張作霖爆殺事件

−河本大佐犯行説、これだけの根拠−


 1928年6月3日、当時中国東北地区の支配者であった張作霖は、奉天への帰路、乗車していた列車の爆破により殺害されました。

 この事件については関東軍河本大作大佐らの犯行であるというのが常識として語られる「通説」ですが、最近になり、「ソ連犯行説」なるものが、巷間伝えられるようになりました。

 この記事では、果たしてこの「異説」に成立の余地があるのかという点に絞って、各種の資料を見ていくことにしたいと思います。
 

1 「事件」の現場で

2 河本大佐の証言

3 「犯人」たちの証言

4 「南方便衣兵」の死体

5 憲兵隊による調査

6 そして、「上奏」へ

7 余禄 みんなが知っていた


 
 「事件」の現場で

 「事件」の第一報は、このような形で日本に報道されました。

東京朝日新聞 昭和三年六月五日夕刊

奉天駅に近づける矢先 張氏の列車爆破さる


張作霖氏始め負傷多数 満鉄陸橋も破壊さる


奉天特派員四日発

 四日午前五時半頃張作霖氏の乗つた特別列車が満鉄奉天駅を距る一キロの満鉄線の陸橋下の京奉線をばく進中 突然がう然と爆弾が破裂し 満鉄の陸橋は爆破され 進行中の張氏の特別列車の貴賓室および客車三台破壊され一台は火災を起し焼滅し 陸橋も目下燃えつつあり我守備軍および警官出張中である


【奉天特派員四日発】

 張作霖氏は無事危機を逃れ遭難個所から自動車にて城内の私邸に帰つたが負傷している模様である 負傷者は可なり多数に上り苦しいうめき声を立てて救ひを求めて居る 列車中の負傷者は乗込中の支那兵士が運びだしたが付近通行中の支那人で負傷したものも相当あり 自動車等辺りに飛び 付近民家の窓がらす等全部破壊されて居る

(一面トップ)
 


 実際には張作霖はその日のうちに死亡していましたが、その事実は、中国側によってしばらくの間秘匿されます。

 たまたま現地を訪問していた民政党議員6名が、事件直後、この事件の調査に参加しました。そのうちの一人、松村謙三氏は、こんな記録を残しています。

松村謙三『三代回顧録』より

 私ども一行は林総領事との打合わせによって、湯崗子の温泉に一週間もつかって総領事からの情報を収集した。それによると林総領事と軍の代表とは支那側の官憲と事件の立合調査にとりかかった。その結果はどう弁解しても歴々たる証拠を向こう側に握られている。

一、京奉線が満鉄ガードの下に来るまで、張作霖と日本からついている軍事顧問儀我少佐などが麻雀に夢中になっていたが、爆発の少し前に儀我少佐は更衣のためと称してつぎの客車に移って難を免れた。これは儀我が爆発を予知して避けたのであろう。
*「ゆう」注 実際には儀我少佐は、事件とは無関係であったようです。長男儀我壮一郎氏が語るところによれば、嶬峨少佐自身、『自分が乗っていることを知りながら爆破するとは何事だ』と激怒していた、と伝えられます。(臼井勝美氏『張学良の昭和史最後の証言』P53) なお余談ながら、複数の文献で「儀我」少佐の姓は「儀峨」と表示されていますが、これは誤りです。(儀我壮一郎『張作霖爆殺事件の真相』=専修大学社会科学研究所『社会科学年報』第42号)

一、爆破の状況をみるに、上の満鉄のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしく、その証拠に客車は上から滅茶滅茶に押しつぶされているが車両は脱線していない。

一、そのとき使用した火薬が橋台にいぶりついている。それをみると黄色火薬で日本以外には使っていないものである。支那側はこんな高級な黄色火薬はこちらで使っていないと主張する。

一、その付近に南方の志士と称するものが斬奸状を懐にして自殺している。日本側はこのものが南方から潜入してその大事を決行したんだと主張する。

 その男の死体を裸にして調べるとまったくひどい阿片の中毒者で、いわゆるインという中毒患者である。からだ中、注射の跡だらけでそんな荒仕事のできるものではない。

 斬奸状を開いてみるとまったく日本流の漢文である。
支那側の立会人は「これは日本流の漢文で、たとえばこの中に"南風競わず"と書いてあるが、日本では南北朝のことなどによく使いますが、わが国ではそのようなことばはあまり使いません」と主張する。

 ―それでもとやかく理屈をつけて"水掛論"でおしきったのであったが、最後に至ってどうにもならない確証がでてきたので困った。

 それは橋台から少しはなれたところに日本兵の監視所がある。橋台の下に爆薬を埋めて、そこから監視所まで電線を引き、監視所でスイッチをひねって爆破させたのであるが、不覚にもあわててその電線を巻いてかくしておくことを忘れたのである。それで監視所まで電線がそのままあったのだから、どうにも言いくるめるわけにいかない。これで完全にまいった。

 三日ほど滞在しているあいだにそういう不手際やら不始末やらがわかったので、事件の表面も裏面もすっかりわかってしまった。

(同書 P125〜P128)

 *松村謙三は1883年生まれ。戦後、農林大臣、郵政大臣、文部大臣等を歴任。



 「日本兵の監視所」とは、まさに、現場の警備責任者たる東宮大尉がいたはずの場所でした。もし第三の陰謀者が「日本兵の監視所」まで電線を敷いたのであれば、東宮大尉が気がつかないはずがありません。

 早くも日本側は、決定的に不利な材料を握られてしまいました。
 
 
 河本大佐の証言

 さて、当の河本大佐がどのような発言を行っていたかを見ていきましょう。本人の語った発言を直接第三者が筆記したものとしては、「森記録」「平野記録」が知られています。


 「森記録」は、「満州事変関係者を一人々々虱つぷしに訪問してまわ」って聞き取り調査を行っていた森克己氏が、昭和17年、河本に対して行った聴取記録です。氏の著作、『満洲事変の裏面史』 で全文を見ることができます。

河本大作大佐談

昭和十七年十二月一日、於大連河本邸

(略)

 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、作霖の列車は北京天津間は速度を出し、天津錦州間は速度を落し、錦州には半日位いも停車したので、予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった。

 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。

 そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた。

 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。

 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。

 ところが張作霖が仲々やって来ないので、現場の者達は一時は引上げようとさえした。私は藩陽館(奉天の軍用旅館)と現場との間を往来して連絡をとった。余り頻繁に往来したので大阪毎日の新聞記者に感付かれ、事件が済んでから目星を付けられたりした。

 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。

(以下略)

(森克己『満州事変の裏面史』 P269〜P270)
 
*「張作霖爆殺事件」に関する部分の全文は、こちらに掲載しました。


 次の「平野記録」は、河本の義弟である平野零児氏が、河本大作の満洲炭鉱株式会社理事長時代の秘書平田九郎氏の命を受けて、「将来河本大作伝作成の資料とするため」聴取を行った記録です。

 昭和29年、そのうちの一部が『文藝春秋』に「私が張作霖を殺した」と題して掲載されました。

 当時は、本当に河本本人の手記であるかどうかの論争が巻き起こったようですが、今日では、井星英氏の調査などにより、記録の成立過程はほぼ明らかになっています。

河本大作『私が張作霖を殺した』より

(略)

 さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。

 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。

 厳重な奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃す憂いがある。充分の手配が要る。

 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、煌古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。

 では、今度はいかなる手段に出るかが、次の問題となる。

一、列車を襲撃するか、
二、爆薬を用いて列車を爆破するか、

 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。

 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終った場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。

