731部隊
(15)
 「生体解剖」はあったのか?
(2)証言などに見る「生体解剖」


 ここまでの一連の記事の中で、「731部隊の人体実験」の存在に疑う余地がないことを見てきました。こちらでは、もう一つ上のレベルの「残虐行為」である、「生体解剖」を取り上げます。
※以下多数の「証言」を紹介しますが、「証言」が記憶に頼ったものである以上、細部には不正確な部分が出てくることは免れません。私が、それぞれの証言内容が100%正しい、と考えているわけではないことは、念の為に書き添えておきます。あるいは、中には「虚偽証言」が存在する可能性も、完全は否定しきれません(各証言はリアルで詳細なものであり、虚偽である可能性はほとんどないとは思われますが)。

ただし「生体解剖」については、米軍飛行機乗組員に対する「生体解剖」事件(1945年5月、九州大学医学部)のように一般に広く知られた有名な事件もあり、
「731部隊」についても、これだけ資料が揃うと、その事実そのものを否定するのは困難である、と私は考えています。

※※以下では「731部隊」の事例が中心となりますが、「手術演習」については「731」以外のケースを柱としていることをお断りします。

※※※
「事実」はどうなのか、を知りたいがためにまとめてみましたが、事の性格上、中には胸が悪くなりそうな証言もあります。閲覧には十分ご注意ください。



 <流行性出血熱> 
 実験体は「サル」ではなく「ヒト」

 731部隊の二代目部隊長を務めた北野政次は、1944年、中国東北部の奇病「流行性出血熱」につき、「サル」を使った動物実験の論文を発表しました。

常石敬一『七三一部隊』

 同年八月に石井の後任の部隊長に就任した北野政次は石井の研究を受け継ぎ、その研究結果を一九四四年「流行性出血熱の病原体の決定」として発表している。そこで次のように書いている。これがまさに石井の言う特殊研究の内容だ。
 

 病原分離に就ては昨年本学会に於て報告した如く、昭和十七年十一月北満孫呉で捕獲した四十頭のセスジ鼠に附著していた北満トゲダニから病原を分離したのである。

 すなわち北満トゲダニ二百三疋を磨砕し食塩水乳剤とし、猿の大腿皮下に注射した、此の初代猿は接種後十九日に至り三十九・四度の発熱があり、中等度に感染したのであるが、此の発熱時の血液を以て接種した第二代猿は潜伏期十二日で発熱し尿蛋白陽性を示し剖検により定型的流行性出血熱腎を証明したのである。

 爾来発熱極期血液乃至臓器材料を以て猿累代接種を行い本病原を確保して種々の実験を行った。
(P116)



 常石敬一氏は、これが実は「動物実験」ではなく、紛れもない「人体実験」であることを、北野自身の別論文から論理的に喝破しました。

 その後北野自身も、常石氏のインタビューに答え、これが実は「人体実験」であったことを認めざるを得ませんでした。


常石敬一『七三一部隊』

 筆者が七三一部隊について初めての本を書いた時には、ここに引用した流行性出血熱についての北野らの論文その他を分析して、この部分の「猿」がヒト以外の何物でもないことを立証して、人体実験の事実をその実行者の名前も含めて明確に書いたのだった。

 本を出版後、北野ら元部隊員に合って話を聞くことができたが、彼らは筆者に対して一様に「あそこまではっきり書かれたらもう話すしかないな」と言いながら、質問に答えてくれた。(P117)

※詳しくは、「人体実験、これだけの根拠 (3)部隊関係者の論文群」中の北野政次他「流行性出血熱の病原体の決定」 をご覧ください。


 さて問題は、この論文が紛れもない「生体解剖」の記録であることです。常石氏による引用です。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)


  発熱極期(病勢極期ではない)に剖検すれば本疾患に特異的な解剖所見として我々が強調している流行性出血熱腎を検出した験しがない、唯腎は肉眼的に充血を認める丈けである。

 然しかかる時期の腎・肝・脾こそ感染力は絶大なのである。

 之に反し下熱期或は体温が全く平熱に復してから剖検すると茲に甫めて流行性出血熱腎は認められるのであるが、かかる病変顕著の諸臓器は既に感染力を消失していることを学んだ。
(P154)



