小林よしのり氏「戦争論」の妄想

 

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 「南京事件」については、あまりに膨大な「間違った情報」が流布しています。

 そのため、ほとんど知識のない方が「南京」について語ることは、至難の業になっています。さまざまな資料を集め、「情報」を取捨選択して、自分なりのイメージをつくっていく。 そのような手続きを経ないで「南京」を論じようとすると、傍目には「間違いだらけのトンデモ議論」になってしまいがちです。


 小林よしのり氏の「戦争論」などは、その好例でしょう。ほとんどまともな文献にあたらず、いい加減な「否定本」のみを頼りに書き飛ばす。 その結果としてこの本の「南京」関連部分は、少しでも知識のある方でしたら頭を抱えてしまうような代物になっています。

 にもかかわらず、「コミック」という媒体の影響力か、ネットでもこの本から得た知識を頼りに議論する方が後を絶ちません。以下、この本の「南京事件」関連の記述を追っていくことにしましょう。




 小林氏は、「中国軍の問題行動」をやたらと強調します。


 最初に登場するのは、中国婦人が突然日本軍に対して発砲し、一個中隊をほぼ全滅させる、という怪しげなエピソードです。(P127〜)

 これについては、山本弘氏が、この引用の恣意性、また根拠のなさについて具体的な批判を行っていますので、ここでは省略します。 私なりに批判の要点を示せば、


1.このエピソードは、鈴木明氏→大井満氏→小林よしのり氏、という伝言ゲームを通じて、大きくデフォルメされている。最初の鈴木氏の記述には、「中国婦人の発砲」などは登場しない。

2.そもそも鈴木氏の記述自体、根拠が不明。裏付け資料は一切なく、第三師団の一部兵士だけに伝わる、いわば「都市伝説」のようなものであったかもしれない。


ということになるでしょうか。私自身、あちこちの文献にこの話の「ソース」を求めてみたのですが、未だに発見できません。

 小林氏は、鈴木氏の書いた「原典」に当たることも(おそらく知らなかったのでしょう)、その「原典」の信頼性を検討することもせずに、この部分を盲信してしまっているわけです。




 続いて小林氏は、「敗残兵の安全区への逃亡」を俎上に乗せます。

 
小林よしのり氏『戦争論』より

 あの南京事件の時国民党軍の兵がどんな有様だったのか「ニューヨークタイムズ」のダーディン記者が記事にしている。次のように・・・

一部隊は銃を捨て軍服を脱ぎ便衣を身につけた。記者が十二日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、 それは滑稽といってよいほどの光景であった。

多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた。

軍服とともに武器も遺棄されて街路は小銃・手榴弾・剣・背嚢・軍服・軍靴・ヘルメットでうずまるほどであった。


 兵が同胞の一般市民の服をはぎ取って化ける・・・

 なんという卑劣さ・・・

(P128-P129)


 読者には「卑劣」という単語だけが印象づけられる構成になっていますが、小林氏は、当時の状況が頭になかったのでしょうか。

 南京戦において、投降した中国兵は、結局のところかなり高い確率で殺されてしまっています。 「殺す側」への批判をスルーして、「一般市民に化けた」という「逃げる側の逃げ方」のみを非難するのはあまりに一方的でしょう。

 確かに「兵が一般市民に化け」る際には、さまざまな事件が起こったと伝えられ、それは「中国兵のモラルの低さ」を示すものであったかもしれません。 しかし、そのような事件が起こったからと言って、日本軍がこれらの「敗残兵」を結果的に捕えて殺してしまったことを、正当化できるはずもありません。

*例えば、「日本軍は絶対に捕虜を殺さない」と呼びかけて中国兵を投降させたにもかかわらず、結局投降兵全員を殺してしまった 、という「六十六連隊事件」というものがあります。 「なんという卑劣さ・・・」という表現は、このような行為にこそ冠せられるべきものでしょう。

**なお、ネットではよく、「卑劣な便衣兵戦術」という表現を見かけます。 しかし、上のダーディンの記事を見ると、別に中国兵は「便衣兵」(=ゲリラ)になるために「便衣」(民服)に着替えたわけではなく、パニック状態の中で「逃げるために」着替えていたことがわかります。 別に「便衣兵」になるために軍服を脱いだわけではないとすれば、この行為自体は、「国際法違反」でも何でもありません。(「敗残兵狩り」をめぐる「国際法論議」については、拙コンテンツ「南京事件 初歩の初歩」 「敗残兵狩りは合法か? 「国際法をめぐる吉田−東中野論争」をご覧ください)