 万端周到な用意は出来た。

 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ、三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。

 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。

 しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる惧れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。

 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみがあたっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。

 万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。

 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点にさしかかった。

 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。
薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。

 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。

 ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。

 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。

 喪は発しないで、人心を鎮めるために、張作霖は重傷だが、生命に別状なしと発表して、城内は異常な沈黙のうちにあった。

 そしてその当座、昨日に変って、たとえ一時ではあったが、さしもの排日行為も、ピタリと熄んでしまったのは笑止であった。

(以下略)

(『文藝春秋』昭和29年12月号掲載)

(『「文藝春秋」にみる昭和史(一)』 P59〜P61)

*記録の全文、及びこの記録の成立過程に関する平野零児氏、井星英氏の記述を、こちらに掲載しました。 なお、この記録について信頼性を疑う発言が聞かれることがありますが、最後の成立過程を見れば、これが「河本本人の語りに基づく記録」であることまで否定するのは無理でしょう。


 いずれの資料も、事件の真相に接近するための有力手段として、幾多の研究者に使われてきました。

 「事件」から10年以上も後の聴取記録であり、また関係者に累が及ぶことを恐れてか、細部にはやや事実と適合しない話も出てきますが、本人がここまで詳細に自分の「犯罪」を語っているのですから、少なくとも事件の首謀者が河本本人であることを疑うことはできないでしょう。



※2019.4.14追記

 発表時期が1991年と比較的新しいためあまり知られていませんが、上記以外に、根津司郎氏も河本への直接インタビューを行っており、その内容は氏の著作『昭和天皇は知らなかった』(早稲田出版、1991年)にまとめられています。

 筆者によれば、1945年12月12日、山西省政府にいた河本に会見を申し込み、翌日の明け方までかけて爆殺事件につき詳細な話を聞いた、とのことです。

 1991年の発表となったのは、インタビュー時に「今後半世紀間は門外不出とする」と約束したから、との説明です。

根津司郎『昭和天皇は知らなかった』

 午前四時二十分、新民屯派遣の情報員から、

「ただいま一個列車が通過したが、駅長の言によれば大元帥の特別列車ではない由である」

との連絡が川越大尉に電話で入った。

 皇姑屯通過が五時前後となるので、間違ってスイッチを押してはならぬと気が気でない川越大尉は、大急ぎで自動車に乗って皇姑屯警備隊へ駆けつけた。そして口頭で間違いのないよう東宮、菅野らに伝えている中を、一個列車が通過していくのを見てホッとした。

 急ぎ軍司令部に戻った川越大尉が部屋に着くやいなや電話のベルが鳴った。新民屯の情報員からの連絡で、(P87)

「二十両編成の特別列車が五時二分新民屯を通過、奉天駅到着は五時三十五分前後と思われる」とのことであった。

 これこそ最後の連絡と考えた川越大尉は、軍用電話で 「要五三〇」と暗号めいた口調で東宮大尉に伝えた。

 時計の針が午前五時を回る頃から、それぞれの場所にいる六名は、刻一刻と大事の瞬間が迫ってきているので「落ち着け、落ち着け」と自分に言いきかせながらも、胸が締めつけられるように苦しかったそうだ。

 河本は述懐する。

「世によくこんな場面で"泰然自若″とか"明鏡止水"とかの表現が用いられるが、それは虚飾した表現であり美化された表現ではあるまいか。覚悟していた事態を分かっていても、いよいよ秒刻みの場面になると、人間それほど自若としていられるものじゃない。それを六名とも期せずして体験した」

 十間房の料亭の一室で徹夜麻雀をしていた河本は、パイをひとつ捨てるたびに、「あたかも爆破のスイッチを押すような感触に似たものを感じた」そうである。二十余年前の日露戦役の際、敵弾で負傷した瞬間に味わったものとも「ちょっと違う」と言う。(P88-P89)

 しかし、そうした自分の胸中をさとられることがあってはならないと、できるだけ平静を保ちつつ、一見淡々と麻雀のパイをつまんでいた。

 午前五時二十分を回ったころ、河本に大きな満貫の手がやってきた。「リーチ」と宣言した瞬間、その語尾が消えるかどうかというときに、「ズシーン」という重い地響きが体に感じられた。

 腕時計を見ると五時二十三分であった。「やったな」と独り合点したが、それから二、三秒して遠くの落雷の余韻にも似た音を全員が感じた。

 まっさきに芸者の一人が立ち上がって雨戸を開け、東北方の空を指差しながら、口をバクバクさせながら言葉にもならぬ言葉を吐いた。河本も、ここで落ち着き払っているとかえって不審を抱かれることになると思い、やおら立ち上がって芸者の指さす方向を眺めた。

 「火薬でも爆発したのだろう」とさり気なく言い、「関東軍の参謀がこんなときにお茶屋で徹夜麻雀をしていたんじゃ褒められないから、宿舎に戻ることにするか」と言いながら軍服に着がえ始めた。

 女将が「自動車を呼びましょうか」と言ってくれるのを「洋車を拾うからよい」と断って道路に出て見ると、奉天駅の北方に黒煙が高く昇っていた。それはまさしく爆発の煙であると共に、爆薬の臭いがここまで僅かに漂ってきているようにさえ感じられた。通行く支那人が奇声をあげながらあわただしく走り去るのを見た。(P89-P90)

 東拓ビルにあった軍司令部へ着くや、中から出てきた川越大尉が目頭で、合図をしてくれた。その表情が成功を伝えていたので、河本大佐はそのまま軍司令官室に直行して、指示を仰ぐことにした。(P90)

(以下略)

 あまりの長文になりますのでここでは省略しますが、上記引用の前には「いかに仲間を一人一人集めたか」という経緯が詳しく書かれており、興味深く読むことができます。



 それ以外にも、「河本大佐から話を聞いた」という証言は、あちこちで見ることができます。河本は、公式の調査に対しては関与を否定していましたが、知人との私的な会話の中では、結構事件を「自慢話」として語っていたようです。

小磯国昭『葛山鴻瓜』より

 此の事件のあった直後、筆者が年来懇意にして来た関東軍高級参謀の河本大作大佐が上京することを承知し、事件の真相等をも聴取することが出来ると思ったので、其の着京を出迎へる為、東京駅に行って見た。

 プラットホームで列車の到着を待ってゐると、そこへ参謀本部の荒木貞夫中将と小畑敏四郎大佐が来合はせたので挨拶すると、矢張、河本大佐を出迎へに来たといふのであった。

 其の中、河本大佐が予定の通り下車したが、駅では立話も出来ないので一緒に麹町平河町実亭に行き会食後、一切の事情を聴かせて貰った。

 此の作霖氏爆死事件を巡つて田中首相と白川陸相との間に責任者処分権限問題が論争の種となり、田中首相は処分問題に関し天皇陛下に内奏した所と結果とに喰ひ違ひを生じた責任を執り、内閣総辞職を決行するに至ったのだと聞いてゐる。

 関東軍司令官村岡長太郎中将と河本大作大佐とは此の事件に関連して共に現役を退くことになった。

(P491)

※小磯国昭は、元首相。


 
井星英『張作霖爆殺事件の真相』(一)より

 たとへば、大川周明博士門下狩野徹氏は、昭和六年、十月事件の直後、河本氏と東北視察旅行に行く途次、車中にて事件の内容を聴いた、と昭和五十五年十二月三日、自宅にて筆者に語られた。

(『芸林』昭和57年6月号 P6)


