「マレーシア軍政」を巡る俗論(2)

阿羅健一氏の「軍政擁護」


 アジアの国々が独立できたのは日本のおかげである、とする論調があります。極端なものになると、さまざまな国の識者・政治家の発言をずらずら並べて、あたかも「世界」が「日本の戦争」を支持していたかのように錯覚させるコピペが出回っています。

 日本の「東南アジア進出」がそのきっかけを作った、というのは、一面の真実でしょう。しかし少なくともマレーシアに関する限り、日本はこの国を独立させようという意図は全く持っていませんでした。

 結果としてマレーシアが独立を勝ち取ることができたとしても、それは別に日本が意図したものではなく、日本が始めた「戦争」の単なる「副産物」であった
、と評価すべきところでしょう。

 そんな中で、阿羅氏はあえて「日本の軍政」の擁護を試みます。阿羅氏の『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』所収)の全体を見ていきましょう。



 赤ん坊を刺し殺したところ?


 阿羅氏は最初に、「日本兵が赤ん坊を放り投げ、銃剣で刺し殺した」という話を取り上げます。


阿羅健一『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 


 マレー半島北部に上陸した日本軍は破竹の勢いで進軍を続け、昭和十七年二月十五日には、シンガポールに龍城したイギリス軍を降伏させました。わずか二カ月ほどのことです。赫々たる大戦果でした。シンガポールは昭南市と改名されました。

  英領マレーは、マレー人、華僑、インド人などが混在しており、また重要な資源地であったため、日本はマレーシアを積極的に独立させようとはしませんでしたが、東洋支配の象徴であるイギリスを撃滅したとして世界に衝撃を与えました。

 このマレーシアとシンガポールは、日本の敗戦とともに一時イギリスの支配下に戻りましたが、やがて独立します。

 しかし、敗戦とともに日本が果たした役割はすべて無視されるようになり、特に最近、マレーシアは「戦争中、日本兵が赤ん坊を放り投げ、銃剣で刺し殺したところ」、 シンガポールは「日本軍が多数の華僑を粛清したところ」として喧伝されるようになりました。

 赤ん坊を放り投げて刺し殺すということは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『死の家の記録』に出てくるトルコ兵の話で、それからの発想でしょう。 日本にそんな発想がないのは、兵隊に聞いてみるとすぐ分かります。

(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』P284-P285) 


さて、読者の皆様には、この部分を注目していただきましょう。


 マレーシアは「戦争中、日本兵が赤ん坊を放り投げ、銃剣で刺し殺したところ」、シンガポールは「日本軍が多数の華僑を粛清したところ」として喧伝されるようになりました。



 阿羅氏は、明らかに論点をずらしています。「マレーシアとシンガポールは、日本軍が多数の華僑を粛清したところ」と書けば素直なのですが、わざわざ「争いの余地がある」事件を取り上げて、 こちらが問題になっているかのように錯覚させる書き方をしているわけです。

 このテクニック、読者の方にはおなじみでしょう。 派生的問題に過ぎない「百人斬り競争」を無理やり論点に浮上させて、「だから南京虐殺はウソだ」という印象を何となく与えようとする、一部否定派の手法を思い起こさせます。



 余談ですが、「日本兵が赤ん坊を放り投げ、銃剣で刺し殺した」というのは、1988年頃、日本の英語教科書が取り上げたエピソードです。それに対して、保守派から「そんなことはありえない」とする抗議が殺到し、教科書会社はこの記事を「差替え」せざるをえなくなりました。

 当時の議論では、「赤ん坊を放り投げて、落ちてくるところを銃剣で受け止めて殺すことは、物理的に可能か」なんて、どこかで見たような議論に発展するのですが(笑)、ここでは詳細は省略します。

 私は、この論点についての「判定」は下しません。しかし考えてみれば、先のコンテンツにも取り上げた通り、 「赤ん坊を殺した」という「事実」に争いはないわけです。であれば、「殺し方」の描写が正確かどうか、なんて議論をしても、あまり意味はないでしょう。

 せいぜい「日本兵は面白半分に殺したのか、あるいは作戦上やむなく殺したのか」という程度の違いであり、殺される赤ん坊にとってみれば、そこには何の違いもありません。


 また、「日本にそんな発想がない」、とも言い切れません。上海−南京戦の時の日本兵の回顧録にも、赤ん坊を面白半分に殺した、という記述が見られます。


塩野雅一『還って来た軍事郵便』より


 部隊は常熟、無錫、常州、丹陽と、逃げ足の速い敵を追って進撃するのであるが、途中無錫の街で見るべからざる情景を、この眼で見てしまった。何処の部隊か定かではないが、 一兵士が一才にも満たない赤子を両手で高くさし揚げて、どうするのかと思ったらかたわらのクリークヘ、こともあろうに投げこんでワイワイ騒いでいるのである。

 如何に戦争とはいえ、いかに戦死した戦友の復讐とはいえ、これが果して人間のすることだろうか。私は怒りにうちふるえてとても正視し得なかった。

 敵兵ならまだしも、戦争に何のかかわりもない無心の幼児ではないか。日本軍の兵士のなかには、こんな非道な、鬼のような奴がいたのである。部隊は街を出はずれた処で夜営をしたが、あの惨虐極まる情景が頭にこびりついて寝付かれなかった。

  いま、よく新聞なんかに掲載されている中国旅行ツアーの募集広告を見て、そこに「無錫」という活字が目につくと、すぐこのことを思い出してしまうのである。(P53)

 


