731部隊(7) 吉村班 「凍傷」の研究


 「731部隊」は、別に「細菌戦」の研究ばかりをやっていたわけではありません。医学のさまざまな分野で、種々の「研究」を進めていました。

 その中でも、大きな「成果」を挙げたひとつが、「凍傷」の研究です。しかしその陰には、多くの「マルタ」の犠牲があったことは、今日明らかにされているところです。

 以下、「凍傷研究」を行った、吉村班・吉村寿人班長の「研究」について見ていきます。



 1942年当時、凍傷に対してお湯で「暖める」ことはタブーとされていました。

 なぜなら、例えば凍傷の患部を50度のお湯で暖めると、凍傷が治るどころか、「重症凍傷を惹起し右母指を残すのみにて他の九指を喪失」する、などという悲惨な事例が報告されていたからです(常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)P175)

 この「タブー」を打ち破ったのが、七三一部隊吉村班(凍傷研究)班長の吉村寿人でした。


常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 新しい治療法

 石井部隊の中で凍傷の研究をしていたのは吉村一人ではなく、彼の指導下で飯田敏行陸軍技師や白井清隆軍医少尉らが凍傷の研究を行なっていた。

 吉村ら三人は、一九四二年三月の学会での尾形恒治の研究発表に対して、いくつかのコメント(補足)を行なっている。そのコメントの内容は時期的にいって当然ながら、一九四一年の吉村の論文、マル秘のスタンプのある論文を要約したものとなっている。

 尾形の講演に対する吉村らの指摘で目新しいものは、新しい治療法(応急処置の方法)の提案である。それについて次のように述べている。


 凍傷の応急処置としては従来は凍結部位を冷所に於て摩擦するの方法が各国に於て採用せられ、凍結部位を曖むることは固く禁ぜられたり。

 然れども吾人の研究によれば、之は正反対の誤りにして凍傷応急処置法としては凍結部位を摂氏三七度附近(少くとも三〇〜四五度)の微温湯にて融解せしむるが最も効果ある方法なるを発見せり。(但し五〇度以上の熱湯は使用すべからず)。

 即ち之によりて全手が壊死に陥るが如き強き凍傷も之を壊死より救いて完全に治癒せしめ得。之に反し従来の摩擦法は或程度の効果もあるに過ぎずして、壊死を完全に防止し得ず。
(P173)




 「凍傷」の「応急処置法」としては、「摂氏三七度附近(少なくも三〇〜四五度)」のお湯で暖めるのが最も効果がある、というわけです。これは当時において、凍傷治療法のコペルニクス的転回とも言える、画期的な治療法でした。



 当然、疑問が生まれます。「50度」と「30〜45度」の差はわずかなものです。吉村はどのようにして、「50度」だと指がボロリととれてしまうが、「30〜45度」だと効果抜群である、という事実を発見できたのか

 誰しもが、「人体実験」を連想します。現に、ソ連で行われたBC級戦犯裁判「ハバロフスク裁判」では、次のような証言がありました。


西俊英証言

(問) 部隊で行われた凍傷実験について貴方は何を知っているか?

(答) 吉村研究員から聞いた所によりますと、酷寒 ―零下二〇度以下とのことです― に部隊の監獄から人々を引出し、素手にさせ、人工風によって手を凍らせていました。それから、小さな棒をもって凍傷にかかった手を、小板を叩く様な音が出る迄叩き続けました。此の外、私は実験に関する吉村の報告を読みました。これについて、映画も撮影されました。

 画面に、足錠を嵌められた人間が四−五人、防寒服を着、手には何も纏わず表に引出されて来る場面が現れ、ついで大形の扇風機が人工的方法によって凍傷を早めます。それから、手が完全に凍傷にかかったかどうかを点検するため、手を小さい棒で叩く所が上映され、つずいて、凍傷にかかった人間が部屋に入れられる所が上映されます。吉村は、この研究が 将来対ソ戦を目的として行われているのだと私に語りました。(P354)

(軍医中佐、731部隊教育部長)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


古都証言

(問) 人体凍傷実験に就いて話して貰い度い。

(答) 人体凍傷実験は、毎年、一年の中で一番寒い月 ― 十一月、十二月、一月、二月に部隊内で行われました。

 此の実験の方法は次の通りであります。即ち、被実験者を夜十一時頃、酷寒の戸外に連れ出し、冷水の入った桶に両手を入れさせ、其れから手を出させて、濡手の儘、長時間寒気に立たせました。或は又、こうもしました。着物は着ても裸足の人間を戸外に連れ出して、夜、一番寒い時に寒気に立たせました。

