日米開戦6 「日米開戦」まで1ヵ月(2)

「乙案」をめぐる日米外交交渉



 かくして「外交条件」は決定されました。東郷外相の手持ちのカードは、米側がまず受け入れそうにない甲案、「援蒋停止条項」が加重された乙案の二案です。

 十一月三十日までという短い期間にいずれかの案が成立しなければ、即「開戦決定」です。まず東郷外相は、米国大使館の野村大使に対し、状況が大変厳しいものであることを伝えます。
※東郷大臣と野村大使らとの膨大な電報のやりとりを収録した外務省編纂「日米外交資料」を、こちらに掲載しました。


十一月四日東郷大臣発野村大使宛電報第七二五号

二、帝国内外の事態は極て急迫を告げ今やー日をも曠(むなし)くするを許さざる状態にあるも 帝国政府は日米間の平和関係を維持せんとする誠意より熟議の結果交渉を継続するものなるが 本交渉は最後の試みにして我対案は名実共に最終案なりと御承知ありたく 之を以てしても猶急速妥結に至らざるに於ては遺憾乍ら決裂に至るの外なく 其結果両国関係は遂に破綻に直面するの已むなきに立至るものなり

 即ち今次折衝の成否は帝両国運に甚大の影響ありて実に皇国安危に係はるものなり(P385)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)

十一月五日東郷大臣発野村大使宛電報第七三六号

(交渉期限の件)

 本交渉は諸般の関係上遅くも本月二十五日迄には調印を完了する必要ある処 右は至難を強るが如きも四囲の形勢上絶対に致し方なき義に付 右篤と御了承の上 日米国交の破綻を救ふの大決意を以て完全の御努力あらむことを懇願す

 右厳に貴大使限りの御含み迄(P396-P397)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)


 これは最終案である。これで妥結しなければ両国関係は「破綻」に直面する。遅くとも「本月二十五日」までに妥結しなければならない。東郷外相は、強い言葉で現場に「危機感」を伝えます。
※実際の交渉期限は「十一月三十日」でしたが、東郷外相は、若干の余裕をもって現場指示を行ったようです。


 ところが日本から米国大使館宛の電報は、すべて米国側に傍受解読されていました。米側は、日本側が交渉のタイムリミットを「十一月二十五日」に設定したことを知ってしまうことになります。


『ハル回顧録』より 

 ついに傍受電報に交渉の期限が現われて来た。東郷は十一月五日野村にあてた電報で次のように述べていた。


 「いろいろの事情で、この協定調印のすべての準備を今月二十五日までに完了することが絶対に必要である。むずかしい命令だということはわかっているが、現在の状況ではどうにもならない。この点とくに御承知の上、日米関係を混乱に陥れないよう問題に取りくまれたい。」



 これの意味するところはわれわれには明白だった。日本はすでに戦争の車輪をまわしはじめているのであり、十一月二十五日までにわれわれが日本の要求に応じない場合には、米国との戦争もあえて辞さないことにきめているのだ

 そこで私は、十一月七日定例閣議の席で、近づきつつある危険を警告した。(P178-P179)



 情勢は極めて緊迫していた。その前日野村は東郷外相から十一月二十五日を期限とすることを再確認する電報を受取っていた。これも傍受によってわかっていたが、それは次のように述べていた。


 「あなたの意見では、戦争がどういう方向に進展するかを見ていて、辛抱づよくしていなければいけないというが、残念ながら現在の情勢からいってそんなことは問題にならないのである。

 私はさきに交渉成立の期限を切ったが、これは今後も変ることはないだろう。この点をよくのみこんでもらいたい。時は迫っていることを御承知ありたい。

 だからこれ以上米国に交渉の引きのばしを許してはならない。われわれの提案を基礎にして一刻も早く解決に導くよう努力されたい。」



 つまり米国は前もって点線で書いてある上をなぞるか、さもなければ将来の事態の全責任を負うかというわけだった。(P179-P180)



 東郷外相は「タイムリミット」に追い詰められていましたが、アメリカ側も同様、悩みを抱えることになります。

 25日までに交渉が妥結しない場合、日本側は戦争を覚悟している。であればアメリカ側も同様に、「あえて日本に譲歩して交渉を妥結するか、それとも戦争か」の選択をしなければならない。

