山田栴二『陣中日記』より


 山田栴二少将は、歩兵第65連隊(会津若松)と歩兵第104連隊(仙台)から成る、歩兵第103旅団の旅団長でした。歩兵第65連隊長両角業作大佐とともに、「幕府山事件」に関与した部隊の指揮官として知られます。

 うち『南京戦史資料集供戮砲蓮◆峪嚇沈麁麁記」のうち昭和12年9月9日から昭和12年12月31日の分が収録されています。 また「仙台陸軍幼年学校・第四十七期生会 長澤政輝篇」の「第一〇三旅団長陸軍少将 山田栴二『陣中日記』」には、より長く、昭和13年12月までの記述が収録されています。

 「日記」では、「幕府山事件」に関わる12月14日〜19日頃の記述が有名で、ネットでもしばしば紹介されます。しかしそれ以外にも、「日記」には随所に興味深い記述を見ることができます。

 本稿では、「陣中日記」から、見逃されがちなこのような記述を集めてみました。


※以下、『南京戦史資料集供拏録部分は同資料集から、それ以外の部分は「山田栴二『陣中日記』」から引用しています。引用部分を含むより長い抜粋は、本稿の最後に収めました。

 まずは、山田少将が「軍紀の乱れ」を嘆く場面です。長澤政輝篇『山田栴二『陣中日記』』によれば、これらの記述は、日記本文の中にではなく、余白への走り書、という形で登場しているようです。

 旅団長クラスの将官がここまでストレートに「放火」や「強姦」に言及した記録は、必ずしも多いものではありません。「当り前ですよ」とまで言い放った中島今朝吾中将の「開き直り」と比較すると、ある意味、これは山田少将が「良心的」な将軍であったことの証左、と見ることができるかもしれません。


山田栴二日記

一、予後備兵のだらしなさ

1、敬礼せず
2、服装 指輪、首巻、脚袢に異様のものを巻く
3、武器被服手入れ実施せず赤錆、泥まみれ
4、行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曳く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)、銃は天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪(P334)

(『南京戦史資料集供 P334)


山田栴二日記

○徴発の不士鱈は、結局与ふべきのもを与へざりし悪習慣なり

○徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食ふに食なしの状を呈す
 先に処女地に行く隊のみ、うまきことをすることとなる

○兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか
 師団司令部にてもぼやぼやし居れば何んでも無くなる、持つて行かる、馬まで奪られたり

(『南京戦史資料集供 P335-P336)


山田栴二日記

1、連日の放火について注意を与うるも、更に改まらず、四日目頃よりやや効果表れたる如きも、単独にて徴発に行き、火を放ち来るもの依然たり、放火狂に等しきものあり。

2、鉄砲横に、勝手に人夫を探しロバを求め、休憩にて皆仰向けにひっくりかえり、上官を見ても多くは敬礼せず、呼べど返事もせず。

3、キョロキョロと物欲しげに到る所に家探しをし、部落に入れば机の引出しまで皆ひっくりかえす。

4、物を取りて不要のものは皆投げ捨て、利用し得る粉、其の他食糧品、自分が取りて不要のものは皆ひっくりかえして踏みにじる。

5、中隊には十五、六頭のロバを持ちあり。私の所は十二、三頭しかありません、と中隊長得意気なり。
 而かも管理者もなく出発も行く先も知らぬ者あり。
 幹部の統御力の衰弱による所甚だ大なるを認む。

☆棺を発(あば)くこと。

☆支塘鎮付近20キロも離れし医師の宅占領、交互に姑娘を取換えありしこと。

クリークの中にて舟を襲い、やりしもの

☆軍旗小隊、監禁輪姦?。放火狩出のこと。

(長澤政輝篇 「山田栴二『陣中日記』」P47-P48)


山田栴二日記

一、道徳律の低下

 明日をも知れぬ生命の危険の地を往来し、疲労困憊、唯任務の為に体を運びある境地に於て、心が荒び道徳律の低下するは真に己むを得ざりものありと雖も、皇国の為に国民一般の教養を高め、道徳を向上するの要大なりと認む。

 内地にては接触することなき層の人物の、外地にては目にもつき接触する為ならん、唯に兵のみならず、所謂ゴロつき我利々々亡者多く渡来し、国家の名誉を著しく毀損してやまず。

1.径一寸以下の街路樹は、よくも斯くまで根気よくと思はるるほど一本残らず切り行きあり、南京入城前に痛感せしが、徐州の前進にて再び認め、宿県、寿県付近にては、3Dの通過地帯亦同じきを認む。

2.放火狂 大半は火の後始末せず、後のことなど考えぬ、屋内にてドンドン火を焚き、藁を敷き、其の侭出発するに起因すれど、又必要分のみか藁束、藁小屋にいきなり火をつけ、面白がっている者あり、徴発に行きて火を放つもあり