 人間が凍傷に罹った後、室内に連れ込み、凡そ五度の温水に足を入れさせ、徐々に水温を上げました。こうして、凍傷の治療方法が研究されていました。(P465-P466)

 私は、此等の人間が室内に連れ込まれてからの実験は直接見ませんでしたが、私が不寝番に立っていました時、人間を寒気に連れ出し、其処で凍傷に罹らせられているのを見た丈であります。人間に手を水に漬けさす室内の実験に就いては、目撃者の話で聞きました。(P466)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  

 これらの「凍傷実験」は、被験者である「マルタ」に対して、「指が欠ける」、あるいは「指の骨だけが残る」という悲惨な結果を残したと伝えられます。


倉員証言

(問) 貴方は、自分で生きた人間を使用する実験を見たか?

(答) はい、見ました。生きた人間を使用する実験を私が初めて見たのは、一九四〇年十二月のことであります。第一部員である吉村研究員が此の実験を私に見せて呉れました。此の実験は、監獄の実験室で行われていたのであります。

 私が監獄の実験室に立寄りました時、其処には長椅子に五人の中国人の被実験者が座っていましたが、此等の中国人の中二人は、指が全く欠け、彼等の手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました。指は有るには有りましたが、骨だけが残っていました。私が吉村の話しから知った所によりますと、是れは、彼等に対して、凍傷実験をした結果でありました。(P480)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  

 なおハバロフスク裁判については、当初は、「ソ連の宣伝にすぎない」という見方が広く流布されていました。しかしその後、研究の進展に従い、今日では「厳密な資料批判が必要であることはいうまでもないが、それはいぜんとして七三一部隊に関する基礎的資料である(松村高夫『731部隊作成資料 解説』P8)という評価が一般的になっています。




 さて戦後になり、吉村は「南極特別委員会」委員や京都府立医大学長などを務めるなど、学会で枢要な地位を占めることになりました。 氏は同時に、「七三一部隊」の人体実験に関わったとして、各方面からの非難の的にもなりました

 吉村氏は、このような非難に対していくつかの「弁明」もしくは「反論」を遺しています。1972・10・23付朝日新聞、1982・11・4付毎日新聞、あるいは氏の著作『喜寿回顧』で、氏の言い分を確認することができます。(それぞれの資料についてはこちらに掲載しました。)

 例えば『喜寿回顧』では、こんな調子です。


吉村寿人『喜寿回顧』


 それでも新聞や石井部隊の事を書いた書物にはまるで私が悪魔であったかの様に書かれている。しかし私は軍隊内に於て凍傷や凍死から兵隊を如何にしてまもるかについて部隊長の命令に従って研究したのであって、決して良心を失った悪魔になった訳ではない。

 ただ当時は戦争中であって部隊は臨戦態勢をとっていたことだけは御了解願い度い。「悪魔の飽食」中に書かれた私に関するものには随分とひどい誤解やフィクションに満ちたものであることはここに断言する。本書を読まれた皆様には私を信頼し、私個人はそんな悪魔でなかった事を信じていただき度い。(P34)



 ただしこれらの「弁明」をよく読むと、氏の言い分を必ずしも額面通りに捉えるわけにはいかないことに気付きます。



 まず、氏の「731」に対する認識です。

吉村寿人『喜寿回顧』

 私にとって石井部隊は全く地獄のように思われ、部隊に居る事自身が苦痛でたまらなかった。私は天を仰ぎ地に伏して歎いた。鬼界ケ島へ流された俊寛には謀叛という罪があった。しかし私にどんな罪があったというのであろう。これは私のみならず軍属として大学より派遣せられ大学よりの呼び返しを待っていた陸軍技師諸君の誰もがそうであったと思う。(P314)



吉村寿人『喜寿回顧』

 九死に一生を得て京都へかえり、今後の事を相談に正路先生を訪ねた時の先生の驚き方は大へんなものであった。先生は私は多分戦死するか、「ソ」連の捕虜になると考えておられたらしい。そして気の毒な位に私に謝罪せられた。

