731部隊(掘  人体実験、これだけの根拠
 (3)部隊関係者の論文群


 さて次に、「人体実験」の存在を明瞭に示す部隊関係者の論文を取り上げましょう。

 部隊の「人体実験」の事実は、外部に対しては徹底的に秘匿されてきました。その「研究成果」を誇った部隊関係者の論文は、当然のことながら、「極秘」扱いです。

 さらにそのような論文の大半は、終戦時の「戦争犯罪」証拠湮滅作業の中でに廃棄処分されたものと考えられます。(残った論文のうち一部は米国に渡り、その後行方不明になったようです=後述

 本記事では、そんな中で辛うじて生き残った、何点かの論文を紹介していきます。




< 目 次 >


1 「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」

2 「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」

3 「凍傷ニ就テ」

4 「流行性出血熱の病原体の決定」


 付記 論文発見の経緯






1  「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」

 神田の古本屋から発見された二つの論文のうちの一つです。発見の経緯については、最後の「追記 論文発見の経緯」にまとめました。

 「きい」とは、最も強力な毒ガスのひとつとして知られている、びらん性ガス(イペリット、ルイサイト)を指します。イペリットガスは、からしに似た臭いがすることから、「マスタードガス」とも呼ばれます。日本軍の「きい」使用については、いくつかの記録で確認することができます「毒ガス戦機 屬い」は使用されたか」参照)

 この実験は、1940年9月7日から10日にかけて、「きい」が人体に与える効果を研究する目的で行われました。 松村氏自身による要約が最もわかりやすいので、こちらを紹介します。
※資料の全七章のうち、個別の症例の詳細を記録した三〜五章を除き、こちらに書き写しました。参考にどうぞ。

松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』

 資料1 「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」は、一九四〇年九月七日から一〇日にかけて実施されたイペリットガス弾を人体へ向けて発射した実験や、イペリットやルイサイトの水溶液を人間に飲ませた実験等五種類の実験結果をまとめたものである。

(略)

 毒ガスを人体に向けて発射した実験では、着衣、装面、場所など様々に異った条件の下に配置した三地域の人間に向けて、第一地域には、野砲に換算して一、八〇〇発のイペリット弾を、第二地域には三、二〇〇発を、第三地域には四、八〇〇発を発射し、発射後、四時間、一二時間、二四時間、二日、三日、五日後に、神経障害を含む一般症状、皮膚、眼部、呼吸器、消化器の症状を観察している。(P9-P10)

 三枚の地図が示すように、第一地域には五名、第二地域には六名、第三地域には五名の人間が配置され、「被検物」には各々三ケタの番号が付けられている。

 第一地域の二倍のイペリット弾を第二地域に、三倍を第三地域に発射し、人間に与える効果の差異を明らかにしようとしており、配置された一六名のうち一五名の「被検者ノ症状及其後ノ経過」が二〇頁にわたり詳述されている。

 このなかの一人(二六五号)は、九日に一度ガス弾を浴び、さらに一一日に「監視所内」に「無装面」で夜間六時間放置される(これを「持久効力試験」と称した)というように、二重に実験対象にされている。

 さらに五名がイペリットガスやルイサイトガスの水溶液を飲用させられ(「原水攻撃」と称した)、木炭または除砒剤を混ぜて除毒効果を調査した。この資料では、総数二〇名を対象に三〇例の実験を行なっている。(P10)

 実験場のあちこちに条件を変えて被験者を配置し、何千発もの「イペリット弾」を発射して、その効果を測定する。さらに毒ガス入りの水を飲ませる

 「きい」は、「びらん性」との名の通り、皮膚や呼吸器を激痛とともに爛れさせる、強力な毒ガスです。このような実験が被験者にどれだけの苦痛を与えたかは、容易に想像できます。

 この論文では被験者の生死は明記されていませんが、強力な毒ガスを浴びたり飲んだりして無事でいられるわけがなく、かなりの数が死亡したものと推定されます。「ヒル・レポート」(総論)にも「マスタードガス」標本16例が示されており、これは、この実験を含む一連の「毒ガス実験」の犠牲者であったものと考えられます。
※松村氏は、ヒル・レポートの「マスタードガス」標本16例を、この1940年9月実験から生じたものと断じています。私見ですが、毒ガス実験は1回だけではなかったと思われますので、そこまでの断定はできないように思います。

※※余談ですが、ネットには、「きい」ならば眼部がやられるはずなのにこのレポートにはそんな記述が全くない、などと頓珍漢なことを言い出すサイトも存在します。ライターは、実際にはこの論文を読んでいないのでしょう。念のため、資料のうち「眼部」部分を赤字にしておきました(笑)



