「マレーシア軍政」を巡る俗論(2) 阿羅健一氏の「軍政擁護」 |
アジアの国々が独立できたのは日本のおかげである、とする論調があります。 極端なものになると、さまざまな国の識者・政治家の発言をずらずら並べて、あたかも「世界」が「日本の戦争」を支持していたかのように錯覚させるコピペが出回っています。 日本の「東南アジア進出」がそのきっかけを作った、というのは、一面の真実でしょう。しかし少なくともマレーシアに関する限り、日本はこの国を独立させようという意図は全く持っていませんでした。 結果としてマレーシアが独立を勝ち取ることができたとしても、それは別に日本が意図したものではなく、日本が始めた「戦争」の単なる「副産物」であった、と評価すべきところでしょう。 そんな中で、阿羅氏はあえて「日本の軍政」の擁護を試みます。 阿羅氏の『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』所収)の全体を見ていきましょう。
阿羅氏は最初に、「日本兵が赤ん坊を放り投げ、銃剣で刺し殺した」という話を取り上げます。
さて、読者の皆様には、この部分を注目していただきましょう。
阿羅氏は、明らかに論点をずらしています。 「マレーシアとシンガポールは、日本軍が多数の華僑を粛清したところ」と書けば素直なのですが、わざわざ「争いの余地がある」事件を取り上げて、 こちらが問題になっているかのように錯覚させる書き方をしているわけです。 このテクニック、読者の方にはおなじみでしょう。 派生的問題に過ぎない「百人斬り競争」を無理やり論点に浮上させて、「だから南京虐殺はウソだ」という印象を何となく与えようとする、一部否定派の手法を思い起こさせます。 余談ですが、「日本兵が赤ん坊を放り投げ、銃剣で刺し殺した」というのは、1988年頃、日本の英語教科書が取り上げたエピソードです。 それに対して、保守派から「そんなことはありえない」とする抗議が殺到し、教科書会社はこの記事を「差替え」せざるをえなくなりました。 当時の議論では、「赤ん坊を放り投げて、落ちてくるところを銃剣で受け止めて殺すことは、物理的に可能か」なんて、どこかで見たような議論に発展するのですが(笑)、ここでは詳細は省略します。 私は、この論点についての「判定」は下しません。 しかし考えてみれば、先の記事にも取り上げた通り、 「赤ん坊を殺した」という「事実」に争いはないわけです。であれば、「殺し方」の描写が正確かどうか、なんて議論をしても、あまり意味はないでしょう。 せいぜい「日本兵は面白半分に殺したのか、あるいは作戦上やむなく殺したのか」という程度の違いであり、殺される赤ん坊にとってみれば、そこには何の違いもありません。 また、「日本にそんな発想がない」、とも言い切れません。上海−南京戦の時の日本兵の回顧録にも、赤ん坊を面白半分に殺した、という記述が見られます。
なお、「重要な資源地であったため、日本はマレーシアを積極的に独立させようとはしませんでした」の部分を赤字で強調しておきました。のちほど関係する記述が登場しますので、読者の方は、ご記憶ください。
続けて阿羅氏は、マレーシアの国会議員、ノンチックの発言を取り上げます。前コンテンツで説明した通り、このネタ元は、土生良樹『日本人よありがとう』です。
前半部分、「日本軍が殺したのは・・・・抗日ゲリラだけ」云々の「トンデモ」については前記事で取り上げましたので、ここでは繰り返しません。 ここでは後半部について、見ていきましょう。 さて、ノンチックが語っているのは、典型的な「独立は日本のおかげ」論です。 しかし実際には、日本はマレーシアを独立させる気は全くありませんでした。日本軍の侵攻がその「きっかけ」となったことは事実でしょうが、とても「感謝」を強要できるような性格のものではありません。
