F・T・ダーディンからの聞き書き(2)
―『我們的首都』(中央電訊社、一九九四年四月)には、南京戦の前に一○○万以上あった南京の人口が、南京陥落後、城内ではわずか二○万になったとありますが・・・
もっと多くの人が南京に留まっていたと思います。ベイツ博士やルイス・スマイスや他の人たちの報告をご覧になりましたか。それらの報告の方が数については正確だと思います。
二○万人というのは難民区内に集まった難民の数でしょう。他にも市内には大勢の人が残っていました。戸締まりをして、みな家に籠もっていました。
私はわずか三日間しかいなかったので、正確な情報は得られませんでしたが、車で市内を回った時、家の中から中国人が出てくるのを見掛けましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。
ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。
もちろん、安全区の外は危険でしたが、中国人たちは、まさか虐殺が待ち構えていようとは考えていませんでした。
何とかなるだろうと、家を出なかったのです。彼らは日本軍の占領がどういうものか経験がありませんでしたし、日本軍はラジオを使って市民に、家にいれば危害は加えない、なにも怖がることはない、と放送していました。
したがって虐殺なんて夢想だにしていなかったのでしょう。
(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編 P567〜P568)
―(一九四〇年に日本人が発行した「最新南京市街詳図」を見せて)城内の南部のこの地域は人口密集地ですが、残留していた市民も多かったのですね。
はい、住民はずいぶん城内に残っていました。脱出した者も多かったようですが、残った者も沢山いました。
その地域には日本軍の占領後行ってみましたが、死体がたくさん転がっていました。日本軍の砲弾が激しく撃ち込まれたところです。砲弾によって多くの人々が殺されました。
被害を受けなかった家には人がまだ住んでいました。日本軍がこの地域を占領してからもたくさんの中国人が殺されました。日本兵に銃殺されたのです。
(同 P570)
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