東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (2)
第十六師団と捕虜

―その1 「捕虜ハセヌ方針」論議の決着―


 以下の3つのコンテンツでは、「第四章 紫金山北麓や下関の京都十六師団」を取りあげます。


 「南京事件」論議のポピュラーなテーマの一つに、「捕虜ハセヌ方針」論議というものがあります。スタートは、第十六師団長・中島今朝吾中将の日記にある、こんな記述でした。

中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

◇十二月十三日 天気晴朗

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底 其始末に堪へざる程なり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ

  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

(「南京戦史資料集Ⅰ」P326)

*中島今朝吾日記の12月13日の部は、こちらに全文を収録しています。


 素直に読めば、「捕虜はせぬ方針」とは、「捕虜にとらず片っ端から殺してしまう方針」である、と理解するところでしょう。

 笠原十九司氏等の「史実派」のみならず、秦郁彦氏、板倉由明氏、「南京戦史」グループ、あるいはこの日記を発掘した木村久邇典氏なども、同様の見解を示します。

 しかしこれに、あえて異を唱えたのが、東中野修道氏でした。

東中野修道氏『南京「虐殺」の徹底検証』より

 従って、「捕虜ハセヌ方針」とは、「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。

(同書 P119)


 「殺してしまう」方針ではなく、「追放」する方針であった、という主張です。


 しかし中島日記には、この直後にこんな表現が見られます。

中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

(「南京戦史資料集Ⅰ」P326)


 なぜ「追放」するのに「大なる壕」が必要なのか。この矛盾を指摘された東中野氏は、以降、この説明に苦慮することになります。

 苦し紛れに「壕は捕虜を武装解除のために一時的に収容する場所である」という無茶を言い出しますが、当然この「解釈」は世間の入れるところにはなりません。

 実際問題として、現場指揮官が「捕虜は殺すという方針である」と認識していた証言が数多く見られます。

 そもそも第十六師団に、「捕虜を追放した」、あるいは「釈放した」という確実な事例は存在しない以上、東中野氏の解釈が説得力を持ちえないことは、言うまでもないでしょう。

*ここでは思い切り端折りましたが、この論議の詳細については、「「捕虜ハセヌ方針」をめぐって」で論じています。




 そして今回の著作で、東中野氏は、「追放」説を、ついに放棄してしまいました。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より


 こう見てくると、「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」という命令により捕虜は処刑されたのだという処刑説は、適切な解釈ではないことが明らかとなってくる。

 そうすると「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」という命令は、当時の状況のもと、日本軍将兵が出くわすであろう最悪の事態を解消するために出された緊急避難命令、あるいは硬軟両方の選択肢を認める柔軟な命令であったと言った方がよいであろう。

 つまり一方では敵兵が投降してきたとき、軍は彼らを捕虜にしなければならないというルールがある。他方では、戦闘が激しく(捕虜を受け付けていたら) 自分たちがやられてしまうという状況もありうる。

 日本軍将兵がどちらをとるべきかという葛藤ないしは板挟みに陥ったとき、「俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」の命令があることによって、戦時国際法上も適法的に、迅速に後者を選ぶことができたのである。


(同書 P128)


 要するに、「捕虜ハセヌ方針」というのは、戦闘中でどうしてもやむえない場合にのみ捕虜にとらずに「緊急避難」として殺してよいという方針である、という解釈です。

 ここには氏の従来の主張であった「追放」の文字は出てきません。「殺害か追放(釈放)か」という論争は、東中野氏の「転進」により完全に決着が着いた、と言えるでしょう。




 しかし、ここでも東中野氏は、ちょっとした「印象操作」を行っています。

 東中野氏の書きぶりを見ていると、第十六師団、ひいては日本軍は、「捕虜は人道的に扱う。どうしてもやむえない場合だけ殺害を認める」という国際法の原則に沿った「捕虜取扱い方針」を持っていたかのように錯覚させられます。

