中国空軍の上海租界爆撃(1)

ーカール・カワカミの所説を中心にー



 K・カール・カワカミ(日本名河上清)は、1873年生まれのジャーナリストです。

 若い頃は、日本初の社会主義政党である「社会民主党」の設立に関わるなど熱心な社会主義者でした。 「カール」の名も、「カール・マルクス」からとったものであると伝えられます。

 その後カワカミは1901年に渡米、アジア専門のジャーナリストとして1906年に言論界にデビューしました。 その後、日本への国際的非難が集中した「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから、 米国では「日本の政策の代弁者」と見られるようになりました。

 そして興味深いことに、太平洋戦争中には連合国側に立って「日本は負けなければならない」と主張する立場に転じ、さらに戦後は、再び「革新」の側にシンパシィを示すようになります。 帰国後1949年には、自署の印税の中から10万円を日本社会党に寄付し、さらに社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言することまで行っています。

(以上、古森義久氏によるカワカミの評伝 『嵐に書く』 を参考にしました。 なお古森氏によれば、実際には、カワカミは戦前当時も、日本の「中国征服」的行動に懸念を持ち、また三国同盟に反対するなど、日本の政策に一定の留保を保っていた、ということです。 石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫)P390-P391にも、河上清が「三国同盟」に反対していた、との趣旨の記述を見ることができます)



 「シナ大陸の真相」は、カワカミがまさに「日本の代弁者」と見られていた時期、1938年に英文で書かれた本です。日本の正当性を強調し、 中国側への批判を行うことを主眼としていますが、今日の目で見ると、「盧溝橋事件」以降の事件拡大の責を一方的に中国側に押し付けているなど、偏った記述が目につきます。

 ただしこれは、当時のカワカミの日本擁護的立場、また情報が十分でなかったという 時代的制約を考えれば、ある程度やむえないところでしょう。

*一部右派の間で、これを「戦前日本の弁護本」のバイブルの如く取上げる動きがあります。しかしこのようなカワカミの思想的変遷を見るならば、 その一時期のみをとりあげて持ち上げられることは、 カワカミの本意ではないかもしれません。

 参考までに、展転社はこの翻訳本にはこんな帯をつけています。「支那事変前夜の大陸の政治的実情と国際社会の視線を
冷静に公平に且つ鋭く見据えていた著者の観察は、日本の正義を主張してやまない」。

 出版元があの「展転社」であってみればやむえないことなのかもしれませんが、これでは「冷静に公平に」見ると
「日本」は「正義」だった、ということになってしまいます。 少なくとも外務省の公式見解や世間の標準から見れば、これはかなり「偏った」主張である、といえるでしょう。

**そもそもこの本の原題は、゛Japan in China”です。「中国の中の日本」と訳せば普通なのに、「シナ」という中国がいやがる呼称をわざわざ使用するところに、 出版社と訳者の「思い入れ」を感じます。

 ネットでは、この本のうち、「中国軍はわざと上海国際租界を爆撃したのである」という、今日の目で見るといわば「珍説」の域に属する議論がしばしば引用されます。 カワカミは当時上海にいたわけでもないのに、「カワカミが言っているから真実」といわんばかりのトンデモ議論を行う論者さえ存在します。

 本稿では、カール・カワカミの議論を手掛かりに、「中国軍の上海爆撃」の実相を明らかにすることを目的としたいと思います。

*本コンテンツで参考にした資料のうち、「アジア歴史資料センター資料」「支那事変実記」「東京朝日新聞」の関連記事については、 こちらに掲載しました。 情報量が膨大でとてもこちらでまとめきれるものではありませんでしたので、より突っ込んで調べたい方はご参照ください。


目  次
 

中国空軍の上海租界爆撃(1)(本稿)
 

1 カール・カワカミ『シナ大陸の真相』より

2−1 八月十四日の爆撃

2−2 八月十六日の爆撃

2−3 八月二十三日の爆撃

2−4 八月三十日の爆撃


中国空軍の上海租界爆撃(2)

3−1
 日本国内の報道

3−2 英米仏、抗議へ

3−3 中国側、謝罪へ
 

中国空軍の上海租界爆撃(3)

