加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』

−河本大作と張学良とソ連諜報機関の共謀?−



 さて次には、2011年刊、加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』を取り上げます。

 加藤氏は、先に取り上げてきた中山輝政氏や瀧澤一郎氏のような「素朴な陰謀論者」とは異なり、一応はきちんと事件の「基礎資料」を読み込んでいます。また、「週刊プレイボーイの元編集長」という経歴からも窺える通り、文章はわかりやすく達者です。第一章「「河本大作首謀説」をめぐって」など、「事件」の入門編としても、なかなかのものでしょう。

 しかし第二章以下で、氏は「基礎資料」をベースとした地道な実証的歴史研究の世界から離れ、思い切り「想像」の翼を広げてしまいました。その結果、「河本グループと張学良とソ連諜報機関(あるいは、プラス蒋介石)の共謀」という、何とも突飛で、気宇壮大なストーリーを作り上げてしまうことになります。

 歴史小説ならばともかく、これはいささか「飛躍」が過ぎます。ここまで来ると、「推測に推測を重ねたトンデモ本」というのが妥当な評価であるかもしれません。

 以下、氏の論理展開を見ていくことにしましょう。



< 目 次 >

1 出発点−「爆薬の位置」の謎

2 真犯人その1 張学良、楊宇霆、常蔭槐

3 真犯人その2 やっぱり河本グループが関与?

 4 真犯人?その3 ソ連諜報機関

5 「蒋介石」も知っていた?

6 天皇も「他国の謀略」を知った?





 出発点−「爆薬の位置」の謎


 筆者の出発点は、「犯人が爆薬を仕掛けた位置」への疑問です。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』


 河本グループが仕掛けた爆薬は、どこに置かれたのか。この事件の謎を解く鍵のひとつである。

 すでに述べたように、関東軍川越守二大尉の手記などから推して橋脚に近い線路脇、と解釈するのが定説のようになった

 戦史研究家秦郁彦氏の指摘もほぼ同様で、橋脚からほど近い奉天行き線路脇を氏自身が示している。

 では、仮にその地点で二百キロの爆薬を爆発させたとしたらどうなるか。

 常識から考えれば地面に大きな穴が空いて線路が破壊され、さらに客車の脇腹が爆風で吹き飛び列車は転覆する、とみるのが当然だろう。

 ところが現実にはそうならなかった。残されている写真のすべてが爆源地は線路脇ではないと語っている。


 本書に掲載した写真,らい鮓ただけでも分かるとおり、地面には穴ひとつ空いていない。

 線路も異常なし。客車の横腹が破壊されて跡形もない車両は、火災によって焼失した崩落だ。客車が火焔に煽られて燃え落ちている。

 列車の一部は進行左側にやや傾斜したものの、脱線した車両は皆無である。

 こうした証拠から考えて、河本グループが設置したという爆破装置で張作霖を本当に殺害できたとは断定しがたいのではないか。

 (204-P205)




 当時の調査報告書でも、爆薬の位置は「橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしもの」と推定されています。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』


 関東軍司令部内で印刷された「張作霖列車爆破事件に関する所見」と題する斎藤の記録を見てみよう。斎藤が所見を提出した先は参謀本部である。



 爆薬の装置位置に関しては各種の見解ありて的確なる憑拠なきも、破壊せし車輌及鉄橋被害の痕跡に照らし 橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず。

 殊に六十瓩内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇・五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。(P207)





 河本グループは、実際にはどこに爆薬を仕掛けていたのか。メンバーの証言を見ると、線路脇に積み上げられていた土嚢の中身を爆薬にすりかえた、としているものが多い。しかし実際の爆発の効果は、列車上方からのものであるようだ。

 確かにこれは、事件の「謎」の部分です。

 犯人グループが語る「爆薬の位置」が誤って伝えられたのか、あるいは何らかの事情によりこの位置の爆薬でも同様の効果が得られたのか。犯人グループに直接尋ねることができるのであればあっさりと氷解してしまう程度の疑問かもしれませんが、これまで明らかになっている史料だけでは、このあたりの解明が困難であることは事実でしょう。


2019.5.19追記 その後、資料を読み直して、これは「謎」でも何でもないことに気がつきました。よく見ると、実際には河本グループも、爆薬は「列車の上方」に仕掛けた、と認識していたのです。 詳しくは、加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』−「爆薬の位置」の謎−をご覧ください





 真犯人その1 張学良、楊宇霆、常蔭槐


 しかしこの「疑問」から「犯人は河本グループではない」とまで飛躍してしまうことには、かなりの無理があります。

 改めて振り返りますが、先のコンテンツで見てきたように、チームを組んだ各人、首謀者の河本大作大佐を始め、角田市朗中尉、桐原貞寿中尉、東宮鉄男大尉、尾崎義春少佐、川越守二大尉が、それぞれ別の場所で別の人物に対して、あるいは自らの手記で、おのおの自分の役割を語っています。

