田中正明氏と蒋介石




 「蒋介石が「南京大虐殺などない」と言った」。ネットでときおり見かける記述ですが、これがもし本当であれば、世界的な大ニュースです。 なにしろ、当時の中国側指導者が、はっきりと「南京大虐殺」を否定しているわけですから。

 しかし、この情報の発信源があの田中正明氏であれば、十分に吟味してかかる必要があるでしょう。まずは、その「ソース」からです。 なおこの「会報」は一般に知られているものではなく、私も手元に所有しておりませんので、「興亜観音を守る会」ホームページからそのまま紹介していることをお断りしておきます。


 
「興亜観音を守る会」会報15号より

田中正明氏講演 東京裁判とは何か、七烈士五十三回忌に当たって


 約1週間の後、台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれました。

 私ども同士1人1人が、蒋総統の前に進み出てお礼を述べて蒋介石と握手をするのです。

 最後に私は、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後「私は総統閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げました。」

 すると「いつ?どこで?・・・・」とたずねられた。

 「昭和11(1936)年2月に、松井石根閣下と2人で、南京でお目にかかりました」

 その時「松井石根」という名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。

 目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。

 「南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。 私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・・」といいながら涙しつつ私の手を2度3度握り締めるのです。

(2001年12月23日講演)


 一見して、怪しげです。

 「中国は知らなかったか」にも書いた通り、 蒋介石・何応欽とも、「南京虐殺」をはっきりと認める記述を残しています。「何応欽軍事報告」が「南京には大虐殺などありはしない」ということを「記録している」、という「事実」もありません。

 そもそもここに、田中氏の否定ネタ、「何応欽軍事報告」が出てくること自体、何とも不自然です。 国民党系の「大公報」が繰り返し「南京虐殺」のニュースを掲載していたのに、蒋介石はそれを読んでいなかったのでしょうか。

 何よりも、この話は「昭和四十一年」(1966年)の出来事とのことです。この話が真実であるならば、田中氏は大いにこれを宣伝するはずです。しかし、その間に田中氏は、「南京虐殺の虚構」「南京事件の総括」という「否定本」をモノにしていますが、そこにはこのエピソードは全く登場しません。

 「南京事件の総括」には「虐殺否定十五の論拠」なるものが掲載されていますが、「何応欽軍事報告にもない」「国際連盟も議題にせず」といった「小ネタ」はあっても、 「蒋介石自身が否定している」という、インパクトの強い、まさに目玉になりそうな話は出てきません。田中氏は、35年も経って、突然記憶がよみがえったのでしょうか。



 さて、実際にはどういう話であったのか。氏の遺作、『朝日が明かす中国の嘘』が、その手掛かりとなります。

 
田中正明氏『朝日が明かす中国の嘘』より

 
そして、昭和四十一年九月二十三日、台湾総督府にて蒋総統と会見した。

 蒋介石総統はすでに八十歳。口辺に笑みを浮かべ、好々爺といった感じだ。何応欽将軍はじめ多くの要人も同席した(写真は禁止とのこと)。 総統は一段と高い所に坐をしめ、まず岸先生の近況と皆さんの台湾視察の感想はどうでしたか、と質問された。中山団長が詳細に報告し、この度の旅行に際しての行き届いたご配慮とご接待に対して深く感謝する旨を述べた。

 暫く懇談ののち、私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申しあげた。すると「いつ?どこで?」と訊ねられた。 「昭和十一年三月に松井石根閣下にお伴して、南京でお目にかかりました」と申しあげた。

 松井大将の名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がサッーと変わりました。 目を真赤にし、涙ぐんで「松井閣下にはまことに申訳ないことを致しました」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われた。私は驚いた。一同も総統のこの異様な態度に驚いた。

 あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、 面倒を見て下さった松井閣下に対して何ら酬いることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で刑死せしめた。 悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。

 蒋介石は私の手を二度、三度強く握って離さず、目を真赤にして面を伏せた。

 蒋介石は八十八歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったときく。

(同書 P16-P17 2003年5月刊)


 ここでは、蒋介石は「南京大虐殺」について一言も語っていません。「ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で刑死せしめた」というのは、田中氏の全くの「想像」であるに過ぎません。

 このエピソードがもし事実だとしても、蒋介石は、若い頃の個人的親交を思い出して涙ぐんだ、と見るのが自然でしょう。 むしろ蒋介石の本意は、「申訳ないことを致しました」というより、むしろ「気の毒なことを致しました」ということであったのかもしれません。

 先にも述べた通り、「興亜観音を守る会」会報は、ほとんど知られていないメディアです。そして田中氏の文は、「講演録」であるに過ぎません。田中氏は、松井将軍シンパを目の前にして、「蒋介石が松井大将のために涙を流した」というエピソードをついつい自分の「想像」に添った形で脚色してしまった、と見るのが最も自然でしょう。




 なお、こんな田中氏の記述を、素直に信じている方もいらっしゃいます。ネットで検索すると、この深田匠氏は、「田中正明氏の門下生」であるとのことです。

 
深田匠氏『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』より

 ちなみに昭和四十一年九月に岸信介元首相の名代として五名の日本人台湾視察団が訪台し、蒋介石と面談している。

 そして面談の際、その五名の中の一人である田中正明氏が松井大将の秘書であったことを思い出した蒋介石は、田中氏の手を堅く握りしめて涙を流しながら 「南京に虐殺など無かった。松井閣下にはまことに申し訳ないことをした」と告白している。

 この蒋介石の涙の謝罪は、日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが全員耳にした歴然たる事実であり、南京大虐殺なるものは一切存在しなかったことを当事者が認めた貴重な証言である。

(南京大虐殺の捏造について興味のある方は、田中正明氏著による『南京事件の総括』展転社刊並びに『朝日が明かす中国の嘘』高木書房刊の二冊を参照されたい。)

(同書 P72)



 ご覧の通り、上の二つの話を適当につなぎあわせて、「当事者が認めた貴重な証言」などという、びっくりするような評価を下しています。

 さて、深田氏の「南京事件」に関する知識はどの程度のものであるのか。田中氏の著作をここまで熱心に持ち上げる時点で大体見当はついてしまいますが、一応、その直前のページの文章を紹介しておきます。

深田匠氏『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』より

 南京の「国際安全区委員会」の記録では、南京占領後に殺された民間中国人は最大でも四十九人であり、 これは伝聞も含めての人数のため実数はおそらく三十人以下である。

 東中野修道亜細亜大教授は、南京の全ての被害届を収録した『南京安全地帯の記録』の研究により、南京での民間人殺害は三件であるという説を発表されている。

 ベルリンや満州へ侵攻したソ連軍の暴虐などを想起するに、陥落した敵国首都での民間人死亡者が僅か三〜三十人ということは、世界に類例のない素晴らしい綱紀粛正ぶりだ。

(同書 P71)


 この方には、ぜひとも、私のサイトの「日本軍の暴行記録 「49人」か」  「国際委員会文書の告発」あたりを読んでいただきたいものです。

(2007.5.26)



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