 「1940年9月」とは別の実験であるようですが、「毒ガス人体実験」に関する証言はいくつか見かけます。例えば、毒ガス部隊「五一六部隊」の少佐の証言です。

五一六部隊少佐・技師(匿名)

 証人はインタビュー時ある国立大学の名誉教授だった。

 一八年ごろ、ハルビンの東にあった七三一部隊の実験場で毒ガス実験に立ち会った

 三メートル四方、高さ二メートルのガラス張りのガス室の中で中国人男性一人が目隠しされ、杭に後ろ手を縛られていた。ガス室内では、くしゃみガス(嘔吐性ガス)がもうもうと煙を上げ、男の人は激しくせき込み、昔しそうにもがいていた。周囲で七三一、五一六両部隊の軍医や技術将校十数人が見ていた。

 自分はいたたまれず一〇分間ぐらい見ただけで、その場を離れた。男性のその後は知らない。ここでは糜爛(びらん)性ガスのイペリットでも実験しているのだと聞かされた。(P269)

(ハル・ゴールド『証言・731部隊の真相』より)


 「毎日新聞」には、こんな証言も報道されました。

毎日新聞 1981年11月27日(金)夕刊

戦慄の人体実験 暴かれた旧陸軍の"アウシュビッツ"

(前略)

<実験 

 証言者=兵庫県在住、医学研究所長、A氏(六六)。七三一部隊出身、元薬剤少佐。(「ゆう」注 目黒正彦元薬剤少佐=731部隊大連支部製造担当)

 昭和十七年四月、七三一と五一六両部隊が、ソ連国境近くの都市、ハイラル郊外の草原で三日間、合同実験をした

 「丸太」と呼ばれた囚人約百人が使われ、四つのトーチカに一回二、三人ずつが入れられた。防毒マスクの将校が、液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾をトーチカに投げ、窒息性ガスのホスゲンをボンペから放射した。「丸太」にはあらかじめ、心臓の動きや脈拍を見るため体にコードをつけ、約五〇知イ譴心の上に置いた心電図の計器などで「死に至る体の変化」を記録した。

 死が確認されると将校たちは、毒ガス残留を調べる試験紙を手にトーチカに近づき、死体を引きずり出した。一回の実験で死ななかった者には、もう一回実験を繰り返し、全員を殺した。死体はすべて、近くに張ったテントの中で解剖した。

(以下略)

(三面、8段記事)




 また郡司陽子氏『【真相】石井細菌戦部隊』には、写真班員の証言が掲載されています。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

毒ガス実験の撮影は命がけだった

 部隊本部の東側に、航空班がおかれていた。その滑走路の端、五、六キロのところに、やや窪地になったところがあった。(P33-P34)

 この窪地のなかに、周囲をアンベラでかこまれた約一〇〇坪(三三〇平方米)ほどの、奇妙な空間があった。この空間は、まったく外部からは遮断され、近づくことは許されなかった。

 この奇妙な空間こそ、毒ガス研究部隊である、チチハルの関東軍第五一六部隊の秘密実験場だったのだ。この五一六部隊の毒ガス実験に、七三一部隊が全面的に協力していたことは、いうまでもない。

 わたしは、この毒ガス実験の記録撮影に、三回出かけた。他に別の写真班員が一回行っているので、計四回、毒ガス実験がここで行なわれたことになろうか。

 アンベラにかこまれた実験場には、観察と写真をとるため、ちょうど、公衆電話のボックスみたいな、ガラス張りの箱が置いてあった。その横に機械室みたいなものが、付属している。仕かけはよくはわからないが、ガスは機械室みたいなところから、ガラスのボックスに送りこまれるらしい。

 立会うのは、五一六部隊から、将校が三、四名と電気およびガスの専門家が三名ほど、それに「丸太」係の、七三一部隊特別班員が二名、そしてわたしである。

 「丸太」は、一回に一人ずつ、特別班員によってなかに連れてこられる。足かせをはめられ、後手に縛られて、ガラスのボックスのなかに立ったまま入れられる。(P34-P35)

 じっと息を殺したような重苦しい時間が流れる。やがて、ボックスのなかの「丸太」がまるでいねむりでもするように、次第に顔をうつむけていく。五分ぐらいたったろうか。「丸太」は、ひとつ大きな「あくび」のような息をして、ガクッとこうべを垂れる。絶命の瞬間だ。

 一回の実験で、四、五人の「丸太」をつぎつぎとこうして毒ガスで殺す

 カメラを構えているわたしの近くの壁に、小鳥(カナリヤだったか、十姉妹だったか)を入れた鳥籠がぶら下げてあった。よくみるとほかにも、二、三の鳥龍が同じようにかけてある。