 また、工藤忠から小川鉄相には、「偽装工作」をリアルに伝える情報が送られました。そして「河本の犯行」は、天皇にまで上奏されました。

 「河本グループの関与」を裏付ける資料がここまで重層的に存在する以上、「チームが犯行を企てた」こと自体を否定することは困難でしょう。

 さすがに筆者も、「河本グループの関与」まで否定することはしません。この点は、資料を無視して、「犯人は河本グループではなくソ連諜報機関」とまで突っ走ってしまう、中西輝政氏ら「素朴な陰謀論者」と決定的に異なるところです。




  さて筆者の前には、こんなデータが集まりました。


1.張作霖を殺した爆薬は、河本グループが仕掛けたものではありえない。

2.しかし、河本グループが現場で「爆破」を行ったことは否定できそうにない。


 この一見矛盾するデータを、いかに説明するか。ここで筆者は、思い切りのウルトラCを思いつきました。

 河本グループが現場にいて爆薬のスイッチを押したのは事実。しかしその爆発は張作霖を殺すには至らず、真に張作霖を殺した爆薬は別のグループが仕掛けたものである

 ちょっとびっくりするような発想ですが、では、その爆薬を仕掛けた「別のグループ」とは一体誰なのか。筆者は何と、張作霖の息子、張学良のグループを「犯人」として指名します。

※通常の「陰謀説」であれば、ここに「ソ連諜報機関」あたりが登場するところです。しかし加藤氏は、爆薬の仕掛け場所として「列車内の天井」を指定してしまいました。さすがに「ソ連諜報機関」がこんな場所に爆薬をセットするのは無理だと考えたのでしょうか、列車の運行を司る「中国東北政府」内に「犯人」を求めざるを得なかったようです。

 このあたりは、本書のハイライトとも言うべき部分ですので、全文を紹介しておきましょう。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』


 ここからは、私の推定である。推定ではあるが限りなく可能性は高いものと考えられる。

 学良は楊宇霆を招き入れ、ある筋から伝わっていた極秘プランを打ち明けた。

 六月一日の夜、学良の屋敷内である。

 楊宇霆が聞いた話は次のようなものだ。

 我々が特別列車を皇姑屯クロスの架橋下で爆破すれば、あとはすべて日本軍がやったことになるよう完璧に手配は済んでいる、と。

 日本軍は爆破の責任は気にしていないと聞いている、とも学良は付け加えた。

 事故のあとで我々が反撃にでも出れば、その機に乗じて一戦巻き起こそうというわけだろうが我々はその手には乗らない。世代交代ができればこっちのものだ、と楊宇霆は応じた。

 このとき八年後の西安事件まで予測して、蒋介石を軟禁した上で国共合作を自分たちの手柄にしようとまで話し合ったかどうかは分からない。いずれにせよ、楊宇霆は何の疑いも抱かず学良と密談を終えた。

 その晩遅く、楊宇霆に呼ばれたのが常蔭槐である。

 東三省交通委員会副委員長という職にある常蔭槐は、諸外国と複雑に利権が絡む鉄道問題の管理が主務だが、京奉線は直轄路線で特に知悉している。かつて京奉鉄路局長にも就いていた経験がここにきて役立つことを楊宇霆は知っていた。(P190)

 以前、満鉄と京奉線がクロスする問題で日本と奉天軍との間でかなり激しい談判になった。のちの爆殺現場である。そのとき日本側は芳沢公使、奉天側は常蔭槐がそれぞれの首席代表であった。

 鉄道のプロに委ねられた案件は、高度に技術的な問題だった。どうしたら特別列車の主要部分を完全に爆破して、標的となるある人物を爆殺できるか、に絞られていた。しかも一切の証拠を残さずに


 常蔭槐が足を運んだのは北京市街南西部の豊台にある鉄道ターミナルだった。のちに盧溝橋事件として知られる橋からもさほどの距離はない。

 入り組んだ線路の奥に巨大な鉄道工場が建ち並ぶ。「豊台機務段」と看板が掲げられたこの工場は、日本でいう機関区であり車両工場だった。北京駅から出発するすべての蒸気機関車、車両はここで修理され、整備されて本線へ戻される。

 常蔭槐は青い服を着た老練な機関士をひとり連れて機関区長に合わせた。石炭の煤と機械油で汚れた機関士姿の男は、かつては爆破専門の工兵だった。

 機関区長が案内した先は動輪を外して解体し、クレーンで機関車を吊り上げている工機部だ。(P191-P192)

 方向転換させるターンテーブルに載せられ、車両庫からコバルトブルーに塗られた一台の装甲客車が姿を見せた。

 横には 「津浦」という金文字が書かれている。この客車こそかつて慈禧大后(西太后)のお召し列車として使用され、輝かしい歴史を誇る貴賓車だった。

 だが、この貴賓車を使うのは今回は止めておこう、常蔭槐はそう言って機関区長に別の一等車を引き出させた。

 次いで麻雀卓がしつらえられている展望車や食堂車、寝台車が指定され、牽引する機関車を八十六号の大型重連とせよ、と専門家らしい口調で伝えた。

 日付が六月一日から二日に変わった時刻である。

 真っ暗な工機部の奥で物音も立てずに動く人影が認められた。昼間ここに現れた機関士の服を着た男とその助手を務める機関助手、火夫(釜焚き)たちだった。

 三人は貴賓車、展望車、食堂車三両の屋根裏を器用に開けた。そこへ一個およそ二、三十キロはあろうかと思われる麻袋に詰まった黄色火薬を順に押し込んだ。

 設置場所は各車両の後方連結器に近い部分とした。こうしておけば寝台車まで前の車両の破壊力が及ぶはずだった。
(P192-P193)

