| 南京の「治安」は回復したか? |
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まず、田中正明氏の文章を引用します。
「人口の掌握が必要」であるからといって「実際に人口を掌握を行えた」ということには全くならないこと等、問題山積みの文章です。(なお国際委員会が「20万人」全体に対して「食糧供与」を行った事実はありません) 「5万人増加して25万人」という一文も問題です。 「20万人」は、特に根拠を持たない単なる推定値が、いつのまにか「一人歩き」したもの。「25万人」は、良民証発行数「16万」からの推定値。国際委員会は、1月中旬段階で、少しはもっともらしい数字が出たことから、「人口認識」を修正したに過ぎない。 従って両者を比較することにはあまり意味はないし、ましてや「5万人増加」なんて断定することはできない。 かつこれは、広大な「南京市」のごく一部である「国際安全区」の「人口」を問題にしたものであり、「南京市」全体の人口を記載したものではない。 ・・・という議論は、あちこちで論じ尽くされています。 「南京の人口は増えたのか?」で詳しく説明しましたので、関心のある方は、こちらをどうぞ。 ここでは、「南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた」という一文に絞って、検討を加えてみましょう。 一般的な見方としては、国際安全区の人口が増加したとすれば、 「安全区外に留まっていた人が、あまりのひどさに堪えかねて、まだしも治安がいい「安全区」に逃げ込んできていた」と見る方が妥当でしょう。 「スマイス調査」の記述を、引用します。
本当に「南京市」の治安が回復したのであれば、「国際安全区」へ避難していた人々は、「続々と」安全区外の元の家へ帰っていくはずです。 その場合は、「国際安全区」の人口は、増えるどころか、むしろ「減少」する可能性すらあります。 しかし、一月中旬までの段階ではそのような事実はなく、逆に後述のように、「安全区外への帰還命令」に対しては、大変な抵抗があったのが実情でした。 この間の事情を、「ヴォートリン日記」から探ってみます。 ヴォートリンは、金陵女子大学の教師として同大学キャンパスに避難した女性たちを守った人物として知られています。その日記の記述は、避難民から直接に聞き取った話など自分の見聞をベースにした具体的なものであり、またその冷静な筆致から、資料的価値の高いものであるといえると思います。 まず、農村地域から、「国際安全区」のヴォートリンの下へやってきた人々についての記述です。
1〜2月頃に南京にやってきた人々は、文字通り、「外部の破壊と暴行」(スマイス調査)を逃れてきた人々であったようです。 「ヴォートリン日記」では、2月以降になり、ようやく「農村部に避難していた市民が帰ってきた」記述が見られるようになります。
「南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた」という雰囲気は全くありません。 農村部があまりにひどいので、やむえず、外国人の眼が光っていてまだしも安全な「安全区」に逃げ込んできた、と考える方が正確でしょう。 さて一方で、「南京城内」から「安全区」へ避難していた人も、大勢いました。本当に「治安が回復」したのであれば、わざわざ不便な「難民キャンプ」に留まる必要はありません。 しかし、彼らが元の家に戻ることは、容易ではありませんでした。
それでも「国際委員会」は、難民たちが自宅へ戻ることを奨励しました。しかし、一度安全区を出た人の中にも、また安全区の収容所に戻ってきた人が多かったようです。
そして1月26日、「安全区」を出て元の家に帰れ、という日本軍の「帰宅命令」が出されました。 本当に「治安が回復した」のであれば、人々は喜んで家に帰るところです。ところが・・・。
外国人3名が、ほとんど同じ記述を行っています。 なお、この3つは、それぞれ日時・場所が異なり、「同一事件」を指したものではないようです。ラーベ、ベイツ、ヴォートリンの3人が、それぞれ別の日に、別の場所で、似たような訴えを受けていました。危険いっぱいの「安全区」外になど、誰も帰りたくなかった、ということなのでしょう。 現実に、自宅へ戻った人々の中から、かなりの被害者が出ているようです。
「治安の回復」どころの話ではなかったことが、わかります。 (2003.2.1)
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