松本清張『「満洲某重大事件」』より

 河本大作は、陸軍を退いてのち満鉄関係の石炭事業に関係したりしていたが、終戦時、中共軍によって捕えられ、太原の収容所で七十歳の生涯をとじている。

 したがって、河本の供述調書は東京裁判では見られなかったが、今ここに、河本と山西産業社時代に最も近しかった城野宏という人が河本から聞いたという話を述べることにする。

 それによると、事件の前、河本は東宮大尉に張作霖搭乗列車の爆破計画をうち明け、かつ、その実行の準備を命じ、当面の費用として六百円を手渡した、というのである。

(松本清張『昭和史発掘』2 P178)

*以下、4ページにわたって「聞いたという話」の詳細が記述されていますが、内容は他の証言と大同小異ですので、省略します。


 
『小川平吉関係文書』より

 其後昭和五年間居中河本大佐は永田大佐と共に予を平塚に訪ひ、具さに当時の事を語れり。 其談によれば初め村岡司令官の発意に対し反対せしが、後に至り独自全責任を以て決行せりといふ。而して劉に対しては金円贈与の約をなしたることなしといへり。惟ふに此点は安達氏の取計らひならん乎。昭和六年十月追記。

(P627)

*後にも出てきますが、小川平吉氏は、当時の鉄道相です。

 

 「犯人」たちの証言

 「自らの犯行」を語っているのは、河本大佐だけではありません。例えば協力者の川越大尉も、事件の経緯に関する詳細な記録を残しています。
 
稲葉正夫『張作霖爆殺事件』より『川越守二手記』

一 六月三日午後総領事館より、張作霖の本夜皇姑屯駅着の時日本人の主な方の出迎へは中止になったと電話があった。軍は参謀長が出迎へることになっていた。(P34)

二 北京の竹下中佐から、張作霖列車の北京発の来電あり。同列車には町野武馬願問、儀峨少佐顧問の二名が同乗していることも附記してあった。

三 山海関石野大尉より第五夫人列車が通過した来電あり。

四 天津軍司令部より張作霖列車の通過と町野顧問は天津に下車した旨来電あり。

 (筆者注 竹下元中将が昭和三十九年二月十二日戦史室で陳述したところによると、塘沽で町野、松井両顧問下車したが、別に特別な意味はないという )

五 東宮大尉との連絡

 東宮大尉が、第五夫人の列車を張作霖の列車と判断してスウィッチを入れたら大変だと思い、河本大佐の許可を得て、私は瀋陽館の自動車を使って現場に行った。先ず柳町で車を待たし「僕は一寸芸者遊びをしてすぐ帰るから待っていてくれ」と云って、クロス附近の東宮大尉のところへ行った。

 そして「十一時頃通過するのは第五夫人の列車で、黄色の七輌編成だ。張作霖のは同一の列車編成(筆者注 河本談話では張のはコバルト色の鋼鉄車となっている)であるが、あと五、六時間もしたら到着するだろう。

 東宮大尉は現場の説明をしてくれた。

(筆者注 手記は図解であるが、要点は爆破要領の説明工兵中尉は同所にあって点火、謀略用支那苦力三名待機せしめてあるなどのことであった。また点火地点はクロス地点を二百米はなれた満鉄堤防上の見張台となっていた)(「ゆう」注 「点火地点」とは、東宮らが待機していた見張り小屋のことです)

 数分間雑談して去った。私は帰りに自動車で瀋陽駅および奉天城内を疾走して支那側の警備状況を視察した。歩哨の数は相当多かったが、ぼんやり立哨していて私の自動車の停止を命ずることもなく全くあきれた。

六 新民に派遣した二人の将校から警備用の電話の要領により新民−奉天間の回線を利用して、第五夫人の列車の通過状況を報告してくる。電話が聞え難いので自然に声が大きくなるのも己むを得ぬ。軍司令官居室の向側の河本大佐の室で大声で話し、時々私が室を出入するので恐らく軍司令官は聞いておられたのではないか。

七 山海関よりも来電あり。張作霖列車が通過し、奉天着は四日午前五時乃至六時の見込。列車には呉俊陞、儀峨少佐同乗している。

八 東宮大尉と再び連絡(P35)

 新民から張作霖の列車が通過した報告を受け、河本大佐と相談して爆破地点通過は、朝の五時半から六時までの間と判断し、その時はすでに朝となり明るくなるが、東宮大尉と相談して実施するや否やを決定することとなり、再び第一回と同じ自動車で現場に急行した。

 私は東宮大尉に「列車が通過するのは夜明けである」と告げると、東宮大尉は「明るくなってもやる。この好機を逸してはもう好機は来ない。例の支那苦力三人は彼処に既に殺して置いてある」と説明した。


(筆者注 爾後の調査によれば、準備した苦人は三人であったが、一人に逃げられ、実際は二人であって、前述の彼等が所持していたと報告された手紙を懐中せしめ、その手紙からこの二人が南方派の便衣隊であり、その仕業であるかのように偽装したものである)

 クロス附近の日本憲兵も支那憲兵も引揚げていない。京奉線を駆けていた乗馬兵の姿も見えぬ。私は急いで再び瀋陽駅、奉天城内を一廻して帰った。支那側は警戒兵は配置しているが、無警戒に等しい・・・。(筆者中略)

 河本大佐に、東宮大尉は明るくなっても断乎実施するとの堅い決心であると報告して、私室に帰り寝ていた。(P36)

(稲葉正夫『張作霖爆殺事件』=『昭和三年支那事変出兵史』所収)

*当手記は、防衛庁防衛研修所戦史部の保管文書です。一般には閲覧が困難な文書であるようですが、戦史部の稲葉氏が、上のように自らの論稿で「手記」を部分的に紹介して おり、内容を覗い知ることができます。また、井星英氏もこの資料を閲覧しており、『張作霖爆殺事件の真相』と題する論稿の中で何箇所か引用を行っています。
 


 川越守二大尉の証言は、次の資料でも見ることができます。

相良俊輔 『赤い夕陽の満州野が原に』より

 川越守二大尉の証言
 (当時・関東軍司令部付参謀心得)

『― 私は河本高級参謀からはじめて計画の全貌をあかされたとき、事件に連座すれば、きみは免職になるかもしれない。私ははじめからそのつもりでいたから、いっこう構わないが、きみには奥さんや子供がいる。それでも協力するのか、後悔することはないのか、と念を押された。

「今更なにをいわれるのですか。男一匹、死所を得られるのは本懐ですよ」

 私が昂然と答えると、大佐はいくども私の手を握り微笑された。

 それから一年間、私はその計画のためにがむしゃらに働き通し、やっとその日を迎えた。正直いって決行の夜は、さすがに昂奮して一睡もできなかった。

 列車爆破の轟然たる大音響を、私は軍司令部の一室できいた。爆発が起こって三十分ほどして銃声がやんだ。ヤマトホテル前の広場に集結を完了し出動待機していた実戦部隊が、参謀長命令で解散されたあと、あたりはやっと平静になったが、午後になると市中は再び騒乱状態におちいった。

 私は軍司令部で朝食をすませて、現場視察へむかった。二輌の車輌が傾いたまま、まだプスプス燃えくすぶり、奉天軍の将校が遠巻きにしてわいわい騒いでいた。工兵隊の将校が仲間の将校に、得意気に説明しているのをみて、私はカッとし一喝くらわせた。

