資料:軍人の発言に見る「南京事件」


 こちらは、当時の軍幹部が「事件」をどのように認識していたか、という視点の資料紹介です。 どれも掲示板で時々引用される文章ですが、ここでは極力関連部分全体を収録することにより、原文のニュアンスをより正確に伝えるように努めました。

 ときどき掲示板では「日本軍の軍紀は世界一厳正だった。従って南京事件はウソ」という趣旨の書き込みを見かけますが、 実際には、当の軍の上層部からして、「軍紀の乱れ」を嘆かざるをえない状況に陥っていたことがわかります。
 

<目次>

1.松井石根大将

2.畑俊六大将

3.岡村寧次大将

4.河辺虎四郎・参謀本部作戦課長

5.真崎甚三郎大将
 



●松井石根大将

 南京攻略の総司令官として、「南京事件」の責を問われ、極東軍事裁判で死刑判決を受けた、松井石根大将の発言です。

花山信勝『平和の発見』より

  松井石根

 それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。

南京事件ではお恥しい限りです。

 南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。


 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。 日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。 その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。 ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」

(花山信勝『平和の発見』P229)

*「ゆう」注 花山氏は、「教誨師」として、巣鴨拘置所にて、死刑宣告を受けた戦犯たちと面談しています。上記は、そのうち松井大将との、第四回目の面談の部分です。 前後を含むより長い引用は、こちらにアップしました。 なお原文には改行はありませんが、読みやすくするために、随時改行を行っています。

 
松井大将「支那事変日誌抜粋」より

五、我軍の暴行、奪掠事件

 
上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三留意を促せしこと前記の如し。 図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。

 是思ふに

一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。

二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。

等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能す。

 因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。 然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能わさりし実情は已むなきことなり。

 因に本件に関し各部隊将兵中軍法会議の処断を受けたるもの将校以下数十名に達せり。又上海上陸以来南京占領迄に於ける我軍の戦死者は実に二万千三百余名に及ひ、傷病者の総数は約五万人を超へたり(欄外)

 因に我軍南京攻略に関しては予は最初先つ軍を蘇州、湖州の線に停止せしめ、隊伍の整頓と補給の進捗を図り、除ろに正々堂々の攻撃再挙を行はん事を欲したりか、 我大本営全般の作戦計画上上海方面軍の一部を他方面に転用するの計画なりしと、 敗退せる敵軍の江南地方に其隊伍を整理する遑(いとま)を与へさるを有利とする関係上遂に急劇快速の進撃を決行する決せり。

 尚本作戦間江陰附近に於ける我海軍飛行機の米国軍艦パネー号爆撃及南京上流に於ける我陸軍部隊(橋本砲兵聯隊)の英国軍艦及商船砲撃事件等を惹起せるは遺憾なりしも、 こは敗退する敵軍は多く英米等の艦船を利用せるも尠からさりし事実と追撃戦斗間避く可からさる我部隊の興奮とに因り其過誤を招来するに至りたる次第にて、予は本件に対しても各部隊に対し厳重なる警告を与へたり。

 又我軍の南京入城直後に於ける奪掠行為に対しては特に厳重なる調査を行ひ、努めて之を賠償返還せしむるの方を講したり。 特に英米仏其他列国官民に対する賠償に関しては我外交官憲を介して努めて友諠的に本件の善処を図れるも、戦場内にある列国人の財産生命か自然戦禍の累を受けたることは已むなき次第と云はさるを得す。

(『南京戦史資料集Ⅱ』P185〜P186)

*「ゆう」注 この資料には、以下の編者解説が付けられています。

「これは松井大将が昭和二十年十月十九日A級戦犯容疑者に指名され、翌年三月五日に巣鴨に入所する前(病気のため入獄延期)に記したもので、 いわば極東軍事裁判における訴追の対策としての覚え書である。従って史料としての価値は低いが、最大の訴因と松井大将が予想した、 いわゆる「南京事件」についての認識や、弁明の方向づけなどを探るには貴重な資料といえよう。」(同書 P6)

 

●畑俊六大将

 松井大将の後任として、昭和十三年二月十四日より「中支那派遣軍司令官」を勤めた、畑大将の記述です。

『陸軍大将 畑俊六日誌』より

 昭和十三年二月十四日 中支那派遣軍司令官

一月二十九日

 本日より二月六日まで第七師団、第八師団留守隊の教育状況視察の為北海道、弘前地方に出張。

 支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、 又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。

 此意見を大臣に進言致しをきたるが、出張前大臣に面会、西尾、梅津両中将を南北軍司令官たらしむるを可とする意見を申述べ出張したる処、意外にも二月五日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、 それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、とにかく帰京の上とし六日朝上野に帰着したる処、 中島参本総務部長駅にて待合せ本部長の来信の如き意味を伝へ、次で大臣より面会したしとのことにその足にて官邸に至り大臣に面会したるに、大臣より上述の如き申出あり。

 上海は方面軍と二軍司令部との折合兎角面白からず、此際現役者を以て交代せしむるを適当とすべく、又海軍の長谷川中将には古荘より先任なれば大将を以てしたり。

 小磯は大臣が推薦したる処外へ出すことは参謀本部側にて到底承諾せず、中村は病気なり。又あまり細かすぎ適任ならず。結局余の外なければ行て貰ひたしとのことに考慮を約して辞去したり。

