731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(6)
映画は「ヤラセ」か?


 731部隊では、「研究成果」を「映像」として残すために、多数の映画が撮影されていました。それは主として、部隊内部の研究会での発表用、また、関東軍将校ら軍幹部へのアピール用として使われていました。

 deliciousicecoffee氏は、「1940年細菌戦」(寧波、金華、衢県)に関し、「井本日誌」に対する「使用細菌がすりかわっている」なる見当違いの攻撃に続けて、今度は「映画」を問題にします。

 こちらはもう「井本日誌」とは全く関係のない話なのですが、タイトルはなぜか「7・飛行機細菌作戦の怪2・おかしな井本熊男の業務日誌(井本日誌)・ペスト菌散布は予算獲得のためのPR映画?」となっています。まあ、それはご愛敬として、以下、内容を見ていきましょう。

飛行機細菌作戦の怪 2004/ 6/ 7 6:06 [ No.2988

投稿者名省略

(一部deliciousicecoffeeが修正)



731部隊が浙江省において飛行機でペスト菌を撒いたという件に関しては、もう一つおかしな話がある。


―――――――
あやしい調査団・満洲どよよん紀行9・哈爾浜への道い調査団・満洲どよよん紀行・9
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo9.html
(「ゆう」注 現在はリンク切れ)

(一部抜粋)

また、731部隊は支那にペスト菌をまいたことがあった。
相当成果があったと、その映画まで作って宣伝した。
飛行機でばらまくシーンに続いて、ペスト発生を伝える支那の新聞が映し出される。

しかし、実際の成果はたいしたことはなかった。

まいたことを知らない日本軍部隊が直後にその場所で作戦を行なったが何ともなかったのだ。
予算獲得のためのPR映画であったのは明白である。

―――――――



つまり、731部隊は予算獲得のため映画に撮って宣伝したと言っているのである。

こういう事を書くと「支那はかわいそうな被害者」と思っている人は、喜んで、飛びつくだろう。

だが、よく考えて欲しい。
ほんのちょっとした事でも検閲で削除、掲載禁止にさせる軍が、こういう問題のあるシーンを映画にとって、見せてまわるだろうか


こういうのは、本来、極秘中の極秘の筈である。
絶対に、他言は無用。
他人に知られてはならない事項なのだ。

それをわざわざ映画に撮って宣伝して回るとはどういうことか。
しかし、ここに書いてあるのだから、映画は多分、本当なのだろう。


とすると、例の、飛行機による細菌投下作戦というのは、本当は、映画のための作戦ではないのか

本当の細菌作戦なら、絶対に新聞には載せないし、ましてや映画にとって宣伝することもない。
第一級の機密事項として隠すはずである。

本物でないからこそ、映画に撮ったのではないのか

では、現地の人の訴えは何か。
たまたま、本物の疫病がはやっただけかもしれないし、
後世、映画の話を、本物と勘違いしたのかも知れない。


 「ではないのか」「かも知れない」と、何とも歯切れの悪い文章ですが、要するに、1940年の「寧波細菌戦」を記録した映画は「ヤラセ」であった、と言いたいようです。

 前半部分の「あやしい調査団」の引用はひとまず措くと、deliciousicecoffee氏の論理は、「本当の細菌作戦なら、こういう問題のあるシーンを映画にとって「宣伝」するはずがない」「本物でないからこそ、映画にとったのではないか」という何とも奇妙なものです。


 そもそも、「 本当の細菌作戦なら、こういう問題のあるシーンを映画にとって「宣伝」するはずがない」という大前提がおかしなものであることは、一目瞭然でしょう。

 言うまでもありませんが、石井部隊は別に、一般大衆に「宣伝」するための映画を撮影していたわけではありません。映画を見せる対象は、軍幹部・部隊員など、一部の関係者に限られていました

 そのような映画であれば、逆に、本物でないのなら、何の価値もありません。「撮影するはずはない」というのは、deliciousicecoffee氏の勝手な思い込みです。


 しかしdeliciousicecoffee氏の論理の通りだと、石井部隊は、わざわざ自分たちの「戦争犯罪行為」をでっち上げて、映画という形で広く「宣伝」していた、というとんでもない話になるのですが……。
※例えば、731部隊の側が「フィクション」として映画を作り、見る側も「フィクション」として見ていた、ということであれば、話はわからないでもありません。しかし後で見る西俊英証言の通り、映画は間違いなく「実戦の記録」としてのつくりであり、見る側もそういうものとして受け止めていました。