 黄色火薬は奉天軍には入手が困難だったが、常蔭槐が特殊ルートで手に入れたものと聞いた。これが六十キロ以上あれば、四両を吹き飛ばすには十分だと、元工兵は満足した。

 列車全体における車両編成の変更は頻繁に行われるだろうが、貴賓車、展望車、食堂車、寝台車がばらばらに組まれることはまずあり得ない。この四両は大元帥の私室なのだから。

 ボーイなどに変装した協力者さえ同乗していれば、張作霖の居処は必ず機関士に届くはずだ。クロス架橋で日本軍が勝手に爆破のカモフラージュをやると聞いている。いま彼らは、日本軍が間違って線路ごと吹き飛ばさないことだけを祈っていればいい。

 あの架橋下でスイッチを押せばし損じることはあり得ない、と機関士は昼間、常蔭槐に胸を張って見せた。

 天井をもと通りに手際よく装い終えると、それぞれの火薬袋から一本ずつ導火線を引き出し、壁裏を通して端末を小さな室内ランプにしっかりつないでおいた。

 その室内灯は予備ランプで、トンネルなどに入った際にだけ点灯されるよう、機関車からスイッチ操作ができる。

 機関車にいながら目標地点でスイッチを入れるのはたやすい作業だ。速度さえ時速十キロ程度に落としておけば、標的が架橋下に来た瞬間を視認するのは自信がある。(P193-P194)

 天井裏の爆薬は正確なポイントで点火され、狭い車内で大爆発を起こすだろう。それが架橋下のようなより区切られた密閉空間であれば、爆破の効力はいく倍にもなる。

 しかも機関士の経験豊富なこの男が、実行犯として特別列車の運転士、もしくは助士とし て乗車するのは、楊宇霆や常蔭槐が指名すれば苦もないことだ。

 そこまでの作業を敏捷に終えた男たちは、手応えを確認し終えると再び闇の中へ帰っていった−。

 「大元帥閣下は、やはりコバルトブルーのお召し列車に乗られる。貴賓車、展望車、食堂車、寝台車の順で編成を決定せよ。貴賓車の前三両は例の装甲一等車だ」

 常蔭槐から最終連絡が機関区長に入ったのは、六月二日の晩遅く、特別列車を北京駅に入線させる直前のことだった。

 日付が三日に変わるころ、張学良、楊宇霆は張作霖を見送る駅頭へ向かっていた。(P194)



 張学良と楊宇霆・常蔭槐の共謀。大胆な発想ですが、それを証明する具体的な史料的裏付けは存在しません。

 河本グループの側では、多数の「犯人」たちが、それぞれ「犯行」を語っています。しかし上に登場する張学良・楊宇霆・常蔭槐の側では、たった一人でも「自分の犯行」を認めているわけではありません。周囲の誰かが彼らを「犯人」であると語っているわけでもありません。

 また、張学良と楊宇霆・常蔭槐グループとは、共に「陰謀」を企てるような親密な仲であるどころか、激しい対立関係にあった、というのが歴史の「常識」です。現に、楊宇霆・常蔭槐の二人は、事件のわずか2年後に、張学良によって暗殺されています。

 筆者はこれを「推定」と称していますが、むしろ「想像」という言葉の方がふさわしいでしょう。



 史料的裏付けが全くないにも関わらず、上の記述は極めて具体的です。歴史小説顔負けの想像力溢れる記述には恐れ入りますが、ちょっと考えれば、すぐにいくつもの「突っ込みどころ」が見つかります。

 「真犯人」は張学良グループ。そして河本グループは自分たちの犯行に見せかけるような「偽装」を行っただけ。これが、氏の説明です。

 しかし、「真犯人」が張学良グループであったのならば、河本グループはなぜ、自分たちの仕業に見せかけるような「偽装」などをやる必要があったのでしょうか。この「偽装」が事実であれば、日本を「悪者」にしようとするとんでもない反日策動であるはずなのですが・・・。

 
「我々が特別列車を皇姑屯クロスの架橋下で爆破すれば、あとはすべて日本軍がやったことになるよう完璧に手配は済んでいる」「日本軍は爆破の責任は気にしていないと聞いている」という言葉からは、河本が意図して「偽装」役を果たしていたかのような印象を受けます。

 しかしここから40ページほど前には、こんな記述があったはずです。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 仮説をたてれば、河本大作が心を許していた石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、そして同じく料亭「みどり」に集う芸妓たちの誰かがサルヌインの巧妙な工作を受けた可能性を否定できない。(P154)

