日米開戦7 「日米開戦」まで1ヵ月(3)

「ハル・ノート」は「天佑」



 ネット(特に右派)の「日米交渉」論では、「非戦派」の動きにスポットライトが当てられることが多いように思います。そして何となく、 「日本は平和を望んでいたが米国の無茶により戦争になった」というイメージを読者に与えているようです。

 実際には、日本側の「開戦派」の勢力は無視できないものでした。彼らが交渉条件を吊り上げ、日米交渉破綻の一因を作り出したことは、先の章で見てきた通りです。 またここでは省略しますが、「開戦」を望む世論も根強く存在しました。
※「開戦を望む世論」については、例えば保坂正康氏の、「12月8日」に関するこんな記述があります。

「その時、国民はみな歓喜に沸いたのである。アメリカに押さえつけられて背伸びできない鬱屈感があった。イライラした生活から一気に「胸のつかえが降りた」という解放感に満たされたのだ」 「新聞は「ああ、この一瞬、正に敵性国家群の心臓部にドカンと叩きつけたる切札である」と煽り立てた。あちこちで「万歳、万歳」の声さえあがった」
(『あの戦争は何だったのか』P97)


 この項では、「開戦派」が「日米交渉」をどのように見ていたか、を見ることにしましょう。




 「乙案」への反発


 さて、先に見てきた通り、「乙案」は「連絡会議」の席で東郷外相より突然提案されたものでした。会議に列席していない「開戦派」の軍人にとっては、寝耳に水の事態です。

 「開戦」決定を期待していた彼らは、当然に猛反発します。


種村佐孝『大本営機密日誌』

 この会議が終って午前二時塚田次長は、宮中から参謀本部に帰って来、会議の模様いかに、と待ちうけていた田中第一部長、岡本第二部長及有末第二十班長に、事の次第をつげたが、 南部仏印撤兵と聞かされて、田中第一部長は、極度に不満を示し、並いる人々も皆悲壮な光景であった。(P117)

※「ゆう」注 種村佐孝は、当時大本営陸軍部戦争指導班所属。


森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

 陸軍は、海軍のように順調ではなかった。連絡会議終了直後から、参謀本部の部長以下から強硬な反対が巻き起こったのである。 乙案の可決を知った田中作戦部長が杉山総長に食ってかかったため、温厚な杉山も真っ赤になって叱りつけるありさまであった。(P149)



佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』

 連絡会議の翌朝、私は東条首相によばれた。

 「昨夜の会議で、杉山と塚田が乙案に反対したのをどうやら押しつけたが、下でまた反対をむしかえすかも知れぬ。もしそんなことでひっくり返るようなことがあれば下剋上の甚しいものだ。 厳重に処分するから、それにはよく注意していてくれ」(P237-P238)

 「大臣、乙案はずいぶんひどいものです。陸軍内では誰でも反対です。私も反対です。しかし、これに対して下剋上の運動はおこりません。 反対すれば白紙還元の御諚を背負っている東条内閣をつぶすことになります。それは不忠です。軍人に不忠をする者はありません。『東条の変節』のかげ口はますます大きくなりましょうがね」(P238)

※「ゆう」注 佐藤賢了は、当時陸軍省軍務課長。 


 具体的に彼らはどこを問題としたのか。上にも名前が登場した、田中新一・大本営陸軍部作戦部長の考えを聞きましょう。

田中新一『大戦突入の真相』

 だからアメリカがこの乙案を頭から拒否してくれれば、むしろ問題はないが、 日本に最も恐ろしいのは、アメリカ側が一まず乙案を謀略的に受入れておいて、ほんとの日米問題の解決を数ヵ月乃至は半年の後に再開せんとすることである。(P157-P58)

 すなわち乙案を一まず受入れることによって、日本の非戦論を一層昂揚させて日本の国論の分裂を図ることもできようし、またアメリカとしては戦争準備のための時間稼ぎの目的を達成することができる。

(略)

 こうなると日本は、統帥部が最後の開戦日と予定している十二月八日を逸する。一月、二月は季節風のため南方地域の上陸作戦が至難となる。三月になれば北方ソ連軍の行動に自由を許す関係から、 もはや南方作戦は不可能になる。

 十六年暮れに開戦しなければ十七年暮れということになるが、十七年はすでに日本海軍は兵力比率の理由からも、恐らくは燃料の点からも対米戦争にはならない、 しかも日米交渉の主要問題は全部後に押しやられているのだから、将来の日米紛争は必至だ。日本の自屈自滅の運命も不可避とおもわれる。(P158)
 


