東中野氏「再現南京戦」(7)
東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (7)
幕府山事件(3)
−東中野氏の「解放目的」説ー


 前記事では、「17日の虐殺」が「解放目的」の連行中のハプニングだったのか、あるいは初めから「虐殺」目的だったのか、という論点について触れました。

  東中野氏は、第六章後半で「解放目的」説の積極的擁護を試みていますので、以下、氏の主張を検証していきましょう。
*私見ですが、以下の東中野氏の主張は、ほとんど問題にならないレベルのものです。 前コンテンツで述べたような「虐殺目的」説有利に展開している論壇の状況で、東中野氏の主張により情勢が大きく変化するとも思われません。

 こちらは、東中野氏の主張のアバウトさを確認するためのコンテンツ、としてご覧下さい。



論拠1  「日本軍にも被害が出た」

 東中野氏は、事実経緯の説明として、先の怪しげな「両角手記」を、そっくりそのまま延々と引用します。

 そして、「解放目的」説が妥当であるとする根拠として、二つの理由を掲げます。


 まず、その「第一」です。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

 一つは「二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで」逃走したこと、それは「如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもって」制止したこと。このことは次のことから事実として確認されるのである。

 捕虜の逃亡騒ぎのなか、会津若松六十五連隊の斎藤次郎輜重兵が「捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され、死に近い断末魔のうめき声が身を切る」 ( 三九頁 ) と記しているように、また捕虜を護送した第一大隊本部の荒海清衛上等兵が陣中日記に「十二月十七日・・・大隊で負傷、戦死有り」 (Ⅱ三四五頁 )と記しているように、 またある一等兵が戦友は「十二月十七日夜十時戦死」 ( 八八頁 ) と記しているように、会津若松六十五連隊はこのとき死傷者を出していたのである。

 よく考えてみてほしい。このとき、捕虜は鉄砲などの武器を持っていなかった。武器を持っていたのは、会津若松六十五連隊と、遠くの「北岸」にいた中国軍であった。

 それゆえ「南岸」で死傷した会津若松六十五連隊の兵士は、友軍によって撃たれたとしか言いようがない。

 つまり「暗闇」のなか、突然「北岸」の中国兵が攻撃してきた銃弾が、会津若松連隊の捕虜処刑と勘違いされ、捕虜が騒然となり、騒ぎが大きくなって、予想外の逃亡となり、 ついに会津若松連隊の逃亡制止目的の発砲となり、それが暗闇のなか、友軍に当たってしまった、というよりほかない。

 もし処刑目的の銃撃であったのならば、万全の計画がなされ、友軍が友軍兵士を撃たないように処刑の配置が設定されていたであろう。

 勿論、捕虜に逃亡させないよう、準備万端、処刑の銃を向けて監視していたはずである。


(P171-P172)

 要するに、日本軍側にも「被害者」が出たから、これは「計画的な殺害」ではない、と主張したいようです。

 しかしこれは、ちょっと無理のある主張でしょう。

 「計画的な殺害」であっても、あれだけの人数の捕虜です。 その「処理」にあたって、偶発的な事情により日本軍側に「被害者」が出たとしても、別におかしなことはありません。


 実はこれに対しては、本書発行のはるか以前、1999年に小野賢二氏から批判が行われていました。

小野賢二氏『虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方』より

 一方、虐殺現場となる長江岸には半円形に鉄条網が張られ、その外側に重機関銃が設置された。

 捕虜はこの鉄条網の中に入れられる。 証言によると、長江岸から捕虜を並べるのに「整理兵」と呼ばれた兵士たちが、捕虜とともに鉄条網の中に入り誘導した。

 重軽機関銃の銃撃は半円形の鉄条網の両端にたいまつのような装置を設置し、この装置に点火と同時に銃撃が開始され、闇の中で、その両端の火をそれぞれの機関銃の「射撃範囲」とした。

 だが、この時なんらかの事情で何名かの「整理兵」が鉄条網の外に出られなかったという。七名の死者の何名かは捕虜とともに銃殺された「整理兵」だった。

 死者の中に、東中野氏も語っている連隊機関銃隊の少尉がいる。

 この少尉と同村出身である第一大隊本部の遠藤重太郎特務兵(仮名)は少尉の死亡時刻を「夜十時戦死」と書く。

 「夜十時」であればすでに銃撃は終了し、役割の終わった機関銃隊は宿舎に引き上げた時刻であり、虐殺は銃剣による刺殺段階にある。

 では、少尉は何故死亡したのか。

 証言によれば銃撃のあと、少尉は軍刀で捕虜の試し切りを始めたという。 だが、逆に刀を奪われ、捕虜に殺されたという。

 そして、この捕虜は日本兵によって「よってたかってなぶり殺しに殺された」という ( 宮城県平和遺族会編『戦火の中の青春』一九九〇年、の中の「父の戦死・母の死 南京事件」参照 ) 。