(略)

 張作霖殺害がいかに日本にとって軍事的、政治的に有利な展開になるかを納得させるのにさしたる手間はかかるまい。エージェントはあらゆる手段をもって周辺の人物に信用を得たのだろう。(P155)


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』


 この計画では河本たちはおおむね自らが述べたような手段で爆薬を運び、設置し、爆発点火させたと考えてよい。

 舞台裏から見れば、河本が見事にトラップにかかったという顛末なのだが、彼らは自分たちだけで最後までやったものと疑わなかったのであろうか。(P155)



 この書きぶりをみると、どうも河本は、何も知らずに結果的に「偽装」役をやった、ということであるようです。

 河本が、自分が「偽装」役であったことを、知っていたことにしたいのか、それとも知らなかったことにしたいのか。どうも筆者自身、このあたり考えが固まらず、混乱しているように思われます。
※「素朴な陰謀論者」でしたら、根拠もなく、「河本がコミンテルンに取り込まれて日本を裏切ったのかもしれない」などと言い出すかもしれません。しかしそんな「珍説」を立てたとしても、資料の裏付けは存在しませんし、加藤氏自身も「匂わす」だけで、断定的な言い方を慎重に避けているようにも見えます。 また河本がコミンテルンの協力者であったと考えると、戦後、河本が閻錫山に協力して中国共産党と戦い、最後は中国共産党に捕えられ、戦犯としてそのまま中国の地で死去した、という事実と整合しなくなります。

※細かいところですが、犯行に使われたという「黄色火薬」は、日本軍犯行説の根拠のひとつとなりました。「そのとき使用した火薬が橋台にいぶりついている。それをみると黄色火薬で日本以外には使っていないものである。 支那側はこんな高級な黄色火薬はこちらで使っていないと主張する(松村謙三『三代回顧録』)。 さすがに筆者もこの「黄色火薬」の説明には苦慮したのか、「常蔭槐が特殊ルートで手に入れたものと聞いた」の一言でごまかしています。


 また実際の話、「日本軍の仕業」としたいのでしたら、「少量の爆薬を爆発させて自分が犯人のふりをする」なんてまだるっこしいことをする必要はありません。初めから大量の爆薬を用意して、自ら張作霖を屠ればいいだけの話です。

 その意味で、「クロス架橋で日本軍が勝手に爆破のカモフラージュをやると聞いている。いま彼らは、日本軍が間違って線路ごと吹き飛ばさないことだけを祈っていればいい」というのは、おかしな記述でしょう。

 日本軍が「間違って線路ごと吹き飛ば」してくれるのであれば、張学良らにとっては大歓迎のはずです。「偽装」が「偽装」でなく、「本当」になってしまうのですから。自分たちが手を汚すまでもなく、日本軍が張作霖を爆殺してくれた。それで終わる話です。

 「張学良・楊宇霆・常蔭槐犯行説」には、筆者の「想像」以外、何の裏付けもない。また、張学良と楊宇霆・常蔭槐グループとの対立関係という「史実」を無理やり捻じ曲げないと、この「仮説」は成立しない。「説」に対する評は、このようなものになると思います。





 真犯人その2 やっぱり河本グループが関与?


 「河本グループの偽装爆破」プラス「張学良グループの列車内の爆薬」だけで、もう十分にややこしいことになっていますが、話はこれで終わりではありません。氏はさらに複雑なストーリーを練り上げます。

 「列車上部の爆薬」だけで「上方の満鉄線陸橋」まで崩れてしまう、というのにはさすがに無理があると感じたのでしょうか。氏はさらに、「第三の爆薬」が「満鉄線線路の欄干裏側、もしくは橋脚の上部壁面」にあったのではないか、と示唆します。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 その位置で大爆破が起きて、列車がこのような位置に停まり、線路に傷もなく、橋上の満鉄の線路のほうが破壊されたなどという事態が発生するとは思われない。列車は万一転覆しないにせよ、もっと先に進んでから停まるであろう。

 明らかに架橋下で車内爆発があったものと想定される。加えて満鉄線の壊滅的な損傷度から見て満鉄線線路の欄干裏側、もしくは橋脚の上部壁面にも爆薬があらかじめ装置されていて、誘爆を起こさせたのではないだろうか、とも考えられる

 図が示すように重量のある鋼鉄製ガード(欄干)が落下し飛散している事実がなによりも上方からの爆発を指し示している。(P232)



 この爆薬を仕掛けたのは誰か。何と氏は、こちらも河本グループの仕業ではないか、と言い出しました。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』


 川越守二大尉の手記によれば、六月二日の夜、河本大佐は相原中尉を同道させて鉄橋に爆薬の装置をした、とある。

 河本は相原中尉を使って橋脚上部壁面に誘爆火薬を仕掛けさせたのではあるまいか。


 機関車の中から押されたスイッチにより天井裏の爆薬が爆発、同時に橋脚壁の爆薬も誘爆して架橋内でエネルギーが増大され、あの大爆発につながった。

 「川越手記」をもう一度見てみよう。


 六月二日の夜、河本大佐は工兵第二十大隊の中尉を同行して、満鉄クロスの満鉄の鉄橋に爆薬の装置を終り、午后十時頃旅館に帰った。(P232-P233)

