加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』

−「張学良・楊宇霆・常蔭槐犯行説」をめぐって−


 加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』は、張作霖の息子張学良、及びその張学良と中国東北政権の覇権を争っていたはずの楊宇霆・常蔭槐を、「張作霖爆殺」の真犯人として指名します。

 もちろん「裏付け資料」は一切存在しません。また「張学良」と「楊宇霆・常蔭槐」は、実際には激しい敵対関係にあったはずです。彼らが共に大陰謀をたくらむほどの深い協力関係にあった、 という加藤氏のストーリーには違和感を覚えざるをえません。

 以下、氏の所論について見ていきましょう。

※本コンテンツは、 加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』 −「河本大作と張学良とコミンテルンの共謀?−」のうち、 「張作霖グループ」犯行説に焦点を絞ったものです。合せてお読みください


< 目 次 >

1 「張学良」が犯人である「根拠」

2 「楊宇霆」らが犯人である「根拠」




 「張学良」が犯人である「根拠」


 加藤氏が「張学良」を「真犯人」に指名した根拠は何か。

 まず加藤氏は、加藤氏は、「張学良と国民党との関係」を強調します。


 
加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

伝えたのは「産経新聞」で、次のような衝撃的内容が報じられた。


 中国統一をめざす北伐当時の二七年七月、まだ敵対関係にあった蒋介石率いる中国国民党に対し、(張学良が)ひそかに忠誠を誓い、入党していたことが判明した。このほど米スタンフオード大学で公開された蒋介石日記から明らかになった。

 問題の記述は、北伐が一時停滞していた二七年七月二十日に南京で書かれた。

 「易寅村、彭君が来訪、武漢、北京よりの忠誠伝達について話す。武漢の共産党は間もなく崩壊する。張学良も忠誠を伝達し、入党してきた

 仲介役とみられる易寅村とは、のちに故宮博物館長を務めた易培基(寅村はあざ名)のことで、軍閥の迫害を避けながら北京から上海に逃れていた。「入党」が、党内手続きを経て承認を得たのかは説明がない。

 当時、張学良は、父の配下で北伐軍の北上阻止に当たっていた。この時点での国民党内通は、張作霖ら軍閥勢力にとり重大な離反行為を意味する

(二〇〇六年四月十七日付)

(P163-P164) 
 



 念のためですが、張学良が以前から「易幟」=国民党との合同を主張してきたことは、このサンケイ記事を待つまでもなく、よく知られた事実です。例えば張学良自身、このように証言しています。

臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』より

―「国民政府の下に入るというのは、やはりお父上張作霖の死、殺されたことによるものと考えていいのでしょうか」

 たとえ私の父が日本軍に殺されなかったとしても、私はやはり同じことをしていたでしょう。というのも、私はずうっと中国の統一国家を主張してきたからです。当時私は、自分の国が弱くて力がないということを、非常に悲しんでいました。 父の死が私の気持ちを動かしたのではありません。ただあの事件のせいで、私はそれまで以上に抗日運動に没頭するようになりました。(P97-P98)


 張学良が国民党に入党していたかもしれない、というのは、確かに「新情報」です。ただし現時点では、これは「蒋介石日記」にそう書いてあった、というだけの話ですので、「史実」として確定させるにはさらなる裏付け資料が必要となるところでしょう。

 しかし例えこれが事実であったとしても、この「考え方の違い」が「父殺し」の動機となった、とまで飛躍してしまうのは、ちょっと行き過ぎでしょう。 少なくとも張学良は、爆殺が「関東軍の仕業」であることを当然の前提として語り、「父の仇は、天の仇より憎し」とまで発言しています。

臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』より

 事件が関東軍の仕業だということは、誰でも知っていました。それは公然の秘密でした。当時南満州鉄道には日本の軍人の他に、一体誰が近づくことができたでしょうか。(P75-P76)

 だから私は日本の軍人は嫌いなのです。この事件を仕組むために、日本は事前に南満州鉄道を一時止めたのです。他に誰が列車を止められるでしょうか。

 もちろん日本に対してはたいへん不愉快で、不満でした。家仇国難すべて私の身に降りかかってきました。

 中国にはこのような古い諺があります。「父の仇は、天の仇より憎し」と。(P76)



