「マレーシア軍政」を巡る俗論(1)

マレー華僑虐殺−「ノンチック発言」をめぐって


 ネットでは、「マレーシアの国会議員、ノンチックの発言」として、このような文章が、コピペで広まっています。


 先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました。

 私は驚きました。 『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。

 日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。 そして日本の将兵も血を流しました。




 このコピペの元ネタは、直接には、名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』に所収されている、阿羅健一『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』(P285-P286)であると思われます。

 ただしこれは「孫引き」であり、さらに遡れば、土生良樹『日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した』のまえがきが、もともとの出典です。


 さて、「マレー華僑虐殺事件」は、決してよく知られた事件であるとは言えません。そんな中、この短い一文をもって、「事件」の概要も知らないまま、 「そうか、日本軍によるマレー虐殺はウソなのか」と即断してしまう方もいるようです。

 しかしこのノンチック発言は、明らかに事実に反するものです。

 
「日本軍はマレー人を一人も殺していません」というのはレトリックの行き過ぎと理解するとしても、 「日本軍が殺したのは・・・中国系の抗日ゲリラだけでした」の部分などは、仮にもマレーシアの国会議員であるはずのノンチックが、 一体どういう意図でここまでの無茶を言っているのか、首を傾げざるを得ません。





 殺したのは「抗日ゲリラ」だけなのか?


 「マレーシア華僑虐殺」がどのような事件であったのかを、確認しておきます。

 1941年2月、英領マラヤ・シンガポールを占領した日本軍は、犠牲者数千人以上規模の「シンガポール華僑虐殺事件」 に続いて、マレーシア各地で「抗日華僑」狩りを行いました。


 ここでは、中島みち氏の『日中戦争いまだ終らず』から、一つのケースを紹介しましょう。当時七歳、ネグリセンビラン州パリッティンギ村で「事件」に遭遇した、蕭文虎の証言です。

中島みち『日中戦争いまだ終らず』

 それは、一九四二年、三月十六日の夕方、四時頃のことだった。

 村の広場に、日本軍がトラック二台で乗りつけた。

 村の小学校で子供たちを教えていた父もすでに帰宅しており、家には家族みんなが揃っていた。

「おとうさん、自分の奥さんあまり綺麗なので、日本軍に見せると危ない、思っていました。いつも、絶対に家から出ないように、注意していました。ほんとうに綺麗なおかあさんでしたから・・・」

 通訳の言葉に私が深く頷くと、蕭文虎も母の面影を追うようなやさしい目になって、頷く。

 しかし、広場に集まった者には米を配るという日本兵の言葉が伝えられると、母親は少しでも多く配給を受けたいからと、心配する父を説得して広場へ出ていった。

 父はもとより、七歳の蕭文虎、そして弟妹も手に手に袋を持って一家総出である。広場では、日本兵の指示どおりに並んだ。

 家から出てきた六百人ほどの村人は、五十人ずつの列に分けられ、配給を待っていた。日本兵は、それぞれのグループに四人ずつ付いた。

 「そうすると、トラック二台の日本兵は、ええと四十八人、約五十人ということになるわけですか?」と問うてみると、彼は、「はい、そうです」と頷き、日本兵の二、三人が列から離れて残っていたようなので、 ちょうど五十人というところだろうと言う。

 そもそも村人の数が六百人であるかどうか私は疑問を持っているのに、そこから日本兵の数を割り出すことに、我ながらちょっと引っかからないではなかったが、彼の訴えのおよそは掴める。

 広場で、袋を手にした村人のグループ分けがきちんと出来上がった時は、六時近くになっていただろうか。隊長の命令の一声で、日本兵は一斉に銃剣で襲いかかり、広場は悲鳴に満ちたという。

  蕭文虎の父や弟妹も同じ列に並んでいたが、背中から日本兵に刺され、彼の目の前で倒れていった。その時、身重の母が、いきなり彼を押し倒し、背中にしっかりと覆いかぶさった。


 そこで、彼の記憶は途絶える。

 傷の痛みで意識を取り戻した時は、冷たくなった母の身体に覆われていた。

 べっとりと重く冷たい母親の身体の下から這い出して母に槌ってみてわかったのは、母を刺し貫いた銃剣の先が自分にも刺さり、 腋の下をはじめ五ヵ所にわたって傷を作っていることであった。