余談ですが、「卑怯な便衣兵戦術」という表現を使う方は、太平洋戦争末期の日本の「本土決戦」構想を、どのように捉えているのでしょうか。 この考え方からすると、
女子供にまで「軍事訓練」を施した末期の大日本帝国は、まさしく「国民皆便衣兵」という、 「卑劣」極まりない戦術を採用しようとしていた、ということになるのですが。




続いて小林氏は、「エスピー報告」を取り上げます。

小林よしのり氏『戦争論』より

 米南京副領事エスピーの東京裁判提出資料には次のようにある

・・・ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。 最後の数日間は疑いなく彼らにより人および財産に対する暴行掠奪が行われたるなり。

支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎとるための殺人も行いしなるべし

これがため残留せる住民には、日本人来たれば待望の秩序と統制との恢復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえありたることは想像せらるるところなり。


 支那人が支那人を殺してたのか〜〜〜っ

(P129)



小林氏は「支那人が支那人を殺してた」と思い切り断定してしまいました。実際の「エスピー報告」の書きぶりを確認してみましょう。

「エスピー報告」より

 しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪と無縁ではなかったことである。彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている。 日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。

 気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。

 この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な略奪を働いたのは確かなようである。市政府の完全な瓦解は、公共施設やサービス機能をストップさせ、国民政府および大多数の市民の退却は、 市を無法行為に委ねることになり、混乱を招いたようだ。

 このため、残った市民には、日本軍による秩序の回復を期待する気持ちを起こさせることになった。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P240)



 さて、立場を変えてみましょう。仮に、どこぞの報告に「日本軍は殺人まで行った」と軽く一言触れていることを材料に、誰かが「日本軍は殺人をしていたのか〜〜〜っ」と書いたら、 小林氏は果たしてどのような反応を見せるでしょうか。

 おそらく、「そんな曖昧な記述では証拠にならない。事実であると主張するならもっと具体的な証拠を持ってこい」ということになるでしょう。

 現実に、他の外国人が記したさまざまな記録のどこにも、この「中国兵の殺人」の具体的な記述は登場しません。誰が目撃したのか、どのような情報源からの情報だったのか、もわかりません。 してみれば、果してこれが事実であったのかどうか、もう少し慎重に検討する必要がある、と考えるべきところでしょう。

 自説に都合のいい記述は、何の検証もなしに無条件に信じ込む。一方都合の悪い記述は、針の穴ほどの些細な「欠陥」を探し出して全否定を試みる。どうも小林氏は、一部否定論者のそんな「悪癖」を受け継いでいるようです。



 実は「エスピー報告」というのは、「南京アトローシティ」告発の報告です。上の文章は、こう続きます。

「エスピー報告」より

 しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。

 十二月十三日夜、十四日朝には、すでに暴行が行われていた。城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。 市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。

 正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。

 兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。

 中国政府軍の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P240-P241)



 この報告は、ほとんどの部分がこのような雰囲気の記述で埋められています (全文はこちらに掲載しました)。 小林氏は、このレポートからごく一部、都合のいい部分のみを切り取って、「中国軍の問題行動」のみに強引にスポットライトを当ててしまったわけです。





 さて、エスピー報告の「これがため残留せる住民には、日本人来たれば待望の秩序と統制との恢復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえありたることは想像せらるるところなり」 という記述を引き継いで、小林氏はこんなことを書きます。

小林よしのり氏『戦争論』より

 「安全区に入り込んだ支那兵が略奪するので取り締まってほしい」という要請が難民からあったために日本軍は安全区内へ便衣兵狩りに入ったという証言は元日本兵からもある

(P129)


 小林氏の書き方だと、日本軍は難民から便衣兵取締りの要請を受けて「安全区掃蕩」を開始した、ということになりそうですが、これはもちろん事実に反します。 「安全区掃蕩」は、あくまで日本軍自身の判断による、独自行動でした。

 なお私はこの「証言」を知りません。小林氏も出典を明示しておらず、根拠は不明です。

 しかしこの証言、いかにも怪しげです。「難民」が直接「日本軍」に訴える、というのは考えにくいことですし(通常であれば「国際委員会」を通すでしょう)、またそのような「公式記録」も残っていません。





 続いて小林氏は、中国軍の「清野作戦」を批判した後、唐突に「北支」の例をあげます。

小林よしのり氏『戦争論』より


 日本軍が補給をないがしろにしたため現場の兵が略奪に頼るしかなくなったというのは事実である。

 略奪・・・それは日本兵だけがしていた非行なのか?

