資料:「安全区外」の残留住民



 陥落時、「南京」の人口のほとんどは「安全区」に集中し、それ以外はほぼ人口ゼロ。東中野氏、田中氏ら「まぼろし派」が描く、「人口分布」のイメージです。

 このイメージには、「南京」の範囲をあえて曖昧にしていること、比較的多くの人数が残留していたと思われる戦前人口約15万人の「郷区」(南京市内農村部)の存在を無視していること、城外への「避難民」の存在を考えていないこと等、大きな問題が存在します。(「南京の範囲」については、「二十万都市で三十万虐殺?」をご覧下さい)

 実際の話、今日では、「安全区外の南京城内」「南京市内の城外地区」のいずれについても、「人口」について何らかの「断定」を下すことは、極めて困難です。しかし、城外の下関地区に一定の(少なくとも一万人以上)人口が残存していたことは確実ですし、「安全区外の城内」についても、ある程度の「居住証言」が存在します。

 ここでは、「安全区外の城内」に限定して、残留住民の存在を示す資料を紹介します。

F・T・ダーディンからの聞き書き(2)

―『我們的首都』(中央電訊社、一九九四年四月)には、南京戦の前に一○○万以上あった南京の人口が、南京陥落後、城内ではわずか二○万になったとありますが・・・

 もっと多くの人が南京に留まっていたと思います。ベイツ博士やルイス・スマイスや他の人たちの報告をご覧になりましたか。それらの報告の方が数については正確だと思います。二○万人というのは難民区内に集まった難民の数でしょう。他にも市内には大勢の人が残っていました。戸締まりをして、みな家に籠もっていました。私はわずか三日間しかいなかったので、正確な情報は得られませんでしたが、車で市内を回った時、家の中から中国人が出てくるのを見掛けましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。

 もちろん、安全区の外は危険でしたが、中国人たちは、まさか虐殺が待ち構えていようとは考えていませんでした。何とかなるだろうと、家を出なかったのです。彼らは日本軍の占領がどういうものか経験がありませんでしたし、日本軍はラジオを使って市民に、家にいれば危害は加えない、なにも怖がることはない、と放送していました。したがって虐殺なんて夢想だにしていなかったのでしょう。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編  P567〜P568)


―(一九四〇年に日本人が発行した「最新南京市街詳図」を見せて)城内の南部のこの地域は人口密集地ですが、残留していた市民も多かったのですね。

 はい、住民はずいぶん城内に残っていました。脱出した者も多かったようですが、残った者も沢山いました。その地域には日本軍の占領後行ってみましたが、死体がたくさん転がっていました。日本軍の砲弾が激しく撃ち込まれたところです。砲弾によって多くの人々が殺されました。被害を受けなかった家には人がまだ住んでいました。日本軍がこの地域を占領してからもたくさんの中国人が殺されました。日本兵に銃殺されたのです。

(同  P570)

 

書簡 南京ドイツ大使館分館宛、発信者クレーガー(南京) 一九三八年一月十一日付 

内容―南京におけるドイツ人家屋の略奪

 私は、日本軍入城の前後における下記のドイツ人家屋の状況について、数日におよぶ実地調査をおこなった結果にもとづき次のとおり証言します。

(中略)

二、ボルヒャート、ポーレ、マイアー邸

 一二月一三日午後、この家には何の異状もなかった。使用人はまだ住んでいて、安全区に移るつもりはなかった。一二月一五日、四人の日本兵を見かけたが、そのなかには下士官が一人いて、長靴、衣類、食器類、時計、毛布などの物品を家から持ち去ろうとしていた。私はすでに逃げた二名の兵士に追いつき、力尽くで物を降ろさせることがでいた。下士官は「和田隊水田上等兵」と名乗った。(以下略)

(中略)