 その帰途、儀峨少佐の官舎を訪ねて、お見舞いした。

「― まったく、ひどい目にあったよ。ほれ、これをみてくれ」

 儀峨少佐はボロボロになった軍服を指さし、憤懣やるかたない、といった顔をしてみせた。かぞえてみたら四十数ヵ所も穴があいていた。

「これで、よく助かったものだ」

と、私は彼の不死身ぶりに呆れるおもいがしたが、仕掛人のひとりであるだけに、内心、手を合わせてお詫びしたい気持でいっぱいだった。

 少佐の話だと、破壊された列車からひきおろされた張作霖は、憲兵隊のボロトラックに乗せられて、運び去られるまで見とどけたが、生死についてはよくわからなかった、といっていた。

 その日の午後、憲政会の代議士六人が北京から奉天に到着し、現場視察をしたいから便宜をはかつてほしい、といってきた。

 野党の議員であるし、うるさいとおもったから、ほったらかしにしておいた。

(中略)


 話はあとになるが、八月の異動で、斎藤参謀長は中将に昇進して奉天を去り、かわって三宅光治少将が着任した。作戦主任として石原莞爾中佐が来たのもこのときである。三宅参謀長は白川陸相の内意をうけてきたのか、各参謀をよんで事件当日のことを執拗に訊問した。

 私はとくにマークされたのか、再三、強制訊問されたが、知らぬ存ぜぬの一点張りでさいごまでおしとおしてしまった。』

(P190〜P192)

*この部分には出典が付されていませんが、巻末の「取材談話、資料提供など」で「お世話にな」った方のリストの中に「川越守二」の名も見えますので、これは、相良氏の「取材談話」であると思われます。


 一方、「自ら爆薬のスイッチを押した」と伝えられる東宮大尉も、当時奉天総領事代理を務めていた森島守人氏に対して直接「犯行」を語っていました。

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

 私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。 満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。
 (P22〜P23)

*東宮大尉自身の詳細な証言は、前掲、相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に』でも見ることができます。



 あるいは、尾崎義春少佐の記述です。尾崎少佐は、爆破が失敗した場合に直接列車を襲撃する、という役割を担っていたとのことです。

尾崎義春氏『陸軍を動かした人々』より

河本大作大佐

(略)

 大佐は某工兵中尉に命じ、その交叉点の橋桁に爆薬を仕掛け、独立守備隊中隊長東宮大尉をして、電流を通じて之れを点火せしめんとした。

 計画は予定通り出来た。私(著者は当時警備参謀)も現地に行って見ると、火薬をつめた土嚢は橋桁につけてある。しかしこれは独立守備隊のよくやる防御用の土嚢で一寸気がつかない。(P107-P108)

 準備は出来たが張作霖は仲々帰らない。

 彼はこれを嗅ぎつけて飛行機で帰るではないかとも思われたが、六月四日竹下参謀から、愈愈汽車に乗ったとの報告があった。

 交叉点を通過するのは五日の午前六時頃と予想せられたが、もしこの爆破が不成功に終れば列車を転覆させるように仕掛けてあり、そこを私(著者)が警急集合中の部隊を率いて襲撃することになっていた。張作霖は必ず一、二中隊の護衛兵を率いていたからである。

 当日京奉線で山海関から奉天に来る列車が多く、張作霖の乗っている列車の識別に困ったのであるが、運の尽きか彼の列車は前後に汽関車(ママ)をつけ、而もその機関車の煙突は二本であった。密偵から二本煙突の列車の到着時刻を刻々知らせて来るが、その運行は遅々として進まない。奉天到着は五日の明け方とわかった。

 この時大佐は私(著者)の部屋を訪れ(当時軍司令部は附属地瀋陽館にあり)『夜明となると謀略暴露の虞れがある。ひと先ず中止しようか』との相談があった。

 人間の運命はわからぬものだ。この時私(筆者)が中止に同意したら或は大佐も中止せられたかも知れぬ。私は一瞬考える隙もなく、『今となって中止しては駄目だ。断行の一事あるのみ。』と答えた。大佐は頷いて部屋を出ていかれた。(P107-P108)

 張も愈々年貢の納め時が来た。午前六時頃張の乗った列車が交叉点に達すると、東宮大尉はスイッチを入れる。轟然たる大音響と共に張の列車は転覆した。その護衛兵は抵抗どころか四散してしまった。

 私(著者)は兵力を率いて襲撃する必要がなかった。然し張の生死は不明であった。これはいち早く瀕死の重傷を負うた張作霖を護衛兵が拉し去ってしまったからである。

 奉天城留守司令の蔵式穀は張作霖の負傷せしことを発表したが喪を発しなかった。

 実は張作霖は鼻口より血を出し間もなく死んでいたのであった。(P109)

※ここまでの経緯については、河本大佐の「遺書(文藝春秋掲載)から抜萃」したもの、とのことです。ただし実際には、上の通り、著者(尾崎少佐)の事件への関わりが詳細に書かれています。



 この事件でさしもの排日もピタリと止った。その後の経過は色々の記事となって既に発表されているとおりである。田中内閣は倒れた。村岡軍司令官、斉藤参謀長、守備隊司令官水町少将、当の河本大佐は待命となった。

 私のような雑魚は網の大目を脱したのであろう。札幌の歩兵第二十五連隊大隊長に転任せしめられた。

 此の事件は極めて少数の人しか計画に参画していなかった。当事者河本大佐は死亡し、東宮少佐(後少佐に進級す)は日支事変で戦死した。某工兵中尉の其の後の消息は知らない。(P109)



 上の尾崎少佐の記述にもある通り、河本大佐は、張作霖の列車がいつ現場に到着するかを確認するために、何人かの「密偵」を各駅に配置していました。

 「密偵」たちが「爆破計画」まで承知していたかどうかは不明ですが、そのうちの一人、角田市朗中尉は、武田丈夫中尉とともに「密偵」を命じられた旨の手記を残しています。

塚本誠『ある情報将校の記録』より

 張作霖の爆死によって、満州の形勢は一変した。

 昭和二年の冬、私は撫順の独立守備隊にいた同期の角田市朗を訪ねたことがある。彼は私と同県出身でユーモアがあり、かつ機智に富んだ男であった(昭和四十五年病死)。

 以下は角田の手記の要約である。手記中T中尉とあるのは武田丈夫中尉(35期)のことである。彼は陸士予科時代は有名な弥次ごろで、通称「馬車馬」といって下級生から畏れられていた。
 昭和三年五月末のある夕刻、突然伝令がきて「至急私服で軍司令部河本高級参謀のもとに出頭せよ」と伝えた。 奉天でT中尉と落ち合って司令部へ行くと、同参謀から、「張作霖は国民革命軍の圧迫により、北京から満州へ引き揚げる兆がある。 T中尉、角田中尉は即刻新民府に潜入し、張軍の軍事輸送を偵察、特に張作霖の行動を諜知して速報せよ」という任務をさずけられた。

 新民府に着いた私達は副領事に頼んで、領事館の警察官になりすまし、二人交替で駅構内の張り込みをすることになった。

 六月の二日になると、人員輸送がハタとなくなり、いよいよ引揚げが近いと感じとられた。そこで「数日来の輸送状態から見て、張作霖の北京出発は明三日頃と判断せらる」と奉天に急報した。折り返し奉天から、「北京情報によれば、張は明三日北京出発、奉天に帰還する」という通報があり、末尾に「新民府の情勢判断は見事である。健闘を祈る」と付け加えてあった。

 三日、空気は次第に高潮する。午後十一時過ぎ頃、急に二等単一輌が猛スピードで奉天に向かって通過する。これは大いに判断に迷ったが、かねてから色々手をつくして近づいていた駅の助役から「あの列車で常蔭槐局長が先行して帰奉したのである」ということを知った。この頃、辛うじて山海関と連絡がついて、張の特別列車が同駅を通過したことを知った。

