日米開戦3 コミンテルン陰謀説(1)
「ハル・ノート」はソ連製?



 一部右派の間では、日本の「戦争責任」を「コミンテルン」(KGB)に転嫁する、という議論が流行しています。日本が「戦争」に突入した裏には、実は「コミンテルンの陰謀」があった、という説明です。

 盧溝橋事件、張作霖爆殺事件をめぐる「陰謀論」がその代表的なものですが、日米戦争の最終的な引き金となった「ハル・ノート」は実はソ連製であった、という「説」もまた有名です。


 この「陰謀論」は、概ねこのような論理構成をとります。

1.ルーズベルト政権の財務長官補佐官ハリー・デクスター・ホワイトは、実はKGBのエージェントであった。

2.「ハル・ノート」の原型である「モーゲンソー試案」を作成したのは、このホワイトである。

3.そして日本は、この「ハル・ノート」によって戦争に追い込まれた。



 ただし結論から言えば、例えホワイトが「エージェント」であったとしても、「モーゲンソー試案」を書いたことまでも「エージェント」としての活動の一環であった、という証拠はありません

 また「ホワイト案=モーゲンソー試案」がそのまま「ハル・ノート」になったわけではなく、「試案」自体は必ずしも「日本を戦争に追い込む」ような性格のものとは言えない ことにも注意すべきでしょう。


 以下、見ていきましょう。

※ここでは「日本はハル・ノートによって戦争に追い込まれた」と書きましたが、 実はこの点、大いに議論の余地が存在します。 実際には日本は、11月末までに日米交渉が妥結しない場合には開戦する、という方針を固めていました。 つまり11月26日の「ハル・ノート」以前に日本は「戦争」を決意していたわけであり、ハルノートは「交渉決裂」の最後の一押しであったに過ぎません。

※※なお、ホワイト案が(文案の変更を重ねながらも)正式に米国政府案として採用されるまでには、少なくともモーゲンソー、ハル、ルーズベルトの3名の支持が必要であったことにはご注意ください。 彼らは米国の利益のために、自らの考えでゴーサインを出した、と考えるのが自然でしょう。
仮に裏に「コミンテルンの陰謀」があったとしても、「戦争」を選んだのはあくまで米国政府です。コミンテルンの影響力を過大に評価する必要はありません。

※※※厳密に言えば、「コミンテルン」「KGB」は別組織です。またこの時期に活動していたのは、KGBの前身である「NKVD」でした。 読みやすくするために、あえて馴染みのない「NKVD」の語は使わず、「コミンテルン」「KGB」の語を多用していることはお断りしておきます。


1  ハル・ノートを書いた男 ホワイトの「正体」


 ホワイトがソ連と一定の関係を持っていたこと自体は、事実と見られます。まず、ホワイトの経歴を簡単に見ておきましょう。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 ハリー・デクスター・ホワイト(一八九二−一九四八)は、ボストンに生まれ、高校を卒業するとすぐに実社会に出て仕事に就いた。 第一次大戦に従軍し、帰還してから一九二四年、スタンフォード大学に入学し、学士の資格を得て、翌年修士の資格を得た。 ハーバードとローレンス・カレッジで経済学の助手として勤務した後、あらためてハーバード大学の大学院に入り、一九三五年に博士号を得ている。

 一九三四年には、財務省に新設された金融調査官というポストに政府職員として就職。次に国際財政問題専門家として指導的地位につき、さらに財務長官補佐官へと進んだ。 対日提案の起草は、この時期の仕事である。(P126)

 また、第二次大戦中、ホワイトは、世界的な通貨安定のための方策を提案しており、それは後に世界銀行とブレトン・ウッズ通貨計画に組み込まれた。 一九四六年にハリー・S・トルーマン大統領は、ホワイトを国際通貨基金(IMF)の理事長に任命した・・・(P127)


