掲示板などでは、あたかも、中国国民党政府が一九三八年当時には「南京虐殺」の認識を持っていなかった、と言わんばかりの書き込みをよく目にします。ここでは、蒋介石、及び蒋介石夫人の宋美齢
などが、当時どのように「事件」を認識していたか、を確認しておきましょう。
2005.1.9 中国共産党の認識については、独立したコンテンツとしてこちらにアップしましたので、あわせてご覧ください。
*余談ですが、ネットでは、この種の議論は、必ずと言ってよいほど次のような経路を辿ります。
まず、誰かが、「蒋介石も毛沢東も何応欽も「南京大虐殺」を知らなかった。その証拠に、彼らは当時、どこにもそんなことは言及していない。従って「南京大虐殺」は存在しない」と発言します。それに対して、以下に挙げるような、「彼らが(正確かどうかはともかくとして)ともかくも「南京における大規模虐殺」の事実を認識していた」という反論が続きます。それに対する反応が、判を押したように同じです。すなわち、「蒋介石や毛沢東の文章なんか、「プロパガンダ」じゃないか」。
最初の発言者は、「蒋介石らが言及していなかった」ことを、「大虐殺がなかった」根拠としていたはずです。「言及していた」事実を示された時点で、既にこの論は崩壊しています。その認識がどこまで正確だったか、ということは、また違う問題になります。
少なくとも、蒋介石らが「何も知らなかった」わけではなかったのですから、これ は「大虐殺がなかった」ことの根拠にはなりません。
●蒋介石
『蒋介石秘録12 日中全面戦争』より
首都を南京から重慶へ移す
国民政府は十一月十九日の国防最高会議で、首都を南京から西方の重慶に移すことを正式決定した。
十二月七日早朝、日本軍は南京城に東と南から迫り、城外の中国軍陣地に総攻撃を開始した。
同日、午前五時四十五分、うしろ髪をひかれる思いで南京をあとにし、飛行機で江西へ向かった。
『西方へ移すべきものはすべて輸送を完了した。もし私自身が十日早く離京していたら、大局はもっと手に負えないものとなっていたであろう』(七日の日記)
日本軍の機械化部隊と波状的な空襲の前に、十二日、南京城南方の最大の防衛拠点である雨花台を失い、翌十三日、日本軍は光華門、中山門などから城内に突入、市街戦ののち、ついに南京は陥落した。
一九二七年、国内軍閥および共産党と戦うなかで首都をおいて以来十年、南京は外国の侵略軍に踏みにじられることになったのである。
南京退出にあたって、十二月十七日、次のような国民に告げる書を発表した。
『中国の持久抗戦において、最終的に勝利を決する中心となるのは、南京ではなく、また各大都市でもない。その中心は全国の郷村と、広大にして強固な民心に依存するものである。人々が敵を憎み、防備を築き、四千万平方里の国土のいたるところに、有形無形の堅固な壁塁を形成することによって、敵の死命を制することができるのだ。
敵は深入りすればするほど、ますます受け身の立場となる。敵がわが四千万平方里の土地をことごとく占領し、わが四億の人民を切り裂こうとするならば、一体どれだけの兵力が必要になるだろうか。
わが全国同胞が強固に抵抗すれば、敵の武力はついには底をつき、そのとき最後の勝利は必ずわれわれに帰するのである』
南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。
しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。
全世界を震え上がらせた蛮行
日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江(揚子江)岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。
虐殺の対象は軍隊だけではなく、一般の婦女子にも及んだ。金陵女子大学内に設置された国際難民委員会の婦女収容所にいた七千余人の婦人が、大型トラックで運び出され、暴行のあと、殺害された。
日本軍将校二人が、百人斬り、百五十人斬りを競い合ったというニュースが、日本の新聞に大きく報道された。
虐殺の手段もますます残酷になった。下半身を地中にうめ、軍用犬に襲いかからせる”犬食の刑”、鉄カギで舌を貫いて全身をつるしあげる”鯉釣り”、鉄製のベッドに縛りつけ、ベッドごと炭火のなかに放りこむ”ブタの丸焼き”など、考えられる限りの残忍な殺人方法が実行された。
こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。
『倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ』(一九三八年一月二十二日の日記)