 「体温が全く平熱に復し」たのですから、この時点では実験体は間違いなく生きています。それに対して「部検(ぼうけん)」を行ったのですから、明らかにこれは「生体解剖」です。

常石敬一『七三一部隊』

 引用した部分から分かることは、生きている人間に対して実験を行い、最後には解剖している、つまり殺しているということだ。引用文の「猿」を「人」に置き換えて読み返してもらえれば幸いだ。(P117)


 「論文」から「生体解剖」の事実が明らかになった、珍しい事例である、と言えるでしょう。



  ペストなど ー 病変した臓器の調査

 「流行性出血熱」のケースでも見られたように、「病変した臓器の様子を生きているうちに調べる」のが、「生体解剖」の一つのパターンです。

 「731部隊」は、「細菌戦」でペスト菌などを使用しました。「生体解剖」でも、ペスト菌などの効果を調べる事例がいくつか存在します。



 「細菌戦」の主役となった「ペスト菌」の効果につき、柄沢班・篠塚良雄氏が、「生体解剖」の様子を詳しく証言しています。


篠塚良雄他『日本にも戦争があった』

 私(篠塚良雄)が所属している柄沢班でも、細菌の毒力をテストするという名のもとに、五人の中国人を使って、人体実験と生体解剖をおこないました。(P80)



 「マルタ」の管理をしている特別班の隊員によって、この男性はまだ息のある状態で裸のまま担架に乗せられ、私たちが待機している解剖室に運ばれてきました。

(中略)

 男の首をなでまわしていた細田中尉が、右手のメスでズバリと頸動脈にそって切りさげました。血がジューツと流れ出ました。(P82)

 男は、ペスト病の苦しみと、切りさいなまれた痛さで首を左右にふりまわします。

 そのたびに顎にかかっている首かせが食いこみ、ついにガクリと首をたれ失神しました

 私はあわてて血を抜きとりました。

 止血紺子をにぎって待っていた江川技手は、紺子で傷をかきまわし、頸動脈を見つけるとカチンカチンと両方から血管をはさみました。

 細田中尉は、メスの背で男の心臓部をたたき、「ビタカン(ビタミン剤とカンフル剤を混合したもの)二本」と叫ぶと頸動脈を切断しました

 心臓にビタカンを注射しても、男はもう動きません。

 口許がかすかに痙撃しています。

 頸動脈から鮮血が、私の持っている三十ccのコルベン(溶解液を正確にはかりとるガラスの器具) のなかにポタリボタリと流れだしましたが、しばらくするとぴたりととまりました。(P83-P84)

「ビタカン四本」

 少し離れたところで、この残虐行為を指揮していた大山少佐がさけびました。

 ビタカン四本打っても、男の鮮血をしぼることはできません。

「鬼子ッ!」

 男は、憎しみの火と燃える一言をしぼりだすとスーッと顔色が変わり、呼吸がとまりました


「解剖刀をよこせ」

 細田中尉は、解剖刀を逆手に握ると、上腹部から下腹部へ得意然として切りさいなみ、骨を切るのこぎりをひいて肋骨をひき切り、内臓の全部を露出させました。(P84)

 私は命じられるまま、その男性の解剖されて切り刻まれた臓器の肉片を、培地の入ったシャーレにピンセットでぬりつけたり、増菌培地の入ったフラスコに入れる作業をおこないました。

 二十分後には、男の肉体は切って切って切りさいなまれ、血のしたたる肉の塊として解剖台上に散乱しました。(P86)

 



 同様の証言を、高橋班(ペスト担当)の鎌田信雄氏も行っています。

鎌田信雄『生体解剖をやらされた』

生体解剖

 見学という形で解剖に立ち会ったことがあります。解剖後に取り出した内臓を入れた血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。

 それを経験してから一度だけでしたが、メスを持たされたことがありました。"マルタ"の首の喉ぼとけの下からまっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。

 これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。

 正確なデータを得るためには、できるだけ"マルタ"を普通の状態で解剖するのが望ましいわけです。

 通常はクロロホルムなどの麻酔で眠らせておいてから解剖するのですが、このときは麻酔をかけないで手足を解剖台に縛りつけて、意識がはっきりしているままの"マルタ"を解剖しました。

 はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、すぐに声はしなくなりました


 臓器を取り出して、色や重さなど、健康状態のものと比較し検定した後に、それらも標本にしたのです。(P54)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


 西野留美子『七三一部隊 歴史は継承されないのか』に、「ペスト班所属」の匿名証言が紹介されています。

 所属及び証言内容の一致から、これもおそらく鎌田信雄氏の証言であろうと推察されますが、上の証言にはないデータも存在しますので、併せて紹介していおきます。

西野留美子『七三一部隊 歴史は継承されないのか』

 ペスト班所属の彼は、生体解剖にも立ち会ったことがある。

「三〇代の中国人の男でした。まだ生きていてね。ペスト菌に感染させたマルタだった。解剖台に乗せて、手足をバンドで縛りつけてね」

「クロロホルムで麻酔しなかったのですか?」

「必ずしも麻酔をかけて解剖したわけじゃない。麻酔をかけないのが本来の姿なの。最初は誰でも大声を上げて叫ぶんだ。だけど痛がったってしょうがねえんさ。まず、顔を隠す。さすがに顔を見ながら解剖はできない。それからスウーッとメスで体を開くわけだ。腺ペストなら脇のところを、肺ペストなら黒く肥大している肺を取るというようにね。臓器を取り出して、色や重さなど健康状態のときと比較し検定Lた後に標本にした

 標本を陳列するための部屋は、総務部二階の隅にあった。広い室内には、様々なホルマリン漬けの標本が、ところ狭しと並べられていた。(P58)

(『世界』1994年9月号)




 もう一つ、TBSのテレビディレクター・吉永春子氏の取材から、「レントゲン班の班長」の証言です。

 なお、文中の「コレラ」は、「ペスト」の間違いでしょう。

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 七月に入ると放送まで一か月半となった。取材も最終段階に入ったが、研究班の取材は一向に進んでいなかった。私はレントゲン班の班長浅田剛(仮名)の取材を考えたが、期待は全く持っていなかった。むしろちょっとのぞいてみるかといった気持ちの方が強かった。(P99)


「細菌実験は他にどんなものがあったのでしょう」

生体解剖というのがありました」

「生体解剖ですか」

「そう。生きているまま解剖してしまうのです」

「それはどういうわけになるのでしょう」

「たとえばコレラに感染した蚤がいますね」

「感染?」

「そうコレラ蚤ね。このコレラ蚤を人の身体にここにおいてこうすると、人もコレラに感染しますね

彼はそう言いながら、肩の辺りにコレラ蚤を感染させる仕草をしてみせた。

「そうすると?」

そう。すぐに解剖するわけです」(P104)

つまり生きた人間をそのまま解剖する……」

そう。それでもってその状態を見るのです

「感染状態、どこがどうやられているのか、血液とか細胞とかも調べるのですか」

「そう」

「ひどいですね」(P105)



 この証言が、一九七六年八月十五日の二回目の放送の大きな柱となった。(P105)





 中国側の記録には、「ペスト流行地における日本軍の生体解剖」が登場します。

 仮にも住民を「宣撫」する立場である日本側が、中国の一般住民に対してそこまでのことをするのか。

 私も当初、そういう疑問を持ちましたが、調べると、「パラチフス菌」の話ではありますが、日本側にもそれに近い記録が存在します。全くありえない話ではなさそうです。

西里扶甬子『生物戦部隊731』

細菌戦野戦部隊

 末期的な謀略作戦は、終戦間際まで行われていた。一九九四年、七三一部隊展の北海道の実行委員会が見いだした証言者上川紀一(仮名)は、一九九八年、BBCテレビに同行して、旧満州の黒龍江省を戦後はじめて訪れ、終戦間際の「細菌戦野戦部隊」について証言してくれた

 上川は、一九三三(昭和一八)年から衛生兵として満州の林口陸軍病院に勤務していたが、翌年末、平房の七三一部隊で一か月かけて、細菌・毒ガスの扱いと、解剖などの専門教育を受けた。そして、下士官となった一九四五(昭和二〇)年の三月から約二週間「秘密部隊」派遣命令を受けて、トラックで中国人の集落をまわり、井戸にパラチフス菌のアンプルを投げ込み、発病した村民を生体解剖するという任務についた。