 後で見る通り、ハル国務長官らは、受け入れがたい「乙案」に替えて、アメリカ側独自の「暫定協定案」づくりを試みます。しかし最終的に「暫定協定案」は放棄され、日本側に譲歩することは何もない、と言わんばかりの「ハル・ノート」が提示されることになります。

 この項では、日米交渉の進展、そしてその破綻までを見ていきます。



 
 野村大使の独断提案


 誰よりも交渉の困難さを承知していたのは、米国にあって実際の交渉に当っていた野村大使でした。

 交渉は、「甲案」から始まりました。しかし当初の予想通り、交渉は難航します。

 残るカードは「乙案」のみです。しかし「乙案」をそのまま提案したのでは妥結の見込みが薄い。そう判断した野村大使は、東郷外相の指示を離れて、独断で思い切った提案を行いました。

来栖三郎『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』より

 この時野村大使から重大な提案がなされたのである。

 その野村大使の提案というのは、

 三国同盟を結局いかにするかというような根本問題を、今ただちに解決しようとするのははなはだ困難であると思う。しかもその間に日米双方の兵力の配置が増加されてゆけば、いつかは不幸なる破局に立ち至るのではないか。

 よって高遠な理想論を闘わすことはしばらく措いて、さしあたり緊張した空気を緩和することが必要であると思う。

 それにはまず双方資産凍結令以前の事態に復帰することときめて、日本側は仏印南部から撤兵するのに対し、米国側は凍結令を解除する。かくして両国間の空気を緩和すれば、シンガポールに軍艦を送ったり、比島の防備を強化したりする必要もなくなるであろうから、その上で話を進めようではないかという趣旨なのである。(P94)

※「ゆう」注 著者来栖三郎は、野村大使のサポート役として、11月中旬、特使として米国に派遣された。


 先に述べた通り、「連絡会議」で決定された「乙案」は、単純な「7月以前への現状復帰」ではなく、それに「援蒋行為の停止」という難条件を加えたものでした。

 しかし、現地の野村大使・来栖特使は、「日本側が南部仏印から撤兵するゆえ、アメリカも資産凍結を解除する」というバーター案を、独断で提案してしまいました。いわば「援蒋停止状況」を抜きにした「乙案」です。
※なお野村大使自身は、東郷外相が当初「援蒋停止条項」抜きの乙案を提案したが、軍部の抵抗によりこの条項を加えられた、という経緯を知る由もありません。この提案は、あくまで「現場の独自判断」でした。

 この時期米国側の関心は、対日戦の準備が整うまでの「時間稼ぎ」にありました。その意味で、最大のネックとなる「援蒋停止条項」がない「暫定協定案」は、魅力的なものに映ったのかもしれません。

 野村大使のサポート役として派遣された来栖特使によれば、この提案は、米側にも一定の好意をもって迎えられたようです。

来栖三郎『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』より

 この請訓に対する政府の回電がこないうちに、十八日の野村大使提案は、米国でも好意的に考慮する意向であるという情報が、しきりにわれわれの耳にはいってきた

 翌十九日の朝には、交渉のそもそもの始めから、いろいろと日本側を援助してくれたウォルシュ僧正が、自分を大使館に訪ねてきて、米国側が野村大使の提案を受諾するであろうという趣旨の情報を伝えた上で、使命の達成を祝すると述べて固く自分の手を握って去り、十九日夕野村大使とともに訪問したウォーカー郵政長官も、同じような情報を語った末、野村大使に対して、アドミラルは軍事用石油と民需用石油との区別はよくご承知であろうなどと話して、非常によろこんでくれたような事情であった。(P98)



アメリカの歴史家ハーバート・ファイスも同様の記述を行っています。

ハーバート・ファイス『真珠湾への道』

 野村の構想なるものは、両国政府が事態を、日本が兵を仏印南部に進め、これに対し米・英両国が対日禁輸を断行した七月以前の状態に復する、ということであった。

 ハルはこの時までは非妥協的であった。しかし、今ややっと少くとも時をかせぐための機会がきた、とかれは考えた。時は米国および米国の味方の国々が戦争に対処するのによりよい体制を与えてくれることであろう。また同時に、時は日本政府をして軍部になお一層の譲歩を行わしめるとともに、国民に政策後退の考え方を植えつけさせることもできるであろう。(P276-P277)