なお、「重要な資源地であったため、日本はマレーシアを積極的に独立させようとはしませんでした」の部分を赤字で強調しておきました。のちほど関係する記述が登場しますので、読者の方は、ご記憶ください。





 ノンチック発言をめぐって


 続けて阿羅氏は、マレーシアの国会議員、ノンチックの発言を取り上げます。前コンテンツで説明した通り、このネタ元は、土生良樹『日本人よありがとう』です。


阿羅健一『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 

 マレーシア生まれのラジャー・ダト・ノンチック氏はそれについて、こう語っています。


〈先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。 その事実を調べに来たのだ」と言っていました。

 私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。 そして、日本の将兵も血を流しました。

 どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観をもつようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです。〉(P285-P286)



 このノンチック氏は大東亜戦争中、マラヤ南方特別留学生として来日、陸軍士官学校に学んだ人です。大東亜戦争後、知事、下院議員、上院議員を歴任しました。またASEAN結成支援のため、日本に留学した人たちとASCOJA(アセアン日本留学生評議会)を結成し、 会長になりました。

 ノンチック氏は日本の役割を、こうも述べています。



私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、 とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。永い間眠っていた"自分たちの祖国を自分たちの国にしよう"というこころを目醒めさせてくれたのです。〉

 〈私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍をみたときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、 日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。

 私もあの時にマラヤの一少年として、アジア民族の戦勝に興奮し、日本人から教育と訓練を受けた一人です。私は、今の日本人にアジアヘの心が失われつつあるのを残念に思っています。 これからもアジアは、日本を兄貴分として共に協力しながら発展してゆかねばならないのです。ですから今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知ってもらいたいと思っているのです。〉(P286)


(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』P284-P286) 


 前半部分、「日本軍が殺したのは・・・・抗日ゲリラだけ」云々の「トンデモ」については前コンテンツで取り上げましたので、ここでは繰り返しません。 ここでは後半部について、見ていきましょう。


 さて、ノンチックが語っているのは、典型的な「独立は日本のおかげ」論です。

 しかし実際には、日本はマレーシアを独立させる気は全くありませんでした。日本軍の侵攻がその「きっかけ」となったことは事実でしょうが、とても「感謝」を強要できるような性格のものではありません。


明石陽至『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』より 

序 章

 マラヤ占領の最大の遺産はマレー人・華人間の種族紛争、民族独立意識への自覚、マラヤ共産党の勢力拡大である。

 占領期に日本軍政がマレー人と華人を意図的に対立させたという証拠はない。 しかし、日本軍、警察隊がマ共討伐戦にマレー警察官を動員したことから、両人種間の紛争が烈しくなった。

 マ共軍が報復としてマレー人村落を襲撃して、マレー人対日協調者を拉致し、マレー人が仕返しに華人を襲うという報復の繰り返しとなり、 戦後に種族紛争の火種を残したことは、占領期の負の遺産である。

 日本占領の評価として議論された課題は、日本占領がマラヤ・シンガポールの英国植民地支配からの解放と独立に寄与したか否かという問題である。(P20-P21)

 日本は結果的には同地域を英国植民地勢力から解放したが、日本政府・軍部が四三年五月三一日の御前会議で決裁した「大東亜政略指導大綱」においては、マラヤを「帝国領土ト決定」し、 この帰属決定は「当分ノ間発表セザルコト」とされている。

 つまり、日本は英国に代わってマラヤを植民地としようとしていた。四五年六月の段階になっても、外務省政務局の内部研究では、マレー人の民度が低いためマラヤに独立を付与することは難しいとの結論を下している。

 以上の経過から考察すれば、日本軍がマラヤ・シンガポールの独立のために戦ったという証拠はない。日本占領はマレー人の民族意識を促したが、独立はマレー人の手で獲得したものである。

 日本の中国本土の侵略、軍政初期の厳しい華僑政策の結果、多くの華人がマラヤ人民抗日軍に加わり、あるいは抗日軍を物資・資金両面で支援することとなった。戦後、抗日軍は、マラヤ共産党支配下のマラヤ最強の軍隊に育成していた。

  戦後マラヤの治安に脅威を与えたマラヤ民族解放軍の台頭は、日本軍政の華僑政策の失敗に起因するところが大きい、といわねばならない。(P21)



 日本軍がマラヤ・シンガポールの独立のために戦ったという証拠はない。日本占領はマレー人の民族意識を促したが、独立はマレー人の手で獲得したものである。―日本が独立させてやったんだ、 と言わんばかりの「恩の押し売り」より、よぽど「事実」に即した発言である、と思います。

 さてここで、先ほどの阿羅氏の文章を思い出してみてください。

 「重要な資源地であったため、日本はマレーシアを積極的に独立させようとはしませんでした」

 はっきりと、ノンチックの「マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで」という発言と対立します。

 さすがに阿羅氏も、ここまで事実と異なるノンチック発言には戸惑ったのではないでしょうか。自分はノンチックの間違いはわかっているんだけど、とさりげなく自己弁護しているようにも思われます。




 もう一つ、「日本語普及」問題です。

 ノンチック発言を見ていると、これまで英国は「民族の国語」の普及を妨害し、日本軍政になって初めて「民族の国語」をきちんと普及させようとしたかのように錯覚します。

 実際には、英国植民地時代の国語教育は、「英語」と「現地語」の二本立てでした。日本軍政になって「英語」教育はなくなりましたが、変わって「日本語」教育が推進されることになります。


