告をうけ、また、刑務所や監獄が使用できるようになったので、入城式の前後に俘虜の移管を受けた記憶があります。

中央刑務所に収容された俘虜は約四〜五千であったと思います。それは翌年1月、上海地区の労働力不足を補うため、多数の俘虜を列車で移送し、約半数二、〇〇〇人を残したように記憶しています

軍経理部の岡田酉次主計少佐は、「当初食糧が不足していたので、日本兵に支給する五人分の食糧のなかから、俘虜一名分を捻出した。このことを知ったのであろう、俘虜になり、使役をやれば食べられるというので、今まで隠れていた敗残兵や便衣兵が、進んで名乗り出て俘虜になった」と話していました。

(『証言による「南京戦史」』(11)P8)


<南京戦史>

「私は仕事の関係上、多少捕虜収容所に出入りしましたが、翌年の一月ごろ、上海地区の労働力不足を補うため、多数の俘虜を列車で移送し、約半数の二、三千人を残したように記憶しております。軍経理部の岡田酉次主計少佐は、当初食糧が不足していたので、日本兵に支給する五人分の食糧から、捕虜一名分を捻出した。 このことを知ったのであろう、捕虜になり、使役をやれば食べられるというので、今まで隠れていた敗残兵や便衣兵が、進んで名乗り出て捕虜になったと話していました。」(『南京戦史』P376-P377)

 捕虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食料や収容場所が決定しなかったので、「取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時期は速やかに示す」こととしました。ところが、無錫の倉庫で米約六千袋を押収したとの報告を受け、また刑務所や監獄が使用できるようになったので、入城式の前後に移管を受けた記憶があります。
中央刑務所に収容された捕虜は約四、五千であったと思います。(『南京戦史』P324)
 


 しかしよく読むと、榊原参謀は、この捕虜が「堯化門の捕虜」であるとは一言も言っていないことに気がつきます。

 榊原参謀の言う通り捕虜収容人数が「約四千位」で、かつ少なくとも四千人以上の「堯化門の捕虜」がそのまま収容されたのであれば、捕虜収容所の捕虜の大半は「堯化門の捕虜」であることになります。

 南京の捕虜収容所に収容された捕虜は、どこから来たのか。その出自を示す資料は、ほとんど残されていません。私が確認できたものは、次の3点です。

額田担『陸軍省人事局長の回想』より


 十三年元日夕、南京に到着し、翌朝より紫金山をはじめ南京城内外の戦場を弔うとともに、筆者は特に各師団毎に最も戦績の勝れた一部隊長を選んで歴訪した。なかでも三師団歩六八長鷹森孝大佐、十六師団歩三三野田謙吾大佐より年齢問題をはじめ、すこぶる有益な人事に関する教訓を得たことは幸であった。

 なお、特に忘れ得ないのは、南京の旧兵営内に拘禁されていた中国軍官学校生徒数百名の揃って泰然とした凛々しい姿であった。

 S参謀は「何を聞いても頑として一言も答えぬ者が多い」と感嘆していた。さすがに蒋介石夫妻が軍官学校内に止宿して朝夕、生徒に接し訓育を全うした成果であると感心した 。

(同書 P19-P20)

 

ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々』より

 三月二八日 月曜日

 模範刑務所で夫を見かけたという二人の女性がけさやってきた。彼女たちは、夫のところへ食べ物や衣類を持って行くことができた。姜師傳は、刑務所に彼の息子がいるかどうかを確かめに出かけた。わたしたちが現在知っている男性囚人たちの一部は、あの恐ろしい一二月一六日に拉致された人たちだ。

 三人についての説明書を福田あてに送った。民間人の囚人の釈放実現のため、彼が本当に誠実に努力してくれることを期待している。


一九三八年五月〜六月初旬  (翻訳者によるダイジェスト)

 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らわれていた民間人のなかで、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、六月二日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会にくるようにとの連絡が入ったことである。