 野村が示唆した際には、この提案は不完全なかつ非公式な一つの構想にすぎないということであった。ハルも、これに対応して、この提案に若干の関心を示す程度の言葉以上の反応をみせなかった。

 ハルは野村に対して、もしお説のような取極めができたら、交渉は継続されることになるのであろうかと質ねた。これに対して野村は然りと答えた。

 そこでハルは、かような手段によって日本の指導者がその地位を保持し、かつ世論を平和的方向に導くことができるという事情については充分理解しうると述べ、一応この提案を英国およびオランダ政府に伝えて、これらの政府がどのように考えるかをみてみよう、と野村に語った。(P276-P277)




 しかし軍部が強引に「援蒋停止条項」を押し込んだ経緯から見て、この野村=来栖案では、例え米側がこれを呑んだとしても、日本側で国内がまとまりそうにありません。軍部の猛反発は必至です。

 東郷外相は、野村大使の「独断」を思い切り叱責します


東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』より

 殊に大使が折角提出せんとする乙案の範囲を縮小して先方へ提出したことは、交渉技術より見れば目茶である、このようなやり方で交渉の成立した例はないことであった。(P346)



十一月二〇日東郷大臣発野村大使宛電報第七九八号

(乙案提出方指示の件)

 往電第七九七号に関し

 御来示の方式の「日本の平和的政策を一層明確にしたる上にて」なる条件は三国条約問題を当然予想し居るものと察せられ決して日本が南部仏印より撤兵し米国は凍結令前の状態に還ると云ふだけのものにあらず 米国側に於ては相当煩雑なる条件を持出し来る余地あり

 他方我国内情勢は南部仏印撤兵を条件として単に凍結前の状態に復帰すと云ふが如き保障のみにては到底現下の切迫せる局面を収拾し難く尠くとも乙案程度の解決案を必要とする次第なり

 情勢右の如く差迫り居るを以て貴電私案の如き程度の案を以て情勢緩和の手を打ちたる上更に話合を進むるが如き余裕は絶無なり 旁々貴大使が当方と事前の打合せなく貴電私案を提示せられたるは国内の機微なる事情に顧み遺憾とする処にして却って交渉の遷延乃至不成立に導くものと云ふの外なし

 仍而責使は此際右私案に対し当方より修正訓令に接したりとて往電第七九九号、第八〇〇号及第八〇一号御参照の上次回の会見に於て乙案御提示相成度く 尚右は帝国政府の最終案にして絶対に此の上譲歩の余地なく 右にて米側の応諾し得ざる限り交渉決裂するも致し方なき次第に付 右篤と御含みの上万善の御努力を払はれ度し

 尚貴電第一一三三号及第一一三四号御来示の次第はあるも本件交渉は既報訓令の範囲内に於てのみ受諾可能なるに付右特に申進す(P467)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)


 軍部の強硬姿勢を知らない野村大使らにとって、この叱責は予想外のことであったかもしれません。このあたりのすれ違いには、「東郷はアメリカ側の、野村は日本側の厳しい状況を充分に理解していなかったようである」(須藤眞司『日米開戦外交の研究』P259)という評が適切であるように思います。

 かくして野村大使の「独断提案」は幻に終わりました。交渉は再び、軍部の意向を一定程度反映した「乙案」に戻ることになります。




 「乙案」は提示されたが・・・


 東郷外相に残されたカードは、「乙案」のみです。

 東郷外相は、いよいよ最後の切り札、「乙案」の提示を命じることになります。ただし東郷自身が語る通り、「乙案」は野村=来栖私案よりも後退した形になってしまいましたので、インパクト不足は免れません。

 「乙案」に対する米国側の反応です。ハルの回想では、ここまで酷評されています。


『ハル回顧録』より

 十一月二十日、この日は感謝祭日だったが、野村と来栖は私に日本政府の新しい提案を手渡した。これは非常に極端な内容のものだったが、われわれは電報の傍受によってこれが日本の最終的な提案であることを知っていた。