 部隊は九人で、全員汚れた中国服を着て、認識票以外に日本軍と分かるものは身につけていなかった。

 軍用トラックで林口駅を出発し、二週間で四か所回ったが、どこへ行ったのか地名や方角など一切分からなかった。

 九人は私のような衛生兵、満州語通訳、朝鮮語通訳、一六ミリの撮影係、運転手など仕事の分担があった。
(P204-P205)

 移動は一日か一日半程度だったが、数件の家が集まっているような、小さい孤立した村落をねらって、三、四人ずつに分かれ、通行人のようなふりをして、共用している井戸にアンプル入りの細菌を投げ込んだ。

 だいたい五日程たって、発病するころに戻っていった

 。村人は腹痛、下痢などの症状で苦しんでいた。「治してやる」「薬をやる」などといって騙し、エーテルで麻酔をかけて、そのまま解剖した。解剖してみてほじめてパラチフス菌を使ったということが分かった


 ある程度腹を開いたところで、撮影班が撮影を始めた。

 直径二〇センチくらいのホルマリン・アンプルを渡されたときは、明らかに病変の見える臓器の一部を切り取った。

 全員が発病していても解剖は一体か二体だけで、後は薬殺して井戸に捨てた。

 菌に侵されていない子どももいたが、どうしようもないので、死体と一緒に処理した。最後は部落に火をつけて、秘密がばれないようにした。

 すべて命令どおりにやるほかなかった。だいたい一日半くらいで、トラックが迎えにくるので、その間に資料のまとめをやった。

 トラックで指定された次の憲兵隊司令部へ着くと、次の資材が待っていた。四か所で、子どもも入れて、三〇人くらいを手にかけたと思う。
(P205)






 手術演習、及び内臓の摘出実験

 さらに「残虐さ」を増すケースとして、「医者の手術の練習としての生体解剖」、いわゆる「手術演習」があります。

 「731部隊」では、どうやらこのような「手術演習」はほとんど行われなかった模様ですが、この種の「演習」は、中国大陸などでかなり広く行われていたようです。 湯浅謙氏の証言を紹介します。
※湯浅謙氏は、中国山西省のロ(さんずいに路)安陸軍病院付きの軍医でした。ここで何件かの「手術演習」に携わりましたが、戦後、犠牲者の母親から訴えられ、「戦犯」となりました。戦後、吉開那津子氏が湯浅氏からの「聞き取り」をまとめた『消せない記憶』を著しています。

吉開那津子『消せない記憶』

(湯浅謙証言)


 着任した年の三月のなかば、将校食堂で昼食をとった直後のことだった。雑役の女子職員を下がらせて西村病院長が咳がらみに喉の調子を整えてから、低く押し殺した声で、

本日は、午後一時より手術演習をやるから、全員集まるように

といった。

 わたしは、いよいよ来るものが来たな、というような引き締った気持でそれを聞いた。というのは慈恵医大の医学生の時代、軍医になって大陸へ渡れば、生体解剖をやる機会があるらしいということをすでに聞かされていたからである。

 軍医として中国へいった者は、ほとんどの者がそれをやるということは、医学生たちに知れ渡っていた。そしてわたしも軍医になったからには、いつかはそれをやらないでは済まないだろうということを、うすうす覚悟していた。

 病院長が突然、その直前にわたしたちにいったのは、なるたけ遅くいいたかったのかどうか、とにかく軍の命令で教育担当者として計画をつくり師団の軍医を集めてやることだったから、相当前から準備をしていなければならないはずだった。(P65-P66)

 わたしはあとからその手続きを知っていったが、やるべしという命令は第一軍から陸軍病院と各師団旅団あてに発せられ、病院ではその命令に従って病院長と庶務主任が準備を整えるのだった。師団では連隊付きの十五、六名の軍医の教育のためと称してそれは行われるのだった。(P66)



 「手術演習」は、「軍」の命令で行われていた、とのことです。

 さて、湯浅氏はどんな「生体解剖」を体験したのか。氏の証言を続けます。

吉開那津子『消せない記憶』

(湯浅謙証言

 一番はじめは俗にいう盲腸炎、虫垂の剔出だった。部隊の軍医ふたりが、取り出して切除した。盲腸はもし、炎症を起こしていれば硬くなっていて発見しやすいが、その時は何の異常もなかったので、発見しにくく、容易にみつからなかった。

