東中野氏の徹底検証 8
安全区外は無人地帯?


  南京陥落時、「安全区外」の城内にどの程度の人が残っていたのか。今となっては、それを知ることは極めて困難です。しかし私見では、少なくとも現存する資料からだけでは、それを「ほとんどゼロ」と断定することはできないように思います。 詳しくは、「資料:「安全区外」の残留住民」をご覧下さい。


 ところで東中野氏は、一見したところ豊富に見える資料を並べて、次のように、この地域を「事実上の無人地帯」と断定しています。

「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究」より

 つまり、城内の安全地帯の「外」にも、城壁の「外」にも、市民はほとんど住んでいなかった。そこは事実上の無人地帯であったのである。南京に市民がいたとすれば、それはほとんどが安全地帯の「中」であった。

 したがって、安全地帯の人口が南京の人口であったと言ってよい。(以下略)

(P135)


 しかし実際に氏の挙げるそれぞれの資料を見ていくと、到底「無人地帯」であったことの「証明」にはなっていないことに気付きます。以下、「南京虐殺の徹底検証」から、氏の挙げた資料を見ていきましょう。




最初は、住谷証言です。


 日本軍が城内に入ったのは、十二月十三日の夜が明けてからであった。その時、すでに、支那兵は安全地帯への避難を終えていた。そこで、十三日の城内の様子を住谷盤根氏は次のように証言する。 なお住谷は「安宅」(あたか)に乗り組んでいた中支派遣軍第三艦隊の従軍画家であった。「証言による『南京戦史』」」から引用する。
<私は当時、揚子江の第十一戦隊旗艦安宅に乗組んでいたが、南京が陥落した直後、下関埠頭から新聞記者の自動車に便乗して、興中門の累々たる伏屍を越えて南京市内に入いった。

 人っ子一人歩く者はなく、無人の街、建物は半焼けの家並であった。自動車から降りて自転車を拾った。少々ペダルの工合が悪いため、スピードは出ないが、結構乗れる。 これで南京市政府や参謀本部、市政会館にはいってみたが、森閑として人影はもちろん全くない。略)突入した日本陸軍の大野・脇坂部隊などは、それぞれ屋根のある建物を選んで駐屯している様子で、日本の兵士の姿は見当たらない。死せる南京という言葉が適当であった。(略)

 その翌日、南京に全く市民の人影一人いないことが不思議であったので、例の自転車で市内を少々めぐってみると、市の片隅に「立入禁止避難民区」と、横幕が通りに張り出してある。その中は言葉に絶する混雑をきわめた避難民の町であった。
(「徹底検証」P172)


 住谷氏は、「通りに人がいない」ことを証言しているに過ぎません。氏の証言は、ひっそりと家の中に隠れていた人が大勢いた可能性まで否定するものでは、全くありません。



 なお「人口問題」とは直接の関係はありませんが、東中野氏が「略」した部分には、「若い中尉」が捕虜の「試し斬り」を行おうとしたこと、捕虜の「虐殺」が行われたことが、明記されています。 「捕虜の試し斬り」で紹介しておきましたので、ご覧下さい。 




それに続く、東中野氏の記述です。


 いかに南京が「森閑」として不気味な静けさに支配されていたことか。陥落後の南京は、第三艦隊軍医長泰山弘道軍医大佐の陣中日記(十二月十九日)にも記されているように、「今は全く死の都」となっていたのである。

(「徹底検証」P173)


 泰山大佐は、陥落直後の南京をかなり広範囲にわたって歩きまわっています。ただしこの日記自体には、「住民の有無」については触れられていません。東中野氏の引用箇所の前後は、以下の通りです。

「証言による『南京戦史』(10)より

泰山弘道氏の従軍日記(中支派遣第三艦隊司令部・海軍軍医大佐)

12月19日、快晴寒さ烈し

 午前9時抜錨。江を下る。南京は江上より眺めたるに、今は全く死の街と化す。聞くならく。最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ。 

(「偕行」1985年1月号 P33)



 船から眺めて「死の都」と言っているのです。「安全区外に住民がいるかどうか」を論じた箇所ではありません。




東中野氏の文を、続けます。


 では、掃討戦はどのようであったのか。第九師団の歩兵第十九連隊第四中隊長であった土屋正治中尉に次の証言がある。土屋中尉はこのときの掃討戦を十二月十三日、光華門から始めた将校であった。「南京戦史」から引用する。

<城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。 ただ不気味な静寂、異様な寂寥感がわれわれを包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。未だかつて味わったことのない、言葉では表せないこの静けさは、いつのまにか私を中隊の先頭に立たせていた。

 
市街に深く進入すればするほど、まさに「死の街」という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。
 南京はまさに人影のない「死の街」であった。

(「徹底検証」P178〜P179)