南京に住む外国人たちで組織された難民救済のための国際委員会は、日本軍第六師団長・谷寿夫にたいし、放火、略奪、暴行、殺人など計百十三件の具体的事例を指摘して、前後十二回にわたって厳重な抗議を提出したが、谷寿夫は一顧だにしないばかりか、逆に、血塗られた南京の状況を映画やフィルムに収め、日本軍の”戦果”としてほめたたえたのである。
(「蒋介石秘録12」P67〜P70)
*「ゆう」注
この本の扉には、このようなコメントが付されています。「この伝記は、蒋介石前総統の生前の記述、回想、中華民国政府公文書、外交文書、および中国国民党の公式記録に準拠したものである。文中『・・・・・』の部分は蒋介石の自述、▼・・・・・・▼の部分は日本側資料による補足説明である」。蒋介石の日記の部分以外は、サンケイ新聞への執筆者である古屋奎二氏が書いたようですが、「公式記録に準拠したもの」であるとのことで、かなりの程度蒋介石自身の認識を反映したものであると考えられます。
このあたりの記述は、「南京軍事法廷判決」などをもとにしたものであるようですが、必ずしも正確なものとはいえません。
また、中国軍の死傷者が「六千人を超えた」というのは、明らかに過小です。ここでは、「1938年1月22日」の日記で、
蒋介石自身が、既に「南京で」の「あくなき惨殺と姦淫」を認識している事実にのみ、ご注目ください。
蒋介石夫人である宋美齢も一月五日段階で「南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺」したことを認識していること(後出)、また、「国民党」に近い新聞「大公報」も「南京事件」に関する記事をたびたび掲載していたことからも、蒋介石が「南京事件」について何も知らなかった、と唱えることは、明らかに無理な強弁でしょう。 |
『日本国民に告ぐ』より (1938年7月7日 蒋介石)
*全文はこちらに掲載しました。
二 暴を以て徳に報ゆる日本軍閥
(略)
而してそのうち最も重大な損失は道徳上の損失である。諸君は貴国の出征軍隊がすでに世界で最も野蛮にして最も破壊力を有する軍隊であることを知つてゐるであらうか。諸君は貴国が常に誇つてゐた「大和魂」と「武士道」はすでに地を払つて存せぬことを知つてゐるであらうか。
毒瓦斯、毒瓦斯弾は遠慮なく使用せられてゐる。阿片、モルヒネの類は公然と販売せられてをり、一切の国際公約と人類の正義は総て貴国の侵華軍隊によつて全く破壊せられてゐるのである。
また日本軍が占領したどの地区においても掠奪、暴行火附けを行つた余勢で、わが方の遠くに避難出来なかつた無辜の人民および負傷兵士に対しても大規模な屠殺が行はれた。また数千人を広場に縛してこれに機銃掃射を加へ、あるひは数十人を一室に集めて油を注ぎ火炙りに処し、甚しきに至つては殺人の多少を以て競争し、互ひに冗談の種としてゐる。また四方の土匪と結託し、ごろつきを集め、欺瞞宣伝を散布し、傀儡組織を製造するなどおよそわが社会秩序とわが固有文化を破壊するためにはあらゆる手段も選ばなかつたのである。
わが後方の無防備の城市もまた盲爆を受け、これによつて死傷した人民、損失した産業の数は数へあげる方法がない。どの空襲もまるで気違ひのやうに専ら民衆と文化、教育、慈善などの諸施設を目標とし盲爆の乱暴をほしいままにしたのである。
すなわち最近広州では中山大学の瓦は四散し数千の市民は首と胴がばらばらとなり世界各国の屡々たる非難を引起したにかかはらず、その兇暴さは少しも改まらなかつた。
諸君はわが中国空軍がかつて貴国の各大城市に向ひ巡礼のため飛んだことを知るべきである。諸君に贈呈したのは親摯なる同情にして無情の爆弾ではなかつた。いやしくも中国が貴国が最近広州に加へた爆弾の数量をもつて諸君に返還し東京大阪あるひは神戸の諸城市及び諸大学に投擲したらその結果はどうであらうか。
中正は正に諸君に告ぐ。このやうな公約に違背し人道を廃絶せんとする行為はわが中国にとつて不可能なるのみならず、実に忍び難きことを。
三 狂暴な日本兵
更に中正は実に云ふに忍びないが、また云はざるを得ないことがある。それはわが婦女同胞に対する暴行である。
十歳前後の幼女より五六十歳の老婦に至るまでその毒手に遭ひ、甚しきは全家族難を免れぬものさへあつた。あるひは数人によつて代り代りに汚辱され辱めを受けた後即座に殺害されたものもある。あるひは母、娘、姑、嫂ら数十人の婦女を裸身で一室に集合せしめ、まづ姦淫を加へた後惨殺し、胸を割り、腹を抉つてもなほ満足せざる非人道の暴行を施してゐる。
貴国は昔より礼教を尊重し、武徳を崇拝し、世界より賞賛を受けてゐた。しかるに今日貴国の軍人の行為上に表現せられたものは単に礼教が地を掃ひ、武徳蕩然と流れるのみかただちに人倫を絶滅し、天理に違逆せんと欲してゐる。かくの如き軍隊はただに日本の恥辱のみならず、また人類に汚点を止むるのみである。(以下略)