『昭南特別市史』より

教育方針

 現地教育の方針は昭和十七年一月策定された南方軍総司令部の基本方針に基づく。これは概ねつぎの通りであった。

一、占領地の文化、教育政策は八紘一宇の日本帝国精神を南方民族に示威し、各民族の文化を日本文化に合一するにあること。

二、教育は専らその地域の産業を促進するため、日常生活に有用な産業、技術の修得に向けられるべきこと。

三、日本語は共栄圈の共通の意思疎通を促進するため普及される要あること

四、労働の尊重と勤労精神は促進されるべきこと。

 これを受けて昭和十七年四月マライ軍政監部より「小学校再開に関する件」という通牒が各州に発せられた。(防衛庁戦史室資料)それによるとつぎのような事項が規定されている。

一、小学校の整理
 戦前の英語学校、マライ語学校、印度語学校は地域毎に合併整理し、新校名(地域)を附すること。私立学校の復旧は許可しないこと。

二、教員の登録、任命
 校長、教員の採用は登録終了後、思想の検閲をした上で任命すること。

三、児童は各自の居住地の最近距離の学校に就学せしむること。

四、予定教育科目
 唱歌、体操、遊戯、手工、図画、日本語、作文、園芸とし、一週土、日曜を除き毎日三時間授業すること。

五、用語
 用語は日本語とマライ語とすること、但し印度語学校では日本語とタミール語。

六、学年組織
 クラスは六才〜十四才を七学年に編成すること。

七、学校運営の費用は州の負担とすること。
 授業料は毎月二弗〜三弗を徴収すること。

(P195-P197)


 ただし実情は、『日本語中心の教育といっても、第一、日本語を教える先生もいなければ、教科書もない。さしあたっては「従来通りの教育を続けよ。」 と教育科のインスペクターに指示せざるを得なかった。』(同書P196-P197)という状況であったようです。


 元兵士の回顧録にも、マライ占領直後の、こんなシーンが出てきます。

中島義一『軍靴の跡』より

 隙な時は、マライ人の小学校へ行って、学校の授業を見た。

(中略)

 日本軍政となってから、週一時間の日本語の指導が義務づけられていた。日本語を知らない先生が、テキストも与えられずに日本語を教えている様は滑稽であった。(P263)




それでも2年ほど経つと、「日本語教育」はそれなりに普及してきました。


松永典子『日本軍政下のマラヤにおける日本語教育』

第三部 日本語教育の実態

 さらにもう一点、現地の教員の日本語能力という問題を考えてみたい。概観する限り、現地の教員の日本語能力はそれこそ千差万別であり、とても一定の水準を保っていたとは考えられない。 1943年当時の教員の日本語能力の一端を伝える記事が雑誌『日本語』の中に散見されるので、参考に見てみよう。

(略)

 1944年頃、スレンバンからマラッカヘ行く途中にある「サラナマ第一国民学校」参観時のことである。


(b)…(教育)科長が小さい生徒に名前やら年齢等を尋ねると大体正しく返事するが担任の先生は科長が生徒の状況に就いて一寸むつかしい事を尋ねると全然分らない。遂には「いつここに来ましたか」と言ぱれても暫く考へ込んだ上で、 しどろもどろに返事をする。私の見た範囲では此先生は現地人日本語教員中会話にかけては最劣等だと思った。



 他にも『日本語』には、現地の教員が如何に日本語教授に苦心しているかを伝える文章がある。 1944年頃、シンガポールのある小学校を視察した釘本久春の文章である。 


(c)…全部の授業を、日本語で運ばうとする先生の苦心は、目頭の無くなるやうな気にさへさせる。先生と児童との日本語能力の距離は、話し言葉に関するかぎり、殆んど認められないほどである。 少くとも話し方に関するかぎり、児童の調子の方が、自然で流暢ですらもある。しかし、先生は、如何にかして、日本語で、全部の時間をもちこたへようと努めてゐるのである。


(P135)




 これは日本側からの見方ですが、裏返せば、「現地の教員」たちがいかに慣れない「日本語」の習得に苦労していたかが伺えます。

 ノンチック発言を再掲しましょう。


 しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。



 わざわざ錯覚させる書き方をしていますが、別に日本軍だけが「それぞれの民族の国語」で教育を行ったわけではありません。また日本軍は、「それぞれの民族の国語」以外に、日本語を無理やり普及させようとしていました。 ノンチックの認識は、明らかに頓珍漢なものです。



 しかしそれにしても、「日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ」、あるいは「日本軍が殺したのは、・・・中国系の抗日ゲリラだけでした」なんてトンデモ発言を繰り返すノンチックというのは、 一体どういう人物なのでしょうか。いくら「日本びいき」とはいえ、ここまで自国の「歴史」に無知であるとは、ちょっと信じがたいところです。

 もっとも、前コンテンツで書いたように、この部分にある程度土生氏の「作文」が混じっている可能性も、完全には否定できないかもしれません。





 ワービド『マレーシアの歴史』


 さて、阿羅氏は、「独立は日本のおかげ」論はノンチックだけのものではない、と強調し、マラヤ国民大学教授のワービド氏の発言を引用します。

阿羅健一『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 


 ノンチック氏は、昭和五十九年に日本政府から勲二等瑞宝章を受賞しており、親日家ですが、これはノンチック氏のような一部だけの意見ではありません。

 同じマレーシア生まれで、マラヤ国民大学教授のダトゥク・ザイナル・アビディン・ビン・アブドゥル・ワーヒド氏は、ラジオ番組で「マレーシアの歴史」を放送し、 それが好評だったため、後にその話を『マレーシアの歴史』として出版しましたが、その中でこう述べています。


