731部隊関係者への「インタビュー」
(ヒル・レポートより)


 「ヒル・レポート」は、前書き・見出し的な「総論」と、各研究者への69ページにわたる「インタビュー記録」などが一体となったものです。内容の面からも、分量からも、「インタビュー記録」の方がむしろレポートのメインコンテンツである、と言えるでしょう。

 しかしこの「インタビュー記録」は、一般にはほとんど知られていません。邦訳を目にする機会はほとんどなく、ネットでも全く紹介されていない状況です。そのため、「ヒル・レポート」=「総論」という誤ったイメージが随分と広がっているようにも思います。

 さすがに全訳は私の手に余りますので、ここでは「見出し」のみを並べ(見出しは「ゆう」の訳によります)、概説書などで邦訳もしくは内容紹介がある場合はその部分を引用しました(項目の全訳あるいは部分訳)。なお全文(英文)は、近藤昭二編『731部隊・細菌戦資料集成(CD−ROM版)』Disk6に収録されています。

 このように整理すると、多くの研究者が競うように人体実験などに基づく「実験成果」を米軍側に提供していた様子がよくわかり、興味深いものがあります。

 なお731部隊は、終戦時に石井の命令で各種書類などの「証拠隠滅」を行いました。そのため、ほとんどのインタビューは「記憶」に頼るものです(笠原博士のみ記録を所持)。細かい実験データがどこまで正確かはわかりませんが、少なくとも部隊で大量の「人体実験」が行われていたことは、疑いようがありません。
※余談ですが、フェル・レポートのヒアリング記録のタイトルが"interrogation"(尋問)となっているのに対して、ヒルのヒアリング記録のタイトルは"interview"です。ヒル調査の段階では、部隊関係者はもう完全に自発的に口を開くようになった、という事情が、背景としてあるのかもしれません。



 エアゾール (高橋博士へのインタビュー 1947.11.20)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○高橋正彦 第一部五課の班長

 高橋博士への訊問 一九四七年十一月二十日

  主題「エアゾール」

 人体実験のために使われた八角形の部屋は二八立方メートルあった。

 エアゾール発生のために昆虫用スプレーが用いられた。或る場合は噴霧器が部屋の中に設置されたが、操作は外から行なった。また、噴霧器は外におき、エアゾールはゴムホースで部屋の中に入れた。

 噴霧の率は、バクテリア懸濁液一秒約一立方センチであった。人体実験のためにバクテリア懸濁液を濃化したもの二つを一立方センチ一ミリグラムと、一立方センチ一〇〇ミリグラムを使用した。部屋には外部に向け、風穴が開いており、部屋の中の圧力は実験中一定であった。

 人体が部屋に入れられ、バクテリアのエアゾールが上述の方法で入れられた。エアゾールにさらす時間は、微生物が部屋の中でゼロ濃化から均衡濃化の状態になるのに必要な時間以内とされた。このさらす時間は変化し、通常十秒以上であった。

 エアゾールの濃化は、試験物体の回りの部屋の床の上に、寒天のプレートをさらすことにより決定された。プレートは定温培養され、コロニー(培養上の細菌個体の集落)の計算が行なわれた。高橋博士によれば、これら微生物の数の僅か半分か三分の一しか測定されなかった。空気中に定着した大きな粒子だけがこのプレートに拾われ周囲をとりまいていた。小さな粒子は発見することは出来なかった。(略)

 次の実験はエアゾールにさらした部屋で行なわれた。

  ペスト 四実験  各々四−五実験物体 (P232)
  炭疽 十実験  各々この内二物体だけ病気が進行した
  チフス 一実験  二人体 
 天然痘  一実験  一−二人体 
 鼻疽  五−六実験   
 結核  一−二実験   
 赤痢  二−三実験   
 ブルセラ病  二−三実験   各々一−二実験物体
 ガス壊疽  二−三実験   各々一−二実験物体
  コレラ 二−三実験   各々一−二実験物体
 孫呉熱  二−三実験   各々一−二実験物体














(P233)

(「ゆう」注 この項、前書き的な3行を除き、ほぼ全訳)




 炭疽 (太田澄博士へのインタビュー 1947.11.24)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○太田澄