 張学良は、父を殺した関東軍に恨みを持ち、易幟(国民党との合同)に邁進した。これが、歴史学の世界で語られる、通常のストーリーです。

 加藤氏は、このような張学良発言は自分の犯行を誤魔化すための「偽装」である、と考えているようです。しかし以下に見る通り、加藤氏の用意する「材料」は、どう見ても迫力不足でしょう。




 加藤氏は、「国民党との関係」に加えて、「当時張学良がコミンテルンと関係を持っていた」ことを示唆しようと試みます。例え一定の関係があったとしても、それだけで張学良を「犯人」と決めつけるのはいささか飛躍であるように思われますが、 ともかく氏の説明を見ていきましょう。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 十二月二十九日にへんぽんと翻った青天白日旗に加えて、実に多くの赤旗が混じっていた、という驚くべき報告がある(『満鉄調査時報』一九二九年二月号、『太平洋戦争への道』第1など)。(P157-P158)

 この報告にみるように、張学良の一連の行動を考えるとき常につきまとうのが、彼の背後にうかがえるコミンテルンの影である。(P158)



加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 国民党と統一したのちに、奉天軍を率いて西安で共産党の軍事掃討作戦を指揮していた張学良が、実は密かに共産党に入党を申請していたのだ。一九三五(昭和十)年から三六年にかけてのことだという。先の「産経新聞」の記事の続きである。


 これは共産党中央文献研究室室務委員を務めた高文謙氏が、米コロンビア大学で二〇〇四年二月に述べた。高氏は、三五年末に狭西省にあった共産党中央がモスクワのコミンテルンに対し、 張学良の入党申請を報告して、その可否を求めた電文をみたと発言した。高氏はモスクワが却下したと述べたが、共産党が独断で入党させたとの異説もある。


 この報告自体は、一九三五年時点における学良の共産党入党の可能性について示唆したものだ。

 だが、その数年前の一九二八年暮れの易幟断行時に、すでに奉天城には赤旗が翻っていた。学良は舞台裏で周到な準備を重ねていたのではないか。(P165)

 だとすれば、張作霖の爆死以前から学良には謀反の志があり、共産党と一緒になって国家統一の機会を狙っていたことになる。

 そこで張作霖爆殺事件には、張学良が関わったもうひとつの謀略説が浮上する。

 その場合、単に学良個人の謀反劇ではなく、コミンテルン(より正確にはソ連軍諜報部)の謀略が分け入った結果と考えるべきだろう。

 点が結び付いて線になるには、もう少し新情報が開示されるのを待つしかないのだが、共産党員が混入していた国民党へ北伐最中に入党していた事実を重ね合わせれば、 かなり早くから彼とコミンテルンとの結びつきはあった、とみるのが妥当だ。

 その点では先に引いた『GRU帝国』にあるように、モスクワとしては面倒な張作霖を排除して、より扱いやすい張学良と入れ替えるシナリオを実行した、という見方と合致する。

 父親爆殺の背後に学良が一枚噛んでいたのではないかという説は、こうした資料によりにわかに説得力を帯びてくる。(P166)



 上の文を読む限り、「張作霖の爆死以前から学良には謀反の志があり、共産党と一緒になって国家統一の機会を狙っていたことになる」「その場合、単に学良個人の謀反劇ではなく、 コミンテルン(より正確にはソ連諜報部)の謀略が分け入った結果と考えるべきだろう」とまで言い切る根拠は、どうやら以下の三つであるようです。

1.「易幟」の時、青天白日旗に加えて、実に多くの赤旗が混じっていた。

2.張学良は、「共産党員が混入していた国民党」に入党していた。

3.張学良は、張作霖爆殺事件の7年後の1935年頃、共産党に入党申請していた。



 それぞれ、見ていきましょう。



<第1の根拠 「易幟」の「赤旗」>


 このうち1については、別に張学良自身が「赤旗」を用意させた、という証拠はありません。おそらくは、「易幟」に協力した「反日愛国者」の中に、共産党の関係者も交じっていた、という程度の話であると思われます。