 ホワイトは、順調に出世を重ね、最後には国際通貨基金(IMF)の理事長まで経験した、米国政府の要人でした。

 しかし戦後まもない時期、マッカーシズム「赤狩り」の嵐の中で、ホワイトは元「同僚」スパイたちの「告発」を受けることになります。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』


 問題は一九四八年七月末におおやけになった。すでに共産党スパイであることを告白していたエリザベス・ベントレイという女性が、下院の非米活動委員会で、 「彼に会ったことはないが、ホワイトはワシントンの共産党エリート分子のひとりだ」と語ったためである。

 ベントレイの証言によれば、ホワイトは、共産党の党員や同調者を政府機関の影響力のある地位に就けるために、補佐官としての自分の影響力を利用したことがあったという。(P127)


 ホワイトは、この「疑惑」を否定しました。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』


 ホワイトは直ちにベントレイの告発を否定し、彼女の証言は、自分がこれまで聞いたもっとも途方もない作り話だとする声明を委員会に提出した。

 また、ホワイトは自ら論駁し、ベントレイによって疑惑に巻き込まれた他の人たちの弁護のために、進んで非米活動委員会に出席した。心臓がかなり悪かったので、証言の間しばしば休憩を頼んだ。 議長のパーネル・トーマスは、しぶしぶながらホワイトの申し出を許可し、心臓の悪い人はたしか十分な運動をするとよいという意地の悪いコメントをした。

 ホワイトは、べントレイによって名指された他の連邦職員とは違って、修正第五条に逃げ込むことを拒否して、委員会の質問に逐一答え、自分は現在もこれまでも共産党員だったことはないし、 いかなる反米活動にも従事したことがないと誓った。(P127-P128)


 ところがホワイトはこの後まもなく、心臓発作により死亡します。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』


 ところが、それから二週間もたたない一九四八年八月十六日、彼はニュー・ハンプシャー州の自分の農場で心臓発作のため死去した。 非米活動委員会に出席したことが、どの程度彼の死亡原因となったかは明らかでないが、元副大統領ヘンリー・ウォーラスは、自分の親友であるホワイトは非米活動委員会の犠牲となった、と事件を痛烈に批判している。(P128)


 他の「証言」も出ましたが、結局この時点では、事件はホワイトの死によってうやむやに終った形です。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』


 ホワイトの死後も事件は続いた。以前に共産党員だったウイタカー・チェンバーズが、ホワイトは、戦争中ソ連のスパイ網の一員であったと証言したためである。

 ホワイトが、後にスパイの容疑がかかるある人物を昇進させたことは明らかなように思われるが、それが不自然な昇進であったとする根拠はなく、 ベントレイやチェンバーズの証言以外に、彼を安全保障違反に問うことのできる証拠はなにもなかった。(P128)



 「ホワイト=スパイ」疑惑の再浮上は、1999年、旧ソ連の暗号文書を解読した「ヴェノナ文書」の公開によります。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア『ヴェノナ』


 一九四四年から一九四五年までの間に、ホワイト自身について論じたものやホワイトがもたらした情報を伝える、解読されたKGB電文は一五を数える

 それらKGB電文によると、ホワイトは、スターリンに敵対するポーランド亡命政府とアメリカとの間をソ連がどのくらい離間できるのかについて助言を与えたり、 アメリカの政策決定者は世論の反対にもかかわらずソ連によるラトビア、エストニア、リトアニアの併合を受け入れる、と断言したりしている。(P209-P210)

 また一九四五年五月、国際連合設立のために聞かれたサンフランシスコ会議で米国代表団の上級アドバイザーを務めていたホワイトは、会議で国連憲章について話し合いが行われている最中、 密かにソ連の諜報官だちと接触し、アメリカの交渉戦略に関する情報を提供していた。

 トルーマン大統領とステティニアス国務長官は何か何でも会議を成功させたがっているので、もしソ連が拒否権の獲得を強く主張すればアメリカはそれを認めるはずだ、とホワイトはソ連の諜報官に伝えたのである。

