日米開戦6 | 「日米開戦」まで1ヵ月(2) 「乙案」をめぐる日米外交交渉 |
かくして「外交条件」は決定されました。東郷外相の手持ちのカードは、米側がまず受け入れそうにない甲案、「援蒋停止条項」が加重された乙案の二案です。 十一月三十日までという短い期間にいずれかの案が成立しなければ、即「開戦決定」です。まず東郷外相は、米国大使館の野村大使に対し、状況が大変厳しいものであることを伝えます。 ※東郷大臣と野村大使らとの膨大な電報のやりとりを収録した外務省編纂「日米外交資料」を、こちらに掲載しました。
これは最終案である。これで妥結しなければ両国関係は「破綻」に直面する。遅くとも「本月二十五日」までに妥結しなければならない。東郷外相は、強い言葉で現場に「危機感」を伝えます。 ※実際の交渉期限は「十一月三十日」でしたが、東郷外相は、若干の余裕をもって現場指示を行ったようです。 ところが日本から米国大使館宛の電報は、すべて米国側に傍受解読されていました。米側は、日本側が交渉のタイムリミットを「十一月二十五日」に設定したことを知ってしまうことになります。
東郷外相は「タイムリミット」に追い詰められていましたが、アメリカ側も同様、悩みを抱えることになります。 25日までに交渉が妥結しない場合、日本側は戦争を覚悟している。であればアメリカ側も同様に、「あえて日本に譲歩して交渉を妥結するか、それとも戦争か」の選択をしなければならない。 後で見る通り、ハル国務長官らは、受け入れがたい「乙案」に替えて、アメリカ側独自の「暫定協定案」づくりを試みます。しかし最終的に「暫定協定案」は放棄され、日本側に譲歩することは何もない、と言わんばかりの「ハル・ノート」が提示されることになります。 この項では、日米交渉の進展、そしてその破綻までを見ていきます。
誰よりも交渉の困難さを承知していたのは、米国にあって実際の交渉に当っていた野村大使でした。 交渉は、「甲案」から始まりました。しかし当初の予想通り、交渉は難航します。 残るカードは「乙案」のみです。しかし「乙案」をそのまま提案したのでは妥結の見込みが薄い。そう判断した野村大使は、東郷外相の指示を離れて、独断で思い切った提案を行いました。
先に述べた通り、「連絡会議」で決定された「乙案」は、単純な「7月以前への現状復帰」ではなく、それに「援蒋行為の停止」という難条件を加えたものでした。 しかし、現地の野村大使・来栖特使は、「日本側が南部仏印から撤兵するゆえ、アメリカも資産凍結を解除する」というバーター案を、独断で提案してしまいました。いわば「援蒋停止状況」を抜きにした「乙案」です。 ※なお野村大使自身は、東郷外相が当初「援蒋停止条項」抜きの乙案を提案したが、軍部の抵抗によりこの条項を加えられた、という経緯を知る由もありません。この提案は、あくまで「現場の独自判断」でした。 この時期米国側の関心は、対日戦の準備が整うまでの「時間稼ぎ」にありました。その意味で、最大のネックとなる「援蒋停止条項」がない「暫定協定案」は、魅力的なものに映ったのかもしれません。 野村大使のサポート役として派遣された来栖特使によれば、この提案は、米側にも一定の好意をもって迎えられたようです。
アメリカの歴史家ハーバート・ファイスも同様の記述を行っています。
しかし軍部が強引に「援蒋停止条項」を押し込んだ経緯から見て、この野村=来栖案では、例え米側がこれを呑んだとしても、日本側で国内がまとまりそうにありません。軍部の猛反発は必至です。 東郷外相は、野村大使の「独断」を思い切り叱責します。
軍部の強硬姿勢を知らない野村大使らにとって、この叱責は予想外のことであったかもしれません。このあたりのすれ違いには、「東郷はアメリカ側の、野村は日本側の厳しい状況を充分に理解していなかったようである」(須藤眞司『日米開戦外交の研究』P259)という評が適切であるように思います。 かくして野村大使の「独断提案」は幻に終わりました。交渉は再び、軍部の意向を一定程度反映した「乙案」に戻ることになります。
東郷外相に残されたカードは、「乙案」のみです。 東郷外相は、いよいよ最後の切り札、「乙案」の提示を命じることになります。ただし東郷自身が語る通り、「乙案」は野村=来栖私案よりも後退した形になってしまいましたので、インパクト不足は免れません。 「乙案」に対する米国側の反応です。ハルの回想では、ここまで酷評されています。
ただしこれらはいずれも「真珠湾」後の回想であり、米国内世論を慮って、必要以上に「拒絶」の姿勢を強調している可能性はあります。それにしても、「援蒋停止条項」がある以上このままでは受け入れがたい、とハルが判断したことは間違いないでしょう。 日本側の記録を見ましょう。