 また氏は、「映画」が「1940年細菌戦」の存在を証明するキーポイントであると思い込んでいるようなのですが、実際には、これは「そんな話もある」程度のエピソード的性格の強いものです。

 1940年細菌戦の存在は、金子論文、井本日誌、その他多数の証言群などで裏打ちされています。今さら「映画」は本物ではなかった、と主張しても、「細菌戦」の存在そのものを覆すことはできないでしょう。「南京事件ではニセ写真が多くあるから虐殺はウソだ」と同じレベルの、杜撰な議論です。


 話はこれで終わってもいいのですが、折角ですので、以下、もう少し詳しく見ていきましょう。




 成果は「たいしたことはなかった」?

 「あやしい調査団」の元ネタは、明らかに、ハバロフスク軍事裁判軍事裁判における西俊英証言です。

西俊英証言

 私は一九四〇年の中国中部の第七三一部隊派遣隊の活動に関する記録映画を見ました。

 先ず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。ついで飛行機の翼に撒布器が取附けられている場面が映され、更に特別容器にはペスト蚤が入れてあるという説明があって、それから四人或は五人が飛行機に乗りますが、誰が乗るのか判りません。(P351-P352)

 それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に向って飛翔しているという説明があり、次いで飛行機は敵の上空に現われます。

 次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現われ、飛行機の翼から出る煙が見えます。

 次に出てくる説明から此の煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判ってきます

 飛行機は飛行場に帰ってきます。スクリーンに「作戦終了」という字が現われます

 ついで、飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現われます。

 先ず飛行機から石井中将が姿を現わし、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。

 この後「結果」という文字が現われ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます

 説明の中で、寧波附近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。

 最後に、終りの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。

 正に此の映画から、私は寧波附近で細菌兵器が使用されたことをはっきりと知る様になりました。(P352)

(軍医中佐、731部隊教育部長)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  

 この証言はよく知られており、あちこちの概説書にも登場します。「軍事裁判」という場での証言ですが、十分なリアリティがあり、特段「おかしな」証言とは思われません。
※先の書きぶりを見ると、deliciousicecoffee氏は、明らかに「出典」をチェックしていません。出典を知って、あわてて「ハバロフスク裁判の証言など信用できない。映画が撮られたなんてウソだ」」と「方向転換」しなければ幸いです(笑)。なお、中川八洋氏の論稿をめぐって(2)でも書いた通り、今日研究者の間では、「ハバロフスク裁判」は基礎的資料として十分使える、という評価が定着しています。

※※念のためですが、731部隊が撮影したという多数の「映画フィルム」は、今日、その行方は全く知られておらず、さまざまな「証言」でその存在が知られるのみです。戦後まもない時期に「証拠隠滅」されたものと考えられます。

 これに対する「あやしい調査団」のコメントを再掲します。


 また、731部隊は支那にペスト菌をまいたことがあった
相当成果があったと、その映画まで作って宣伝した。
飛行機でばらまくシーンに続いて、ペスト発生を伝える支那の新聞が映し出される。

しかし、実際の成果はたいしたことはなかった。

まいたことを知らない日本軍部隊が直後にその場所で作戦を行なったが何ともなかったのだ。
予算獲得のためのPR映画であったのは明白である。


 「あやしい調査団」」は、731部隊が「ペスト菌をまいた」こと自体は認めています

 その上で、「実際の成果はたいしたことはなかった」のに、作戦が大々的に成功したかのような映画をつくったことは単なる「PR」である、と言っているわけです。



 さて、「あやしい調査団」の文章を読んだ方は、「ペスト菌を撒くには撒いたがほとんど成果ゼロ」と読むのではないでしょうか。その錯覚を生むのが、次の一文です。


 まいたことを知らない日本軍部隊が直後にその場所で作戦を行なったが何ともなかったのだ。


 これを読んだ読者は、「細菌戦」から(おそらくは)数日のうちに日本軍が「寧波」に侵入した、と理解するでしょう。しかし、これは明白に事実に反します


 寧波に飛行機からペスト蚤が撒かれたのは、1940年10月27日のことでした。そして最初のペスト患者発生は10月29日。県政府はただちに汚染地区を封鎖して防疫活動に努め、その結果、1940年12月2日の死者発生を最後に、流行は終息しました