 部隊の軍医が虫垂を剔出している一方で、O中尉が、止血帯をかけた二の腕を切断刀で切断していた。二の腕と側胸の間に切断刀を深々と入れてぐっとまわして皮膚と筋を一気に切断する。大変苦心している様子だった。それもそのはずでO中尉にしてみれば、腕を切断するなどということははじめての経験に違いなかった。この手術は、砲弾の破片による四肢の挫滅創の場合には、必ずやらねばならないものだった。(P76-P77)

 骨の周囲を切断刀で切断してからコッヘルの止血鉗子で血管を結緊し、のこぎりで骨をひく。骨を切断する場合には、骨の切断面がなるべく奥にはいるように、肉を上部へ可能なかぎりたくりあげておいてから切断し、切断面をやすりで磨くのである。そして、次に神経を充分にひっばり出し、これも可能な限り深く切るのである。というのは、神経が露出すると痛みが強いからである。

 O中尉は、血管を縫合し、止血帯を徐々にゆるめて、出血がほとんどないのを確かめ、皮膚、筋肉の縫合に移っていった。

 虫垂の創出と、腕の切断を終ってから、もう一組、ふたりの軍医が腹部の正中切開を行った。今度の手術は腹部に弾が貫通した場合の腸の縫合の手術練習である。つまり、本来なら、腸の損傷部を切り取り、腸の切断面を縫合するのであるが、この場合は腸に損傷がないのに、適宜に切り取って縫合の練習を行っていた。

 からだを切り刻まれたベッドの上の中国人は、この時にはもう息も絶え絶えになっていた。この息も絶え絶えになった者を、今度は気管切開をするのである。喉頭に損傷を受けた場合、血液が喉頭にたまって呼吸困難に陥る、その喉頭部に外部から穴をあける手術である。

 野戦気管切開器という鉤状の手術用具があって、それで一気に力を入れて喉頭部を切開し、呼吸が通るようにする。二人の軍医が、手続き通りに喉頭を切開して、器に附著している外管のチューブだけ残して切開器をはずした時に、泡沫を含んだまっかな血液がヒューヒューという呼吸音に合わせて勢いよく飛び出して来た。血液は次第に量が減っていったが、ヒューヒューと笛を吹くような呼吸音はしつこく残っていた。(P77-P78)


 医者の「手術演習」として、腕を切断し、さらに腹部・気管を切開する。虫の息となったこの被験者は、手術終了後、死亡しています。詳細は省略しますが、他にも湯浅氏は、拳銃で腹を撃ち、その弾丸を摘出する手術演習を経験しています。

 さらに戦争末期になると、手術演習の回数を増やすように、との命令が方面軍から届いた、とのことです。

吉開那津子『消せない記憶』

 さて昭和十九年四月、わたしはロアン陸軍病院で保井中尉のあとを受け庶務主任になった。庶務主任というのは、病院の副官である。

 庶務主任になって、わたしははじめて、北京の方面軍から生体解剖教育についての極秘命令が届いたのを見た。それによると、軍医の質が落ちて来ていて、実戦に間に合わないから、手術の演習を頻回実施するようにということだった。(P87)


 湯浅氏は、この命令に応えて、年六回の「手術演習」計画を立てました。ただし実施できたのは、そのうち三回のみだった、とのことです。



 さらにビルマ戦線では、軍医・石田新作氏が、「生体解剖」について証言しています。一軍医中尉の個人プレーであった、とのことですが、こちらは「手術演習」ですらなく、「麻酔もかけずに睾丸摘出などで激痛を与え、「悶死」に至る過程を見る」という、残虐極まりないものです。

石田新作『悪魔の日本軍医』

 実に、私の目撃した生体解剖は、この七三一部隊を上まわる内容のものだった。

 二体とも麻酔はかけず、完全な生体の状態で行なわれた。しかも最初は睾丸の摘出という、生理的にはもっとも過敏で、したがって損傷を加えれば当然、他の器官のどこよりも激痛を感知するくせに、直接的には、即、死にいたらしめぬ個所をひらいて「悶死」の実験が行なわれた


 これは、麻酔下においては断じて実験結果の得られぬ事柄である。(P184-P185)

 

