731部隊
(補1)
「細菌戦」はこう展開された


 日本軍が中国大陸で「細菌戦」を行ったことは、今日では完全な「事実」として認識されており、「人体実験」と同様、論壇で「否定論」が聞かれることはまずありません

 しかしネットでは、何の根拠もなく、勝手な思い込みから「細菌戦」の存在を否定する書き込みを見ることがあります。

 「細菌戦、これだけの根拠 二つの公的資料 −金子論文、井本日誌−」では、一級資料ともいえる「公的資料」により、「細菌戦」の存在が強力に裏付けられていることを説明しました。こちらではその補完記事として、「細菌戦」のおおまかな全体像を紹介していきます。
※以下では、「細菌戦」事例としては、以前からよく知られていた、「1940年衢県、寧波、金華」「1941年常徳」「1942年浙かん作戦」のみを採り上げます。それ以外にも日本軍は数回の細菌戦を行ったと伝えられますが、詳細な資料を欠くこともあり、ここでは省略します。

※※「細菌戦」について本気で説明すると、大変な分量になってしまいます。こちらでの「細菌戦」紹介は、ごく簡単なダイジェスト版であることはご承知ください。



 1940-41年の細菌戦

 日本軍は、1940年には衢県(くけん)・寧波金華、1941年には常徳をターゲットに「細菌戦」を仕掛けています。いずれも飛行機から、ペスト菌またはペスト蚤を撒布する、という方法です。
※井本熊男中佐の業務日誌などからは、「衢県」以前にも、コレラ、チフス、ペストの細菌を使用した攻撃があったものと推測されますが、細かい話ですので省略します。
森正孝『解説−細菌戦』

一九四〇年

 九月、ハルビンの七三一、南京の一六四四の両部隊は、浙江省杭州市寛橋の国民党中央航空学校を接収し、ここを出撃拠点として浙江省各地域を細菌攻撃した。使用された細菌はコレラ、チフス、ペスト。

 ペスト攻撃が最も猴効″とされ、その最初の攻撃地は衢県である(一〇月四日)。続いて寧波を攻撃(一〇月二七日)。そして一一月二七、二八日金華攻撃へと続いた。この年は金華を最終攻撃地とすることで終了している。

 すべてペストによる攻撃であり、低空から麦粒、とうもろこし、大豆などとともにペストノミを雨下(投下)している。被害は衢県が最大で死者二七四人(実際には隔離や家の焼却 − ペスト防疫はとりあえず焼却という方法をとった − をおそれて届出しない家もあり五〇〇名を超えると言われている)。寧波は同一〇三名、金華は同一六〇名と記録されている。(P46)

●一九四一年


 一一月四日、常徳が攻撃された。前年と同じペストノミの雨下作戦。死者三六名が記録されている。被害が少なかったのは中国側の防疫活動が迅速綿密に行なわれたからであった。(P46)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


 中国側は、日本軍による細菌攻撃を、当時から認識していました。例えば「常徳」については、次のような報告書が作成されています。

常徳ペスト調査報告書

常徳ペスト調査報告書(陳文貴報告)

  (民国三十年(1941年)十二月十二日)

1 前がき − ペストの疑いの発生

 民国三十年十一月四日朝五時ごろ敵機一機が霧の中、常徳の上空を低空飛行し、穀類、ワタ・紙・羊毛の繊維およびその他正体不明の顆粒状物体を含む、さまざまな種類の物体を投下した。それらの物体は鶏鴨巷関廟街と東門一帯に落下した。

 午後五時になって警報が解除されたあと、軍と警察はようやく落下物を回収して焼却し、一部を顕微鏡検査のため広徳病院に届けた。その染色プレパラート検査の結果、常徳の医療関係者は全員、ペスト杆菌の疑いがあると考えた。(P487)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)