 傷は激しく痛んだが、父や弟妹の一人一人に触っては揺すってみる。しかしもう、すっかり冷たくなっていて、なんの反応もない。

 いつの間にか夜が明けていた。

 ちょうどそこへ、肉親を探しにきていた老人に声をかけられ、傷が癒るまで、クアラピラの老人の家で世話になる。そこからクランの伯父の家に送られたが、 伯父の家も、その大家族が食べていくだけでやっとの暮らしであった。

 八歳になったばかりの蕭は、皿洗い、パイナップル売りと働くが、クーリーとして福建華僑に売られてしまう。

 クーリーの仕事はつらく、逃げ出した蕭文虎は、たった一人で生きる少年に考えられるありとあらゆる賃仕事をして飢えをしのいだ。

(P68-P70)



念のためですが、中島氏のこの本は、次の原不二夫氏の「書評」の通り、かなりの程度「日本軍擁護」のスタンスを持ったものでです。


原不二夫  『書評 中島みち著 「日中戦争いまだ終らず マレー「虐殺」の謎」』より

 ヌグリ・スンビラン(Negeri Sembilan)州での事件を中心に検討を進め、殺害の実際の規模はどの程度だったか、なぜ日本軍はこのような手段をとったのか、を探り、 規模は華人側の主張するよりはるかに小さく、またそれは正当な軍事行動だったと結論づけたうえで、 戦後の戦犯裁判の不当性(個々の被告に関し必要な手続きを踏んでいないという意味も含めて)を糾弾する、というのが本書の柱である

(『アジア経済』1992年5月 P83)



 当時のマレー掃討において、幼い子供はおろか、赤ん坊までが殺害対象となっていたことは、氏が紹介する「元将兵」の証言からも裏付けられます。

中島みち『日中戦争いまだ終らず』

 赤ん坊を殺したことがあるかという問いには、私は何を今まで遠回りの質問を重ねていたのかと思うくらいに、素直に頷くのであった。

 抵抗は感じなかったかと訊くと、誰だっていい気持ちがするわけはないが、ゲリラの赤ん坊を育てる華僑もマレー人もいないから致し方なく、塚の傍に寝かせておき、 父親や母親を殺した後に剌して母親と一緒に葬ったという。


 これもまた、すでに幾度か元将兵から聞いている、当時の戦争の現実である。

(P421)


 一応の「言い訳」を語ってはいますが、「赤ん坊」を殺す「言い訳」としては、あまりに一方的で身勝手なものでしょう。


 いずれにしても、「パリッティンギ村」ケースなどは、「ゲリラ」かどうかの選別もろくに行わないままの、ほぼ「全住民殺害」です。

  「抗日ゲリラ」がどの程度存在したのか今日では知る方法もありませんが、巻き込まれてしまった一般市民も多数存在したであろうことは、容易に推察できます。

 そして日本軍の殺害対象は、子供や赤ん坊にまで及んでいました。


*念のためですが、無抵抗の相手を「処刑」しようとする以上、国際法の上では、処刑対象が本当に「ゲリラ」であるのかどうか、という厳密な選別手続=裁判が必要です。 この手続きを無視し、即決で「厳重処分」を行ってしまった日本軍の行動は、どのような立場に立つにせよ、決して正当化できるものではありません。

 「日本軍擁護派」の中島氏ですら、「事件」をこのように語らざるを得ませんでした。


中島みち『日中戦争いまだ終らず』

 今考えれば、当然、そこには無辜の者も混じっていたであろうし、ゲリラ活動とは関係のない単なる共産党関係者もいたはずであろう。

 またたとえどんな理由があろうとも、裁判を経ずに殺害して許されるわけはない。
(P250)




 念のため、他のマレーシアの政治家がどのような認識を示しているのか、マレーシア連邦初代総理大臣、トゥンク・アブドゥル・ラーマン・プトラの回顧録を見てみましょう。


『ラーマン回想録』より

 マラヤが独立して間もない頃の一九五七年、日本の総理大臣岸信介氏がマラヤ連邦を訪問したが、私はそのとき、かつて経験したことないほど胸の痛くなる出来事に直面した。

 この頃は国民の対日感情はまだ良くなかった。日本占領下の三年間、我々が耐え忍ばなければならなかった数々の苦難のために、日本に対する恨みは根強く、国民の感情は敵しかった。