 「これなんのためですか」と聞くと、五一六部隊の将校が、「籠のなかの鳥の様子に注意せよ」という。そして、小鳥の様子に異常をみとめたら逃げろ、と指示された。

 つまり、この実験で使用されたのは、無色無臭の窒息性毒ガスで、しかも、この実験設備では、毒ガスがもれる恐れがあるということなのだ。(P35)

※「ゆう」注 この毒ガスは「無色無臭の窒息性」とのことですので、「きい」ではなさそうです。

 以上の三証言は、いずれも異なる実験です。「きい」に限らず、この種の実験は度々行われていたようです。





 「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」


 こちらも、前項「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」と同じく、「神田の古本屋」から発見された資料です。

 全文はこちらに掲載しました(ただし図表を除く)が、こちらも松村氏の要約がわかりやすいので、紹介します。


松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』

 資料2 「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」は、破傷風毒素と芽胞を人間の足背部に接種し、発症時の筋肉の電位変化(「クロナキシー」)を測定した実験報告である。表紙には、診療部の永山中佐、池田少佐、荒木技師」の名前が記されている。対象とされた人間は一四名で、全員を死に至らしめている

 破傷風芽胞三CCを皮下注射された「九九一号」は一〇日余で死亡しているが、その間の経過を観察している。

 毒素接種のばあいは、体内に入って毒素を産生する芽胞よりも「経過極メテ電撃性ニシテ」、毒素一〇〇MLD(致死量の一〇〇倍)を接種された「六九一号」は、接種五日後に死亡したこと、毒素一〇MLDを接種された「五九五号」 は、七日後に死亡したことが付表で示されている。

 それ故、毒素一、〇〇〇MLDを接種された三名、毒素一〇〇MLDを接種された他の三名、また芽胞をより多い五CC接種された一名も死に至ったことは確実である。(P10)



 松村氏は、この被験者が「ヒル・レポート」の破傷風標本となった可能性にも言及しています。

松村高夫『細菌戦研究の問題性』

 また破傷風三二例のうち「適切な標本」一四例は、同じく八四年七月に公表された「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル『筋クロナキシー』ニ就テ」に記録されている被験者一四人である可能性が極めて大きい。(P211)

(『裁判と歴史学』所収)  


 なおネットには、これは人体実験ではなく、被験者は実は「馬」であった、などという突飛な主張を行っているサイトも存在します。この珍説については、「ネットで見かけたトンデモ議論(2) 「破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て」」で解説しましたので、併せてご覧ください。





 吉村寿人「凍傷ニ就テ」


 吉村寿人は、七三一部隊吉村班(凍傷研究)の班長でした。凍傷の治療には摂氏37度附近のお湯で暖めるのが最も効果的、という画期的な研究成果を挙げたことで知られます。

 この資料は、いったん米国に渡った後日本に返還され、現在は東京の国立公文書館に収められています。全文は、 『七三一部隊作成資料』で確認することができます。こちらに掲載しました)

 吉村班については本シリーズの「吉村班 「凍傷」の研究」で詳述していますので、こちらでは、松村氏の資料解説を引用するにとどめます。


松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』

 資料4「凍傷ニ就テ」は、吉村寿人による一九四一(昭和一六)年一〇月二六日の「第一五回満州医学会ハルビン支部特別講演」である。

 第五表が示すように過去何回か戦時に凍傷が発生したので、それをいかに防ぐかが寒冷地での戦闘では解決しなければならない課題であった。凍傷実験の目的もそこにある。

 この資料は、人体実験を行なったことを明瞭に示す数少ない資料の一つであるが、例えば実験五では、五名の「被検者」について「諸種ノ生活条件ヲ変へタル後ノ血管反応ノ状況ヲ観察シ」抗凍傷指数を算出している。この「生活条件」の「空腹供廚箸蓮崟篆3日後」であり、「睡眠不足」とは「一昼夜不眠」、水「浴後」とは「10℃水中ニ10分」等々である。

 実験六は、「苦力一〇一名ニツキ抗凍傷指数ヲ求メ」ている。実験一は、凍傷の発生をみるために塩水に手を入れさせ、その温度を下げていき中指に装置した「プレチスモグラフ」で、皮膚温度や指容積の変化を記録・撮影したものだが、零下二〇度まで下げている。(P16)



 なお余談ですが、「米国返還資料」の大部分は、下記朝日新聞が報じる経緯により、今日行方不明になっています。「凍傷ニ就テ」がどのように国立公文書館に渡ったのかは明らかではありませんが、今日この論文を目にすることができるのは、かなりの「幸運」であったと言えるでしょう。