 あるいは、陸軍省軍務課高級課長・石井秋穂です。

『石井大佐回想録』


 十一月二日午前一時半東條陸相は官邸に帰った。陸相はとにかく決定が出来たのでほっとしていた。待ち構えていた我々の数名の者は、陸相から会議の模様を極く簡単に聞いた後、 武藤局長に随行して其の宅に移りこまごまと事情を聞いた。

 其の際乙案を米国が受入れるかどうかの判断が話題に上り、局長から私に感想を聞かれたので、私は即座に「受諾されるだろう」と言い放った。之に対し局長は「そうかねえ」と言い一同暫く沈黙した。 ややあって局長は「援蒔停止の要求があるのでどうかねえ」と言ったが誰も発言しなかった。

 「之程の案だからいくら暴慢な米国でも聞いて呉れるであろう」との観測は、我々だけでなく此の事に関係した多くの人が抱いたところであった。 そして此の乙案が妥結に達したならば一応芽出度いようではあるが、大きな心配が残るということを誰も考えた。

 即ち資産凍結は解除されたが、油は米国国防上の必要との理由で細々としか供給されず、支那事変も解決されずに進めばABCD包囲網は強化され、米国の建艦は著々進捗し、 大阪冬の陣と同様遂に戦わずして屈従しなくてはならないということがはっきり予見されるのである。

 油については米国もかつて六月に十一日附了解案で「自国の安全及自衛目的の為無暗には与えられぬぞ」との逃げを打っているのである。以上の次第だから杉山総長と塚田次長が強く反対した訳である。(P256)

(戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』)

※「ゆう」注 石井自身は、東條首相の「第三案」(外交・戦争準備並行案)の支持者でした。


 防衛庁戦史部の戦史叢書『大東亜戦争作戦経緯<5>』のまとめです。

 
戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』より

陸海軍の交渉妥結に伴う保障措置案研究

 ひるがえって陸海軍統帥部特に参謀本部は、十一月六日以降本格的作戦準備に着手してからは、「乙案」による対米交渉の妥結を恐れていた

(略)

 すなわち参謀本部の大勢は今や戦争によって局面を打開するのほかはないと確信していたのである

 たとえ交渉が成立しても米国の掌中には全面禁輸(全面禁油)という活殺自在の剣が握られており、いついかなる動機で再びそれが振りおろされるかも知れず、 その時にはもはや日本は絶対にたつことはできぬという憂慮がいよいよ高まってきたのであった。(P466-P467)




 つまり、「乙案は成立したが、米国がわざと履行を遅らせ、結果として日本の開戦機会を奪う」という可能性を懸念したわけです。





 「機密戦争日誌」より


 「機密戦争日誌」は、「大本営陸軍部の戦争指導班(第二十班)の班員(参謀)が、日常の業務をリレー式に交代で記述した」、 「戦争指導班としてのいわゆる業務日誌」(本書「解題」より)です。

 本日誌は、「戦争指導の全般状況を知り得る立場にはない班員が、限られた情報をもとに交代で執筆したもの」であり、「記載された所見などは大本営陸軍部を代表するものではなく、 一班員の眼から観察した戦争指導の一側面」という資料的制約はありますが、「このような一面を割り引いても、なお第一級の史料」と評価されています。 (同「解題」より)

 私見では、本日誌の面白さは、無味乾燥な公式記録とは異なり、むしろ「個人的感情」が濃厚に出ていることにあります。 ある意味、大本営の班員らの「ホンネ」が剥き出しになっている、とも言えるかもしれません。

 以下、「機密戦争日誌」が日米交渉の行方をどのように見守っていたか、を見ていきます。
※「機密戦争日誌」十月二九日〜一一月二八日につき、 こちらに掲載しました。


 「機密戦争日誌」の執筆者たちが「開戦派」の最先鋒であれば、「日米交渉」の失敗を祈るのは、当然のことでしょう。文中至るところに、「決裂」を望む記述が登場します。

機密戦争日誌(上)より

十一月三日 [月曜]

一、大[台」風一過昨日の興奮も醒めたり

  明治節の佳節に方り皇国の前途を祝福せんとす 願はくば外交成功せざらんことを祈る(P181)



機密戦争日誌(上)より

十一月五日 [水曜]

三、茲に外交、作戦二本建ながら帝国の対米英蘭戦争決意確定す

  九月六日以来を回想し波瀾重畳の曲折を憶ひ真に感慨無量なるものあり

  而して問題は更に十二月初頭に残れり

  過去は過去とし不満は之を水に流し去って将来に努力せん 希はくば外交不調に終り対米開戦の「さい」投ぜられんことを

四、茲に更めて次長、総長の連日の御奮闘に対し敬意を表す

五、総長当班及海軍第一部直属の各官を築地抑[柳」光亭に招待し一夕の慰労宴を忝うす(P182)



