中国空軍の上海租界爆撃(3)

ーカール・カワカミの所説を中心にー


目  次

 


中国空軍の上海租界爆撃(1)

1 カール・カワカミ『シナ大陸の真相』より

2−1 八月十四日の爆撃

2−2 八月十六日の爆撃

2−3 八月二十三日の爆撃

2−4 八月三十日の爆撃
 

中国空軍の上海租界爆撃(2)

3−1 日本国内の報道

3−2 英米仏、抗議へ

3−3 中国側、謝罪へ
 


中国空軍の上海租界爆撃(3)(本稿)







4−1  ひょっとしたら、わざとかも − 一部の観測


 さて次に、カワカミ説の「ルーツ」を探ってみることにしましょう。

 各紙の論調は、概ね「誤爆」説に傾いたものでした。そうでない記事も、例えばせいぜい「逃げるために落したのではないか」という程度の、「偶発事件」として見ていました。

 そんな中で、あえて、「ひょっとすると中国は、列強の介入を招きたくて、故意に国際租界爆撃を行ったのではないか」という、根拠に乏しい「観測」も流れました。例えば日本系英字紙、「ジャパン・タイムズ」の報道です。


海軍軍事普及部「内国外字新聞論調」より 

自八月十一日

「ジヤパン・タイムズ」(日本系)

 八、一六、「支那の暴戻」

 支那空軍租界爆撃の暴挙は世界を驚かせたり、支那が之によりて諸外国の干渉を招かんとしたりとせば甚しき近眼と云はざるべからず
、此の罪悪に対して支那を罰し租界に於る各国人を守るは日本軍の義務なり

(アジア歴史資料センター資料)


 ここでは「・・・とせば」という「仮定形」での観測であるに過ぎませんでしたが、この見方がいくつかの外字紙に、「推測」として受け継がれたようです。


海軍軍事普及部「内国外字新聞論調」より 

自八月十一日
至八月十七日

「ジヤパン・アドヴアイザー」(米国系)

 八、一七、「上海事件」


 過去数日間に上海に起りし事件は総ての予想を超えたるが 就中支那空軍が共同租界を爆撃して自国人及欧米人を多数殺傷するが如きは意想外にして 支那は之により多くの同情者を失へり、 此の無法なる爆撃の理由として想像せらるる所は種々あるも外国の干渉を招かんとする魂胆と見るを最至当とすべし、支那は満州事変以来外国の手に縋らんとして常に失敗せるが今回も単に自殺者の自暴的行為のみ

(アジア歴史資料センター資料)


情報部第三課 「北支事変に関する各国新聞論調 二十五」より 

昭和十二年八月二十日

(F)和蘭紙

一、上海の不祥事に付き南京政府当局は縷々陳弁するも、其の真相は恐らく戦闘地域を拡大し、日本をして奔命に疲れしむる傍、関係外国を渦中に引入れんとの魂胆に出つるものと推測せらるるか、 斯る愚策は各国をして益々叛心せしめ却つて反対の結果を招致すへし(十八日、フアーデルランド論説)両軍の飛行機か交戦中のこととて何れのものか見分け難い(十五日上海アヴアス電報)

(アジア歴史資料センター資料)



 イタリア国内にも、同様の見方がありました。

『東京朝日新聞』昭和十二年八月十六日

上海租界爆撃事件の反響 本社ロンドン・パリ・ローマ国際電話

世界・暴虐支那を怒る

ローマ 前田特派員


(略)イタリー政府首脳部はチアノ外相を残しムソリニ首相を始めとして全部シシリー島の海軍特別大演習に行つて居りますので、この事件に対する政府首脳の正式な見解は判りませんが、 非公式な官辺の見解では、支那側の租界爆撃事件の真相は、日本軍を奔命に疲れしめ更に他方上海を混乱に陥れることによつて列強の干渉を誘発しようとして居るものと見て居るやうです

(三面、四段見出し)