 北支作戦の時隆平県城になだれこんだ支那の敗残兵はやはり住民を襲って便衣になり略奪を始めたという

 日本兵は城壁の上からぼーぜんとしてこれを見たらしいが・・・

 便衣となった支那兵は同じ支那人から略奪し暴行し殺傷して阿鼻叫喚の地獄となったのだ


(P131-P132)


 これは、田中正明氏「南京事件の総括」(謙光社版)P112からの孫引きであると思われます。

 田中氏は、このエピソードを、草場辰己少将の証言として紹介しています。しかし田中氏は出典を示しておらず、これが草場少将の言葉を正しく伝えているのかどうか、確認は困難です。

 小林氏は田中氏を盲信してしまっているようですが、拙サイトでもしばしば取り上げてきた田中氏の「創作癖」「虚言癖」を思えば、エピソードの真偽は慎重に検討する必要があるでしょう。





 さて小林氏は、「漢奸狩り」「カニバリズム」等によって「中国人の残虐さ」を印象づけようとした後、いよいよ「反日撹乱工作隊」に移ります。


小林よしのり氏『戦争論』より


 南京事件の際はこの自分たちでやっておいて「日本人の蛮行」に仕立てる支那撹乱工作兵が大活躍したことをご存じだろうか?

 例の南京のシンドラーといわれる(?)ジョン・ラーベもこの撹乱工作兵にだまされたままあるいは故意にだまされたふりをして日記を書いて出版の用意をしている

 1937年12月13日に日本軍が南京に入っているのだが翌年1月4日に次の記事が「ニューヨーク・タイムズ」に載った


南京の金陵女子文理学院に避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは支那軍から離れた陸軍大佐一名とその部下の将校六名を匿っていたことを発見して心底から当惑した。

じつのところ教授たちはこの大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。

この将校たちは支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから金陵女子文理学院の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中にライフル六丁とピストル五丁、 砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬を隠していたが、それを日本軍の捜索の際に発見されて、自分たちのものであると自白した。 

この前将校たちは南京で略奪したことをアメリカ人や他の外国人のいる前で自白した。 また、ある晩、避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことも自白した。 


この前将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、おそらく処刑されるであろう。


 新聞にまで載ったこの事件 当然安全区委員会のジョン・ラーベらの耳にも入ったはずなのに・・・

 不思議なことに安全区委員会の報告書にもラーベの日記にもこの事件の記述がない


(P137)


ネタ元は明らかに、東中野修道氏「南京虐殺の徹底検証」です。

しかしこの話自体、この記事だけでは事実と認定するには到底材料不足です。実を言えばこの事件の原型は、外国人の間では「王新倫事件」として知られていました。 例えば金陵大学病院の医師、ウィルソンの手紙を見ましょう。

ウィルソン「金陵大学病院からの手紙」より

十二月三十日 木曜日

 きょう哀れな愚か者が、大学の養蚕施設にある難民キャンプに避難している男性のことを怒って、こともあろうに日本兵を数人連れてきて、六挺のライフル銃が埋めてある場所を教えてしまった。 激しいののしり合いがあって、四人の男性が連行された。うち一人は中国陸軍の大佐だったという忌まわしい罪をきせられた。彼がまだ生きているとは考えられない。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P291)


 ここには、記事の最重要部分である「外国人のいる前で自白した」という話は登場しません。また、本当に軍人であったのかどうかさえ、はっきりしません。

 詳しくは拙コンテンツ「反日撹乱工作隊」に譲りますが、 この記事はおそらく日本軍憲兵隊からの情報をソースとしたものであると推定されます。 そうであれば、この「自白」なるものを簡単に信用するわけにはいきません。当時の状況から考えて、「拷問」等の物理的強制の結果である、と見るのが自然でしょう。

 さらに日本側は、これだけの絶好の宣伝材料を、なぜかたった一回、事件から三週間も経った一月二十四日の外国人向け記者会見で取り上げただけでした。 (ただし外国紙で扱ったのは、今日判明する限りでは「チャイナ・プレス」のみ、それも必ずしも日本軍に好意的な扱いではありません 。同じ記者会見に出席した大物記者、アベンドはこれを無視しました。詳しくは「反日撹乱工作隊(2)」をご覧ください)