3.強姦

4.略奪

5.窃盗 後方部隊残置背嚢より物をとる者、他隊のロバをとる者、行李積載品の紛失、

6.慾 野病 五銭の煙草を病人に十銭で売る兵、通訳等と共謀し支那貨を半値にて売買の兵、

7.利己 一箇の桃の実を取らんと大樹を倒し顧みぬ、一本の葱を取る為に畑全部を踏みにじる、蜂蜜を取るため巣全部を破壊する、家探しして何もないと全部ひっくり返す。

8.物の有難味を知らぬ

 放置、放棄、無視、無関心
 食器や器物のみか、兵器や被服まで
 弾を捨て行く者あり、二十里舗前進時は小銃さえも。器具類放棄も多し。(P126-P127)
 ロバを捨てる、豚の片足のみ取りてあとは捨てる。きゅうりを多量に取り捨て、不熟のかぼちゃを採取。

(長澤政輝篇 「山田栴二『陣中日記』」P126-P127)


 日記本文中にも、上の嘆きを裏づける記述が随所に見られます。

山田栴二日記

◇十二月八日 晴

 又従来の如き田舎道を六里、夏野鎮に出て更に常州よりの本道に出で商家村に宿営す、ますますの田舎なり、宿営力も乏し

 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる仕業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸隊に与ふ、行程七里

(『南京戦史資料集供 P329-P330)


山田栴二日記

◇一月十九日 終日雨

 終日籠城、戦闘詳報の点検、訓示の起草等。再び舞い戻りし田中記者、今度こそはと告別に来る。

 参謀総長宮殿下より、総軍の軍紀風紀に就き御叱りを戴く、真に恐懼汗顔の至りなり。

(長澤政輝篇 「山田栴二『陣中日記』」P40)


 「郷土部隊戦史に見る南京事件」で紹介したところですが、山田少将麾下の「歩兵第104連隊」につき、田代連隊長が荻洲師団長より強い叱責を受けたという記録が残っています。

※指揮系統は、第一三師団(荻洲立兵師団長) ー 歩兵第一〇三旅団(山田支隊、山田栴二旅団長)となっており、この山田支隊下に、歩兵第六五連隊(両角良作連隊長)とこの歩兵一〇四連隊(田代元俊連隊長)が属していました。南京に進撃して「幕府山事件」の主役となるのが、このうち歩兵第六五連隊です。以下の記録は、荻洲師団長が田代連隊長に対し規律の乱れを叱責し、それを理由に歩兵一〇四連隊を南京攻略部隊から外した。その結果、皮肉にも歩兵第一〇四連隊は「南京虐殺」に参加したという汚名を免れた、というものです。

「歩一〇四物語」より

江陰無錫に向う追撃戦闘(自11・12〜27 −16日間)

 戦塵余話

 徴発について ― 本追撃間悪路と急追のため糧秣の補給ができなかったので止むを得ず徴発を許した。この時の注意として
○私利、私欲のための徴発は之を絶対に禁ず。本追撃に於て戦況と補給の関係上止むを得ず徴発によりたるものにして、給養上特に必要なるもの以外は決して徴発せず、即ち掠奪行為にならざるよう特に注意を要す。

○徴発を実施する場合は将校一名、兵一〇名内外を以て、徴発すべき物品を指定して行うべし。将校なき場合は中隊長の証明書を所持せる下士官を長とすべし。

暴行、強姦はもっとも忌むべきことなり、皇軍の威信を汚損するが如き行為は毫も無き様最も注意を要す。

皇軍に於いて宣戦を布告せず戦闘行為を敢てするに至りたるは、支那民衆に対しては決して戦意あるものにあらず、蒋介石の軍閥に対する膺懲にありこの点に充分留意するを要す。
 二三日、師団が顧山鎮に一日滞在したとき、二二日夕刻、小雨の中で師団司令部でボヤがあった。各隊長はそれぞれ師団長に見舞いにいったが田代連隊長は見舞いにいかなかった。

 二四日午後七時、行軍途中夕食をとらせていたところ師団長が例の通りやって来て、(火事見舞にこない腹いせか?)