 〈マラヤ政治史のうちでもっとも重要な出来事といえば、まず何をおいても一九四一年の日本軍のマレー半島進攻をあげねばならないだろう。日本のマラヤ占領は、マラヤの人々の間に政治意識の覚醒をもたらした。

  このようないい方は一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、日本軍政は我が国におけるナショナリズムを育成・発展させるうえで、いわば「触媒」の役割を果たしたということができるのである。

 日本軍政の積極的な面についていえば、日本軍政部が、それまでもっぱら西欧人専用だったクラブやプールなどを、肌の色にかかわりなく一般に開放するなどの政策をとることによって、たとえ形式的にもせよ、 「民族の平等」を標榜したことなどがあげられるだろう。

 今日では、このようなみえすいたジェスチャーはなんの意昧ももたないようにみえるかもしれないが、その当時は社会に大きな影響を与える出来事だったのである。

 事実、日本のマラヤ占領作戦の成功そのものが、マラヤ国民のイギリス人に対する態度に大きな変化をもたらした。

 つまり、たとえ日本占領期間が短期的に終わったとはいえ、 マラヤ上陸作戦の電撃的勝利は「大英帝国」の威信を大きく揺るがし、また「白人」は優秀であるという従来の固定観念をつき崩したことは確かである。〉(P287-P288)



 このように日本はマレーシアの人々を目覚めさせ、マレーシア独立のきっかけを作ったのです。

(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』P286-P288) 



 阿羅氏はぼかして書いていますが、この「マレーシアの歴史」は、しっかり邦訳されています。阿羅氏も、明らかにこの本から孫引きしています。

 実際にこの本を確認してみると、阿羅氏が、自論に都合のいい部分のみを切り取って引用していることに気が付きます。下線部が、阿羅氏の引用部分です。


サイナル=アビディン=ビン=アブドゥル=ワーヒド編『マレーシアの歴史』より

16 日本占領期とナショナリズムの勃興

日本軍政がもたらしたもの

 マラヤ政治史のうちでもっとも重要な出来事といえば、まず何をおいても一九四一年の日本軍のマレー半島侵攻をあげねばならないだろう。日本のマラヤ占領は、マラヤの人々の間に政治意識の覚醒をもたらした。 このようないい方は一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、日本軍政は我が国におけるナショナリズムを育成・発展させるうえで、いわば「触媒」の役割を果たしたということができるのである。

 日本は、後年のマラヤ=ナショナリズムの基盤となった少々度を越した民族意識をマレー人の心に植えつけた。また一方、今日もなお真の意味におけるマレーシア国家の形成をはばむ阻害要因となっている人種間の対立感情を助長したのもまた日本の責任なのである。

 以上のことを述べただけでも、今日もなお我が国の歴史に深い影を落としている日本占領期が決して見過ごすことのできない時期であることが十分におわかりいただけるだろう。(P182)


大東亜新秩序

 日本軍は一九四一年一二月八日、マラヤに侵攻したが、上陸後七〇日目の一九四二年二月一五日に、マラヤとシンガポールのイギリス植民地政府ははやくも日本の軍門に降ってしまった。

 このたびのマラヤ侵攻作戦は、「大東亜新秩序」の建設を究極の目的とする日本のアジア政策の一環として行われたものである。

 「大東亜新秩序」の対象地域としては、当時の日本の説明によれば、「日本・中国および満州国を中核として、 その周辺の南洋委任統治領・仏領印度支那(現在のベトナム・カンボジア・ラオス)・タイ・マラヤ・ボルネオ・蘭領印度(現在のインドネシア)・オーストラリアおよびニュージーランド、それにできればインドをも含めた地域」であった。

 そして、当時の日本は、これらの地域を「共栄圈」、つまり日本の政治的指導のもとに、おのおのの経済的自立をはかるべき地域と考えていたのである。

 この「新秩序」をつくりあげてゆく過程で、日本は東南アジアのいくつかの国々に対して、新秩序実現のあかつきには独立を付与するとの約束を与えた。ところが、日本はマラヤに対しては将来の独立を認めようとしなかったのである。 これは、日本がマラヤをむしろ日本の植民地ないしは原材料の供給地とみなしていたためであろう。(P183-P184)

 事実、一九四三年末に、日本はケダー・プルリス・クランタンならびにトレンガヌの四州をタイに割譲してしまったのである。さらには、占領期間中のある時期には、マラヤとスマトラがともに一つの行政単位として統治されたこともあったのである。


停滞する経済

 日本占領期を一言でいいあらわそうとするならば、それは混乱と無秩序の一語に尽きる。

 占領期間中をつうじてずっと太平洋戦争がつづいていたため、日本政府は総力を結集して日本軍の軍事的優位の確保をはかった。 したがって、日本政府はマラヤの経済については、ほとんど顧みる余裕がなかったのである。このため、マラヤの二大基幹産業であるゴム生産とスズ鉱業はほとんど開店休業の状態に陥ってしまった。

 いな、むしろ正確には、これらの産業は「退歩」したというべきだろう。というのは、たとえば、ゴム園ではゴムの木が伐り倒された後にタピオカが植えられて、食糧増産がはかられ、またスズ鉱山では採掘機械は解体されて供出されるか、 あるいはサピついたまま放って置かれるといった状態だったからである。このようなありさまだったから、行政機関もまた、まともに機能しようはずがなかった。