朝日新聞 1986年9月19日(金) 22面

七三一部隊の資料 防衛庁は「ない」

 米下院復員軍人委補償問題小委員会で、旧日本軍七三一部隊(石井部隊)の細菌研究や人体実験についての極秘資料が一九五〇年代後半に日本側に返還されていることが明らかにされ、同委が日本政府に資料提供を求めることを決めたが、防衛庁では存在を否定している

 国立国会図書館の調査によると、連合軍最高司令部(GHQ)が日本占領自体に収集したとされる石井部隊に関する第一次資料は、日本側へ返却後、最初、外務省復員局に渡されたという。この際、米側が全資料を返却したのか、選択したのかは明らかでない。

 その後、防衛庁が設置された際、外務省から防衛庁本庁に移され、さらに戦史室に移された。外務省−防衛庁、防衛庁本庁−戦史室の二度の移管の際に、それぞれ選択が行われた可能性もある、という。






4
 北野政次他「流行性出血熱の病原体の決定」

 こちらは、一般に公開されていた論文から「人体実験」の事実が浮かび上がった、という珍しい事例です。論文では「猿」に対する実験ということになっていましたが、常石敬一氏によって、この「猿」は実は「人」であった、ということが明らかにされました。論文を書いた本人も、そのことを認めています。

 「流行性出血熱」は、一時期満洲で流行した奇病です。高熱と臓器からの出血を主な症状とします。死亡率は30%と高く(「ヒル・レポート」北野・笠原インタビュー)、関東軍内でも流行したことから、731部隊にとっても重要な研究テーマとなっていました。

 まずは、常石氏の文を見ましょう。731部隊は、「猿」を使った実験で、「流行性出血熱」の病原体の確保に成功しました。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 一九四四年に北野(「ゆう」注 北野政次=1942年8月より1945年3月まで、石井四郎に代って731部隊部隊長を務める)らは八人連名で、『日本病理学会会誌』(第三四巻)に、「流行性出血熱の病原体の決定」を発表している。

(略)

 北野たちは実験動物として猿を使い、次のような手順で病原体を確保したという。

 先のダニ(「ゆう」注 病原体を保有していると思われるダニ)をすりつぶして作った食塩水乳剤を「猿の大腿皮下に注射した、此の初代猿は接種後一九日に至り三九・四度の発熱があり中等度に感染したのであるが、此の発熱時の血液を以て接種した第二代猿は潜伏期一二日で発熱し尿蛋白陽性を示し剖検により定型的流行性出血熱腎を証明したのである。爾来発熱極期血液乃至臓器材料を以て猿累代接種を行い本病原を確保して種々の実験を行った」。(P153)

「ゆう」注 余談ですが、笠原班・作山元治軍医少佐は、「北野さんと第一部長の菊地(斉)さんは僕らの研究に後で名前だけ載せたという感じ」「実際に自分は仕事をしないで、みんなのエキスだけを取って自分の仕事にする」「やっていたのは笠原さんと私」と、北野は研究の主体ではなかった、という趣旨の証言を行っています。(太田昌克『731免責の系譜』P129-P130)



 この「猿」は、「体温が全く平熱に復してから」解剖されました

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 また北野らの論文は、臓器材料を使って累代接種を行なったと述べているが、各臓器の感染力および病理的特徴、すなわち腎臓からの出血についてその論文は次のように述べている。

 発熱極期(病勢極期ではない)に剖検すれば本疾患に特異的な解剖所見として我々が強調している流行性出血熱腎を検出した験しがない、唯腎は肉眼的に充血を認める丈けである。然しかかる時期の腎・肝・脾こそ感染力は絶大なのである。

 之に反し下熱期或は体温が全く平熱に復してから剖検すると茲に甫めて流行性出血熱腎は認められるのであるが、かかる病変顕著の諸臓器は既に感染力を消失していることを学んだ。
(P154)



つまり「猿」は、生きた状態で解剖されたわけです。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)


 これらの記述から、血液も臓器も、感染力を持つのは発病から五日間ほど、発熱が最もひどくなるまでであることが分かる。したがって臓器による累代感染実験の場合、実験動物の猿の症状がそうひどくなる前に、すなわちまだ生きている間に殺し、臓器を取り出すことが必要となる。

 また流行性出血熱腎の検出についてみても、この猿は生きたまま解剖されている。すなわち発熱極期を過ぎ、「体温が全く平熱に復してから剖検すると」、流行性出血熱腎が見出されると記されている。やっと回復したと思ったところで、解剖されてしまう。いくら実験動物とはいえ因果なことである。(P154-P155)