  「この兵の有様は何事だ、火つけ、どろぼう、人殺し、勝手しほうだい、この荻洲は仙台以来、お前を見そこなったぞ。お前は南京に行かれんぞ」

 連隊長は不動の姿勢で叱られた。

 自分だけの責任―あとで南京大虐殺―まことに皮肉。

(「歩一〇四物語」P46〜P47)

 山田少将の嘆きは、師団長にも共有されていたようです。



 さて山田日記には、「民間人殺害」を示唆する記述も登場します。

山田栴二日記

◇十月十四日 雨

 未だ多少青味の残りし稲は蜿々打続くも誠に気の毒のことなり、此の附近は棉畑甚だ多く、唯踏むに委すのみ

 芋畑一つなし新戦場、鶏の一羽位は居りさうに思はるるに、上海卵とは何所より来るものにや、衛生隊にて何所にてか仔牛一頭手に入れ、山砲隊と半分けせしこと、うまいことをしたものなり、

 吾等戦場に進出以来、先日縄付きの百姓一人(遠藤少尉の刀の錆となる)を見しのみ、其の他生物は日本軍のみ、此の附近便衣も何も遭つた者なし

 これだけの記述では事情は必ずしもはっきりしませんが、どうやら「怪しい」住民を捕え、そのまま処刑してしまったようです。



 最後に、「慰安所」設置への軍関与を示すと思われる記述を紹介します。

山田栴二日記

◇一月九日 晴

 森氏より慰問の御菓子など届らる。田中記者再び舞ひ戻り買物等届け呉る。先日来上海等より手に入れしコーヒーも四・五斤集積するに至る。誠に大尽なり。

 年末(12・26)の団隊長会議にて娘子軍招致の相談あり、今はそんなこと考へる時期にあらずと大反対し置きし所、正月に入りて参謀部はこれを招致すとのこと。歩哨でも立てて大いに反抗せんと甚だ不快に感じありしに、本日酒井参謀来り、形勢一変し故承認せられたしと談じ来る。而かも皆日本人なりと、困ったことなり。(手紙の返事を書く)






「山田栴二日記」抜粋

※『南京戦史資料集供拏録部分は同資料集から、それ以外の部分は「山田栴二『陣中日記』」からの引用。

 
山田栴二日記

◇十月十四日 雨

 未だ多少青味の残りし稲は蜿々打続くも誠に気の毒のことなり、此の附近は棉畑甚だ多く、唯踏むに委すのみ

 芋畑一つなし新戦場、鶏の一羽位は居りさうに思はるるに、上海卵とは何所より来るものにや、衛生隊にて何所にてか仔牛一頭手に入れ、山砲隊と半分けせしこと、うまいことをしたものなり、

 吾等戦場に進出以来、先日縄付きの百姓一人(遠藤少尉の刀の錆となる)を見しのみ、其の他生物は日本軍のみ、此の附近便衣も何も遭つた者なし

 我等進出以来八日目、四食許りはパン(乾パン)のみなりしも、その他は幸ひに米を食し得たり、唯副食は明けても暮れても牛缶、筍のみ、沢庵二、三度手に入りしか、砂糖、ドロツプ等、新聞社の御蔭にて時々口にす、最前線はパンのみなり

(一部抜粋)



山田栴二日記

◇十二月六日 晴

 
 補充員各隊四〇〇余名、但し途中の行軍により四〜五〇名減員、歩兵第65聯隊は昨夜、104聯隊は本夜到着、明七日早朝出発の命を受く

 鎮江には第11師団向へり、句容には第9師団、第16師団近迫、南京の陥落も今明日と聞くため、甚だ気合掛らぬを覚ゆ、人の通りし後のみをなめ行く、誠に気のきかぬことなり

 午前一一:〇〇より両聯隊長を集め諸注意を与ふ、午食両隊副官も集む


◇一二月七日 晴

 午前八:〇〇西門外出発、歩兵第65聯隊、山砲、衛生隊、歩兵第104聯隊の三梯隊となり、従来に変る堅き大道を行軍、八里にして常州の東北二里許り小胡鎮に宿営す、愈々の田舎なり


◇十二月八日 晴

 又従来の如き田舎道を六里、夏野鎮に出て更に常州よりの本道に出で商家村に宿営す、ますますの田舎なり、宿営力も乏し

 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる仕業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸隊に与ふ、行程七里


◇一二月九日 晴

 連日の行軍故行程をつめ、六里強にして碑城鎮に宿営す、田舎ながら大村にして風呂に入る


◇十二月十日 晴

 連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少からず

 師団命令を昼頃丁度来合はせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る

 鎮江は遣唐使使節阿部仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にて仙台などは足許にも寄れず


◇十二月十一日 晴

 
沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇:〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す

 山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ


◇十二月十二日 晴

 総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65聯隊と山砲兵第径臑癲騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、 人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず

 併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり


◇十二月十三日 晴

 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜台砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、 南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す