 それは最後通告だった。日本の提案は途方もないものであった。米国政府の責任ある官吏はだれひとりとしてこれを受諾しようなどとは思いそうもないものだったが、私はあまり強い反応を見せて日本側に交渉打切りの口実を与えるようなことになってはいけないと思った。(P180)



『太平洋戦争秘史 米戦時指導者の回想』(毎日新聞社)

(ハル回顧録より)

 日本の提案を受諾することによって米国の負う義務はまったくもって降伏にひとしいものであった

 米国は日本が必要とするだけの石油を供給し、凍結令を解除し、日本と完全な通商関係を復活しなければならない。また、米国は中国援助を停止し、公式に承認された蒋介石政府に対する精神的ならびに物質的支持を引っ込めねばならない

 さらにその上、米国は日本が蘭印から資材を入手することに援助を与え、西太平洋地域の米国の軍事力増強を停止しなければならない、というのである。

 一方、日本の方は中国との和平成立までは、依然として対中国作戦を続行し、ソ連を攻撃し、北部仏印に駐兵する権利を保有することになっていた。

 日本が仏印に派遣することのできる軍隊には制限がなかった。日本が進んでこの軍隊を南部仏印から北部仏印に撤退するということは、この軍隊は一両日のうちに復帰することができるのであるから、まったく無意味なことであった。(P116)



証言記録 コーデル・ハル

 この提案は米国に向って、日本が必要とする多量の石油を供給し、凍結措置を中止し、米国の中国援助を打ち切り、正式に承認されている蒋介石政府に対する精神的物質的支援を放棄することを要求したものであった


 それには、日本軍の南部仏印から北部仏印への撤退という条項が含まれていた。しかし、そのさい仏印に派遣される日本の兵力数は全然制限されておらず、さらに、日本軍の撤退についての条項は、日中間に平和が回復されたあとか、また、太平洋地域に「公平な」平和が樹立されたあとまで、何一つ定められていなかった。

 日本軍がこんご仏印をのぞく東南アジアや南太平洋へ進出しないという条項はあったが、しかし、たとえば、日本が中国やソ連を含め北部仏印にいたるまでのアジア各地へ絶えず新しい侵略活動を起すのを防止することを規定した条項は全然なかった

 提案には、日本が侵略をやめ、平和のコースヘ転換することを保障した条項は皆無であった。



 ただしこれらはいずれも「真珠湾」後の回想であり、米国内世論を慮って、必要以上に「拒絶」の姿勢を強調している可能性はあります。それにしても、「援蒋停止条項」がある以上このままでは受け入れがたい、とハルが判断したことは間違いないでしょう。

 日本側の記録を見ましょう。


野村吉三郎『米国に使して』


 十一月二十日正午、来栖大使と共に国務長官を往訪、一時間半会談した。

 日本の暫定案(乙案と称す)を提出し、各項につき来栖大使より設営したのに対し、長官は他の部分についてはさしたる質問もしなかったが、 日支全面和平の努力を妨ぐるが如き行為をなさざるを約すとの項につき大なる難色を示し、三国同盟に対する従来の主張を繰返し、 米国としてはドイツのコンクェストに対し援英をなし、又日本の政策が劃然平和政策とならざる限り援蒋は恰も援英と同一であると申して

援蒋打切は困難なり

と云ひ、尚

「今日の事態となる迄には在支米国権益の被害もある次第である」

と申した。

 (P150)


来栖三郎『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』より


 ・・・米国が乙案に合意を拒んだ理由の主な点を列記してみると、つぎの通りである。

(一) 蒋介石援助打切り
 蒋介石援助打切りは、対英援助打切りと等しく、ドイツのあくなき武力侵略政策に対抗しつつある米国として、とうてい承服することは出来ない

(二) 仏印兵力北部移駐
 仏印南部の兵力を単に北部に移駐するのみでは、米国を始め関係国の兵力は、いぜん南西太平洋方面に釘付けにされるので不満足である。(P99-P100)

