張作霖爆殺事件 −河本大佐犯行説、これだけの根拠− |
1928年6月3日、当時中国東北地区の支配者であった張作霖は、奉天への帰路、乗車していた列車の爆破により殺害されました。 この事件については関東軍河本大作大佐らの犯行であるというのが常識として語られる「通説」ですが、最近になり、「ソ連犯行説」なるものが、巷間伝えられるようになりました。 この記事では、果たしてこの「異説」に成立の余地があるのかという点に絞って、各種の資料を見ていくことにしたいと思います。
「事件」の第一報は、このような形で日本に報道されました。
実際には張作霖はその日のうちに死亡していましたが、その事実は、中国側によってしばらくの間秘匿されます。 たまたま現地を訪問していた民政党議員6名が、事件直後、この事件の調査に参加しました。そのうちの一人、松村謙三氏は、こんな記録を残しています。
「日本兵の監視所」とは、まさに、現場の警備責任者たる東宮大尉がいたはずの場所でした。もし第三の陰謀者が「日本兵の監視所」まで電線を敷いたのであれば、東宮大尉が気がつかないはずがありません。 早くも日本側は、決定的に不利な材料を握られてしまいました。
さて、当の河本大佐がどのような発言を行っていたかを見ていきましょう。本人の語った発言を直接第三者が筆記したものとしては、「森記録」と「平野記録」が知られています。 「森記録」は、「満州事変関係者を一人々々虱つぷしに訪問してまわ」って聞き取り調査を行っていた森克己氏が、昭和17年、河本に対して行った聴取記録です。氏の著作、『満洲事変の裏面史』 で全文を見ることができます。
次の「平野記録」は、河本の義弟である平野零児氏が、河本大作の満洲炭鉱株式会社理事長時代の秘書平田九郎氏の命を受けて、「将来河本大作伝作成の資料とするため」聴取を行った記録です。 昭和29年、そのうちの一部が『文藝春秋』に「私が張作霖を殺した」と題して掲載されました。 当時は、本当に河本本人の手記であるかどうかの論争が巻き起こったようですが、今日では、井星英氏の調査などにより、記録の成立過程はほぼ明らかになっています。
いずれの資料も、事件の真相に接近するための有力手段として、幾多の研究者に使われてきました。 「事件」から10年以上も後の聴取記録であり、また関係者に累が及ぶことを恐れてか、細部にはやや事実と適合しない話も出てきますが、本人がここまで詳細に自分の「犯罪」を語っているのですから、少なくとも事件の首謀者が河本本人であることを疑うことはできないでしょう。 ※2019.4.14追記 発表時期が1991年と比較的新しいためあまり知られていませんが、上記以外に、根津司郎氏も河本への直接インタビューを行っており、その内容は氏の著作『昭和天皇は知らなかった』(早稲田出版、1991年)にまとめられています。 筆者によれば、1945年12月12日、山西省政府にいた河本に会見を申し込み、翌日の明け方までかけて爆殺事件につき詳細な話を聞いた、とのことです。 1991年の発表となったのは、インタビュー時に「今後半世紀間は門外不出とする」と約束したから、との説明です。
あまりの長文になりますのでここでは省略しますが、上記引用の前には「いかに仲間を一人一人集めたか」という経緯が詳しく書かれており、興味深く読むことができます。 それ以外にも、「河本大佐から話を聞いた」という証言は、あちこちで見ることができます。河本は、公式の調査に対しては関与を否定していましたが、知人との私的な会話の中では、結構事件を「自慢話」として語っていたようです。
「自らの犯行」を語っているのは、河本大佐だけではありません。例えば協力者の川越大尉も、事件の経緯に関する詳細な記録を残しています。
川越守二大尉の証言は、次の資料でも見ることができます。
一方、「自ら爆薬のスイッチを押した」と伝えられる東宮大尉も、当時奉天総領事代理を務めていた森島守人氏に対して直接「犯行」を語っていました。
あるいは、尾崎義春少佐の記述です。尾崎少佐は、爆破が失敗した場合に直接列車を襲撃する、という役割を担っていたとのことです。
上の尾崎少佐の記述にもある通り、河本大佐は、張作霖の列車がいつ現場に到着するかを確認するために、何人かの「密偵」を各駅に配置していました。 「密偵」たちが「爆破計画」まで承知していたかどうかは不明ですが、そのうちの一人、角田市朗中尉は、武田丈夫中尉とともに「密偵」を命じられた旨の手記を残しています。
その他、「密偵」として有名なのが、河本大作手記にも名前が登場する、「竹下少佐」です。河本大佐は、「手記」の中で、このように述べています。
ただし当の竹下少佐は、「事件」への直接の関与は否定しているようです。
いずれにしても、竹下少佐が列車の正確な運行状況を調べる「密偵」の役割を担っていたことは本人も認めており、この点は間違いなく「事実」であると断定できるでしょう。
事件の直後、関東軍は、現場で怪しい中国人を発見して追跡したところ、抵抗されたのでこれを刺殺、調べたところ懐中から国民革命軍のしるしがある手紙が出てきた、と発表しました。
上のふたつの資料だけを見ても、肝心の通行時間が「午後十一時」であったり「午前三時半」であったり、混乱が見られます。そもそも事件の前に「刺殺」されてしまった以上、この中国人が「爆破犯人」であることはありえません。 これが実は犯人たちの「偽装工作」であったことは、まず、工作に関与した大陸浪人工藤鉄太郎が小川平吉鉄道相の下に情報をもたらしたことから、明らかにされます。