 本夜はうまく火薬をクロスに装置して来た。専門家は立派な仕事をすると、工兵の中尉を誉められた。


 河本が特別に賞賛の言葉を掛けたほどの「立派な仕事」とは、線路脇に爆薬袋を少々積んで帰るだけのものであるはずがない。川越の手記から橋脚壁面にも装着したと理解するのが分かりやすい

 線路脇の偽装爆発とは別途に、本気の仕事が「仲介者」との間で約束されていたのではないか。気合いを入れて仕掛ける必要があったのだ。

 河本に督励された桐原のもうひとつの仕事、橋脚装着が案外重要だった可能性は否定できない。(P233)




 さすがに読者の方も、ここまで読むと頭が痛くなってしまったのではないか、と思います。

 河本グループが仕掛けた線路脇の爆薬は「偽装」であった。それに加えてグループは、「満鉄線線路の欄干裏側、もしくは橋脚の上部壁面」にも実効性のある爆薬を仕掛けていた。

 
なぜそんなややこしいことをする必要があったのでしょうか。「線路わきの偽装爆薬」などは省略して、初めから「満鉄線線路の欄干裏側、もしくは橋脚の上部壁面」に爆薬を仕掛け、張作霖爆殺計画を完遂すればいいだけの話です。

 
誰しもそう突っ込みたくなるところではないかと思うのですが、筆者はやはり何の説明もしません。このあたり、氏のストーリーは、かなりの無理を露呈してしまっています。





 真犯人?その3 ソ連諜報機関


 線路脇の「第一の爆薬」は河本グループによるものでした。そして列車上部の「第二の爆薬」は張学良グループ。そして橋桁上部の「第三の爆薬」もまた、河本グループによるものだそうです。

 どうしてここまでややこしいことを考えつくのか、と頭が痛くなってきそうな「多重構造」ぶりですが、それはともかく、読者の方は、ここまでのところ、「ソ連特務機関」が登場する必要は全くないことに気がつかれたでしょうか。「河本グループ」と「張学良グループ」の共謀、ということだけで、この「大陰謀」は成立してしまうのです。

 しかし氏は、「ソ連陰謀説」の顔を立てようとしてか、無理やり「ソ連諜報機関」を関与させようとします。どうやら「ソ連諜報機関」が「張学良グループ」と「河本グループ」の橋渡し役を演じた、と言いたいようなのですが、「資料ゼロ」からこのストーリーをつくることにはさすがに氏も苦慮したようで、記述は何とも曖昧です。

 特に「張学良とコミンテルンの関係」についての説明は、次コンテンツで説明する通り、およそ説得力を欠きます。事件の翌年1929年に張学良がソ連の「鉄道利権」を実力回収し、ついにはソ連と「戦争」になってしまったことを、氏はどう説明するのでしょうか。


 河本グループについては、次のように「ソ連の関与ぶり」を「想像」してみせます。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 それでは、エイチンゴン、サルヌインから降りてきた「グリーシカ指令」とは、具体的には何をどう工作することだったのだろうか。また、ヴィナロフはその現場にどう関わったのか、を考えてみたい。

 ヴィナロフは本人も語っているとおり、張作霖の特別列車に同乗して爆破工作を実行したとは思えない。何らかの後方撹乱戦術と支援が彼の役割ではなかったのか。

 仮説をたてれば、河本大作が心を許していた石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、そして同じく料亭「みどり」に集う芸妓たちの誰かがサルヌインの巧妙な工作を受けた可能性を否定できない。

 関東軍司令官村岡長太郎にしても同じく周辺人脈を洗われ、エージェントに接近されたのではないか。

 一九二七(昭和ニ)年の暮れ以来、グリーシカは上海で作戦を練り、京滬線で北京へ上り、さらに奉天、大石橋、大連で河本や村岡が親しくしていた人物を巧妙に引き込んだ可能性が考えられる。

 そこに、北京や奉天におけるヴィナロフたちの役割が浮上する。

 張作霖殺害がいかに日本にとって軍事的、政治的に有利な展開になるかを納得させるのにさしたる手間はかかるまい。エージェントはあらゆる手段をもって周辺の人物に信用を得たのだろう。

 その際、河本大作が陸軍中央から多少のペナルティを受けることはグリーシカにとっては織り込み済みである。サルヌイン、ヴィナロフたちグリーシカにとっては、河本とその随伴者たちが誇りをもって実行犯を装ってくれれば所期の目的は達せられるのだから。

 この計画では河本たちはおおむね自らが述べたような手段で爆薬を運び、設置し、爆発点火させたと考えてよい。

 舞台裏から見れば、河本が見事にトラップにかかったという顛末なのだが、彼らは自分たちだけで最後までやったものと疑わなかったのであろうか。


 ただその場合、爆薬の専門家や関東軍の精鋭がいながらあの装置だけで首尾よく張作霖を爆殺できたと信じて疑わなかったとすれば疑問は残る。

(P153-P155)




