| 731部隊(�掘� | 人体実験、これだけの根拠 (3)部隊関係者の論文群 |
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さて次に、「人体実験」の存在を明瞭に示す部隊関係者の論文を取り上げましょう。 部隊の「人体実験」の事実は、外部に対しては徹底的に秘匿されてきました。その「研究成果」を誇った部隊関係者の論文は、当然のことながら、「極秘」扱いです。 さらにそのような論文の大半は、終戦時の「戦争犯罪」証拠湮滅作業の中でに廃棄処分されたものと考えられます。(残った論文のうち一部は米国に渡り、その後行方不明になったようです=後述) 本記事では、そんな中で辛うじて生き残った、何点かの論文を紹介していきます。
神田の古本屋から発見された二つの論文のうちの一つです。発見の経緯については、最後の「追記 論文発見の経緯」にまとめました。 「きい」とは、最も強力な毒ガスのひとつとして知られている、びらん性ガス(イペリット、ルイサイト)を指します。イペリットガスは、からしに似た臭いがすることから、「マスタードガス」とも呼ばれます。日本軍の「きい」使用については、いくつかの記録で確認することができます(「毒ガス戦�機 屬�い」は使用されたか」参照)。 この実験は、1940年9月7日から10日にかけて、「きい」が人体に与える効果を研究する目的で行われました。 松村氏自身による要約が最もわかりやすいので、こちらを紹介します。 ※資料の全七章のうち、個別の症例の詳細を記録した三〜五章を除き、こちらに書き写しました。参考にどうぞ。
実験場のあちこちに条件を変えて被験者を配置し、何千発もの「イペリット弾」を発射して、その効果を測定する。さらに毒ガス入りの水を飲ませる。 「きい」は、「びらん性」との名の通り、皮膚や呼吸器を激痛とともに爛れさせる、強力な毒ガスです。このような実験が被験者にどれだけの苦痛を与えたかは、容易に想像できます。 この論文では被験者の生死は明記されていませんが、強力な毒ガスを浴びたり飲んだりして無事でいられるわけがなく、かなりの数が死亡したものと推定されます。「ヒル・レポート」(総論)にも「マスタードガス」標本16例が示されており、これは、この実験を含む一連の「毒ガス実験」の犠牲者であったものと考えられます。 ※松村氏は、ヒル・レポートの「マスタードガス」標本16例を、この1940年9月実験から生じたものと断じています。私見ですが、毒ガス実験は1回だけではなかったと思われますので、そこまでの断定はできないように思います。 「1940年9月」とは別の実験であるようですが、「毒ガス人体実験」に関する証言はいくつか見かけます。例えば、毒ガス部隊「五一六部隊」の少佐の証言です。
「毎日新聞」には、こんな証言も報道されました。
また郡司陽子氏『【真相】石井細菌戦部隊』には、写真班員の証言が掲載されています。
以上の三証言は、いずれも異なる実験です。「きい」に限らず、この種の実験は度々行われていたようです。
こちらも、前項「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」と同じく、「神田の古本屋」から発見された資料です。 全文はこちらに掲載しました(ただし図表を除く)が、こちらも松村氏の要約がわかりやすいので、紹介します。
松村氏は、この被験者が「ヒル・レポート」の破傷風標本となった可能性にも言及しています。
なおネットには、これは人体実験ではなく、被験者は実は「馬」であった、などという突飛な主張を行っているサイトも存在します。この珍説については、「ネットで見かけたトンデモ議論(2) 「破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て」」で解説しましたので、併せてご覧ください。
吉村寿人は、七三一部隊吉村班(凍傷研究)の班長でした。凍傷の治療には摂氏37度附近のお湯で暖めるのが最も効果的、という画期的な研究成果を挙げたことで知られます。 この資料は、いったん米国に渡った後日本に返還され、現在は東京の国立公文書館に収められています。全文は、 『七三一部隊作成資料』で確認することができます。(こちらに掲載しました) 吉村班については本シリーズの「吉村班 「凍傷」の研究」で詳述していますので、こちらでは、松村氏の資料解説を引用するにとどめます。
なお余談ですが、「米国返還資料」の大部分は、下記朝日新聞が報じる経緯により、今日行方不明になっています。「凍傷ニ就テ」がどのように国立公文書館に渡ったのかは明らかではありませんが、今日この論文を目にすることができるのは、かなりの「幸運」であったと言えるでしょう。
こちらは、一般に公開されていた論文から「人体実験」の事実が浮かび上がった、という珍しい事例です。論文では「猿」に対する実験ということになっていましたが、常石敬一氏によって、この「猿」は実は「人」であった、ということが明らかにされました。論文を書いた本人も、そのことを認めています。 「流行性出血熱」は、一時期満洲で流行した奇病です。高熱と臓器からの出血を主な症状とします。死亡率は30%と高く(「ヒル・レポート」北野・笠原インタビュー)、関東軍内でも流行したことから、731部隊にとっても重要な研究テーマとなっていました。 まずは、常石氏の文を見ましょう。731部隊は、「猿」を使った実験で、「流行性出血熱」の病原体の確保に成功しました。