 この時は、ペスト桿菌そのものは検出できませんでした。

 しかし報告書は、「常徳ではこれまでペストが発生したことはなく、他の流行地から伝染したものでもない」「投下の直後、投下地点に近いところからペストが発生している」などの「状況証拠」から、直後に発生したペスト流行はこの時の「投下物」が原因である、と結論します。

常徳ペスト調査報告書

 (三)上記各節にもとづいて得られた結論は次の通りである。

一、十一月十一日から二十四日にかけて、常徳ではたしかに腺ペストが流行した。

二、ペストの伝染源は敵機が十一月四日朝に投下した、ペスト伝染物体のなかのペスト伝染性を持つノミである。(P498)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)

 中国側は、「日本の細菌戦」の存在を世界に訴えました。しかしこの時点では、「状況証拠」しかないこともあり、イギリスのボートン研究所などのように、「証拠不十分」と見るむきもありました。

 ただし米国について言えば、独自に日本軍捕虜から「石井部隊」の情報を得て警戒を強め、自ら「細菌戦」研究のためにフォート・デトリック研究所を創設するなど、早くも対抗策を練っていたと伝えられます。



 戦後になり、ソ連による1946年「ハバロフスク軍事裁判」で、川島清(731部隊第四部長)・西俊英(731部隊教育部長)らが「細菌戦実施」について証言します。これが、日本側からの「告白」の嚆矢となりました。

 ただしこの時点では、裁判自体を「ソ連のプロパガンダ」と捉える向きもあり、必ずしも「細菌戦」が事実として広く認知されたものではありません。
川島清西俊英の裁判における証言内容については、それぞれのリンク先をご覧ください。

※※なお「ハバロフスク裁判」については、研究の進捗につれて証言内容が「事実」に沿ったものであることが認識され、今日では、「今でも基礎資料としての価値を失っていない(秦郁彦『日本の細菌戦』(上))という見方がほぼ定着しています、



 1982年には、731部隊のパイロット、松本正一氏が、高杉晋吾氏の取材に応えて、上の『常徳ペスト報告書』を裏付ける証言を行います。


高杉晋吾『細菌戦の医師を追え』

 私は関東地方のある県に住む伊沢哲平(仮名)(「ゆう」注 本名「松本正一」)という元七三一部隊第二部航空班に所属していた人物と会った。

 七十歳に近い彼は桑畠の広々とした平野のB村の一軒家に住んでいた。前日私が訪問した折には老人会の集まりがあって温泉に行って留守であった。私は翌日も彼を訪問した。

「私は常徳への作戦の最初の攻撃には間に合わなかった。しかし、杭州に行ったことは事実です。それから、私は航空班の平沢少佐の操縦するAT旅客機で南昌にも行きました」(P34)



細菌攻撃は碇常重部長が引率して、九七式重爆一型一機、九七式軽爆一機の計二機で行ないました

 私は中国のチェン・ウェンクェイ博士の報告書(前述)(「ゆう」注 上記『常徳ペスト調査報告書』(陳文貴報告)のこと)を読み、一九四一年十一月四日の空からの細菌攻撃のリポートの真実性を、空から攻撃した当事者の一人である伊沢哲平氏に確認してみた。彼は苦しそうな表情を笑いのなかに浮かべて沈黙していたが、思いきったようにいった。

ペスト菌撒布は本当だったと申し上げましょう。小麦や米の粒、紙片や木綿の詰め物をまいたっていいますけど、それは、それ自体をペスト菌で汚染してまいたのではないんです。はっきりいいますと、それは蚤床といって、まあ、蚤の巣ですね。ゴミなんです。だからそうしたものがまかれたというこの(チェン博士の)リポートは正確です

 空から蚤をまいて地上に着くのが遅くても困るから重い米麦粒も入れてある。空から蚤を裸のままいても百メートル落下すると満腹状態ではピチッと潰れますからね。平房のほうでそうした蚤の落下試験はやっていました。それから蚤が満腹では人に吸い着かないから飢餓状態にしてある。うすっペらな蚤と満腹の蚤とでは落下速度が違います。