 太田澄への訊問 一九四七年十一月二十四日


 主題 「炭疽」

 十年以上前、満鉄の実験室で実験が行なわれた。場所は奉天。菌株が家畜及び汚染された土壌から採取された。最も有毒な菌株が分離され、テンジクネズミ、ハツカネズミなどの体内を通して毒性が増強された。未完成のコロニーが最も毒性が強かった。

  (培養媒体省略)

 奉天における実験。

 <投与量>  <注射箇所>  <感染数>  <死亡数>   
  一(ミリグラム) 耳  0/3     
  一 耳  0/3     
  一 皮膚に塗る  0/3     
  〇.一 皮膚に塗る  3/3     
  〇.二 皮膚、皮下注射 3/3    
  〇.五 皮膚、皮下注射  3/3     
  一.〇 皮膚、皮下注射  3/3     
  五.〇 皮膚、皮下注射  3/3  1/3   
  五〇.〇  経口  1/10  1/10   
  一〇〇.〇 経口 2/10 2/10  
  二〇〇.〇  経口  30/30  30/30   膓蜂巣炎
 一.〇−二五.〇  吸入  0/4  0/4   
   五〇 吸入 1/1  1/1   膓蜂巣炎
  実験室内偶発感染 一〇例 全員死亡      
 爆弾実験 一〇人体及び他に動物 四実験       

(「ゆう」注 この項、「培養媒体」を除き、ほぼ全訳)




 ボツリヌス (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)


 M(人間)への実験は、2日培養された菌を与えられた5人の被験者に対して実施された。被験者のうち2人は死亡した(以上、「ゆう」試訳 翻訳にはあまり自信がないので参考程度としてください(以下同様)。

※「ゆう」注 石井は部隊長として「総監督」の立場であり、個々の実験の詳細までは承知していない。以下、いくつかの実験について語っているが、いずれも、他の研究者のように詳細な実験データを提供するのではなく、「これこれの実験で何人が死亡した」程度の短文になっている。




 ブルセラ (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)

 ブルセラ (早川清博士へのインタビュー 1947.11.17)

 ブルセラ (山之内裕次郎博士へのインタビュー 1947.11.25)

 (毒ガス)除染 (津山義文博士へのインタビュー 1947.11.29)

 赤痢に関するレポート
 (増田知貞による情報、東京にて 1947.10.29)

 志賀赤痢 (田部井博士へのインタビュー 1947.11.24)
※4〜9 邦訳なし



10  サルモネラ、赤痢、腸チフス (小島三郎博士へのインタビュー
 国立予防衛生研究所の副所長 1947.11.18)

常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 小島三郎

 小島は、一九四七年一一月一八日にヒルとヴィクターの尋問を受けている。当時予研の副所長となっていた。尋問の記録は「サルモネラ、赤痢、腸チフス」という表題でまとめられている。そこではハルビンの石井部隊との関連について次のように記述されている。[ ]内は常石による注である。

  

 小島博士はこれら疾患の生物戦(BW)の側面についてはほとんどなんの経験もない。

 ……感染力は人体を通しても増強されない。……人間がこれらの病原体に感染するのは 経口的に与えられた場合だけである。彼はこれらの生きた菌を人体に注射してもその箇所に反応が出るだけであると聞いている

   
 (略)(「ゆう」注 「略」部分は、「動物実験」についての記述)

 ワクチン

 大きな部落の住民をふたつのグループに分けて実験が行われた。ひとつのグループには腸チフス、パラチフス、それに赤痢のワクチンを与えた。もうひとつのグループは対照群とした。腸チフスとパラチフスについては対照群でより頻繁に自然感染が見られた。しかし赤痢の場合はグループによる差は見られなかった。
(P263-P264)

 人体実験

 小島博士自身は人体実験をしてはいないが、そうした実験が行われていたことを確信している。彼は人体実験が企画されたのは各種のワクチンの研究のためだと信じている。

(略)

 ワクチン開発の重要な要素は菌株の選定である。適切な株によって初めてワクチンは効果を発揮する。
[赤痢ワクチンの]効果的な株は五八番株(Boxhill)および新しい株のS型である。他方以前の株およびRowling株は有効ではなかった。