 数多くのマラヤの住民とその連合軍が殺されたのであるから、あの占領時代のことを忘れるということは無理であった。


 もう一〇年以上も前のことであったが、日本軍の専政とその残虐な行為は我々の心から消えることはなかった。

 世界と平和を保つというのが我々の政策であったから、岸氏がマラヤを訪れたいという意向を示したとき、当然のこととして私は歓迎の意を表明した。

 過去が現在あるいは将来を規定してはならない、というのが私の考えであった。もし忘れることができないにしても、許すことはできるだろう。過去のことは過去のこと、これが平和に通じる最良の道である。(P214)

*「ゆう」注 念のためですが、この「胸の痛くなる出来事」とは、岸首相歓迎のための夕食会における集団食中毒事件です。幸い、日本側に害は及びませんでした。


 「数多くのマラヤの住民とその連合軍が殺された」と、正しい認識を示しています。

 ラーマンは、シンガポールにおいて「日本軍の華僑虐殺」を糾弾する雰囲気が高まった1962年当時には、「シンガポール華僑が対日補償問題で騒ぐことは好ましくない」と、むしろ「運動」を抑える側に回っていました。 (池田直隆『「シンガポール血債問題」と日本の対応』=「国学院大学日本文化研究所紀要」2004年9月、P335)

  このように「親日家」として知られたラーマンですら、こんな厳しい発言を行っていることは注目してよいでしょう。

 以上、「日本軍が殺したのは・・・中国系の抗日ゲリラだけでした」というノンチック発言が、いかに事実に反した無茶なものであるか、わかると思います。

*なお中島氏は、「私は決して、掃討行為について正当性を言いたてるものではない」(P250)としながらも、「私の言いたいことは、 日本軍は無辜の住民ではないと信ずるに確実と思われる根拠をもっていたからこそ、あのように短期間に、掃討を行なったのであろう、ということである」(P250)と、少しでも日本軍側の「正当性」を強調しようとします。 ただし林博史氏によれば、この時期「ゲリラ」はごく少数でほとんど力を持っていなかった、ということです(『華僑虐殺』)。

**この「マレーシア華僑虐殺」については、林博史氏『華僑虐殺』が、スタンダードな「教科書」でしょう。 また、被害者側の証言集『日治時期森州華族蒙難資料』の一部を翻訳した『マラヤの日本軍』も参考になります。



 「日本のある学校の教師」とは誰なのか?


 「ノンチック発言」を再掲します。


 先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました。

 私は驚きました。 『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。

 日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。 そして日本の将兵も血を流しました。




 さて、そもそもこのノンチック発言に登場する「日本のある学校の教師」というのは、一体誰のことなのでしょうか。

 「ある学校の教師」というからには、これは高校以下の先生のことであろうと推察されます。

 私の頭に真っ先に浮かんだ名前は、「マレー華僑虐殺」の研究者として有名な、筑波大学附属高校教師(当時)、高嶋伸欣氏でした。

 おそらく私だけではなく、このテーマに関心のある方でしたら誰しも、これは高嶋氏のことだ、と即断してしまうことと思います。


 しかしそうだとすれば、この「日本のある学校の教師」の発言は、いかにも奇妙です。

 『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ』

 高嶋氏が調べていたのは、「マレー人虐殺」ではなく、「マレーシアにおける華僑虐殺」です。

 
日本軍の民族分断政策のもと、マレー人は思い切り優遇され、勝手に「ゲリラ」認定されて大量に虐殺されたのはマレーシアに住んでいた華僑(中国系住民)であったことは、全くの常識といっていいでしょう。

 こんな発言をした人物は、マレーシアが多民族国家であることすら承知しない、お粗末な「研究家」である、ということになります。
*あえて言えば、無理やりに、この「マレー人」というのは「マレーに住む人々」のことである、と「拡大解釈」することもできなくはないかもしれません。 しかしそうだとすれば、「違いない」という言い方には、いかにも違和感を感じます。「マレーにおいて日本軍が女子供を含む大勢の華僑を虐殺した」というのは、論壇でも争いのない、歴然たる「事実」です。高嶋氏が、「違いない」という曖昧な言い方をするはずがありません。