4―1 ひょっとしたら、わざとかも − 一部の観測 

4―2 「推測」から「断定」へ カワカミの「飛躍」

5 中国側から見ると・・・

6 現代の視点 − 「誤爆」認識の定着
 






 カール・カワカミ『シナ大陸の真相』より


 まずは、カワカミの記述から。日中戦争が華北から華中へ飛び火した一九三七年八月第二次上海事変時の、中国軍機の「上海空襲」を問題にしています。

 
K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』より

 八月一四日に中国軍の爆撃機が国際租界のパレスホテル及びキャセイホテルの近くに爆弾を投下した。 この付近は極東で最も有名な簡易宿泊街であり、百名以上が死んだ。

 八月一六日
に中国軍は別の爆弾を租界の大通りに落とし、 数名の外国人と中国人を死亡させた。

 八月二三日に中国軍の飛行機は再び国際租界を爆撃したが、 この時は上海で最大の中国人の商業施設であるシンシアー及びウイン.オンデパートを直撃し、二百人以上を死亡させその他に二百人を負傷させた。 ニューヨークタイムズの二人の特派員がこの負傷者の中に入っていた。

 八月三〇日、 中国軍爆撃機の飛行大隊がアメリカの大型定期船プレジデント・フーバー.号を攻撃し、五人の水夫と二人の乗客を負傷させ、その中の一人が数日後亡くなった。

 このような中国軍の爆撃の及ぼす影響があまりにも深刻であったので、ニューヨークタイムズの上海特派員が八月二七日付で次のような声明を発した程であった。
 「中国軍が無責任な空爆を行って上海の国際租界とフランス特権区域の無力な民間人を殺すのを防ぐための、武力手段あるいは他の抑制措置をとることに、外国の領事館員及び陸海軍の軍人が合意するならば、 何らかの国際的措置をとることを決議しなければならない」
 外国人区域に対する中国軍のこれらの執拗な攻撃の目的は一体何なのか? その問いに対しては唯一つの答が可能である。 すなわち中国は日本に対する外国の干渉を煽り立てようと計画していたのである。

 日本は自分から攻撃に出るのを厳しく抑えているのに、中国は国際租界を自分自身で攻撃することによって日本に対する国際干渉を引き起こそうと目論んでいる、 というのは一見したところ奇妙なことのように思えるかも知れない。

 実際、ニューヨークタイムズの特派員が八月二七日付で報じたように、黄浦江上のアメリカ、イギリス、フランスの戦艦に精密機器を携えて乗船していた外国の陸海軍の観察者たちは次のように証言している。

  「日本軍は上海の避難区域の上空に爆撃機を飛ばせたりはしないという自らの誓いを固く守っているのに対し、中国軍はそのような誓いを立てるのを拒んでいる」と。

 中国は次のように推論していた。

 すなわち中国軍によるものであれ日本軍によるものであれ、この戦争の残忍な性質とそれが外国の権益に及ぼす深刻な影響を第三列強諸国に印象づけるような如何なる行動も、 中国に対するよりもむしろ日本に対する反応を引き起こすであろう、と。

 何故ならば南京政府が観察していた通り、世界の世論は既に日本を敵対視する方向に固まってしまっていて、中国は世界の同情の対象になっていたからである。

 それ故一九三七年一二月一二日、日本の戦闘機と戦艦の砲列が揚子江上のバネイ・レディーバード号及び多くの英米の商船を攻撃した時、中国はこの日本のしでかした失策に快哉を叫び、 彼らが長い間胸に抱いてきた計画は間違いなく実を結ぶと確信した。

 その確信はこの失策を償おうとした日本の素早い行動によって再び挫かれたのである。

(P189-P191)
 

 カワカミの記述を要約すれば、どちらの仕業であれ、ともかく「外国権益」が侵害されることになれば、日本は嫌われ者だったから、世論は日本の方を批判することになるであろう、 だから中国軍は故意に国際租界を爆撃したのだ、ということであるようです。


 本人も「一見したところ奇妙なことのように思えるかもしれない」と述べている通り、現代の「常識」からは、ちょっとびっくりするような発想です。

 中国機が「国際租界」を爆撃すれば、たとえ「誤爆」であっても、普通は中国側への国際的非難をまき起こす結果にしかなりません

 「国際租界」を爆撃すると、列強が中国に有利な形での介入を行ってくれるだろうと中国は考えていた ― いったいどういうことなのか、 普通の方であれば、首を捻ってしまうのではないでしょうか。