 午前三時過ぎ、着剣した三百人ほどの兵隊が現われ、警戒配置についた。いよいよ特別列車通過にちがいないと思っていると、やがて新民県長ら県の人十数名がホームに入ってくる。警察署長が、私たちの方を指しながら「あれは何者か」とただしているらしい。とっさに二人は機先を制してつかつかと県長のもとに歩みよって一礼し、

 「私どもは日本の領事館から参った者です。お出迎えの末席にならばせていただきます」

と捨身の戦法に出る。県長は一瞬とまどった様子であったが、愛想よく私達を列に加えてくれた。

 やがて、特別列事は暁闇をついて現われ、停車した。列車の編成は一等車七両を中央部にして鉄甲車、普通車を合せ三十余輌、さすが大元帥の威容を保った堂々の奉天帰還である。

 各車の窓はブラインドを降ろしている。一等車中央に金文字で「津浦」と書かれた車輌が張作霖の乗用車のはずである。その時、その一等車のデッキに一中将が現われて出迎えの人々に挨拶している。 これで張作霖の乗車していることと、その位置を確認することが出来た。全く天佑である。

 まもなく列車は出発した。急報は奉天に飛んだ。それから一時間もたった頃、顔色を変えた助役が「特別列車は皇姑屯で爆破され、大元帥は重態のもよう」と私に囁いた。

(同書 P87〜P88)


 その他、「密偵」として有名なのが、河本大作手記にも名前が登場する、「竹下少佐」です。河本大佐は、「手記」の中で、このように述べています。
 
河本大作『私が張作霖を殺した』より

 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る―と考えられた。

 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴く事になった。

 それを察したので、自分は竹下参謀に、

『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。 万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視耽々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。 俺がやろう。それより外はない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。

 北京には建川美次少将が大使館付武官としておった。

 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。 そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを、速報せしめる手筈をとった。

 (『「文藝春秋」にみる昭和史(一)』 P58〜P59)


 ただし当の竹下少佐は、「事件」への直接の関与は否定しているようです。

井星英『張作霖爆殺事件の真相』(一)より

 昭和四十八年十一月十九日、竹下義晴中将は私に直接つぎのやうに語られた。

「私が直接軍司令官の命を受けてゐたやうに書いてある本もあるといふが、それは違ふ」

私は河本大佐から、御苦労だが北京に行つてほしい。張作霖が近くひきあげるはずだから、引きあげの日時、列車の編成、車両の種類、張作霖が乗つてゐる車の位置を調べて知らせよ、と指示されただけで、それ以外は、いつさい言はれなかつた」と。

(井星英『張作霖爆殺事件の真相』(一)=『芸林』昭和57年6月、P11)。
 


 いずれにしても、竹下少佐が列車の正確な運行状況を調べる「密偵」の役割を担っていたことは本人も認めており、この点は間違いなく「事実」であると断定できるでしょう。
 

「南方便衣兵」の死体

 事件の直後、関東軍は、現場で怪しい中国人を発見して追跡したところ、抵抗されたのでこれを刺殺、調べたところ懐中から国民革命軍のしるしがある手紙が出てきた、と発表しました。
 
東京朝日新聞 昭和三年六月五日夕刊 

怖るべき破壊力を有する 強力なる爆薬を埋設

 南軍便衣隊の所業か 怪しき支那人捕はる

【奉天特派員四日発】

 特別列車爆破に先立ち三日午後十一時頃満鉄京奉線のクロス点付近を態度怪しき支那人二名が通行して居るので追跡して調べた所懐中には二通の国民革命軍のしるしある手紙を所持してゐた

 その中には張作霖氏の奉天帰着列車の時間等が記されてあつた事実あり 又爆発現場の惨たんたる事実から見て埋設してあつた爆薬を南軍便衣隊が張作霖氏の乗込んで居る列車の進行し来るを見計らつて爆破させたものらしくその破壊力偉大な所は到底投げつけた爆弾のおよぶところでない
 

 
張作霖爆死の件(アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915000)

 奉天 本省    昭和三年六月五日到着
 田中外務大臣 林総領事

第二六五号


  午前三時半頃右分遣所附近西方地点に三名の支那人挙動怪しき者を認めたるを以て我兵之を誰何したるに逃走せんとせしを以て内二名を突殺したるか

 同支那人の懐中に露西亜式らしき爆裂弾と■たる漢字の手紙あり封筒には附属地弥生町の住所と東三省宣撫使凌員清の名前ありたり 其の後別段の異常を認めす

(0263〜0264)
 


 上のふたつの資料だけを見ても、肝心の通行時間が「午後十一時」であったり「午前三時半」であったり、混乱が見られます。そもそも事件の前に「刺殺」されてしまった以上、この中国人が「爆破犯人」であることはありえません。

 これが実は犯人たちの「偽装工作」であったことは、まず、工作に関与した大陸浪人工藤鉄太郎が小川平吉鉄道相の下に情報をもたらしたことから、明らかにされます。

『小川平吉関係文書』より

 既にして予が嚢きに宣統帝の許に遣はしたる工藤鉄三郎氏は急速帰京して仔細に事件の顛末を述べ、関係支那人劉戴明の処置に関する援助を求め来れり。是れを日本政界における張氏爆死事件内容知悉の最初と為す。

 工藤の報告に曰く。

 関東軍の参謀河本大佐は慷慨果敢の国土なり。張作霖が郭松齢の乱に負へる日本の洪恩を忘却して事毎に日本に反抗するを憤り、張を排除し奉天の政局を一新することを図りしに、忽ちにして張の北京を退きて帰奉するの報に接し、乃ち之を爆殺して国患を除くと共に、変に伴うて支那軍隊の動揺するに乗じ、機を見て奉天を占領し、意中の人物を擁立して満洲の統治を左右せんと企図し、急逮策を按じて親交ある志士(工藤鉄三郎の親友)安達某を招きて犠牲支那人二名を物色せんことを依頼せり。

 安達は平素親交ある支那人劉某に旨を告げて之を依頼せり。劉はもと吉林孟恩遠部下の営長にして張作霖に積怨あるものなり。人と為り義侠にして市井の無頼に信望あり。

 乃ち之を諾して三人の支那人を獲て、各金五十円の支度料を与へ、日本軍の為に密偵たらんことを求めて其の承諾を得、六月三日夜半満鉄交叉点の日本兵哨所に至り命令を乞はしめたり。期に至りて一人約に背きて至らず。二人約に従って満鉄の線路上に至り歩哨の為めに殺さる。後に死体を検して南方便衣隊に関する書翰を得たり。蓋し河本の演ずる所にして爆撃の真相を掩はんと欲せしなり。

 河本は又支那側の交渉によりて京奉線通路の守備を支那側に委せたるのみならず、満鉄の守備をも撤して歩哨兵は数十間を隔てたる哨所に退き、やがて黎明の頃張氏乗用列車の交叉点に到るや兼て鉄橋下に装置せる爆弾に電流を通じて一挙列車を粉砕せり。事の起るや支那軍驚愕怖懼萎縮して動かず。河本遂に乗ずるの機を得ざりしなり。

 初め河本の劉を依頼するや与ふるに二万金を以てすることを約す。而して河本は我軍を以て奉天占領を策するに急にして、自己の懐中には千金の準備だも有せず。既にして支那官憲の被銃殺二人者に対する調査漸く厳にして、劉の身辺危からんとす。安達乃ち実を工藤に告げて予の救援を求めたるなり。