 これ以外にもホワイトは、いかにアメリカとイギリスを出し抜くかについて戦術的なアドバイスをソ連に与えた。 KGBのオフィサーは、ソ連の外交官が知りたがっているアメリカの交渉戦略をさまざまな争点から問う質問票まで携えて、ホワイトに会ってた。ホワイトはそれに詳細に至るまで答えたのであった。(P210)



 「非米活動委員会」では「疑惑」は曖昧なままに終りましたが、この「ヴェノナ」の記述を見る限り、ホワイトがソ連と接触し、情報提供を行っていたことまでは事実であったようです。「ルーズベルト秘録」はこのように断定しています。


『ルーズベルト秘録』(上)より

 トルーマンが大統領退任後、全米に向けて説明しなくてはならなかった「ホワイト事件」の張本人、 ホワイトはルーズベルト政権内に存在したソ連のスパイ網の中でも最高ランクに属した高官だった。(P133)



※ホワイトがソ連と一定の関係を持っていたことは事実としても、必ずしも「スパイ」とまでは断定できない、という見方もあります。

秦郁彦『張作霖爆殺からハル・ノートまで』  

 近著のヘインズ、クレアの共著『ヴェノナ』(一九九九)は、ホワイト=スパイ説に傾いているがブルース・クレイグは、 米の国益に沿って行動しただけだと弁護する立場をとる。(P741)

(『日本法学』2010年9月 第76巻第2号)


『ルーズベルト秘録』(上)より

 ベントレーは、ホワイトについて「根っからの共産党員ではなく、むしろ共産主義という理想にひかれて協力していた。 その点にずいぶん気を使った」と証言している。 ホワイトはその一方で、ルーズベルトが唱えた米社会改革運動に強く共感して政府に参加した人でもあった。(P134-P135)




 ただしホワイトは別に、自分の行動のひとつひとつについて細かくソ連から指示を受けていたわけではないようです。

 「ヴェノナ」には「共産主義者の利益になるように、ホワイトはアメリカの政策自体を操ろうともした」(P211)という記述を見ることができますが、 ソ連の側が具体的にホワイトにどのように働きかけたのかは、曖昧なままです。「告発者」の側からも、このような証言があります。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア『ヴェノナ』

 チェンバーズは、ホワイトはアメリカ共産党員ではなく、自分が思うように共産党の地下組織と協力しているだけなので、無理に命令して何かをやらせるということはできなかった、とも述べている。(P207)


 結局のところ、ホワイトを「ソ連の指示のままに動くあやつり人形」のように見ることは困難であると思われます。 結果としてソ連の利益になる行動をとったことがあったとしても、それはあくまで「自主的な協力」にとどまるものであった、と考える方が妥当でしょう。





 「モーゲンソー試案」について言えば、モスクワがホワイトに「モーゲンソー試案」を書くように指示した、という証拠はありません。


須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 
ホワイト事件と呼ばれるこの一連のスパイ疑惑のなかに、彼が戦前、モーゲンソー試案の起草者であり、 その背後にソ連の工作があったなどという話はまったくでてこない。(P129)


 つまり「モーゲンソー案=モスクワ起源説」は、「ホワイトがソ連と関係があった」ことだけを根拠とする、単なる「推察」に止まります。

 元KGB工作員パブロフのように「ソ連がモーゲンソー試案に関与した」と証言している人物もいますが、その証言が事実であるかどうか、微妙なところです。 また例えこの証言が正確なものだったとしても、それはあくまで間接的な「関与」のレベルにとどまり、「モスクワがホワイトに「試案」を書かせた」とは到底言えません(後述)。

 ホワイトがソ連の「協力者」であった可能性は高い。しかしその「協力」はあくまで自主的なものであったようで、ソ連から直接指示を受けて動く、という性格のものではない。 ましてやソ連がホワイトに「モーゲンソー試案」を書かせた、という信頼できる証拠は存在しない