 さて寧波は、「1940年細菌戦」後も、中国にとって数少ない海への出口として、しばらくは中国側支配地に止まりました。日本軍が寧波に上陸したのは、1941年4月19日のことです(1941年4月「沿岸封鎖作戦」=甲号F一作戦、井本熊男『支那事変作戦日誌』P499)

 つまり日本軍が寧波で「作戦」を行ったのは、1940年10月27日の「直後」どころか、その半年もあとのことです。そのころにはとっくにペストの流行は終息しています。

 「まいたことを知らない日本軍部隊が直後にその場所で作戦を行なったが何ともなかったのだ」という一文は、「被害は限りなくゼロに近い」という印象操作を狙った、明らかなウソ、としか評価のしようがありません。




 実際には、「寧波細菌戦」では、100人程度の死者が発生しています。

 石井部隊の側でもこの数字を把握していたようで、先に取り上げた「金子順一論文」でも、「一次被害者数」として「104名」という数字が記録されています。


 2002年8月27日東京地裁判決での「事実認定」を確認します。

731部隊細菌戦裁判 第一審判決

f 寧波

(a)1940年(昭和15年)10月下旬、日本軍機が寧波上空に飛来し、中心部の開明街一帯にペスト感染ノミ(後にインドネズミノミと鑑定された。)の混入した麦粒を投下した

(b)早くも10月29日にノミ等が投下された地域にべスト患者が出て、治療活動とともに防疫活動も活発に行われ、汚染区が封鎖され、消毒や家屋の焼却などが行われた。このような治療、防疫活動により、ペストは12月初めに最後の患者を出した後、終息した。

 このペスト流行は、主として、投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでペストがヒトに感染したことによるものと考えられる。

(c)時事公報による報道、国民政府中央防疫研究所長の報告書、治療に参加した医師等からの情報提供に基づく証人黄可奉らの調査によれば、このペスト流行による死亡者で氏名が判明しているのは109人である。(P208)

(『裁かれる細菌戦 資料集シリーズNo8』所収) 

※同時期に行われた他の細菌戦の「被害者数」は、「衢州」で21名、「金華」ではほぼゼロ、と伝えられます。「金華」の場合、「ペスト蚤」を使わず、「ペスト菌」をそのまま撒いたため、地上に達するまでに菌が死滅してしまった、ということです。

※※ただしここでは、「二次被害」を考慮していないことにご注意ください。その後の流行の拡散による「二次被害」まで含めれば、被害者数は少なくとも千名以上のオーダーに達する、とみられます。


 さて、「作戦」の結果、ペスト感染による死者は約100名に及んでいます。例えばこれを「民間人100名虐殺」という言葉に置き換えれば、決して無視できない規模であることがわかるでしょう。

 またこの流行は、地域社会を混乱に陥れました。「汚染区」はペスト発生後速やかに封鎖され、、さらに11月30日には汚染地区約5000屬焼き払われる、という事態に至りました(『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』P36-P43).。


 「あやしい調査団」は、これを、「たいしたことはない」、従って作戦は「失敗」だった、と評価しているようです。「失敗」だったが、石井部隊は意図的に成果を誇大宣伝した、という主張です。

 まあ確かに、純軍事的に「費用対効果」で見た場合、評価は微妙ものになるかもしれません。例えば常石敬一氏などは、「 二百メートルという低空飛行の飛行機から通常の爆弾を落とせば、もっと大勢の人を傷つけることができたはずだ」という理由から、「軍事的」に見れば「失敗」であった、と評しています。(『七三一部隊』P148)

 ただし石井部隊の視点からも「失敗」であった、とは言えません。石井部隊による「細菌撒布」は、細菌戦、これだけの根拠 二つの公的資料 −金子論文、井本日誌−」でも述べた通り、「どのような方法でどれだけの細菌を撒くとどれだけの効果が得られるか」という、実験的色彩の強いものでした

 従って、「費用対効果」にかかわらず、一定規模の流行を作り出すことができれば、一応は「作戦成功」と評価するのが自然でしょう。実際、「ハバロフスク軍事裁判」の証言を見ると、石井部隊は「寧波細菌戦」を「成功」事例として捉えていたようです。


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 一九四〇年の中国派遣隊に関して貴方は何を知っているか?