 ただし上の記事の直後には、東京朝日新聞・香月ロンドン特派員のこのような報告が見られます。「政治的意図」論には、ロンドンでは否定的見解が多かったようです。

 
東京朝日新聞』昭和十二年八月十六日

上海租界爆撃事件の反響 本社ロンドン・パリ・ローマ国際電話

世界・暴虐支那を怒る

  ロンドン 香月特派員


 支那飛行機の租界爆撃はイギリスにも非常なセンセイションを起して昨日の夕刊も今朝の各新聞にも大々的に報ぜられてゐます、 イギリスに達した上海電報によればその支那飛行機の爆撃によつて五百余名の死者と九百名の負傷者を出しその中イギリス人の死亡者が四名、負傷者が七名であると報ぜられて居ります、

 この暴戻な支那側のやり方に対してはロンドンでも非常に苦々しく思つて居るやうですが、支那が別に政治的意図を以てやつたと見るものも無いこともないが多くはさうとは思つてゐないやうで これに対してイギリス政府が如何なる措置に出るかまだ判りませんが、差当りイギリス政府は米仏と共同して支那側に対して今後斯ることの無いやうにとの厳重な抗議を申込むことになつて居るやうです、

(三面、四段見出し)


 


 なお日本側にも、「ひょっとしたらわざとやっているのではないか」と疑問を抱いた人物が、存在してました。例えば、先の松本重治氏です。

松本重治『上海時代』より

「そこなんだよ、エドモンド。僕の心配はそこなんだよ。

 第三国の上海内外における厖大な権益が少なからず飛ばっちりの損害を受けることは間違いがない。 日本側が第三国の権益を保護しようとしても、中国側としては、第三国の権益に損害を与えることによって、第三国の干渉を招こうとする策略をもっているかも知れない。

 このあいだ十四日の中国空軍機による租界の盲爆や、爆弾がジャーディン・マセソンの埠頭の倉庫に落ちたり、米国のアジア艦隊の旗艦オーガスタ号の舷側附近に落下したりしたことをみても、 中国側の手口が判るように思われるよ。」

(中公新書版『上海時代』(下) P200)


 また、上海の軍の報道部員として「宣伝報道」活動に携わっていた馬渕逸雄氏も、「故意爆撃」の疑いを表明しています。ただし馬渕氏の見解は、カワカミらに見られるような「列強の干渉誘発説」ではなく、 「租界占領」を目的としたものかもしれない、というものです。

 「故意」ではないか、という「推測」こそ共通していますが、以て非なる説であると言えるでしょう。「干渉誘発説」が、必ずしも広範な合意を得たものではなかったことをうかがわせます。


馬渕逸雄『報道戦線』より

 又十四日午後には、無法にも、南京路のサッスーン・ハウス、キャセイ・ホテル正面玄関、大世界、先施公司附近に盲爆弾を投下し、数百の外支人を殺傷した。

 之は強ち支那軍の空爆拙劣といふのではなく、寧ろためにせんとする彼等の暴虐手段で、恰かも、日本軍の所為の如く宣伝し、或は事変の混乱に乗じて租界回収の目的を達せんとしたものとも考へられる。

(P6-P7)



 事変勃発直後の八月十四日、支那軍飛行機は上海租界を空襲し、租界目抜きの場処に爆弾を投じて、パレス・ホテル、キャセイ・ホテルの玄関前や、上海一の盛り場大世界の前などでは、一度に二千、三千の死傷者を出して大混乱を来した。

 これは単なる盲爆や過失ではなく、日本軍撃滅の意気に燃えた蒋介石軍が、ドサクサに紛れて、租界を占領しようといふ魂胆から、態々意識的に爆撃したと見られる節がある。

(P271)

*「ゆう」注 ただし冷静に考えれば、馬渕氏の上の見解は、ちょっと奇妙なものです。

 氏はまず、「恰も日本軍の所為の如く宣伝」するためではないか、という推測を語っています。しかし誰が見ても爆弾は中国機から落下しているのですから、このような「宣伝」が成立するはずはありません。

 続いて「ドサクサに紛れて租界を占領しようという魂胆」ではないか、と語っていますが、こちらもわかりにくい「推測」です。「空爆」をした挙句「租界回収」を試みれば、折角中国側に傾いていた世界世論は、間違いなく中国側から離れるでしょう。 中国側にとっては、最も避けたい事態であるはずです。



 いずれにしても、中国側の真意を確認する手段がない以上、これらの「推測」は、何の客観的根拠も持たない、せいぜい「疑惑」のレベルにとどまるものに過ぎませんでした。

 しかし、これらの「観測」がカワカミに受け継がれると、様相は一変します。 カワカミの頭の中では、「都市伝説」に近いこのような観測が、「中国は日本に対する外国の干渉を煽り立てようと計画していたのである」と、はっきりとした「事実」に化けてしまったようです。