 しかし常石氏は、この「猿」が実は「人間」であることを、北野自身の別論稿の記述から論証します。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

  しかしこの実験動物は、北野らの論文が述べているような猿ではない。人間なのだ。石井部隊で「丸太」と呼ばれていた人びとである。

 流行性出血熱の症状の特徴を整理してみよう。二大特徴として、外見的には体温が四〇度近くにまで上がること、発熱があり、病理学的には臓器、特に腎臓からの出血がある。これを北野らは流行性出血熱腎と命名している。

 そして北野らが使った猿は、流行性出血熱に感染させられ、そして発病するとこの二大特徴を示した、という。

 ところが北野は戦後一九七一年に発行された『陸軍衛生史』の第七巻で、流行性出血熱と実験動物の関係について次のように述べている。

尾長猿は感染力を有し発熱するが、人のごとき著明の流行性出血熱腎を経験しない。台湾猿は余り明瞭な発熱を示さない。病原体の研究にあたり、普通の実験動物に適当なものなく、最も苦心を要するところである」。

 すなわち猿の場合は、流行性出血熱に感染しても、先の二大特徴を示すことはない。たとえ示しても、いずれか一方の症状しか示さないというのである。

 このことだけでも先の実験に使われた「猿」が普通の猿でないことは明らかであろう。(P155)


 「流行性出血熱」には、「四〇度近い発熱」と「臓器からの出血」という二つの特徴があります。そして上の実験では、「猿」は明らかにこの二つの特徴を示しています

 しかし北野は、別の論稿で、「尾長猿」は「発熱」だけ、「台湾猿」は「出血」だけしか発現させず、両方の特徴を同時に発現させる猿はいない、と書いているわけです。これは明らかな矛盾であり、「猿」は実は「人間」であった、と考える他はありません。

 また、「人間」にとっては39.4度は「高熱」ですが、猿にとっては「平熱より若干高い程度」でしかありません。常石氏は、この点も衝きます。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 種類によって多少差があるが、猿の平熱は三八度ないしそれ以上である

 ところが北野らは、本文の一五三ページに引用してあるように「此の初代猿は接種後一九日に至り三九・四度の発熱があり中等度に感染した……」と書いている。北野らはこの三九・四度を高熱としているが、猿にとっては若干の発熱にしか過ぎない。(P257)

 猿の体温が三八度ないしそれ以上であることは医動物学の常識であり、医者であれば誰でも知っていることである。したがって医者であれば、猿の発熱についての記述だけで、それが実は猿ではなく人間であることが分かっていたはずである。

 この事実は本文の一六六ページの、部隊での人体実験は「公然の秘密となっていたのだろう」という指摘をさらに裏付けるものである。(P258)

 


 これに対して、北野らは、「あそこまではっきり書かれたらもう話すしかないな」と「人体実験」の事実を認めました。

常石敬一『七三一部隊』より

 筆者が七三一部隊について初めての本を書いた時には、ここに引用した流行性出血熱についての北野らの論文その他を分析して、この部分の「猿」がヒト以外の何物でもないことを立証して、人体実験の事実をその実行者の名前も含めて明確に書いたのだった。

 本を出版後、北野ら元部隊員に会って話を聞くことができたが、彼らは筆者に対して一様に「あそこまではっきり書かれたらもう話すしかないな」と言いながら、質問に答えてくれた。

 引用した部分から分かることは、生きている人間に対して実験を行い、最後には解剖している、つまり殺しているということだ。引用文の「猿」を「人」に置き換えて読み返してもらえれば幸いだ。(P117)

 


 なお、「ヒル・レポート」のインタビュー記録で、北野らは、はっきりと「人体実験」を語っています。「39.4度の発熱」という共通項があることから、同じ実験であると考えられます。

常石敬一『七三一部隊』


 北野たちの先に引用した論文に書かれている実験の、犠牲となった人々は四人だった。

(「ゆう」注 以下、明記はないが、「ヒル・レポート」のうち「孫呉流行性出血熱(笠原四郎と北野政次へのインタビュー 1947.11.13)」の内容を適宜まとめたもの。原文確認済)

 最初の人はダニ二百三匹を磨り潰して作った食塩水乳剤二CCを皮下注射された。そして北野が論文で書いているように、注射から十九日目に発病が確認された。この人は発病八日目、まだ熱が三十九・四度ある時に採血された。

 その血液十CCが二番目の人に皮下注射された。この人は注射から十二日目に熱が三十八度となり、発病が確認された。翌日採血され、そのうち五CCが第三の人に皮下注射された。また同じ血液は二十日鼠と猿にも接種された。(P117-P118)