 加藤氏はわざわざ、

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

それから半年余りを経た奉天の冬空には、国民政府の国旗、青天白日満地紅旗と赤旗が一斉に掲げられたのである。それも彼の長男の手によって。(P160)


と、張学良自身が「赤旗」を掲げたかのような錯覚を誘っていますが、氏が続けて引用する張学良自身の言葉は、こうです。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 張学良はこの易幟決行の思い出を、晩年になってNHK取打疵のインタビューで次のように語っている(部分引用)。


 私は命令してから三日間で(旗の)用意をさせました。被服工場で青天白日旗を作らせたのです。当時日本人は自分たちが優れていると思っていたようですが、中国のことをまったく分かっていませんでした。 あのとき私が国旗を青天白日旗に換えようとしていることを、日本人は気付きませんでした。日本の諜報活動は実にお粗末で、当時諜報活動のために注ぎ込んだ金は、全てごみ箱に捨てたも同然でした。

 (『張学良の昭和史最後の証言』)

 これは一九九〇(平成二)年八月に台北で行われた取材に、満八十九歳になった学良が応じたものである。(P160-P161)


 これを見る限り、張学良が用意したのは、「青天白日旗」だけであったようです。



<第2の根拠 国民党への入党>


 2については、「共産党員が混入していた国民党」に入党していたからといって、別に共産党と密接な関係にあった、ということにはならない、ということを指摘すれば十分でしょう。

 実際問題として、1927年4月の「上海クーデター」により、蒋介石は「共産党弾圧」に転じています。7月15日には国民党中央の会議で共産党員の「職務停止」が決定され、 共産党員は国民党から完全に追い出される形となりました

 
この「蒋介石日記」が書かれたのは1927年7月20日だったそうですので、例えこの時期に張学良が国民党に入党していたとしても、張学良と「国民党内の共産党員」との接点はほとんどなさそうです。

※加藤氏はこの点につき、「だが、腐敗した中国共産党を排除できたのは表向きだけで、深層に潜入したコミンテルンの政治支配は温存されたとみたほうがよさそうだ」(P176)と書いていますが、 これは「張学良の国民党入党」を「張学良とコミンテルンとの関係」にまで発展させようとするための「強弁」でしょう。



<第3の根拠 共産党への入党申請>


 最後に、3の「共産党入党申請」です。

 加藤氏は「張学良の共産党入党申請」をサンケイ新聞のスクープであるかのように書いていますが、実はこれは研究者の間では以前から知られていました。1998年刊、西村茂雄『張学良 日中の覇権と「満州」』から引用します。

西村成雄『張学良 日中の覇権と「満洲」』より

 ちょうどこの頃、張学良は西北を離れていた。六月一〇日、西安から蘭州へゆき、中共代表のトウ発の新疆行きの手続をすませ、一一日南京にゆき、二〇日に西安にもどった。 張学良は、この六月、大きな政治的変貌をとげた(かれの内面については、次節でふれる)。

 当時、中共の得た情報では、張学良はすでに「抗日反蒋」の立場に移行していたとされる。 そして、張学良が中国共産党への加入を希望しているという情報も伝えられた。現在あきらかにされている資料からみて、それはどうやら事実のようであった。

 たしかに、一九三六年八月一五日付、コミンテルンの中共宛指示のなかに、「張学良の入党を受け入れる」との中共からの通知を受けとった、という文言があった。 ところが、コミンテルンは「張学良本人を信頼しうる盟友とはみなせない」という結論を出していた(『中共党史研究』一九八八年第二期)。

 つまり、この時点でコミンテルンが張学良の入党を許可しないと指示したことは、それより以前の段階で中国共産党はこの件をコミンテルンに上申していたことになる。(P173-P174)
 
 七月二日付で、中共中央の総書記・張聞天はコミンテルン宛に次のような電報を打っていた (「洛甫致王明、康生、陳雲同志電」七月二日、中心トウ案、全宗号四九五号、目録号七四、巻宗号二八一、『西安事変新探』 111−112頁)

 「中共中央が陜北に到達して以後、すでに成功裡に張学良と統一戦線の関係を樹立してきた。現在、われわれと蒋介石との間での、東北軍を味方につけるかどうかをめぐる問題は最後の段階にたちいたった」