 その他、日本兵の死者は刺殺行動の混乱の中で生じたものと考えられる。

 捕虜虐殺全行程の中で、重軽機関銃の銃撃は比較的短時間だった。刺殺は宿舎で待機していた兵と交代しながら一八日の朝がたまで続くのである。

(『南京大虐殺否定論13のウソ』P151-P152)

 東中野氏が、この「批判」を知らないはずがありません。この8年後の本著においても、東中野氏はなお、この「批判」を無視して、従前の自分の主張にしがみついているわけです。



論拠2  両角連隊長の言葉

 第二の根拠は、こうです。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より


 解放目的と確認される二つ目は、傍点を付した両角連隊長の言葉である。 「解放した兵は再ぴ銃をとるかもしれない。

 しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう」とは、両角部隊が捕虜を解放したという事実がなければ、発せない言葉である。


 両角連隊長は解放された兵を確認しているからこそ、彼らは「再ぴ銃をとるかもしれない」と言えたのである。

 そしてまた、軽舟艇から逃走した兵士を確認しているからこそ、その兵士たちは再び銃をとっても「昔の勇者には立ちかえれない」と言えるのである。

 では「昔の勇者」云々は何を意味するのか。おそらく両角連隊長は次のように考えていたのであろう。

 両角連隊長は大量の捕虜をどうすべきか、苦悩に苦悩を重ねていた。確かにこれ以上の「収容と給養」は困難であった。

  「皆殺セ」という意見もあったが、しかしこれには同意できなかった。何とか解放できないものかと第三の道を模索していた。

 そしてついに苦肉の解放策に出た。それは失敗した。

 そのとき逃走した捕虜は再び銃をとって日本軍と戦う敵兵となるかも知れない。しかしそれでも、日本軍が処刑を選ばず解放策に出たことは、捕虜にも分かっていたはずである。

  それゆえ、逃亡した捕虜が昔の中国兵に戻って戦うにしても、これまでのような何が何でも日本軍を敵視するという「勇者」には戻れないだろう。

 確かに解放策は、友軍に死傷者を出したという点で(上村利道上海派遣軍参謀副長が十二月二十一日の陣中日記に「下手ナコトヲヤッタモノニテ遺憾千万ナリ」と記しているように) 完壁な捕虜の始末ではなかった。

 しかしそれでも、両角連隊長は「解放」の処置を後悔せず、山田旅団長とともに肯定していたということであろう。(P172-P173)

 どうも氏は、「両角手記」に「解放した兵は再ぴ銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう」の言がある、という一点をもって、その根拠としているようです。

 どうしてかといえば、これは、「両角部隊が捕虜を解放したという事実がなければ、発せない言葉」だからだそうです。

 ほとんど理解不能の、ここまで「文学的」な思い込みを吐露されても、読者としては反応に困るところでしょう。



 一応、「手記」を読み返します。

『両角業作手記』より

 二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、 大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、 我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。

 あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。

 自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>・・・なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。

(『南京戦史資料集Ⅱ』P340)



 両角手記は、大半が逃げることができたかのように記述していますが、これは栗原証言などに照らして、極めて疑わしいところです。

 だいたい、「解放」するはずがこんなことになってしまったのに、なぜ山田少将が「安堵の胸をなでおろ」すのか、違和感を感じるところでもあります。

 それはともかく、両角手記におけるこの記述は、明らかに前後から浮いています。

 手記に基づけば、別に両角部隊の解放策が成功したわけではなく、捕虜たちは「偶発的な暴動」に対する射撃をかいくぐって逃亡したはずです。

 彼らにしてみれば、「解放してもらった」という「恩義」を感じることなど、あるはずがありません。


 東中野氏は、こんな状況でなぜ「しかしそれでも、日本軍が処刑を選ばず解放策に出たことは、捕虜にも分かっていたはずである」などということを言えるのか。理解に苦しむところです。

前コンテンツに書いた通り、あるいは両角手記は、一部の解放に成功したことを示唆したかったのかもしれません。 しかし東中野氏はそのような解釈はとっているかどうか微妙ですし、また、もしそうだとするならば、これは他の部隊幹部との証言とさえも適合しない、明らかな「脚色」です。