「南仏印からの撤退」だけでは意味がない。また「蒋介石援助打切り」は、到底承認することができない。これがおおまかに、日本側に提示されたハルの反対理由でした。 しかし「乙案」は、東郷外相の最後の切り札です。何とか手を尽して米側を説得するように、と必死に交渉を督促します。 ここに、アメリカ側にもショックを与えた、有名な電報が登場します。
期日までに交渉が妥結しなければ「情勢は自働的に進展する」。すなわち「戦争」になってしまう、という厳命です。 そして東郷外相は、なおもこの「乙案」をもって米国側を説得するように、と指示します。
しかし現地から伝わってくる見通しは暗いものでした。
「ハル・ノート」の提出を待たず、この段階で、日本側は「交渉成立」の見込みがないことを認識せざるを得なくなっています。そして26日、いわゆる「ハル・ノート」の提示により、交渉は最終的に決裂することになります。
ただし実は、米側はひそかに、日本側の「乙案」にかわる「暫定協定案」を検討していました。 これは日本側に提示する直前までいきますが、提出間際になってルーズベルト大統領もしくはハル国務長官が翻意し、結局は幻の「協定案」となってしまいます。 以下、その経緯を見ていきましょう。 さて、「乙案」は受け入れがたい、とする先の記述に続いて、ハルはこんなことを書いています。
米国にとっては、なお「時間稼ぎ」が必要でした。「乙案」そのものは受入れられないまでも、「暫定協定」による「一時的戦争回避」の考えは、米側にとっても魅力的だったようです。 米側暫定協定案については、大杉氏のまとめがわかりやすく適切ですので、ここに紹介します。
米側提案は、上の「暫定協定案」と「基礎協定案」(いわゆる「ハル・ノート」)の二本建てとなる予定でした。 「基礎協定案」で米国の原則的立場を確認する。そして「暫定協定案」で3ヵ月の猶予を持ち、交渉を継続する。つまりこの段階では、「基礎協定案」(ハル・ノート)は単独で提案されるべきものではなく、あくまで「暫定協定案」とのセットであり、いわば「交渉の叩き台」としての位置付けであったわけです。 日本側「乙案」との大きな違いは、当然ながら「援蒋停止条項」がないこと、そして南仏印からの撤兵のみならず北部仏印の兵力を「2万5千人」に制限していること、の2点でしょう。 ※「北部仏印の兵力制限」は、裏返せば米側が日本の「北部仏印駐兵」を認めたことになります。米国側から見れば、これは大きな「譲歩」でしょう」。 ただし米側は、上のハルの「この案を日本側が受け入れる可能性は三分の一もないであろう」という発言に見られる通り、成立可能性にはあまり期待をしていなかった気配があります。 スチムソン国務長官の日記からです。
米国側としては原則は曲げられない(ハル・ノート)。しかし当面は「戦争」を避けておこう(暫定協定案)。このセットであれば、少なくとも日本側は「米国側が戦争を覚悟した」とは捉えなかったでしょう。 ※「暫定協定案」が提案されたら歴史はどう動いたか。例えば戦後、「暫定協定案」の存在を知った東條首相は、「あれがくればなあ・・・」と嘆いていた、と伝えられます(佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』P242)。このあたりは「歴史のイフ」の世界であり、論壇でもさまざまな議論があります。 しかしなぜか、提出当日の朝になって、突然「暫定協定案」は放棄されてしまいます。その理由については諸説あり、今日に至るも決着が着いたと言える状況にありませんが、「中国の反対」説、あるいは「日本軍南下情報」説などが唱えられています。(詳細は煩雑になりますので省略します) ともかくも、日本側に対しては、「暫定協定案」抜きのむきだしの「原則論」(ハル・ノート)が提案されてしまいました。
こうして11月26日(日本時間27日)、「ハル・ノート」が提示されることになります。 ※「ハル・ノート」及び「暫定協定案」の全文は、こちらに掲示しました。
「ハル・ノート」の提示は、「交渉妥結」のわずかな望みを断ち切るもので、交渉当事者たちに強い失望を与えました。
しかしそれはあくまで、「外交交渉妥結」の最後の細い糸が断ち切られたに過ぎず、「ハル・ノート」自体が「戦争」を引き起こしたわけではない、ということには注意しておく必要があるでしょう。 例えば、当時大本営参謀本部作戦課に在籍していた瀬島龍三は、こんな見方をしています。
次章では、「ハル・ノート」を「歓迎」した勢力にスポットライトを当てます。 |