 この話が事実であるのであれば、日本軍は積極的に「逆宣伝」に利用すると思うのですが、私が調べた限り、国内向けメディアには全く登場しません。また、当時の公式記録にも、将官の日記にも一切登場しません。 「疑わしい話」と考えるべきところでしょう。

 小林氏は、この程度のヨタ話を何の検証もなしに頭から信じ込み、さらには「支那撹乱工作兵の大活躍」というレベルにまで妄想を膨らましてしまったわけです。


 なおこの事件は、ベイツが「緊急委員会委員長」の席にあった「金陵大学」にて起こったもので、ラーベとは関係が薄いものです。ですので、ラーベが記録を残していないことを怪しむ必要はありません。 参考までに、ベイツはこの事件について、詳細な記録を残しています。 (詳しくは渡辺さんのページをご覧ください)




 さて、ここまではともかくも東中野氏の議論の範囲内です。しかしここから小林氏は、何と「撹乱工作兵」と「国際安全区委員会」との関係を疑いだす、というちょっと信じ難いトンデモに走ってしまいます。

小林よしのり氏『戦争論』より


 安全委員会の報告書をみると1937年12月14日から毎日毎日日本軍の蛮行が報告され続けているのだが・・・

 ところが1938年1月4日から6日までの3日間は1件の報告もない

 1月4日ニューヨーク・タイムズに撹乱工作兵が逮捕されたことが載ったら3日間日本軍の蛮行の報告はピタッと止まってしまう

 これも変じゃないか わざとらしい・・・

 この3日間撹乱工作隊が安全区委員会に報告に行くのをやめたか・・・


 安全区委員たちが問題の記事についてどう対処するか決めかねていたのか

 どうも後者のような気がする


(P137-P138)



 ありえません。

 そもそも外国人たちは、1月4日の時点で、どのようにしてこの記事の存在を知りえたというのでしょうか。南京の外国人と外部との連絡はほとんど途絶しており、少し聞こえるだけのラジオ放送、 また日本大使館経由の情報を除けば、外部からの情報入手はほとんど不可能でした。

マッカラムの手記より

一月五日

 ラジオはどうも調子が良くない。二つめのラジオを手に入れたが、短波が入らない。東京、マニラ、上海からの英語ニュースと音楽が少し入る程度だ。
昨日はラジオを聞いて、多少時間潰しができた。入る局は決まっているので、同じレコードをたびたび聞かされる。おかげで家にいる皆に歌って聞かせてやれるほどになってしまった。

「おいらはポパイ、船乗りポパイ・・・」

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P264)


一月六日

 大大ビッグニュースだ。アメリカ領事館代表が来て、マッカラム、トリマー、ミルズ、スマイスの家族は三十日に漢口を発ち、香港に向かったと知らせてくれた。 彼は十一月末付の手紙を幾通か仲間に持ってきてくれた。

 ひと月ぶりのニュースと郵便だ。大いに歓迎! 不自由なことも、危ない目にもあったにちがいないが、ともかく無事の旅であったと思っている。 おまえのいるところと次の行く先が分かれば安心だ。

 自分の考えとしては、もし、上海に来る許可がとれるならば、そうしてもらって、子供たちはアメリカンスクールに入れて、残りの学年をそこで過ごしたらいいがと思っている。 私たちがここを出られるという確証はまだ今のところないが、そうしてもらえれば、近いうちに会える機会もあるかもしれない。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P265)



「フォースターより妻への手紙」より

一月七日

 
きのうは大使館に着任したアメリカ人外交官からロバーツ司祭、アルシー、レスリー、ステイーヴ、KPらの手紙を受け取り、最高に嬉しかった。手紙はすべて十二月十二日から二十日付の古いものだった。 しかし、この手紙で、おまえが無事に香港に着いたことが分かり、本当に安心した。

 事態は多少良くなってきている。通信手段が平常の状態近くまで復旧することが期待できそうだ。

 私たちはこれまで、完全に隔離されていたので、揚州やその他のところで何が起きているのか皆目見当がつかない。 私たちの蕪湖の財産は無事であること、ランフィアー、コンスタンス尼らも無事で元気でいるということを、アメリカ大使館員が報告してくれた。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P308)



 外部との連絡が回復したのは、アメリカ領事館館員が南京に復帰した、1月6日以降のことです。

 こんな状態で、外国人たちはどうやって1月4日付「ニューヨーク・タイムズ」のベタ記事を、同じ日に知ることができたというのでしょうか。小林氏の記述には、何の裏付けもありません。