 とはいえ、日本占領期をあらゆる社会活動が停止した時期とみなすことは正しくない。たとえば、日本政府はこの当時、連合国、つまり英・米の悪口をさかんに述べたてて、東南アジアにおける英米の影響刀を弱めるべく、組織的な宣伝工作を行っていたのである。


言論の統制

 一九四二年八月、日本軍政部は、短波放送受信機の所有および使用を禁止する政令を発布した。これは、マラヤ国民に連合国側の放送をきかせるべきではないという考えにもとづく措置であった。

 つづいて一九四三年九月には、 敵国で撮影・製作された映画の上映が一切禁止された。さらにその翌年の八月になると、敵性音楽の演奏が禁じられ、一〇月にはキャバレーもまた閉鎖されてしまった。これらの政策をつうじて、 日本はアジア人の間に西欧文化に対する反感を煽り立てようとはかったのである。(P184-P185)

 一方、日本軍政の積極的な面についていえば、日本軍政部が、それまでもっぱら西欧人専用だったクラブやプールなどを肌の色にかかわりなく一般に開放するなどの政策をとることによって、たとえ形式的にもせよ、 「民族の平等」を標榜したことなどがあげられるだろう。今日では、このようなみえすいたジェスチャーはなんの意味ももたないようにみえるかもしれないが、その当時は社会に大きな影響を与える出来事だったのである。


ナショナリズムの興隆

 事実、日本のマラヤ占領作戦の成功そのものが、マラヤ国民のイギリス人に対する態度に大きな変化をもたらした。つまり、たとえ日本占領期間が短期間に終わったとはいえ、マラヤ上陸作戦の電撃的勝利は「大英帝国」の威信を大きく揺るがし、 また「白人」は優秀であるという従来の固定観念をつき崩したことは確かである。

 日本のマラヤ占領政策は我が国に住む各人種間に各々異なった影響を与えたが、もちろん全てにあてはまる要素もまた存在することはいうまでもない。

 たとえば、ナショナリズムの勃興と強化などがこれにあたる。占領期間中、マレー人およびインド人の間ではナショナリズムがおおっぴらに鼓吹され、さらに日本軍政部もまた、ある程度この傾向を助長した面すらあったのである。 また華僑の間にもナショナリズムが盛り上がりをみせたが、こちらのほうはむしろ反日感情の結果盛り上がったものである。(P185-P186)

(略)


17 マラヤ連合の成立

 (略)

 大東亜共栄圏構想も、戦争初期の段階では、西欧植民地勢力による経済的搾取を民衆に意識させるのに役立ったことは確かであるが、日本は当時、戦争の遂行に全力を傾注せねばならない立場に追い込まれていたため、 実際のところ、構想を具体化するだけの余裕をもちあわせてはいなかった。

 それに、もし機会さえ与られれば、日本自身が西欧勢力に劣らず搾取の牙をむきだすこともまた考えられないことではなかったのである。(P193)



 ワーヒド氏は、日本軍政の「光」と「影」の部分を、余すことなく公正に語っている、と見ることができるでしょう。

 阿羅氏はあえて「光」の部分のみにスポットライトを当てていますが、全体を通すと、先ほど紹介した明石陽至氏の、「日本軍がマラヤ・シンガポールの独立のために戦ったという証拠はない。 日本占領はマレー人の民族意識を促したが、独立はマレー人の手で獲得したものである」という認識と、ほぼ共通しているように思われます。


 阿羅氏の「このように日本はマレーシアの人々を目覚めさせ、マレーシア独立のきっかけを作ったのです」という発言は、ウソではないものの、非常に一面的なものである、ということは言えるでしょう。





2011.5.1 追記 ポール・H・クラトスカ『日本占領下のマラヤ 1941-1945』によれば、1960年代にマラヤ大学歴史学部長であったワン・グン・ウも、ほぼ同様の見解を示しています。


ポール・H・クラトスカ『日本占領下のマニラ 1941-1945』より

 一九六〇年代半ば、ラジオ番組で、当時マラヤ大学歴史学部長であった汪■武(ワン・グン・ウ)は、新しい占領論の基礎となる論点をまとめた。彼は、まず多くのマラヤの人々にとって占領が「新時代の幕開け」となったとする型どおりの見方から話を始めたが、 問題は「それほど簡単ではなかった」と指摘している。

我々をムルデカ(独立)に導いたのは日本ではないし、日本が我々の解放や独立を望んだわけではない」。また、日本の果した役割は、「破壊」の方が大きく、 「アジアの強い願望を無視することによって、アジアの指導者になるという輝かしいチャンスを逃した」とも言っている。(P396)







 「華僑虐殺」の正当化


続いて阿羅氏は、「華僑粛清」の「正当化」に走ります。


阿羅健一『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 


 また、華僑粛清については、華僑が殺されたという事実だけが取り上げられていますが、それは、経緯を無視した一方的な表現です。

 もともとマレー半島の華僑は、日本が支那事変として戦っていた中国の重慶政府に通じており、その反日活動はマレー作戦の前から注目されていました。

 大東亜戦争がはじまると、一部の華僑はイギリスに協力することを表明さえしました。 その上、マレーの社会構造では、華僑がイギリスとマレー人・インド人の間に存在していて、日本がマレーを解放するということは、華僑にとって権益を犯されることになります。

 ミルトン・オズボーン(オーストラリア生まれ。シドニー大学卒業後、オーストラリア外務省に入り、シンガポールのイギリス東南アジア研究所長など歴任。東南アジアに関する歴史書がある)の分析はその辺りをよくとらえています。こう述べています。