 カワカミによれば、中国は都合四回、「日本に対する外国の干渉を煽り立て」るために故意の爆撃を行っているということです。 まずは当時の報道などをもとに、四回の「中国機の上海爆撃」の実相を見ていきましょう。



2−1  八月十四日の爆撃


 八月十四日。今日でもあちこちで取上げられる、有名な事件です。

『支那事変実記』第一輯より

 八月十四日 支那軍上海空襲の暴挙 わが無敵空軍の出動

 上海は夜来暴風雨に襲はれた。その中でこの日、海陸空にわたる激しい戦闘が行はれた。午前二時といふのにもう敵の攻撃は始まつたのである。(P189)


 敵の爆撃機来る

 かくて壮烈な地上戦が展開されてゐるさ中に、突如敵の空襲ははじまつたのである。

 午前九時五十分支那の爆撃機は一機我が陸戦隊本部上空に飛来して爆弾を投下しはじめたのでわが陸戦隊は高射砲をもつて応射した。

 同時刻、 爆撃機四機はわが軍艦○○に爆弾二個、また商業学校地区、楊樹浦紡績工場地帯、英人経営ジャーデン・マジソン会社上海埠頭に命中、倉庫粉砕、多数の死傷者を出し、 逓信省ケーブル修理船沖縄丸にも爆弾を投下し、死傷四名を出した。

 敵機の爆撃開始と共に、支那人群集は雪崩を打って租界商業中心区(旧イギリス租界)方面に逃込み、同地一帯は混乱不安の極に達するに至つたので、江岸通一帯の外国銀行業者は一斉に門戸を閉し、 完全に営業を休止するに至つた。

 又江岸通南京路方面の電車、バスは車掌、運転手が逃げ出したため、道路上にそのまま立往生となつて居り、電線は所々で切断され、名状すべからざる混乱に陥つた。

 午後になつて敵爆撃機は又もわが陸戦隊本部を空襲爆弾三四発を投下したが、幸ひ一発も命中せず、我軍は高射砲機関銃でこれを撃退した。 敵機襲来に午後一時三十分わが海軍の艦載機は威風堂々出動を開始、閘北、北四川路上空を旋回、さかんに爆撃を加へた。(P192)



 所嫌はず爆弾投下

 烈風を衝いて上海上空を飛行中だつた支那飛行機(アメリカより購入のマーチン爆撃機およびノースロップ爆撃機)は、十四日午後四時半八機編隊をもつて上海上空に来襲、猛烈なる爆撃を開始した。

 しかも血迷へる敵機は照準を定めず高層建築とみればところきらはず爆弾を投下したため、上海全市は全く敵機の蹂躙下に陥り、大混乱をきはめ、なかでも共同租界、 フランス租界の外人たちはホテルを空襲されたため色を失ひ右往左往し、阿鼻叫喚の巷と化し去つた。無謀言語に絶した空爆の洗礼は支那人、外人問はず死者の山を築くに至つた。(P194)

 午後四時半にはバンド北京路に落ち、支那避難民多数を傷け、西京路に落ちたものはカセイ・ホテル玄関前に命中し、死傷者外人に多く数百名、 東洋一といはれる数多のツーリストを呑吐したホテルのロビイは凄惨な血の海と化し、パレス・ホテルは屋根から地階まで滅茶々々に破壊され、外人八名惨死した。

 同四十五分には歓楽街大世界に落下支那人二百名死傷、その他浦東アジア石油のタンクに命中し、米艦オーガスタ附近にも落下し、又租界も多大の被害を蒙つたため、英米仏各国の激怒を買つた。
(P194)


 午前の爆撃は、軍艦出雲を狙った爆弾がその周辺にも落ちた、という理解で問題ないでしょう。問題となるのは、午後四時半の爆撃です。

 「支那事変実記」(読売新聞記事」は、「血迷へる敵機は照準を定めず高層建築とみればところきらはず爆弾を投下した」と表現しています。 確かに、爆弾落下地点は「爆撃目標」であるはずの軍艦出雲からほど遠い。何でこんなところに爆弾が落ちるんだ、というのは、現場にいた人々の共通の疑問だったのでしょう。