(蒋介石『暴を以て暴に報ゆる勿れ』P13〜P15)
*「ゆう」注
この文章は、開戦一周年に際して発表した3つの文章、『全国の軍隊と国民に告げる書』『世界の友邦に告げる書』『日本国民に告げる書』(題名の訳は井上久士氏「戦争当時中国でも問題にされていた」(『南京大虐殺否定論13のウソ』所収)によります)のうちの一つです。
このうち『世界の友邦に告げる書』の記述をもって、「蒋介石は「南京大虐殺」には一言も触れずに「広東の虐殺」のみを問題にした。従って蒋介石はこの時点で「南京大虐殺を知らなかった」という論を唱える方もいるようですが、同時に発表された上の文を読むと、これがいかにとんでもない論であるかがはっきりします。
ご覧の通り、蒋介石は、まずは前線および占領地における「無辜の人民および負傷兵士」に対する「大規模な屠殺」を問題にしています。直後に明らかに「百人斬り」と見られる事件に言及していることからも、これはある程度「南京」を意識したものと見るのが自然でしょう。
さらにその後、話題を「後方の無防備の城市」に転じて、「最近」の例として「広州」への爆撃に触れています。ここでは文脈から見て「広州」を持ち出すのが自然であり、逆に「南京」など出てこようがない部分であることがわかると思います。 |
●宋美齢(蒋介石夫人)
宋美齢からアメリカの友人への手紙
総統司令部、中国
一九三八年一月五日 アメリカ合衆国、マサチューセッツ州、
ウェーバンドーセット路一八三号
ミセス・ミリアム・H・クラーク
親愛なるクラーク様
あなたからのクリスマスカード、そしてあなたの二人のお嬢さんとお庭の写真を拝受いたしました。愛らしいお子様ね。あなたの家の庭はその風景とともに素敵な環境をあなたがたにあたえているようですね。
私は「ミムズ(Mims)」をよく覚えています。しかし、あなたもお分かりのように、私がいま生きている状況は、私たちが学生であった日々からすれば想像できないほど変わっています。
私たちは限られた装備と資源でもって、私たちの自由のために最善をつくして戦っています。非戦闘員の男性、女性そして子供に対する大規模かつ無制限な虐殺は、想像を絶しますが、現在も行われているのです。
日本軍は、宣戦布告もせずに、まったく残虐に、そして国際法や人道主義をまったく無視して、最新鋭の武器を使うことができると信じているのです。この蛮行に対して世界では、いままでのところ激しい非難の表明以上のことが行われていないのは驚くべきことです。
最初に殺戮が始まった時は、それはたまたま行われたものと思われていました。しかし、時が経つにつれて、それは可能なかぎり中国人を殺すという、計画的意図に基づいたものであることが判明したのです。日本は中国に手を出し横領しようと決意してから、まず中国北部に殺到し、そこをアヘンと麻薬を使って支配いたしました。それは、人民の戦意を挫き、民衆から抵抗の力を抜き取ってしまうためでした。
戦争が勃発してから日本軍は、機関銃と高性能爆薬を使えば、きわめて簡単に何千、何万という民衆を殺せることに気づきはじめました。そこで彼らは、すべての都市、町、村に対して、また自分たちの住まいから安全を求めて避難している難民の群れに対して、爆撃と機関銃掃射を加えはじめたのです。
現在日本軍はそれ以上のことをやっています。彼らは上海と南京の間で五体満足な男性すべてを一人ずつ、あるいは束にまとめて射殺しているのです。わずかに生き残った五体満足な男は、日本軍の使役を強制されています。南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました。同様な虐殺は華北全体でも行われてきています。日本軍は、世界が彼らを恐れている状態が続けられると思っている限り、虐殺行為を続けるでしょう。
以上が悲劇の全体的様相です。
日本人は、アメリカとイギリスの国民は日本の強さと力の前に戦闘意欲を失って臆病になったことは確かだ、と思っています。もちろん、私たちはそれが虚偽であることは分かっていますし、今の時点ですぐ戦争にひきずりこまれることは、両国とも望まないことを知っています。しかし、私たち中国人は、もしアメリカとイギリスが日本に対して、戦争をやめよと一声圧力をかけてくれたらと思わずにはいられません。間違っているかもしれませんが、私たちはほんの少しの金融的締めつけも、日本の政治を変えさせるのに十分な圧力になるように思います。世界の文明諸国が、各国の大使を日本から引き揚げて抗議を表明し、非難を徹底させれば日本への強い圧力になります。