 これらワクチンはすべて注射によって接種された。以前使用されていた経口ワクチン
[赤痢予防錠]は効果がなかったので使用が中止された。



 この記録の矛盾点は、小島が人体実験は「ワクチンの研究のため」としながら、「生きた菌を人体に注射してもその箇所に反応が出るだけ」としていることである。これは、ワクチン接種による副作用としての皮膚反応を述べたものととれないこともないが、文脈からして石井機関での生物戦の研究に関して述べたものである。

 菌が傷口から体内に入ってしまうということはあるが、注射で入れるというのは明らかに人体実験である。それも、どうしたら人間に病原体を植え付けることが可能かを見るための実験である。また人体を通しても感染力が増強されないことや、感染が経口的にしか起こらないことなどは、いずれも人体実験によって明確になる。(P264-P265)

 小島の供述から判断すると、石井機関では赤痢菌などの感染力を増強し、さらにそれを人体に直接接種することで、食物などと一緒に摂取する経口的な感染と比較してより少ない細菌の量で人に発病を起こすことができないかどうか、を実験していたようである。

 にもかかわらず小島は、人体実験は「ワクチンの研究のため」と説明している。これは彼が知らされていた人体実験が「攻撃」目的のものでなく、「防衛」目的のものであったことを強調するためだったと推測できる。こうした食い違いに寛容なレポートは、データが入手できればそれで十分というアメリカの調査担当者の姿勢を反映したものであろう。

 「ワクチン」で、小島が二つのグループに分けて実験したというのは、一方にワクチンを投与し、他方には投与せずに比較の対象として(対照群と呼ぶ)ワクチンの効果を測定するものである。その結果、グループによって感染・発病に違いがなければ、そのワクチンは効かないということとなる。

 小島が述べているところでは、赤痢ワクチンはグループ間で発病に差がなく、効き目がなかった。一方、腸チフス、パラチフスのワクチンは、接種したグループで患者の発生が少なく、効果があったことになる。

 小島は石井部隊での人体実験はワクチン開発のためだったとしているが、それは開発を促進するためには人体実験が有効であるという意味が込められていた。ワクチン開発は通常、菌株の選定、新開発のワクチンの副作用や効力の判定などで、何段階かの動物実験を経て、最終段階で人体実験を行う。(P265)





11  ガス壊疽 (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)


常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 石井機関でのガス壊疽の研究について、石井はヒルたちに対して次のように述べている。


 二日間培養した菌を一・〇〜五・〇ccを皮下注射すると、一目で皮下に気腫が広がる。気腫が身体の半分をおおうと死んでしまう、通常二〜三日である。(P277)

(略)

 「ハ」爆弾による爆発試験はそれぞれ五〜六人に対して二回行われ、全員が感染した。細谷博士が調製した瓦斯壊疽のトキソイドによる免疫試験は一〇人について行われ、半数に免疫を作ることができた。

 解剖は実験で死亡した全員について実施した。(P278)






12  毒素、ガス壊疽、破傷風、志賀赤痢
 (細谷省吾博士へのインタビュー 1947.11.18)



13  インフルエンザ (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)


吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○石井四郎

 石井四郎への訊問 一九四七年十一月二十二日


インフルエンザ

 米国よりとったインフルエンザ・ウイルス(種不明)がマウスとケナガイタチを通じて保存された。

<人体による感染実験>

 二人ずつのグループにわかれて六つの実験が行なわれた。ケナガイタチ(「ゆう」注 原文「フェレット」)の肺からとった菌を使用。

 一、皮下注射。二、腹膜注射。三、吸入。四、鼻の点滴注入。五、咽頭の薬塗り。

 (結果)

 三人が短時間の発熱、約二−三日間三十八度に上る。(P231)




14  髄膜炎 (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○石井四郎

 石井四郎への訊問 一九四七年十一月二十二日

 髄膜炎菌

 各五人に人体実験。

 一、皮下注射。二、腹膜内注射。三、髄腔内注射。四、咽頭に薬塗り。五、吸入。六、鼻の点滴注入。七、肺に注射。

 髄腔内注射の五人は全員感染し、死亡した。他は感染せず。(P231)





15  ムチン(粘素)に関するレポート
 (ウエダカツマサ博士へのインタビュー 1947.11.3)