 この報告書では朝五時となっていますが、私が参加したものではたしか午前十時だったと思います。また、飛行機は一機とありますが、私の記憶では二機でやりました。それ以外は、全くこのとおりです」(P35-P36)

 私は約十年前にこの調査リポートを翻訳したとき以来、日本軍側の証言を得ることを願っていたのだが、ようやく、チェン博士の調査の四十一年後に、細菌攻撃を行なった側からの証言をとり、裏づけることができたことに複維な思いに浸ったのである。(P36)
※念の為ですが、実際に細菌投下を行ったのは同じ「航空班」の増田美保少佐・平沢正欣中佐らであり、松本氏は彼らから聞いた話を伝えています。

 「細菌戦」の実施部隊である「航空班」にいた人物の証言だけに、信頼性は高い、と言えます。秦郁彦氏も、「加害者と被害者の観察がこんなに細部まで合致する例は珍しい(『日本の細菌戦』(下)=(『昭和史の謎を追う』(上)P566)と、この証言を高く評価しています。

 松本氏はその後、西里扶甬子『生物戦部隊731』などで、詳細な証言を残しています。また2000年の「細菌戦裁判」では、自らの体験を詳細に語った「陳述書」を提出しています(『裁かれる細菌戦』No2)。

 さらにこれらの「細菌戦」の事実が、「金子順一論文」「井本熊男業務日誌」という一級資料でも裏付けられたことは、前記事で見てきた通りです。



 1942年の細菌戦 折かん作戦

 1941年までに行われた一連の作戦は、一定のペスト流行を引き起こしました。しかし、中国側の防疫努力もあって流行は小規模にとどまり、日本軍は、どうやら空中撒布では効果は小さいようだ、と判断します。

 そこで1942年の浙かん作戦時には、多数の攻撃地点にさまざまな方法で細菌を散布する試みが行われることとなりました。

森正孝『解説−細菌戦』

一九四二年

 浙かん作戦にともなって細菌戦が展開された。浙かん鉄道沿線の国民党航空基地破壊を目的に地上部隊と航空機による攻撃を行なったのち、撤退時に細菌を撒布するという作戦が主流であった。引き返す国民党兵力や住民にダメージを与え撹乱するためである。(P46-P47)
※「ゆう」注 1942年、米軍機による突然の『東京空襲」に驚いた日本軍は、中国浙かん線(浙江省-湖南省間)沿線の飛行場を破壊する、「浙かん作戦」を展開しました。「細菌戦」は、その作戦を蔭から支える形で実施されました。
(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)

 森氏の解説では、「撤退時」の作戦しか言及されていませんが、『井本熊男中佐業務日誌』によれば、実際には、「ペスト菌を注射したネズミを放つ」「井戸に直接細菌を入れる」「果物に菌を注射する」など、多種多様な作戦が展開されたようです。

 元部隊員の証言を見ても、例えば1644部隊・小沢武雄氏などは、「国民党軍の宿舎」で、サイダー瓶に入ったペストノミをばらまく、という「作戦」を語っています。


森正孝『解説−細菌戦』

 元南京一六四四部隊員・衛生兵の小沢武雄氏は、四二年八月、この謀略的細菌戦に参加している。この種の証言としては極めて貴重であるので要旨だけであるが紹介しておく(九五年九月聴取)。

 作戦は、四二年八月の中頃。夕刻南京一六四四部隊の飛行場を二機の小型輸送機で出発。それぞれに五人ずつ分乗。一機は離陸に失敗したため小沢氏たちだけが目的地(浙江省であることはわかっていたが地名は不明)に到着。その間約三〇分飛んだ。着陸地は、砲撃のあとが生々しく穴ぼこがあちこちにあり飛行場のようにも見えた。