 この爆撃については、同盟通信社上海支局長、松本重治氏が詳しい目撃談を残しています。

松本重治『上海時代』より

中国空軍による租界盲爆

 戦争が始まった以上、「同盟」支社は、それより報道の方針を完全に切り換えざるを得ず、戦況の刻々の打電に全力投球することになった。

 十四日午後四時少し過ぎ、私が「同盟」支社にいると、中国空軍の編隊が上手から黄浦江上空に進んで来て、旗艦「出雲」の高射砲や機関銃が反撃しているようだと、 記者の一人が急いで駈けよって、知らせてくれた。

 すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マルチン爆撃機の五機編隊で、「出雲」めがけて進んでいるではないか。私の肉眼では、編隊の高度はだいたい六、七百メートルとみた。

 「出雲」その他の高射砲がパーン、パパーンと鳴り響いている。ふと見ると、五機のうち一機の急所に高射砲の弾が命中したらしい。

  その一機が隊伍を乱すかと見ると、中国空軍の射手らしいものが、真っ逆さまに降ってきて黄浦江にじゃぶん。すると、編隊は「出雲」の方向からやや左旋回し始めたと思うと、一つ、二つ、三つと大型の爆弾を落しつつ、 租界上空を通って飛び去った。


 爆弾が落ちていくのが手にとるように判ったが、爆弾が、惰性のためか、飛行機の進む方向に、一つは愛多亜路の上空に達し、「同盟」支社のあるピルの頭をかすめて、 約三百メートルほど先の愛多亜路の十字街の舗装道路上で昨裂した。

 その十字街の一角には、大衆歓楽センターである「大世界」という四、五階のピルがあり、十字街上と「大世界」内にいた千人余りが、爆風と破片とで死亡した。 あとで聞くと、爆弾は二百五十キロのものであった。

 第二弾は南京路のカセイ・ホテルの玄関先で昨裂し、数百枚の窓ガラスが破壊された。そのため、通行中の中国人約二百名、外人八名が死んだ。 その外人のうちには、ライシャワー元大使の兄に当るロバート・ライシャワー(有名な日本古代史の学者)も含まれていた。

 第三弾は南京路を隔ててカセイ・ホテルの向い側のパレス・ホテルの屋根を貫いて地階に達し、数十人の死傷者を出した。

 その第二弾、第三の音響も、支社に聞えた。

(中公新書版『上海時代』(下) P195〜P196)


 中国軍爆撃機は、「出雲」を狙っていた。高射砲の砲撃を受けて逃げる時に、そのまま爆弾を投下してしまい、爆弾は惰性で飛行機の進行方向にあたる国際租界に落下してしまった。 要するにそのようなことであったようです。

 では中国機は、なぜ爆弾を投下してしまったのか。中国側の弁明を聞きましょう。

情報部第三課 「北支事変に関する各国新聞論調 二十三」より 

昭和十二年八月十六日

(A)支那紙

二、十四日の不測の惨事を惹起したるは、日本の高射砲か、支那爆撃機の爆弾保持機を破壊せる為めなり(十五日、上海英字紙南京ロイテル電報)


(アジア歴史資料センター資料)

情報部第三課 「北支事変に関する各国新聞論調 二十四」より 

昭和十二年八月十八日

(B)米国紙

十四、共同租界空爆は日本側の射撃により、機体の自由を失ひたる結果余儀なくせられたるものにして、右は蒋介石の命令に基くものに非す (十六日、A・P電報、蒋介石夫人より「シオドル・ルーズヴェルト」夫人宛弁明電報)

(アジア歴史資料センター資料)

『東京朝日新聞』昭和十二年八月十七日夕刊

蒋・極度に驚愕す 盲滅法爆撃に陳弁

ニューヨーク特電十五日発】上海において米人三名が殺された事件に関し支那側はこれが米国の与論を刺激することを恐れ共同租界に故意に爆弾を投下したのではないといつてしきりに弁明してゐる。 即ち蒋介石夫人はセオドル・ルーズヴエルト夫人(元大統領令息夫人目下支那に旅行中で上海カセイ・ホテルに逗留中)に左の如き電報を発したがこれはその後直に米国に伝へられた