 「〔張学良は〕六月下旬南京から帰ってすぐ、計画を策定したいので幹部を派遣されたしという要求と、われわれの党に加入したい旨、連絡してきた。 われわれは、葉剣英、朱理治を派遣し、将来、入党を認めたいと伝えた。なぜならこれは有益無害であるからだ」

 「東北軍との聯合やソヴィエトの張学良に対する支持、ソヴィエトの西北への援助は、紅軍と張学良東北軍が発動しようとしている西北大聯合計画にとって決定的役割を果すであろう」

 あきらかに、張学良の入党問題が中共中央レヴェルで検討されていたことをものがたる。

 これより先、張学良付きの中共代表・劉鼎は、六月三〇日付の中共中央宛電報のなかで、「張学良は中共側の人材の派遣を求めている」、「張学良は、私が韓復クを説得し反蒋合作に加わるよう働きかけることを望んでいる」、 「張学良は、わが党に入ることを要求しており、訓練を受けたいとしている」などの情報をもたらしていた。(『西安事変新探』110頁)

 おそらく、六月半ば以降七月にかけて、張学良はこうした精神的雰囲気のなかにあったといえるだろう(P174-P175)。

 しかし、先述のように八月一五日付のコミンテルン電報は、張学良の入党問題に否定的回答を与えた。と同時に、この電報の中共に与えた決定的なことがらは、 すでに張学良側と計画実施しようとしていた「抗日反蒋」の西北聯合構想が否定された点にあった。つまり、中国共産党は、南京国民政府を唯一の談判対象とし、「聯蒋抗日」という新たな統一戦線方針をとるべきだとしていた。

 中共という一つの支部にとっては、コミンテルン中央の指示は基本的に受け入れなければならず、張学良の入党問題はこれ以降問題とはならず、 中華民国・国民政府の全国政権としての支配の正統性を承認した形式のもとでの抗日戦線への転換をはかることとなった。(P175)



 なお張学良の「入党申請」は、別に思想的なものからではなく、ソ連からの支援を得たいという思惑があった、という見方も存在します。


石川禎浩『革命とナショナリズム』より

 張学良が共産党への入党を申し入れたのは、この時期のことである。

 かれの入党志願の意図は、共産主義への思想的傾倒というよりも、当時の共産党が計画していた「国際路線打通」、すなわち中国西北部(寧夏・甘粛・新疆)から外蒙古・ソ連に通じ軍事支援ルートを通じて、 ソ連からの物的支援を得ることにあったとみられる


 国民政府から充分な軍費を得られなかった東北軍は、経済的にも困窮していたからである。(P158-P159)


 ただしこの入党申請は、「事件」より7年も後のことでしかありません。氏は、張学良が事件当時からソ連と密接であったかのような錯覚を誘う書き方をしていますが、実際には、事件直後の時期、張学良とソ連との関係は、このようなものでした。


石川禎浩『革命とナショナリズム』より

 一九二九年五月、国権回復を掲げる張学良は、ハルビンなどのソ連領事館・中東鉄道機関が共産主義の宣伝を行っていることを理由に、それらを一斉に強制捜索し、 さらに七月には鉄道の実力回収に踏み切った。蒋介石・王正廷ら南京国民政府首脳の同意を得た上での行動である。

 だが、ソ連側の抵抗は、張・蒋の予測を超えるほど強硬なもので、両者の対立は八月の国境での武力衝突から、九〜一一月に至ってついにソ連軍の東北侵攻・軍事衝突(奉ソ戦争と呼ばれる)へと発展した

 かつて北伐軍の顧問をつとめたブリュッヘルの率いるソ連軍の前に、張学良軍は大敗を重ね、ついに一二月にはハバロフスク休戦協定が成立、中国側が屈服する形で戦いは終わった。中東鉄道は再びソ連の支配下に置かれ、 ここに張学良と国民政府の国権回復の目論見はあえなく潰えたのだった。(P57)