(三) 日本要人の言説
 日本要人の言説は、相変らずヒットラー流の武力拡大政策を主張するもので、日本の平和的意図を信ぜしむるがごときものでない。

(四) 日本の強要的態度
 英蘭華等関係各国いずれも本国に稟請の必要あり、米国側としても、種々の国内関係があるのを考慮せず、日本側が遮二無二回答を督促するのは、「強要」(デマンド)のごとき感じを与える。

 だいたい以上の諸点に帰するのだが、ほかに米国側としては、南西太平洋方面におけるわが兵力の増強とか、泰国進駐の前提とみられる日泰同盟交渉進行中云々の情報等が、頻々として伝えられてきたことにもすこぶる関心を払ったものと思われる(十一月二十三日野村発東郷宛電報第一一五九号)。(P100)



 「南仏印からの撤退」だけでは意味がない。また「蒋介石援助打切り」は、到底承認することができない。これがおおまかに、日本側に提示されたハルの反対理由でした。


 しかし「乙案」は、東郷外相の最後の切り札です。何とか手を尽して米側を説得するように、と必死に交渉を督促します。

 ここに、アメリカ側にもショックを与えた、有名な電報が登場します。


十一月二十二日東郷大臣発野村大使宛電報第八一二号

(交渉督促の件)

 往電第七三六号の期日は変更し難きものなること御承知の通りなるが 貴方に於ても折角御努力中にもあり又帝国政府としても既定方針を堅持しつつ最後迄情理を尽くして局面収拾に最善の努力を傾け以て能ふ限り日米国交の破局を阻止し度きを以て 御想像に余る絶大なる困難ありたるにも拘らず 茲三、四日中に日米間の話合を完了し二十九日迄に調印を了するのみならず 公文交換等に依り英蘭両国の確約を取付け 以て一切の手続完了を見得るに於ては夫れ迄待つことに取計らひたく(P478-P479)

 就ては右期日は此の上の変更は絶対不可能にして其の後の情勢は自働的に進展するの他なきに付き如上の次第篤と御含みの上交渉完結に付き充全の御努力相成度し

 右厳に両大使限りの御含み迄(P479)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)


 期日までに交渉が妥結しなければ「情勢は自働的に進展する」。すなわち「戦争」になってしまう、という厳命です。 そして東郷外相は、なおもこの「乙案」をもって米国側を説得するように、と指示します。


十一月二十四日東郷大臣発野村大使宛電報第八二一号

(乙案督促の件)

 貴電第一一五九号及一一六一号に関し

一、米側及英濠蘭諸国に於ては南部仏印撤兵のみを以ては不満足なりとなし居るが如き処 右は当方に於ては局面打開の為め真に難きを忍びて敢てせる提案にして右以上の譲歩は絶対不可能なり

二、当方の期待する所は単に貴電の日米貿易恢復乃至凍結令実施前の状態への復帰に止まらざることは往電第七九八号申進の通りにて乙案包含の事項は第六及第七項以外全部実現を要する次第なり

 従って援蒋行為停止は(蘭印物資確保及米国の対日石油供給と共に)絶対不可缺の要件にして右は帝国の公正妥当なる要求なるに鑑み米国政府にして之をしも認め難しとするは当方の甚だ理解に苦しむ所なり

 就ては往電第八一六号の趣旨を以て重ねて米側を説得相成度し

(P480)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)



 しかし現地から伝わってくる見通しは暗いものでした。


十一月二十六日野村大使発東郷大臣宛電報第一一八〇号

(野村、来栖打開策具申の件)

 野村来栖より

 累次往電の通り乙案全部を容認せしむる見込殆ど無くー方時日は切迫 此の儘にては遺憾乍ら交渉打切りの外なく微力慙愧に堪へず

(P483)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)


 「ハル・ノート」の提出を待たず、この段階で、日本側は「交渉成立」の見込みがないことを認識せざるを得なくなっています。そして26日、いわゆる「ハル・ノート」の提示により、交渉は最終的に決裂することになります。