『死者九百十名、負傷者千二百名を出した事件につき蒋介石は驚愕し且つ悲しみ至急調査方を厳命した、彼は蘇州河の南方には爆弾を投下せざる様特に命令してゐたのであるが日本高射砲のため二名の操縦士が負傷し爆弾投下機に故障が出来その結果爆弾が堕ちて行つたのである』

然しこれが支那飛行機の盲滅法、的外れの空爆の結果であることは米国で誰一人疑ふ者なき事実となつてゐる

(一面中下 四段見出し)


 高射砲の命中により「爆弾投下機」が故障したため、という説明です。「東京朝日新聞記事」のようにそれを「強弁」と捉える向きもありましたが、とりあえずこの中国側の説明を否定するほどの材料も存在しないようです。

*なおこの爆撃に関しては、中国側は「日本軍機の仕業」との第一報を流したようです。 おそらく正確な情報を得られない状況での「誤報」であると思われますが、直後には上の通り見解を修正し、そののち米英仏各国に対して謝罪を行っています。



2−2  八月十六日の爆撃


 次に、八月十六日。おそらくは、この事件のことを指しているものと思われます。

『東京朝日新聞』昭和十二年八月十七日夕刊

秋葉課長重傷 邦人四名即死す

【上海十六日発同盟】 午前十一時三十三分敵軽爆機七機飛来、○○及び陸戦隊方面に爆弾数発を投下した、 内一個は総領事館建物と軍艦○○の中間に落下、桟橋を貫き大きな穴をあけ 他の一個は総領事館警察川べりのバルコニーに命中したが総領事館、 警察に落下せる爆弾は秋葉第二課長の部屋を貫き執務中の秋葉課長及び橋爪書記生の両面とも顔面その他に重傷を負つた

上海十六日発同盟】午前十一時半頃の支那爆撃機の一弾はブロードウエイ虹口クリーク附近に落下し邦人自警団二名即死、 四名負傷 更に午前十一時三十三分頃総領事館附近に落下した爆弾のため附近通行中の我が商業学校四年生大輪松三郎君外一名は即し、 敵の投下せる一弾は日本郵船倉庫事務所に落下し同所で休憩中のパイロツト森本弘氏(音読)は重傷を負ひこの外浜田治雄君(二三)(長崎県出身)浜田金治君(長崎県出身)の外半島人一名も同所において負傷した

(一面上 三段見出し)


上海血の戦慄 支那機投爆の惨劇

【上海特電十六日発】 十六日午前十一時半の支那空軍七機編隊の無謀極まる爆弾は 我軍艦○○の直前日本郵船碼頭事務所及びその裏ブロードウエーに落下 直に現場に馳せつけると全くその惨状正視に耐へぬものがあつた、

 郵船事務所は我領事館警察署と軒を並べた古い赤煉瓦の二階建、黄浦江に面した二階に一弾が落下したのだ、秋葉課長及び橋爪書記生が負傷した所は丸で白壁も落ちてしまつて噴煙が蒙々と上つてゐるのみ、 路上には赤煉瓦が崩れ落ちてゐる、

 ブロードウエーのサヴオイ・ホテルの前には支那人の死体が七ツ、八ツごろごろと転がり、歩道にも車道にも血が流れてゐる、死体の鼻から血を吹いてゐる、 まだ息をビクビクしてゐるのもある

 外国人や日本人の負傷者は逸早く病院に収容されてゐるが、これら自国の爆弾に倒れた魂はどうなるのだらう、日本警備隊員の心遣ひから死体は莚で静かに蔽はれたが支那空軍の残虐無謀の空襲は愈々その極に達してゐる

(二面下 三段見出し)

*「ゆう」注 当時の「夕刊」は、翌日付で発行されています。今日風に言えば、これは「八月十六日夕刊」ということになります。


 カワカミの指す事件がこの「午前十一時半」の爆撃だったのであれば、これは明らかに「軍艦出雲」を狙った爆弾が逸れたものです。「故意に「租界」を狙った」と決め付ける理由もないでしょう。