 ここでは、これをとりあえずの結論とします。





 ホワイト提案の「変質」


 そもそもの話、ホワイト原案(モーゲンソー試案)は必ずしも「日本を戦争に追い込む」ことを目的としたものとは言えない、と見られます。 つまり仮に背後に「ソ連の陰謀」があったとしても、その意図は「日米戦争」を煽ろうとするものではなかった、ということになります。

 まずは、ホワイトの手になったと伝えられる「モーゲンソー試案」の内容を見ていきましょう。

モーゲンソー試案

一、はじめに

 若し、大統領におかれては、何かここに添付の協定案の如きものを御提案になり且つ日本側にして同意した場合は、吾々が現に脅威を受けている 好戦的かつ強大なる敵を平和的にして且つ繁栄する隣人に変換させるのに成功したことゆえ、全世界は電気に打たれたように感動することでしょう。

 内外に於ける大統領の名声及び指導力は共に、輝かしく且つ高価な外交の勝利に依って、著しく向上致しましょう。− これは、敗者を作り出す必要のない勝利です。 直ちに数億の東洋人に平和、幸福及び繁栄をもたらし、その結果として独逸の敗北を確実ならしむるべき勝利であります!

 この提案は、日本を説いて同意させることを得れば、実行可能なものであり、成功の算、明らかなるものであります。 日本に大なる利点を提供するものであり、他方、同意しない場合は開戦の他なき故、日本を同意に導き得る可能性があります。

 (P185)

(みすず書房『現代史資料(34) 太平洋戦争(一)』所収)


 「日本に大なる利点を提供」して「好戦的かつ強大なる敵を平和的にして且つ繁栄する隣人に変換する」―「はじめに」を読む限り、この提案は、日本を追い詰めるどころか、 日本とアメリカの双方が利益を得る、いわば「ウィン・ウィン」の関係を狙っていたもの、ということができるでしょう。

 アメリカの歴史学者、アトリーの記述を見ます。

アトリー『アメリカの対日戦略』


 
どうしようもない絶望感が漂い、まったく動きのみられない中に大胆な新提案が現われた。 行き詰まりを打破し、国々を戦争の瀬戸際から引き戻そうとするものであった。

 もともと、その案はモーゲンソー財務長官の特別補佐官であったハリー・デクスター・ホワイトが考えたものであった。 ホワイトは、しばらくハルの外交を観察したあと、一一月以前の六月、すでに起草していたのである。(P260)

(略)

 ホワイトの提案事項は、日本とアメリカを敵対関係から共生関係へ移行させるという点で外交上の革命に等しかった。(P262)




 ホワイト案は、日本とアメリカを「敵対関係から共生関係へ移行させる」ものであった、という評価です。

 「モーゲンソー試案」の具体的な内容を見ましょう。大変な長文ですので全文はこちらに譲り 、ここでは「ルーズベルト秘録」及び須藤氏による要約を紹介します。

『ルーズベルト秘録』(下)より

  「古い外交にとらわれてはならない」とするホワイトは、国務省の伝統的な外交を強く非難したあと、日中戦争と不況で経済困難に陥っている日本に巨額の経済支援を約束し、その見返りに中国からの撤退などを求め、さらには日本の軍需産業の破綻を心配して、武器弾薬の買い取りまでを提案していた。

 つまりこの時のホワイトは、経済支援を挺子にして日本の脅威を取り除くことを重視しており、それによって米国はドイツとの対決に専念できると主張したわけだ。(P204)



 米側譲歩と日本への要求を並べた提案は、日本の非武装化を経済支援で達成しようという非常にユニークなものだった。

 例えば、日本に対し二十億ドルの低金利(二%)借款を認め、しかも貿易における最恵国待遇さえ与えることを約束しており、 その見返りに、日本は仏領インドシナ(現ベトナムなど)および中国、満州から撤退しなければならない。(P209-P210)