 暗くなるのを待って行動開始。小沢民ら五人は、腰にサイダー瓶を一〇本ほどぶらさげ、手にも五本以上、持てるだけ持って行動した。瓶の中には黒々となるほどのペストノミが入っていた。

 目ざすは、国民党軍の宿舎である。日本軍の攻撃で宿舎は無人であった。すぐさま片方の手にもった懐中電灯を頼りに宿舎の床下へもぐり込んだ。そして瓶のふたを開け、素早くノミをばらまいた

 装備はふだんの軍服。ワクチンも打っていない。ノミにたかられたら殺られてしまう。もたもたして朝になれば敵がもどってくる。両方の恐怖におびえながら無我夢中でまいた。

 任務を終えると瓶を土中へ埋めた。そして撤退。しかし乗せてきた輸送機はとうに南京にもどっていた。小沢民らは炎天下を三カ月かかって南京へ帰った。
(P47)

 典型的な謀略的細菌戦であるが、それにしても無防備状態でペストノミをまかせていることを考えると下級隊員の「安全」「防疫」などまったく考慮されていなかったことがうかがえる。(P48)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


 「人体実験、これだけの根拠(1) 米国側資料 .侫Д襦Ε譽檗璽」で紹介した「フェル・レポート」も、「浙かん作戦」に触れています。

フェル・レポート

(7) 結論(六〇ページのレポートの最終部分)

(略)

 細菌戦の野外実験では通常の戦術は、鉄道線路沿いの互いに一マイルほど離れた二地点にいる中国軍に対して、一大隊あるいはそれ以上をさし向けるというものだった。

 中国軍が後退すると、日本軍は鉄道線路一マイルを遮断し、予定の細菌戦用病原体を噴霧か他のなんらかの方法で散布し、ついで「戦略的後退」を行った。中国軍はその地域に二四時間以内に急拠戻ってきて、数日後には中国兵のあいだでペストあるいはコレラが流行するというものだった

 いずれの場合も、日本はその結果の報告を受けるため汚染地域の背後にスパイを残そうとした。しかし彼らも認めているのだが、これはしばしば不成功に終わり、結果は不明であった。しかしー二回分については報告が得られており、このうち成果があがったのは三回だけだったといわれている。

 高度約二〇〇メートルの飛行機からペストノミを散布した二回の試験において特定の地域に流行が起きた。このうちのひとつでは、患者九六人がでて、そのうち九〇パーセントが死亡した。(「ゆう注」 1941年「寧波」の事例であると思われます)

 鉄道沿いに手でペストノミを散布した他の三回の試験では、どの場合も小さな流行は起こったが、患者数は不明である。コレラを二回そして腸チフスを二回、鉄道の近くの地面および水源に主導噴霧器でまいたところ、いずれのばあいも効果があるという結果を得た。(P298)

(松村高夫編『<論争>731部隊』所収)

 レポートの主目的は「人体実験の成果の報告」ですので、以上の通り、「細菌戦」についての記述は簡単なものとなっています。それでも、「浙かん作戦」と思われる記述、あるいは「ペストノミの撒布」の記録を見ることが出来ます。


 また、関東軍の参謀であった、松村知勝氏の『関東軍参謀副長の手記』にも、「浙かん作戦」を示す記述が登場します。 石井部隊を管轄する部署にいた人物の証言だけに、信頼性は高いと言えます。

松村知勝『関東軍参謀副長の手記』

 いよいよ実戦試験を中国戦線でやることになり、特別命令によって重慶の奥地や、中支の日本軍が撤退する某所でやったが、作戦的効果は期待できないという結論にはなったものの、謀略としての効果はあるということになった(P105)
※「ゆう」注 氏は「ハバロフスク裁判」の被告となりましたが(ただし「731」とは無関係の被疑)、戦後のこの手記では徹底的に「裁判」を批判していることを、念の為に付け加えておきます。 なお松村氏の記述のうち「重慶の奥地」に対する細菌戦については、特に記録が残っていませんので、成果がなかったものと思われます。