 二番目の人は発病七日目、熱が平熱に戻った時、モルヒネを打たれ、生きたまま解剖された。一番目と三番目の人の運命は分からない。

 四番目の人は、二番目の人の血液を注射された二十日鼠の肝臓、肺臓、および腎臓の十パーセント食塩水乳剤五CCを皮下注射された。注射から十七日目の午後、熱が四十度まで上がり、発病が確認された。この人も発病六日目の平熱に戻った時にモルヒネを打たれ、生きたまま解剖された

 北野らは、これらの「実験」で次のようなことが分かったと、アメリカ軍調査官に述べている。

「人間の血液および臓器で感染力があるのは有熱期に採取されたものだけ」であり、「体温の急激な下降に続く自然死の場合の解剖では臓器に組織上ひどい病変が見られるが、これら肝臓および脾臓から抽出したエキスには感染力はない」。

 死亡率は「発見当初は三十パーセントだった。死亡率を十五パーセントまで下げることができた。しかし実験感染患者の場合、解剖したため、死亡率は百パーセントである」(P118)





 さらに、共同研究者であった笠原班(ウィルス研究)班長、笠原四郎の証言が、上の事実を裏付けます。


笠原四郎証言

 最初の一、二か月というもの、私は孫呉熱(「ゆう」注 「流行性出血熱」の別名)と呼ばれた謎の病気を研究しました。私は他の将校や医者たちと孫呉へ行きました。この病気はある種のウィルスによって起こると思いました。我々がこれを孫呉熱と名付けたのです。それから私は東京へ帰って求ました。(P37)



 私の仕事はもうすでに注射によって感染させられた患者の、血液のサンプルの抽出を監督することでした。

 患者は普通三七度台の微熱を出します。これらのサンプルは私の所属している班とは何の関係もない他の班の隊員によって第二のスパイに注射されます。この注射によって二世代目の患者が出血熱に感染します。その症状で、我々は感染を確認できるわけです。(P37-P38)

 ごく稀に流行性出血熱で患者が死ぬことがありました。普通はみんな回復するんです。ごくごく稀ではありますが、解剖をしたくてたまらない軍医が重体者や臨終の状態にある患者にモルヒネを打つという噂を聞いたことがあります。そのような卑劣な行為に加わるようなことはしない軍属の技士とは違って、軍医さんたちは非常に活発に仕事をしていました [笠原はここで生体解剖のことを言おうとしている]。

 私が一九四二(昭和17)年、再び部隊に戻った時はもうすでに進行中だった北野さんや軍医たちの実験に参加しなければなりませんでした。つまり、人間に、スパイに注射をして感染させるということです。これは命令の結果であり、従わねばなりませんでした。

 私は、私のしたことを非常に心苦しく思います。私は間遠ったことをやったと思います。わずか数回のことではありましたが、人体実験の結果スパイが死んでしまった時……私は非常に悲しかった、それでいつも私は石井部隊の講堂で供養祭をやっていました。部隊の兵隊の中に僧職の者がいましたから。

 ……そのくらい私は動揺していました。おそらく石井部隊の中でそういう供養祭をやったりしたのは私だけだったと思います。(P38)

 (一九八五年二月東京にて)                               

(『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』より)

 笠原は、別のインタビューで、「密かに研究室に仏壇を作って実験材料にされた人の供養をしていた。そんなことをしていた医者は他にいなかった」(西里扶甬子『生物戦部隊731』P109-P110)とも語っています。笠原にとって、人体実験は、大きな「心の重荷」だったのでしょう。



 なお、上とは別の実験ですが、先の「クロナキシー」にも名が出た池田苗夫も、「流行性出血熱」の人体実験について語っています。朝野富三・常石敬一『奇病 流行性出血熱』P95によると、実験が行われたのは、北野らの論文に2年先立つ、「1942年1月14日頃」とのことです。(この本にも、下の毎日新聞記事と同様の証言が収められています)


毎日新聞 1981年10月16日(金)夕刊 11面

生体実験、自慢さえ 告白の旧石井部隊軍医「動物じゃダメだった」

発症のさま、克明に

中国囚人を丸太と呼ぶ "成果"の著書示して



【リード】
 「戦争だったんだよ、キミィ。それに戦後、ちゃんと役に立ってるじゃないか」―。流行性出血熱の生体実験を告白した「関東軍七三一部隊」の元軍医中佐(「ゆう」注 池田苗夫)はあっけらかんとすべてを話した。大阪市内の住宅密集地の一角に立つ古い木造二階建て医院の薄暗い診察室。実験で得たデータの入っている論文を引っ張りだして得意気に見せる姿には、生体実験への心の痛みは感じられなかった。