 そして翌日、三〇名の男性市民が模範刑務所から釈放され妻子、家族のもとへ帰って行った。 ヴォートリンは、一月から始めた釈放嘆願署名の成功を喜ぶとともに、結局は夫や息子が戻らなかった圧倒的多数の釈放嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。(P243-P244)

前川三郎氏『真説・南京攻防戦』より


 更に特記すべきことがある。氏(「ゆう」注:森五十男氏。元陸軍中尉)が南京俘虜収容所長としてのことである。 昭和十七年十一月から丸一ヵ年間、支那派遣軍総司令部が作戦上の必要から同収容所を直轄、秘匿名「支那派遣軍総司令部森隊」として、その任務に当らしめた。その本部収容所「南京俘虜収容所」は、南京城内中心部の江蘇第一監獄を当て、二千人以上が収容されていた。

 この時の捕虜たちが、殆どあの南京戦で首都防衛軍として日本軍と戦い、落城時、下関付近その他で、捕虜となった将兵達で 、汪政権下維新軍に転向しなかった者達が主体を占め、佐官級の上級将校も数多くいたのであった。

 その森隊長は、適正な捕虜取扱い処遇について、克く意見具申等に努めて、諸問題の是正改善を全うし、当時の立法院長・伍澄宇氏から、中国政府並びに中国々民を代表して感謝する、との表彰を受けた。 人道的友好的な任務の遂行の結果は、終戦にあたり進駐の何応欽中将も確認。支那派遣軍総司令部としての中国人俘虜取扱処遇に遺憾のなかった点が蒋介石総統に達し、戦後の諸般に幸甚をもたらした、というエピソードの持主。

(P220)

*「ゆう」注 当時の地図を見ると、南京城内の中心部に「模範監獄」があります。ヴォートリンのいう「模範刑務所」と、この「南京城内中心部の江蘇第一監獄」とは同じもの、と考えていいでしょう。


 いずれの資料からも、収容された捕虜が「堯化門の捕虜」であったことを裏付けることはできません。ヴォートリン日記では「12月16日」の敗残兵狩りによる捕虜が存在していたことが示唆されていますし、 森五十男氏証言では「下関付近その他で捕虜となった将兵たち」とのことで、むしろ「堯化門」以外の捕虜が主力であることを伺わせます。


 また森証言を見ると、上海に労役に送られなかった約二千名は、そのまま5年後にも「非転向」のまま「捕虜収容所」に収容されていたようです。

  板倉氏の「約半数が昭和十二年末ころ上海に送られたものと見られ、残りが汪兆銘の南京政府軍に編入されたという事実はよく知られている」との記述とはっきりと矛盾します。 板倉氏が、どのような資料からこの記述を行ったのかは、不明です。
*「南京戦」の捕虜が汪兆銘政府に参加した例としては、劉少将の事例が知られています。 しかし劉は「堯化門」の捕虜ではなく「難民区に避難し」ていたものであり、また「模範監獄」に収容されたものでもありません。 あるいは板倉氏は、この事例と混同したのかもしれません。

大西一氏(上海派遣軍二課参謀)の証言

 私が南京特務機関長になったとき(十三年二月)、第十軍の参謀がやってきて、司令部で捕虜を五、六名持っているので、これを引き受けてくれないか、というので引き受けました。もし優秀なものが居れば、将来地方政権ができたとき、治安部隊に使うことを考慮したからです。そのなかで、 「劉」という少将以下若干の者は、南京に維新政府ができたとき、幹部に登用しました。劉少将は後日、日本流に言えば、教育総監のような地位に昇進しました。

 (「南京戦史」P377)

*「ゆう」注 「証言による南京戦史」では、「捕虜」の数は「五、六名」ではなく「五、六十名」となっています。また大西氏の回想『回想・支那事変 上海から南京まで』 (『丸』別冊『不敗の戦場 中国大陸戦記』所収 P82)でもやはり「俘虜約五十名ぐらい」とありますので、こちらの方が正確なのかもしれません。


