南京の「治安」は回復したか?


まず、田中正明氏の文章を引用します。

田中正明氏「南京事件の総括」

 「第二の論拠 難民帰還で人口は急速に増加」

(略)

 次の表をごらん願いたい。・・・すなわち南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使等にあてた六十一通の公文書の中から人口問題に触れた箇所を抽出したものである。国際委員会としては、難民に食糧供与をするため、人口の掌握が必要である。

 2月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、1月14日になると5万人増加して25万となっている。

 以後2月末まで25万である。これはいったい何を意味するのか?それは、南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。

 民衆は不思議なカンを持っており、独自の情報網があるから市内の治安回復がわかるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が、誘い合わせて続々と帰り始めたのである。南京占領後、虐殺・暴行・掠奪・強姦など悪魔の狂宴は6週間にわたって続いた(東京裁判)、などということは真赤なウソであることが、これをもってしても証明されよう。

 だいたい治安の悪い、大虐殺の地獄のような街に、どうして民衆が続々帰還して来るであろうか?

(P163)


 「人口の掌握が必要」であるからといって「実際に人口を掌握を行えた」ということには全くならないこと等、問題山積みの文章です。(なお国際委員会が「20万人」全体に対して「食糧供与」を行った事実はありません)



 「5万人増加して25万人」という一文も問題です。

 「20万人」は、特に根拠を持たない単なる推定値が、いつのまにか「一人歩き」したもの。「25万人」は、良民証発行数「16万」からの推定値。国際委員会は、1月中旬段階で、少しはもっともらしい数字が出たことから、「人口認識」を修正したに過ぎない。

 従って両者を比較することにはあまり意味はないし、ましてや「5万人増加」なんて断定することはできない。 かつこれは、広大な「南京市」のごく一部である「国際安全区」の「人口」を問題にしたものであり、「南京市」全体の人口を記載したものではない。

 ・・・という議論は、あちこちで論じ尽くされています。 「南京の人口は増えたのか?」で詳しく説明しましたので、関心のある方は、こちらをどうぞ。


 ここでは、「南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた」という一文に絞って、検討を加えてみましょう。




 一般的な見方としては、国際安全区の人口が増加したとすれば、 「安全区外に留まっていた人が、あまりのひどさに堪えかねて、まだしも治安がいい「安全区」に逃げ込んできていた」と見る方が妥当でしょう。

 「スマイス調査」の記述を、引用します。

南京地区における戦争被害

 調査の記述によれば建物総数のわずか四パーセントがあるだけであり、また城内総面積のおよそ八分の一にすぎなかった地域に、市の陥落以来、一四週もたった後でも、住民の四三パーセントが住んでいたのである。

 こうした事実は、ある種の群衆心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持を示している。安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、 安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇措置がとられていたことを示している。

(「南京大残虐事件資料集」第2巻 P219〜P220)


 本当に「南京市」の治安が回復したのであれば、「国際安全区」へ避難していた人々は、「続々と」安全区外の元の家へ帰っていくはずです。 その場合は、「国際安全区」の人口は、増えるどころか、むしろ「減少」する可能性すらあります。

しかし、一月中旬までの段階ではそのような事実はなく、逆に後述のように、「安全区外への帰還命令」に対しては、大変な抵抗があったのが実情でした。





 この間の事情を、「ヴォートリン日記」から探ってみます。

 ヴォートリンは、金陵女子大学の教師として同大学キャンパスに避難した女性たちを守った人物として知られています。その日記の記述は、避難民から直接に聞き取った話など自分の見聞をベースにした具体的なものであり、またその冷静な筆致から、資料的価値の高いものであるといえると思います。

 まず、農村地域から、「国際安全区」のヴォートリンの下へやってきた人々についての記述です。

「南京事件の日々」 1月29日

 以前、金陵女子文理学院で働いていた手伝いの女性が農村から出てきて、一四歳と一八歳の女の子二人を引き取ってほしいと懇請した。

 彼女の話では、農村地域の状況はいまなお非常に悪く、兵士たちがありとあらゆる物を持ち去り、若い女性たちはいつも危険にさらされているそうだ。


  外国人が南京城外に出ることはまだ許されていないので、彼女が責任をもって少女を変装させ、何とか連れてくることになる。

(P142〜P143)