16  ムチン (ウエダカツマサ博士へのインタビュー 1947.11.4)

17  パラチフス (田部井博士へのインタビュー 1947.11.24)



18  (岡本耕造へのインタビュー 1947.11.22)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○岡本耕造

 岡本耕造への訊問 一九四七年十一月二十二日
(P235)

 岡本は一九三八−一九四五年の間、ハルビンにいた病理学者であった。彼の行なった実験リストは次の通り。

 <病名>  <件数>  <実験方法>
  ペスト 五〇  注射 
 チフス   八  口経五件、注射三件 
 赤痢  二〇  口経 
 コレラ  五〇  注射、口経 
 その他  二〇   
(P235)





19  植物の病気 (八木沢行正へのインタビュー 1947.11.15)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 八木沢行正への訊問 一九四七年十一月十五日

 主題 「植物菌」

 
八木沢への訊問はキャンプ・デトリックのノーマン博士の質問に基づいて行なわれた。

一、日本の生物戦研究所で植物菌を担当するスタッフは、僅か二名の専門家しかいなかった。八木沢は十年間部長を務め、浜田は二年勤務した。助手の役をするスタッフは十名に過ぎなかった。

二、植物菌伝播を目標とする地域は、シベリアと太平洋北西岸

三、過去の経験で大規模開発のために選ばれたのは、穀物生育上、大きな障害となる植物菌だけであった。

四、黒穂病が満州、シベリアの小麦栽培に有害ということで選ばれた。満州の小麦栽培の三分の一が黒穂病に感染している。オレゴン西部とケブラスカがその気候から見て黒穂病攻撃の適地と考えられた。

 アメリカの小麦の多種が試験のために植えられ、実験的に黒穂病を感染させた。マーキーズ種はほとんど完全に感染しなかったが、コラ種は特に感染しやすかった。攻撃用の菌は、満州と中国占領地の製粉工場から副産物として集められることになった。八木沢によれば、黒穂病菌の収集は、大量の実験材料として役に立っただけでなく、この地域の病菌抑制にも有益であった。

 小麦、ライ麦のネマトシスが男穂病菌として選ばれた。この菌は満州に多く、小麦畑の約八〇%が感染している。この病気は元々約十五年前、カナダから日本に送られた鳥の餌の中に感染していたものだが、感染防止は効果的に行なわれた。満州で広く分布したため、かなりの大量の菌が製粉の過程で副産物として集められた。(P236-P237)

 八木沢はこの病気に強い関心を持ち、菌を集めるため、ネマトシスで畑を汚染するのが得策だと考えた。約五〇〇トンの菌が畑から採取出来た。二五〇〇トンの小麦が犠牲となった。生物戦のために推奨された接種源は、一エーカー当り五キロで、このため小麦畑は一〇〇%駄目になる。(略)(P237)





20  孫呉流行性出血熱
 (笠原四郎と北野政次へのインタビュー 1947.11.13)


シェルダン・H・ハリス『死の工場』

 たとえば笠原四郎と北野政次によって書かれた孫呉熟に関する報告書には、研究で人体が使用されたことが非常に率直に書かれている。その報告書には、「次の事例は、伝染病の進行の様々な段階で人体から取り出した肝臓、脾臓、腎臓から抽出した血液で得られたものである。モルヒネがこのために使用された」と書かれている。(P307-P308)

 また、笠原と北野は、次のようにも記している。


 発熱した男性から採血した血液を……馬に注射した。潜伏期の後……一五実例の実験のうち六事例において五日から七日間続く発熱症状が現れた。発熱した馬から採った血液を別の馬に注射すると、二馬に一馬の割合で良い結果が得られた。逆に、発熱した馬から採った血液を人体に注射すると、八人のうち二人が発熱した

 


 また、「自然の孫呉熱が最初に発見された時は、孫呉熱による日本兵の死亡率は三〇パーセントであった……しかしながら、実験での死亡率は一〇〇パーセントで、被験者は犠牲となる」と分析結果を結んでいる。(P308)

※「ゆう」注  「ヒル・レポート」本文に「笠原博士は、孫呉熱の実験をした三つの主題の温度表とそれに関連する臨床データの記録を所有していた」とある通り、記録には、標本1、2、4についての、日別の体温の推移表が添付されています。


