| 731部隊 (補1) |
「細菌戦」はこう展開された |
日本軍が中国大陸で「細菌戦」を行ったことは、今日では完全な「事実」として認識されており、「人体実験」と同様、論壇で「否定論」が聞かれることはまずありません。 しかしネットでは、何の根拠もなく、勝手な思い込みから「細菌戦」の存在を否定する書き込みを見ることがあります。 「細菌戦、これだけの根拠 二つの公的資料 −金子論文、井本日誌−」では、一級資料ともいえる「公的資料」により、「細菌戦」の存在が強力に裏付けられていることを説明しました。こちらではその補完記事として、「細菌戦」のおおまかな全体像を紹介していきます。 ※以下では、「細菌戦」事例としては、以前からよく知られていた、「1940年衢県、寧波、金華」「1941年常徳」「1942年浙かん作戦」のみを採り上げます。それ以外にも日本軍は数回の細菌戦を行ったと伝えられますが、詳細な資料を欠くこともあり、ここでは省略します。
日本軍は、1940年には衢県(くけん)・寧波・金華、1941年には常徳をターゲットに「細菌戦」を仕掛けています。いずれも飛行機から、ペスト菌またはペスト蚤を撒布する、という方法です。 ※井本熊男中佐の業務日誌などからは、「衢県」以前にも、コレラ、チフス、ペストの細菌を使用した攻撃があったものと推測されますが、細かい話ですので省略します。
中国側は、日本軍による細菌攻撃を、当時から認識していました。例えば「常徳」については、次のような報告書が作成されています。
この時は、ペスト桿菌そのものは検出できませんでした。 しかし報告書は、「常徳ではこれまでペストが発生したことはなく、他の流行地から伝染したものでもない」「投下の直後、投下地点に近いところからペストが発生している」などの「状況証拠」から、直後に発生したペスト流行はこの時の「投下物」が原因である、と結論します。
中国側は、「日本の細菌戦」の存在を世界に訴えました。しかしこの時点では、「状況証拠」しかないこともあり、イギリスのボートン研究所などのように、「証拠不十分」と見るむきもありました。 ただし米国について言えば、独自に日本軍捕虜から「石井部隊」の情報を得て警戒を強め、自ら「細菌戦」研究のためにフォート・デトリック研究所を創設するなど、早くも対抗策を練っていたと伝えられます。 戦後になり、ソ連による1946年「ハバロフスク軍事裁判」で、川島清(731部隊第四部長)・西俊英(731部隊教育部長)らが「細菌戦実施」について証言します。これが、日本側からの「告白」の嚆矢となりました。 ただしこの時点では、裁判自体を「ソ連のプロパガンダ」と捉える向きもあり、必ずしも「細菌戦」が事実として広く認知されたものではありません。 ※川島清・西俊英の裁判における証言内容については、それぞれのリンク先をご覧ください。 1982年には、731部隊のパイロット、松本正一氏が、高杉晋吾氏の取材に応えて、上の『常徳ペスト報告書』を裏付ける証言を行います。
「細菌戦」の実施部隊である「航空班」にいた人物の証言だけに、信頼性は高い、と言えます。秦郁彦氏も、「加害者と被害者の観察がこんなに細部まで合致する例は珍しい」(『日本の細菌戦』(下)=(『昭和史の謎を追う』(上)P566)と、この証言を高く評価しています。 松本氏はその後、西里扶甬子『生物戦部隊731』などで、詳細な証言を残しています。また2000年の「細菌戦裁判」では、自らの体験を詳細に語った「陳述書」を提出しています(『裁かれる細菌戦』No2)。 さらにこれらの「細菌戦」の事実が、「金子順一論文」「井本熊男業務日誌」という一級資料でも裏付けられたことは、前記事で見てきた通りです。
1941年までに行われた一連の作戦は、一定のペスト流行を引き起こしました。しかし、中国側の防疫努力もあって流行は小規模にとどまり、日本軍は、どうやら空中撒布では効果は小さいようだ、と判断します。 そこで1942年の浙かん作戦時には、多数の攻撃地点にさまざまな方法で細菌を散布する試みが行われることとなりました。