 〈マラヤの戦争経験は、マレー人住民にとっては、比較的楽な経験であり、中国人にとってはかなり残酷かつ利益剥奪という経験であり、また少数派のインド人にとっては、特にこの社会の比較的裕福でない層にとっては、自分らがかつて就いたことのない、 権限をもつ地位に日本人が登用してくれたので、身分の改善感を味わう機会であった。〉(P288)


 このように、華僑にとって日本軍は歓迎すべき軍隊ではなかったのです。

 日本軍がマレー半島を進むにしたがって、イギリス軍に組織された華僑は遊撃隊として日本軍の作戦を妨害しました。シンガポールを目の前にして、日本軍の軍司令部戦闘指令所が襲撃を受けたり、 シンガポール陥落後も倉庫が襲撃を受けたりしました。

 すべての華僑が日本軍の作戦を妨害したわけではありませんが、日本軍を妨害した華僑が少なくないということは、日本軍将兵に多くの衝撃を与えました。

 マレー作戦に参加した兵隊たちは、"白人からアジアを解放する"という気持で戦っていましたから、 白人の手先となっている華僑を知って表現のできない憤りを感じましたし、軍の参謀たちは"ここで華僑に対し断固たる姿勢を示さなければ、これからの軍政は相当の妨害が予想される"と考えたとしても当然です。

 このような背景があり、日本軍は華僑粛清を実行したのです。確かに当時から「華僑を粛清する必要があったのか」という見方もありましたが、このことは日本軍にとって掃討作戦であり、純然たる軍事作戦であったのです。

(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』P288-P289) 



 阿羅氏が言っているのは、要約すれば、「少なくない」華僑が「白人の手先となって」「日本軍を妨害した」から、「軍政」への「妨害」を排除すべく、「純然たる軍事作戦」として「粛清」した、ということになるでしょう。 しかし以下に見る通り、阿羅氏が「正当化」に成功しているとは、とても思われません。

 阿羅氏はここでは「シンガポール華僑虐殺」を問題にしているようですので、以下、その実態を見ていくことにしましょう。

 概要は「世界戦争犯罪辞典」の記述に譲りますが、「シンガポール華僑粛清」の問題点は、選別作業のあまりの杜撰さ、 そしてそんな杜撰な選別で捕えた人々を裁判にもかけずそのまま殺してしまったこと、の二点です


 まず、「選別作業」の杜撰さを見ます。証言は数多いのですが、ここでは、実際に「憲兵」として現場に立会った、中山三男氏のインタビューを見ましょう。


中山三男氏インタビュー記録

明石 馬共の話に入る前に、いままでよく書かれ、大西さんも書いておられますが、いわゆるシンガポールの華僑の虐殺について、何かお話をうかがえれぱと思うのですが。あれはいろいろ事情があってやったことで、 憲兵隊自身にもかなりあれに対する不満があったと大西さんもいっておられましたが、中山さん自身もそれに従事されて、どういうふうに考えておられますか。

中山 あれは上からの命令でああいうことを自分も隊長もやったわけです。しかし実際に抗日分子を抽出するといったところで全然情報も入っていないし、それでどういう者が抗日意識が旺盛だとかいうようなことも全然わからんと思うんです。 それを1週間ほどの短期間で抽出'するのはとうていできない。そういうように思ったですね。 

 しかし軍の命令だから、至上命令だからやらないかん。ただ人相、服装を見て、ああこれはインテリ、これはどうもというような区別に陥りやすかったように思いますが、それだけで本当に抗日意識の旺盛なインテリかというようなことはわからんと思うんです。

  入城直前に、散髪屋がわりかたこぎれいなかっこうをしていると聞いて、入城直後に散髪屋へ行っても男はおらない。だいたい女性の散髪屋が多かったですね。それはその当時に粛清にあった関係だと思いますが、 とにかく服装でこれはインテリだ、インテリ階級はみな抗日意識旺盛なんだというように聞かされていたわけですね。

 それで、自分ら本当の命令だったかどうか知らんですが、シンガポールの華僑が85万か90万くらい現在おる、蒋介石が現在までに抗戦を続けてきておるのは南方の資金援助のおかげだ、 それだから半分くらいは粛清せないかんのだ、というようなデマが頭に入っておる関係で、とにかくインテリのやつを人相と服装だけでパッパッとやっとるからね。

明石 人相といいますと、どういう・・・。

中山 まあこぎれいなかっこうをしておるとか、服装をピシッとしているとか、そういうことに陥ったように思うのですが、なかには憲兵に協力するような態度を見せて、 あの者は抗日意識旺盛なやつだったとかそういうような密告もあったと思いますが、大多数はとにかく服装で見てる。それを1週間ほどの期間でやるのですから、結局そういうようになりがちじゃないかと思うんですけれどもね。(P2-P3)

(『インタビュー記録 D 日本の軍政』所収 聞き手:明石陽至)


 「人相と服装」を見て、それも、「まあこぎれいなかっこうをしておるとか、服装をピシッとしているとか」なんて基準で選別する。 それも「元兵士」を選別するのであればまだしも、日本軍は、普通の「インテリ」までも、抗日意欲が旺盛であると勝手に判断して、選別の対象にしてしまったわけです。