「周仏海日記」より

(昭和十五年)十一月十五日

 八時起床。劉啓雄を接見する。黄埔軍二期で、
民国二十六年 (一九三七年)南京攻防戦の時の旅長で、南京陥落後、難民区に避難し、そののち開封に行って軍隊を招集し、和平救国軍軍長とな り、同部隊改編により南京に来たのである。この人物は有能なようで、大いに役立ちそうだ。。

(「周仏海日記」P266)


**また、田中正明氏『南京事件の総括』には、このような記述が見られます。
田中正明氏『南京事件の総括』より

 また一部は釈放されて、昭和十三年に創立された維新政府―のちの汪兆銘政府―の軍隊に起用された。維新政府創立の立役者であり、行政院長に就任した梁鴻志氏は、のちに漢奸裁判にかけられて処刑されるが、その裁判の席上こう述べている。

「綏靖軍(維新政府の軍隊)の成立は民国二十八年(昭和十四年)春で、兵士の大部分は投降兵から成り、応募者は僅少であった。四個師に分けたが、一個師は僅か二、三千人であった」 ( 益井康一著『漢奸裁判史』一一〇ページ〉。

つまり、約一万人の綏靖軍は主として南京戦、武漢作戦における捕虜を起用したというのである。のちに北京新民会首都指導部で活躍した劉啓雄少将も南京戦における捕虜の一人である。

(P184-P185)
 田中氏は「南京戦」の捕虜が大挙として汪兆銘軍に参加したかのようなイメージをつくっていますが、よく読むと、氏が論拠とする梁証言には、「南京」などという語はどこにも見えません。 「主として南京戦、武漢作戦における捕虜」というのは、田中氏の勝手な「解釈」です。 この梁証言をもって「南京戦の捕虜が生き残って汪兆銘軍に参加した」と主張するのは、ちょっと無理があるでしょう。





 そもそも「南京戦」の捕虜は、「四千」なんて数ではなかったはずです。

 「堯化門」を含む南京城東方方面でも、38連隊が捕えた「7000名」なり「4000名」なり以外に、歩兵第二十連隊第三大隊が捕えた1800-2000名程度の捕虜が存在します。(*)
*森王証言、及び「牧原日記」によります。日付に多少のズレはありますが、牧原日記に出てくる「九中隊」は森王氏の「第三大隊」に属しますので、両者は同一の捕虜、と考えていいでしょう。
森王琢氏の証言 (歩兵第二十連隊第三大隊長代行・陸軍大尉)

 小生(犬飼氏も同様)は中島師団長の隷下部隊(20i)ですが当時その様な命令も指示も聞いた事もなく(犬飼氏も同氏は勿論母隊である9iでも誰も聞いて居らないと言っておられます)事実小生は12月17日(不確実)に 城外掃蕩に於て約二千の捕虜を誘導して(敗残兵のみならず住民も居たかと思います)之を収容所(竹矢来で囲ってあった)に引渡しましたが「師団長の方針に違反した」等と言われたことはありません。

 (「証言による『南京戦史』(番外) =『偕行』1985年5月号P7)

牧原信夫日記

(歩兵第二十連隊第三機関銃中隊・上等兵)

十二月十四日

 岔路口手前約一里半の所で九中隊は一ケ分隊の兵力で約一千八百名からの支那軍を連れて帰るのに出会った。敵は食うに食なくふらふらして居たのも可愛想であった。

(「南京戦史資料集」P511-P512)



 また、同じ第十六師団に属する「歩兵第三十三連隊」も、相当数の捕虜を得ています。

『魁 郷土人物戦記』より

 こうして、憲兵の監視下の民家にはいると住民や敗残兵が隠れている。敵兵は民家に飛び込んで軍服を脱ぎ、良民に早変わりしたが服が足りず、上着だけやズボンだけの者もいる。 民服を着ている連中もいる。曲がりくねった中国の民家で捜索は困難であったが、こっちもこわごわである。それでも七、八百人は捕虜にした。

 一方、城外の紫金山麓や下関方面を掃蕩していた一、三大隊の方も、山や部落を捜索するのだが、抵抗の気力を失った敗残兵は五人、十人とかたまって白旗を掲げてぞろぞろと投降してくる。 よくもこれだけ隠れていたものだ、と感心するやら安心するやら、その数五、六千人にも達した程である。