 しかし何とも間の抜けたことに、この細菌撒布作戦は、日本軍側に大きな被害を出してしまった模様です。1944年、米軍が1644部隊出身の捕虜に対して行った尋問の記録です。

一六四四部隊衛生兵・榛葉修への尋問

アメリカ陸軍中国前線司令部
G-胸暇塗長部
 APO八七九、一九四四年一二月一二日
SINTIC二一三号

主題 − 中国における日本の細菌戦準備
情報源 − 捕虜二二九号(「ゆう」注 一六四四部隊衛生兵・榛葉修)(P140)

(略)

一〇

 一九四二年の浙かん作戦において、日本軍がみずから生物兵器攻撃を行なった地域に誤って踏みこんでしまったとき、非常に短時間のうちに、一万人以上にのぼる患者を出した。主にコレラ患者であったが、赤痢とペストも患者が出た

 患者はふつう後方の病院、主に杭州陸軍病院に急送されたが、コレラ患者の多くは治療が手遅れとなり死亡した。

 捕虜が南京の防疫給水部本部で見た統計によれば死者は一七〇〇人以上であり、死因は主にコレラであった。捕虜は実際の死者数ははるかに多いと信じている。というのは「不愉快な数字は低く見積もるのが通例である」から。(P141-P142)

(常石敬一編訳『標的・イシイ』所収)


 一衛生兵の見聞によるものだけに、数字の信頼性には疑問符がつきます。

 しかし、浙かん作戦で「異常に多い戦病者」が出たことは事実であり、松村高夫氏も「その多くが日本軍自らが実施した細菌戦の被害者だった可能性が大きい」との見解を示しています。

松村高夫『731部隊による細菌戦と戦時・戦後医学』 

 細菌戦が味方=日本軍の被害をもたらすのではないかという懸念は、浙かん作戦の異常に多い戦病者となって現われている。

 同作戦全期間を通じた損害を見ると、戦死(含む戦病死)1284人、戦傷2767人に対して、戦病1万1812人と高い比率を占めるが、とくに第13軍の本隊が金華以北に撤退する過程で本格的な細菌戦を実施した浙かん作戦第4期(42年8月15日-9月30日)には、戦死77人、戦傷85人に対して、戦病は4709人を記録している。こうして作戦後半期(6月16日-9月30日)に戦病者の84・7%が集中する事態を生んだ(戦死者は同期に40.8%、戦傷者は同じく25.1%)。

 このように、浙かん作戦で多発した戦病者は、その多くが日本軍自らが実施した細菌戦の被害者だった可能性が大きい。それ以降、日本軍がPXを散布した形跡がないのは、日本軍に多数の犠牲者が出たことによるのだろう。(P59)

(『三田学会雑誌』2013年4月所収)  



 さて、「浙かん作戦」で注目されるのは、「細菌戦」に反対した、澤田茂第一三軍司令官の存在です。

松野誠也『細菌戦をめぐる参謀本部・現地軍の動静と確執−浙かん作戦を事例に』
(澤田茂日誌 1942年6月16日)

 辻中佐ノ言によれハ大本営ハ当方向ニ石井部隊の使用を考へあるが如し 反対なる旨開陳し置ケリ

 日支関係に百年の痕を残す 且つ又利害なく 我方防疫の手続き丈ケ厄介なり 山中、田舎の百姓を犠牲にして何の益あらん
(「澤田日誌」第三巻、二八三頁)。(P74)
(『歴史評論』2007年1月)

 澤田は「石井部隊の使用」に「反対なる旨」を開陳しました。「日支関係に百年の痕を残す」「山中、田舎の百姓を犠牲にして何の益あらん」 − これは、今日の眼で見ても「卓見」と呼ぶべきでしょう。

