東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (2) |
第十六師団と捕虜 ―その1 「捕虜ハセヌ方針」論議の決着― |
以下の3つのコンテンツでは、「第四章 紫金山北麓や下関の京都十六師団」を取りあげます。 「南京事件」論議のポピュラーなテーマの一つに、「捕虜ハセヌ方針」論議というものがあります。スタートは、第十六師団長・中島今朝吾中将の日記にある、こんな記述でした。
素直に読めば、「捕虜はせぬ方針」とは、「捕虜にとらず片っ端から殺してしまう方針」である、と理解するところでしょう。 笠原十九司氏等の「史実派」のみならず、秦郁彦氏、板倉由明氏、「南京戦史」グループ、あるいはこの日記を発掘した木村久邇典氏なども、同様の見解を示します。 しかしこれに、あえて異を唱えたのが、東中野修道氏でした。
「殺してしまう」方針ではなく、「追放」する方針であった、という主張です。 しかし中島日記には、この直後にこんな表現が見られます。
なぜ「追放」するのに「大なる壕」が必要なのか。この矛盾を指摘された東中野氏は、以降、この説明に苦慮することになります。 苦し紛れに「壕は捕虜を武装解除のために一時的に収容する場所である」という無茶を言い出しますが、当然この「解釈」は世間の入れるところにはなりません。 実際問題として、現場指揮官が「捕虜は殺すという方針である」と認識していた証言が数多く見られます。 そもそも第十六師団に、「捕虜を追放した」、あるいは「釈放した」という確実な事例は存在しない以上、東中野氏の解釈が説得力を持ちえないことは、言うまでもないでしょう。 *ここでは思い切り端折りましたが、この論議の詳細については、「「捕虜ハセヌ方針」をめぐって」で論じています。 そして今回の著作で、東中野氏は、「追放」説を、ついに放棄してしまいました。
要するに、「捕虜ハセヌ方針」というのは、戦闘中でどうしてもやむえない場合にのみ捕虜にとらずに「緊急避難」として殺してよいという方針である、という解釈です。 ここには氏の従来の主張であった「追放」の文字は出てきません。「殺害か追放(釈放)か」という論争は、東中野氏の「転進」により完全に決着が着いた、と言えるでしょう。 しかし、ここでも東中野氏は、ちょっとした「印象操作」を行っています。 東中野氏の書きぶりを見ていると、第十六師団、ひいては日本軍は、「捕虜は人道的に扱う。どうしてもやむえない場合だけ殺害を認める」という国際法の原則に沿った「捕虜取扱い方針」を持っていたかのように錯覚させられます。 ちょっと考えればわかりますが、日本軍は「戦闘が激し」い状況で「戦時国際法上も適法的に」捕虜を受け付けずに殺害したに過ぎない、という命題が例え正しいものだとしても、「日本軍は全体として国際法に従って捕虜を人道的に扱う軍隊であった」、ということにはなりません。 「殺害」の選択肢をとったことを「国際法遵守」の根拠とすることは、いかにも無理があります。 実際の第十六師団なり日本軍全体なりの行動を見ると、明らかに国際法の精神を無視した「捕虜殺害」事例をいくらでも発見することができます。 ここではあえて、東中野氏がこの本の中で使用している資料、およびその資料の著者の証言に限定し、東中野氏があえて無視した部分を取りあげ、「日本軍の捕虜取扱いぶり」を見ていくことにします。 *東中野氏は、同じ資料の中でも都合のいい部分のみ取りあげて、都合の悪い部分を無視する傾向があります。本コンテンツは、そのような東中野氏の「クセ」への批判としてご理解ください。
