日米開戦 3 |
コミンテルン陰謀説(1) 「ハル・ノート」はソ連製? |
一部右派の間では、日本の「戦争責任」を「コミンテルン」(KGB)に転嫁する、という議論が流行しています。日本が「戦争」に突入した裏には、実は「コミンテルンの陰謀」があった、という説明です。 盧溝橋事件、張作霖爆殺事件をめぐる「陰謀論」がその代表的なものですが、日米戦争の最終的な引き金となった「ハル・ノート」は実はソ連製であった、という「説」もまた有名です。 この「陰謀論」は、概ねこのような論理構成をとります。 1.ルーズベルト政権の財務長官補佐官ハリー・デクスター・ホワイトは、実はKGBのエージェントであった。 2.「ハル・ノート」の原型である「モーゲンソー試案」を作成したのは、このホワイトである。 3.そして日本は、この「ハル・ノート」によって戦争に追い込まれた。 ただし結論から言えば、例えホワイトが「エージェント」であったとしても、「モーゲンソー試案」を書いたことまでも「エージェント」としての活動の一環であった、という証拠はありません 。 また「ホワイト案=モーゲンソー試案」がそのまま「ハル・ノート」になったわけではなく、「試案」自体は必ずしも「日本を戦争に追い込む」ような性格のものとは言えない ことにも注意すべきでしょう。 以下、見ていきましょう。 ※ここでは「日本はハル・ノートによって戦争に追い込まれた」と書きましたが、 実はこの点、大いに議論の余地が存在します。 実際には日本は、11月末までに日米交渉が妥結しない場合には開戦する、という方針を固めていました。 つまり11月26日の「ハル・ノート」以前に日本は「戦争」を決意していたわけであり、ハルノートは「交渉決裂」の最後の一押しであったに過ぎません。
ホワイトがソ連と一定の関係を持っていたこと自体は、事実と見られます。まず、ホワイトの経歴を簡単に見ておきましょう。
ホワイトは、順調に出世を重ね、最後には国際通貨基金(IMF)の理事長まで経験した、米国政府の要人でした。 しかし戦後まもない時期、マッカーシズム「赤狩り」の嵐の中で、ホワイトは元「同僚」スパイたちの「告発」を受けることになります。
ホワイトは、この「疑惑」を否定しました。
ところがホワイトはこの後まもなく、心臓発作により死亡します。
他の「証言」も出ましたが、結局この時点では、事件はホワイトの死によってうやむやに終った形です。
「ホワイト=スパイ」疑惑の再浮上は、1999年、旧ソ連の暗号文書を解読した「ヴェノナ文書」の公開によります。
「非米活動委員会」では「疑惑」は曖昧なままに終りましたが、この「ヴェノナ」の記述を見る限り、ホワイトがソ連と接触し、情報提供を行っていたことまでは事実であったようです。 「ルーズベルト秘録」はこのように断定しています。
※ホワイトがソ連と一定の関係を持っていたことは事実としても、必ずしも「スパイ」とまでは断定できない、という見方もあります。
ただしホワイトは別に、自分の行動のひとつひとつについて細かくソ連から指示を受けていたわけではないようです。 「ヴェノナ」には「共産主義者の利益になるように、ホワイトはアメリカの政策自体を操ろうともした」(P211)という記述を見ることができますが、 ソ連の側が具体的にホワイトにどのように働きかけたのかは、曖昧なままです。「告発者」の側からも、このような証言があります。
結局のところ、ホワイトを「ソ連の指示のままに動くあやつり人形」のように見ることは困難であると思われます。 結果としてソ連の利益になる行動をとったことがあったとしても、それはあくまで「自主的な協力」にとどまるものであった、と考えるのが妥当でしょう。 「モーゲンソー試案」について言えば、モスクワがホワイトに「モーゲンソー試案」を書くように指示した、という証拠はありません。
つまり「モーゲンソー案=モスクワ起源説」は、「ホワイトがソ連と関係があった」ことだけを根拠とする、単なる「推察」に止まります。 元KGB工作員パブロフのように「ソ連がモーゲンソー試案に関与した」と証言している人物もいますが、その証言が事実であるかどうか、微妙なところです。 また例えこの証言が正確なものだったとしても、それはあくまで間接的な「関与」のレベルにとどまり、「モスクワがホワイトに「試案」を書かせた」とは到底言えません(後述)。 ホワイトがソ連の「協力者」であった可能性は高い。しかしその「協力」はあくまで自主的なものであったようで、ソ連から直接指示を受けて動く、という性格のものではない。 ましてやソ連がホワイトに「モーゲンソー試案」を書かせた、という信頼できる証拠は存在しない。 ここでは、これをとりあえずの結論とします。