この「猿」は、「体温が全く平熱に復してから」解剖されました。
つまり「猿」は、生きた状態で解剖されたわけです。
しかし常石氏は、この「猿」が実は「人間」であることを、北野自身の別論稿の記述から論証します。
「流行性出血熱」には、「四〇度近い発熱」と「臓器からの出血」という二つの特徴があります。そして上の実験では、「猿」は明らかにこの二つの特徴を示しています。 しかし北野は、別の論稿で、「尾長猿」は「発熱」だけ、「台湾猿」は「出血」だけしか発現させず、両方の特徴を同時に発現させる猿はいない、と書いているわけです。これは明らかな矛盾であり、「猿」は実は「人間」であった、と考える他はありません。 また、「人間」にとっては39.4度は「高熱」ですが、猿にとっては「平熱より若干高い程度」でしかありません。常石氏は、この点も衝きます。
これに対して、北野らは、「あそこまではっきり書かれたらもう話すしかないな」と「人体実験」の事実を認めました。
なお、「ヒル・レポート」のインタビュー記録で、北野らは、はっきりと「人体実験」を語っています。「39.4度の発熱」という共通項があることから、同じ実験であると考えられます。
さらに、共同研究者であった笠原班(ウィルス研究)班長、笠原四郎の証言が、上の事実を裏付けます。
笠原は、別のインタビューで、「密かに研究室に仏壇を作って実験材料にされた人の供養をしていた。そんなことをしていた医者は他にいなかった」(西里扶甬子『生物戦部隊731』P109-P110)とも語っています。笠原にとって、人体実験は、大きな「心の重荷」だったのでしょう。 なお、上とは別の実験ですが、先の「クロナキシー」にも名が出た池田苗夫も、「流行性出血熱」の人体実験について語っています。朝野富三・常石敬一『奇病 流行性出血熱』P95によると、実験が行われたのは、北野らの論文に2年先立つ、「1942年1月14日頃」とのことです。(この本にも、下の毎日新聞記事と同様の証言が収められています)
池田は、「実験してもみんな治した」と語っています。これが事実かどうかはわかりませんが、いずれにしても、本人の同意を得ない、しかも死亡リスクのある人体実験は明らかに医療倫理に反したものです。なお「マルタ」たちは、種々の実験に使い回され、結局は一人残らず殺されています。 ※念のためですが、「マルタ」は、正式の裁判を経た「死刑囚」ではありません。何らかの容疑で憲兵隊に捕らえられた者が、そのまま731部隊に送り込まれたケースがほとんどです。もっとも仮に「死刑囚」だったとしても、このように苦痛を伴う「実験材料」にすることが許されるはずもないのですが。
最初の二資料、「きい弾射撃に因る皮膚傷害並一般臨床的症状観察」「破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て」は、松村高夫氏らが編んだ『七三一部隊作成資料』に収録されています。その発見経緯が大変面白いので、こちらにまとめてみました。 松村高夫氏の一文です。
松村氏らの情報提供を受けた、毎日新聞の報道です。
この資料はどこから出てきたのか。なぜ古本屋にあったのか。松村氏と毎日新聞記者らは、その出所を追い求めます。
つまりこの貴重な資料は、所有者井上義弘元中佐の自宅からいったん「チリ紙交換」に出されて、「トイレットペーパー」と交換されてしまった、ということです。目利きの「チリ紙交換」業者がこの資料を古本屋に売ることを思いつかなければ、そのまま廃棄されてしまったでしょう。 ※余談ですが、このエピソードは、江口圭一氏が神田の古本屋から「金井章次氏旧蔵 蒙古連合自治政府資料」を手に入れた経緯を想い起させます。江口氏はこの資料を「私の月給のほぼ二ヵ月分」で購入し、氏の著書「日中アヘン戦争」(岩波新書)の貴重な材料としました。 さらに松村氏と毎日新聞記者2名は、論文に名が出てくる「A陸軍中佐」(池田苗夫元陸軍中佐)を訪ねます。池田元中佐は、このうち「きい」については「書類を保管する人が(自分の名を)書き入れたのではないか」と関与を否定しましたが、「筋クロナキシー」については「私のもの」であると認めました。
ただし「関与していない」という池田元中佐の主張が事実であるかどうかは、不明です。 <本コンテンツで使用した資料> 「きい弾射撃に因る皮膚傷害並一般臨床的症状観察」 「破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て」 吉村寿人講演『凍傷に就て』 「神田、古本屋の片隅に」 −「731部隊作成資料」発見の経緯− (2016.10.30)
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