 二日間、六時間にわたるインタビューで白衣の老医師が心の揺れをのぞかせたのは、最後につぶやいた一言だけだった ― 「本当は戦犯追及の米軍がいつ来るか不安で、戦後ずっとこわかったよ。僕の名前は出したらいかんよ」。

【本文】
 流行性出血熱は三八−四〇度の高熱を出して発症し、頭痛、下痢を伴い、胃腸や肝機能の障害の出やすいウイルス性の奇病。昭和一三年、ソ連国境近くで大流行したのが最初の報告例で、当時の死亡率は一五−二〇%。当初、この地方の風土病とみられ「不明熱」とされたが、細菌戦研究の秘密部隊「七三一」の研究で、世界で初めて「流行性出血熱」と命名された。

 部隊の一員として昭和十六年からこの研究に取り組んだ元軍医中佐、A氏は、戦後もこの病気に関心を持ち続け、昭和三十四年「満洲に於(お)ける流行性出血熱の臨床的研究」によって博士号をとっている。

 A氏は多弁だった。各種の論文を手に、説明する。そして、論文中にある実験に使われた「サル」が、実は「ヒト」であると、あっさり認めた

 「部隊では中国人たちの囚人を"丸太"と呼んで実験に使った。論文にはサルと書いたが、あれは"丸太"や。そんなことはもう、常識やないか」

 少し背は丸くなっていたが、髪はオールバックにきちんとなでつけ、メガネの奥に光る目は、鋭い。

 当初の流行では日本兵も次々と倒れた。陸軍は十七年に「戦時流行病」(一等病)に指定している。「そりゃ、おそろしい病気だった。死体もずいぶん解剖した」とA氏は回想する。動物実験も試みた。だが「いくら動物でやってもちっともかからんから人間でやるしかなかったんや

 初めはきれいに(実験台にされた人の症状が)出たな。全身に、斑点がパッと出て、死ぬかと思った。だが死ななかったな。僕は実験してもみんな治したからな。でも(生体解剖して)臓器を取り出さんとはっきりわからんという医者もおってな。僕は断ったよ

(以下略 全文はこちら


 池田は、「実験してもみんな治した」と語っています。これが事実かどうかはわかりませんが、いずれにしても、本人の同意を得ない、しかも死亡リスクのある人体実験は明らかに医療倫理に反したものです。なお「マルタ」たちは、種々の実験に使い回され、結局は一人残らず殺されています。
※念のためですが、「マルタ」は、正式の裁判を経た「死刑囚」ではありません。何らかの容疑で憲兵隊に捕らえられた者が、そのまま731部隊に送り込まれたケースがほとんどです。もっとも仮に「死刑囚」だったとしても、このように苦痛を伴う「実験材料」にすることが許されるはずもないのですが。


付記  論文発見の経緯

 最初の二資料、「きい弾射撃に因る皮膚傷害並一般臨床的症状観察」「破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て」は、松村高夫氏らが編んだ『七三一部隊作成資料』に収録されています。その発見経緯が大変面白いので、こちらにまとめてみました。


 松村高夫氏の一文です。

松村高夫『強制された「二重の死」 七三一部隊と細菌戦』より

1 七三ー部隊との関わり

 私が七三一部隊の問題に関わるようになったのは、一九八三年の秋に家におりましたら、突然大学院生の児嶋君という人(「ゆう」注 兒島敏郎氏)が電話をよこしまして、神田の古本屋にいるんだけれども段ボールの中に七三一の人体実験の資料が一杯詰まっている、どうしましょうかというので、すぐに買うことにしました。

 買うといっても慶応大学の図書館に七十万円で買ってもらいました。翌年また同じ古本屋から二箱出まして、結局四箱、今特殊書庫にあって一般公開していませんが、そういう資料が入りました。それで七三一部隊のことを研究するグループを組織しましてその資料を分析し、明らかに人体実験であることが分かるものを二点、毎日新聞社に翌年八月十四日と十五日に公表したわけです。(P118)

(『裁かれる細菌戦 No7』所収)


 松村氏らの情報提供を受けた、毎日新聞の報道です。

毎日新聞 1984年8月15日(水) 19面

神田・古本屋の片隅に
731部隊人体実験の資料

 「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」の二つの報告書は、他の報告書、書簡、写真集などと一緒に段ボール箱二箱に詰まって、神田の古本屋の片隅に置かれていた。慶応大学の「太平洋戦争史研究会」のメンバーが発見した時、値札もなかった。古本屋の店主も貴重な資料と気づいたが、同会が交渉の末入手した。