◇十二月十四日 晴

 他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る

 幕府山は先遣隊に依り午前八時占領することを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり

 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上元門外の三軒屋に泊す


◇十二月十五日 晴

 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
 皆殺せとのことなり

 各隊食糧なく困却す


◇十二月十六日 晴

 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり


◇十二月十七日 晴

 晴の入城式なり

 車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る

 仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る


◇十二月十八日 晴

 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す


◇十二月十九日 晴

 捕虜の仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
 軍、師団より補給つき日本米を食す


◇十二月二十日 晴

 第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる

 午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり


◇一二月二十一日 晴

 午前一〇・〇〇出発、道路到る所橋落ちし為捗らず、江北の村落一変、蒙古の観あり、土と藁葺きにて牛糞を壁に塗せり

 東葛鎮に泊す、物資もなし、又支那兵の焼きたる所多し


◇十二月二十二日 晴

 午前九・〇〇出発、相変らず丁寧に破壊せる橋梁に時間を過し、烏衣街にて警備中隊を歩兵第65聯隊と歩兵第104聯隊と交代し、約一里前方迄師団の車に迎へられ午後三・三〇頃 ■(さんずいに除)県に着、師団司令部に到る、夜師団司令部の歓迎会に列す


◇十二月二十三日 雨

 滞在して師団との打合せ、諸整理に当る、前夜留守師団の小宮参謀来り色々話す

 新任地朱竜■(石へんに喬)はとてもひどき寒村にして、宿営力も物資もなき故、車輌の通ずるまで而して二十六日には師団の慰霊祭あることとてそれまで当地に留ることとす


◇十二月二十四日 午後より晴

 終日滞在、十日以来の日誌を整理す、新年の「東日」に出す色紙を書かされたり、「尽忠報国」と書く

一、予後備兵のだらしなさ
1、敬礼せず
2、服装 指輪、首巻、脚袢に異様のものを巻く
3、武器被服手入れ実施せず赤錆、泥まみれ
4、行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曳く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)、銃は天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪


二、辛苦

1、水
 御茶も直に飲まず若干経て飲むを可とす、茶碗の底に泥沈殿す、風呂にも静かに入る、然らざれば底より泥雲浮び来る
 浦鎮の水一番悪しく、翌日弁当の色青黒かりき、弁当となりし冷き飯は臭し、二度位沈殿させても泥多し
 初めクリークの側面を掘り、又は雨水を用ゐしことありしも、最近はかかることなし
 茶碗の底には少時にて泥溜る、酸味あるもの多し

2.南京米
 ボソボソ、赤きもの最も不良なり
 兵は若干の糯米(もちごめ)を混入して食す(有れば)

3.副食物
 初め何もなく、江陰近くなり鶏許りにして、今にとさか生ゆるぞと言ひしが、最近は鶏少く豚のみなり(玉子は何時もなし)
 野菜は最初菜を得て喜びしが、最近菜許りにて閉口なり、たまにサツマ、ネギを得るのみ

4、便所
 四方人に取り巻かれ陣地を探すに困難、概して日本兵不潔

5、寝床は藁、ゴミ多し、最近は支那人のダブル寝台


一、辛苦の最大は、行軍時に於ける道路の不良、橋梁の不良なり
 追撃間、橋より馬の落ちる様、脚を没する泥濘、今以て深刻なる記憶なり
 杖を持てる兵多かりしも、何所とはなしに無くなりぬ、之れ明かに行軍の難易を語るものか

 我が陳家宅の竹杖、屡々王家橋より櫓網湾にも往復し、長寿橋宅よりの大進撃にも参加、遂に南京を経て浦口鎮迄百数十里を供せしが、突減りと、碑城鎮にて馬に踏まれて割れしため、遂に割愛、浦鎮より朱檀の棒に換へたり

二、煙草の苦、之は今となりては笑ひ草の一つならんも半分の呑みさしを捨てず馬兵にやりしが如き、実に真剣のことなりき

○抗日教育の徹底

一、到る所の民家には国民教育資料として、「瓦斯防護」、「歩兵操典」、防空、戦車、軽機、測図等、初等士官学校教育程度の単行本あり

二、小学校其他の壁書、道路の宣伝皆然らざるなし、倭奴、鬼子

三、活動写真の広告、エロ本の中にも必ず抗日の記事を発見せざるなし、暴日侵略暦日、年表、或は記事、画面、影画等々、戦争に関する画報にても、■(さんずいに除) 県の家にて見たる丈けにて、「血戦画報」、「戦争画報」、「抗戦画報」、「抗敵画報」、「抗戦撮影集」と各種あり

四、文字の国、寝室に「好合百年」「春安夏秦秋吉冬祥」

○徴発の不士鱈は、結局与ふべきのもを与へざりし悪習慣なり

○徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食ふに食なしの状を呈す
 先に処女地に行く隊のみ、うまきことをすることとなる

○兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか
 師団司令部にてもぼやぼやし居れば何んでも無くなる、持つて行かる、馬まで奪られたり

(『南京戦史資料集供截丕械横后腺丕械械供



◇一月八日 曇 寒

 諸兵指揮官を承り、城外道路にて閲兵式挙行。頭右を誤るもの三節をなす将校、刀を抜かざる指揮官、報告をなさざる隊長、誠にイヤハヤ、終りて自動車にて朱竜嬌橋の104iに随行。帰来D長室にてD長より幕僚統制の苦衷を聞かさる。