 さらに日本の海軍艦船を中心に軍備の四分の三までを米国に売り払わなければならないとしており、米国は市場の二割増し価格で買い取ることを提案している。(P210)



須藤眞志『日米開戦外交の研究』


 極東部の試案は原則を繰り返し述べているだけで具体性に欠けていた。それにひきかえモーゲンソ一案は、軍事問題、経済問題についてかなり具体的であった。

 その骨子は、次のようなものであった。

 軍事的には、アメリカは海軍力の大部分を太平洋から撤退させるかわりに、日本は、中国、仏印、タイからすべての陸海空軍、警察力を撤退させ、満州においても少数の師団を除き、全兵力を撤去する。

 中国問題は、国民政府(重慶政権)以外の政府に対する援助を廃止する。

 一方米国は、移民問題、貿易では譲歩するし、日米和平のために二〇年間の不可侵条約を結ぶ。

 しかし、その保証として日本はその戦争資材の四分の三を限度としてアメリカに売却する、

というものであった。(P268)



 要するに、日本が中国などから手を引くこととバーターに、米国は日本に対して経済的利益を供与する、という内容です。 「モーゲンソー試案」は、日本側のメリットを、次のように強調してみせます。

モーゲンソー試案

四、前記協定の日本及び米国にとっての利点


 両国政府にとっての利点は、左記の通りである。


A 米国にとって

(略)


B 日本にとって

 1 一そう深刻な戦争及び終局に於ける敗北に直面するに非ずして、直ちに平和を確保することができる。

 2 直ちに戦時経済より平時経済に移行でき、同時に、深刻なる破たんに非らずして繁栄を経験できる。(P187)

 3 "面子″を失うことなく中国より撤兵することができる

 4 その通貨を強化し且つその政府負債を減少せしめることができる。

 5 その対外貿易は飛躍的に増大するだろう。

 6 他の諸国が戦争遂行若しくは戦争準備に忙殺されている時期に、日本は、その勢力及び資本を、日本の再建、満洲の建設、及び新しい貿易の伸張に充当することができる

 7 国際関係に於ける最も困難な問題の若干を一挙に解決するに至るだろう。

 8 戦争努力が拡大且つ長期化した後の日本に発生すべき社会的崩壊を回避することとなろう。(P188)

(みすず書房『現代史資料(34) 太平洋戦争(一)』所収)


 後の眼で見ると、これは日本側にとって必ずしも受け入れやすい提案ではなかったかもしれません。 一連の日米交渉の経緯を見ると、日本陸軍に「中国撤兵」の条件を受け入れさせることは、限りなく困難なことであったことがわかります。

 ホワイト=モーゲンソー案は、日本陸軍の頑迷さを甘く見て、「経済的利益さえ与えれば日本は妥協を受け入れる」と考えていた節があります。

 ともかくも、米国側の視点から見ると、これは日米交渉の行き詰りの打破を目指す「画期的な提案」として登場しました。



 ただしホワイトは、明らかな「中国派」でした。

 ホワイトにとっては、おそらく「中国の利益のために日本の撤兵を求める」ことが最重要だったのでしょう。「日本に経済的利益を与える」というのは、そのための手段であったに過ぎません。

 例えば日本がこの提案を拒絶したらどうするのか。その時には、ホワイト=モーゲンソー案の「非妥協的な一面」が浮上することになります。

ルーズベルト秘録(下)より


 ホワイトは最後に「(平和的な)解決はこれ以外になく、日本が受け入れないなら、(戦争)準備を強めなければならない」とし、中途半端な妥協が許されないことを強調するアドバイスを付け加えていた。

 「幾つかの重要不可欠な譲歩を(日本から)得られないならば提案は成立しない。将来、日本が再び脅威となるからだ。 最小限必要なものとは日本が中国大陸から完全撤退し、軍備をわれわれに売り渡すことだ。そうでない限り単なる宥和に陥ってしまうだろう」(P210)