 「自分は石井部隊で何をやっているかをうすうす知り乍ら、厭がる君を無理矢理に満州へ送り、しかも今日のような事態を迎えて、君や君の御家族の生命に危険が及ぶ所迄追いつめた事は自分の大へんな誤りであった。」と何回も何回も繰返して謝罪せられた。

 そして当時は私には京都に家もなく又食糧も配給制で満足な食を摂ることも出来なかった時であるから、先生の実家(豊中の農家)より米を運んで10日ばかり先生の御宅で寝泊りさせてもらった。「せめて君の当座の生活だけでも見させていただいて、自分の贖罪の誠心をくんでくれ」と謝り乍ら懇願されたのであった。

 いくら先生に謝罪されたとて戦犯部隊に居たという私の経歴は消えるものではない。私はその当時より、今日に到る迄大学内の学生諸君やマスコミの攻撃のまととなって苦しめられる事になるのである(曲咫◆11)、(12)を見よ)。(P317)


 吉村氏を部隊に推薦した正路教授は「自分は石井部隊で何をやっているかうすうす知」っていた。そして吉村自身にとっても、「石井部隊は全く地獄のように思われ」た、と言います。

 さらに、次の一文です。

毎日新聞 1982年11月4日(金) 23面

「生体実験していない」吉村氏

 吉村寿人・元京都府立医大学長はこのほど、京都市内の自宅で毎日新聞記者と会い、生体実験の疑惑などについて苦しげな表情で語った。一問一答は次の通り。

(略)

 ― 民族別の凍傷予防研究を行ったというが。

 中指を氷水につけて反応を調べる方法は、ハンチング反応といい、今も使われている方法だ。当時氷点下四度にならないと凍傷にならないことが関東軍の調査でわかっていたので、零度で実験した。しかも、マルタを使ったのではなく、現地人の協力を得て調査した。生体実験などというものではない。私はマルタを管理している特別班には近寄らないようにしていた


 わざわざ「近寄らない」ようにしていたのですから、吉村氏は「マルタ」の存在を知っていたことになります

 以上を総合すれば、吉村氏は、「731部隊が「マルタ」を利用した不都合な人体実験を行っていた」という事実を十分認識していた、と読むところでしょう。




 さらに、吉村班では「不都合な実験」を行っていなかったのか、という疑問も生じます。吉村氏自身は、このように主張していますが・・・。


毎日新聞 1982年11月4日(金) 23面


 その後、凍傷治療を研究することになり、部下の軍医中尉にやらせた。彼からの報告はあったが、あまり聞かないようにしていた。彼が何をしたか、よく知らない

(略)

 ― 自分では生体実験をしていないというが、部下の監督責任はあるのではないか。

 監督責任はあるかもしれない。しかし、軍隊に入ったら仕方のないことだ。


 自分が班長を務める班で、部下に「研究」をやらせ、「報告」も受けていたけれども、「彼が何をしたか、よく知らない」

 あまりに稚拙な言い訳
、と感じるのは、私ばかりではないでしょう。



 さて氏は、自らの実験について、このように語っています。

吉村寿人『喜寿回顧』


 更に新聞には「その研究内容は英文生理学誌J.J.P.に掲載されているが、それによればその実験は指を氷水中に浸漬するものであって、指の皮膚はそのために白く変色して凍結し、激痛を覚えるという誠に残虐なもので論文の中にリアルに記録されている」と書いてある

 しかし私のJ.J.P.に掲載した論文にはそんな事は書いてないのであって、皮膚の凍結する事の無い氷水中に指を浸して、その皮膚温の変動を記録した事が書いてある。(P317)

 この実験は臨床医師が病院内で屡々行う寒冷昇圧試験で腕関節の上部迄手を4℃の冷水中に浸すテストよりも遥かにストレスの弱い試験である。これは私共が興安嶺方面に衛生調査に出かけた時に、その附近に住む住民の凍傷抵抗性を見るために有志をつのってテストしたものである(写真検ァB).1.5を見よ)。(P318)

 

 「皮膚の凍結する事のない氷水中に指を浸し」た、ソフトな実験しか行っていない、という弁明です。しかし吉村自身の講演記録『凍傷に就て』を見ると、この弁明がウソであることがはっきりわかります。
※『凍傷に就て』の全文は、こちらに掲載しました。