森氏の解説では、「撤退時」の作戦しか言及されていませんが、『井本熊男中佐業務日誌』によれば、実際には、「ペスト菌を注射したネズミを放つ」「井戸に直接細菌を入れる」「果物に菌を注射する」など、多種多様な作戦が展開されたようです。 元部隊員の証言を見ても、例えば1644部隊・小沢武雄氏などは、「国民党軍の宿舎」で、サイダー瓶に入ったペストノミをばらまく、という「作戦」を語っています。
「人体実験、これだけの根拠(1) 米国側資料� .侫Д襦Ε譽檗璽�」で紹介した「フェル・レポート」も、「浙かん作戦」に触れています。
レポートの主目的は「人体実験の成果の報告」ですので、以上の通り、「細菌戦」についての記述は簡単なものとなっています。それでも、「浙かん作戦」と思われる記述、あるいは「ペストノミの撒布」の記録を見ることが出来ます。 また、関東軍の参謀であった、松村知勝氏の『関東軍参謀副長の手記』にも、「浙かん作戦」を示す記述が登場します。 石井部隊を管轄する部署にいた人物の証言だけに、信頼性は高いと言えます。
しかし何とも間の抜けたことに、この細菌撒布作戦は、日本軍側に大きな被害を出してしまった模様です。1944年、米軍が1644部隊出身の捕虜に対して行った尋問の記録です。
一衛生兵の見聞によるものだけに、数字の信頼性には疑問符がつきます。 しかし、浙かん作戦で「異常に多い戦病者」が出たことは事実であり、松村高夫氏も「その多くが日本軍自らが実施した細菌戦の被害者だった可能性が大きい」との見解を示しています。
さて、「浙かん作戦」で注目されるのは、「細菌戦」に反対した、澤田茂第一三軍司令官の存在です。
澤田は「石井部隊の使用」に「反対なる旨」を開陳しました。「日支関係に百年の痕を残す」「山中、田舎の百姓を犠牲にして何の益あらん」 − これは、今日の眼で見ても「卓見」と呼ぶべきでしょう。 しかしこの澤田司令官も、「効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ」となお不満を示しつつも、結局は「命令」を受け入れざるを得ませんでした。7月11日の日誌です。
そして「細菌戦」は実施されました。その後の日誌には、澤田司令官が「作戦終了」の報告を受けた記述が登場します。
※なお松野氏は、石井四郎らとの詳細な打合せ記録が日誌に登場しないことから、「澤田将軍が(直接)石井部隊を指揮して細菌戦を実行したとは判断できない」「細菌戦実施計画は陸軍内の高いレベルですでに完成しており、そのなかで現地軍に与えられた役割分担として、石井部隊が第一三軍の作戦担当地域で活動することから、現地の実情と軍の展開状況や自軍への被害防止などの観点から必要な指示や注意を与えていると見るのが自然である」(P78)との見方を示しています。 この「浙かん作戦」を最後に、日本軍の「細菌戦」実施の記録はほとんど途絶えます。この作戦の失敗に加え、米国ルーズベルト大統領が「化学戦への報復」の可能性に言及したことが、その背景にある、と考えられています。 その後も石井部隊は「陶器爆弾」の開発など「細菌戦」実施に向けた研究を続けますが、結局「陶器爆弾」が実戦で使用されることはありませんでした。 以上、研究者は別に「ハバロフスク裁判」証言だけから「細菌戦」の事実を認定しているわけではありません。資料は重層的かつ相互補完的であり、「細菌戦」実施の事実を疑う論者は存在しません。 参考までに2002年の細菌戦裁判東京地裁判決でも、「細菌戦」の事実は明確に認定されています。「細菌戦」が行われた事実を否定することなど、今日では不可能でしょう。
(2020.4.18)
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