当時、南京で日本軍に捕えられた捕虜は数万人に達したといわれるが、この捕虜が虐殺に連なったのかともいわれるが、私はすべてを否定はしない。極めて一部であろう。

 しかし、良民を虐殺したということは、あり得ないと証言したい。軍人が戦火の中でならば、敵を殺傷することは当たり前であるが、戦いが終わって笑いの聞こえる中で殺人はできない。 それをやったという人は狂人である、と私は断定する。幾度か砲火の中をくぐり抜けて来た、また南京城の城頭にも立った偽らざる告白である」

(P547-P548)

*「ゆう」注 本文中に語り手が誰かの記載はありません。


 「数万人」に達したであろう捕虜のうち、榊原証言によれば、「捕虜収容所」への収容が確認されたのはたった四千人程度であるに過ぎません。

  「魁 郷土人物戦記」では虐殺されたのは「極めて一部」ということになっていますが、単純に考えても、「極めて一部」などということはありえないでしょう。 一定数の「逃亡」、あるいは「釈放」はあったかもしれませんが、大半は「処分」されてしまったものと見られます。


 「堯化門の捕虜」については、 部隊関係者の証言の通り、ひょっとするとそのまま南京捕虜収容所に収容されたのかもしれません。

  しかし上に見るとおり、「捕虜収容所」には少なからず「下関」の捕虜や「軍官学校」の捕虜も混じっていました。 榊原証言の通り、仮に当初の捕虜の数が「四千人」しかいなかったとするならば、「「堯化門」の四千名(七千名?)の捕虜がそのまま南京に収容された」という説明には、疑問を持たざるを得ません。

*次項で取りあげますが、南京の捕虜収容所に収容された捕虜の数は、当初、「四千人」ではなく「一万人」だった可能性はあります。 しかしいずれにしても、一月中旬時点では「四千人」しか残りませんでした。

**捕虜の監視に当たった部隊の中には「ホリョの七千名も魚のエサとなる」という記述を日記に残した兵士もいます。 ただし「南京戦史」編集部は、この記述に「その当時噂さである。捕虜は江岸で処分するものと思われていたらしい」と注をつけています。

林正明日記 (歩兵第二十連隊第三中隊第一小隊第四分隊・伍長)

 十五日には南京城外の捕虜の監視する。第六中隊と共に七千名の支那兵、十六日には南京城外の守備にて下士哨となり、逃げる敗残兵を悉くやつける嬉しさ。戦友の仇は此処で。

 二十四日に再び南京城内の警備に任ず。場内の避難所へ逃げ込みている支那人を二種に分ち、お気の毒な支那兵は揚子江の魚のえさになる。 其のトラックの数は人員○○名○○台で、残す支那人には安居証を渡し、それには其の人の人相書あり、ここにて取調べる事二週間。城内は幸城壁で囲まれ支那人お化けの支那兵も逃げられず、よくよく調べられて前の揚子江へ。また前記のホリョの七千名も魚のえさとなる。

(『南京戦史資料集機拜補改訂版413頁)


*『南京戦史資料集』 旧版ではなぜか「十五日には」以下の前半の記述が省略されており、「前記のホリョ」が何のことだかわからなくなっています。




 捕虜収容所の「その後」


 さて東中野氏は、収容所に収容された捕虜の「その後」について、こう書きます。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より

 このように、日本軍が堯化門で投降してきた中国兵を護送していたのは確実であったことが分かろう。彼らが数日をかけて護送されていた以上、処刑されたとは考えられないが、その後も見ておきたい。


 日本軍は戦後復興事業に捕虜を使った

 十二月二十三日、小原輜重兵は南京の港町下関の「南京碇泊場」に公務で行ったおり、偶然、捕虜を目撃し、次のように記している。

《十二月廿三日・・・五時半起床。雪がちらちら降ってゐる。とてもとても冷い。八時出発。南京波止場に馬糧を受領に行く。 ・・・こっち側の港には、今や軍用船から、内地から送られた荷物をチャンが何百人と列を作って桟橋から陸へ運んでゐる。此のチャン公は、先般湯水鎮のこっちの村で見た敵の捕虜をこうして使役に使ってゐるのだ。四〇〇〇人もあそこにゐたのだから使ひ切れない位ゐるだらう》 (一四二頁 )