 まず、『凍傷に就て』の出自について解説します。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 この吉村が一九四一年一〇月二六日に、石井部隊所属の陸軍技師として発表した論文、「凍傷ニ就テ」が公文書館に収められている。それは数十ページほどのタイプ印刷による小冊子である。

 ところがこの小冊子は敗戦以来ずっと日本にあったものではなく、近年米国から返された、返還文書の一冊である。そのためこの小冊子の裏には、Oct.17,1945(一九四五年一〇月一七日)というスタンプが押されている。これは米国の文書館に収められた日付である。(P143)



 明るみに出た経緯から見て、「極秘」扱いの資料であったのでしょう。そしてこの講演記録には、前の言と相反する、過酷な「実験」が語られていました

吉村寿人講演『凍傷に就て』


 組織が峻烈なる寒冷にあふ時は皮膚血管は収縮し凍痛を覚えるに至る

 更に之れが持続すれば遂に麻痺して「チヤノーゼ」を呈し然も更に寒冷が持続する時は組織は突然白蝋色に固結して知覚鈍麻す

 之れ凍傷の始りにして、之れが長く持続すればその程度に応じて第一、第二、第三度凍傷を来す事は前述の如し。

 而して斯く如き場合の皮膚温並に「プレスチモグラフ」を撮影するに実験1の如き結果を得。本撮影装置の原理は実験1'に示す。(P235-P236)

 即ち実験1に示す如く、中指「プレスチモグラフ」を装着して之を零下二〇度の塩水に透す時は寒冷が働くと共に皮膚血管が先づ収縮し然る後遂に麻痺す。

 従って「プレチスモグラム」の■■途中に小さき山を示す。

 而して更に寒冷作用が働く時は皮膚温並に指容積は益々低下し遂に皮膚温は零下数度に下る

 然るに之がある程度進む時は温度は突然に上昇しそれと共に指は白色固化す。之と共にその容積も亦一時に増大す。

 此の皮膚温変化は釜江が冬眠蛙並に死亡せる家兎につき認めたる事実と一致し、最初の冷却は組織の過冷却期にして、凍結核の発生によりてこの過冷却■■て組織凍結し、皮膚はその氷点に達せんとして温度上昇を来すものならし。

 而してこの時の容積の膨張は最初は氷結による組織容積の膨張にしてその次に起るものは釜江の見たる周囲血管の充血の為と考へらる。

 即ち凍傷発生時の指組織の物理的変化は全く氷結現象に該当するものなり。(P236)

(『七三一部隊作成資料』所収)
 


 「零下二〇度」で実験を行い、その結果指が「白色固化」してしまったことをはっきりと記しています。吉村氏の言葉とは裏腹に、まさに、「指の皮膚はそのために白く変色して凍結し、激痛を覚えるという誠に残虐な」実験そのものです。

 なおこの「凍傷に就て」の概要については、松村氏の解説を借りましょう。


松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』

 資料4「凍傷ニ就テ」は、吉村寿人による一九四一(昭和一六)年一〇月二六日の「第一五回満州医学会ハルビン支部特別講演」である。

 第五表が示すように過去何回か戦時に凍傷が発生したので、それをいかに防ぐかが寒冷地での戦闘では解決しなければならない課題であった。凍傷実験の目的もそこにある。

 この資料は、人体実験を行なったことを明瞭に示す数少ない資料の一つであるが、例えば実験五では、五名の「被検者」について「諸種ノ生活条件ヲ変へタル後ノ血管反応ノ状況ヲ観察シ」抗凍傷指数を算出している。この「生活条件」の「空腹供廚箸蓮崟篆3日後」であり、「睡眠不足」とは「一昼夜不眠」、水「浴後」とは「10℃水中ニ10分」等々である。

 実験六は、「苦力一〇一名ニツキ抗凍傷指数ヲ求メ」ている。実験一は、凍傷の発生をみるために塩水に手を入れさせ、その温度を下げていき中指に装置した「プレチスモグラフ」で、皮膚温度や指容積の変化を記録・撮影したものだが、零下二〇度まで下げている。(P16)





 戦後も、「凍傷実験」の目撃証言はいくつか登場します。その中でも、写真班・T・K氏の証言には、戦慄せざるをえません。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言