(答) 石井中将は私に中国の医学雑誌を見せて呉れましたが、それには一九四〇年に於ける寧波附近一帯のペスト流行の原因について述べられていました。彼は私に此の雑誌を見せた後、寧波附近一帯で第七三一部隊の派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下し、之が伝染病の原因となった事を話しました。(P311-P312)

(問) 当時貴方との話で石井は一九四〇年の派遣隊の工作の結果を如何に評価していたか?

(答) 彼はこの派遣隊の工作は成功したと考えていました。(P312)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


被告柄澤十三夫の尋問


 しかし、工作の結果に関する情報蒐集のため、野崎少佐を長とする特別班が残り、野崎少佐は、寧波市附近に於ける伝染病蔓延の事実を報道せる新聞を手に入れることに成功しました。(P324)

(問) その新聞には何んと書かれてあったか?

(答) 私の記憶する限りでは、この新聞には、寧波市附近で此の伝染病の流行が発生する前に、日本の飛行機が飛翔し、高空から何かを投下したということについて書いてありました

(問) 貴方はこの記事を自分で見たか?

(答) はい、自分で見ました。(P325)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  

 「成功」と評価したからこそ、「映画」という形で記録に残し、軍幹部へのアピールに利用した。そう考えて、特段の無理はありません。

 むりやり、「事実に反したPR映画をつくった」と決めつける必要はないでしょう。




 映画のための作戦だった?


 さて、「あやしい調査団」は、被害を過小に見せる印象操作を行っていますが、ともかくも「細菌を撒いた」こと、そして「たいしたことはない」ながらも一定の被害が出た(らしい)事実は認めています。

 しかしdeliciousicecoffee氏は、「あやしい調査団」の文章をそのまま使いながら、 「飛行機による細菌投下作戦というのは、本当は、映画のための作戦ではないのか」と、「作戦」の存在自体を否定する方向に、こっそりと話をすり替えてしまいました

 どうもその根拠は、下記の一点であるようです。



ほんのちょっとした事でも検閲で削除、掲載禁止にさせる軍が、こういう問題のあるシーンを映画にとって、見せてまわるだろうか。 ……本当の細菌作戦なら、絶対に新聞には載せないし、ましてや映画にとって宣伝することもない。第一級の機密事項として隠すはずである。


 さすがにこれには私も驚きました。いや、石井部隊は別に、映画館で上映するための映画を撮っていたわけではないのですが(^^; 「第一級の機密事項」であることと、「(関係者にしか見せない)映画を撮影する」ということは、別に矛盾するものではありません。
※氏の文には、「(現地の人が)後世、映画の話を、本物と勘違いしたのかも知れない」というフレーズが登場します。これは、「現地の人」が「映画」の存在を知っていた、という認識を前提とします。どうやら氏は本当に、この「映画」が「一般公開」されたとでも考えているようです。


 映画は、軍幹部に対して、細菌戦の実施が可能であることのPR、そして部隊の存在意義をアピールするために制作されました。当然のことながら、見せる対象は、軍幹部など、関係者のみです

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 もっと生々しい人体実験の模様や、細菌戦の実際(実戦および模擬戦)を撮影した映画も作られていた。これらはともに部隊の活動を宣伝し、その存在を誇示するために、関東軍の幹部たちの前で上映された。例えば山田元司令官はハバロフスク裁判で、ノミを媒介としたペスト感染の実験についての特殊映画を北野元部隊長から見せられた、と供述している。(P19-P110)


 「問題のあるシーン」を映画に撮影するわけがない。従って、この映画は「ヤラセ」である。―このdeliciousicecoffee氏の論法は、見当違いの「思い付き」でしかありません。





 七三一部隊と「映画」


 以下、余談となりますが、部隊において「映画」がどのように制作され、どのように使われたのかを確認しておきましょう。

 「細菌戦」自体に関する映画は西証言にあるもの以外知られていませんが、他に、多数の「人体実験」映画に関する証言が存在します。

 「撮影した側」の証言としては、総務部調査課写真班員のものがあります。安達実験場での「細菌爆弾」実験を撮影したものです。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

 安達での実験は、航空機から陶器製の細菌爆弾を投下したり、地上に仕かけられた爆弾を破裂を破裂させたりするものだった。いずれの場合も、「丸太」が標的にされた。(P29-P30)