4−2  「推測」から「断定」へ カワカミの「飛躍」


 以上、中国の「動機」について、「中国は日本に対する外国の干渉を煽り立てようと計画していたのである」とまで明確な「断定」を行ってしまっているのはカール・カワカミのみであったことにご注意ください。

 なぜカワカミは、このような断定を行ってしまったのか。この本の初めの方に、ヒントがあります。

K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』より

 私がこの本の多くの箇所、とりわけ八章と九章で示そうと試みたように、中国の抱いていた計画は、国際的干渉を招くことによって日本を打ち負かし、卑しめることであった。

 何年もの問、中国は貧欲な国際的干渉を生じさせるべく、根気強く巧みに力を注いだ。一九三七年七月北支で戦闘が発生した時、南京政府の干渉歓迎派は上海地域でも戦いが起こるよう慎重に挑発した。

 この上海は、日本が戦いを起こす希望も意図も持っていなかった地域である。ここには列強諸国の利害が集中している巨大な国際都市があった。 この地域の激しい戦闘の中に日本を追いやってしまえば、間違いなく日本は国際的なゴタゴタの網の目の中に取り込まれてしまうだろう。これが中国の考えであった。

 そして上海の外国領事も含めて有能な外国の観察者達もまた、明らかにこのように認識していたのである。(P19)


  中国は「国際的干渉を招くことによって日本を打ち負か」すという大計画を持っていた ― これ自体は今日ほぼ「定説」になっている考え方ではありますが、 中国軍の「無責任な空爆」までこの大計画の一環であると考えることは、いささか「飛躍」というものでしょう

 
ともかくも、外国紙などの「推測」は、氏の発想のジグゾーパズルの一片としてぴったり当てはまってしまいました。 カワカミは、自身にとって都合のいいこれらの「推測」を、自説の「論拠」としてフルに利用しようと考えた。 おそらくそんなところではないか、と推察されます。

 そしてもし、カワカミの「想像」が事実であったとするならば、 それは中国にとって大失敗に終わった、と言えるでしょう。先に述べた通り、列強が「介入」するどころか、「国際租界爆撃」は列強の轟々たる非難を呼び起こし、中国側はそれに対して必死に謝罪を重ねる羽目になったのでした。


 

 中国側から見ると・・・ 


 中国にとってこの「上海爆撃」はいわば「過去の失敗談」であり、これが「誤爆」か否かについて触れた中国側文献を、私はまだ発見できていません。

 その中で参考となるのが、中国空軍の指揮官としてアメリカから招聘されたシエンノートに関する記録です。シエンノートはまさにこの「上海爆撃」を指揮する立場にありましたが、「未熟なパイロットによる誤爆」という認識を持っていたようです。 これらの記録には、もちろん「故意の爆撃」を匂わせる記述は登場しません。

伊藤純・伊藤真『宋姉妹 中国を支配した華麗なる一族』より


 一九三七年八月一三日、シエンノートは、美齢の要請で中国空軍の指揮を引き継ぐことになった。その日、夜を徹し翌朝四時まで作戦を練ったシェンノートは、上海の日本軍に対する空爆を決定する。

 一四日午後四時半、上海上空に突然爆音がとどろいた。そして五機の中国軍双発爆撃機が、黄浦江に浮かぶ戦艦出雲めがけて爆撃した。

 ところが次の瞬間、人々は信じられないものを目撃した。急降下していった爆撃機から四発の爆弾が放たれ、外灘の密集地帯へ向かって落ちてきたのである。未熟な中国人パイロットによる誤爆であった。

 一瞬のうちにパレスホテルの屋根は炎に包まれ、瓦礫が雨のように降り注ぎ、土ぼこりとガラスの破片が雲のように舞い上がった。

 メインストリートの南京路に亀裂が走り、路上には見るも無残な死体が散乱していた。死者五〇名あまり、負傷者一一五〇名あまり。「王女」に魅入られた男シェンノートの初仕事は、惨劇に終わったのである。