 七棟は、新しい「丸太」や、伝染病以外の実験をされた「丸太」が収容されていた。

 たとえば、凍傷実験などをうけた「丸太」は、七棟にいた。凍傷実験は、実験の日から、毎日日付けを書いたカードを患部にあて、数十日も連続して撮り続けることもあった。凍傷になった「丸太」の指が白蝋化してくる。そして肉がおちて骨が露出する

 凍傷実験に使用された「丸太」は比較的、長生きできた。一年ぐらい生き延びたものもいた。七棟の二階で、その「丸太」とよく会い、また手伝いをさせたりもした。わたしが、手の指が一〇本ともなくなってしまった「丸太」に、「とうとう全部なくなってしまったね」と話しかけると、「丸太」は指のない両手をあげて見せて、笑っていた。(P38)


 「とうとう全部なくなってしまったね

  さりげない一言ですが、「なくなった」ものは「手の指」です。ホラーまがいの、背筋が凍るような会話です。



 吉村班ではまた、喝病(熱中症)の研究が行われていた、という証言もあります。宮城県気仙沼市で編まれた、戦争体験記集『雲はかえらず』からです。なおここには、「凍傷実験に供された人間の四肢」の「標本」の目撃談も登場します。


千田英男『終生の重荷』

 昭和十七年春のことだった。入営以来の住み馴れた東満国境の部隊から、関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は教育部附として各支部に配属される衛生兵の教育だった。それが終了した後第一部吉村班に出向ということになった。

 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて私が行ったとき、たまたま喝病の生体実験が行われている最中だった。それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には始めて接する部隊の、隠された側面にただ驚くばかりであった。堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかり易い気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察しその病因を究明する為のものだった。

 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくとも縛束されていて身動きもできない。やがて発汗が止る。苦渋に顔がゆがみ、必死に身悶えする、耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり狂声と変って行くあのすさまじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。

 私は初めて見るこの凄惨な光景はとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。

 それにしても平然としてこのような実験に取組んでいる人たちは果してどんな神経の持ち主なのであろうか、幸いにしてこの生体実験に私は未経験者ということで傍観させられたが、この二十日程の問、連続して行われた実験の果、飯ものどを通らず夜ベットに横たわってもその日のことが思い出されて寝つかれなかった。

 そして、凍傷実験に供された人間の四肢が、標本になって所狭しと並んでいる研究室をかい間見たとき、これはとんでもないところに足を踏み入れたものだと思った。(P95)

(『戦争体験記 雲はかえらず』所収)





 最後に、「岡村寧二大将資料」より紹介します。岡村大将は1941年より「北支那方面軍司令官」の地位にありました。石井機関については、「創設時から終戦後、石井四郎氏の晩年にいたるまで熟知している」(『岡村寧次大将資料』(上)P387)関係にあった、とのことです。


『岡村寧次大将資料』(上)

 附録 石井極秘機関

 進級のためでもあるが、石井もときどき他の普通の軍務にも従事させられた。私が北支方面軍司令官時代にも、隷下第一軍の軍医部長として山西省に来任した。このときも本務の傍らその使命とする特別研究を行い、かずかずの成果を挙げた。

 特に凍傷の治療には、C三十七度の湯に浸すのが最良の方法であるという結論を得た。これは本物の人体を使用して生かしたり、殺したり、再生させたりした貴重な実験に基づくものであった

 しかし、何の事実によるか知らないが、これを中央がなかなか採用しないので、私は北支軍限りにおいて、この方法を採用した。例えば討伐に行った歩兵小隊に凍傷患者が出た場合、取敢えず小隊全部の者の小便を集め、患者をこれに浴せしめて初療を完うすることができた。第二期に入り患部が相当崩れ変形した患者でも、この方法を気ながに採用すれば全治することができた。(P388-P389)



 「本物の人体」を使用した実験の結果、凍傷の治療には37度の湯に浸すのが最も効果的であることがわかった。自分は、この方法を麾下部隊に採用したところ、効果抜群だった

 吉村氏の「弁明」を封じ込める決定打、と言っていいでしょう。




<本コンテンツで使用した資料>

吉村寿人講演『凍傷に就て』

凍傷実験、吉村寿人の「弁明」

 

(2016.7.31)


HOME 次へ