中国において私たちは、補給が得られる間は戦えます。しかし、もし補給が得られなくなれば私たちは敗北することになりますが、それはアメリカとイギリスおよび他の諸国が日本を助けたがゆえに中国は敗れて亡びるのであって、日本自体に負けるのではありません。私たちは、アメリカ政府がなぜ、戦争が始まる前に買ってすでに支払いも済んだ飛行機を、中国に届けることを中止したのか理解できません。それらの飛行機はここにはまだないのです。こうしたことや同様な行為が日本に勇気と自信を与えているのです。
列強が条約の尊厳を守るために、そして国際法を擁護するために、さらに人間の権利を保護するためになんらかの行動を起こすのはいつのことか、私たちには分かりません。しかしもし、ただちにそれがなされなかったとしたら、中国で現在進行している事態が、将来必ず他の民主主義国におよぶことがやがて明らかになるでしょう。
いま、私の国を襲っているようなおぞましい出来事から、アメリカの美しい家庭が自由であることを私は祈っています。あなたの好意に深い感謝をこめて、どうぞよろしくお願いいたします。
敬 具
宋美齢 (蒋介石夫人)
・クラーク夫人の返書によれば、二人はマサチューセッツの東部にあるウェルズリー大学(Wellesley
Collage)の同窓生。
(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」P215-P216)
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さて、蒋介石について、田中正明氏はこんな記述を行っているようです。
東京裁判とは何か、七烈士五十三回忌に当たって
興亜観音を守る会 会長 田中正明
最後に私は、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後「私は総統閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げました。
すると「いつ?どこで?・・・・」とたずねられた。
「昭和11(1936)年2月に、松井石根閣下と2人で、南京でお目にかかりました」
その時「松井石根」という名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。
「南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・・」といいながら涙しつつ私の手を2度3度握り締めるのです。
(「興亜観音を守る会 第15号会報」より)
*「ゆう」注 入手困難なパンフレットで、私も現物は持ち合わせておりませんので、上記サイトから直接引用を行いました。 |
蒋介石が自ら書いた『蒋介石秘録』の文章と読み比べれば、田中氏のこの記述にかなりの「脚色」があるであろうことは、容易に見当がつきます。自分の日記に「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている」と書いた人物が、非公式の席とはいえ、「南京には大虐殺などありはしない」と発言することは、極めて考えにくいことです。
*2007.5.26 田中氏のこの記述については、コンテンツ「田中正明氏と蒋介石」に詳述しました。
さらに、「大虐殺などありはしない」という「記録」を残したはずの「何応欽将軍」が、自著にはどのような記述を行っているかといえば・・・。
●何応欽将軍
『中日関係と世界の前途』より
一九三七年七月七日、日本軍は大挙北平郊外の盧溝橋を攻撃し、ついに「七七事変」が勃発して、中国軍は英雄的な抗戦をした。この中日戦争の勃発によつて、日本は中華民国と奇しくも悲惨な運命を共にした。
中華民国は八年間の抗戦中に、日本軍閥によつて、歴史に類例を見ないほどの殺戮と迫害を受けた。いまその一、ニの例を挙げてみるが、この一事をもつてしても日本軍閥の暴虐がいかに言語に絶するかを知ることができる。
(一)南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した。日本軍は麻縄で数百名の武装のない兵士や市民を一しょにしばつて機関銃で一斉掃射したり、あるいはガソリソをかけて彼らを焼き殺した。日本の将校が兵士を引率して、いたるところで放火、掠奪、強姦をほしいままにし、強姦された婦女子の数は教え切れず、しかも強姦された婦女子の多くは殺された。甚だしいのになると軍刀で乳房を切り取つた後、裸のままで地上に転がして、その痛み苦しみ、もがいている哀れな姿を見て日本軍の人達は喜んでいた。また、ある日ある婦人は三十七回も強姦された。この世界を驚かせた大暴行は、今日これを思うだけで、実に胸がはり裂け、血がほとばしり出るほどの悲憤の念を禁じ得ないものがある。