 「コミンテルンとの結びつき」があったどころか、実際には激しい敵対関係にあったようです。



 そして、張学良と共産党との結び付きが生じたのは1935-6年頃、というのが定説です。

石川禎浩『革命とナショナリズム』より

 この間、張学良は中共工作員との接触を通じて、共産党を「一致抗日」のための信頼すべき同盟者と真剣に考えるに至っていた。

 一九三六年四月、五月と二度にわたって秘密裏に周恩来と会談したことによって、その思いはさらに確固たるものになった。

 四月末には、張学良が紅軍とともに「反蒋抗日」に決起する決意を固めたという情報が共産党にもたらされ、さらに五月の張・周による再会談を経て、張学良を首班とする「反蒋抗日」の西北国防政府を蘭州に樹立し 、紅軍と東北軍による抗日聯軍を組織するという「西北大連合」構想が基本合意されたのである。(P158)



儀我壮一郎『張学良小帥と日本』より

 1935年6月の「梅津・何応欽協定」、「土肥原・泰徳純協定」の内容によって屈辱を痛感した張学良は、蒋介石の対日譲歩政策に疑問と不満を抱き始めた。 同年12月、上海で杜重遠と会い、共産党の「8.1宣言」を知り、共産党と紅軍の歴史を研究、帰還した捕虜の話から、共産党地区の実情についてもしだいに理解するにいたった

 張学良指揮下の東北軍は、共産党軍との戦闘で連戦連敗、西安に移って後、師団長2名が戦死するような苦戦続きであった。捕虜となった東北軍将兵の多くは自発的に共産党軍に参加し、戻ってきた捕虜も、 「内戦反対、一致抗日」を主張する

 張学良は、部下から「あなたは父上.の仇を忘れ、抗日の大義をかえりみず、上官〔蒋介石〕に盲目的に服従して、自分の禄位を求めているだけだ」と痛烈に批判された。

 共産党との対立関係の平和的解決を図ろうと考えはじめた張学良は、上海、洛川で共産党とひそかに接触、ついに1936年4月9日には、自ら飛行機で延安に向かい、カトリック教会の中で、周恩来と直接会談するに至った。

 両者の意見は「内戦停止」では完全に一致した。しかし、当時の共産党は「反蒋抗日」路線であり、張学良の考えは「連蒋抗日」であり、蒋介石対策については、不一致の状況もあった。

 この問題点は、5月12日の第2回会議際に、共産党側が、「逼蒋抗日」(蒋介石に抗日をせまる)路線に転換したことで解決可能となり、紅軍の国民軍への編入など、10項目の協定ができ上がったのである。(P12)

(『専修大学社会科学年報』第44号 2010年)


 1928年時点で、張学良が「ソ連諜報機関」と「陰謀のパートナー」になるほどの関係であった、と示唆する資料は一切ありません。むしろ、「鉄道接収」問題に見られる通り、ソ連とは対立関係にあった、と見るのが普通でしょう。



 「楊宇霆」らが犯人である「根拠」


 おそらく読者の方の大半にとっては、張学良に協力したという「楊宇霆」と「常蔭槐」の名は、ほとんど初耳でしょう。まずは、「楊宇霆」がどのような人物であったのか、そして「張学良」との関係が通常はどのように語られているのか、を確認しておきます。

 図らずも加藤氏自身が、「通説」を適切に要約していますので、見ておきましょう。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 楊宇霆は一八八六(明治十九)年に士族の家庭に生まれ、白本の陸士を卒業後、教育長を振り出しに張作霖の信任を得て、安国軍参謀長にまで上り詰めた。

 張作霖の長男とは世代も違う。やや狷介ともいわれる学良に比べ、楊は豪放な男だった。

 十五歳も年が違う二人の対立は性格的な面だけではなく、南方派やソ連に対する政策にも大きな対立点があった。張作霖の死でそれが一挙に表面化した。

 ひとつは東清鉄道(一九一一年からは中東鉄路とも呼んだ)をめぐるソ連への対応の仕方だ。

 楊宇霆は側近の常蔭槐(東三省交通委員会副委員長)とともに日本側に近く、対ソ強硬路線をとったのに対し、宥和策をとった張学良はソ連軍の攻撃にさらされ鉄道交渉は行き詰まっていた。