 中国空軍の惨憺たる状況はこれにとどまらなかった。ある夜、夜間爆撃から帰還した航空隊を出迎えたシェンノートと美齢は、恐るべき光景を目にした。

「一番機は滑走路を駆け抜けて水田に飛び込み、機体は四散した。二番機は地上で宙返りし、爆発炎上した。四番機は、炎上している二番機の消火に急行していた消防車に激突した。一一機のうち五機が着陸に失敗し、四人のパイロットが死んだ」

「蒋介石夫人はワツと泣き出した。『どうしましょう、どうしましょう』とすすり泣いた。『私たちは大枚のお金をはたいて最もいい飛行機を買って、たくさんのお金と時間をかけて訓練したのに、私の目の前で死んでいくなんて、どうしたらいいの?』」

 一〇月、シェンノートはこう断言した。

「この中国空軍にはほとほと万策尽きた。そのパイロットたるや、ぎごちない動きで次々と出てくる、射的場のアヒルだ」

(同書 P119-P120)

*「ゆう」注 この本での見解は「爆弾投下のタイミングを誤った」ということであり、当時発表された「爆弾投下機の故障」という中国側公式見解とは、やや食い違います。 事実がどちらなのかはわかりませんが、ともかくも、中国空軍指揮官も「誤爆」という認識を持っていたことは確認できます。

 なお実際には、初期の航空戦において、中国空軍は日本機を相手にそれなりに善戦した、と伝えられます。 パイロット不足は事実であったようですので、あるいはこれは、「一定の技量を持ったパイロット」と「技量不足のパイロット」が混在していた、ということなのかもしれません。



吉田一彦氏『シエンノートとフライング・タイガース』より

 いずれにせよ、大山事件の発生によって、事変の拡大をくい止めたいという日本側の外交努力は消滅してしまった。事件によって頭に血の上った海軍は、日本権益の保護のためと称して増援部隊を要請するに至っている。

 シエンノートの日記が物語るように、蒋介石は七月の終わりまでには、開戦の決意を固めていて、彼の軍隊は配置についていたのである。八月一三日に散発的な撃ち合いがあって、日本側の砲弾が上海市内に落下しているが、 蒋介石は翌日の早朝に空軍機による日本軍攻撃を命じている。(P59)

 戦争が始まってみて分かったのは、中国空軍は極端な人員不足に悩んでいるということであった。 実戦経験のある将校がいないから、必然的に全責任がシエンノートの肩にかかってくることになる。中国に招かれたのは戦闘機の専門家ということであったが、もっと広い役割を負わされることになったのである。

 別に驚いてはいなかったが、彼はもう少し時間的な余裕があると思っていたはずである。道具も機器も揃っていなかったが、マクドナルドと二人でなんとか翌日の攻撃計画を作り上げている。

 中国人パイロットは荷の重すぎる任務を与えられたものの勇躍飛び立っていった。しかし爆弾は日本軍の作戦司令部があった巡洋艦出雲を外れて国際租界に落下して、 多数の民間人が死傷している。日本側は、攻撃の暗号電報を解読して待ち構えていたから、奇襲攻撃が成功する可能性は薄かったのである。このように空軍による出撃は失敗に終わったが、国民政府はこの日を空軍の日に定めているのである。

 前の晩、シエンノートは作戦計画立案のためほとんど寝ていなかったが、中国空軍による攻撃の朝、無防備の戦闘機を飛ばして観戦のため南京から上海に向かうことにした。

 揚子江沿いに南下すると、 雷雲が低く垂れ込めているので引き返そうとしたが、その時六機の中国軍急降下爆撃機が一隻の軍艦を攻撃した後で、編隊を組み直しているのが目に入った。艦は全速力で航行していて、艦首は白波をけたてているのがよく見えた。激しい対空射撃の火閃もはっきりと目撃されたのである。

 艦を確認するためにシエンノートが降下していくと、彼に向かって砲火が浴ぴせられてきた。そればかりか艦は煙幕をはって必死にシエンノートを振り切ろうとはかったのである。 その時シエンノートは後部甲板に大きく描かれたユニオン・ジャックが目に写ったが、なんのことはないイギリスの巡洋艦だったのである。南京に帰り着いて機体を調べてみると、いくつもの弾痕がついていた。彼にとっては初めての実戦参加であった。