 米国側の動き 幻の「暫定協定案」


 ただし実は、米側はひそかに、日本側の「乙案」にかわる「暫定協定案」を検討していました。

 これは日本側に提示する直前までいきますが、提出間際になってルーズベルト大統領もしくはハル国務長官が翻意し、結局は幻の「協定案」となってしまいます。

 以下、その経緯を見ていきましょう。


 さて、「乙案」は受け入れがたい、とする先の記述に続いて、ハルはこんなことを書いています。


『ハル回顧録』より

 外交的には情勢は殆んど絶望であった。しかしわれわれとしては手段をつくして平和的な解決を見出し、戦争をさけたい、あるいは先にのばしたいと考えた。

 私はスチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長などと絶えず接触していたが、これらの人々は抵抗の準備をするためにもっと時が必要だといった。(P182)



 米国にとっては、なお「時間稼ぎ」が必要でした。「乙案」そのものは受入れられないまでも、「暫定協定」による「一時的戦争回避」の考えは、米側にとっても魅力的だったようです。

 米側暫定協定案については、大杉氏のまとめがわかりやすく適切ですので、ここに紹介します。


大杉一雄『真珠湾への道』


 結局二十二日国務省は、三ヵ月間の暫定協定案と戦後構想的な基礎協定案との二案を作成した。

 暫定協定案(乙案に相当)には南部仏印より日本軍の即時撤退、北部仏印駐留軍を四一年七月二十六日現在の兵力(二万五千人)まで削減、交代を認めず、資産凍結の解除、などの項目があった

 基礎協定案(甲案に相当)には、例の四原則、無差別通商を謳った後、各国間の多角的不可侵条約締結、中国における租界・治外法権の放棄、日米貿易協定締結、米国は満州国の将来の地位について日中の平和的交渉を提議すること、日本軍の中国(満州を除く−傍点引用者)・仏印よりの撤退、重慶以外の政府を援助しないなどの項目があり、米国はこの両案を同時に日本に提示するつもりであった(現実に日本に与えられたのは本基礎協定案を修正したハル・ノートのみとなる)。

 二十二日ハルはハリファックス英国大使、カセイ豪州公使、ラウドン和蘭公使および胡適中国大使に暫定協定案を内示し本国からの訓令を依頼したが、この案を日本側が受け入れる可能性は三分の一もないであろうと述べた。

 (P434)



 しかし二十五日最終的に決定された暫定協定の要点は次の通りで、日本にとって厳しいものとなったのは国務省、財務省の官僚たちによって議論されている間に、多くの条件が加重されたからである(アトリー、前掲書。基礎協定案も二十四日案、二十五日案となり最終的に二十六日案〈ハル・ノート〉となる)。



1)日米両国は太平洋の平和を切望し、この地域に領土的企図を有しないことを確認する。
(2)両国は極東アジア、南北太平洋に軍事力もしくは軍事的脅威による進出を行わない。
(3)
南部仏印より日本軍の即時撤退。仏印駐留軍を四一年七月二十六日現在の兵力まで縮小
(4)米国の資産凍結・貿易制限措置の即時緩和。ただし、
   (a)日本からの輸入は自由だが輸入額の三分の二は生糸とする。
   (b)輸出は以下の項目別に規制される。
    (一)貿易のための船舶用の燃料および必需品、
    (二)食糧・同加工品、
    (三)一ヵ月六十万ドルまでの綿花、
    (四)医薬品、
    (五)民需用の石油、ただし量は英蘭両国と協議、
    (六)情勢好転により増量および商品の追加ができる。
(5)日本の凍結・貿易制限措置の即時緩和。
(6)米国政府は直ちに英、豪、蘭政府に対し、対日凍結・貿易制限の緩和を勧告する。
(7)米国は日中和平交渉が、現在の日米交渉の中心的精神である、太平洋全域の平和、法、秩序および正義の諸原則を基礎とし、かつそのよい例となることを期待する。
(8)
暫定協定の有効期限は三ヵ月とするが、日米のいずれかの提議により延長し得る。(P435)




 米側提案は、上の「暫定協定案」と「基礎協定案」(いわゆる「ハル・ノート」)の二本建てとなる予定でした。

 「基礎協定案」で米国の原則的立場を確認する。そして「暫定協定案」で3ヵ月の猶予を持ち、交渉を継続する。つまりこの段階では、「基礎協定案」(ハル・ノート)は単独で提案されるべきものではなく、あくまで「暫定協定案」とのセットであり、いわば「交渉の叩き台」としての位置付けであったわけです。