 「・・・ではなかったのか」「否定できない」と何とも歯切れの悪い文章ですが、少なくともこの説では、「犯行の主体」はソ連諜報機関ではなくなっています。読者の方は、従来の「ソ連陰謀説」とのあまりの違いに戸惑ったのではないでしょうか。

 上の氏の立論に従えば、ソ連諜報機関は、直接に爆薬を仕掛けたわけでも、河本グループと「協力体制」を敷いたわけでもありません。「河本大作が心を許していた」という周辺人物に工作して、河本が「張作霖爆殺」に心を向けるように工作した。それだけです。
※余談ですが、「伊藤謙次郎」が河本に「張作霖暗殺」を勧めた、というのが定説です。「料亭「みどり」に集う芸妓たち」まで登場させる必要は、全くありません。念のためですが、もちろん、「伊藤健次郎」と「ソ連諜報機関」の関係は確認されていません。

 さすがに氏も自信を持てなかったのか、「舞台裏から見れば、河本が見事にトラップにかかったという顛末なのだが、彼らは自分たちだけで最後までやったものと疑わなかったのであろうか」 「ただその場合、爆薬の専門家や関東軍の精鋭がいながらあの装置だけで首尾よく張作霖を爆殺できたと信じて疑わなかったとすれば疑問は残る」と、自分で自分の説に「突っ込み」を入れてしまっています


 念のため、従来の「ソ連陰謀説」のイメージを再確認しておきます。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

プロホロフがインタビューに答えた"張作霖暗殺の真実"は、概略次のとおりである。


 サルヌインは、一九二七年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州において、諜報活動に当たる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。 そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった。(P122-P123)

 一九二八年六月四日夜(引用者注・正確には四日目未明)、張作霖は、北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差し掛かったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

 一九九〇年代の初め、ソ連の機密度が高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ氏は、ロシアの新聞とのインタビューの中で、 ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(一八七九−一九四〇年)の死因を調べている際に、偶然、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという。

 (トロッキーは)スターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。 

(『正論』二〇〇六年四月号) (P123)



 具体的内容に乏しい説明ですが、あくまで犯行の主体は「ソ連軍諜報局」であり、彼らが「車両の下で大きな爆発」を起したことが読み取れます。少なくとも、「実行部隊は張学良グループなり河本グループなりであり、ソ連は背後で彼らに犯行を示唆しただけ」というニュアンスはありません。

 氏の説明は、「張学良と河本グループの「共犯」」という突飛な説に、さらに無理やり「ソ連の陰謀」を接ぎ木した、という印象は免れません。
※余談ですが、上のプロポロフインタビューに従えば、爆薬は「車両の下」にあったことになっています。筆者はスルーしていますが、これが正確に「ソ連犯行説」の内容を伝えているのであれば、最初の「爆薬の位置への疑問」を「ソ連犯行説」に結び付けることはできなくなります




 「蒋介石」も知っていた?

 加えて加藤氏は、なんと「蒋介石の関与」までをも示唆してみせます。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 そこで、張学良が国民党に極秘入党していたのがその夏だった事実を思い起こして欲しい。

 張学良は一九二七(昭和二)年七月に極秘入党していたと、蒋介石は日記で語っている。

 だとすれば、蒋介石、張学良の間で共同謀議がすでにあり、その結果として田中義一にもそれとなく側面からの支援依頼を示唆しておいた、という段取りに思えてくる。

 その場合、コミンテルンと張学良の間では関東軍がすべてやったように見せかけるということで、抹殺計画が進んでいたという可能性がある。

 蒋介石は当事者ではなかったにせよ、側近から聞かされていて一任したに違いない。(P181)



 河本グループ張学良ソ連諜報機関に加えて、蒋介石まで「計画」を知っていた。何とも壮大な「大連合」ですが、さすがに氏もここまでの自信は持てなかったようで、「可能性がある」程度で止めています。

 さて、河本グループと蒋介石との「接点」となったのは、当時南京で蒋介石の軍事顧問を務めていた、佐々木到一であるそうです。佐々木は、こんなことを書き残しています。

※余談ですが、佐々木到一は1937年南京事件当時、第十六師団第三十旅団長の地位にあったことで知られます。12月16日には南京の「宣撫工作委員長」を命ぜられ、以降1月5日までの「兵民分離」の指揮を行いました。

佐々木到一『ある軍人の自伝』より

 そこで密かに関東軍高級参謀だった河本大作大佐に書を送り、近くまぬがれ難き会戦において奉軍の潰滅また免れ難きを予察し、 この機会に一挙作霖を屠って、世を学良一派の似而非新人的雷同分子にゆずらしめ、しかる後彼の腕をねじ上げて、一気呵成に満州問題を解決せんことを勧告した。 これがため数回の密電が(特に作為した暗号による)旅順と南京の間に飛んだ。