(みすず書房『続・現代史資料4 陸軍(畑俊六日誌)』 P120-P121)
 


2008.8.10追記 さらに畑は、戦後にこのような回想を残しています。

『南京の虐殺は確かに行われたか』より

 昭和十三年二月、私は松井石根大将のあとをうけて上海に到着した。私は直接には兵団と関係がなかつたので、各郷土の特質についてはあまりよく知らないが、 上海に到着するまで、南京の虐殺ということは夢にも考えていなかつた。

 南京に到着してみても、なんの痕跡もなかつたし、人の耳にも入つていない。ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山のように出された。

それがために松井石根大将はついに悲惨な最期をとげられた。

 それも運命と思えばあきらめられないこともないが、いまにして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。 そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。

 けれども、これは戦場という特種の環境の下ではたらいた心理作用のなせる業で、平静にかえつたとき、これを責めるのも無理だと思つている。

 もともとこの裁判の遠因が、いわゆる復讐のための裁判だつたのだからやむをえないことだろう。

(『丸』エキストラ版 Vol 15 P76)
 



●岡村寧次大将

 岡村大将は、1938年6月、「第十一軍司令官」に就任、終戦時には「支那派遣軍総司令官」の地位にありました。

『岡村寧次大将資料』より

 「第四編 武漢攻略前後」

 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟

 私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、 大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。

 それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、 それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、 それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。

 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

 七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、 十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。 わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。

 以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。

(『岡村寧次大将資料』(上) P290〜P291)

*「ゆう」注 「岡村寧次大将資料」については、 こちらのコンテンツで詳しく紹介してあります。
 



●河辺虎四郎・参謀本部作戦課長

「最後の参謀次長」として知られる河辺虎四郎氏は、南京事件当時、「参謀本部作戦課長」の地位にありました。回想録『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』より引用します。

河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』より

 作戦休憩案

 こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。

 前年の夏動員された在郷の将兵は、"お正月までには帰って来るヨ"と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。一気呵成にここまで来たものの、 前途果たして如何になるか、"”相手にしない"といってみたとて、相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。

 華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。 南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。

 外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、 いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現われた。

 南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。

 そこで私らは、今後如何なる態勢に移るにしても、まずもってこの際戦場に新鮮な補充兵を送り、軍隊士気の一新是正をすることが肝要だと痛感した。 そしてそれがためには、夏季を含む数カ月間、 中国戦場にある各兵団に対し、その戦面を現在線より拡大することを禁じ、占拠地を確保して防支の姿勢を固め、兵員の新陳代謝と、正しい意味の戦場慣熟の訓練をさせるべきだと信じた。

 この趣旨は上司からの同意を受け、海軍側も遂に了承してくれたので、御前会議においての決定を仰ぎ得た。

 私はこの決定をもって、昭和十三年二月末東京を発し、北京(寺内大将)、張家ロ(蓮沼中将―後の大将)、新京(植田大将)および京城(小磯大将)の各軍司令部を歴訪し、各長官に直接伝達した。

 華中方面(畑大将)には、その軍参謀長(私の実兄、正三少将)が新任に際し、ちょうど東京に来たので、これに伝えられた。

 京城に私が行ったとき、小磯大将は、"大本営の決定をとやかくいうのではなく、この趣旨を遵奉するのであるが・・・″と前置して、個人の所見を君(私)の参考にまでとて、 大将の腑に落ちぬ諸点を一席述べられたが、私が”戦略上の御所見まことにどもっともと存じますが、軍隊の実情私らの見るところかくかく・・・と述べたところ、 大将の独特な明快さをもって、"そうか、よくわかった、御苦労さま"との緒言を吐かれた。

 右のように一応全軍的に、「作戦休憩案」が伝わったのであった。しかしそれは忽ちに崩れたらしく、私はこの直後に転任して後ほどなく、徐州会戦が起こった。

(『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』P153〜P154)




●真崎甚三郎大将

 最後に、「2.26事件」の黒幕とも言われた、真崎甚三郎大将の日記です。家を訪問してくる人々から、「北支」や「上海方面」の、「軍紀風紀頽廃」「掠奪強姦の例」を嘆く言葉を聞いています。

『真崎甚三郎日記』より

(一九三八年)一月二十八日 金 晴

 九時より約一時間散歩。

 十一時江藤君来訪、北支及上海方面の視察談を聞く。同君は自ら日露戦争の苦き実験あり、今回も主なる責任者の談を交 へて研究せり。従て同君の意見は相当に権威あるものと云はざるべからず。之によれば一言にして云はば軍紀風紀頽廃し 之を建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。

(『真崎甚三郎日記 昭和十一年七月〜昭和十三年十二月』 P263)


四月一日 金 晴

 塚原君四時半に来訪、予を伴ひ共に築地四丁目藍亭に至る。上海毎日新聞社長深町君を主賓として其の談を聞けり。会する者小寺、米田、森及勝次なり。 別に耳新しきことあらざるも軍の不統一、掠奪強姦の例、支那が降伏せざること等に関する談話なりし。十一時に米田、森等と共に帰宅す。十二時まで語る。

(同 P291〜P292)
 

(2004.7.31記 2008.8.10追記)


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