 一部には、「対米交渉」が成功するのではないか、という見方もありました。「機密戦争日誌」は、交渉妥結の可能性を憂慮します。

機密戦争日誌(上)より

十一月十日 [月曜]

二、対米交渉の成否に関し議論百出す

  第六課は一二〇%成立すると云ふ 茲に帝国国策の不安は依然として存しあり

  成立した場合の対策何等構想せられあらず寒心に堪へざるものあり(P184)



 11月10日には、「乙案」第4項の「米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし」という抽象的文言を 「援蒋行為の停止を含む次第なり」と明示する電文が、東郷外相から野村大使宛発信されました (十一月十日東郷大臣発野村大使宛電報第七五五号)

 これにより「乙案」の成立は困難になった、と「日誌」は喜びを顕にします。


機密戦争日誌(上)より

十一月十日 [月曜]

三、外務省より御前会議決定後より今日に至る迄の対米交渉の為様りたる措置を通報し来る 大体良し

  乙案に就き軍事的、政治的、経済的援蒋中止を要求するものなる旨対米打電せるは特に可

  之に依り乙案と雖も交渉成立せざるべし
(P185)



 さて、東郷外相は、「英語力に懸念のある」野村大使のサポート役として、前駐独大使・来栖三郎を特使として派遣しました。これに対する「日誌」の記述は、何とも強烈です。

機密戦争日誌(上)より

十一月十二日 [水曜]

三、来栖大使米向急ぎつつあり 但し飛行機故障の為予定の如く進まず

  部内来栖の飛行機墜落を祈るものあり

  曰く第二課長第六課長等当班亦其気持は同様なり(P185)



 何と、来栖の「飛行機墜落」を祈ってしまっています。筆者は、この日記が未来において「公開」されることなど、夢にも思わなかったのでしょう。


 ここから「日誌」は、日替わりで変化する現地情勢に一喜一憂します。

機密戦争日誌(上)より

十一月十三日 [木曜]

二、来栖大使の飛行機遅々たるは可(P185)

  「ル」大統領来栖大使を迎ふるの態度に熱意なきが如きは亦可なり

  乙案成立を恐る(P186)



機密戦争日誌(上)より

十一月十五日 [土曜]

一、乙案成立に伴ふ保障条件陸軍省より対案来る 大いに可 之を諒とす

二、来栖米到着に対し大統領感謝祭の為の旅行を取止むるとの新聞報あり

  米も亦誠意を示し来れり 米としても日本の決意に畏れをなし来れるが如し

  或は乙案は勿論寧ろ甲案すら成立するやも知れず 石井大佐甲案成立の公算ありと私見を電話し来る

  俄然成立の公算濃化し来る
(P186)



機密戦争日誌(上)より

十一月十七日 [月曜]

一、米野村大使より電到着

  米支那に関する経済無差別宣言を提議し来る 九国条約の再確認要求に他ならず

  支那事変放棄に等し

  右宣言と共に日本は三国条約を脱退すべしと云ふ 条約を空文化すべしと云ふ


  言語同[道」断なり

二、右に対し回答を打電する由 其内容を監視せんとす

   愈々以て交渉の妥結見込薄しの感強まる(P186)

  昨は妥結今日は決裂一憂一喜しつつ時日は経過す ー刻も速に十二月一日の来らんことを祈る(P187)


 来栖特使が歓迎されているようだ、との情報に落胆し、その翌々日には「交渉妥結の見込薄し」との情報を心強く受け止める。まさに、 「昨は妥結今日は決裂 一喜一憂しつつ時日は経過す」という状況です。

 さて、ついに「甲案」は不成立となり、交渉は「乙案」に移ります。彼らの頼りは、やはり「援蒋停止条項」です。

機密戦争日誌(上)より

十一月二十日 [木曜]

四、此の如くして遂に甲案不成立乙案交渉に入る 夕刻到着の野村電に依れば前記私案に対しては米調印の誠意ありと

  然れども乙案全部の提議特に援蒋停止の要求に依り交渉は決裂すべきこと最早疑を入れず(P189)



機密戦争日誌(上)より

十一月二十一日 [金曜]

五、野村電到着 乙案提示せる所「ハル」は援蒋中止に関し之は援英中止要求と同様なりとて大いに不満の態たりしが如し さもあるべし

  之にて交渉は愈々決裂すべし芽出度芽出度
(P190)



機密戦争日誌(上)より

十一月二十三日 [日曜]

一、日曜とて部内閑散なり

  米、大使「ハル」会談も行はれず

二、対米交渉の峠も茲数日中なり

  願はくば決裂に至らんことを祈る(P190)



機密戦争日誌(上)より

十一月二十四日 [月曜]