 午後、北進の為の準備等を命じ、Dよりも一部準備の命下る。然るに夕に至りて形勢一転、前進見合せとなる。

◇一月九日 晴

 森氏より慰問の御菓子など届らる。田中記者再び舞ひ戻り買物等届け呉る。先日来上海等より手に入れしコーヒーも四・五斤集積するに至る。誠に大尽なり。

 年末(12・26)の団隊長会議にて娘子軍招致の相談あり、今はそんなこと考へる時期にあらずと大反対し置きし所、正月に入りて参謀部はこれを招致すとのこと。歩哨でも立てて大いに反抗せんと甚だ不快に感じありしに、本日酒井参謀来り、形勢一変し故承認せられたしと談じ来る。而かも皆日本人なりと、困ったことなり。(手紙の返事を書く)

◇一月十日 晴

 手紙沢山着(民子、12・20、1・2)

◇一月十一日 晴

 司令部午前行軍、留守をす。

◇一月十二日 曇

 横田記者(「ゆう」注 「幕府山の捕虜」の報道を行った記者)再び舞ひ戻り来る

 昼、師団長の所に遊びに行き畳の上(クーニャンの残物にて四畳を作りしもの)にて午食に鶏の水炊きを馳走になる。すずこの塩漬を貰う。

◇一月十三日 曇 午前雪の小降り

 午前十時半より汽車の開通式。除県駅に至り先ず祓ひ、それより乗車、116iの張る嶺まで行き、引返して中山公園に園遊会。しるこやら大変な御馳走なり。夜、字など書く。

◇一月十四日 半晴半曇

 終日為すこともなし。ボーナス五日附郵便局受領の受取を貰う。夜、一室にてゴザにてすわる所を作り、座布団を作り、日本間として会食をやる。

 河北記者小野寺氏、凱旋とのことにて送別会を兼ぬ、

◇一月十五日 曇

 午前、眼鏡附小銃並びに支那手榴弾の試験射撃を見る。

 午後第二回目の慰問袋を貰う、前回のものより味なし。

 福島高等商業学校長伊藤仁吉氏より慰問状、同寄宿生一年生四十五名の寄書きを受領す。礼状を出す。

◇一月十六日 半晴半曇

 今日は日曜とかや、陣中暦日なし、否曜日なし。されど教育訓練の要求に依り、日曜も発見せらるるに至りしものか。

 夜、下士将校と会食、今までに嬉しかりしこと、面白かりしこと、おかしかりしことを、各人をして述べしむ。大した収穫はなし。

 本願寺布教師一行帰仙すとて挨拶に来る。

◇一月十七日

 珍しく雨、数日前より催したものなり。

 本日より添田部隊の沙河集を交代警備のこととなる。

 104の第四中隊と野戦病院をやる。其の監視哨敵飛により爆弾二筒を見舞はる、損害なし。

 (朝晩二通民子に手紙書く、色々注文ありて)

 新装の書軸見付け、D長閣下にも上げ、自らも書きなぐる。又、明日より列車の警乗を始むることとなる。

 (余り色々物渡る故、書き留め見ることとす。本夜の加給品、するめ二枚、バット三箇、梨缶一箇、林檎一箇、シルコ二箇、まんじゅう五箇)

◇一月十八日 半晴 半曇

 D長に随行を命ぜられ、全椒65iの視察に行く。九時半出発、閲兵、中隊教練、会食。三時出発、腰舗の中隊を見て五時頃帰る。久方振りに教練を見て愉快なりき。全椒のあんこ餅の御馳走は大したものなり。

 「工兵佐藤少尉65i浜野文男少尉、下士一兵一を連れて道路偵察に赴き、十六日、無残の死を遂ぐ」

 夜また兵の浪曲を聞く。

◇一月十九日 終日雨

 終日籠城、戦闘詳報の点検、訓示の起草等。再び舞い戻りし田中記者、今度こそはと告別に来る。

 参謀総長宮殿下より、総軍の軍紀風紀に就き御叱りを戴く、真に恐懼汗顔の至りなり。(P40)



◇一月二十二日 半晴 半曇

 午後一時半より横田記者を案内に、李白が住して酒を飲みては詩作せし酔翁亭に遊ぶ。

 遊園地として作れる営林署の植樹林(南門より西南約一里)の中を進み、渓谷に臨み、落ち着きたる穏かな小静寂の地なり。ここに酒を飲みては詩を作り、酔いては前の小川の水を飲みたりと言ふ。成る程支那に之だけの清流あらば、大なる執着も持ちたるべし。各種の家具、亭等、皆民国になりて作りしものの如し。