佐々木元勝氏は、東京帝国大学法学部出身の郵政官僚でした。この時機、野戦郵便長として中国戦線へ派遣され、南京陥落直後の12月16日には南京入りしています。 佐々木氏は詳細な日記をつけており、そのうち12月16日、17日の部分が、『証言による「南京戦史」』(9)に掲載されています。さらに氏が日記をもとに書き下ろした「野戦郵便旗」が、「現代史出版会」から復刻出版されています。東中野氏も、「仙鶴門の捕虜の護送」を確認する資料として、この「野戦郵便旗」の記述を利用しています。 *余談ですが、この日記と「野戦郵便旗」を読み比べると、佐々木氏が出版にあたり、生々しい記述をいかに無難な記述に置き換えたがはっきりとわかり、興味深いものがあります。 こちらでは、「オリジナル」である、「日記」の方から紹介しましょう。
伝聞情報ではありますが、「馬群での捕虜処分」の話は他の資料でも見ることができますので、比較的信頼性の高いエピソードである、と言えるでしょう。 なお、「佐々木元勝日記」及び「野戦郵便旗」では、上記以外にも、「敗残兵処分」「民間人殺害」の事例を見ることができます。必ずしも第十六師団の事例であるとは限りませんが、陥落直後の雰囲気がよくわかるエピソードですので、あわせてこちらに紹介します。
この記述を見る限りでは、佐々木元勝氏はこれを「民間人殺害」と認識しています。なおこのエピソードは、「野戦郵便旗」では、「街角で一人怪しい奴が撃ち殺され、公共防空壕に蹴落される」という簡単な記述に化けています。
既に入城式も終わっておりますので、この時機、「緊急避難」的に捕虜を殺害する必要は全くなくなっているはずです。しかしここには、捕虜は人道的に取り扱うべきである、という発想は微塵も見られません。
金丸吉生(よしお)氏は、第十六師団司令部の経理部主計軍曹。早くも12月13日には、南京に入城しています。 「倉庫に隠れていた中国兵300人を捕虜とし、軍司令部にも断らずに使役していた」という豪胆なエピソードを、氏は、「南京戦史資料集」所収の「金丸吉生軍曹手記」と、伊勢新聞社編「魁 郷土人物戦記」で語っています。 南京事件については、「南京虐殺二十万人というようなことは誤解である。・・・戦死した者は双方に多数あっただろうが、良民を虐殺したということはまったくなかったと思う」(「魁 郷土人物戦記」P580)との見解を持っています。 戦後、氏は実業界で成功し、三重県の地元地方銀行である「百十四銀行」の頭取を務めました。
この事例では少なくとも、捕虜を汽車に押し込め、まとめて焼いてしまったり、揚子江に突き落とす「余裕」はあったわけです。とても「緊急避難」での殺害とは思われません。 また、余談になりますが、氏は「漢西門外の捕虜殺害」についても証言を行っています。
氏は捕虜の連行現場を目撃し、さらに「処分をしに行きます」という監視兵の言葉を聴いています。さらに後日、「機関銃で処分し、石油をかけて焼却した」という情報を得ています。以上の流れを見れば、この証言の信憑性は高いものであると判断されます。 これまた、とても「緊急避難」的な捕虜殺害である、とは思われません。
小原孝太郎氏は、三重県出身の小学校教員。応召時、満二八歳でした。氏は1937年9月1日、第十六師団輜重兵第一六連隊に入隊し、それから2年弱の間、第十六師団の一員として中国各地を転戦します。 この間、氏は一日も欠かさずに日記をつけていました。 その日記は愛知大学の芝原拓自教授の注目を受け、愛知大学国際問題研究所にて清書作業が行われ、「愛知大学国研叢書」の第1巻として「日中戦争従軍日記」の名の下に公刊される運びとなりました。 小原氏は、南京戦の直後、前後二回、大量の捕虜を目撃しています。 東中野氏は「捕虜殺害」を匂わせる部分をカットして、「仙鶴門の捕虜がそのまま捕虜収容所に護送された」確認資料として取り上げていますが、この点は別コンテンツに譲り、ここでは氏の目の前での「捕虜殺害」事例を紹介することにしましょう。
どう見ても、この捕虜殺害は「戦時国際法上適法的」な状況にありません。しかし小原氏自身、「物凄い腕だ」と感心するばかりで、全く問題に思っている気配はありません。 先の佐々木元勝手記の事例とあわせ、当時の兵士の「感覚」がどのようなものであったか、容易に想像がつくものと思います。 (2007.8.25)
|