 その上、東三省保安総司令という最高位に就いた張学良は、張作相の援護を受けつつ南北妥協を唱え始める。その結末が易幟だった。

 楊宇霆はこの若い指導者が強行しようとした易幟に強く反対したものの、遂に抗しきれなかった。

 両者の対立は易幟をもって決定的となった。国民党の軍門に下るのを、楊宇霆が潔しとしなかったのは立場上当然に思える。(P165-P168)



 楊宇霆は、日本側に近い立場にあり、張学良の「易幟」(国民党との合同)強く反対していました。つまり楊宇霆は、張学良と同盟関係にあるどころか、思い切りの敵対関係にあった、ということになります。

 そして、「易幟」後の一九二九年一月一〇日、楊宇霆と常蔭槐は、張学良によって暗殺されてしまいました

  通常の「張学良伝記」ものの書きぶりも、確認しておきましょう。


古野直也『張家三代の興亡』より

 (「ゆう」注 張作霖の)葬儀が終るやすぐに、学良と作霖の重臣楊宇霆の対立が始まる。気の強い楊は、俺は作霖の部下だから若い学良の使用人ではないと考えた。学良は、父の臣は俺の臣だと考えたのだから妥協するはずは無かった。中国史ではよくある功臣粛清である。(P108)


臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』より

 楊宇霆はしばしば張学良の政策に反対の態度をとったが、ふたりの対立を決定的にしたのは、楊宇霆が「易幟」に反対した点にあった。張作霖時代に日本と関係が深かったこともあずかって奉天軍閥はもともと親日的軍閥集団であり、 親日派の代表であった楊宇霆は東北の「易幟」には断固反対であった。

 

「楊宇霆と常蔭槐は、当時ソ遣が権益を持っていた中東鉄道の権益を回収するように張学良に求めました。当時、常蔭槐は東北交通委員会の副委員長をしており、中東鉄道を彼の手中に収めたかったのです。しかし張学良はそれに同意しませんでした。

 常蔭槐は鉄道監督署という機構を手に入れようともしました。しかし張学良はやはり同意しませんでした。すると楊宇霆が便箋に、『常蔭槐を鉄道監督署の監督として派遣する』と書き、張学良に署名を強要しようとしました。

 こうした楊宇霆と常蔭槐のやり方は酷いものでした。張学良をまったく上司としては扱っていませんでした。そこで張学良はふたりを粛清することを決意したのだと思います。

 『夜にもう一度相談しよう』と言ってふたりを送り出した後、準備を行いました。そしてその日の夜、楊宇霆と常蔭槐を張師府の青大楼にある老虎庁という会議室に呼び出し、 そこで処刑しました。処刑後死体は絨毯で包まれ、家族に引き渡されました」(劉鴫九インタピュー)


 「易幟」の翌年一九二九年一月一〇日のことである。
 
 楊宇霆と常蔭槐の粛清は、「陸大派」と「士官派」というふたつの派の対立、主導権争いが行きついた結果であったともいえる。

 張学良にとっては、あまり触れてほしくない事件に違いない。(P99-P100)



松本一男『張学良と中国』より

 日本やアメリカの資料、それに中国側のものを総合してみると、まだ白面の青年将校だった張学良が、海千山千で軍部および奉天の政財界に隠然たる勢力をもっていた楊・常の両名を殺害したのには、それだけの理由があったようだ。

(1)先代の大番頭だった楊宇霆と常蔭槐は、二代目のお坊ちゃん将軍張学良を軽くみていた。(P74)

(2)なかんずく、楊宇霆と張学良の対立ははげしく、楊らは人前で平気で張学良をバカ殿あつかいしていた。

(3)楊・常のふたりは、張学良が南京の国民政府や蒋介石にアプローチするのを、毛嫌いしていた。もちろん、奉天が青天白日旗をかかげることにも、最後まで反対した

(4)楊宇霆は奉天兵工廠をおさえ、常蔭槐は鉄道経営という金のなる木をもち、両名とも張学良の統帥には服しなかった。

(5)楊宇霆は中国の東北大学建設にさいして二百万元をネコババし、常蔭槐も私腹を肥やしていた。だから、ふたりとも張学良に収支報告書を提出することをこばんだ。

(6)楊宇霆は日本側と密接な連絡をとりあい、日本軍をかさにして、横暴をきわめていた。


 以上が、張学良が堪忍袋の緒をきらした原因であろう。張学良としては、統帥権の確立からいっても、また、軍および政財界での威信をおとさないためにも、獅子身中の虫はつぶさなければならなかったのである