日本軍がマラヤ・シンガポールの独立のために戦ったという証拠はない。日本占領はマレー人の民族意識を促したが、独立はマレー人の手で獲得したものである。 ―日本が独立させてやったんだ、 と言わんばかりの「恩の押し売り」より、よぽど「事実」に即した発言である、と思います。 さてここで、先ほどの阿羅氏の文章を思い出してみてください。 「重要な資源地であったため、日本はマレーシアを積極的に独立させようとはしませんでした」 はっきりと、ノンチックの「マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで」という発言と対立します。 さすがに阿羅氏も、ここまで事実と異なるノンチック発言には戸惑ったのではないでしょうか。自分はノンチックの間違いはわかっているんだけど、とさりげなく自己弁護しているようにも思われます。 もう一つ、「日本語普及」問題です。 ノンチック発言を見ていると、これまで英国は「民族の国語」の普及を妨害し、日本軍政になって初めて「民族の国語」をきちんと普及させようとしたかのように錯覚します。 実際には、英国植民地時代の国語教育は、「英語」と「現地語」の二本立てでした。日本軍政になって「英語」教育はなくなりましたが、変わって「日本語」教育が推進されることになります。
ただし実情は、『日本語中心の教育といっても、第一、日本語を教える先生もいなければ、教科書もない。さしあたっては「従来通りの教育を続けよ。」 と教育科のインスペクターに指示せざるを得なかった。』(同書P196-P197)という状況であったようです。 元兵士の回顧録にも、マライ占領直後の、こんなシーンが出てきます。
それでも2年ほど経つと、「日本語教育」はそれなりに普及してきました。
これは日本側からの見方ですが、裏返せば、「現地の教員」たちがいかに慣れない「日本語」の習得に苦労していたかが伺えます。 ノンチック発言を再掲しましょう。
わざわざ錯覚させる書き方をしていますが、別に日本軍だけが「それぞれの民族の国語」で教育を行ったわけではありません。 また日本軍は、「それぞれの民族の国語」以外に、日本語を無理やり普及させようとしていました。 ノンチックの認識は、明らかに頓珍漢なものです。 しかしそれにしても、「日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ」、あるいは「日本軍が殺したのは、・・・中国系の抗日ゲリラだけでした」なんてトンデモ発言を繰り返すノンチックというのは、 一体どういう人物なのでしょうか。 いくら「日本びいき」とはいえ、ここまで自国の「歴史」に無知であるとは、ちょっと信じがたいところです。 もっとも、前コンテンツで書いたように、この部分にある程度土生氏の「作文」が混じっている可能性も、完全には否定できないかもしれません。
さて、阿羅氏は、「独立は日本のおかげ」論はノンチックだけのものではない、と強調し、マラヤ国民大学教授のワービド氏の発言を引用します。
阿羅氏はぼかして書いていますが、この「マレーシアの歴史」は、しっかり邦訳されています。阿羅氏も、明らかにこの本から孫引きしています。 実際にこの本を確認してみると、阿羅氏が、自論に都合のいい部分のみを切り取って引用していることに気が付きます。下線部が、阿羅氏の引用部分です。
ワーヒド氏は、日本軍政の「光」と「影」の部分を、余すことなく公正に語っている、と見ることができるでしょう。 阿羅氏はあえて「光」の部分のみにスポットライトを当てていますが、全体を通すと、先ほど紹介した明石陽至氏の、「日本軍がマラヤ・シンガポールの独立のために戦ったという証拠はない。 日本占領はマレー人の民族意識を促したが、独立はマレー人の手で獲得したものである」という認識と、ほぼ共通しているように思われます。 阿羅氏の「このように日本はマレーシアの人々を目覚めさせ、マレーシア独立のきっかけを作ったのです」という発言は、ウソではないものの、非常に一面的なものである、ということは言えるでしょう。 2011.5.1 追記 ポール・H・クラトスカ『日本占領下のマラヤ 1941-1945』によれば、1960年代にマラヤ大学歴史学部長であったワン・グン・ウも、ほぼ同様の見解を示しています。
続いて阿羅氏は、「華僑粛清」の「正当化」に走ります。
阿羅氏が言っているのは、要約すれば、「少なくない」華僑が「白人の手先となって」「日本軍を妨害した」から、「軍政」への「妨害」を排除すべく、「純然たる軍事作戦」として「粛清」した、ということになるでしょう。 しかし以下に見る通り、阿羅氏が「正当化」に成功しているとは、とても思われません。 阿羅氏はここでは「シンガポール華僑虐殺」を問題にしているようですので、以下、その実態を見ていくことにしましょう。 「シンガポール華僑粛清」の問題点は、選別作業のあまりの杜撰さ、 そしてそんな杜撰な選別で捕えた人々を裁判にもかけずそのまま殺してしまったこと、の二点です。 (詳細は「シンガポール華僑虐殺」記事をご参照ください) まず、「選別作業」の杜撰さを見ます。証言は数多いのですが、ここでは、実際に「憲兵」として現場に立会った、中山三男氏のインタビューを見ましょう。