 その日の午後もう一機の中国軍機が上海の交通密集地域に大型爆弾二個を投下して、多数の民間人の犠牲者を出している。この頃までには、シエンノートは爆撃結果にうんざりして南京に帰り着いている。 その日の日記には「航空攻撃まことにお粗末なり」という表現が見えている。

 しかし当時日本海軍は、揚子江の河口に少なくとも三隻の航空母艦を遊弋させており、これらの艦載機では中国空軍の基地がある漢口、長沙、南昌までは航続距離が足りないが、上海、南京、それに杭州の近くで上海の南にある中央飛行学校を攻撃するには十分であった。

 また日本の航空部隊は訓練が十分に行き届いており、機材、装備も最新のものであったから、中国空軍との戦力差は歴然としていた。(P60)



 なお、中国軍パイロットの技量の低さは、今日ではよく知られるところです。

ロナルド・ハイファーマン『日中航空決戦』

無能ぶりを暴露した中国空軍


 日本軍の侵略が開始された直後における中国空軍の行動は、洛陽飛行学校卒業生の無能ぷりと訓練の欠陥を、いたましいほど暴露した。

(略)

 日中戦争開始の当初は、両軍間の空中戦はあまりみられなかった。中国空軍には、揚子江にそって西進する日本軍の進撃をにぶらせる能力がないばかりでなく、日本軍の空からの攻撃にたいして、 国土を防衛する力のまったくないことが、はっきりとわかった。

 戦争勃発当初、中国は約五〇〇機の飛行機をもっていたが、そのうち飛行可能なのは九一機で、パイロットも、空中戦適格者はほんのわずかにすぎなかった。 そんなわけで日本軍は、戦争開始第一週に、中国の制空権を完全ににぎり、その後の三年間というものは、日本軍のパイロットたちは、中国を空中実験場として、貴重な戦闘経験をつんだ。

(P12-P13)
 


 さらに、中山雅洋氏の「中国的天空」を見ましょう。当時の日中双方の戦闘詳報を駆使して、日中航空戦の全貌を立体的に明らかにした力作です。

 中国側戦闘詳報をもとにしたものと思われますが、「爆撃目標」を具体的に記述していることが注目されます。

中山雅洋『中国的天空』より

9 真説 八・一四の空戦

 朝


 明くれば八月十四日。早朝に空軍命令第二号がでて、第二、第三両大隊の上海における日本軍攻撃と、第三大隊の首都南京防空任務、および第六大隊の海上索敵飛行が命令された。矢はついに放たれたのである。

 午前七時、第三十五大隊は急拠五機のヴォート V92「コルセア」を許思恩隊長の指揮で筧橋から発進させ、上海の日本海軍陸上基地、公大の物資集積所を爆撃にやった。天気ははなはだ悪く、公大上空は雨が降っており、そのため彼らは五〇〇メートルの高度で右梯隊をとり、 猛烈に撃ちあげてくる対空砲火のなかで投弾、全機無事に帰投した。

 一方、広徳にある第二大隊のノースロップ2E型単発複座軽爆二一機は二五〇キロ爆弾合計一四枚、および五〇キロ爆弾七〇枚(前に述べたように、中国空軍では爆弾を一枚、二枚と数える)の搭載を終わり午前八時四十分、雨にぬかる飛機場を離陸開始した。

 爆弾には二種の信管が取り付けてあり、第十一中隊は遅発信管を取り付けて日本の艦船を狙い、残りの機は瞬発信管を取り付けて公大や埠頭の日本軍、集積物資などの攻撃を目的としていた。(P166)



 

 悪天候と水平爆撃であったために、奇襲を受けながらも損害を免れた日本の艦隊は、すぐに「出雲」と軽巡「川内」に搭載していた各一機の九五式水上偵察機を発進させ、 多勢に無勢ながら空中哨戒と近くの陸上戦闘の支援にあたらせた。

 (一説では九〇水偵だったともいわれるが、当時の戦闘詳報がもはや現存せず、確認できない。 当日の写真として公表されたものには九五水偵が写っているので、ここでは九五水偵説をとった)

 正午近くなると、長江をさか上って上海に向かう日本海軍の駆逐艦が南通付近で爆装した第二十四大隊の「新ホーク」に襲われた。 これは揚州を九時二十分に離陸した丁紀徐の率いる八機で、各機とも二五〇キロ瞬発爆弾一枚を装備していた。(P169-P170)