(ニ)一九三九年五月四日、日本航空隊がわが戦時首都重慶を爆撃した。一日の内に爆撃によつて死亡した市民が七千五百人の多きに達し、しかもこの大爆撃は数日間も続いた。死傷者は町に溢れ、市内は廃墟に帰した。日本の軍閥はどうしてこのような非人道で、残虐な手段をくり返すのかと悲憤が胸にこみ上げて来る。
中華民国政府と人民は、八年の抗戦で空前の損失を蒙つた。統計によると、軍人の死傷者が三百二十一万余人に達し、人民の直接間接の死傷者は二千万人を越えた。戦火によつて家園を捨て去り、路頭に迷う者が一億人以上にも達した。
財産の損失に至つては更に数え切れないものがある。経済資源、税収及び日本軍、王精衛偽政権の発行した通貨によつて生じた損失は、一九四一年までに総額が当時の国幣(法幣)四百四十九億六千余円、常時の米ドルに換算し一百三十二億六千余万ドルの天文学的数字に上つている。
中国は侵略に対する抵抗でこのような莫大な代償を払つたが、一方、日本軍閥は他国を侵略した結果、その得たものはなんであつたか? 日本の人民は貧困のドタン場におちいり、国が破れ家が亡びる惨めな結果をもたらした。これは日本の軍閥が始めから思いも及ばなかつた歴史的な重大な誤りであつた。
(「中日関係と世界の前途」 P44-P45)
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実際には、「殺害された市民が十万人以上にも達した」という認識を示しています。
*この資料の存在については、KOILさんに示唆をいただきました。
**また、上の「何応欽が軍事報告でちゃんとそのことを記録しているはずです」は、実際には「当時作成した軍事報告に南京大虐殺の記載が存在していなかった」だけの話です。そもそも、蒋介石が、50年前の「軍事報告」を記憶していたというのも不自然であり、また、仮に覚えていたとしても、その内容から考えて、上のような表現になることはこれまた不自然であると思われます。これまた、田中氏の「脚色」の可能性が
大きい、と考えられるでしょう。
●顧維鈞
さらに、事件の少しあと、1938年2月1日付の、中国代表の「国際連盟理事会」における演説を見ておきましょう。この時期、国民政府が、既に「南京事件」についての十分な認識を持っていることが伺えます。
『国際連盟理事会(ジュネーブ)決議文』
1938年2月1日付
文書番号C・六九/一九三八/七
内容 − 中国政府の提訴にもとづく決議案
理事会は、
極東情勢を考慮し、
前回の理事会以降も、中国での紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の意とともに銘記し、
中国国民政府が中国の政治的経済的再建に注いだ努力と成果にかんがみて、いっそうの事態の悪化を憂慮し、
国際連盟総会が一九三七年一〇月六日の決議によって、中国にたいする道義的支援を表明し、あわせて、連盟加盟国は中国の抵抗力を弱体化させ、現下の紛争における中国の困難を助長しかねないいかなる行動も慎み、それぞれが中国支援拡大の可能性を検討すべきであると勧告したことを想起し、
国際連盟加盟国にたいして上記の決議に最大限の注意を喚起し、
東アジア紛争に特別な利害を有する理事会加盟国が、同様の利害関係国との協議を通じて、極東紛争の公正な解決に寄与するため、今後のあらゆる手段の可能性を検討するいかなる機会も逸さないことを確信する。
『国際連盟理事会第六会議議事録』
1938年2月1日付
内容 − 中国政府の声明
議長による決議案(C・六九/一九三八/七)の提示に続き、顧維鈞氏(1)の演説―
ただいま読み上げられた決議案を拝聴しました。本決議案に関する中国政府の見解を表明する前に、最近数か月間に起こった出来事を述べ、現下で連盟理事会が何をなし得るか、我が国の切実な要求は何か、についての中国政府の見解を申し述べたいと思います。
第一八回連盟総会が、咋年一〇月六日、日本の中国侵攻にたいする中国政府の抗議に関連して決議を採択した後も、日本軍は中国領土への無慈悲な侵略を続け、これをいっそう激化させています。
華北の日本軍は黄河を渡り、聖なる山東省の都であり、孔子の生地でもある済南を占領しました。華中では一一月、中国抵抗軍が、陸海空が一体となった日本軍の激烈な攻撃にたいして三か月に及ぶ勇敢な抵抗をおこなったすえ、上海地方からの撤退を余儀なくされました。
南京に脅威が迫ったため、中国政府は、首都を海岸から一千マイル離れた重慶に移すことを強いられました。日本軍が漢口と南京にたいして加えた執拗な攻撃の結果、三月には、この二つの重要な都市と最も肥沃で人口の多い長江流域が日本軍占領下に入りました。