 もし、このとき張学良が優柔不断で、両巨頭に対して断固たる処置をとれないでいたら、後日、張学良が東北軍の若き指導者として、中国人民から抗日の領袖として偶像視されることはなかったであろう。

 ちなみに、楊宇霆・常蔭槐の処刑された罪状は、中国では、"敵性国家に内通し、祖国統一を破壊した"とされている。(P75)



 いずれの資料も、張学良と楊宇霆・常蔭槐グループとの徹底的な「不仲」を示しています。

 楊宇霆・常蔭槐は、若年の張学良をバカにした態度をとり、「易幟」(国民党との合同政策)に反対していた。対立のあげく、張学良は二人を暗殺した。
これが、通常語られる、張学良と楊宇霆らとの関係です。




 加藤氏が描く彼らの関係は、このような「通説」と真っ向から衝突するものです。氏はこの「通説」をいかにくつがえそうとするのか。

 「張学良と国民党との関係」については既に触れましたが、氏はさらに、楊宇霆も国民党に接近していたようだ、という情報を伝えます。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 佐々木到一中佐の手記には、この機に乗じて一気に満州問題解決のための秘策を練り、それを南京からまだ旅順にいる河本大作に通電した、という件が記されている。河本が奉天に進むのは昭和三年五月末のことである。


 新しがり屋の張学良や、奉天派の新人をもって目された楊宇霆らの国民党との接洽ぶりを見聞している予として、 はたまた郭松齢背叛の動機が何にあるとしても、馬賊上がりの軍閥旧派に対する新人の反抗の一つのあらわれとして見る郭松齢事件の経験からして、予はむしろ奉天王国を一度国民革命の怒濤の下に流し込み、 しかる後において、わが国内としてとるべき策があるべきものと判断した。(P182)

 この計画は一種捨て鉢の一六勝負ではあるが、わが国大勢は、従前の惰性をもってしては満蒙におけるわが権益の保全も、三百に余る懸案の解決も、事実不可能であることを予察するが故であった。  

(『ある軍人の自伝』)


 張学良にとどまらず、楊宇霆が国民党に密着していたとの佐々木の観測は見逃せない。(P182-183)



 どうもこんな頼りない情報が、「通説」を覆そうとする最大の根拠であるようです。

 なお、実はこの「引用」では、なぜか「民国十三年」の語句が省略されています。原文を確認します。

佐々木到一『ある軍人の自伝』

 民国十三年、段、張、孫のいわゆる三角同盟当時
、新しがり屋の張学良や、奉天派の新人をもって目せされた楊宇霆らの国民党との接洽ぶりを見聞している予として、 はたまた郭松齢背叛の動機が何にあるとしても、馬賊上がりの軍閥旧派に対する新人の反抗の一つのあらわれとして見る郭松齢事件の経験からして、予はむしろ奉天王国を一度国民革命の怒濤の下に流し込み、 しかる後において、わが国内としてとるべき策があるべきものと判断した。

 この計画は一種捨て鉢の一六勝負ではあるが、わが国大勢は、従前の惰性をもってしては満蒙におけるわが権益の保全も、三百に余る懸案の解決も、事実不可能であることを予察するが故であった。(P192)



 氏の記述に触れた読者は、間違いなく、「国民党との接洽ぶり」をリアルタイムのものとして読むでしょう。しかし実際には、これは民国十三年(1925年)、事件の3年前の話でした。

 さらに『ある軍人の自伝』に「楊宇霆」の名を捜すと、これより60ページほど前に、「民国十三年当時」の話が登場します。孫文の葬儀にあたってのエピソードです。

佐々木到一『ある軍人の自伝』

 この間、張作霖は、毎夜麻雀、起床午後二時、息子の学良は、前門外に折花攀柳に夜も日もなく、顧問団は、大倉洋行に陣取って、天津から芸者のサービスガールを連れるという豪勢ぶり。