 日本側「乙案」との大きな違いは、当然ながら「援蒋停止条項」がないこと、そして南仏印からの撤兵のみならず北部仏印の兵力を「2万5千人」に制限していること、の2点でしょう。
※「北部仏印の兵力制限」は、裏返せば米側が日本の「北部仏印駐兵」を認めたことになります。米国側から見れば、これは大きな「譲歩」でしょう」。

 ただし米側は、上のハルの「この案を日本側が受け入れる可能性は三分の一もないであろう」という発言に見られる通り、成立可能性にはあまり期待をしていなかった気配があります。

 スチムソン国務長官の日記からです。


ヘンリー・L・スチムソンの証言記録

一 スチムソン日記

一九四一年一一月二五日 火曜日

 今日は実に多忙な日であった。九時三〇分にノックスと私はハルのオフィスで会い、三人会談をした。ハルは三ヵ月の休戦案を提示した。彼は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった。

 それは米国の利益を十分に保護したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた。(P14-P15)

(「現代史資料34 太平洋戦争(一)」所収)


 米国側としては原則は曲げられない(ハル・ノート)。しかし当面は「戦争」を避けておこう(暫定協定案)。このセットであれば、少なくとも日本側は「米国側が戦争を覚悟した」とは捉えなかったでしょう。

※「暫定協定案」が提案されたら歴史はどう動いたか。例えば戦後、「暫定協定案」の存在を知った東條首相は、「あれがくればなあ・・・」と嘆いていた、と伝えられます(佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』P242)。このあたりは「歴史のイフ」の世界であり、論壇でもさまざまな議論があります。

 あえて私見を述べれば、この「暫定協定案」で軍部を納得させることは困難であり、既に真珠湾攻撃に向けて出発してしまった「連合艦隊」を呼び戻すほどの力はなかったのではないか、と考えます。「非戦派」が「天皇の直接指示」等の究極の切り札を持ち出すことに成功できれば、あるいは情勢は変化したかもしれませんが、その可能性は決して高いものではなかったでしょう。


 しかしなぜか、提出当日の朝になって、突然「暫定協定案」は放棄されてしまいます。その理由については諸説あり、今日に至るも決着が着いたと言える状況にありませんが、「中国の反対」説、あるいは「日本軍南下情報」説などが唱えられています。(詳細は煩雑になりますので省略します)

 ともかくも、日本側に対しては、「暫定協定案」抜きのむきだしの「原則論」(ハル・ノート)が提案されてしまいました。





 
 「ハル・ノート」の提示


 こうして11月26日(日本時間27日)、「ハル・ノート」が提示されることになります。

※「ハル・ノート」及び「暫定協定案」の全文は、こちらに掲示しました。


十一月二十六日野村大使発東郷大臣宛電報第一一八九号

(野村、来栖「ハル」会談の件)

 二十六日午後四時四十五分より約二時間本使及来栖大使「ハル」長官と会談す

 「ハル」より茲数日間本月二十日日本側提出の暫定協定案(我方乙案)に付米国政府に於て各方面より検討すると共に関係諸国と慎重協議せるも遺憾乍ら之に同意出来ず

 結局米側六月二十一日案と日本側九月二十五日案の懸隔を調節せる左記要領の新案をー案(a plan)として(ten tative and without commitmentと肩書す)提出するの已むを得ざるに至れりとて左の二案を提出せり

甲、所謂四原則の承認を求めたるもの(P483)

乙、
(一) 日米英「ソ」蘭支泰国間の相互不可侵条約締結
(二) 日米英蘭支泰国間の仏印不可侵竝に仏印に於ける経済上の均等待遇に対する協定取極
(三) 支那及全仏印よりの日本軍の全面撤兵
(四) 日米両国に於て支那に於ける蒋政権以外の政権を支持せざる確約
(五) 支那に於ける治外法権及租界の撤廃
(六) 最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約締結
(七) 日米相互凍結令解除
(八) 円「ドル」為替安定
(九) 日米両国が第三国との間に締結せる如何なる協定も本件協定及太平洋平和維持の目的に反するものと解せられざるべきことを約す(三国協定骨披き案)