そもそもの話、ホワイト原案(モーゲンソー試案)は必ずしも「日本を戦争に追い込む」ことを目的としたものとは言えない、と見られます。 つまり仮に背後に「ソ連の陰謀」があったとしても、その意図は「日米戦争」を煽ろうとするものではなかった、ということになります。 まずは、ホワイトの手になったと伝えられる「モーゲンソー試案」の内容を見ていきましょう。
「日本に大なる利点を提供」して「好戦的かつ強大なる敵を平和的にして且つ繁栄する隣人に変換する」 ―「はじめに」を読む限り、この提案は、日本を追い詰めるどころか、 日本とアメリカの双方が利益を得る、いわば「ウィン・ウィン」の関係を狙っていたもの、ということができるでしょう。 アメリカの歴史学者、アトリーの記述を見ます。
ホワイト案は、日本とアメリカを「敵対関係から共生関係へ移行させる」ものであった、という評価です。 「モーゲンソー試案」の具体的な内容を見ましょう。大変な長文ですので全文はこちらに譲り 、ここでは「ルーズベルト秘録」及び須藤氏による要約を紹介します。
要するに、日本が中国などから手を引くこととバーターに、米国は日本に対して経済的利益を供与する、という内容です。 「モーゲンソー試案」は、日本側のメリットを、次のように強調してみせます。
後の眼で見ると、これは日本側にとって必ずしも受け入れやすい提案ではなかったかもしれません。 一連の日米交渉の経緯を見ると、日本陸軍に「中国撤兵」の条件を受け入れさせることは、限りなく困難なことであったことがわかります。 ホワイト=モーゲンソー案は、日本陸軍の頑迷さを甘く見て、「経済的利益さえ与えれば日本は妥協を受け入れる」と考えていた節があります。 ともかくも、米国側の視点から見ると、これは日米交渉の行き詰りの打破を目指す「画期的な提案」として登場しました。 ただしホワイトは、明らかな「中国派」でした。 ホワイトにとっては、おそらく「中国の利益のために日本の撤兵を求める」ことが最重要だったのでしょう。「日本に経済的利益を与える」というのは、そのための手段であったに過ぎません。 例えば日本がこの提案を拒絶したらどうするのか。その時には、ホワイト=モーゲンソー案の「非妥協的な一面」が浮上することになります。
※「ゆう」注 ここでは須藤眞志氏やアトリーの考えに従って「ホワイトは日本を戦争に追い込む意図はなかった」という解釈をとりましたが、 公平を期するために、ホワイトは実は「日米戦争」を開始させようとしたのだ、という見方をする論者も存在することは付記しておきます。 一例として、ルーズベルトの政敵であったハミルトン・フィッシュ下院議員(共和党)の主張を、ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』より紹介します。
ただしスラヴィンスキー自身は、これを「ホワイトに対する・・・激しい悪意に満ちた評価」(P18)である、と評しています。 さてホワイト=モーゲンソー案は、米国政府内での検討に回されることになります。 当初のホワイト案は「共生」を目指すものでしたが、この中で、案の非妥協的な側面がどんどん強調されていきました。 最後にはそれは、「ほとんど原型をとどめぬ」ものに変質してしまいます。
その終着点が、米国の立場のみを一方的に強調した「ハル・ノート」であったわけです。 ※念のためですが、米国側は当初、「戦争」をとりあえず回避するための「暫定協定案」と「ハル・ノート」をセットで日本側に提示することを考えていました。 「ハル・ノート」で米国の原則的立場を確認し、「暫定協定案」で当面の戦争を避けようとする提案です。 しかし結果としてこの「暫定協定案」は放棄されてしまい、米国の主張をむき出しで伝える「ハル・ノート」のみが日本に提示されることになりました。 須藤氏は、「ハル・ノート」のかわりにホワイト=モーゲンソー案が提案されていれば、あるいは日米開戦は回避できたかもしれない、と語っています。
私見では、「中国からの撤兵」条項がある以上日本側がこれを承認するとはとても思われないのですが、ともかくもホワイト=モーゲンソー案が「ハル・ノート」よりもはるかに宥和的な案であったことは間違いないでしょう。 (2012.9.16)
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