「南京事件の日々」 2月18日

 ある女性が、ここに避難している娘に会いに農村地域からやってきた。彼女の情報によれば、きのう彼女の近所の家いえから慰安のための婦人が大勢連れ去られたそうだ。

(P175)


「南京事件の日々」 2月23日

 午後、ある母親が三人の女の子を連れてきて、彼女たちを収容してほしいと懇願した。一人は、一二月初旬に農村地域へ行った彼女の娘で、他の二人は農村からきた女の子だった。

 彼女たちは、農村地域ではおそろしい思いをした、と言っている。女の子は、地面に堀った穴に覆いをかけて隠れなければならなかった。 兵士たちは地面を踏んで、地中に空洞があるかどうかを確かめることによって、こうした隠れ場所を見つけようとした。

 彼女たちの話では、一二月一二日以来毎日、ほとんどの時間をこうした穴で過ごしたそうだ。

(P180〜P181)


「南京事件の日々」 2月24日

 けさ四人の少女が老女に変装して農村からやってきた。彼女たちは、薪炭の山に何週間も身を隠していた。器量よしでたくましい少女たちだが、ひどく悲しそうだ。彼女たちは昼過ぎまで顔を洗ってきれいになり、午後の集会に出かけた。集会の席に座っているとき、彼女たちはどんな思いを抱いていたのだろうか。

(P182)


 1〜2月頃に南京にやってきた人々は、文字通り、「外部の破壊と暴行」(スマイス調査)を逃れてきた人々であったようです。





 「ヴォートリン日記」では、2月以降になり、ようやく「農村部に避難していた市民が帰ってきた」記述が見られるようになります。

「南京事件の日々」 2月9日

 彼女は、南京のある大きな学校でかつて教師をしていた人の妻で、学者一家の出身だった。彼女たちは災難に見舞われないように農村に避難したものの、全財産を使い果たしてしまい、状況がどうあれ南京に戻るしかないと決断したのだ。

 帰りの旅は何と悲しい物語だったことか。一四歳の娘と、同じく一四歳の姪は、兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いた。 だが、それにもかかわらず、城門を入ろうとしたときに姪は三度、娘は一度強姦された。一四歳の少女だというのに。

(P162)


「南京事件の日々」 3月13日

 礼拝のあとで一人の女性がわたしに、去年の秋、三人の娘ともども六合の近くに避難したが、そこから娘を連れて戻ったところだ、と言った。

 彼女の話では、兵士が持ち去らなかった物は匪賊が持ち去ったそうだ。鶏、寝具、水牛、金銭などあらゆるものが持ち去られる。 「花姑娘」がたえず要求され、「花姑娘」を差し出すことができないと、しばしば両親の生命が危険にさらされる。旅をしているときは見破られないようにぼろ同然のものを身にまとったそうだ。

(P204)


 「南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた」という雰囲気は全くありません。 農村部があまりにひどいので、やむえず、外国人の眼が光っていてまだしも安全な「安全区」に逃げ込んできた、と考える方が正確でしょう。




 さて一方で、「南京城内」から「安全区」へ避難していた人も、大勢いました。本当に「治安が回復」したのであれば、わざわざ不便な「難民キャンプ」に留まる必要はありません。

 しかし、彼らが元の家に戻ることは、容易ではありませんでした。

南京における正常状態の回復」(国際委員会第32号文書 1938.1.10 添付)

機^汰感莖阿了堝盂特篭茲砲ける秩序の必要性
(1)安全区外が現在のように危険な状態では、多くの難民は帰宅したいと思っても帰宅できない状態にある。

(中略)


供〇堝盂特篭茲防要とされる秩序をつくり出すにはいかにすべきか?
(1)住民をしないの他の地域へ一区画ずつ帰らせることが提案されている。(略)

(2)住民を家と仕事に戻らせるために開放される予定の区画へ移す前に、次の諸処置をとることが必要である。

a.新たに開放される地域に日本兵が一人も入りこまないようにする。

b.その地域全体に憲兵隊を強力に組織して、一般の兵士を立ち入らせないように注意する。憲兵隊詰所の所在をはっきりさせて、住民が兵士から害を受けた場合に、いつでも安心して通報できるようにする。