 この事件の真相を活字に組むことは永久に不可能であるが、一世を聳動した彼の皇姑屯の張作霖爆死事件なるものは、予の献策に基づいて河本大作が画策し、在北京歩兵隊副官下水憲次大尉が列車編成の詳細を密電し、在奉独立守備隊中隊長東宮鉄男大尉が電気点火器のキイをたたいたのである。

(P192)


 自分は実は河本グループの「黒幕」であった、という大胆な話です。グループからはこれを裏付ける証言は出ておらず、歴史学者からは懐疑的な声も聞かれます。


戸部良一『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌』より

 佐々木はこの主旨の書簡を河本に送り、特別の暗号を組んだ密電が旅順と南京との間を数回往復したという。したがって、張爆殺は佐々木の「献策」に基づいて河本が画策したものだと彼は主張する。だが、彼の主張を裏づけるものは何もない。(P152-P153)



 ともかくも、ここから加藤氏は例によって根拠のない「想像」を膨らませてしまいます。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 佐々木が授けた張作霖暗殺の手立てとは、河本が供述し、「手記」として語った内容と大差ない内容を示唆したものだろう。日本軍がやった、と思われてもかまわないからこそ佐々木は「捨て鉢の」と言ったのだ。

 
佐々木が掴んだ情報はコミンテルンが仕掛け、国民党内のルートを通じて張学良から伝えられた「父殺し」計画だった
。張学良にとっては中国大陸統一という琴線に触れるものである。

 国民党内のコミンテルン、張学良の入党、佐々木到一の南京勤務、そしてこの通電が一本の糸でつながった。これによって河本が裏からも操作されていた可能性が十分に納得いく。

 河本自身に対しては国民党内コミンテルン分子からの工作と伴走する形で、サルヌインが石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、そして同じく料亭「みどり」に集う芸妓たちに巧妙な工作を施した可能性はすでに指摘した。

 河本はこの二つのルートの工作にはまった結果、確信犯として実行に移したのだ。(P184-P185)



 いつのまにか「コミンテルンが仕掛け」たことが「既定事実」になってしまっています。別コンテンツで説明した通り、当時において張学良がコミンテルンと密接な関係にあった、という証拠はないのですが・・・。


 さて、加藤氏の説明に基づけば、

1.蒋介石の軍事顧問であった佐々木到一は、張学良の「父殺し」計画を知った。

2.佐々木は河本に「張作霖殺し」を勧め、河本を「裏から」操作した。


ということになります。


 しかしそもそも、張学良が自分で勝手に「父殺し」をしてくれるのであれば、佐々木にとってはそれで「張作霖抹殺」の目的は完遂されることになります。ここに河本を登場させて、日本側に「他国の元首暗殺」という汚名を着せる必要は全くありません。

 さらに言えば、氏によれば、河本の役割は単なる「偽装」であったはずです。

 佐々木は「偽装」を勧めたのか、それとも実際に自ら殺害してしまうことを勧めたのか。氏の書きぶりは曖昧ですが、仮に前者だとすれば、日本のエリート軍人であった佐々木が、「東北政権の内紛」をわざわざ「日本軍の犯行」に見せかける「反日行為」を行う、などという筋書きは、「妄想」としか評価のしようがありません。





 天皇も「他国の謀略」を知った?


 さて、最後に氏は、天皇が「軍法会議」を開くように言わなかったことまで、「ソ連陰謀説」の根拠にしてみせます。

 このあたり氏は、「天皇は「政治関与」を極力控えており、「田中首相への叱責」「二・二六事件での叛乱軍鎮圧指示」「終戦の決断」などがよく知られる少数の例外である、という「歴史の常識」を忘れてしまったのでしょうか。天皇が「軍法会議の開催」などという細かなところまで「政治関与」したとしたら、そちらの方がはるかに大きな驚きです。

 ともかく、氏の文を読んでいきましょう。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 軍法会議

 もうひとつ付け加えれば、軍法会議が開かれなかったのも大きな疑問点といえよう。

 天皇はあれだけ激怒していながら、なぜ「軍法会議を開いてはどうか」とひと言質さなかったのだろうか。(P237)

 田中義一首相は元老西園寺公望や牧野伸顕内府に対し、関係者を軍法会議に付すと一度は言明した。それは木下道雄侍従次長の『側近日誌』や原田熊雄の口述による『西園寺公と政局』などからも裏付けられる。

 ところが結果的に田中首相は軍法会議を開けず、天皇に対する食言の責任を負った。開けない理由は陸軍首脳や小川平吉鉄相らの強硬意見に抗えなかったからだとされる。

 そのため事件は形式的な政治処分で済まされ、真相は闇に葬られたまま終戦を迎えた。

 いうまでもなく東京裁判の検察側起訴理由は、一九二八年の張作霖事件から一九四五年の終戦までの日本国の戦争犯罪を裁く」ものだった。発端となった張作霖爆殺事件は、極めて不明瞭な結末のままで募が引かれていた。