日本海軍は、福建省および広東省沿岸にある多くの中国の島嶼を制圧し、広東と華南にたいする侵略の試みを繰り返しています。
日本軍航空隊は、国際社会の非難の合唱を無視して無防備な都市にたいして無差別爆撃を続け、中国民間人の大量殺戮をおこなっています。広範囲にわたる再三の空襲が、西北の甘肅省から南西の広西省まで一七をこえる省の人口密集地帯に加えられ、すさまじい犠牲者を出していますが、その大半は女性と子どもであります。
さらに、高い軍紀を誇りにしてきた日本兵が占領地で繰り広げる残虐で野蛮な行為は、戦火に打ちひしがれた民衆の艱難辛苦をさらにいっそう増大させ、礼節と人道に衝撃を与えています。あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、外国の新聞で報道されているので、ここでいちいち証拠をあげるには及ばないでしょう。
ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景にかんする『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。このリポートは一二月二〇日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものであります。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち」。
日本兵が南京と漢ロ(「ゆう」注 原文は"Hangchow"。「漢口」ではなく「抗州」が正しい)でおこなった残虐行為についての信頼できるもうひとつの記録は、米国人の教授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、一九三八年頁一月二十八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』紙に掲載されでいます。南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。
金陵大学緊急委員会の米国人議長は一九三七年一二月一四日、日本大使館に書簡を送り、「私たちはあなた方にたいして、日本軍と日本帝国の名誉のために、そしてあなた方自身の妻、娘、姉妹のために、あなた方の兵士から南京市民の家族を守っていただけるよう強く要請します」と書きました。しかし、「この声明にもかかわらず、残虐行為は野放しで続いた」と特派員は書き記しています。
〔以下、略〕
(1) 顧維鈞は中国を代表する外交官、欧名はWellington Koo。コロンビア大学で国際法・外交博士号を取得、一九一五年二七歳の若さで駐米公使に就任、一九一九年パリ講和会議では、中国全権代表として活躍した。国民政府にかわっても外交官を継続、日中戦争時は駐仏大使をつとめながら、国際連盟において活躍、日本の中国侵略を阻止するための国際批判と国際援助を引き出すために奔走した。一九三七年一一月日本の中国侵略を制裁する目的で開催されたブリュッセル九ヵ国会議で中国全権代表をつとめた。第二次大戦後の国際連合の創設にもかかわり、駐米大使兼国連代表団団長を長くつとめ、一九六四年から二年間、ハーグ国際司法裁判所次長をつとめた。
(『ドイツ外交官が見た南京事件』P136〜P139)
*「ゆう」注 〔以下、略〕は原文通り。
**「ゆう」注
2007年3月、この顧維鈞演説が、国会議員の戸井田氏により、なぜか「新資料」として取り上げられました。
よく知られた演説でありそのこと自体「見当違い」としか言いようがないのですが、さらにその紹介のされ方を見ると、何とこの演説が、
「中国は当時犠牲者数は2万人だと主張していた」と主張する根拠として使われているようです。
演説は、事件のわずか1か月半あとの2月1日のものでした。事件の現場である南京は既に「日本軍占領地」になっていますから、中国側としては調査のしようもなく、確実な数字を挙げることなど不可能だったでしょう。上の演説を見ても「数字の正確さ」に力を入れている気配はなく、「特に根拠のない見当の数字」と見るのが妥当であると思われます。
何よりも、この演説の存在を認めてしまうと、「中国は南京の暴虐について何も言っていない。従って南京虐殺はウソだ」という、田中正明氏流のデタラメな論理が、あっさりと崩壊してしまうわけなのですが・・・。
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(2004.5.16記 2004.8.16「日本国民に告ぐ」追加)
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