松本重治氏の証言 |
松本重治氏は、南京事件当時、同盟通信の上海支社長(1938年1月より「中南支総局長」)を務めていた大物ジャーナリストです。ティンパーリと協力して上海に「難民区」を設置したエピソードが、有名です。 松本氏自身は、南京には、陥落後の十二月十八日から十九日にかけて滞在したにすぎず、直接の経験はほとんどありません。しかし、ティンパーリやベイツとの親交など、「南京事件」を語る上で、決して無視することのできない人物でしょう。 松本氏の著書「上海時代」は現在絶版になっており、ネットの世界でも読むことが困難です。ここでは、この「上海時代」に、松本氏に対する、国広正雄氏、阿羅健一氏のインタビューを併せて紹介することにします。
続けて、松本氏の上記の記述を補足するものとして、国広正雄氏による「昭和史への一証言」、及び阿羅健一氏の「聞き書き 南京事件」の、ふたつのインタビューを紹介します。 なお、阿羅健一氏は、「聞き書き 南京事件」の増補改訂版として、2002年、「南京事件 日本人48人の証言」という本を出しています。 しかしなぜか、数あるインタビューのうち、この松本氏の分だけが、後の本では割愛されています。
以上、ふたつのインタビューを紹介しました。国広氏のインタビューはジャーナリストとしての力量を感じさせるものですが、私の見る限り、阿羅氏のインタビューにはどうも「誘導尋問」的要素が目立ちます。 特に後半の、「ティンパーレーの『戦争とは何か』を読むと、反日的で、非常に意図的なものを感じますが・・・」 という質問など、逆に質問者の阿羅氏の方に「非常に意図的なもの」を感じざるをえませんし、それに続く「例えば南京の難民委員会に参加できず、腹いせにああいう本を出したとか・・・」 も、そもそもティンパーレは当時南京に滞在しておらず、全く的外れなものです。 これは想像になりますが、阿羅氏自身このインタビューをあまり出来の良くないものと感じており、そのために「日本人 48人の証言」に再収録しなかった、という可能性もあるのかもしれません。 また読み比べると、「中島日記」の「捕虜はせぬ方針」の解釈に、微妙な差があることが伺えます。 阿羅氏のインタビューでは「十六師団は捕えた数千人の捕虜をその後解放した、とも聞いてます。どの様にもとれるのではないでしょうか」と「釈放」に重点を置いた発言を行っているのに対し、国広氏インタビューでは「それは、一時は捕虜として食物を与えておくが、一部を釈放し、他は遅かれ早かれ処分する、という意味しか考えられない」と、「処分」に重点を置いた表現となっています。 この「中島日記」をめぐる論議は有名ですのでご存知の方も多いと思いますが、実際の日記の記述は「処分」に重点を置いたもの と読むのが自然でしょう。
念のためですが、「釈放」するのであれば、「片付くる」ための「大きな壕」など、必要ありません。 *一部には、東中野氏など、「濠」を「捕虜選別の場」として解釈する見方も存在するようですが、前後の文脈、中島師団長の言動、実際の第十六師団の行動などから見て、私には強引で無茶な解釈である、としか思えません。このあたりの議論については、別項で論じています。 **「中島日記」十二月十三日の全文については、こちらに掲載しました。このあたりの記述には「捕虜掃蕩」という見出しがつけられています。 「犠牲者数」の認識でも、「一、二万」(上海時代)、「三万人くらい」(昭和史への一証言)、「万を単位とする虐殺はありえない」(聞き書き 南京事件)と、微妙な違いがあります。 阿羅氏は、「『上海時代』に書いてあることの繰り返し」という表現に続けて「万を単位とする虐殺はありえない」という記述を行っていますが、これでは「上海時代」にそのような表現があるかのような「誤解」が生じます。 なお松本氏自身も、「犠牲者数」については確固たる見解は持っていないと思われることから、「質問」によって「答え」が微妙に変化する可能性も、否定できません。 阿羅氏は、この「答え」に対する「質問」を省略していますが、どのような「質問」だったのか、興味を引かれるところです。 (2003.7.9)
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