日米開戦7 | 「日米開戦」まで1ヵ月(3) 「ハル・ノート」は「天佑」 |
ネット(特に右派)の「日米交渉」論では、「非戦派」の動きにスポットライトが当てられることが多いように思います。そして何となく、 「日本は平和を望んでいたが米国の無茶により戦争になった」というイメージを読者に与えているようです。 実際には、日本側の「開戦派」の勢力は無視できないものでした。彼らが交渉条件を吊り上げ、日米交渉破綻の一因を作り出したことは、先の章で見てきた通りです。 またここでは省略しますが、「開戦」を望む世論も根強く存在しました。 ※「開戦を望む世論」については、例えば保坂正康氏の、「12月8日」に関するこんな記述があります。 この項では、「開戦派」が「日米交渉」をどのように見ていたか、を見ることにしましょう。
さて、先に見てきた通り、「乙案」は「連絡会議」の席で東郷外相より突然提案されたものでした。会議に列席していない「開戦派」の軍人にとっては、寝耳に水の事態です。 「開戦」決定を期待していた彼らは、当然に猛反発します。
具体的に彼らはどこを問題としたのか。上にも名前が登場した、田中新一・大本営陸軍部作戦部長の考えを聞きましょう。
あるいは、陸軍省軍務課高級課長・石井秋穂です。
防衛庁戦史部の戦史叢書『大東亜戦争作戦経緯<5>』のまとめです。
つまり、「乙案は成立したが、米国がわざと履行を遅らせ、結果として日本の開戦機会を奪う」という可能性を懸念したわけです。
「機密戦争日誌」は、「大本営陸軍部の戦争指導班(第二十班)の班員(参謀)が、日常の業務をリレー式に交代で記述した」、 「戦争指導班としてのいわゆる業務日誌」(本書「解題」より)です。 本日誌は、「戦争指導の全般状況を知り得る立場にはない班員が、限られた情報をもとに交代で執筆したもの」であり、「記載された所見などは大本営陸軍部を代表するものではなく、 一班員の眼から観察した戦争指導の一側面」という資料的制約はありますが、「このような一面を割り引いても、なお第一級の史料」と評価されています。 (同「解題」より) 私見では、本日誌の面白さは、無味乾燥な公式記録とは異なり、むしろ「個人的感情」が濃厚に出ていることにあります。 ある意味、大本営の班員らの「ホンネ」が剥き出しになっている、とも言えるかもしれません。 以下、「機密戦争日誌」が日米交渉の行方をどのように見守っていたか、を見ていきます。 ※「機密戦争日誌」十月二九日〜一一月二八日につき、 こちらに掲載しました。 「機密戦争日誌」の執筆者たちが「開戦派」の最先鋒であれば、「日米交渉」の失敗を祈るのは、当然のことでしょう。文中至るところに、「決裂」を望む記述が登場します。
一部には、「対米交渉」が成功するのではないか、という見方もありました。「機密戦争日誌」は、交渉妥結の可能性を憂慮します。
11月10日には、「乙案」第4項の「米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし」という抽象的文言を 「援蒋行為の停止を含む次第なり」と明示する電文が、東郷外相から野村大使宛発信されました (十一月十日東郷大臣発野村大使宛電報第七五五号)。 これにより「乙案」の成立は困難になった、と「日誌」は喜びを顕にします。
さて、東郷外相は、「英語力に懸念のある」野村大使のサポート役として、前駐独大使・来栖三郎を特使として派遣しました。これに対する「日誌」の記述は、何とも強烈です。
何と、来栖の「飛行機墜落」を祈ってしまっています。筆者は、この日記が未来において「公開」されることなど、夢にも思わなかったのでしょう。 ここから「日誌」は、日替わりで変化する現地情勢に一喜一憂します。
来栖特使が歓迎されているようだ、との情報に落胆し、その翌々日には「交渉妥結の見込薄し」との情報を心強く受け止める。まさに、 「昨は妥結今日は決裂 一喜一憂しつつ時日は経過す」という状況です。 さて、ついに「甲案」は不成立となり、交渉は「乙案」に移ります。彼らの頼りは、やはり「援蒋停止条項」です。
米側はちゃんと「援蒋停止条項」に反応してくれるだろうか、という心配までしています。 そして、ついに「ハル・ノート」が提示されました。
「芽出度芽出度」(めでためでた)とまで浮かれてしまっているのは、後世の眼で見ると、何とも皮肉です。 この雰囲気が「戦争指導班」に限られたものでなかったことは、以下の記述からも了解されます。
波多野澄雄氏によるまとめです。
かくて「ハル・ノート」は、東郷外相らの落胆ぶりとは裏腹に、「開戦派」にとっては「天佑」となりました。 (2013.1.12)
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