 手かせ、足かせのうえに、立ったまま、さらにロープで杭に縛りつけられた「丸太」を、わたしは、16ミリのムービーカメラで狙う。一五〇メートルほど離れた位置である。

 やがて低い爆音が聞こえてくる。地上の無線との交信が、復唱されていやおうなく耳に入ってくる―「高度○○メートル。……投下!」鈍い音とともに、一群の「丸太」の頭上を煙が覆う。わたしは、懸命にネジをまきまき、フィルムをまわす。

 煙がはれてしばらくすると、「丸太」に接近して、損傷状態を撮る。細菌爆弾は、内部の菌を殺さぬように、特殊な爆弾であったが、直撃を受けると死ぬ場合もある。が、そのようなことは、めったになかった。無傷の者も多かった。破片で切りでもしたのか、血を流しているものもいるが、重傷ではない。しかし、それが表面的なものにすぎないことは、誰もが知っていた。彼らの体内深く、恐るべき細菌が注入されたのだ。

 実験がすむと、手早く「丸太」を収容して、跡を残さぬようにかたづけると、急いで撤収するのである。(P30)


 T・K氏は、「わたしは、写真班員として、それらの記録(「ゆう」注 人体実験)を撮るため、命令を受けると、そうした実験や研究の現場へ、カメラやムービーカメラをもって出向くことになった」(P24)とも証言しており、かなり頻繁に「撮影」に携わっていた様子です。

 当時において「映画撮影」は高価なものだったはずですが、潤沢な予算に恵まれた石井部隊だったからこそ、こんな贅沢ができたのでしょう。


 そしてこのように撮影された映画は、高級軍幹部に対し、部隊の活動を「宣伝」するために使われました。

 実際に「映画を見た側の証言」としては、昭和天皇の弟、三笠宮崇仁氏のものが有名です。

三笠宮崇仁『闇に葬られた皇室の軍部批判』

 また、南京の総司令部では、満洲にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこの毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもありません。

(『THIS IS 読売』1994年8月号所収)


 他にも、「秘密記録映画」を見たという、「陸軍参謀」の証言が残っています。

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 九州の取材の帰りに山口県に住む陸軍参謀Aに会ったことがある。その時、秘密記録映画の話が出た。

 参謀が関東軍の高官と共に七三一部隊の本部を訪問すると、映写会が行なわれた。そこに映し出されたものの一つに、保存してあった人間の頭部を、西瓜を二つに割るように日本刀でスパーツと割るシーンがあった。参謀はあまりにも陰惨な映像に吐き気がしたと、私に話してくれた。

 秘密記録映画は、陸軍の高官などの持てなし用としても使われていたようであった。(P107-P108)


 これは「人体実験の記録」ではなく、「死体の頭部の試し切り」であったようですが、ともかくも、とても趣味がいいとは言えません。



 また映画は、部隊内の「学会」で、「研究成果」を発表するためにも使われました。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言 

 できあがったフィルムは、週一回、本部一棟二階の奥の会議用の大部屋で行なわれる「学会」で上映された
。この「学会」には、部隊の各研究班長などが出席して、研究成果を発表し合っていたようだった。

 フィルムのなかでも、とくに極秘のものは、隊長室で上映した。二部屋続きの隊長室の手前の方の控室だった。この場合は、隊長の他に、二、三名しかみることができなかった。(P36)



常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 これら医者のうち、第一部、第二部そして第四部所属の人びとは、月に一回程度の割合で本部大講堂で行なわれる研究会に出席し、各自順番に研究発表を行なうようになっていた。何人かの人びとはその研究発表の際、自分の研究結果を撮影した映画を上映したりした。(P85-P86)

 この部隊内で公開された映画を見れば、誰の目にもその実験をした人が人体実験をしたことは明らかだったという。すなわち部隊所属のほとんどの医者が、部隊内で人体実験が行なわれていたことを知っていたわけである。(P86)