 右に対し我方より全然従来よりの話合に惇り東京に取次ぐことすら考慮せざるを得ずとて強硬応酬を重ねたるが「ハル」は到底譲る気色なし

 米側にて斯る強硬案を提示するに至れるは英蘭支の策動に依る外援蒋行為停止の我方要求と数日来我国要人の英米打倒演説 我対泰国国防全面委任要求説等に影響され米側の妥協派が強硬派に圧倒せられたる為かと推察す(P484)

(外務省編纂『日米交渉資料』より)


 「ハル・ノート」の提示は、「交渉妥結」のわずかな望みを断ち切るもので、交渉当事者たちに強い失望を与えました。


東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』より

「ハル・ノート」に痛く落胆し辞職を考慮す

 しかしここに自分の個人的心境を顧れば、「ハル」公文に接した際の失望した気持は今に忘れない。「ハル」公文接到までは全力を尽して闘いかつ活動したが、同公文接到後は働く熱を失った。その直後賀陽大宮の葬儀に於て「グルー」大使に邂逅したから、自分は全く失望したと話したことを記憶する。

 戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みにしようとしてみたが喉につかえてとても通らなかった。(P375)

 


来栖三郎『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』より

運命のハル・ノート

 かくのごとくにしてついに忘れられない十二月二十六日がきて、野村大使と自分とは午後四時四十五分に国務長官と会見(十一月二十七日野村発東郷宛第一一九一、一一九二、一一九三号)し、今日では有名な歴史的文書になった同日付の「ノート」(一九四一年十一月二十六日国務長官より受領せる米国対案)を受け取ったのである。

 その文書は冒頭欄外に「暫定かつ無拘束」としてあり、かつ先方は「一案」であると説明したのであるが、その内容をみれば、米国側は従来の主張から一歩も引いていないことが分るのみならず、全然交渉の始めに戻ったといった方が適当な点が多く、ことに同時に手交された口上書(オーラル)(十一月二十六日野村発東郷宛電報第一一九三号)によれば、わが方の最後案たる乙案に対して、「合衆国政府は斯かる提案の採択は太平洋地域に於ける法、秩序、及正義に基ける平和確保の究極目的に寄与し得ざるべしと信じ、且既述の基本原則の実際的適用に関する両国見解の相違を解決する為更に努力せらるべき旨示唆するものなり」と述べてある。

 すなわち一口にいうと乙案は受諾出来ないからさらに論議しようというのである。(P107-P108)

 したがってかねて乙案提出の際に、前にも述べた通り、「右にて米側の応諾を得ざる限り交渉決裂するも致方なき次第につき」と訓令されている上に、二十九日までに調印完了というタイム・リミットを課せられているわれわれの失望は甚大なものであった。(P108)




 しかしそれはあくまで、「外交交渉妥結」の最後の細い糸が断ち切られたに過ぎず、「ハル・ノート」自体が「戦争」を引き起こしたわけではない、ということには注意しておく必要があるでしょう。

 例えば、当時大本営参謀本部作戦課に在籍していた瀬島龍三は、こんな見方をしています。


瀬島龍三回想録『幾山河』より

 次に、「ハル・ノート」が十一月二十七日に来なかった場合を想定してみる。

 十一月五日の御前会議では、「十二月一日午前零時までに交渉が成立しない場合、開戦する」と定められた。陸海軍の作戦準備もこの方向に沿って推進された。

 「ハル・ノート」に直面しない場合、ただちに開戦に踏み切らないにしても、半月から一カ月ぐらい後には開戦に突入せざるを得なかったであろう。(P159)

※「ゆう」注 私見ですが、十一月二十六日に真珠湾奇襲のための「連合艦隊」が出発してしまった以上、この艦隊を「半月から一カ月」も発見されるリスクを冒して太平洋上に遊ばせておくわけにいかないでしょう。もっと早期に「開戦に突入」した可能性が高いと考えます。

※※瀬島龍三は、戦後伊藤忠商事の副会長となり、経済界の重鎮として活躍した人物です。山崎豊子『不毛地帯』の主人公のモデルともなりました。


 次章では、「ハル・ノート」を「歓迎」した勢力にスポットライトを当てます。


(2013.1.12)
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