 ちょっと考えればわかりますが、日本軍は「戦闘が激し」い状況で「戦時国際法上も適法的に」捕虜を受け付けずに殺害したに過ぎない、という命題が例え正しいものだとしても、「日本軍は全体として国際法に従って捕虜を人道的に扱う軍隊であった」、ということにはなりません。

 「殺害」の選択肢をとったことを「国際法遵守」の根拠とすることは、いかにも無理があります。



 実際の第十六師団なり日本軍全体なりの行動を見ると、明らかに国際法の精神を無視した「捕虜殺害」事例をいくらでも発見することができます。

 ここではあえて、東中野氏がこの本の中で使用している資料、およびその資料の著者の証言に限定し、東中野氏があえて無視した部分を取りあげ、「日本軍の捕虜取扱いぶり」を見ていくことにします。

*東中野氏は、同じ資料の中でも都合のいい部分のみ取りあげて、都合の悪い部分を無視する傾向があります。本コンテンツは、そのような東中野氏の「クセ」への批判としてご理解ください。



 佐々木元勝手記


 佐々木元勝氏は、東京帝国大学法学部出身の郵政官僚でした。この時機、野戦郵便長として中国戦線へ派遣され、南京陥落直後の12月16日には南京入りしています。

 佐々木氏は詳細な日記をつけており、そのうち12月16日、17日の部分が、『証言による「南京戦史」』(9)に掲載されています。さらに氏が日記をもとに書き下ろした「野戦郵便旗」が、「現代史出版会」から復刻出版されています。東中野氏も、「仙鶴門の捕虜の護送」を確認する資料として、この「野戦郵便旗」の記述を利用しています。

*余談ですが、この日記と「野戦郵便旗」を読み比べると、佐々木氏が出版にあたり、生々しい記述をいかに無難な記述に置き換えたがはっきりとわかり、興味深いものがあります。


 こちらでは、「オリジナル」である、「日記」の方から紹介しましょう。

「佐々木元勝氏の野戦郵便長日記」より(1)

12月16日、快晴、風

 ―馬群で女俘虜殺害の話―

 これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を降り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。

 殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。

(『証言による「南京戦史」』(9)=『偕行』昭和59年12月号P11)

 伝聞情報ではありますが、「馬群での捕虜処分」の話は他の資料でも見ることができますので、比較的信頼性の高いエピソードである、と言えるでしょう。


 なお、「佐々木元勝日記」及び「野戦郵便旗」では、上記以外にも、「敗残兵処分」「民間人殺害」の事例を見ることができます。必ずしも第十六師団の事例であるとは限りませんが、陥落直後の雰囲気がよくわかるエピソードですので、あわせてこちらに紹介します。

「佐々木元勝氏の野戦郵便長日記」より(2)

12月17日 快晴

 朝方、上海兵站部の兵が、年寄りの支那人を射殺した。この支那人は、どこをどう間違えたのか、入場式(ママ)のある街近くに来て、警備の兵に捕えられ、ウオーウオーと盛んに弁明する。

 一旦釈放され帰りかけたが、引き戻されて防空壕に連れ込まれ、銃声一発、二発、射殺された。

 返くの宿舎の歩哨に補助憲兵が二人立っていたが、何とも去わない。殺された支那人が馬鹿で、不運なのである。

(『証言による「南京戦史」』(9)=『偕行』昭和59年12月号P11)


 この記述を見る限りでは、佐々木元勝氏はこれを「民間人殺害」と認識しています。なおこのエピソードは、「野戦郵便旗」では、「街角で一人怪しい奴が撃ち殺され、公共防空壕に蹴落される」という簡単な記述に化けています。

佐々木元勝『野戦郵便旗』より

入 城 式

 十二月十七日

 一同トラックで中山陵に出かける。ここは中山門を出て、右手の松林丘陵のドライブ道路を走るとすぐである。陵の巾の広い階段を私たちが上がりかけた時、一組の兵隊がガソリン罐を徴発してもどってくる。一人新しい青竜刀を持っている。

