ラーベが報告する「犠牲者数」


 ラーベ日記については、例えば秦氏のこのような評価があります。

                         
南京大虐殺「ラーベ効果」を測定する

 それはラーベとともに残留した二十五人の委員たち―主力は米国人宣教師だが―にもあてはまる。あえて言えば、中国の風土と人々への愛着と同情、宗教的信念、反骨精神などがミックスしたものだろう。 しかし、無償の人道的支援が主軸だっことを、われわれはこのラーベ日記を読むことで否応なしに納得させられたと思う。

 シンドラーとは比較にならぬほどの義人―それが私の率直な感想だが、その当否は別として行間から伝わってくる存在感と迫力に圧倒される思いを抱いた人は少なくないはずだ。

(秦郁彦氏「現代史の争点」P10)


 ラーベがヒューマンな立場から南京の中国人の救済に立ち回っていたことは、実際にこの「日記」を読んだ方であれば、誤解のしようがない事実です。

 しかし若干の本には、「南京虐殺」を否定したいがあまり、このラーベを、人格的にむりやりに貶めようとする記述が存在します。その一例をあげましょう。

再審「南京大虐殺」  「ラーベ犠牲者五〜六万人説のからくり」より

 ところが、ただの一件も殺人事件を目撃していないラーベが当時、本国のヒトラーに対しては犠牲者数を「五万から六万」、上海のドイツ大使館には 「数千」と報告しておきながら、同時期の一月二十八日付の南京のイギリス大使館宛手紙には「南京の二十五万難民のうちほとんどが、南京市内と近郊で起きた放火のために家を失いました。 そして、一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が数千と言わないまでも、数百とあります。」と書いている。

 一九九七年にラーベの日記が大々的に刊行され、二○○○年には映画化もされるが、報告する相手によって犠牲者数を大きく変えているラーベの証言にどれほどの信頼がおけるだろうか。

(P54)


 念のため、ここでいうラーベの「報告」を、それぞれ確認しておきましょう。




まず、「数百」から。

国際委員会第二十六号文書(Z46) 

1938年1月28日

南京イギリス大使館 H・ブリドー=ブリュン殿

 拝啓

 あなたは南京に住んでおられますから、安全区成立のいきさつ及びそれに伴う難民救済事業をよくご存知です。この問題、つまり救済事業について特に申し述べたいと思います。

 南京の二五万難民のうちほとんどが、南京市内と近郊で起きた広域にわたる放火のために家を失いました。そして、 一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が幾千と言わないまでも、数百とあります。

 
結局、あなたがよくご存知のように、市民社会の正常な経済生活はことごとく破壊されてしまいました。 そのため資材が尽きてしまった者が多く、安全区に持ち込んで来たわずかばかりの金や食糧も今や底をついてしまいました。

(中略)

 英国からの援助をうけるに際し、あなたの御助力をお願いいたします。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P148〜P149)


 一見してわかる通り、これは、「犠牲者数」の報告ではありません。「一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族」の数です。「敗残兵狩り」における「一般市民の誤認殺害」、あるいは「強制徴用」が、ラーベの頭にあったものと思われます。

 なおこの数字は、「金陵女子大学」の避難民からの報告に基づくものであるようです。 コンテンツ「資料:「国際委員会文書」の告発」より、「1 日本軍による連行」を参考にして下さい。




従って、「被害者数」がまともに文中に見えるのは、次の二資料になります。

シーメンス中国本社上海取締役会宛、発信者―ラーベ

1938年1月14日付


W・マイアー社長の書簡(一九三八年一月三日付)にたいする返事

(略) 

 しかし、私たちにとっての真の危機は爆撃の後、つまり日本軍による南京陥落後に始まりました。日本軍当局は見たところ、部隊の統率力を失っているようです。日本兵部隊は数週間にわたり略奪を繰り返し、およそ二万人の婦女子を強姦し、 何千人もの罪なき市民(発電所の職員四三人を含む)を無残に殺害したうえ(機銃掃射による大量殺害も人道的な処刑とされていたようです)、外国人の家屋もお構いなしに侵入しました。

(中略)

 以上のような次第ですので、難民区委員会が解散するまでの間、私がここにとどまることをお許し下さい。遅ればせながらお願い申し上げます。わずかとはいえ、ヨーロッパ人が個々に残るか否かは、大勢の人の禍福を左右します。

(以下略)

(「ドイツ外交官の見た南京事件」P96〜P97)

※「ゆう」注 「再審 南京大虐殺」の「上海のドイツ大使館」への報告、との表現は、上記の通り、「シーメンス中国本社 W・マイヤー社長」への書簡の誤りであると思われます。


ヒトラーへの上申書 

1938年6月8日


 中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。 遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。

(「南京の真実」 文庫版 P362)


 「日付」にご注目ください。

 「南京陥落」1か月後の「一月十四日」には、ラーベは、犠牲者数を「何千人」と認識していました。しかし、「陥落」から6か月が経った「六月八日」には、「中国側の申し立て」を始めとしたいろいろな情報が集まり、「五万から六万人」に、認識を変えました。

 それだけの話です。ラーベは、「相手によって」報告する数を変えたのではなく、その時々での認識を述べているだけ、と解釈するのが自然です。

 「報告する相手によって犠牲者数を大きく変えている」という記述が、いかに捻じ曲がった表現であるかは、言うまでもないでしょう。

(2003.1記)




2004.2.11追記 

 上と同趣旨の批判を、『週刊金曜日』2001.6.22号で、金子マーティン氏が行っていることに気がつきました(金子マーティン『外国でバラまかれる英語版南京虐殺「まぼろし」本!』)。関心のある方は、合わせてご覧下さい。



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