(中略)

 鳴呼張作霖の一撃、その事や壮なりと雖も政府の方針と相反し、有害無益の結果を来せるは長嘆に勝へざる所なり。

(P626〜P627)


 小川からこの情報を得た田中首相は、外務省・陸軍省・関東庁からなる「特別調査委員会」に調査を命じました。その結果、「伊藤謙二郎」「安達隆盛」「劉載明」という「工作」の中心にあった3名の証言も、工藤証言と「大体一致」しました。

張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録(二)

第二回会議 昭和三年十月二十三日午後二時より四時迄 於外務省小会議室

出席者 (外務省) ○森政務次官 ○植原参与官 ○有田亜細亜局長 岡崎事務官
      (陸軍省) ○杉山軍務局長
      (関東庁) 大場事務官
      (○印:特別委員会委員)

一、午後二時森政務次官開会を宣し先つ藤岡関東庁警務局長の本委員会に提出せる報告書(右は三通作成し一通は藤岡局長保管、一通は大場事務官保管、一通は本委員会に提出し目下有田局長保管す)に付大場事務官の説明を聴取す


二、大場事務官説明要旨

(イ)爆破事件当初関東庁側にても凌印清を疑はしと思ひ調査せるか大して関係する所無かりし模様に付其の儘放置し置けるか 今般藤岡局長帰任し本委員会の協議の結果に基き更に凌及伊藤謙次郎、安達隆盛等の取調へたる結果か本件報告書なるか 関東庁にては爆破其のものに付ては深く調査の方法なかりし次第にて 主として其準備行為たる支那人雇入の経過に付取調へ大体左の如く判明せり

(ロ)第一次計画 本件の中心となりたるは伊藤謙二郎(大石橋居住、石灰販売並褐石販売業)にして彼は平常より満州問題等に口を出す男なりしか 本年五月張作霖の形勢非となるや満蒙懸案解決の為にも此際張に代わるに呉俊陞辺りを以てする事可然となし 五月十五日頃(正確なる日時判明せす)在奉天関東軍司令部に斉藤参謀長を訪ひ此際激烈なる方法にて局面転回を計る事可然き旨を進言せるか 斉藤参謀長は単に之を聴取するのみにて相談に乗る模様なかりしに付 伊藤は更に河本参謀を訪ね先つ河本に如何なる決心あるやを確めたる処 河本は「国家の為ならは腹を切る覚悟もある」旨を言明したるに付 ことに其計画即懸案解決の為張に代ふるに呉を以てせむ事を述べたるに (当時伊藤等は右に付ては呉も多少の諒解ありと見込なりしか如し)河本之に賛成す。

 依て実行の方法として先つ呉俊陞と同じ考を有せる張景恵を説く事とし 張と義弟の拘ありと云ふ新井宗治(奉天貸家業)に相談し 新井より電話にて新京にありたる張に対し直に来奉方を求めたるも 張は来るを得さりし為 更に張の息を説き副官を赴発せしめ本計画を話さしめたるに 張之に同意したる為愈々実行の事に決したるものの如し。

(ハ)第一次計画の齟齬 然るに当時張作霖は六月十四日頃帰奉の見込なりしに付其の積りにて計画を進め居たりしに 六月一日に至り急に六月三日帰奉のこととなりたることを知りたる為慌てて呉俊陞を説き挙兵を促したるも 呉は斯く時日切迫しては準備整はすとして承知せす 却て張作霖出迎の為山海関方面に出発し遂に当初の計画は失敗に終れり。

(ニ)第二次計画 依て伊藤は更に他の計画を以て当初の目的を達成せんとしことに張作霖列車爆破を企て河本参謀に之を打明け且実行場所としては南満京奉「クロス」地点を選ふて可然旨を進言せり 河本は其際金は出せぬ旨を述へたるも他方爆破には支那人の必要なれは四五名雇入し度しと云ひ伊藤之か周旋方を引受けたり。

 而して伊藤は河本より右雇入には伊藤自身之に当るへきことを云はれたるも 平常支那人に交際なかりし為新井宗治に之を話し(但し新井は第二次計画には関係なしと云ひ居れり) 一応相談の上劉載明(元吉林軍馬営長、現在は奉天附属地遊郭に出資する匿名組合の一員)の手によることにしたるも 劉は平常安達隆盛と往来し居ることを知りたる為 安達より邪魔されぬ様同人の口の軽き男なることは知りたるも安達にも本計画を洩せる由。

 劉は元部下のモルヒネ中毒患者リユウバンシヨウ及其の手を通しチヨウエイキユウ並王某の三名を雇入し当初は表面日本天津軍密偵となるものなりとて
右三名に百円宛(但し右は伊藤の言、安達及劉載明は夫々百五十円宛を与へたりと申述ふ)を与へ、入湯、理髪をなし且衣服を整へしむ(彼等は乞食の如き姿なりしと)

 (尚彼等は六月三日午前四時頃遊郭内の福田泉なる風呂屋にて一度は断はられたるも強て頼み一人風呂に入れる由) 然るに王某は其後逃亡し結局残り二名伊藤を訪ねたるに (三日朝)伊藤は彼等に実は列車爆破の為爆弾を投するものなることを告けたるに両名共大いに狼狽し逃亡の惧もありたるを以て一旦安達の家に留め置き看視せり

 而して其際安達に本任務に成功すれは一人宛二千円宛又は死亡すれは遺族に五千円を与ふへしと云ひしか 伊藤は斯ることを云へは後に困ることを生すへしとて止めたるも 安達は一度爆破となれは支那側は発砲し日本側も之に応射すへく結局奉天は半戦争状態となるへく其の際は五千や一万の金は如何ともなるへしと答へし由。

 六月三日午前八時過き伊藤、安達及劉載明は右二名の支那人に劉載明書きたる手紙二通を携帯せしめ奉天、瀋陽館(関東軍幕僚宿舎)に伴ひ河本参謀に引渡したり 而して伊藤は更に現場に同道せむ事を望みたるも河本之を謝絶し両名の支那人のみを自動車に同乗せしめ出発せり
 従て伊藤等は其の後の模様に付ては何等知る所なしと。

(以上、伊藤、安達及劉載明の言の大体一致せるところなるか唯新井のみは第二次計画に関係なしと云ひ又雇人支那人に与へたる手付金額に付ては伊藤と安達及劉の所述に相違あること前記の如し)

(『アジア歴史資料センター』資料)
  

 余談ですが、森島氏は、このうち刺殺を免れた一名(王某)が張学良のもとに駆け込み、これが中国側が事件の真相を知るきっかけとなった、との記録を残しています。

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

 当時青林省長の要職にあり、鉄道問題の交渉などに関連して、公私共に日本側と接触の多かった劉哲が、森岡正平領事に内話したところによると、刺殺をまぬかれた一名は、張学良の下に駆けつけて、ことの顛末を一部始終訴えたので、学良としては、張大元帥の横死が日本人の手によったものであることは、事件直後から萬々承知していたわけである。

 
ただ親の仇とは倶に天を戴かないという東洋道徳の観念から、一度学良自身の口から日本人による殺害の事実が洩れると、学良自ら日本側との接触に当り得ないので、万事を胸中の奥深く秘めていたに過ぎないとのことであった。

 中国では阿片やヘロイン、モルヒネを常用する悪習があり、中毒者は恥も外聞もなく、麻薬の入手に狂奔するので、私たちの中国勤務中には、中毒者が金銭的誘惑に弱い点につけ込んで、よく情報集めなどに利用したものだったが、三名の浮浪人の如きは、利用すペく恰好の囮だったわけだ。