 そしてこの間に、国民党が密かに革命工作のための細胞を植えつけ、三民主義が北方に普及する端緒となっている。両者を対照すれば、心ある者には彼等の将来を卜することができたはずである。

 国民党は楊宇霆をとらえたり、張学良に働きかけて後日のための準備をしたなど、孫文入京の副効果については注目すべきものがあった。(P122)



 要するに、1925年の孫文の葬儀に際して、国民党が楊宇霆や張学良に接近しようとしていた。それだけの記述です。

 既述の通り、実際には楊宇霆は国民党との合同、「易幟」に反対していました。どうも国民党の「接近」の試みは、あまりうまくいかなかったようです。

 つまり加藤氏は、「張学良が国民党に入党していた(らしい)」「佐々木到一が楊宇霆と国民党が接近していたと観測していた」という二つの事実だけから、 「張学良と楊宇霆が、共に張作霖打倒の陰謀を巡らす同志であった」とまで深読みしてしまったわけです

※氏は一応、張学良と楊宇霆の親密さを推察させる材料として、「張学良が・・・愛人を楊宇霆の屋敷そばに住まわせ通っていた」(P169)という事実を挙げていますが、 この程度では、両者の対立関係を覆す資料としては不十分でしょう。




 では氏は、楊宇霆が「易幟」に反対するなど、張学良と激しい対立関係にあったことをどう説明するのか。氏の説明は、シンプルです。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 奉天へ帰った楊宇霆は、何食わぬ顔で易幟に反対してみせ、学良とは距離があるかのように振る舞っていた。(P201)



 「学良とは距離があるかのように振る舞」うためのポーズであった、というわけです。

 当時は「張作霖爆殺は日本軍の仕業」という「常識」が浸透しており、誰も「張学良と楊宇霆が野合して張作霖を殺した」などと疑っていないのに、なぜそのようなポーズを行う必要があったのか。ちょっと理解しがたいところです。


 さらに楊宇霆と常蔭槐は、権力闘争の挙句、張学良によって暗殺されてしまいます。こちらについての氏の説明は、大胆です。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 張学良が親交の深かった楊宇霆と常蔭槐の二人を射殺しなければならなかった理由はもはや明らかである。

 証拠を抹殺しなければ、学良の未来は約束されないからだ
。(P201)



 何と、口封じのために殺した、というわけです。安手のミステリーものではあるまいに、ここまでくると、「楊宇霆」「常蔭槐」を無理やり「共犯者」に仕立て上げるための強引な辻褄合わせである、としか私には思われません。

 「通説」通り、張作霖亡き後の中国東北地方の覇権を巡って争いが起き、張学良は自らの威信を確立するために二人を殺した、と考える方が、よほど自然です。



 以上、「楊宇霆共犯説」の根拠は、「楊宇霆が国民党と親しい、と佐々木到一が観測していた」という一点だけであったようです。

 張学良と楊宇霆は激しく対立していた、という「史実」を無視して、この一点から、「張学良と楊宇霆とは共に「張作霖殺し」の陰謀を企むほどの深い仲であった」とまで「推定」してしまうのは、 いささか飛躍が過ぎる、というものでしょう。

 つまり加藤説は、「真犯人は張学良グループである」という異説の上に、「張学良と楊宇霆の協力関係」というさらなる異説を重ねなければ成立しません。こんな危うい綱渡りに、 なぜ「推定ではあるが限りなく可能性は高いものと考えられる」とまで自信をもててしまうのか、不思議でなりません。
※「常蔭槐」は当時「鉄道」を押さえる地位にあり、列車内に爆薬を仕掛けるというストーリーを作るとしたら、ぜひとも登場させたい人物です。 しかし「常蔭槐」が「楊宇霆」と組んで「張学良」と対立していたことは、有名な史実です。「常蔭槐」を「陰謀」に参加させるために、無理やりに「張学良と楊宇霆との協力関係」というストーリーを加えてしまった、ということかもしれません。


(2011.9.4)


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