論拠3  新聞記者の目

 次に氏は、「新聞記者の目」なるものを「解放目的」説の根拠にしようと試みます。

 全文はとんでもない長文になりますので、氏の主張を要約します。

1.『大阪読売新聞』十二月十六日発、横田記者の記事に、「○○部隊長が『皇軍はお前達を殺さぬ』とやさしい仁慈の言葉を投げ」た、との記述がある。

2.この言葉は、横田記者が捕虜の中から中国軍の参謀を紹介してもらっていること、部隊が食料集めに必死に動いていたことから裏づけされる。これは「殺害」を予期させるような光景ではない。


 しかしこれは、何の根拠にもなりません。

 少なくとも大量の捕虜を得た段階では、山田支隊は捕虜を殺すつもりはありませんでした。 だから素直に「殺すつもりはない」ことを伝えた。そして捕虜のための食料集めに動いた。それだけの話でしょう。


 山田少将の言を信じるのであれば、十六日段階でもなお司令部との「話し合い」が続いていました。山田少将が最終的に「軍の殺害命令」への抵抗を断念したのは、この日のことです。

鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』より

 (『山田栴二日記』より)十六日相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ、捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。

 ―十六日になっても、まだ司令部との話し合いがつかない。

(鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』P194)

『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』より

 山田旅団長はすでに故人となったが、相田少佐の派遣は「殺すことはできないという意思の伝達だった」 と記者に述懐していたことが思い出される。結局、考えあぐねたすえが「両角連隊長とハラを合わせたうえ、夜間、ひそかに解放することに決断した」とも語っていた。(P125)



 山田少将は、「断念」の結果、「軍に黙ってこっそり解放」を決意した、と主張していますが、前コンテンツで述べた通り、必ずしもこれに信を置くことはできません。

 いずれにしても、 横田記者が取材を行った時点では明確な「殺害方針」は決定していなかった、と理解しておけばいいだけのことでしょう。



 しかし、この節の東中野氏の最後の記述も、奇妙なものです。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

 しかし先に見たように、十二月十六日午後、放火が起き、最後の取るべき手段としての処刑がなされ、そして解放どきには逃亡騒ぎが起きた。そのため第三報が出ることはなかった。

 しかし解放策が成功していたとしても、横田特派員には第三報は書けなかったであろう。日本軍は捕虜を「解放」しましたと、おおっぴらに報道できる時代ではなかった。(P177)


 「放火」「最後の取るべき手段としての処刑」「解放どきには逃亡騒ぎ」などと、「両角ストーリー」を盲信してさらに勝手な「想像」を膨らませた東中野氏のいい加減さについては、もう繰り返しません。 

 しかし、両角手記の記述を信じるのであれば、これは「軍命令を無視しての捕虜釈放」であったはずです。

  当然「軍」にわからないようにこっそりとやるべきものであり、新聞記者に対して自慢話のタネにするようなエピソードにはなりえません。

 「おおっぴらに報道できる時代ではなかった」以前の問題でしょう。




論拠4  「国民党も宣伝せず」


 東中野氏の最後の論拠は、国民党は幕府山事件を知っていたはずだ、それなのに全く「宣伝」に使わなかった、従ってこれは「不法」ではなかった、というものです。これまた、頭が痛くなってくるような「屁理屈」です。

 そもそも、当時の国民党政府が「幕府山事件」を周知していた、という具体的な資料は存在しません。

 
日本における小野賢二氏の研究などにより「事件」の実態が明らかになってきたのは、ようやく1980年代のことでした。事件当時、「実態」が十分に伝わっていたとは考えられません。



 さて、東中野氏の文を見ます。氏は、いきなり「日本の戦争相手国であった国民党政府も幕府山捕虜のことは十分に知っていた」と決め付けます。


東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

 『大阪朝日新聞』の記事は、会津若松六十五連隊が約一万五千の捕虜を得たことを世間に伝えていた。

 これは日本にも外国にも知れ渡っていた。日本の戦争相手国であった国民党政府も幕府山捕虜のことは十分に知っていた。

 国民党中央宣伝部の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』
の「対敵課工作概況」の「 2 、敵情の研究」に、次のような記録があるからである。
(P177)



 読者は当然、これに続いて国民党の「極秘文書」に「幕府山捕虜」についての言及があるという説明が出てくるのだろう、と期待しますが・・・。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

《(一)敵方のニュース放送の収録・・・東京にある各新聞に毎日記載されるニュース (しかも新聞に載せていないものもある)を、同日の午前中にわが党、政、軍各長官の前に提出。 これにより敵の情勢を把握し、その対策を講ずることもできる》