 財務省高官、ハリー・デクスター・ホワイトが提示した解決案は、その後の日米交渉に大きな影響を与えることになる。

 ドイツとの戦争を用意していた米国は、日本の扱いに苦慮していた。 不利な二正面対決を承知で日本と衝突するのか、それとも対決を先延ばしにすべきか。武力を使わず経済力で日本を無力化することを提唱したホワイト案は、そうしたジレンマを根本的に解決する可能性を秘めていたからだ。

 だが、ホワイト案は日本が受け入れない場合は武力によって日本を無力化するという「二つに一つ」といった非妥協的な性格もはらんでいた。 ルーズベルトもその点には気づいており、国務省にホワイト案の検討を指示すると同時に、「一時的なガス抜き」ともいえる妥協的な提案(暫定案)づくりも指示していた。(P212)



※「ゆう」注 ここでは須藤眞志氏やアトリーの考えに従って「ホワイトは日本を戦争に追い込む意図はなかった」という解釈をとりましたが、 公平を期するために、ホワイトは実は「日米戦争」を開始させようとしたのだ、という見方をする論者も存在することは付記しておきます。 一例として、ルーズベルトの政敵であったハミルトン・フィッシュ下院議員(共和党)の主張を、ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』より紹介します。

ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』より

 特別委員会とフィッシュは、ホワイトを、日米戦争挑発の張本人とみなした。フィッシュは率直にこう書いている。

日米戦争を開始させようとする当時のハリー・ホワイトの関心は全く明らかである。 このような転換は、極東におけるソ連の主要な競争相手を強大な米国との極めて苦しい戦争へと追い込んだ。……厳しい軍事最後通牒が、日本を米国攻撃に挑発するものであったことはいささかも疑問の余地がない」(P18)




 フィッシュの本から引用してみよう。フィッシュは次のように書いている。

 「ホワイト案に述べられている提案は厳しく、居丈高なものであった。 この提案は日本に対し中国、タイ、ヴェトナム、満州からの軍隊の撤退、一九四〇年九月のドイツ、イタリアとの条約破棄を要求していた。これはもはや日本にとっては国家的自殺を意味していた」

 つまりハル・ノート案の骨子はすべて、日本を窮地に立たせ、戦争を挑発することに向けられていたのである。(P19)

※「ゆう」注 カッコ内はフィッシュ『アメリカ人愛国者の回想』からの引用とのこと。

 ただしスラヴィンスキー自身は、これを「ホワイトに対する・・・激しい悪意に満ちた評価」(P18)である、と評しています。




 さてホワイト=モーゲンソー案は、米国政府内での検討に回されることになります。

 当初のホワイト案は「共生」を目指すものでしたが、この中で、案の非妥協的な側面がどんどん強調されていきました。 最後にはそれは、「ほとんど原型をとどめぬ」ものに変質してしまいます。

アトリー『アメリカの対日戦略』

 ところが、彼らの計画が日の目を見る前に、柔軟性を欠く官吏たちがそれを無意味なものにしてしまった。

 草案を吟味した各省、各部局は次々と異議を挟んだ。
ハルは提案を擁護する措置を一切講じなかった。

 異議が出されるたびに提案の中身が骨抜きにされ、ついにはほとんど原形をとどめぬ始末であった。(P263)



 極東部草案には日本軍の満州駐兵を認める条項が含まれていたが、ソ連がシベリア方面の軍隊を削減すればその条項は日本に有利に働き、ソ連軍に害を与える可能性があった。 それ故陸軍省の将校たちが反対し、国務省の官僚たちはその条項を削除したのである。

 スターク海軍大将が太平洋の海軍力を削減することに反対したため、国務省はその部分も削除した。 さらに、スタークは日本に対してアメリカに船舶を売り込むよう求めることは屈辱であるとして消除を求め、その通りになった。