 普通に考えれば、ここまで杜撰な選別を行ったのであれば、「無罪」者が大量に混入している可能性を慮ってとりあえず「拘留」にとどめておくべきところです。ところが日本軍は、「拘留」にとどめるどころどころか、 裁判すら行わずに片っ端からこれら「容疑者」を殺害してしまいました。

 戦後のBC級裁判ではこの「無裁判処刑」が大きな問題になりました。日本の被告側も、この点については一致して「裁判なしで処刑したのは問題だった」という認識を持たざるを得ませんでした。 ここでは、「戦犯」として死刑となった河村参郎中将、及び無期懲役の判決を受けた(ただし10年で出所)大西覚少佐の言葉を紹介しましょう。


河村参郎『十三階段を上る』

 本来これ等の処断は、当然軍律発布の上、容疑者は、之を軍律会議に附し、罪状相当の処刑を行ふべきである。それを掃蕩命令によって処断したのは、形式上些か妥当でない点があるが、 それを知りつつ軍が敢へて強行しなければならなかった原因は、早急に行はれる兵力転用に伴ひ、在昭南島守備兵が極度に減少しなければならない実情にあったためである。(P167)



大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 その最たるものが、昭南粛清事件であろう。占領軍が、その占領地の安寧を期するため、掃蕩作戦を行うことは、軍として当然の任務であるが、現に対敵行為をしていない者を捕え、 それがたとえ、義勇軍または抗日分子であったとしても、即時厳重処分に附したことは大なる間違いであった。(P92)





 さらに言えば、阿羅氏が書くような規模で「華僑」が日本軍の作戦を「妨害」していたかどうかも疑わしいところです。大西氏はシンガポール陥落後、憲兵として治安維持に当たっていましたが、こんな認識を示しています。


『昭南華僑粛清事件・マラヤ人民抗日軍掃討戦をめぐって』

大西覚インタビュー 聞き手:明石陽至他

 《ゲリラの作戦について》

質問:マレー作戦最中に、人民抗日軍と呼ばれた華僑ゲリラが後方の補給線の攬乱いうようなことはやっていたんでしょうか。ただし、大西さんの本も調べてみたんですが、そういった事実はなかったというようなことですが。

大西:杉田さんの報告にもたくさんあるようですが、私は、遺憾ながら、頻繁に軍に支障をきたすようなゲリラはなかったのではと思うのです。たとえもしあったとしても、 小さいものでさほど軍に支障をきたすようなものではなかったのではと思います。

 しかしこれは私の意見で、杉田さんや他の参謀はあったと言っていますから、否定するというわけではありませんし、一部はあったというようなこともあるようですが、軍がこのゲリラにあって作戦が変更になったということは聞いていないんです。

(P181)


大西 覚(おおにし さとる)

明治36年(1903)三重県生まれ。憲兵練習所、憲兵学校を卒業し、徳島憲兵分隊長を経て昭和16年(1941)第二野戦憲兵隊付でマレー・シンガポール作戦に参加。翌年特別警察隊長。戦後昭南華僑粛清事件で無期刑。その後10年間服役。 平成6年(1994)死去。著書に『秘録昭南華僑粛清事件』1977年





 以上、ここまで杜撰な選別作業をやり、かつ「裁判」はおろか「取り調べ」もなしに処刑してしまったのでは、ちょっと言い訳のしようがありません。

 さて、阿羅氏の文章を読み返してみてください。「日本側の事情」を並べ立てるだけで、この点を見事にスルーしているのがわかると思います。




 こちらは余談になりますが、阿羅氏の文章には、オーストラリア外務省の、ミルトン・オズボーンの言葉が挟み込まれています。

 阿羅氏は例によって「都合のいいところ」しか引用していませんが、この方の著書を確認すると、阿羅氏の意図に反して、激しく「日本の軍政」を批判していることに気が付きます。


ミルトン・オズボーン『東南アジア史入門』


 植民地権力の敗北を目撃したこの地域の国々のなかで、ナショナリストたちの側で日本の軍事力と提携しようという努力がなされたとすれば、それはただ一ヵ国だけであった。

  これはビルマであって、そこでは前進する日本軍にビルマ独立義勇軍(BIA)の隊員が同行した。一九四二年一月にビルマ南部への日本軍の侵略が始まった時には千人足らずにすぎなかったこの義勇軍は、日本軍が着々と前進するのにつれて、隊員の数が増えていった。

 しかし、ビルマでの戦局の末期に、BIAが三万に達する隊員数を主張していた頃でさえも、日本軍はBIAの拒導者になんらかの実質的な権限を割り当てようとする気配も示さなかった。

  他の地域におけると同様、ビルマにおいても、日本は自らの利益を最高のものとみていたのであって、「大東亜共栄圏」とか「アジア人のためのアジア」という言葉にこめられていた初期の宣伝の空しさを急速に暴露することとなった。 (P188-P189)

 日本人が果たした役割は、日本が取って代わったそれまでの植民地権力の役割とは多くの点でたいして違わなったことは事実であるが、だからといって、両者の間にある相違や、ことに日本軍による政治的空白期の初期の段階で、 東南アジアの人々によって日本人の言動が大いに歓迎されたことに、目を閉ざしてはならない。

 日本軍はマラヤとシンガポールの、何千人という中国民族に野蛮な復讐をした
のであるが、 それは、彼らを、将来も信頼できない憎い敵対者であるばかりでなく、中国本土で自分たちの戦友と戦っている中国軍の支持者でもあるとみなしていたからである