※常石氏はこの記述の根拠を明記していませんが、氏は多数の部隊関係者に取材を行っていますので、その時の「聞き取り」がベースになっているものと思われます。


 こちらもまた、見せる対象は部隊内の人々、それも機密性の高いものはごく一部のメンバーに限られていました。


 それ以外に、フィルムが国内にも持ち込まれるケースもあったようです。こちらは、医学研究者を「731部隊」にスカウトするためのリクルート用であった、と推察されます。

 当時「京都大学」の医学生であった、二人の証言を紹介します。


日野原重明『開戦日を風化させるな』

 私が京都大学の医局や院で学んでいた時のことです。大学の先輩で、ハルビン市の特殊部隊に所属していた石井四郎軍医中将が、現地での捕虜待遇の様子をおさめた写真フィルムを持って母校を訪れました。

 そのフィルムには、捕虜の生体実験が映っていました。腸チフス、ペスト、コレラなど、伝染病の病原菌を感染させてから死亡するまでを観察したものでした。見るに耐えられない行動を映した映像の記憶に、今でも鳥肌がたちます。

(『朝日新聞』2005年12月10日)


大阪大学名誉教授・中川米蔵氏の証言

 中川氏は一九四五年、石井四郎の母校京都大学医学部に入学した。彼は後に大阪大学の名誉教授になる。日本の新学期は四月に始まるので、彼が医学部の学生になってから八月の終戦までわずか数ヵ月だった。一九九四年春の大阪七三一部隊展における彼の証言に著者が面談して得た情報を補足した。

 私は、昭和二〇年に京都帝国大学に入学したとき、七三一部隊幹部である軍医の話を聞きました。「医学というのは、病気を治したり、ケガを治したりするものではない。日本は世界を相手に戦っている。医学もまた兵器だ」。

 そのとき満州で撮影した一六ミリ・フィルムを見せられました。動物実験では不十分で、人間で実際に実験しないとわからないが、われわれはそれをやっていると説明されて、空気塞栓の実験のために人間に空気を注射するとか、捕虜の首斬りの場面を見ました。(P251)

(ハル・ゴールド『証言・731部隊の真相』より)

 両方とも、まさしく「人体実験」の記録です。なお当時、この事例に限らず、旧陸軍軍医学校では、「人体実験」の存在は公然の秘密であった、と伝えられます。


石田新作『悪魔の日本軍医』

 ほかでもない。世人が驚いたらしいというのは、私自身、すこしも驚かなかったという事実の裏側にある。なぜ、驚かなかったかというと、およそのことは知っていたからである。(P8-P9)

 むろん、知っていたといっても、この書に盛り込まれた証言内容の、すべてについて知悉していたわけではない。私自身、七三一部隊に所属していたこともなければ、主舞台たるハルピン郊外という土地を踏んだこともない。

 それなのに、なぜ知っていたかというと、私たちは七三一部隊の本家で学んだからであり、多数の捕虜の生体実験が行なわれても、すこしも不思議ではない状況の中で教育を受けており、七三一部隊の親玉として、七三一部隊そのものであったといってよい石井四郎軍医中将(当時小将)の特殊講義を受講したからである。

 くわしいことはあとにゆずるが、この講義は、さすがに凄かった。単なる医学理論の口述だけでなく、実際に細菌戦に用いた細菌の量産工場も見学させられたし、細菌に感染させたマルタ(丸太=生体実険用の敵捕虜)のナマ首も見せてくれた

 ここでいう本家とは、旧陸軍軍医学校である。

 東京・新宿の若松町にあった。森村氏の著書にも触れられているように、細菌兵器の開発と実験と生産の出発点は、じつに、この学舎にあったといってよい。(P9)



 冒頭で七三一部隊の存在について、おおよそのことを私は知っていたと書いた。私が知っていたということは、陸軍軍医学校における同期生の全員が知っていたことであり、いや、軍医学校で昭和六年以後に学んだ全員、つまり、現役の軍医(応召の軍医はのぞく)は、すべて知っていなければならないことになる。(P11-P12)

 もし仮に現役の軍医で知らなかったという人がいたら、それはモグリであり、そういう人は現役軍医という経歴よりも、医師としての資格からして疑ってかかったほうがよい。(P12)


 当然のことながら、一般国民がこの「公然の秘密」を知ることはありませんでした。



 以上、映画を見ることができたのは、高級軍人、部隊内の研究者、国内の医学者という、いわば「秘密を共有するエリート層」に限られていました。

 まさかdeliciousicecoffee氏も、これらの映画についてまで、「本物でないからこそ、映画に撮ったのではないのか」などという荒唐無稽な主張はできないでしょう。

(2017.9.10)


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