 原案が国務省内を巡るうちに、原形をとどめないほどに様々な部分が削り取られた

 「一九二四年排日移民法」の廃止を議会に請願するというアメリカの誓約条項も削除された。日本への二〇億円の借款についての箇所もすべて削られた。

 最終的には日本に三国同盟の破棄を要求する条項が付け加えられていた。(P263)


須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

「アメリカ側のとるべき措置」のなかに組み入れられている内容は、以下のとおりである。(P169)

 満州問題の最終的解決を示唆すること(モーゲンソー案第三項)、英国、フランス、日本、中国、アメリカの合同委員会でインドシナの立場を擁護すること(同第四項)、 中国におけるすべての治外法権を放棄すること(同第五項)、日本に最恵国待遇を与えること(第七項)、ドル円の為替安定のために、日米折半で安定化基金をつくること(同九項)、 アメリカにおける日本資産の凍結を解除すること(同第一〇項)。

 このように見てくると、ホワイト=モーゲンソー案の約半分が二十二日の国務省基礎案に取り入れられたことがわかる。

 だが、削除された項目も見なくてはなるまい。

 「日本政府のとるべき措置」としては、満州からの日本軍の条件つき撤退が落ちている。あくまでも満州を除く中国からの撤兵になっている。

 
ドイツ人の軍人、技術者を排すという第八項もここにはない。 これなどは宥和的変更とも見られるが、アメリカ側として、モーゲンソー案の第一項にあった太平洋からの海軍の撤退、第六項の移民法の廃止、第八項の日本へのドル借款などが削除され、 全体的にみれば、日本に妥協的な項目が落とされ、厳しい内容になっている。(P170)


ルーズベルト秘録(下)より

 一方、将来の合意を目指すはずの基礎案と呼ばれた第二分冊のほうは、ホワイト案を踏襲した。

 十項目の要求事項からは「経済支援による日本の軍備削減」というユニークなアイデアは削除されたが、中国、仏領インドシナからの全面撤退など八項目までがホワイト案を採用しており、 ホワイト案の持つ非妥協的な面はすべて受け継がれた。
(P216)




 その終着点が、米国の立場のみを一方的に強調した「ハル・ノート」であったわけです。

※念のためですが、米国側は当初、「戦争」をとりあえず回避するための「暫定協定案」と「ハル・ノート」をセットで日本側に提示することを考えていました。 「ハル・ノート」で米国の原則的立場を確認し、「暫定協定案」で当面の戦争を避けようとする提案です。 しかし結果としてこの「暫定協定案」は放棄されてしまい、米国の主張をむき出しで伝える「ハル・ノート」のみが日本に提示されることになりました。


 須藤氏は、「ハル・ノート」のかわりにホワイト=モーゲンソー案が提案されていれば、あるいは日米開戦は回避できたかもしれない、と語っています。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』


 もし、ハル・ノートが、パブロフが自分の考えに近いと証言したモーゲンソー案そのままの形で手交されていたらどうなっていただろう。 少なくとも日本側は、はるかに交渉の継続を決意しやすかったろうとはいえる。

 とすれば、ホワイト=モーゲンソー案がパブロフたちの影響下に書かれたと断定しての話だが、巷間伝えられる「ソ連の陰謀説」は、まったく逆の、はなはだ皮肉な誤解をしたものである。 というのも、「陰謀説」とは逆に、ソ連の謀略が成功していれば、あるいは日米開戦は回避できたかもしれない、という歴史のイフが、 そこにある程度の現実昧を帯びて浮かび上がるからである。(P193)


 私見では、「中国からの撤兵」条項がある以上日本側がこれを承認するとはとても思われないのですが、ともかくもホワイト=モーゲンソー案が「ハル・ノート」よりもはるかに宥和的な案であったことは間違いないでしょう。


(2012.9.16)



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