◇一月二十三日 晴

 無為、(民子より手紙届く)

 避難民区を見る。湯を売りある、面白し。

◇一月二十四日 晴

 午前十時より団隊長会議、北討のD方針指示。飯沼参謀長来会、殿下、牛と豚とのみにて何の変りし召し上がりものなしとのことに、旅団出発の為つぶせし鶏(勉強して収集二十数羽ありしも前進準備に皆つぶさせたり)五羽を差し上げたり。午後一時より火合部隊射撃見学。二時より会食。

 夜、沼田閣下と参謀長と共にD長の所にてすき焼。いわしのヒモノ最も珍味なりき。

◎わがDの北進は大本営の禁止する所とす。果たして然らば、之を押切りて前進せんとする理由に苦しむ所なり。これは独断にあらずして、専恣と言うものにあらざるか。遣外の大将は君命と雖も云々は、この場合に当て嵌らざる如き感を受く。北進して敵を撃滅しても天下の大勢には関係なきものの如し。所謂武を弄することにならざる様願は欲しけれ。我等は唯是命に従うにて、大いに脾肉の嘆の遣り場が出来て結構なれど。

 田代大佐の帰来前、自室にて種々希望を述ぶ。

一月二十五日 曇 甚だ暖し

 先夜は最低マイナス五度位になりしとのことなるが、昨夜より暖く、道路も凍結しあらず。

 正午、長滝大隊迂回隊として先発せしむ。北門外に立ち見送る。BA山砲の主力午後詰めかけ来る。宿営地狭くて閉口なり。

一月二十六日 晴

 X日の前進日決まる。104iの朱竜嬌に二、三百、大柳鎮に七百許りの敵小癪にも攻撃し来り、二百−二百五十の死体を残して潰走せり。(P41-P42)

 (兄、菊山知事等の賀状届く、神戸の事もより小包等届く)(P42)



◇二月十七日   晴

 全椒の設営を待つ為、正午出発。全椒午後三時。

 此の日朝、再び妙な電命来る、曰く、

「十八日胡全椒出発、章古集を経て二十日までに定遠に到れ」。と三日前の西旺集には、成るべく速かに全椒に帰還せよと言い来りしばかりなるに。

 全椒着後、隊長を集め隊の実況を聞き、恰も来りし菅原参謀に、大分渋りしも、十九日出発二十二日定遠到着を承認せしむ。川柳に曰く
     勢子どもは東奔西走あごを出し


◇二月十八日   晴

 滞在、例に依り行動の為欠乏せし煙草、酒、甘味品等の配給を受く。今大隊は今日除県に出発せしめたり。

 昨日郵便局として差出人不明の電報、二月二十日?旭三賜金発令せらると。(せらるる筈、の誤りか)

 読売の渡辺記者凱旋することになる。(誤報)

 65iに松井司令官より、13Dに?殿下より、共々感状を授与せらる。

★今次の作戦間、毎度のことなるも、

1、連日の放火について注意を与うるも、更に改まらず、四日目頃よりやや効果表れたる如きも、単独にて徴発に行き、火を放ち来るもの依然たり、放火狂に等しきものあり。

2、鉄砲横に、勝手に人夫を探しロバを求め、休憩にて皆仰向けにひっくりかえり、上官を見ても多くは敬礼せず、呼べど返事もせず。

3、キョロキョロと物欲しげに到る所に家探しをし、部落に入れば机の引出しまで皆ひっくりかえす。

4、物を取りて不要のものは皆投げ捨て、利用し得る粉、其の他食糧品、自分が取りて不要のものは皆ひっくりかえして踏みにじる。

5、中隊には十五、六頭のロバを持ちあり。私の所は十二、三頭しかありません、と中隊長得意気なり。
 而かも管理者もなく出発も行く先も知らぬ者あり。
 幹部の統御力の衰弱による所甚だ大なるを認む。

☆棺を発くこと。

☆支塘鎮付近20キロも離れし医師の宅占領、交互に姑娘を取換えありしこと。

クリークの中にて舟を襲い、やりしもの。(P47)

☆軍旗小隊、監禁輪姦?。放火狩出のこと。(P48)


(山田栴二・18期・陣中日記・日支事変12.9-13.12月)


五月七日 晴

 蒙城北方地区に速かに進出せんと行軍を急ぐ。

 午前四時出発、併し思う様に早く進出し得ず。前衛は先頭を以て正午、本体は午後二時、娘々廟に進出。

 飛行機の通報により蒙城北側に敵無しとのこと、一路蒙城に急ぐ。本隊を以て四時やや前土山堡付近に至る頃、前衛は蒙城北側対岸約四、五百の敵を攻撃するに至る。

 今大隊を右に出し、敵左側より迂回を企図せるも、前衛は引きづられて直進、又左に手を伸ばせり。戦闘は夜に入る。司令部は蒙城北方一里、呼留西村東端、無名部落に泊す。


五月八日 晴

 午前八時、今大隊は敵前渡河に成功す。

 両角部隊は、前日来屡々右による如く指導せるも実施出来ず、主力を以て北門及び其の以東の地区に在りて、前岸の敵と相対す。故に部隊長は教書を送り、速かに右に兵を移す如く指導す。