 敗残兵が一人後手を縛られ綱で曳かれてきたので私は驚いた。ガソリン罐は陵墓の階段途中にある附属建物にあったものらしい。敗残兵は近くの松林か、どこかからひょろひょろと現われたのである。背が高く痩せ、眼がぎょろつき軍鶏みたいである。

 負傷しているらしく、飢え疲れているのであろう、階段横の芝地から道路へ下る時のめる。まったく情ないくらい、胸を道路に打ちつけて、二、三度のめる。連れて行かれるのが嫌らしくもある。中山陵の前、松林の中の枯れた芝生でこの敗残兵の青年は白刃一閃、頸を打ち斬られてしまう。亡国の悲哀がひしひしと私の胸に迫る。

 陵の高い階段を上って行く時、私は上海からトラックに警乗してきた兵隊の頚筋を見る。この兵隊は好ましい青年であって、その頸は襟足に軟かい魅力がある。私はこの頸が一刀両断せられるかと何回となく盗み見る。

(『野戦郵便旗』(上) P219)
 


 既に入城式も終わっておりますので、この時機、「緊急避難」的に捕虜を殺害する必要は全くなくなっているはずです。しかしここには、捕虜は人道的に取り扱うべきである、という発想は微塵も見られません。

 

 金丸吉生軍曹手記


 金丸吉生(よしお)氏は、第十六師団司令部の経理部主計軍曹。早くも12月13日には、南京に入城しています。

 「倉庫に隠れていた中国兵300人を捕虜とし、軍司令部にも断らずに使役していた」という豪胆なエピソードを、氏は、「南京戦史資料集」所収の「金丸吉生軍曹手記」と、伊勢新聞社編「魁 郷土人物戦記」で語っています。

 南京事件については、「南京虐殺二十万人というようなことは誤解である。・・・戦死した者は双方に多数あっただろうが、良民を虐殺したということはまったくなかったと思う」(「魁 郷土人物戦記」P580)との見解を持っています。

 戦後、氏は実業界で成功し、三重県の地元地方銀行である「百十四銀行」の頭取を務めました。

「金丸吉生軍曹手記」より

 その翌日(十七日頃でしェうか)、報告のため下関の埠頭まで行きますと、敵の乗り拾てたフォードのT型乗用車があり、配線をやり直したら幸いにエンジンが動いたので早速、これを利用することにして、それ以来それが随分役立ちました。

 そこで経理部との毎日の連絡や野戦倉庫に行く時に(中山門近くにあった)これを使用すると共に南京城はもちろんその周辺をあちらこちらと走り回って見ることができました。したがって歩三三(野田部隊)の追撃戦の跡はもちろん、下関の付近、揚子江岸道路も見ました。

 江岸道路には死体の山が所々にあり、それは百名程度のもので真っ黒焦げになっていました。それらはみんな厳冬のことでもあり全部硬直していました。また、対岸の浦口と連絡する鉄道路線には焼けただれた貨車があり、その中にも死体が一杯あり、これらは全部正規兵と見受けられました。

(『南京戦史資料集Ⅰ』P362)

(中略)

 市内での死体はそんなに多量のものでなく、南京西北部から下関へかけて散乱しており、また歩三三の兵隊の話では汽車の貨車に中国兵を一杯積み込んで線路を押して揚子江へ突き落としたのが十輌足らずあったと聞きました。また中国敗残兵の略奪や放火の甚しかった事はすごいものでした。

 なお塹壕の死体はたくさん見ましたが、これは白兵戦の時の死体と思います。(同 P363)
 


 この事例では少なくとも、捕虜を汽車に押し込め、まとめて焼いてしまったり、揚子江に突き落とす「余裕」はあったわけです。とても「緊急避難」での殺害とは思われません。

 また、余談になりますが、氏は「漢西門外の捕虜殺害」についても証言を行っています。

「金丸吉生軍曹手記」より

 その頃のある日の夕刻揚子江岸道路を軍歌でも歌っているような大合唱が耳に入ったので何事かと止まって待っていると、四列縦隊の中国兵が約一コ大隊ほど大声を発しながら(これは大声で泣いている声でした)、そして、その両側を十メートル置きぐらいに剣付きの三人式歩兵銃を持った日本兵が監視をしながら行進して来たので「何処へ行くのか」と聞いたところ「処分をしに行きます」との返事でした。(P362-P363)