小川からこの情報を得た田中首相は、外務省・陸軍省・関東庁からなる「特別調査委員会」に調査を命じました。その結果、「伊藤謙二郎」「安達隆盛」「劉載明」という「工作」の中心にあった3名の証言も、工藤証言と「大体一致」しました。
余談ですが、森島氏は、このうち刺殺を免れた一名(王某)が張学良のもとに駆け込み、これが中国側が事件の真相を知るきっかけとなった、との記録を残しています。
なお森島氏は、この中国人たちが「事件」の前日に立ち寄った風呂屋「福田泉」の主人の「通報」も、あわせて紹介しています。
「事件の真犯人は河本大佐グループ」との情報は、複数のルートから、田中義一首相の下に届きました。このあたりの情報は「田中義一伝記」に詳しいので、これに沿って見ていきましょう。 まず第一報をもたらしたのは、貴志中将です。
この時点では、まだ「怪しい」程度の情報でしたが、次いで大陸浪人工藤鉄三郎から、小川鉄道相に詳しい情報が入ります。
田中首相にとっても、この情報はショッキングなものであったようです。奉天総領事であった林久次郎氏を呼び寄せ、真偽のほどを尋ねています。
これらの情報を得た田中首相は、前記の「特別調査委員会」に「共同調査」を命じるとともに、峯憲兵司令官にも軍ルートへの調査を命じました。そして峯は、当事者を直接訊問して、決定的な情報を持ち帰ります。 (「峯憲兵司令官」の名は、資料によっては「峰」となっている場合もあります。ここでは、基本的には「峯」の字を使っていますが、資料が「峰」と表記している場合にはそれに従っています)
余談ですが、峯による朝鮮軍への調査については、『河本大作供述調書』中に、以下のような供述が見られます。 中国側による「戦犯」としての取調べ資料で はありますが、少なくともこの部分に関しては、特に他の資料との矛盾もなく、十分にありうる話であると考えられます。
なお、この峯憲兵司令官の報告書の具体的な内容は、今日では確認することができません。東京裁判で田中隆吉が「見た」との証言を行っていますが、裁判所の提出命令にも関わらず提出は行われませんでした。 しかし、この「峯報告」が当時広く知られていたことは、次の建川中将の談話でも伺い知ることができます。森克己氏による、建川中将への聴取記録です。
かくして、「事件」が実は軍部によって行われたこと、その首謀者が河本大佐であったことは、決定的になりました。 日本の正規の軍隊が、 中央の指示に基づくものではなかったとはいえ、一国の要人を暗殺してしまった。これは、国際的問題への発展を免れない、大変な「犯罪」です。 田中首相は、この対応に苦慮します。結局は、元老西園寺公のアドバイスもあり、田中は、「事件」に関する天皇への「上奏」を行 いました。この時の「上奏」の内容には諸説ありますが、とりあえずは、『田中義一伝記』を引用します。
ここでは明言はありませんが、実際には、天皇の下に、「河本の犯行である」旨は伝えられていたようです。粟屋氏が発見した『鳩山一郎文書』に収められていた、『極秘 内奏写』という文書 に、その旨の記述があります。 *なお、発見者の粟屋氏はこの「上奏」は田中首相によって行われたものと思われる旨を述べましたが、実際には、この「上奏」を行ったのは、田中首相ではなく白川陸相であった、との有力説がありま す(永井和『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』=『日本歴史』1990年11月)。
しかし、陸軍内の雰囲気は、河本への同情・共感から、圧倒的に「処罰反対」でした。この流れに抗しきれず、田中首相は改めて「上奏」をやりなおし、天皇に対して、今度は「事件の真相は不明だった」と前言を翻した報告を行いました。 天皇は、これに対して、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」と激しい怒りを示しました。
天皇の怒りを買った結果、田中内閣は、ただちに総辞職を余儀なくされました。田中自身も、総辞職から3か月後の9月29日に、心臓発作によりこの世を去ることになります。一部では、「自殺」説も囁かれました。(中島亀次郎『田中義一大将の切腹』=『文藝春秋臨時増刊 昭和の35大事件』所収)
以上のような経緯を経て、軍部・政府関係者などの間では、「事件は実は河本らの犯行であった」ことは、公然の秘密とな りました。関係者は別に、東京裁判での田中隆吉証言により突然「真相」を知ったわけではありません。 ここでは、前掲の森克己『満洲事変の裏面史』より、当時の軍有力者などが「事件」について承知していた証言を、いくつか紹介しておきましょう。いずれも、太平洋戦争中の聴取記録です。
2010.2.11追記 田中首相に対しては「事実は知らない」と報告した林久次郎・奉天総領事も、実際には「犯人は河本」との認識を持っていたようです。石射猪太郎氏、1929年の記述です。
以上、当事者たちは口を揃えて自分たちの犯行であることを認め、当時の関係機関も政府へその旨の正式報告を上げ、最後には事件の真相は天皇にまで伝わっていたわけです。 「ソ連犯行説」は、いかにして以上のような「事実群」をくつがえそうとするのか。次の記事で、見ていきましょう。 (2006.6.13)
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