| 山田栴二『陣中日記』より |
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山田栴二少将は、歩兵第65連隊(会津若松)と歩兵第104連隊(仙台)から成る、歩兵第103旅団の旅団長でした。歩兵第65連隊長両角業作大佐とともに、「幕府山事件」に関与した部隊の指揮官として知られます。 うち『南京戦史資料集�供戮砲蓮◆峪嚇沈麁麁�記」のうち昭和12年9月9日から昭和12年12月31日の分が収録されています。 また「仙台陸軍幼年学校・第四十七期生会 長澤政輝篇」の「第一〇三旅団長陸軍少将 山田栴二『陣中日記』」には、より長く、昭和13年12月までの記述が収録されています。 「日記」では、「幕府山事件」に関わる12月14日〜19日頃の記述が有名で、ネットでもしばしば紹介されます。しかしそれ以外にも、「日記」には随所に興味深い記述を見ることができます。 本稿では、「陣中日記」から、見逃されがちなこのような記述を集めてみました。 ※以下、『南京戦史資料集�供拏�録部分は同資料集から、それ以外の部分は「山田栴二『陣中日記』」から引用しています。引用部分を含むより長い抜粋は、本稿の最後に収めました。 まずは、山田少将が「軍紀の乱れ」を嘆く場面です。長澤政輝篇『山田栴二『陣中日記』』によれば、これらの記述は、日記本文の中にではなく、余白への走り書、という形で登場しているようです。 旅団長クラスの将官がここまでストレートに「放火」や「強姦」に言及した記録は、必ずしも多いものではありません。「当り前ですよ」とまで言い放った中島今朝吾中将の「開き直り」と比較すると、ある意味、これは山田少将が「良心的」な将軍であったことの証左、と見ることができるかもしれません。
日記本文中にも、上の嘆きを裏づける記述が随所に見られます。
「郷土部隊戦史に見る南京事件」で紹介したところですが、山田少将麾下の「歩兵第104連隊」につき、田代連隊長が荻洲師団長より強い叱責を受けたという記録が残っています。 ※指揮系統は、第一三師団(荻洲立兵師団長) ー 歩兵第一〇三旅団(山田支隊、山田栴二旅団長)となっており、この山田支隊下に、歩兵第六五連隊(両角良作連隊長)とこの歩兵一〇四連隊(田代元俊連隊長)が属していました。南京に進撃して「幕府山事件」の主役となるのが、このうち歩兵第六五連隊です。以下の記録は、荻洲師団長が田代連隊長に対し規律の乱れを叱責し、それを理由に歩兵一〇四連隊を南京攻略部隊から外した。その結果、皮肉にも歩兵第一〇四連隊は「南京虐殺」に参加したという汚名を免れた、というものです。
山田少将の嘆きは、師団長にも共有されていたようです。 さて山田日記には、「民間人殺害」を示唆する記述も登場します。
これだけの記述では事情は必ずしもはっきりしませんが、どうやら「怪しい」住民を捕え、そのまま処刑してしまったようです。 最後に、「慰安所」設置への軍関与を示すと思われる記述を紹介します。
※『南京戦史資料集�供拏�録部分は同資料集から、それ以外の部分は「山田栴二『陣中日記』」からの引用。
(2013.8.24記)
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