 これまた、「通りに人がいない」だけの証言です。なお東中野氏は、以下の文章を省略しています。

土屋正治証言

 市街に深く進入すればするほど、まさに『死の街』という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。 (ここまでが東中野氏の引用部分です。以下、省略部分) 何キロぐらい前進したであろうか。とある大きな鉄筋コンクリート造りの建物に到達したが、ここで全く思いがけぬことに遭遇した。

 それは、講堂らしい室内に入ると、後送の余裕がなく取り残された中国重症兵の枕辺に、多数の白衣の看護婦が毅然として立っている光景であった。私は深く頭を垂れてそこを退去した。戦闘を覚悟して入城したのだが、この日は無血のうちに夕刻を迎えた。

(「南京戦史」P179)


 実は土屋氏は、「安全区」の外で、「多数の白衣の看護婦」と出会っていたわけです。「事実上の無人地帯」と断言した手前、この部分を引用しにくいのはわかる気もしますが、「対立データ」を無視してしまうのは、ちょっと困りものです。




 さらにその続きです。


 歩兵第二十三連隊の第三中隊長(大尉)は十二月十三日、「夜間犬の遠吠えもなく、南京城内誠に静かなり」と記す。城内の東北部を掃蕩した歩兵第三十八連隊「戦闘詳報」第十二号(十二月十四日)は、 「南京城内には避難民相当多数有りたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内に住民殆ど無し」と記す。

 当然であったろう。危険な戦場に、市民がいるはずもなかった。「ほぼ全ての非戦闘員に安全地帯へ集まってもらっていた」とは、国際委員会第九号文書の記録である。安全地帯以外の「掃蕩地区内には住民殆どなし」というのが納得できよう。

(「徹底検証」P179)



 東中野氏は、「歩兵第二十三連隊の第三中隊長(大尉)」という表現で、なぜか筆者の名を明記していませんが・・・。

折小野末太郎日記

 歩兵第二十三聯隊第三中隊長(第一大隊長代理)歩兵大尉


 十二月十三日 晴 

 午前九時中隊は軍旗を護衛し破壊口を登り城壁上に登る、宮崎新聞社写真を取る、軍旗と共に。

 城壁に休止、午後二時水西門に至る、午後清涼山砲台に登り夕宿営に就く 久し振りに蒲団もあり熟睡す、夜間犬の遠吠えもなく、南京城内誠に静かなり。

(「南京戦史資料集機廝丕械械掘


 「夜間」に「南京城内」が静かだからと言って、「安全地帯外に住民がいない」ことの証明には、全くなりません。なぜこの資料が「事実上の無人地帯」だった「証拠」になるのか、ちょっと理解できないところです。




 さて次に、「国際委員会第九号文書」です。

第六号文書 (Z 9)

南京安全区国際委員会

一九三七年十二月十七日


 当委員会より貴大使館と日本軍にわかっていただこうと熱心に努めている点は、われわれは、日本当局が新しい南京市政府あるいは他の組織を設立して市内の諸職権を引き継ぐまで、南京の一般市民のために市政府の諸サービスを委託されたということです。

 しかし、不幸にも貴下の兵士は、安全区内で当方が秩序を維持し、一般市民のための諸サービスを続けることを望みませんでした。 その結果として、われわれが十二月十四日の朝まで続けてきた秩序維持と必要なサービス提供の体制は瓦解しました。

  言いかえれば、十三日に貴軍が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾によるきわめてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却をおこなったさいにも何ら略奪はみられませんでした。

 
貴下が当地区を平穏に接収し、かつ市内の他の部分が整備されるまで、そのなかで平穏な生活が乱されることなく続けられる準備はすっかり整っていました。それだと、市内で完全に平常な生活をすすめることもできたのです。

 このとき市内に居住していた二七名の外国人全員も中国人住民も、十四日いらい貴軍の兵士がおこなっている強盗・強姦・殺人の蔓延にまったく驚いています。   

(「南京大虐殺事件資料集 第2巻」P126〜P127)


 これは、「国際委員会」の「十二月十七日」段階(占領5日目)での認識です。「国際委員会」メンバーの発言を見ると、その後、明らかに認識が修正されたことが伺えます。


ジョン・ラーベ日記 1月17日

 昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。

 すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。

  かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。 無傷の家など一軒もない。見わたすかぎり廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、また瓦礫だ! いったいだれが元通りにするというんだ! 

 帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。

 日本軍は安全区から出るようにと繰り返しいっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。 今は道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物も混じっている。

  難民の数は今や約25万人と見積もられている。増えた5万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいかわからないのだ。

(「南京の真実」文庫版 P215〜P216)

*翻訳は英語版に比べるとかなりの俗訳になっていますが、大きな誤りはないように思えましたので、そのまま引用しました。なお英語版では、「5万人」の前に"about"(約)の語が見えます。


「5万人」増えたというのが正しい認識であるかは疑問ですが、ともかくもラーベの認識は、「5万人」は南京の「廃墟と化した」ところにいたが、占領後に安全区に移ってきた、ということであるようです。


 もう一つ、「二十万都市で三十万虐殺?」でも紹介した、マギー証言を再掲します。

「極東軍事裁判」 速記録第49号 (A.検察側立証段階7)

○マギー証人 それは一寸幾らいたかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、我々委員会の「メンバー」の委員の推定によりますと、安全地帯には約二十万、或は三十万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはもつともつと沢山居りましたが、何れにしても推定は不可能であります。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。我々委員会で推定した所では、安全地帯に入つたのは少くとも二十万は入つたと思ふ。其の外に安全地帯に来なかつた者がどの位あつたかは到底推定出来ないと思ふ。 けれども三十万は最低の見積りであらうと思ふ。兎に角城外に居つた者、市外に居つた者がどの位居つたかと云ふことは到底推定出来兼ねる〕
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」P100)


 マギーは、差し引き十万人以上が「安全地帯に来なかった」と認識しています。これは一部城壁の外を含めての認識と思われますが、第九号文書の、「十三日に貴軍が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていました」との認識とは、全く違っていることがわかると思います。





 最後に、「歩兵第三十八連隊「戦闘詳報」」を見ましょう。

○歩兵第三十八聯隊『戦闘詳報』第十二号 (昭和十二年十二月十四日)

(二)、戦闘に影響を及したる気象及地形等の状態

1 日出時刻は概ね午前七時にして快晴 気温は日中温暖 夜間も又星明あり

2 地形及住民

 南京城内には避難民相当多数有りたるも之等は一地区に集合避難しありて掃蕩区内には住民殆と無し

(「南京戦史資料集機廖。丕苅牽)


 「掃蕩区内」に限定した話です。同連隊の「掃蕩区」は、東中野氏の文にもあるように市の東北部でした。ここはもともと人口が少ないところでしたので、住民殆ど残っていないとしても、不思議はありません。



 以上、東中野氏の文を読むと最初は「資料の多さ」に幻惑されますが、個別に検証していくと、東中野氏の挙げた資料は、結局は「安全区外の城内」に人がいなかったことを「論証」するものになっていないことがわかります。




 なお余談になりますが、東中野氏は、「安全区外の人口」に関連して、以下の通り洞富雄氏の文を批判しています。しかし実際に洞氏の文に当たると、これは、よく言って誤解、悪くとれば「意図的な曲解」であることがわかります。


 たしかに、ティンパーリ編「戦争とは何か」第四章末尾の匿名原稿は、昭和十三年一月中旬のこととして、「この避難民の数が、恐らくこの避難民地域で十五万人かそれ以上、我々の避難民キャンプで恐らく六万人と大きくなるにつれ、今や我々は大きな避難民問題を抱えるに至った」と記している。
  
  この匿名原稿を典拠として、洞富雄氏は、前者の十五万人を安全地帯内の人口、後者の六万人を安全地帯外の人口と解釈した。一読する限り、そのような解釈も可能であるかのように思われる。

(中略)

   しかし『チャイナ・イヤーブック』一九三九年版は、一九三八年初めの国際委員会の救済活動に触れて、次のように記録しているのである。

  <この責任は軽いものではなかった。緊急事態のピーク時には約二十五万人の避難民が安全地帯に避難し、そのうち七万人近くが二十五ヶ所の藁小屋キャンプに仮住いした。そして残りの人々は、雨宿りできるところならどこでも捜し出したのである。>
 
 これによれば、二十五万の避難民が安全地帯に避難した。そのうちの七万人が藁小屋キャンプで過ごしたというのである。これによって、避難民キャンプと避難民地域が、安全地帯の中にあったことになる。

(「南京虐殺の徹底検証」P294〜P295)

   これだけを読むと、確かに洞氏の説がおかしなものに見えます。「我々の避難民キャンプ」が「安全地帯内」にあることは、論じるまでもない「常識」でしょう。

 しかし、実際の洞氏の文は、以下の通りでした。

洞富雄「南京大虐殺の証明」より

 私は、十二月十三・十四両日の城内掃蕩が終わったあとの南京城内残留市民の人口は二五万人くらいで、十二月下旬のピーク時には、そのうちの約一五万人ほどが安全区に集住し、一○万人近くが安全区外の住家にとどまっていたものと考えている。

 安全区内の人口を一五万人としたのは、
同区内最大の難民収容所となっていた金陵大学の管理責任者ベーツ博士が、上海の友人に送った一九三八年一月十六日付書簡に、「おそらくこの難民区内の総数は十五万人以上、われわれの収容所では六万ぐらいです」とみえているのによる。



(P115)


 洞氏は、「安全区内の人口」十五万人の推定根拠として、このベーツ書簡を使用していたに過ぎません。「六万」は、安全区内にある「われわれの収容所」の人数であり、「安全区外の人口」とは、全くリンクしていません。


(2003.4.3)



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