 あまりに生々しいので全文引用は避けますが、この後、被検者は、開腹されて腸を取り出され、さらに脾臓、肝臓、胃を摘出されました。(同書P180-P182)



 上の事例と同様、「人体の中にある臓器を取り出して見てみる」ことを目的としたとか思えない事例も、いくつか報告されています。「南満州某独立守備隊」のケースです。

越定男『日の丸は紅い泪に』

田中証言(資材部)

 クロロホルムは、全身麻酔として使用しました。ガーゼにしみ込ませてかがせると、すぐに麻酔状態になる。しかし、危険率は高く、死亡する場合がある。

 普通の手術は局部麻酔で、クロロホルムは使わず、脊椎の第四要椎と第五要椎の間に五寸釘ほどの注射針をさし、鼻水のような髄液が逆流してくるのを見届けて、打ち込み麻酔させ、そのまま意識があるのはおかまいなしに解剖したものである。胴体にあるものを全部とってしまうのだから、麻酔からさめるもさめないもない。

 生体実験というのは、ただごとではないが、南満州某独立守備隊でくり返し行なわれたものである。

 そこでは、クロロホルムなどの一切の麻酔剤を使わず、兵隊が五、六人がかりで押さえつけて、まだ中国人スパイを生きたまま解剖したことがある。しかし、これは石井中将の命令でやったものではないと思う。(P116)



 その時私は助手をつとめた。軍医は、数名の屈強な兵隊を集めていた。一等兵や上等兵が浅黄色のズボンをはいて、上半身裸体になった中国人スパイのうえにのしかかって、ある者は頭を、ある者は肩を、ある者は足を押さえた。若者は声高くわめいて暴れ出した。兵隊の手に力が入る。むりやり解剖台に押しつける。

 普段温和な軍医大尉の眼が、らんらんと光り始めた。メスがぐっと走り、腹を割ったとたん、若者は渾身のカをふりしぼって、全力で押さえつけている男たちの手をふりはらって、手術台の上に仁王立ちになった。腹部から血が滴り落ち、ぐわっと見開いたその火を吐くような眼、なんという顔であったか。

 中国青年は、何やらわけのわからぬことを喚きたてた。うろたえた兵隊たちは、「この野郎」「なめやがって」と口々に叫んで力づくで引き倒し、のしかかり、押さえつけた。解剖は続行された。(P117)

 血がにじみ、ある所ではビューッとふき出す。用意された何十本の止血紺子を使って、私はパッパと手早におさえていく。血液の毛細管が紺子にとっつく。かまいはしない。下の方から取っていく。大腸、小腸、胃、肺、心臓と……

 するとたちまち体がドカンと暗い袋のようになってしまう。もちろん、心臓などはピクピク動いたままだ。残された首、頭がまだ少しずつ動いて、口がモグモグしている。軍医の形相は、まるで夜叉のように変わってしまっていた。(P118)

※越定男氏は、731部隊の運輸部に所属し、主にトラックの運転を行っていました。本書は、自らの体験を詳細に語ると共に、何人かの元同僚の話をまとめたものです。




 「731部隊」についても、これに近い証言があります。臨床班・石橋直方氏の証言です。

石橋直方証言

 杭州で部隊が駐屯中の夏のある日、憲兵や密偵部隊がゲリラだの便衣隊だといぅ中国人を連れて来たんです。夕飯が近い時間に、生体解剖があるというので、見に行きました。行ったらもうそこに穴が掘ってあって、中年男性二人が目隠しされて座らされていました。そこで二人の兵隊が首を斬り落としたんです。

 水道につないだホースから出る水のように、頚動脈から二メートルも血が噴き上がりました。首は前の穴に転げ落ち、すぐに解剖が始まりました。殺してすぐですから、胸を開いて出した心臓が皿秤の上で鼓動しているんです。分銅が、かったんかったんと、少しの時間動いていました。(P243-P244)

(ハル・ゴールド著『証言・731部隊の真相』所収)

※石橋氏は、西野留美子『七三一部隊のはなし』P21以下でも、これとほぼ同様の証言を行っています。

 一応は死亡してからの解剖ではありますが、解剖するために首を切り落としたわけであり、「生体解剖」に近いもの、と言えます。



 なぜ医学研究者は、このような「生体解剖」を行うのか。

 元731部隊秋元班班長・秋元寿恵夫氏は、同じ医者としての立場から、こんな発言を行っています。

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

(秋元寿恵夫へのインタビュー)