 
傍点を付したように、国民党中央宣伝部は日本の新聞を逸早く入手し、「党、政、軍各長官」とともに分析し、その宣伝対策を講じていたことが分かろう。(P177)
 


 なんとその根拠は、「国民党中央宣伝部は日本の新聞を逸早く入手し、「党、政、軍各長官」とともに分析し」ていた、という単なる「一般論」でした。

 この程度の「情報収集活動」でしたら、「極秘文書」などという大仰なものを持ち出すまでもなく、どこの国でも「常識」として行っていることでしょう。

 普通の研究者でしたら、せいぜい、「知っていた可能性がある」程度の慎重な言い回しを使うところです。

  要するに、東中野氏の「論理」を成立させるためには国民党が「事件」をストレートに知らないと困る、という事情から、強引な決め付けを行っただけの話であると思われます。

 まあ、「新聞記事を入手して捕虜の存在を知っていた」程度の可能性はあるのかもしれません。

 しかし、「南京失陥」という大事件に遭遇し、大量の戦死者を出した中国軍が、いちいちこの「捕虜」の運命に重大な関心を寄せていたとは限りません。おそらくは「それどころではなかった」というのが実態でしょう。



 さてここから、東中野氏はどんどん「空想」を広げていってしまいます。
 
東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

 国民党宣伝部は会津若松連隊が捕虜をどう処置するか注目していたはずである。『大阪朝日新聞』の記事からも明らかなように、捕虜のなかには将校もいた。

  放火と解放どきに、多くの捕虜が逃げた。彼らは必ず国民党政府に実態を伝えていたはずである。(P177-P178)
 


 もう何度も説明しました。「火事」が捕虜の「放火」だったかどうかはわかりませんし、この時に多くの捕虜が逃げた事実を確認することはできません。

 「解放どき」にしても、栗原伍長の説明に従えば、揚子江を前に捕虜を半円形に包囲しての一斉射撃であったはずです。 しかもその後に、生き残りを刺殺して回っています。「多くの捕虜が逃げた」ことなど、ありうるはずもないでしょう。

 だいたい「放火」どきに逃げた捕虜が、なぜ「実態」を知っているのか。このあたり、東中野氏の論理は強引が過ぎます。




 実際に逃亡に成功した兵士の手記としては、唐光譜のものが知られています。

*全文はこちらに掲載しました。

唐光譜『私が体験した日本軍の南京大虐殺』

 六日目の朝、まだ明けないうちに敵は私たちを庭に出し、すべての人の肘同士を布で縛ってつなぎあげた。全部を縛りおわると、すでに午後二時過ぎであった。

 その後敵は銃剣でこの群衆を整列させ老虎山に向かって歩かせた。そのとき人々は腹が空いて気力もなくなっていた。 敵は隊列の両側で、歩くのが遅い人を見るとその人を銃剣で刺した。

 十数里歩くともう暗くなった。敵は道を変えて私たちを上燕門の河の湿地から遠くない空き地に連れていった。

 六日六晩食物を与えられず、たくさんの道を歩いたので、一度脚を止めるともう動けなくなって地面に座り込んで立ち上がれなかった。一時間の間、その場には数えきれないほどの人が座っていた。

 このようであっても生存本能から、敵が集団虐殺をしようとしていることに感づいた。私たちは互いに歯で仲間の結び目を咬み切って逃走しようとした。

 人々がまだ全部咬み切らないうちに、 四方で探照灯が点き、真っ黒な夜が急に明るくなり人々の眼をくらませた。

 つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。
 
 大虐殺が始まったのだ。

 銃声が響くと、私と唐鶴程は急いで地面に伏した。 ただ多くの人が「打倒日本帝国主義 ! 」「中華民国万歳 ! 」というスローガンを大声で叫ぶのが聞こえただけだった。