 駆逐艦は蛇行して爆撃を回避する。江上の雲は低く、「新ホーク」は緩降下で次々と投弾したが、わずかに副隊長梁鴻雲の二四一〇号機が艦尾に命中させただけで、駆逐艦は左舷に四〇度傾きながらも逃げおおせた。 霧も濃くなったので十一時三十五分に揚州に引き返した。(P170)



 同じ第五大隊の三機の「新ホーク」は、このころ胡荘如中隊長に率いられて虹口の日本海軍陸戦隊司令部の爆撃に向かったが、雲はいよいよ低く、霧もまた濃くなったので、 隊長の二五〇一号機と分隊長守恩儒の二五一〇号機は爆撃をあきらめ午後五時二十分、揚州に帰投した。

 列機の張ボ飛はこのとき、雲中に降下して推測爆撃をしたものの、その戦果はわかっていない。 あるいはこの一弾が市街のキャセイ・ホテルに命中し、数十人の死傷者をだしてしまったのかも知れない。(P170-P171)

 中国空軍の日本軍襲撃は、夕刻近くまで続いた。朝の攻撃で一機も失わなかった広徳の第二大隊は、再びニニ機のノースロップ 2E に二五〇キロ爆弾一八枚、一二〇キロ爆弾二二枚、五〇キロ爆弾二六枚を装着し終ると、 午後二時四十分および三時四十分の二波に分かれて出撃した。

 二隊はそれぞれ四時と五時に公大および楊樹浦の日本軍を爆撃、あわせて十数カ所で火災を発生させた。
(P171)

*「ゆう」注 キャセイ・ホテルに投下された爆弾は、軍艦「出雲」を爆撃しようとした中国機から投下されたものでしたので、張ボ飛の投下した爆弾が「犯人」ではありえません。

むしろここで注目されるのは、中国機が精度無視の「推測爆撃」を行っていた、という事実です。 八月二十三日の高空からの水平爆撃は、あるいはこのような「推測爆撃」であったのかもしれません。


 さらに同書は、「命中率の低さ」について、このような分析を行っています。

中山雅洋『中国的天空』より

11 天空からの襲撃


 「新ホーク」は本来、米空母用の艦上戦闘兼急降下爆撃機であったが、パイロットたちは主に戦闘機としての用法を習っているのみで、急降下爆撃は教わっていなかった。 日中戦争初期の中国空軍の投弾法は、ノースロップ2Eのような水平爆撃か、「コルセア」や「新ホーク」による低空、緩降下爆撃だったのである。

 この爆撃法は、陸上を進軍する中共や軍閥の大軍に対しては十分に有効な投弾法であったが、水上を動く艦船には、まず当たることのない攻撃法である。 もし当てようとするならば、後年の米第十四航空軍のB25のように、多数の爆弾を間隔をおいてばらまかなくてはいけないのだ。

 従って後年の人たちは、この日頼名湯が「まず当たるまい」と判断したことを決して責めることはできない。事情は日本海軍でも似ており、この少し後の江陰要塞に在泊する中国巡洋艦爆撃では、 水平爆撃の命中率は停泊している諸艦に対してさえ、きわめて低かったのである。(P219)




 現代の視点 − 「誤爆」認識の定着 


 当然のことながら、今日では、このような「珍説」はいつのまにか姿を消し、「誤爆」という認識がほぼ定着しています。

 例えば、高崎隆治氏の記述です。

高崎隆治『上海狂想曲』より

 一時間おきに中国機の爆撃


 誤爆について書こう。

 それは風速二十五メートルの暴風の中だった。日本軍もこんな嵐の中、よもやと思っていたようだが、中国軍のノースロップ機(一説にはマーチン爆撃機ともいわれるが、マーチンは最新の爆撃機で、アメリカ空軍もまだ正式に採用していなかった。

 だから中国に売るのも自由だったわけだが、十分なテストも行なわれていなかったのは事実のようで、そのへんに問題があったのかもしれない)が郵船埠頭の近くにいた旗艦『出雲』を目標に波状攻撃を行なった。

 爆弾は『出雲』に当らず、近くを航行中の中国の小汽船に命中し、船はたちまち沈没して乗客は河に放り出された。バンドでこの光景を眺めながら、救助に赴く者は一人もいなかったという。