 正午頃漸く所望の隊勢を見るを得たり。

 但し今大隊は西門に向はず西南角に向ひ、遂に後藤大佐と気箸涼羆に入ることとなり、両角大佐に之を指揮せしむることとなる。(命令の遅着)

 司令部は河岸の李楼に位置す。
 予備隊をして歩兵の力にて架橋せり。
 日没に至るも蒙城抜けず。


五月九日 晴

 前日来の攻撃尚奏功せず。

 とびに油揚げをさらわれたる形にて、後より来りし南正面の大宮大隊により午前四時一番乗りをせしめらる。

 午前六時二十分、両角機並莪貘臑癲頬面臉衫痢

 今大隊は前日来の奮闘偉とすべきに、遂に功名を他に譲らざるべからざるに至りしこと是非もなし。死傷も多く、敵を倒せることも多し。

 午後二時、司令部を北門外に進む。北門、西北角付近死屍累々たり。終夜城内にて残敵の掃蕩あり。


五月十日 晴

 午前師団長に敬意を表しに城内に至る。

 正午、師団長旅団司令部に来り昼食を共にす。午後、次期作戦の団隊長会議、明日の出発を準備す。

 此の日、田代部隊を指揮下に入らしめられ、該隊は劉鋪に先遣せらる。(P70-P71)

 田代少佐の代りに渡辺少佐を貰う。今少佐、岩仲先遣隊となり、車にて二中を連れて先行す。


五月十一日 晴

 正午前司令部は、配属の65i 渡辺大隊、今大隊の残余、独機、迫撃、P工兵、S患収三分の一、FL野病等と共に田代部隊に追及。

 夕闇迫る頃、劉鋪南方一里、趙庄に泊す。

 長滝大隊の掌握を苦慮せしに、先を行きありたり。


(山田栴二・18期・陣中日記・日支事変12.9-13.12月)

※「ゆう」注 この時期、山田支隊は、蒙城で数百名規模の捕虜殺害を行ったと伝えられています。


随想

一、道徳律の低下


 明日をも知れぬ生命の危険の地を往来し、疲労困憊、唯任務の為に体を運びある境地に於て、心が荒び道徳律の低下するは真に己むを得ざりものありと雖も、皇国の為に国民一般の教養を高め、道徳を向上するの要大なりと認む。

 内地にては接触することなき層の人物の、外地にては目にもつき接触する為ならん、唯に兵のみならず、所謂ゴロつき我利々々亡者多く渡来し、国家の名誉を著しく毀損してやまず。

1.径一寸以下の街路樹は、よくも斯くまで根気よくと思はるるほど一本残らず切り行きあり、南京入城前に痛感せしが、徐州の前進にて再び認め、宿県、寿県付近にては、3Dの通過地帯亦同じきを認む。

2.放火狂 大半は火の後始末せず、後のことなど考えぬ、屋内にてドンドン火を焚き、藁を敷き、其の侭出発するに起因すれど、又必要分のみか藁束、藁小屋にいきなり火をつけ、面白がっている者あり、徴発に行きて火を放つもあり

3.強姦

4.略奪

5.窃盗 後方部隊残置背嚢より物をとる者、他隊のロバをとる者、行李積載品の紛失、

6.慾 野病 五銭の煙草を病人に十銭で売る兵、通訳等と共謀し支那貨を半値にて売買の兵、

7.利己 一箇の桃の実を取らんと大樹を倒し顧みぬ、一本の葱を取る為に畑全部を踏みにじる、蜂蜜を取るため巣全部を破壊する、家探しして何もないと全部ひっくり返す。

8.物の有難味を知らぬ

 放置、放棄、無視、無関心
 食器や器物のみか、兵器や被服まで
 弾を捨て行く者あり、二十里舗前進時は小銃さえも。器具類放棄も多し。(P126-P127)
 ロバを捨てる、豚の片足のみ取りてあとは捨てる。きゅうりを多量に取り捨て、不熟のかぼちゃを採取。