(P22)
 


 なお森島氏は、この中国人たちが「事件」の前日に立ち寄った風呂屋「福田泉」の主人の「通報」も、あわせて紹介しています。

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

  ところが、この極秘中の極秘たるべき陰謀の真相は、爆破関係者の夢想だもしなかった些細なことから世上の噂に上るに至った。

 爆破当日の朝方、前記の浴場の主人が好奇心に駆られて現場に行くと、前の晩自分のところに来た中国人の浮浪人二名が晴衣を着て刺し殺されているのを見て一驚し、前夜からの顛末をそのまま、附属地内の関東庁警察に通報した。


 若し憲兵隊へ報告していたら、当時の隊長三谷清少佐は関東軍と昵懇の間柄だったから、その話も恐らく握り潰しになり、中央への報告とはならなかったであろう。ところがあいにく拓務省系の関東庁警察(制度上総領事館警察をかねていた)に報告されたため、東京へそのまま伝わり、やがて東京や満洲で話題に上るに至った。

 当時の奉天特務機関長秦真次少将(後の憲兵司令官)は、浴場の主人の話を中央に報告したむねを聞き込むと、「軍に不当な疑を与えるものだ」と警察に呶鳴りこんだ一幕があったが、当時関東軍の出動と同時に、奉天に出張中だった関東庁の三浦義秋外事課長(後のメキシコ公使)は、秦の呶鳴り込みの一件を聞くと同時に、爆破と軍との関係を直感したと内話していた。

 (P25〜P26)



 憲兵隊による調査

 「事件の真犯人は河本大佐グループ」との情報は、複数のルートから、田中義一首相の下に届きました。このあたりの情報は「田中義一伝記」に詳しいので、これに沿って見ていきましょう。

 まず第一報をもたらしたのは、貴志中将です。

『田中義一伝記』より

 軍人が関係しているに相違ないとする確報第一号は貴志弥次郎中将によって田中首相に齎された。貴志は作霖の第二子学銘をあずかっていたので事件直後奉天に急行し現場を視察した結果誘導電線の敷置された痕跡を確認し、且つ爆弾の質と量とが到底便衣隊如きの携帯するものでないと判断した。

(『田中義一伝記』(下) P1028)


 この時点では、まだ「怪しい」程度の情報でしたが、次いで大陸浪人工藤鉄三郎から、小川鉄道相に詳しい情報が入ります。

『田中義一伝記』より  

 第二報は南満大石橋在住の浪人某(ゆう注.工藤鉄太郎)から小川鉄相に注進された情報であった。

 それに依ると某は作霖の親衛隊長荒木五郎(予備少尉、満洲に帰化)に委嘱されて、爆発失敗の場合抜刀隊を率いて作霖の列車に斬込む役割であり、荒木に頼んだのは関東軍の幹部らしいと云うのである。

そうこうする裡に林権助男の帰京によって多くの情報が齎らされ、漠然ながら軍人による凶行の輪郭が次第に首相にも推測されるに至った。

(『田中義一伝記』(下) P1028)

*詳細は、前掲『小川平吉関係文書』をご覧ください。


 田中首相にとっても、この情報はショッキングなものであったようです。奉天総領事であった林久次郎氏を呼び寄せ、真偽のほどを尋ねています。

林久次郎『満州事変と奉天総領事』より

 九月六日東京着、七日田中首相に会見した。首相は、君を呼び返せるは他の儀でない。六月四日、クロスに於て張作霖搭乗の列車爆破せる者は、関東軍所属の者なりと伝うる者がある。本件に関係せりと称する満州浪人安達隆成なるものより、東京の工藤鉄太郎に来信あり。工藤より小川(平吉)鉄相に其の書信を示したが、総領事は其の事実を知って居るかと尋ねたから、

 事実は知らない。固より幾多の噂有るも信頼する訳に行かない。只、警察の報告等に依りて見るに、事変の当時射殺せられたこ人の便衣隊員は事実は乞食で、或る浪人が金銭を与え利用したものであるとの情報がある。又五日朝、総領事館の打合せ会に於ける守備中隊長の言に疑わしき点無きに非ざるも、爆破が関東軍所属の者に依り成されたという何等の証拠も発見せられて居らぬと答えた。

(P43)

 これらの情報を得た田中首相は、前記の「特別調査委員会」に「共同調査」を命じるとともに、峯憲兵司令官にも軍ルートへの調査を命じました。そして峯は、当事者を直接訊問して、決定的な情報を持ち帰ります。

(「峯憲兵司令官」の名は、資料によっては「峰」となっている場合もあります。ここでは、基本的には「峯」の字を使っていますが、資料が「峰」と表記している場合にはそれに従っています)

 
『田中義一伝記』より

 仍て首相は外務・陸軍・関東庁三者の共同調査を命ずると共に白川陸相をして九月峯憲兵司令官を調査のため現地に派遣せしめた。

 峯憲兵司令官は奉天に於て情報を蒐集してから河本大佐、東宮大尉等を詰問し、爆発、抜刀隊の斬り込失敗の暁は時を移さず独立守備隊による急襲計画のあったことを確認し帰途京城に立ち寄り竜山工兵隊の某中尉(「ゆう」注 桐原中尉)を直接取調べた結果案外すらすらと自白したので帰京した。

 偶々田中首相以下閣僚は大演習陪観のため盛岡に出張中であったので田中首相は峯憲兵司令官の報告書を宿舎である盛岡市古河端原別荘に於て受けたのである。三年十月八日のことである。

 それまでは一縷の望みをかけて軍の無関係ならんことを望んでいたのであったが確報を得て当惑と激怒とが交錯して首相を苦悩せしめたのであった。

 厳重に処分することを前提として首相が即刻白川陸相に善後の処置を要望したことは勿論である。陸相は参謀総長をその旅宿に訪ねて先ず協議し、首相は河合大将を招いて協議する等、将星の往来漸く繁きものがあった。

 大演習終了後、明年度予算案の編成は財源難から難問続出し御大典を控えての首相は寸秒の余暇もない有様であったが寤寐の間猶お去らぬは責任者の処罰によって生ずべき国際上の紛擾、特に対支関係の将来であったのは云うまでもない。

(『田中義一伝記』(下) P1029)


 余談ですが、峯による朝鮮軍への調査については、『河本大作供述調書』中に、以下のような供述が見られます。

 中国側による「戦犯」としての取調べ資料で はありますが、少なくともこの部分に関しては、特に他の資料との矛盾もなく、十分にありうる話であると考えられます。

『河本大作供述調書』

 折も折、朝鮮憲兵司令官から「満州では調査のしようがなかったが、手元に材料を入手した」という報告が〔峰のところに〕入った。

 この時の行動に朝鮮から参加した桐野工兵中尉が、平壌で難波隊長(中佐)に招かれた宴会の席上、「今回の皇姑屯でのお手並みは全くお見事でした。一体どんな具合になさったのですか」とある人に尋ねられ、すでに一杯機嫌だった桐野は、酒の勢いで一切合切を吐き出してしまったのだった。

 峰はこれらの材料を手に日本に戻り、中央に報告した。

(『This is 読売』1997年11月号 P56)


 なお、この峯憲兵司令官の報告書の具体的な内容は、今日では確認することができません。東京裁判で田中隆吉が「見た」との証言を行っていますが、裁判所の提出命令にも関わらず提出は行われませんでした。