(中略)


掘〃从兩験茲硫麌
(中略)

(2)秩序が速やかに回復されるとともに、経済生活を保障するために城内外の交通を再開する。

(中略)

d.二月一日を期して、南京近郊の農村部でも秩序が回復し、春の農作業をまったく安心して始められるようにする。(現在のところ、城内の百姓は帰宅して畑を耕そうとしない。

(以下略)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」P141)



それでも「国際委員会」は、難民たちが自宅へ戻ることを奨励しました。しかし、一度安全区を出た人の中にも、また安全区の収容所に戻ってきた人が多かったようです。

国際委員会第30号文書(Z48) 1938年1月30日

 われわれは多くの中国人にたいし、市内各所の自宅へ戻るよう奨励して来ましたし、ずっと以前にも難民収容所の各所で同じ趣旨の指示を与えました。事実、若干の場合、こうした努力によって、若干の収容所で難民の数が減少しました。しかし、かなりの難民が収容所にまた戻って来てしまいました。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」P152)





そして1月26日、「安全区」を出て元の家に帰れ、という日本軍の「帰宅命令」が出されました。

 本当に「治安が回復した」のであれば、人々は喜んで家に帰るところです。ところが・・・。

ジョン・ラーベ「南京の真実」 2月3日

 収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの庭でも、七十人もの女の人がひざまずいて、顔を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。なんという哀れな姿だろう・・・胸がふさがる。みな、ここから出ていきたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されはしないかとおびえている。

(文庫版P252)


ベイツより妻リリアへの手紙 2月1日 南京

 顔見知りとなった難民の婦人が、それこそ何千人とグループをなしてわれわれの前に跪いて、家に帰って強姦されたり殺されるより、ここで死ぬほうがましだ、と言っている。人里離れて点在している自宅に今週帰ったばかりで、大勢が強姦され、実際、殺害された者も出ている。

(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」P328) 


「南京事件の日々」 2月4日

 午後五時、若い女性二○○人ほどがやってきて頭を地面にすりつけ、ここにいさせてくれと懇願した。わたしたちは、彼女たちを強制的に帰宅させることは考えていなかった。このあとプラマーが立ち去るとき、彼女たちは彼の車の前で涙を流し、頭を地面にすりつけて要請行動をおこなった。気の毒な人たちだ。

(P154)



 外国人3名が、ほとんど同じ記述を行っています。

 なお、この3つは、それぞれ日時・場所が異なり、「同一事件」を指したものではないようです。ラーベ、ベイツ、ヴォートリンの3人が、それぞれ別の日に、別の場所で、似たような訴えを受けていました。危険いっぱいの「安全区」外になど、誰も帰りたくなかった、ということなのでしょう。




現実に、自宅へ戻った人々の中から、かなりの被害者が出ているようです。

ベイツより妻リリアへの手紙 2月13日

 一方、キャンプから出て自宅に戻った大勢の民衆は、厳しい状況のもとで、恐ろしく悲惨な目にあっている。家に戻ってから強姦され、またキャンプに舞い戻っている婦人は二○○人ではきかず、そのほかにも残忍な目にあったらしく、帰ってきてから物も言わずに押し黙ったままの者が大勢いる。 そこで、このような人たちやわれわれが、揃って日本軍の命令に反駁している。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P333)


「南京事件の日々」 2月5日

 きのう自宅に帰った女性のうち四人がけさ戻ってきた。この四人のなかの一人である四○歳の女性は、城門から出るさいに衛兵に三ドル強奪されたうえ、そこから少し先に行ったところで別の兵士によって退避壕に連れて行かれた。彼女を拉致した兵士は、畑の向こうからやってくる女性(二○歳)の姿を見ると彼女を解放した。

 危険を冒して自分の家―というよりは家の残骸―に帰るくらいなら、このキャンパスで餓死するほうがましだと、年齢の高い女性たちまでもが考えるのも不思議ではない。一週間以内に全員が安全区に戻ってくるだろう、と予言する人もいる。まったく気の毒な女性たちだ。何たる窮地であろう。

(P155) 



 「治安の回復」どころの話ではなかったことが、わかります。

(2003.2.1)


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