 生死の間を困苦欠乏に曝される戦場では、人間の長も短も赤裸々に露出し、日本人固有の道徳律を失ふ。


二、行軍風景

1.炎熱下、如何なる泥水もがぶがぶ飲み制止し切れず、真にやむを得ざるものあるも、携行薬を増加するなど以外に良策なからんか。

2.ロバの増加。除州へ攻撃前進のころより、中隊三十頭位にもなれり。兵は四日乃至一週間分の糧秣、百八十から九十発の携行弾を要求さる故、やむを得ざるところ又あり。

 補給不良を克服し、兵は戦死傷者の荷物兵器等も携行、尚それも増加する一方、おまけに背嚢を負はざる兵多し、中隊斯くの如し、更に行軍長径の長大となる、蓋し予想の外なり。


三、馬匹の損耗

 行軍過労の為、斃死馬少なからず。又、弾に当るも多けれど、遮蔽等の愛護心足らず、唯不注意に戦線へ引き出す結果なり。

 又過労なるに、大休憩にても億劫がり荷を卸しやらぬこと、とくにロバにおいて然り。

 騎兵隊にして束藁をつけあるを見たことなし。数日間の泥はそのままなり、加之馬糧充分ならず、且つ不良なり。馬の損傷誠に謂ひありと言ふべし。


四、地形

 蒙城以北、就中徐州に近き所謂中原は、唯茫々の麦畑にして、到る所通過容易、目標を定め畑の中を数縦隊にて直進するは誠に壮観なりき。

 准河以南はクリーク多く、江南の地形を彷彿とす。各家屋は例外なくクリークに囲まれたり。

 中原地方は果樹園多かりき。産物の綿、米、麦、果実、凡て地方に偏在するごとし。(P127)


五、百姓

1.支那の百姓、何の楽しみに生きあるや。何所にも楽、慶、喜、吉など、或は、生意滔々到、財源滾々成、全家歓楽、三千甲子八百春秋、招財童子到、等の貼札あるも、果して之を得あるや。

 家内雑然、汚穢不潔、南京虫と虱の巣なり。室内に便器置くも閉口なり。

 此の春以来、種子蒔き充分出来ざりしものあるべく、麦や高粱畑を行軍にて踏まれたるも莫大なるべし。日本軍の泊れるところ皆山と積みし麦藁を寝藁に使用され、畑のものは皆食はる、誠に哀れなり。

2.生活力、悠揚せまらざる偉大さあり。六月、一方に花咲ける稲田、一尺五寸位に伸びたる稲、一方には田植え中の田もあり、肥料もやるなし。

3.各戸に吉祥字句を掲げあり。

 老鶴千寿年、蒼松萬古春、瑞光開昌運、瑞雲遶華堂、観山河依然旧景、看楊柳又新春

 サロンの正面には「天地君親師」の掛軸多し。寝室には、百年和合、好合百年、百年偕老、琴瑟鴛鴦。


五、追撃

1.徐州よりの追撃は、実に最初において半日、二三日を経て一日を遅れたりと感じたり。然るに進撃を蒙城まで続行し、途中兵器被服を捨てあるもの多く、追撃はたとい遅れたりとも断行せざるべからざるを痛感せり。

 即ち之によりてたとい兵力をつかまずとも、その士気を挫折せしめ、兵器被服糧秣を捨てしめ、劣等軍に対しては指揮組織を破壊し之を壊乱せしむべし。

 実際に於いて、蒙城南方に駐留する一週日、日々数百、数千の敵退却するに会し、奇異の感に打たれたり。

2.正陽関への進撃、二、三里手前にて同地陥落とのことにて、一つは沼田旅団に敬意を表し、独断停止せり。然るに、結果は翌日も敵東方を退却せり。


六、兵の油断

 従来とても屡々ありしことなるも、今次寿県よりの移動に当り山砲の兵は三四名にて最後尾となり、真裸にて涼み居りし所を、土民か匪賊か敗残兵に襲はれ、褌一つにて逃げ3FL野病に収容。(P128-P129)

 58の兵は五名にて桃畑に入り桃を食い居るうちに隊を離れ、其処を襲われて一名死、四名は命からがら3FLに救わる。

 我等の到着前、某隊の兵徴発に行きて行方不明となる。実は部落に入りて酒を飲み、酔いつぶれたる所に土民帰り、棍棒にて殴り殺されたるが如し。

 104i は五名にて同じく徴発に行き、命令を守りて深入りせざりし為百五十名に襲われしも、家屋防御をなし遂に無事他隊の救出を受けたり。

 病馬廠は、我等の言うことを聞かず、知らぬ間に寿県を出発独行せし為、途中九名の戦死、六十頭の斃死馬を作れり。

 全椒にては、65i の兵、女に要求し単身再度に及び、遂に殺されたり。その他各地にて兵の徒死せるもの少なからず、定遠にてもP工兵の兵徴発にて殺されたり。

 寿県より盧州への転移間、行方不明者三十余名に及ぶべし。(P129)

(以下略)

(山田栴二・18期・陣中日記・日支事変12.9-13.12月)


(2013.8.24記)



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