 しかし、この「峯報告」が当時広く知られていたことは、次の建川中将の談話でも伺い知ることができます。森克己氏による、建川中将への聴取記録です。

 
建川美次中将談

昭和十八年七月十八日午前十時〜午後一時 於東北沢同中将邸


 彼の時の峰憲兵司令官も馬鹿な奴だった。調査に行ったのは、そんな事実なしということを調べにやった筈なのだ。現地へ行って河本らを呼び出し、「帝国軍人はそんなことはせぬ。お前ら何を馬鹿げたことをいうか、そんなことは捏造だろう」と叱り飛ばして帰って来ればよいのに、態々調べ上げて来て、あの結果になった。
 
(森克己『満洲事変の裏面史』 P326)

 

そして、「上奏」へ

 かくして、「事件」が実は軍部によって行われたこと、その首謀者が河本大佐であったことは、決定的になりました。

 日本の正規の軍隊が、 中央の指示に基づくものではなかったとはいえ、一国の要人を暗殺してしまった。これは、国際的問題への発展を免れない、大変な「犯罪」です。

 田中首相は、この対応に苦慮します。結局は、元老西園寺公のアドバイスもあり、田中は、「事件」に関する天皇への「上奏」を行 いました。この時の「上奏」の内容には諸説ありますが、とりあえずは、『田中義一伝記』を引用します。
 
『田中義一伝記』より

 かくて十二月二十四日午後二時首相は宮中に参内して拝謁の上『作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるを以て若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行なうべく、詳細は調査終了次第陸相より奏上する』旨を申上げて退下し、二十五日各閣僚を個別に二十六日閣議に於ても総理大臣として決意を告げ併せて意見を徴したのであった。

(『田中義一伝記』(下) P1030)


 ここでは明言はありませんが、実際には、天皇の下に、「河本の犯行である」旨は伝えられていたようです。粟屋氏が発見した『鳩山一郎文書』に収められていた、『極秘 内奏写』という文書 に、その旨の記述があります。

*なお、発見者の粟屋氏はこの「上奏」は田中首相によって行われたものと思われる旨を述べましたが、実際には、この「上奏」を行ったのは、田中首相ではなく白川陸相であった、との有力説がありま す(永井和『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』=『日本歴史』1990年11月)。

鳩山一郎文書『極秘 内奏写』

 曩に上聞に達せし奉天に於ける爆破事件は其後内密に取調を続行せし結果、矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行ひしものにして、洵に恐懼に堪えず。

 就ては軍の規律を正す為、処分を致度存するも今後此事件の扱ひ上、其内容を外部に暴露することになれば、国家に不利の影響を及ぼすこと大なる虞あるを以て、此不利を惹起せぬ様深く考慮を致し充分軍紀を正すことに取計度存ず。

 右の取扱方は陸軍の将来にも関係する重大事項に付、参謀総長、教育総監と内議を遂げ、且つ元帥方の御意見も承りし処、敦れも同意なるを以て此義上聞に達す

 右内奏終るや御下問あり

 直に奉答したり

(粟屋健太郎『張作霖爆殺の真相と鳩山一郎の嘘』 = 『東京裁判論』所収 P232〜P233)

*この「鳩山一郎文書」は、田中内閣の内閣書記官長をつとめた鳩山一郎が、東京裁判の国際検察局(IPS)に提出した文書です。粟屋健太郎氏により発見されました。
 


 しかし、陸軍内の雰囲気は、河本への同情・共感から、圧倒的に「処罰反対」でした。この流れに抗しきれず、田中首相は改めて「上奏」をやりなおし、天皇に対して、今度は「事件の真相は不明だった」と前言を翻した報告を行いました。

 天皇は、これに対して、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」と激しい怒りを示しました。

『昭和天皇独白録』より

 張作霧爆死の件

 この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中〔義一〕総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。

 
そして田中は牧野〔伸顕〕内大臣、西園寺〔公望〕元老、鈴木〔貫太郎〕侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云つたそうである。

 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。

 そこで田中は再ひ〔び〕私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。

 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。

 (P23〜P24)
 


 天皇の怒りを買った結果、田中内閣は、ただちに総辞職を余儀なくされました。田中自身も、総辞職から3か月後の9月29日に、心臓発作によりこの世を去ることになります。一部では、「自殺」説も囁かれました。(中島亀次郎『田中義一大将の切腹』=『文藝春秋臨時増刊 昭和の35大事件』所収)

 

 余禄 みんなが知っていた

 以上のような経緯を経て、軍部・政府関係者などの間では、「事件は実は河本らの犯行であった」ことは、公然の秘密とな りました。関係者は別に、東京裁判での田中隆吉証言により突然「真相」を知ったわけではありません。

 ここでは、前掲の森克己『満洲事変の裏面史』より、当時の軍有力者などが「事件」について承知していた証言を、いくつか紹介しておきましょう。いずれも、太平洋戦争中の聴取記録です。

二宮治重中将談

 張作霖爆死事件の時、田中内閣で、私は英国より帰り、旅団長をしていた。事件調査に、現地までやってきた憲兵司令官は峰だ。三年十月には此方に来て見た。やったのは東宮の中隊だ。北支から中支を歩いてゐる留守に峰がやったのだ。白川が事件をカンカンに怒って手が付けられなかった。

(森克己『満洲事変の裏面史』 P343〜P344)


三谷清氏談

 石原(莞爾)は張作霖爆死の八月関東軍に赴任してきた。

 石原は河本大佐の企てを評して、時の利を得なかった。もう三年待てばよいのにといってゐた。

(森克己『満洲事変の裏面史』 P367)


建川美次中将談

 自分は赴任の途中、関東軍に立ち寄って挨拶したが、ちょうどその時は高級参謀の斉藤が旅行中で留守で、代って参謀の河本大佐が応待に出て来た。その時の河本の話では、張作霖が関外に逃げ込んだ場合は、張作霖を捕えて監禁し、学良を立て、多くの日本人顧問を入れてやって行くという話だった。豈にはからんや、二月後には殺してしまった。

(森克己『満洲事変の裏面史』 P317)



2010.2.11追記

田中首相に対しては「事実は知らない」と報告した林久次郎・奉天総領事も、実際には「犯人は河本」との認識を持っていたようです。石射猪太郎氏、1929年の記述です。

石射猪太郎『外交官の一生』より

 例によって(「ゆう」注 吉林総領事への)単独赴任である。京城経由奉天に立ち寄った。

 奉天総領事はシャム公使から転じた林久治郎氏で、その下に領事として森島、森岡、藤村等の旧知の面々がいた。

 当時奉天総領事は、名は一総領事とはいえ、実は東三省政権への全権公使であり、在満十数個所の外務公館の、総元締の格であった。さればこそ、林氏がシャム公使から技かれて、総領事に還元したのであった。

 私は林総領事の内輪話で、張作霖爆死事件の真相を知った。陰謀の張本人として、関東軍参謀河本大佐の名前が語られた。

 
そのほか易幟問題の経緯、楊宇霆、常蔭槐暗殺事件の真相も、林総領事の語るところだった。満州は大きな伏魔殿、この次に何が起こるかとの不気味さを深くした。

(P187)




 以上、当事者たちは口を揃えて自分たちの犯行であることを認め、当時の関係機関も政府へその旨の正式報告を上げ、最後には事件の真相は天皇にまで伝わっていたわけです。

 「ソ連犯行説」は、いかにして以上のような「事実群」をくつがえそうとするのか。次の記事で、見ていきましょう。

(2006.6.13)


HOME 次へ