常石敬一『七三一部隊』

 最初の人はダニ二百三匹を磨り潰して作った食塩水乳剤二CCを皮下注射された。そして北野が論文で書いているように、注射から十九日目に発病が確認された。この人は発病八日目、まだ熱が三十九・四度ある時に採血された。

 その血液十CCが二番目の人に皮下注射された。この人は注射から十二日目に熱が三十八度となり、発病が確認された。翌日採血され、そのうち五CCが第三の人に皮下注射された。また同じ血液は二十日鼠と猿にも接種された。(P117-P118)

 二番目の人は発病七日目、熱が平熱に戻った時、モルヒネを打たれ、生きたまま解剖された。一番目と三番目の人の運命は分からない。

 四番目の人は、二番目の人の血液を注射された二十日鼠の肝臓、肺臓、および腎臓の十パーセント食塩水乳剤五CCを皮下注射された。注射から十七日目の午後、熱が四十度まで上がり、発病が確認された。この人も発病六日目の平熱に戻った時にモルヒネを打たれ、生きたまま解剖された

 北野らは、これらの「実験」で次のようなことが分かったと、アメリカ軍調査官に述べている。

「人間の血液および臓器で感染力があるのは有熱期に採取されたものだけ」であり、「体温の急激な下降に続く自然死の場合の解剖では臓器に組織上ひどい病変が見られるが、これら肝臓および脾臓から抽出したエキスには感染力はない」。

 死亡率は「発見当初は三十パーセントだった。死亡率を十五パーセントまで下げることができた。しかし実験感染患者の場合、解剖したため、死亡率は百パーセントである」(P118)

※「ゆう」注 直訳ではなく、インタビューと図表をミックスして、その内容をおおまかにまとめたもの。常石氏が取り上げた北野らの論文「流行性出血熱の病原体の決定」と同じ実験。ただしこちらでは被験者は「猿」ということになっている。




21  孫呉流行性出血熱
 (石川太刀雄博士(金沢)へのインタビュー 1947.11.7)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 ここで流行性出血熱関係の訊問書の中で、あえて石川のレポートを記すことにする。理由は、北野や笠原のレポートの中で、明らかに人体に対して行なったと思われる実験を、猿などとしてあるのに比べ、石川のレポートはM(MANの略と思われる)と明記されているからである。
※「ゆう」注 この書き方だと北野・笠原レポート中に「人体実験」の記述がないように誤解するが、実際には、常石氏の紹介の通り、四人の人(man)に対して実験を行っている。「二人の男は極めて協力的で存分に情報を与えた。人体実験(human experiments)の詳細を認める前には、わずかなためらいが現われていた」「他の流行は1941年に、三番目は1942年に出現した。1942年の■に人体実験がスタートした。すべての■は石川に送られた」(「ゆう」訳。■は判読困難な箇所)など、「人体実験」の語も登場する。

 石川太刀雄への訊問 一九四七年一一月七日

 主題 「流行性出血熱」

 序論

 石川は一九三九年か四〇年に、満州国東北のソンゴで行われた剖検からの腎臓と脾臓の標本を受け取った。腎臓の髄質集尿管間の間質に広範囲な出血があることなどから、石川はウイルス性疾患であると判断した。そこで笠原四郎博士の指示により研究班が組織された。

 Mへの直接接種により、潜伏期間は十日から十三日であることが判明した。この時、三九度から四○度の発熱、頭痛、発赤、幻覚が出現。発熱の第一波は四−六日で鎮静、その後接種十六−十七日でまた発熱する。(P238)

 白血球は三万から十万に増多。脈拍は一分間に一二〇。重症の蛋白尿症、血尿あるいは乏尿、注射個所は出血、血液トロンビンは低く、通常ワッセルマン反応はプラスである。致死率は三〇%。肝機能は衰える。(略)


 病理

 広汎性の出血が全臓器組織に出現するが、ユニークな出血分布が腎臓の体質にだけ起こることが認められた。腎炎は著明な特徴である。肝臓は局所的な壊死、出血。石川によれば、脳下垂体の時々壊死を伴う出血が必ず発現するとのことである。(略)(P238)





22  天然痘 (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)


吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○石井四郎

 石井四郎への訊問 一九四七年十一月二十二日


天然痘

 M(人の意味)の実験。

 天然痘ウイルスは、自然の形で満州で採取された。十人の被験者が紙袋より乾いたウイルスを吸った。全員病気になり、身体が腫れ出血し、四人が死亡した。(P231)





23  破傷風 (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

○石井四郎

 石井四郎への訊問 一九四七年十一月二十二日


破傷風

 バクテリア〇・一〜二CCを二人に実験。免疫者と非免疫者との比較をする。

 ホソヤの変性毒素で免疫を行なう。全てのケースで効果あり。血清療法が行なわれ、五〇ケース全部に効果があった。抗血清には、一CCに二〇〇〇〜一万単位を含む。吸入、口経の実験なし。(P231)



常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 一九四七年二月二五日、ヒルとヴィクタ一に対して石光薫は次のように述べている。石光は東大医学部出身の石井部隊の陸軍技師で、米軍の文書では博士の肩書が付けられている。

 「四八時間培養された破傷風薗一・〇CCを、細谷の方法で準備された破傷風明礬(みょうばん)トキソイドを投与された二人と、投与していない二人に接種して比較した(予防接種を受けていない二人は、三〇時間後と三八時間後に死亡)」。

 その数日前の一一月二二日付のレポートでは、石井が破傷風の「人間についての実験は、毎回二人ずつ約一〇回行われ……。免疫を与えたグループとそうでないグループの対照試験をした。免疫は細谷博士の破傷風トキソイドを用いたが、すべてのケースについて有効だった」ことを明らかにしている。(P269-P270)





24  破傷風 (石光薫へのインタビュー 1947.11.25)

常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 一九四七年二月二五日、ヒルとヴィクタ一に対して石光薫は次のように述べている。石光は東大医学部出身の石井部隊の陸軍技師で、米軍の文書では博士の肩書が付けられている。

 「四八時間培養された破傷風薗一・〇CCを、細谷の方法で準備された破傷風明礬(みょうばん)トキソイドを投与された二人と、投与していない二人に接種して比較した(予防接種を受けていない二人は、三〇時間後と三八時間後に死亡)」。(P269)



常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 石井たちがヒルとヴィクターに述べているのは、細谷のトキソイドが効いたという話である。しかしそれでも、効くかどうかを確認するために、一回の実験で二人が殺され、合計二〇人程度が犠牲となっている

 これは手っとり早く、かつ確実に効果を測定するために、トキソイドの接種を受けた人と、そうした予防措置を受けていない対照群と呼ばれる人の、両方について調べたためである。その結果、石光が述べるように接種を受けた人は破傷風にならず、対照群の二人は破傷風となり二日以内で死亡している。(P275-P276)




25  ダニ脳炎 (笠原ユキオ(四郎?)と北野政次提供の情報)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

笠原四郎、北野政次への訊問

 主題 「ダニ脳炎」

 一九四三年五月、満州国バタンコ(地区の)材木伐採人が発熱し、麻痺になる病気にかかる。五月−六月最もまん延する。死亡率は五〇%。四〇八のダニと正常な人間からサンプルを集めた。(青字は「ゆう」の補足)

 伝播実験

 人脳一○%の懸濁液一CCが二匹の猿に注射された。約七日の培養期間の後、熱が現れ、四〇度まで上がる。一匹の猿は回復したが、もう一匹は熱が十二日続き、おさまる。麻痺状態は進む。一匹を解剖に付し、非化膿の脳脊髄炎を発見した。高熱時の血液を抜いて伝播すると、連続して病気が発生した。しかし、その感染性は低下し、四番目の伝播からは消滅した。(P238-P239)

 人脳から猿に伝播 第一回目 + +
    猿から第一回目      +  -
         二回目       +  -
         三回目       +  -
         四回目       +  -

 四〇八のダニの五−七日培養した乳濁液を五匹のマウスに注射すると、発熱。二匹の表皮が乱れ弱くなる。一匹は発熱二日目に解剖、このマウスの脳乳濁液を七匹のマウスに注射した。その後、連続接種して伝播したが、セントルイス脳脊髄炎に似た症状を呈した。