「人相と服装」を見て、それも、「まあこぎれいなかっこうをしておるとか、服装をピシッとしているとか」なんて基準で選別する。 それも「元兵士」を選別するのであればまだしも、日本軍は、普通の「インテリ」までも、抗日意欲が旺盛であると勝手に判断して、選別の対象にしてしまったわけです。 普通に考えれば、ここまで杜撰な選別を行ったのであれば、「無罪」者が大量に混入している可能性を慮ってとりあえず「拘留」にとどめておくべきところです。 ところが日本軍は、「拘留」にとどめるどころどころか、 裁判すら行わずに片っ端からこれら「容疑者」を殺害してしまいました。 戦後のBC級裁判ではこの「無裁判処刑」が大きな問題になりました。日本の被告側も、この点については一致して「裁判なしで処刑したのは問題だった」という認識を持たざるを得ませんでした。 ここでは、「戦犯」として死刑となった河村参郎中将、及び無期懲役の判決を受けた(ただし10年で出所)大西覚少佐の言葉を紹介しましょう。
さらに言えば、阿羅氏が書くような規模で「華僑」が日本軍の作戦を「妨害」していたかどうかも疑わしいところです。大西氏はシンガポール陥落後、憲兵として治安維持に当たっていましたが、こんな認識を示しています。
以上、ここまで杜撰な選別作業をやり、かつ「裁判」はおろか「取り調べ」もなしに処刑してしまったのでは、ちょっと言い訳のしようがありません。 さて、阿羅氏の文章を読み返してみてください。「日本側の事情」を並べ立てるだけで、この点を見事にスルーしているのがわかると思います。 こちらは余談になりますが、阿羅氏の文章には、オーストラリア外務省の、ミルトン・オズボーンの言葉が挟み込まれています。 阿羅氏は例によって「都合のいいところ」しか引用していませんが、この方の著書を確認すると、阿羅氏の意図に反して、激しく「日本の軍政」を批判していることに気が付きます。
先ほどの明石陽至氏の発言と、ほぼ同一の趣旨です。これが、マレーシアにおける一般的な認識である、と理解してもいいのかもしれません。
阿羅氏は最後に、リー・クアンユー首相の言葉を紹介し、「粛清」正当化の材料に使おうと試みます。
このエピソードの出典は、私には確認できておりません。 しかし、「杉田氏の言葉とリー・クアンユー首相の返事」が、一体何を「物語っている」というのでしょうか。 別にリー首相は、「事実」を否定したり、「華僑粛清は問題ない」と発言しているわけではありません。 単に、「過去のことだ」と寛容さを示しているだけの話です。 毛沢東や周恩来、あるいは胡錦涛も、中国の「国策」として、「戦争が終わったからには、これからは平和と友好の時代である」というスタンス」 (矢吹晋『嫌日の真相へ 江沢民の漢奸トラウマとは何か』)を持っていたはずです。 リー首相が言っているのも、これと同じ意味でしょう。 リー首相は、「回顧録」に「シンガポール華僑虐殺」のことを書き記しています。 そして「日本版への序文」では、 日本の「戦争中への行為への謝罪に明らかに消極的な姿勢」を問題にしています。 これだけで、リー首相の言葉を「虐殺正当化」の材料として使えないことは明らかでしょう。
さて、あらためて阿羅氏の文のタイトルを見ます。 『マレーシア・シンガポール 大東亜戦争を評価する人々』 もう一度、振り返ってみましょう。 この章に登場する「人々」のうち、阿羅氏の意に沿うような意味で「大東亜戦争」を全面的に評価しているのは、ほとんどノンチック一人、と言ってもいいでしょう。 それも、一体どこの国の「軍政」の話をしているのか訝ってしまう、頓珍漢なものです。 他の三名、ワービド、オズボーン、リー・クアンユーは、上に紹介してきた通り、「日本の進出」が結果として「独立」のきっかけとなったことは認めつつも、「日本の軍政」に対してはかなり批判的なスタンスをとっています。 阿羅氏のタイトルは、看板に偽りあり、と言わざるを得ません。 (2011.4.23)
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