四、中央路、燕京新村の家々―リンデマン邸、センツェク邸、ブッセ邸

 一二月一三日、クンスト&アルバース邸に続いて視察した。両鉄門はしっかりと施錠され、門番はまだそこに住みつづけるつもりでいた。 全家屋に鍵がかけられ、手出しされた形跡はなかった。一五日午後、二度目の訪問をおこなった。 門番はまだいたが、虐待と暴行を加えられたうえ、日本兵が略奪物を運び去るのを手伝わなければならなかった。(以下略)



(「ドイツ外交官の見た南京事件」P74〜P77)


日本側の証言を見ましょう。

「証言による南京戦史(8)」

▼佐藤増次氏の述懐 (歩兵第九連隊第一大隊本部先任書記)

 市街では住民を見なかったが、大隊本部の宿舎付近の民家の奥には、各家に一、二名の住民が残っており、残した家財を見張っていたようである。 本部の兵が食糧徴発に行って、”奥の方に人が居た”と言っていた。

(『偕行』1984年11月号 P7)



戦車第一中隊長・城島赳夫氏

 残留住民は家の奥の方にはいたようであるが、街路両側の民家は戸を締めており静かであった。本道上には障碍物はなかったが、中央ロータリーのところにトーチカ式の銃座があった。

 一発触発のような緊張した状態ではなく、注意しながら前進したが、敗残兵と銃火を交えることもなく、示威行進で、歩兵の支援後拠、精神的支援にすぎなかった。午後九時三十分ごろ古物保存所南側の車蔽に帰還した。

(「南京戦史」P192)



読売新聞、真柄カメラマン

 上海から脇坂部隊について光華門に入った。敵味方のタマが飛んでくるので、兵隊たちはどちらのタマで死んだかわからない。光華門に入ったが、住民をいくらか見ている。ウロウロしていた。読売の支局あたりにも民間人はいたと思う。難民区には何回か入ったし、写真もとった。住民はなんとなく話しかけたり近よってきたりする。何かくれないかとでも思うのだろう。親しげな態度だった。

(鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」P225)



初年兵の手記「硝煙の合間にて」 (歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵)

十二月十三日

 茅屋の前に積まれた薪の山の裾がカサカサ動いて土民の一家族が這い出してきた。 巧妙な偽装をこらした掩蓋なのであった。敗残兵かと一寸ぎくりとしたが土民なのが判ると、配給されたばかりのビスケットや乾パンなどを与えて、誰もが和やかな気持になっていた。

(「南京戦史資料集機P384)

*ゆう注 中山門から入城した直後の記述です。



 その他、例えばマギーの記録など、「安全区外」での被害証言も、少なからず見られます。また、中国側の資料になりますが、証言集「この事実を・・・」にも、陥落時に安全区外にいたとの証言が多数存在します。

 「残留人数」は、数える人などいようはずもなく、今となっては全く不明です。しかし以上の資料を総合すると、少なくとも「安全区外の城内」を「無人地帯」と断定することはできないでしょう。

*東中野氏の記述については、こちらをご覧下さい。





 最後に、秦氏の見方、およびダーディンの記事を紹介しましょう。

秦郁彦氏「南京事件―論点と研究課題」より

 問題は、難民区以外の市内にどのくらいの市民がいたかです。「全員が難民区に逃げ込んでいたから、空っぽのはずだ」という議論がありますが、私はそうは思わない。例えば神戸の大地震の時に思ったのですが、避難住宅を用意しても、壊れた自分の家がいいからと動かない人は少なからずいた。南京は日本軍の砲爆撃をほとんど受けていませんから、家はあまり壊れていない。したがって、自分の家に留まっていた人はかなりいただろうと思います。 

(東中野修道編著「南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版」P21)

ニューヨークタイムズ記事 

1937年12月19日 ダーディン

 日本軍の砲弾が新街路近くの一角に落ち、一〇〇人以上の死傷者を出した。一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われる。その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。安全区の非戦闘員の食料は、中国軍の瓦解により供給が完全に絶たれた。

(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 P423)


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