  私は「そうか」と言ったものの何となく寒気を感じました。この捕虜は漢西門近くの濠(クリーク)と城壁の間にある斜面になった土地へ連れて行き機関銃で処分し、石油をかけて焼却したことを後に知りました。

 それを聞いてやっと判ったことは、私たちの居った製粉会社の倉庫の裏は揚子江でしたが、その反対側には高い堤防がありそれは道路ですがその向こうが水濠(クリーク)で水面幅が約三十メートルくらいあり、その向こうに二、三十メートルのゆるい斜面の土地があってその向こうに城壁がありました。

 そこで数日間毎日夕方から夜になると盛んに銃声が聞こえ、その後で火が燃え上がり毎夜おそくまで青白い焔が燃え続けているのを見ました。だから正確な数は判りませんが一夜に五、六百名として三千名から四千名くらいの処分があったものと想像されます。

 これが私の見た中国兵処分の実態です。

(『南京戦史資料集Ⅰ』P362-P363)

 氏は捕虜の連行現場を目撃し、さらに「処分をしに行きます」という監視兵の言葉を聴いています。さらに後日、「機関銃で処分し、石油をかけて焼却した」という情報を得ています。以上の流れを見れば、この証言の信憑性は高いものであると判断されます。

 これまた、とても「緊急避難」的な捕虜殺害である、とは思われません。



 小原孝太郎日記


 小原孝太郎氏は、三重県出身の小学校教員。応召時、満二八歳でした。氏は1937年9月1日、第十六師団輜重兵第一六連隊に入隊し、それから2年弱の間、第十六師団の一員として中国各地を転戦します。

 この間、氏は一日も欠かさずに日記をつけていました。

 その日記は愛知大学の芝原拓自教授の注目を受け、愛知大学国際問題研究所にて清書作業が行われ、「愛知大学国研叢書」の第1巻として「日中戦争従軍日記」の名の下に公刊される運びとなりました。

 小原氏は、南京戦の直後、前後二回、大量の捕虜を目撃しています。

 東中野氏は「捕虜殺害」を匂わせる部分をカットして、「仙鶴門の捕虜がそのまま捕虜収容所に護送された」確認資料として取り上げていますが、この点は別コンテンツに譲り、ここでは氏の目の前での「捕虜殺害」事例を紹介することにしましょう。


「日中戦争従軍日記」より

十二月十七日

 二十七班が乾草の徴発に行ったら農家の藁の中に敗残兵が四名隠れてゐたので、それを捕へて来た。自分等の△△△が業物を抜いてずばっと一刀のもとに切捨てたら、首がぶらんぶらんしてゐた。次に△△△の△△△が抜くなりやったが、首は落ちなかった。

 △△△△がついで、俺のを手本にしろといふなりずばっと飛閃一陣、首は前にころがって血汐がそれを追っかけてほとばしった物凄い腕だ。

 午後も十六班が敗残兵を捕へて来た。ピストルを擬した銃剣つけて、とびこむなりつかまえてしまった。彼等は腹がへって動けないのだ。

 大抵の敗残系はみつけられると、武器を放り出して両手をあげて降参するさうだ。十六班がつかまへて来た捕虜は中隊の使役に使ふことにした。

(『日中戦争従軍日記』P136-P137)


 どう見ても、この捕虜殺害は「戦時国際法上適法的」な状況にありません。しかし小原氏自身、「物凄い腕だ」と感心するばかりで、全く問題に思っている気配はありません。

 先の佐々木元勝手記の事例とあわせ、当時の兵士の「感覚」がどのようなものであったか、容易に想像がつくものと思います。

(2007.8.25)


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