 もうそこまで正月が近づいていた。そのこともあって、日本国内から食糧や援助物資や軍需品などがどんどん到着していた。大変な量の慰問袋も南京に送られてきていた。その陸揚げ作業に、彼らが使役されていたのであろう。 右に引用したように、小原輜重兵は南京碇泊場で捕虜が使役に使われているのを目撃したあと、そこを出発して宿営地の軍官学校に戻ろうとしたとき、またまた別の捕虜をも目撃している。

《そこで元気を出して積載して出発。途中チャン公が道路に散逸した焼け残りの家具、装具などを整理して清掃してゐた。この使役も捕虜だらう》 (一四三頁 )

 京都十六師団の佐々木旅団長も「下関の目貫の通りは殆ど全部焼け落ちてゐた」 (I 三八 O 頁 ) と回想しているように、南京の北の玄関口「下関」も中国軍の堅壁清野作戦により破壊されていた。中国軍による破壊は下関だけではなく、南の光華門やその他でも、次頁上の写真のように見るも無惨な状態となっており、原状回復や戦場掃除の必要があった。

  そのためには多くの捕虜の使役が必要であった。撤去、運搬、道路清掃などに、捕虜が動員されていたのは確かであった。

 次頁下の写真は十二月二十二日、京都十六師団の下関の野戦倉庫で、京都十六師団経理部の金丸吉生軍曹が捕虜に指示しているところである。この写真もまた多くの捕虜の使役を示している。

(P125-P126)

 これだけ見ると、捕虜たちは無事助命されて、平穏無事に労役に従事していたように思われます。しかしどうも、必ずしも捕虜収容所に収容された捕虜全員が最後まで殺されることはなかった、ともいえないようです。以下、二つの資料を見ます。

「南京戦史」 第六章第六節より

二、第十六師団経理部部員、某少尉(希望により特に名を秘す)の日記

一、六(曇) (一月六日の意)

 寒い事前日通り、今日は自動車の運転と馬の稽古をしたが、乗馬の方が面白い、毎日練習しよー、(P375)

 支那捕虜百人を返納する為に、夕暮江蘇第一監獄へ行つたら、一人代表の奴が出て来て、内部を案内してくれた。先づそいつが呼子を吹いて、何だか大きな声を出すと、゛気を付け゛とでも云つたのだらう、部屋の内にゐる奴も、外にゐる奴も不動の姿勢をとる。

 その中を自分が廻つて行くと、中には礼をする奴がゐる。部屋を出ると、又大きな一声を出す。多分゛休め゛と云ふのだろー。何だか気味がわるかつた。

 今では大分数も減つたさうだが、未だ三千六百七十人もゐるさうな、最初は一万人もゐたと聞く。

(P376)

*「南京戦史」掲載時点では名を秘されていましたが、この少尉の氏名は「小原立一」です。詳しくは「「馬群」の捕虜殺害」をご参照ください。


 「最初」の「一万人」が、一月六日には「三千六百七十人」に減少した、とのことです。榊原主計参謀は、「極東軍事裁判」などでは「放免」により減少した、ととれる証言を行いましたが、秦郁彦氏によれば、このような証言があるようです。

秦郁彦氏「南京事件」より

 その後の彼らの運命については、処刑説、上海移送説、釈放説と色々だが、今のところ確認できない。

翌年一月上旬南京に出張した参謀本部の稲田中佐が、榊原派遣軍参謀から、「収容所の捕虜を上海で労役に使うつもりでいて、数日出張した留守に殺されてしまった」(稲田正純談)と聞いている。

(P124-P125)