 高嶋氏が本当にこんな発言をしたのか。そもそも、どういう機会にノンチックと会談したのか。

 こんな疑問を持った私は、−高嶋氏とは連絡をとる手段がありませんでしたので−高嶋氏としばしば共同研究を行っている林博史氏に、メールで尋ねてみました。

 すると、「そこで触れられている日本の教師とは高嶋氏のことではないはずだ」「高嶋氏はノンチックと会ったことはないはずだ」という趣旨の答えが返ってきました。

 してみると、どうやらこれは、少なくとも「高嶋氏」のことではなさそうです。

 それではこの「ある学校の教師」というのは、一体誰なのか。「マレー虐殺」の現地調査を行った「学校の教師」を、私は他に思いつきません。疑問は疑問のまま残ります。



 念のために、土生氏の本から、上のノンチック発言の前後の文脈を見ておきましょう。

土生良樹『日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した』

 ノンチック氏は、一九八四年四月二十九日の昭和天皇誕生日に、日本とマレーシア、日本とアセアンとの友好促進に貢献した功績により、日本政府から『勲二等瑞宝章』を受勲しています。 マレーシア第一の親日家として著名な実力者であります。

 インタビューが終わって感動にふるえながら、その内容を整理していたある日、私はノンチック氏から彼のクアラルンプールの邸へ呼ばれました。

 同氏は、情熱をたぎらせながら、次のように話されました。


「ハジ・ハブさん。この頃の日本の若い人たちはどうかしてしまったのでしょうね。 自分たちの父や祖父たちが、命をかけ、血と汗を流して、ともに興したアジアのことを少しも知ろうとしませんね。(P11-P12)

 私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。

 日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。

 永い間眠っていた"自分たちの祖国を自分たちの国にしよう"というこころを目醒めさせてくれたのです。

 私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。

 しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。

 ハジ・ハブさん。あなたは私のことを詳しく取材されましたがらおわかりのように、私もあの時にマラヤの一少年として、アジア民族の戦勝に興奮し、日本人から教育と訓練を受けた一人です。

 私は、今の日本人にアジアヘの心が失われつつあるのを残念に思っています。

 これからもアジアは、日本を兄貴分として共に協力しながら発展してゆかねばならないのです。

 ですから今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知ってもらいたいと思っているのです。

 先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました 。

 私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。

 日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。


 そして日本の将兵も血を流しました。(P11-P12)

 どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。 これは本当に残念なことです。

 ハジ・ハブさん。あなたが取材された私の人生の記録、私と一緒に戦った友人たちの真実の姿を、ぜひ日本語で書きつづってください。

  そしてできれば、現在の日本の人たちに読んでもらってほしいのです。ぜひ、このことを、あなたにお願いしたい。

 私が、今、お世話になった日本と日本人に、何かお返しすることができるとすれば、このことが残されていました。これは神にかけて、私の心からの希いです」
 

 悠揚とした風格のなかに、情熱と気魄をただよわせたノンチック氏の話に、私は感動し、躰も心もしびれてしまいました。

 私は、どうしてもこのノンチック氏の希望を成し遂げなければならないと、その責任を痛感いたしました。(P13)



 要するにこの発言は、インタビューが終わった後の一対一の「雑談」の中で行われたものです。 土生氏が発言を録音して、正確を期すために一語一語テープ起こしをした、という気配もありません。

 発言全体を見ると、どうもノンチック氏は、「土生氏が言いたいこと」をそっくり代弁している感があります。「日本軍が殺したのは・・・中国系の抗日ゲリラだけ」、 あるいは、「日本の植民地としないで」という明白な事実誤認も見られます。


 そもそもなぜノンチックは、実名を挙げずに、わざわざ、高嶋氏を連想させるような、「ある学校の教師」などという曖昧な言い方をしたのか。 あるいは土生氏は、高島氏を貶めるために、あえて読者がそのように「誤解」するように仕向けたのではないか。そんな疑問まで生まれます。

 土生氏はノンチックの発言をどこまで正確に伝えているのか。一応は判断を保留しておくべきところかもしれません。

(2011.4.23)


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