 しかしこの澤田司令官も、「効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ」となお不満を示しつつも、結局は「命令」を受け入れざるを得ませんでした。7月11日の日誌です。

松野誠也『細菌戦をめぐる参謀本部・現地軍の動静と確執−浙かん作戦を事例に』
(澤田茂日誌 1942年7月11日)

 石井少将連絡の為来着す 其の報告を聞きても余り効果を期待し得さるか如し 効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ 堂々王者の戦をなせハ可なり 何故こんな手段を執るや予にハ不可解なり

 何れとも既ニ命令を受ケたる以上実施せさるへからす 仍つて次の三点に就て特に注意せしむ。

 1.秘密の絶対保持/2.
□□の予防/3.飛行場に攻撃を向くる事
(「澤田日誌」第四巻、三三五〜六頁)。(P79)
(『歴史評論』2007年1月)


 そして「細菌戦」は実施されました。その後の日誌には、澤田司令官が「作戦終了」の報告を受けた記述が登場します。

松野誠也『細菌戦をめぐる参謀本部・現地軍の動静と確執−浙かん作戦を事例に』
(澤田茂日誌 1942年7月11日)

  「朝来飛行機の偵察によれハ敵兵30名広信に侵入せる外認むへき敵の動きもなく我第一線兵団ハ秩序整然と反転を実施しつゝあり。ホ号作戦も広信及広豊に於て秘密裏に終了す
(同前、三九四頁)(P78)
(『歴史評論』2007年1月)
※なお松野氏は、石井四郎らとの詳細な打合せ記録が日誌に登場しないことから、「澤田将軍が(直接)石井部隊を指揮して細菌戦を実行したとは判断できない」「細菌戦実施計画は陸軍内の高いレベルですでに完成しており、そのなかで現地軍に与えられた役割分担として、石井部隊が第一三軍の作戦担当地域で活動することから、現地の実情と軍の展開状況や自軍への被害防止などの観点から必要な指示や注意を与えていると見るのが自然である」(P78)との見方を示しています。


 この「浙かん作戦」を最後に、日本軍の「細菌戦」実施の記録はほとんど途絶えます。この作戦の失敗に加え、米国ルーズベルト大統領が「化学戦への報復」の可能性に言及したことが、その背景にある、と考えられています。

 その後も石井部隊は「陶器爆弾」の開発など「細菌戦」実施に向けた研究を続けますが、結局「陶器爆弾」が実戦で使用されることはありませんでした。



 以上、研究者は別に「ハバロフスク裁判」証言だけから「細菌戦」の事実を認定しているわけではありません。資料は重層的かつ相互補完的であり、「細菌戦」実施の事実を疑う論者は存在しません

 参考までに2002年の細菌戦裁判東京地裁判決でも、「細菌戦」の事実は明確に認定されています。「細菌戦」が行われた事実を否定することなど、今日では不可能でしょう。

731部隊細菌戦裁判 第一審判決

f 寧波

(a)1940年(昭和15年)10月下旬、日本軍機が寧波上空に飛来し、中心部の開明街一帯にペスト感染ノミ(後にインドネズミノミと鑑定された。)の混入した麦粒を投下した。(P208)



g 常徳

(a)1941年(昭和16年)11月4日、731部隊の日本軍機が常徳上空に飛来し、ペスト感染ノミと綿、穀物等を投下し、これが県城中心部に落下した。



h 江山

(a)日本軍は、1942年(昭和17年)6月10日ころから江山県城を占領し、約2か月後に撤退したが、この撤退の際、コレラ菌を使用した細菌戦を実行した。その方法は、主として、井戸に直接入れる、食物(餅状のもの)に付着させる、果物に注射するなどというものであった。(P209)



(ウ)これらの細菌兵器の実戦使用は、日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので、陸軍中央の指令により行われた。(P209)

(『裁かれる細菌戦 資料集シリーズNo8』所収)

(2020.4.18)


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