*民間人を巻き込む可能性を覚悟の上で精度の低い爆撃を行ったのであれば、これはこれで人道的問題があるでしょう。しかしこれについて論じることは本稿の目的から外れますし、 またこちらを問題にするのであれば、これとは比較にもならないほどの大規模な、日本軍の重慶・広州等への無差別爆撃も問題にすることになります。 このあたりについては、いずれ機会を見て別稿で論じることにしましょう。




2−3  八月二十三日の爆撃


 次に、八月二十三日です。爆弾は、またもや「国際租界」の中心地に落下しました。

『東京朝日新聞』昭和十二年八月二十四日

上海三大デパート 支那弾丸見舞ふ 死傷数百名に上る

上海特電二十三日発】 午後三時十五分海軍武官室発表

一、本日午後零時五十五分、敵飛行機高空より先施及び永安公司附近に爆弾を投下、死者二百余、負傷者二百余を生ぜり

一、日本飛行機が爆弾をもつてこの方面の飛行は厳禁せられあり、且つ一弾は盲弾にして、支那飛行機なることを工部局においても証明せられたり


上海特電二十三日発】 廿三日午後一時頃南京路目抜の永安公司、先施公司の大デパートを脅かした爆弾は先施公司の二階、一階を幅四メートルの広さで奥行き深く突入し多大の損害を与へ、 向ひの永安公司の大部分のガラスを破壊 繁華な場所柄だけに無慮百数十名の死傷者(外人を含む)を出した

[註]=自国の飛行機の爆弾に見舞はれて多数の死傷者を出した永安公司、先施公司は上海の銀座南京路の繁華街中心の角にあつて銀座四丁目角と云つたところ、 共に広東人経営のデパートで永安は三越、先施公司は白木屋の格で向ひ合つてゐる、新々公司もやはり広東人系で之等に次ぐ比較的新しいデパートで先施公司に並んで三大百貨店がここに固まつてゐるのである


非難囂々と起る

【上海特電二十三日発】 南京路繁華の大中心地先施公司附近の惨劇は去る十四日カセイ・ホテル前における爆弾と同様 支那空軍の盲滅法な爆弾投下の二の舞で現場の惨憺たる光景は全く目も当てられぬ惨状を呈してゐる

 支那飛行機は二十三日も我が方を空爆せんと一万フイートの凄い高空から爆弾を投下したもので、この高空を飛ぶ飛行機は爆音も聞えず、 殆どその姿も認めることが出来なかつた程である

 惨事発生とともにこれは浦東側支那陣地或は北停車場附近の支那陣地からの砲撃の犠牲だらうと見られてゐたが、支那飛行機のこの滅茶苦茶な襲撃に再び南京路がその犠牲となつたことが判明した

 先施公司の二階で買物中のニユーヨーク・タイムズ特派員ビリンガム氏は重傷を負ひ自動車で同氏を待つてゐた同紙上海支局長アーベンド氏は自動車のガラスを粉砕されたが幸ひ難を免れ無事であつた 目下判明せる外人遭難者は前記ビリンガム氏一名である、

 支那空軍はカセイ・ホテル前、大世界前、そして今度の先施公司等上海の三大中心地に爆弾の物凄い洗礼を見舞ひ上海在住の外人間に大センセイションを捲起し支那飛行機に対する非難は囂々として起つてゐる


爆弾・支那と鑑定 第三艦隊司令部声明

 二十三日南京路、先施、永安公司に投下された爆弾につき第三艦隊司令部は次の談話を発表した

一、二十三日南京路に投下されたる爆弾につきて工部局本部において当隊司令部附爆弾専門家の鑑定せる所によれば本品は弾径四〇乃至四五インチ、 弾長一メートルの厚壁の■式鉄鋼タイプの爆弾にして後部には軽合金を使用しあり、白色の炸薬を填充しある二百五十キロ程度のものと想像され、 弾筒及び弾の後半部に信管その儘現存し本爆弾は炸裂しあらざるもその破損状況より見て高度より投下せられたるものと鑑定される

一、爆弾形式 弾底背の文字及び塗色等よりして全然帝国のものにあらざることを確信す

(二面、中下、四段見出し)


 1万フィートの高空からの、爆音も聞こえず、飛行機の姿もほとんど見えない状況での「水平爆撃」です。

 これでは、まともな「精度」を確保できないことは明らかでしょう。他の目標を狙っていたが、あまりの高空からの爆撃であったために目標を大きく逸れた。そのようなものと理解して、問題ないものと思います。