 ところが、軍法会議が開けなかった真の理由の一端が終戦直後の天皇の言葉から浮上した。昭和二十一年の春先の記録だ。

 御用掛寺崎英成の記録による『昭和天皇独白録』によれば、天皇は「日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終った」と述べたという一節を第一章で紹介した。

 その続きの天皇の述懐には、次のような重要な文言が含まれている。(P238)


 聞く処に依れば、若し軍法会議を問いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。



 軍法会議を聞けなかった理由は、河本が爆弾発言をするからだと聞いた天皇がやむなく了解した、と解釈するのが至当であろう。

 側近が聞き書きしたという天皇の言葉が、天皇の本意をそのまま伝えていると仮定した場合、天皇は軍法会議を不本意ながら諦めたということになる。

 天皇の耳にまで届いた「目本の謀略を全部暴露する」と河本が言った内容とは、いったい何を意味するのか。

 それだけの大きな理由とは、国家の尊厳が著しく損なわれる場合に限られるだろう。

 それは軍法会議で背後関係を洗えば、関東軍司令官と高級参謀が他国の謀略に荷担した事実が明るみに出かねない、という意味ではなかったのか。

 河本の□からそのような重大発言がなされたら、即位間もない昭和天皇と国家の尊厳は著しく揺らぐことになる。(P239)

 かりそめにも北京政府を代表する人物を暗殺したのだ。ましてや事件の背後に第三国の謀略が絡んでいたとなればなおさら日本の立場はない

 天皇が「軍事法廷を開いてはどうか」とついに発言できなかった理由とは、そういう背景を受けた苦悩の末であった。

 ここで河本の孫娘・桑田冨三子さんの談話を想起していただきたい。河本が某重大事件の最中に盲腸の手術をするにあたって麻酔を断って手術をしたという一節だ。

 河本の背後関係者に張り付いていたグリーシカ工作員の存在があったからこそ、彼には麻酔を絶ってまで隠しとおさなければならないものがあったのではないか。

 ミイラ取りがミイラになった真相をうすうす感じ取った首相、陸軍首脳、宮中関係者が軍法会議を要求できず、関東軍の「警備不始末」程度でお茶を濁した理由はそのへんにあると思われる。

 当座の国益を考えての曖昧な処置は、張作霖爆殺事件=河本首謀説という図式を「昭和史の史実」として長い間確定させるという皮肉な刻印を捺すことになったのだった。(P240)




 「それは軍法会議で背後関係を洗えば、関東軍司令官と高級参謀が他国の謀略に荷担した事実が明るみに出かねない、という意味ではなかったのか」ーもしそうであればそもそも「日本の謀略を全部暴露する」という表現にはならないと思うのですが、ともかくも、氏は思い切り大胆なことを言い出しました。

※念のためですが、「軍法会議なぞを開いたら日本軍が他国の元首を暗殺したことを公式の場で全部バラしてやる」と河本が言ったため、やむえず軍法会議を取りやめた、というのが普通の解釈でしょう。加藤氏のような無理な解釈をする必要は全くありません。

 つまり加藤氏の考えに従えば、事件がソ連諜報機関の謀略であったことを、天皇を初めとする政権中枢のメンバーは知っていた、ということになります。そこまでの重大な事実があるのであれば、戦後の歴史研究の過程で必ずやそれらしき史料が登場すると思いますが、もちろんそんな「裏付け史料」は皆無です。

 またこのあたり、前に出てきた、「河本が見事にトラップにかかった」という記述とも矛盾します。河本は「張学良、コミンテルンの陰謀」を知っていたのかどうか、どうも氏の考えが必ずしも明確ではなくフラフラしている感がありますが、P154-P155を再掲します。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 この計画では河本たちはおおむね自らが述べたような手段で爆薬を運び、設置し、爆発点火させたと考えてよい。

 舞台裏から見れば、河本が見事にトラップにかかったという顛末なのだが、彼らは自分たちだけで最後までやったものと疑わなかったのであろうか。

 ただその場合、爆薬の専門家や関東軍の精鋭がいながらあの装置だけで首尾よく張作霖を爆殺できたと信じて疑わなかったとすれば疑問は残る。

(P155)



 つまり氏の上の書きぶりを見る限り、ソ連諜報機関は河本周辺の人物に働きかけただけなのです。河本は「見事にトラップにかかった」わけですから、背後にソ連諜報機関がいることなど、関知のしようがありません

 河本が「第三国の謀略」をばらすのではないか、と周囲が心配する。氏の主張の通りであれば、そんなことは起こるはずがありません。




 以上、この本の内容を見てきました。

 一応「資料」は踏まえているもののあまりに「想像」に頼る部分が多すぎること、氏のストーリーの内部にもかなり無理な部分をはらむこと、から、この本がアカデミズム界の議論に影響を与えることはまずないでしょう。

 「謎解き」と称しながら、根拠に乏しい、また飛躍の多い「仮説」を積み上げるだけで、結局は何の「謎解き」にもなっていません。あるいは、「小説・張作霖爆殺事件」という呼び名の方が、本書にはふさわしいのかもしれません。

(2011.9.4)


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