 この資料はどこから出てきたのか。なぜ古本屋にあったのか。松村氏と毎日新聞記者らは、その出所を追い求めます。

毎日新聞 1984年8月15日(水) 19面


 同研究会が出所を探る手掛りとしたのは七三一部隊関連の報告書に名を連ねているA元陸軍軍医少佐(「ゆう」注 A少佐の本名は池田苗夫。松村氏『七三一部隊作成資料 解説』に記載あり)。A元少佐の論文は他にも十数編あるが、段ボール箱の中にA元少佐からB元中佐(「ゆう」注 本名は井上義弘。同前)にあてたメモがあった

 「あっ、これだわ。気持ち悪かったから覚えている」。東京多摩地区の住宅街。築後一年の家で、B元陸軍軍医中佐の遺族は、記者が持参した写真帳や資料を見て叫んだ。

 B元中佐は、四十四年に死亡しており、東京多摩地区の遺族宅には妻と長男夫婦が住んでいた。長男夫婦によると、B元中佐は、戦争中、毒ガス研究で博士号を取った毒ガスの専門家で、押し入れの中には防毒マスクや毒ガス関係の書類、報告書、写真が段ボール箱で六、七箱もあった。四十四年、死亡した後も段ボール箱はそのままにしてあったが、昨年七月、家を新築するため段ボール箱を処分することになった。

 「だれか欲しい人がいるかも知れないと思ったけど、何しろ毒ガス関係の文書でしょ。もちろん、僕には何の役にも立たないし、これ以上置いておくスペースがないから」と、長男はチリ紙交換を呼び、トイレットペーパーと交換した

 処分する前、フタを開け、段ボールかの中から取り出して、パラパラッと見ただけ。報告書ひとつひとつについては覚えていないという。しかし、写真集は印象深く、報告書類の中にある、B元少佐が書いたメモ類などから「ウチがチリ紙交換に出したものに間違いない」とし「それにしても、古本屋に並べられ、数十万もの値がつくなんて・・・」と驚くばかり。

 長男によるとB元中佐は、七三一部隊に所属していたことはないとしているが、戦後七三一部隊長だった石井四郎元中将と親しく、石井氏宅へ何度も出掛けていたという。



 つまりこの貴重な資料は、所有者井上義弘元中佐の自宅からいったん「チリ紙交換」に出されて、「トイレットペーパー」と交換されてしまった、ということです。目利きの「チリ紙交換」業者がこの資料を古本屋に売ることを思いつかなければ、そのまま廃棄されてしまったでしょう。
※余談ですが、このエピソードは、江口圭一氏が神田の古本屋から「金井章次氏旧蔵 蒙古連合自治政府資料」を手に入れた経緯を想い起させます。江口氏はこの資料を「私の月給のほぼ二ヵ月分」で購入し、氏の著書「日中アヘン戦争」(岩波新書)の貴重な材料としました。

 さらに松村氏と毎日新聞記者2名は、論文に名が出てくる「A陸軍中佐」(池田苗夫元陸軍中佐)を訪ねます。池田元中佐は、このうち「きい」については「書類を保管する人が(自分の名を)書き入れたのではないか」と関与を否定しましたが、「筋クロナキシー」については「私のもの」であると認めました

毎日新聞 1984年8月15日(水) 19面

「関与していない」登場の元少佐

 チリ紙交換から古書市場に回った段ボール箱の資料は、書類などと分別され、報告書類を中心に二箱に詰め替えられ、神田の古書店に回されたらしい。二段の段ボールの中で、七三一部隊関連とみられるのはA元少佐の名が書かれた報告書がほとんどだった。

 A元少佐は、滋賀県の長男宅にいたが「石井部隊のことは一切しゃべりたくない。会いたくもない」と言い、高血圧や戦傷の後遺症などで休養中だった。このため、長男を通じてコメントを求めたところ「破傷風の実験は上官の指導でやったこと。他の論文はすべて私のもの」と認めた。

 しかし、「きい弾(イペリット弾)」の報告書については「私は十七年に七三一部隊に呼ばれたので、実験に加われるわけがない。関与していない」と否定した。

 「担当」と書かれていることについては「極秘書類には担当者名を書かない。そこだけ毛筆で書かれていることからもわかる通り、書類を保管する人が書き入れたのではないか」と答えている



 ただし「関与していない」という池田元中佐の主張が事実であるかどうかは、不明です。




<本コンテンツで使用した資料>

「きい弾射撃に因る皮膚傷害並一般臨床的症状観察」

「破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て」

吉村寿人講演『凍傷に就て』

「神田、古本屋の片隅に」 −「731部隊作成資料」発見の経緯−
 

(2016.10.30)


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