資料:城外、農村部の住民


 南京占領以前には、下関、中華門外、江東門などに、「市街地」が存在しました。また、農村部(いわゆる「郷区」)は、戦前人口約15万人を数えます。これらは、「虐殺」の主舞台になっていた、と常々主張される地域です。

 前コンテンツでは、「安全区外の城内」に限定して、この地区の「残留住民」の資料を見ていきました。 このコンテンツでは、「南京戦史資料集」から、「城外」及び「農村部」の居住者の存在を示す資料を紹介します。なお、以下の資料は、 明らかに「南京市内」 (地図はこちらの「総合別資料」ー「地図」をご参照ください)と見られるものに限定しました。

 なお、この地域のうち「下関」については、宝塔街の七千人~二万人規模(諸説あり)の「難民キャンプ」の存在が有名ですので、省略します。 ここでは、ネットではほとんど取り上げられない資料を中心に、紹介を行いたいと思います。 


*念のためですが、中国側が主張する虐殺の範囲は、「郷区」を含む「南京市」です。板倉氏・秦氏といった日本の論者も概ねこれに従いますが、笠原氏などは、より広く、「南京市」に周辺県までを加えた「南京特別市」までを範囲として議論を展開しています。
少なくとも、地域を「南京城内」に限定する論者は皆無です。 詳しくは、「二十万都市で三十万虐殺?」をご覧下さい。

**余談ですが、「城外に残留住民は存在しない」と主張する方が、同時に「14000人あまりの捕虜の中から民間人約半数を釈放した」との趣旨の「幕府山事件 自衛発砲説」を支持する、という、ちぐはぐな議論を見かけることがあります。 「自衛発砲説」を支持するのであれば、この地区に7000人以上の「避難民」が存在したことは認めざるを得ない、と思うのですが・・・。(念のためですが、私は「自衛発砲説」を支持するものではありません)



 まず、「南京陥落」以前の、「住民との出会い」証言です。

初年兵の手記 「硝煙の合間にて」 

(歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵)


 十二月九日

  南京迄はもう地図を見ても二里とはなかった。 銃声も相当間近く激しく聞えた。 途中で命令がきたらしく二時間余り休憩があって、自分達は早速民家に入って焚火をした。

 アンペラを敷いてみんなは泥のようにごろごろ寝した。 敵の砲弾が民家の後のクリークを距てた畑に熾んに落ちた。しかしみんなは何事も知らぬげに睡っていた。

 午後になってようやく自分達の大隊の戦闘正面が定まって、又本道を引返し細い畦道伝いに行軍を続けた。

 畑にはネギがあったり、部落にはおどおどした土民が自分たちを見ていた。自分達はてんでにネギを取って夜食の汁に入れる事を考へていた。

(「南京戦史資料集Ⅰ」 P380)

 
前田吉彦少尉日記 

(歩兵第四十五聯隊第七中隊小隊長・歩兵少尉)


◇十二月十二日

 上河鎮の強攻は止むを得ないとすれば莫大な損害を覚悟せにやなるまい。 それよりはどうしても上河鎮東側水西門との間隙に突入して下関への突入の道を拓くに如かず。

  将士の決意面上に溢るるを見る。

  徳永上等兵の第二分隊を路上斥候として堤防を下り楊柳の部落から畦道伝いに東に向う。一面の水田、クリークの間に点々と如何にも南京近郊の情趣溢るる農家が続く。 不安気な土民の姿がチョロチョロと隠顕する。

(中略)

 敵弾の合間を科(ママ)って入口から飛び込む。うす暗い室内に何物かがうずくまっている。 近寄って見ると何と半盲の老婆が念仏でも謡しているのかブツブツと小声で何かつぶやいている。 「オー老太太」いやー婆さんか、敵サン真逆かこの同胞を撃ち殺す心算りじゃないだろうからもう暫くそこで我慢しとってくれと冗談を云い乍ら工事を覗く。

(「南京戦史資料集Ⅰ」 P350、P352)
 

 次は、「南京陥落」以降の資料です。

  中国側資料を見ると、日本軍の南京占領直後に、周辺部に残っていた住民が大量に「国際安全区」に異動した様子が見てとれます。 それでも、下関をはじめ、西南部の江東門・上河鎮方面に、一定数の住民あるいは避難民が残留していたようです。

歩兵第四十五聯隊第二中隊陣中日誌

竹下部隊橋口隊

十二月十四日

一、下関及獅子山砲台附近の敵を攻撃すへく午前八時炎帝巷出発北進す。大隊は聯隊の右第一線となり先つ炎帝巷東西の線に攻撃を準備せり。 中隊は上村小隊を大隊の右一線に、中隊主力は大隊予備隊となり第三中隊の後方を前進す。

 午前十時三十分頃下関南側附近に到着せは敵は既に敗退せり。敵の軍馬十数頭を捕獲せり。

 午後一時下関出発。上河鎮に向ひ前進、同地に露営、附近の警戒に任せり。

一、宿営地には二、三○○の避難民ありて、之が取締を厳にし、特に軍紀風紀の維持に勉む。

(「南京戦史資料集Ⅱ」 P389) 

 
牧原信夫日記 

(歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊・上等兵)


◇十二月二十七日

 午前六時起床、直に食事準備をなして食事を終え、午前八時野菜徴発に出る。四方伍長引率なり。漢中門を通過し揚子江方面に向かう。

 漢中門を出た所には五、六百の死体が真黒に焼かれて折重って居た。或は黄い皮が到る所むけ見苦しい状態で散乱して居た。大きな橋を通過し更に進む。道の到る所には遺棄死体が転って居た。

 約一里半の所迄前進する。当部落は避難民が多く集って居た(大多数は老人や子供である)。或る家に行き連れて来た支那苦力に実演さした。

 次昼食を準備すた所(家)には丁度日本に四年程行商して居た支那人が居て何かと思出話をやる。 大変面白かった。

 午後一時出発する途中、友軍の射撃を受け四、五発は大変危険な弾がやって来た。此地で白菜の徴発をやり三車輌に満載して四時二十分宿舎に到着す。

(「南京戦史資料集Ⅰ」 P408~P409) 
 

 なお、「南京市人口40-50万、南京特別市人口150万以上」を主張する笠原氏は、「農村部」の状況について、このようなイメージを持っています。

笠原十九司氏「南京難民区の百日」より

  農民にはまもるべき土地と家があった。それについで大切な財産であった馬、牛、ラバ、ロバなどの役畜、そして食料源でもあった豚、山羊、羊、鶏、アヒルなどの家畜も飼っていた。 家を何日も空けるような遠くへの避難は、とてもできなかったのである。したがって、南京市内からやや離れた農村地帯では、多くの農民がそのまま生活していた。

 農村では、日本軍が来ると、家を守るために老人を留守番役でのこし、街道から奥の山野に逃げこんで、部隊の通過を待つというのが、一般的であった。 そのため、留守番役で残っていた老人や逃げ損ねた農民、逃げる途中を見つかった村民、山中や田畑に隠れていたところを発見された住民、すべてが日本兵の殲滅の対象にされる危険があった。

 それぞれの村落が孤立して散在した農村地帯では、日本軍襲来の情報が迅速に伝わらなかったことや、すばやく遠くへ避難していく交通手段もなかったため、日本軍が接近してからあわてて近くの山野や田畑、あるいは冬枯れの川・沼に逃げこんで、軍隊が通過するまで避難するというケースがほとんどだった。

(「南京難民区の百日」 P85)

(2003.6.21)   


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