一、米英蘭豪と会談を開始す 蒋も之に加ふ 其真意決裂を決意したるや否や等不明

  右会談直後野村「ハル」会談開催 米二十四日に正式回答(乙案に対する)すべきものとて大体の意向を述ぶ

 1.、帝国が平和的意図を明かにせざれば交渉に応じ難し

   (三国同盟の空文化を要求す)

 2、援蒋停止は極めて困難なり

 3、帝国輿論の高圧的なるに対し米国民を納得せしむるは甚だ困難なり

二、武官電に依れば先づ決裂の他なしと云ふ野村電の空気必ずしも然らず 先づ喜びたるも再びー憂あり(P190-P191)

  援蒋停止の要求相手にひびきあらざるやを憂ふ

三、交渉妥結を念願する野村来栖と決裂を念願する陸軍特に参謀本部と正に正反対なり当班のー喜一憂も無理なし

四、地方長官会議開催

  総理例に依って訓示せるも当班馬耳東風なり 総理強硬訓示は可なるも妥結せば如何にするや もう芝居は沢山なり(P191)


 米側はちゃんと「援蒋停止条項」に反応してくれるだろうか、という心配までしています。


 そして、ついに「ハル・ノート」が提示されました。

機密戦争日誌(上)より

十一月二十七日 [木曜]

一、連絡会議開催 対米交渉不成立

  大勢を制し今後開戦に至る迄の諸般の手順に就き審議決定す

 1、十二月一日御前会議に於て国家の最高意志決定 事前に連絡会議及閣議を開く

 2、十一月二十九日重臣を宮中に招き総理之と懇談す

  右に閣し 御上は重臣を御前会議に出席せしめては如何の御意図ありしが如きも総理国務は責任ある者に於て決するを可とする旨奏上す(P192-P193)

 3、開戦の翌日宣戦を布告す

  宣戦の布告は宣戦の詔書に依り公布す

  右を枢密院に御諮詢あらせらる 日時は機密保持上布告の日とすることとす[『杉山メモ』上、参照」

二、果然米武官より来電

  米文書を以て回答す 全く絶望なりと
  
  曰く

   1、四原則の無条件承認
   2、支那及仏印よりの全面撤兵
   3、国民政府の否認
   4、三国同盟の空文化

  米の回答全く高圧的なり 而も意図極めて明確 九国条約の再確認是なり

  対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし

  交渉は勿論決裂なり

  之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり芽出度芽出度 之れ天佑とも云ふべし

  之に依り国民の腹も堅まるべし 国論もー致し易かるべし(P192)


 「芽出度芽出度」(めでためでた)とまで浮かれてしまっているのは、後世の眼で見ると、何とも皮肉です。


 この雰囲気が「戦争指導班」に限られたものでなかったことは、以下の記述からも了解されます。


波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』

 軍務課の佐藤(「ゆう」注 賢了)課長の反応も同様であった。十二月一日の課長会議で次のように報告している。
「われわれがかねて抱いていた心配、即ち米の懐柔政策により、わが国論の一部に軟化を来たし、大切な時に足並みが揃わぬようなことがあっては大問題だと思っていたが、 かくの如き強硬な内容の回答を受け取ったことにより、国論が期せずして一致することが出来たのは洵に慶賀すべきことである(金原日誌)
(P201-P202)


田中新一『大戦突入の真相』

 しかしながらこの妥協案は決して陸軍統帥部の不安を解消させたものではなかった。

 アメリカ側の謀略的受諾によって、日本の国防が混乱させられる可能性は依然として大きかった。陸軍統帥部はこの点について最後まで憂慮させられた。

 ハル・ノートが来たことには失望と憤懣を禁じ得なかったけれども、一面乙案を根本的に撃砕した。 そこで相当数の当事者が始めて安堵の念を持ち得たことも事実であった。(P159)



東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』より

 自分ががっかりして来たと反対に軍の多数は米の非妥協性を高調し、それ見たかと云う気持で意気益々加わる状況にあって、これに対抗するのは容易なことではなかった。(P375)


 波多野澄雄氏によるまとめです。


波多野澄雄『開戦過程における陸軍』

 一一月二六日のハル・ノートは東郷にとっては「失望」であったが、「乙案」による妥結を心配していた作戦幕僚たちにとっては「天佑」(一一月二七日「機密日誌」)であった。 なぜならば、ようやく明確な開戦名目が得られ、「穏健派」の勢力回復を抑えて「国論の一致」が得られるからであった。(P26)

(波多野他編『太平洋戦争』所収)

 かくて「ハル・ノート」は、東郷外相らの落胆ぶりとは裏腹に、「開戦派」にとっては「天佑」となりました。

(2013.1.12)



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