  銃声・叫び声につづいて、多くの人が銃弾にあたって倒れ私たちに上からおおいかぶさってきて、私たちは下敷きになった。彼らの鮮血が私の衣装に染み込んできた。

 私は息を止め身じろぎさえしなかった。

 二十数分が経ち銃声が止むと、私は戦々兢々として唐鶴程を手探りして彼を引っ張り、低い声で「どうした? 怪我はないか ? 」ときいた。

 彼は「大丈夫だ。君は ? 」と言った。話し声が終わらぬうちに機関銃の音がまた響き起こった。私は驚いて死人の山の中に隠れ身じろぎしなかった。

 二日目になって掃射は止まった。私は唐鶴程がちっとも動かないことに気づいて緊張した。私は力を入れて彼をゆさぶったが彼はそれでも動かなかった。

  彼の頭部に触れたとき彼の頭に弾があたっていることを発見した。鮮血が絶え間なく外に溢れ出てきた。私は驚き大急ぎで死人の山の中に引っ込めた・・・。

 しばらくして銃声は聞こえなくなった。私は急いでここから離れなければ生き延びられないと思った。

 私はゆっくり、そっと死体の中から首をのばしてのぞき見た。 前には死体がころがり私をさえぎっていた。

 私は前方に這っていけば敵に見つかるだろうと思い、脚を後方の死体に引っ掛けてゆっくりと少しずつ後に下がり、死体の山のところまで後退した。私は再ぴ動こうとはしなかった。

 探照灯はとっくに消え、暗く静かな夜が大虐殺によるこの世でもっとも悲惨な現場を蔽った。河の水がザアザアと流れ、まるで悲痛な泣き声のようであった。

 どれほど経ったかは知らないが、私は敵が物を片付ける音、つづいて彼らが歩く音に気がついた。汽船もドンドンと走り去った。 私はやっと大胆になってゆっくりと歩いたり這ったりしながら、下流に向かって十数里歩いた。

(以下略)

〔『南京保衛戦』より〕

〔帆刈浩之訳〕

(『南京事件資料集 2中国関係資料編』P251-P253)


 殺害状況は、概ね栗原伍長証言とも整合します。逃亡者など、ほとんど出ようがない状況であったことがわかります。

 このような数少ない「生き残り」が、果たして国民党政府に実態を伝えていたのかどうか。

 少なくとも『南京事件資料集 2中国関係資料編』を見る限り、「南京事件」について数多い報道を行った国民党系新聞「大公報」にすら、「幕府山事件」を思わせる記事は掲載されなかったようです。

 国民党は十分に実態を掴んでいなかった、と判断するのが妥当なところでしょう。



 さて東中野氏は、以上のように強引に「国民党は幕府山事件を知っていたはずだ」と決め付けた上で、このように結論します。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

 もしそれが不法な処刑であったと判明したならば、それこそ国民党中央宣伝部にとって格好の宣伝材料となっていたであろう。日本軍は「何万という捕虜を虐殺」と誇大宣伝していたであろう。

 しかしこの幕府山の日本軍を問題にしたり、宣伝したことはなかった。ここからも分かるように、そこには決して不法と非難できる要因は見られなかったのである。

(P178)

 国民党が「幕府山の不法殺害」を「宣伝」しなかったのは、そこまでの事実を知らなかったからだ、と考えて、何の不思議もないでしょう。


 また、国民党が「幕府山事件」を知っていたとしても、必ずしも「宣伝」に利用するとも限りません。

 「南京失陥」は蒋介石にとって大きな失敗でした。「南京失陥」の際に大量の被害が生じたことは、逆に蒋介石が責任を問われる材料であり、決して対外的に積極的な宣伝をできるような材料ではなかったのかもしれません。



 余談ですが、「殺害」を少しでも正当なものに見せかけたいという意図からでしょうか。この章で東中野氏は、相変わらず「中国軍反攻可能性の過大評価」を行っています。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より

 軍からは「処置するよう」に督促が来ていた以上、白昼堂々と捕虜の解放はできない。

  というのは、会津若松六十五連隊第一大隊第一中隊の中野政夫 ( 仮名 ) 上等兵が幕府山で歩哨中に、「十二月十七日 晴 警備。小隊員中××××、××××の両名歩哨服ム中、敵敗残兵ノタメ手榴弾ヲナゲツケラレ負傷ス」 (××は原文どおり、一一七頁 ) と記しているように、幕府山周辺は戦闘下にあったからだ。

 そのため、解放された捕虜が逃走兵集団と合流して再び逆襲してくる危険性も否定できなかった

  しかし夜間に揚子江「北岸」の草鞋洲に解放するのであれば、解放された捕虜が揚子江「南岸」の日本軍と衝突する恐れはない。そう考えた両角連隊長は苦肉の策として、夜陰に乗じて舟で捕虜を北岸に送って解放することにした。 (P167)

 散発的な「敗残兵襲撃」事件は、あるいはあったかもしれません。しかし中国軍の組織的抵抗はとっくに終焉しており、「戦闘下」というのは何とも大げさな表現です。

 実際問題として、それはもう「集団」と呼べる代物ではありませんでしたので、「解放された捕虜が逃走兵集団と合流して再び逆襲してくる危険性」など、存在するはずがありません。

(2008.1.20)


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