 おそらくこの証言を受けてか、秦氏はこのような発言も行っています。

座談会『南京大虐殺の核心』より

 十二月の末から一月の初めにかけてです。下関付近で日本軍が大量処刑をやっています収容所に入れていた捕虜や国際安全区から便衣兵を引き出したものと思われますが。

(座談会「南京大虐殺の核心」=「諸君」1985年4月、P81)


 上の資料と榊原参謀の極東軍事裁判証言と組み合わせると、あるいはこんな「推理」が可能かもしれません。

 当初収容所に収容された捕虜は(「堯化門の捕虜」が含まれていたかどうかはともかく)約一万人いた。しかしそのうち半数以上は榊原参謀が「数日出張した留守に殺されて」しまい、四千人が残った。 榊原参謀は、そのうち半数を上海に送った。「極東軍事裁判」では「捕虜殺害」の事実を証言するわけにはいかないので、はじめから捕虜の数は四千人しかいなかった、ということにしておいた。


 上記資料の証言内容がやや曖昧であるため断定はできませんが、こう考えれば、一応上の資料群の整合性は確保できることになります。 実際問題として、「捕虜」を養う余力が十分にある状況であるにもかかわらず交戦中の敵国兵士を何の条件もなく釈放した、と考えるよりは、実は「殺してしまった」と考える方が自然でしょう。

*秦郁彦氏は、上の証言を「三十八連隊捕虜」のものとして理解しているようですので、ここではそれに従いました。 ただし稲田正純氏の伝える榊原証言は、「幕府山事件」の捕虜のことを示している可能性もあるように思います。 いずれにしても、南京戦で生じた「捕虜」のうち最終的な「生き残り」が四千人程度しかいなかったのであれば、大量の「捕虜殺害」が生じていたことは確実でしょう。
**なお田中正明氏は、「南京事件の総括」で、次の記述を残しています。

田中正明氏『南京事件の総括』より

集団捕虜約一万が南京城内の二つの監獄と、江東門の模範囚収容の小監獄および二つの収容所に収容された。捕虜取扱い専任の榊原参謀によると、「中央監獄の四、〇〇〇人のうち半分の二、〇〇〇人は、命令により上海の捕虜収容所に移した。その分類は私がした」と云う。 さらに同氏は東京裁判で、「また幾人かは各部隊が労務に使用し、逃亡する者も相当多数いたが、これはそのまま放置した」(「速記録」三一〇号22.11.7)。と証言している。

(同書 P184)


この記述をそのまま信じると、榊原参謀の証言した「四千人」は「一万人」の一部である、ということになります。しかし田中氏の過去の「創作癖」を考えると、 「集団捕虜約一万が南京城内の二つの監獄と、江東門の模範囚収容の小監獄および二つの収容所に収容された」という出典不明の文をそのまま信じるわけにはいかないでしょうし、 また極東軍事裁判で少しでも日本側に有利な証言を行おうとした榊原参謀がこのことに触れないのも不自然です。これもまた田中氏の「創作」の可能性が高い、と見るべきでしょう。

なお、上に紹介した実際の榊原証言と比較すると、田中氏は「俘虜の遁亡・窃盗などは
稀ではなかつた」 を勝手に「逃亡する者も相当多数いた」と書き換えるなど、証言の「捻じ曲げ」を行っていることに気がつきます。




 堯化門で捕虜になった七千人なり四千人なりは、南京の捕虜収容所に収容され、最終的には「労役」なり「汪兆銘軍への参加」なりの運命を辿った、というのが定説に近いものになっています。

 しかし資料をよく読みなおすと、その根拠は必ずしも十分なものではなく、彼らが実際に最終的に助命されたのかどうかは不明としか言いようがありません。むしろ、そのうちかなりの多数が殺されてしまった可能性も見えてきます。

 東中野氏はこの「捕虜収容」事例を、「人道的な日本軍」のイメージづくりにフルに利用しようと試みます。しかし以上見てきたとおり、氏は資料の都合の悪い部分はすべてカットするなど、研究者としては大変問題のある行為を行っていまず。資料をきちんと読み直すと、とても東中野氏が主張するようなイメージを得ることはできないでしょう。


(2007.10.7)


HOME 次へ