 第二に伝播したマウスの脳懸濁液一CCを人間に注射、七日の培養期を経て病状がでる。最高体温三九・八度。この人体は十二日目に熱が納まったところで解剖された(原文sacrified=犠牲になった。下記ハリス本では単に「死亡した」と訳されている)

 第二の男は、同様のマウス脳乳濁液一CCを注射された。十日後同様の症状がでる。

(病状)

 第一段階で発熱する。熱がおさまると、首、顔、瞼、呼吸系筋肉に運動麻痺がおこる。舌、飲みこみの筋肉、身体下部には麻痺は認められない。回復後、麻痺が常態になる可能性あり。しかし笠原、北野共六か月以上続いたことを観察している。(P239)

 病的変化は頸管や脊髄に現われる。外傷が胸管、第七脊椎、視床、大脳、小脳に認められる。腹側の角質細胞が悪化する。血管周辺の細胞浸潤がある。浸潤試験チェンバレン、フィルターL2、L3で行なう。ウイルスは漿尿膜とひなの胎児で育つ。五つの胎児を通して伝播され、伝播の六日目に注射する。

 第五の胎児でマウスへの感染を成功させた。(P240)

(「ゆう」注 以下は略されている)


シェルダン・H・ハリス『死の工場』

 北野は多くの病気を扱ったが、そのうちのいくつかは外国産の病気で、ほかは普通のありふれた病気であった。

 彼の孫吾熟、ダニ脳炎、発疹チフスに関する研究成果は、特にアメリカ人に喜ばれた。いまでもアメリカ人たちは、人体にネズミの脳の懸濁液を注入した実験の結果などを含む、ダニ脳炎についてのデータを保管しているとみられる。

 北野の実験の実施要項によると、ある男は、「七日間の潜伏期間を経て、症状が出た。熱は最も高い時で三九・八度出た。この被験者は、熱が沈静化しつつあった約一二日目に死亡した」。別の男は「同様のネズミの脳の乳状液を鼻内注射で一・〇CC投与された。一〇日間の潜伏期間を経て、同じ症状が現れた」。その病気の顕在化は恐ろしいものだった……。(P127-P128)


 発熱が最初の変化である。熱が下がりはじめると、腕、首、顔、瞼、呼吸器系の運動筋肉の麻痺が起こる。感覚器官については重大な変化を見せない。舌、嚥下もしくは肢にいても麻痺は観察されない。回復後も麻痺は残る可能性がある……北野はそれを六か月以上も観察した。
(P128)

 





26  結核 (二木秀雄へのインタビュー 1947.11.15)

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

〇二木秀雄

 二木秀雄への訊問 一九四七年十一月十五日

 主題 「結核」


 Mへの実験記録

 静脈注射

(A) BCG(結核予防ワクチン)の各種投与が、ツベルクリンの反応+の人に対するヒト結核菌投与と比較された。投与量は各人につき一〇、一、〇・一、〇・〇一、〇・〇〇一ミリ(乾燥量)

(結果)

一、BCG注射した日から、二−三週間で発熱が始まり、最高四〇度となり約二か月続く。血液培養液は最初の三−四日は+となり、唾液は二−三週間で+となった。樟でみると肺の粟状結核の症状を呈した。患者は発熱の二か月後回復した。以上は〇・一−〇・〇〇一投与の結果であった。これ以下の者は全員回復した。

二、ヒト結核菌投与。他のグループと違う点は、全てに粟状結核が現れたこと。一〇ミリ、一ミリ投与の者は、一か月以内に死に至る。その他は重病となり少し命があるが、恐らく後に死亡したと思われる

 三か月後、実験中止。これらの被験者のその後は不明。

(結論)
一、+反応の者では、ヒト結核菌を静脈注射された場合、BCGよりずっと悪性の病状となる。(P242)

※青字は「ゆう」の補足。なおこのインタビュー全文は4ページと長大。ここでの要約はごく一部。


シェルダン・H・ハリス『死の工場』

 二木秀雄博士は、結核についての彼の実験に関して報告するなかで以下のように記している。

 カルメットバチルス(BCG)を扱った人体実験においては、「すべての実験体が回復をみた」が、ヒト型結核菌を扱った試験においては、「すべての投薬が粟粒結核症をひき起こし、一〇・〇ミリグラムおよび一・〇ミリグラム注射された被験者については一か月以内に死にいたり、他の者も重病になり前者より長くは生きたものの、後におそらく死んでいる」。(P126-P127)