 しかし、マレー人住民に対する扱いは著しく異なっていた。マレー人スルタンとその宮廷に対して注意深く敬意を表わすことによって、またイギリスの植民地体制に代わって制定された行政機構のなかでマレー人を、 権力はないにしても高い地位に就かせることによって、マラヤの住民のなかでまずマレー人たちの支持をえようとしたからであった。(P188)



 東南アジアのすべての国にとって、第二次世界大戦の終わり頃の数ヵ月間の諸事件は、きわめて重要なものであった。このことは、政治参加の機会をほとんど与えられることのなかった、日本の占領形態を経験した国々についても、 また一九四二年の日本の勝利が、その国の政治家にある役割を果たさせるような、新しい行政府の樹立を意味した国々についても、あてはまった。

 東南アジアヘの日本軍のすみやかな進撃は、白人優位の神話を打ち砕き、東南アジアの人々に、手短かにいえば、何か真の独立にごく近いものに参加できるという望みをもたせたのであった。 そのすぐ後で、日本のスローガンの空虚さが暴露され、日本の利益の優先することが明らかになると、幻想からさめ始めたのである。

 そして戦局がゆっくりと、しかし着実に日本人に不利になるにつれて、東南アジアの人たちは、日本敗北の確率がますます高まることを予期し始めた。(P199)

 


 先ほどの明石陽至氏の発言と、ほぼ同一の趣旨です。これが、マレーシアにおける一般的な認識である、と理解してもいいのかもしれません。




 リー・クアンユー首相の言葉


阿羅氏は最後に、リー・クアンユー首相の言葉を紹介し、「粛清」正当化の材料に使おうと試みます。

阿羅健一『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 

 大東亜戦争後、シンガポールを攻略した第二十五軍の参謀たちがシンガポールの国防省から招待されたことがあります。いわば華僑を粛清した当事者が招待されたわけです。

 そのときにシンガポール国防省が考えていたことは、シンガポールを攻めた日本軍のような勇ましい軍になりたいということで、シンガポールを攻めた軍人から教えを乞うというものでした。ときの首相は、 シンガポールが自治国になると同時に首相に就任していたリー・クアンユーで、リー・クアンユーは三十年にもわたりシンガポールを指導する人です。(P289-P290)

 このとき、かねて"華僑粛清は行き過ぎだ"と思っていた杉田一次氏(第25軍参謀)がリー・クアンユー首相に、〈華僑の粛清は第二十五軍参謀として申し訳なかった。〉とお詫びをしたところ、 リー・クアンユー首相は、〈過去のことだ。そんなことは考えないで、シンガポールのことで助言してもらいたい。〉と言いました。

 華僑粛清は日本としては軍事作戦であり、その上での杉田一次氏の言葉ですが、その杉田氏の言葉とリー・クアンユー首相の返事こそ、すべてを物語っていると言えるでしょう。

(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』P289-P290) 



 このエピソードの出典は、私には確認できておりません。

 しかし、「杉田氏の言葉とリー・クアンユー首相の返事」が、一体何を「物語っている」というのでしょうか。別にリー首相は、「事実」を否定したり、「華僑粛清は問題ない」と発言しているわけではありません。 単に、「過去のことだ」と寛容さを示しているだけの話です。

 毛沢東や周恩来、あるいは胡錦涛も、中国の「国策」として、「戦争が終わったからには、これからは平和と友好の時代である」というスタンス」(矢吹晋『嫌日の真相へ 江沢民の漢奸トラウマとは何か』)を持っていたはずです。 リー首相が言っているのも、これと同じ意味でしょう。

 リー首相は、「回顧録」に「シンガポール華僑虐殺」のことを書き記しています。そして「日本版への序文」では、 日本の「戦争中への行為への謝罪に明らかに消極的な姿勢」を問題にしています。これだけで、リー首相の言葉を「虐殺正当化」の材料として使えないことは明らかでしょう。


リー・クアンユー回顧録(上)

日本版への序文

 私は、日本軍の占領下で幼少時代を送った。日本兵に何度もひどい日に遭わされた。銃口の下での人の行動、動機、衝撃を目の当たりにし、統治をする上での政府や軍事力の役割などその時に学んだことも多い。 厳しい罰を科すと人は犯罪を起こさないということも私は戦時中に学んだ。

 私は、日本から多くのことを学んできたが、一方で率直に批判もする。とりわけ戦争中の行為への謝罪に明らかに消極的な姿勢を問題にする。過去を清算し、将来への新たな一歩を踏み出すべきだ。 「アジアの中の日本」の歴史の一こまを日本の若い世代の人に読んでもらうことは、意味のあることだと思う。

 アジアにおける日本の役割は非常に大きい。経済的なつながりがますます強まるなか、アジアの各国は互いの国のことをもっと知らなければならない。この本がその一助となることを期待したい。

 二〇〇〇年八月
                                     リー・クアンユー






 さて、あらためて阿羅氏の文のタイトルを見ます。

『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 


 もう一度、振り返ってみましょう。この章に登場する「人々」のうち、阿羅氏の意に沿うような意味で「大東亜戦争」を全面的に評価しているのは、ほとんどノンチック一人、と言ってもいいでしょう。 それも、一体どこの国の「軍政」の話をしているのか訝ってしまう、頓珍漢なものです。

 他の三名、ワービド、オズボーン、リー・クアンユーは、上に紹介してきた通り、「日本の進出」が結果として「独立」のきっかけとなったことは認めつつも、「日本の軍政」に対してはかなり批判的なスタンスをとっています。 阿羅氏のタイトルは、看板に偽りあり、と言わざるを得ません。

(2011.4.23)


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