「そうです。私の言いたいことは、あの中の大部分は医者です。医者という者が、人体実験は自分達にだけゆるされた特権と思っていることです。たとえば、生体解剖でも生きたまま解剖すれば、死体解剖ではわからないところがわかってくる。そんな専門家気質というか特権意識みたいなものが、人体実験に駆りたてたといっていいでしょう」(P56)
※秋元寿恵夫は、元731部隊「秋元班」班長。「血清検査」を担当。戦後の自伝的回想『医の倫理を問う』では、731部隊の所業を許した医学界の雰囲気を強く批判している。なお本人は直接「人体実験」に関わることはなく、また部隊で行われたという「生体解剖」も当時は知らなかったとのこと。

 同様の発言は、あちこちの資料で目にすることができます。「生体解剖」は、「モラル」の問題さえ考えなければ、医学研究者にとっては大変魅力的なものであったのかもしれません。



   「否定」する証言者

 ただしこのような「生体解剖」を知る者は、部隊員の中でも、一部に限られていたようです。

越定男『日の丸は紅い泪に』

田中証言(資材部)

 解剖で直接執刀するのは、優秀な技手か若い技師で、将官扱、佐官級の技師は、それを指揮し見守っているだけである。彼らは豊富な研究材料、豊富な軍の資金、質量共にすぐれた研密員を使って、価値の高い資料を得ていたのである。そしてこの人たちは、このデータをふまえて、戦後大病院や大学の重鎮にのし上がっっていったのである。おそらく、博士論文の種はごろごろころがっていたと思う。

 一方、第七三一隊の圧倒的多くの者は、部隊内で何がやられているのか、噂さ、風聞以外にはわからず、黙々と当面の任務にしたがっていたという訳である。直接、生体実験や生体解剖に手を下したり、真相を知っていた者は一割ほどではなかったかと思う(P121)。



 写真班員T:Kも、「生体実験」の事実は承知していたものの、「生体解剖」までは知らなかった、と証言しています。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

 ただ、わたしは、いわゆる生体解剖なるものは、記録撮影したことがないし、また、そんなことが行なわれたということも耳にしていない。生体実験は、たしかにあった。しかし解剖されたのは、すべて、その結果、死亡したものに限られていた。少なくとも、わたしの体験の範囲では、そうだった。(P26)




 しかし彼らにしても、知らないところで「生体解剖」が行われたことまで否定するものではありません。私の知る限り、「生体解剖」の存在を明確に否定する元隊員は、佐々木義孝氏のみです。

『世界日報』 1982年10月17日

「悪魔の飽食」はウソだ ―元石井部隊幹部初の証言 〈上〉

バカらしい素人の書 実験はあくまで"細菌戦"


―生体解剖は本当にあったのか。

 佐々木(義孝) そんなことは絶対やらなかった。あり得ない。「生体解剖があった」というのは、(本の内容を)おもしろくするために森村氏が書いただけだ。生体解剖をする価値など、どこにあるのか。専門家に聞けばすぐわかるよ。

― 一度も生体解剖は見ていないのか。

 佐々木 当たり前ですよ。

(第十五面 右上)

 『世界日報』紙によれば、佐々木義孝は、「増田知貞、中留金蔵に次ぐ石井部隊長の腹心」として紹介されています。ただし私の印象では、他の資料で佐々木の名を見ることはほとんどなく、「大物感」はあまりありません。
※詳しくは、「人体実験、これだけの根拠 (5)「擁護」側からの証言」をご覧ください。

 佐々木氏のコメントは簡単です。これまでの証言群を覆すだけの説明としては、不十分と言わざるをえません。

 またインタビュー全体を見ても、佐々木氏は、「マルタの犠牲者は週にせいぜい二人くらい」「細菌戦の効果はゼロ」「細菌戦が行われたのは1941年以降で、1940年に行われたというのは間違い」といった、明らかに事実と相違する発言を繰り返しています。
※なお、本インタビューが掲載された『世界日報』は、統一教会=国際勝共連合系の、極右的なメディアです。

 いずれにしても、この証言のみをもって、「生体解剖」の存在をトータルに否定することは困難でしょう

(2020.5.2)


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