 中国空軍はこの時期、 悪天候で視界が不十分な中、「たぶんこのあたりでいいだろう」という程度の精度での「推測爆撃」を行っていた、というデータもあり(「中国的天空」)、 この爆撃も、あるいはそのようなものであったのかもしれません。


*地上への爆撃の方法としては、大きく分けて、「水平爆撃」「緩降下爆撃」「急降下爆撃」の三つがあります。このうち最も精度が高いのが「急降下爆撃」で、 逆に最も精度が低いのが、高空に滞留したまま行う、この「水平爆撃」です。

**繰り返しますが、この中国空軍の考え方の「道義性」については、本稿の趣旨から外れますので、ここでは問題にしていません。


 以下は余談になりますが、中国側はこの爆撃を「日本機によるもの」と発表 したようです。

K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』より

 さらにまた八月二二日(「ゆう」注 八月二十三日の間違いでしょう)、 中国軍の飛行機は国際租界を爆撃し、この時にはシンシアーデパートとウィン・オンデパートに被害を与えた。この時も同様に中国の宣伝広報局は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものであると発表した。

 ニューヨークタイムス上海特派員は中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、この爆撃に関する特電を上海ではなく香港から発信した。

 彼が香港から発信した八月二七日(爆撃の五日後)付の特電の一部は次のようになっている。

「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、 上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフたちの一致した見解となっている」

*「ゆう」注 この「無責任」という表現を、「故意爆撃説」の論拠としている書き込みを見かけました。しかしこれは、素直に読めば、「故意に民間人殺害を目的とした爆撃を行った」と見るよりも、 「民間人を巻き込む可能性を無視して、軍事目標に向けて 精度の低い強引な爆撃を行った」という趣旨に捉えるべきところでしょう。


 この特電は中国の検閲に不満を漏らして次のように述べている。

「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。 その目的は、現地の外国人たちがあたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下されたものかも知れない、と疑っているかのように見せかけるためだったのである 。だがしかしこれは明らかに真実ではない」

 さらにまた九月六日付香港発信のニューヨークタイムス特電は、同爆撃について次のように述べている。

中国軍は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものである、と宣言することによって責任を拒否した。 しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものであることが判明している。この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。 そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入したことは一度もない、と証言しているから」

(P255-P256)


 カワカミは、中国側が「自国の責任を認めず日本側に責任転嫁しようとしている」ことを非難しています。

 ただしこれは、中国側にとっても、自国の飛行機の仕業であったかどうか、はっきりとした判断がつかなかった、ということであったのかもしれません。

 飛行機の姿もはっきりわからない状況での高空からの爆撃でしたし、中国機の仕業とする証拠は日本軍側の「爆弾鑑定」のみでした。 なお中国側は、八月十四日の国際租界爆撃、八月三十日の「フーバー号事件」(後述)については、はっきりと責任を認めて謝罪しています。

*なお戦場では、このような過誤は、決して珍しいものではありません。参考までに、例えばその直後、26日に起きた「ヒューゲッセン大使誤射事件」では、 今度は日本軍の方が、事実を認めるのに相当抵抗したようです。

石射猪太郎 『外交官の一生』より

  ヒューゲッセン英大使の奇禍

 軍事行動下においても、諸外国の在華権益に損傷を与えぬよう、十分注意することは、無論政府の当初からの方針であったが、
現地の戦闘部隊は外国権益に遠慮しなかった。諸外国からの苦情や抗議が踵を接して至り、のちには積り積って、アメリカ関係の抗議だけでも四百余件と算せられた。 こうした渉外事件のうち、事変発生早々センセーションを起こしたものが、駐華イギリス大使ヒューゲッセン氏の遭難事件であった。

 八月二六日午後、ヒューゲッセン大使は、経済顧問ホール・パッチ氏他一人とともに、イギリス国旗掲揚の自動車に乗って南京から上海に向う途中、常熟・大倉間で飛行機二機から掃射機関銃弾を浴びせられ、 背柱に一弾を受けたのである。