 別の試験では、「〔薬剤の〕注入後直ちに熱を伴った激しい症状が現れ、その後一か月で死に至っている」。二木は、満州の子どもたちを使って実験し、陽性のツベルクリン効果を達成している。彼は、結核病原菌の「オリジナル・ストック」を「自然の状態」から採取した ー 「病毒性は、人体実験材料に感染させることで保存された」。

 二木秀雄博士の実験は、結核が細菌戦の戦略としては効果的なものでないだけに特にぞっとするものである。通常、結核は効いてくるのがゆっくりすぎて、細菌兵器に求められる効果的なインパクトを得ることができなかった。それゆえこれらの実験は、純粋に学問的な目的で、被験者たちの命を犠牲にして行われたと結論づけるのが合理的である。(P127)

 


常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 結核のワクチンBCGについては一一月一五日、金沢医大出身の石井部隊の陸軍技師で、医学博士の二木秀雄がヒルとヴィクタ一に石井部隊での実験として次のように述べていた。

BCG〇・〇四mgを満州の子供のわきの下に注射した。二〜三週間後ツベルクリン反応が陽転した」。この子供がその後どうなったかは分からない。

 二木の実験の特徴は少なくともふたつある。ひとつは実験に子供を使っていることである。第二はわきの下にBCGを接種したことである。

 子供が実験対象となったのは、大人は既に自然免疫を得ている場合が多く、実験に手間がかかるためと考えられる。つまり大人に対しては、ツベルクリン反応を調べて、陰性でなければ実験対象とはならない。大人の場合陽性者が多く、実験対象の絞り込みに時間がかかるのである。(P281)





27  ツラレミア(野兎病) (石井四郎博士へのインタビュー 1947.11.22)

シェルダン・H・ハリス『死の工場』

 石井は、いつものようにスターだった。彼は人体を使った彼の仕事についてインタビューを受けたが、その研究の内容はポツリヌス中毒症、ブルセラ症、ガス壊疽、馬鼻疽、インフルエンザ、髄膜炎菌感染症、ペスト、天然痘、破傷風、ツラレミアにまで及ぶものであった。

 彼の研究成果のうちいくつかは詳細なもので、タイプ打ちされた大部の報告書が出されている。別の報告には、以下のように短いものもあった −

ツラレミアに関する、Mにおける実験は、一〇名の被験者を使用して行われ、被験者に皮下注射で注入された。全員が熱を出し、それが六か月ほど続いた。死亡者は出なかった」。(P128)





28  腸チフス (田部井博士へのインタビュー 1947.11.24)

シェルダン・H・ハリス『死の工場』

 田部井和(かなう)博士は、一九三八年から一九四三年に彼が異動させられるまで、腸チフスの実験に従事した。

 その五年間に、彼はおそらく数百名の被験者を使って試験した。彼は被験者にさまざまに異なる系統と量の腸チフスの病原菌を注入した。腸チフス病原菌は、種類によって蔗糖と混合されたものもあれば、ミルクに混入されたものもあった。

 ある実験では、「二ケースについて被験者が死に至り、三名が自殺した」。別の実験では、



 ある被験者は、一〇ミリグラムの細菌と一〇グラムの土とが混合された鹿玉〔大粒の散弾〕爆弾の破裂にさらされた。鹿玉には溝があり、溝には細菌と土の混合物が詰められていた。

 爆弾は被験者の背後一メートルのところで爆発した。彼は、明確にこの実験で感染したことが明らかな腸チフス熟の症状を悪化させた。実験室内で更に感染が発生し、二人の日本人研究者が、死にはしなかったものの、満州人よりもずっと重い症状を見せた。

 田部井博士の印象によると、満州人は日本人よりも自然の抵抗力が強い。

(1947.11.24付インタビュー)(P127)

 




29  チフス (有田博士へのインタビュー 1947.11.20)


30  チフス (浜田豊博博士へのインタビュー 1947.11.28)


31  チフス (北野政次からの情報 1947.11.13)


32  チフス (作山元治博士へのインタビュー 1947.11.26)



(2016.10.10)


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