 つづいて黄浦江対岸地区のアジア石油(イギリス系)の倉庫がすさまじい黒煙を上げた。

 中国機は一時間おきに編隊を組んでやってきた。上海一の社交場といわれるパレスホテルの玄関前に一弾が落下し、すぐ近くのキャセイホテル前にももう一弾が落ちた。

 もちろん、中国軍は意識的にそれらを爆撃目標にしたわけではない。だが、暴風の中、低い雲を衝いて行なう爆撃は高度の技術を必要とする。 新聞はこの誤爆を技術拙劣として嘲笑したが、現地の海軍は「敵ながらなかなかやるな」と感心する者の方が多かった。

 誤爆はしかし日本軍の方にもあったわけで、パネー号事件や、イギリスのヒューゲッセン大使の乗った乗用車を、戦闘機が誤射して負傷させるという事件もあった。

 日本軍の誤爆もそうだが、中国機の方も同じで、これらはいずれも故意などではない。戦場または戦場に隣接する区域では、いつでも起こり得るものなのである。したがって、危険区域には近づかない方がいいのだが、やむなく近寄る場合は細心の注意が必要なのだ。

 ヒューゲッセン大使を非難するつもりはないが、交戦区域を通過するのに、中国側には通告しながら、日本軍には事前になんの連絡もせずに車を走らせれば、事故が起きない方がむしろ不思議なのだ。

 中国空軍の空襲はますます盛んになった。日本軍が、南昌・広徳・杭州等の飛行場を爆撃しても、いっこうに戦意は衰えなかった。先きの引用文の「敵機盛んに来襲」というのは十七日だし、十九日もカーチスホークが二度襲ってきた。 特に十九日夜から二十日の未明にかけては空・陸呼応しての総攻撃が開始された。

 浦東の日本郵船の倉庫と上海ドックが黒煙を噴き上げ、折りからの南東の風に乗って黄浦江を渡り、租界は数メートル先きが見えないほどの煙に包まれた。

 つづいて楊樹浦の煙草工場に火の手が上り、 真紅の野球のボールのような迫撃砲弾が、租界と越界地区とを問わず間断なく飛んで、ブロードウェイに火災が起きた。尖塔のある白亜の大きなビルが音をたてて焼けはじめると、虹口は真昼のように浮き出した。

(P77-P79)


 他に、私の手持ちの本で目についたのは、こんなところでしょうか。いずれも、「誤爆」の認識で一致しています。

「一億人の昭和史」3 「日中戦争1」より

14日 中国空軍は十数機で 上海に在泊中の第3艦隊に先制空爆を加えた 「出雲」などには被害はなかったが 誤爆のため 租界で外国人など約1000人が死傷した

(P114)


「太平洋戦争研究会編「日中戦争」より

 翌一四日になると、中国空軍は黄浦江上の第三艦隊旗艦「出雲」をはじめ、付近の日本海軍艦船に対する爆撃を敢行した。ほとんど命中弾はなかったが、逸れた爆弾が共同租界南京路のホテルを直撃したり、 フランス租界の歓楽センター「大世界」付近に落下爆発した (P35)


上村伸一「日本外交史」 20 「日華事変(上)」より

 一四日午前十時ごろ、敵の爆撃機数機が上海上空に現われ、旗艦出雲及び陸戦隊本部に爆弾を落したが、目標を誤り日本紡績工場やイギリス商社の建物に被害があった。 同日夕方には敵の爆撃が一段と激化し、陸戦隊本部、紡績工場、避難民の集結する日本人小学校、あるいはホテル等にも爆弾が落下して、外国人、中国人に多数の死傷者を生じた。(P118)




 カール・カワカミの「列強の干渉を誘発する目的での故意爆撃」説は、1937-1938年頃の一時期、一部で流れた「推測」を、強引に「断定」に置き換えたものでしかありません。

 それ自体極めて根拠の薄いものでしたし、中国側にもそれを裏付ける資料は存在しません。今日では、上に見るように、「誤爆」との認識が当然のものとして定着しています。


 このカワカミの見解を援用して、あたかも中国側が故意に爆撃を行ったかのように論じることは、カワカミの置かれた時代的制約を無視した暴論である、と言えるでしょう。
(2007.7.16)
  
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