 大使は上海カンツリー・ホスピタルに運びこまれ手当を受けた結果、危篤状態を脱したが重体、加害機は日本機と認められる旨、同乗の道難者から発表された。当時上海方面の制空権が、 完全にわが海軍に帰していた実情からして、誰が考えても加害機は日本機であると推定されるのであった。

 
しかるに、わが現地海軍は、変を聞いた当初、艦隊長官長谷川中将自ら病院に馳せつけて、遭難見舞の辞を述べ、 .遺憾の意を表したにかかわらず、たちまち態度をかえ、事実調査をした結果、その日自動車を襲った飛行機はないと言い出した。

 現地海軍からの報告として、海軍省係官の図上説明によると、当日当刻、上海・南京聞の上空に遊撃したわが海軍機はあるにはあったが、遊撃航路が事件の現場より外れており、 かつイギリス国旗掲揚の自動車を襲った覚えなしというのである。

(中略)

 
そのうちに、海軍も次第に反省して、ようやく加害機は日本機であったらしいとの結論に達し、これにもとづいて、 広田大臣から遺憾表示の回答をイギリス大使に送り、約一か月で問題は解決された。海軍説得にこれ努めた堀内次官と、堅忍事に処したクレーギー大使の合作であった。

(P317-P318)




2−4  八月三十日の爆撃


最後に、八月三十日のアメリカ汽船爆撃です。これは「フーバー号事件」として知られますが、誰が見てもはっきりとした「誤爆」であり、 中国側はただちに事実を認めて謝罪を行っています。


『東京朝日新聞』昭和十二年八月三十一日

米汽船フーヴア号に 支那機・爆弾を投下 船体に大穴・七名負傷

上海三十日発同盟】 支那軍飛行機一機は三十日午後五時頃呉淞港外仮泊中のダラー汽船プレジデント・フーヴア号に爆弾を投下、一弾は船体に命中した。

上海三十日発同盟】 ダラー汽船会社上海支店に到着した情報によればフーヴア号の損害は船員五名負傷内二名重傷船客二名負傷した。右負傷者は直にイギリス艦隊旗艦カンバーランド号に移して手当を加へた。 同船は呉淞港外二十里の附近に仮泊してゐたもので爆撃のため船体には直径二十五呎(フィート)の大穴が開いたが航行には差支なく同船は会社の命により直に神戸に向け出帆した


南京政府、暴挙を認む 「日本運送船と誤認」

【南京三十日発同盟】  南京政府は、フーヴア号の爆撃事件に関し調査の結果「右は支那軍用機が日本運送船と誤認しフーブア号に爆撃を加へたものである」旨を承認し その趣旨を非公式に発表し更に午後十一時声明を発表しフーヴア号事件に対して国民政府は全責任を負ひ十分なる弁償を為すべき旨を明かにした

(二面、右上トップ、五段見出し)


 日本軍も、こののち南京戦の最中に、「パナイ号事件」という「誤爆事件」を引き起こしています。後述の高崎隆二氏の見解にもある通り、この類の「誤爆事件」は、決して珍しいものではなかった、と言えるでしょう。



 以上をまとめます。

●「八月十四日」・・・日本軍艦を攻撃し、逃げる時に落した爆弾が国際租界に落下したもの。中国側は 、最初こそ「日本機の仕業」と発表したが、すぐに見解を訂正、「日本高射砲のため二名の操縦士が負傷し爆弾投下機に故障が出来その結果爆弾が堕ちて行つた」と発表。

●「八月十六日」・・・落下位置は「我軍艦○○(出雲)の直前日本郵船碼頭事務所及びその裏ブロードウエー」であり、軍艦を狙った爆弾が逸れた、と考えるのが妥当と思われる。

●「八月二十三日」・・・高空からの、精度の低い水平爆撃によるもの。目標物は判然としないが、 初めから国際租界を狙ったとまで決め付ける理由もない。なお日本側は爆弾の分析から中国機から落下したものと断定したが、中国側は当初「日本機の仕業」と発表、その後は事実確認ができなかったのか沈黙していた模様。

●「八月三十日」・・・フーバー号事件。明らかな誤爆で、中国側もただちに謝罪。 

 すなわち、カワカミが挙げる「中国空軍の爆撃」には、「誤爆」で説明がつかないような事例は存在しなかったものと見られます。


(2007.7.16)