 記事の存在を知るはずもないのに、どうして「記事への対処」に悩まなければならないのか。小林氏は、当時の南京の状況についての基礎知識の不足を露呈してしまっています。



 しかし、「撹乱工作隊が安全区委員会に報告に行くのをやめた」ために「事例」が途絶した、というのもまた無茶な想像です。ちなみにその直前、一月一日の事件をいくつかピックアップしてみます。


第一七一件

一九三八年一月一日午後三時、スパーリソグ氏が寧海路と広州路の角にさしかかると、一人の老婆が家の中から飛びだしてきた。 スパーリング氏が中に入ると、一人の日本兵が逃げだしていった。しかし、寝室にはもうー人、素裸の日本兵と強姦されたばかりの半裸体の中国人の娘がいるのが見られた。 スパーリソグ氏は兵隊に出て行けと命じたが、衣服を着る時間を与えた。〔スパーリソグ〕


第一七二件

一月一日午後九時、日本兵がトラックで小桃源のラーべ氏の住宅前に乗りつけ、トラック一台分の娘を出せと要求した。 ラーベ氏は門を閉めて入れなかったので、彼らは金陵大学付属中学の方へ行った。〔ラーべ〕


第一七三件

一月一日午後、三名の日本兵が金陵女子文理学院に入ってきた。その中の一人は一人の娘を追い回し、庭の竹薮に入った。 ヴォートリン女史 が呼び出されて、強姦寸前の娘を救い出した。残り二名の日本兵は憲兵であることを自認した。〔ヴォートリン〕


第一七四件

一月一日午後一時四十分、二人の日本兵が珞珈路一七号のフォースター師の住宅内に侵入して、一人の娘を強姦し、抵抗して強姦を拒否したもう一人の娘を殴打した。 フォースター師はフィッチ氏と食事をするため外出していた。フィッチ氏・マギー氏・フォースター氏は車で現場へ駆けつけ、 二人の娘を鼓楼医院で手当てするために連れて行った。〔フィッチ〕

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P113)


 外国人が関わっている事例が多数あります。一読すれば、「撹乱工作兵」なるものに頼る必要がないことはすぐにわかります。

 小林氏は、こんな基本資料にすら、目を通さなかったのでしょう。


*参考までに、「国際委員会」の記録を著書「戦争とは何か」に掲載したティンパリーは、1月初めの「暴行事例」の少なさについて、このような記述を残しています。

ティンパリー編『戦争とは何か』より

 その年がかわると、委員会は普通の方法で問題を処理する望みを失ったことは明らかであり 、そこで、一月四日付の手紙に見られるように、手紙で個々の問題にとりくむことにした。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P139)


おそらく国際委員会メンバーに取材したものと思われますが、「撹乱工作兵との関係がバレたから」という無茶な邪推よりは、よっぽど自然でしょう。




次に小林氏は、ラーベが国民党軍から提供を受けた「3万ドル」を疑問の材料にします。
 
小林よしのり氏『戦争論』より


 ラーベは支那兵の龍大佐、周大佐という二人の将校を匿って3万ドルという大金を受け取ったことを日記の中で書いてしまっている

 この金は一体何なのか? 日記では「負傷者の面倒を見るための資金」といっているが、それだけのようには思えない

 そもそも将校を匿うこと自体重大な協定違反であるが 
その上なんらかの便宜を与えていたのでは?(P138)



 氏が何を言いたいのかはっきりしませんが、どうやら、「便宜の見返り」としての資金提供だった、と言いたいようです。しかし小林氏は、「便宜」の具体的内容には何も触れません。

 ラーベ日記の記述を確認しましょう。


ジョン・ラーベ『南京の真実』より

十二月十二日


十八時半

 夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。 韓と一緒に本部から家に帰る前に、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。(P105)

二十時

 それから、龍はいった。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。ぜひ力を貸していただきたいんです」  本部の金庫に預けた三万ドルは、このための資金だという。

 私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。 いまだに何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状態といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。(P107-P108)



 龍大佐は「負傷者の面倒をみる」ための資金として3万ドルを提供した。国際安全区委員会の長のラーベもそういうものとして受領した。素直にそういうものとして受け止めて、不自然な点はありません。

 さらに、国際安全委員会が国民党側から受領した資金は、これだけではありません。ラーベ日記にも、「蒋介石は委員会に十万ドルの寄付を申し出」(十一月二十九日)、 その一部として、十二月一日、「午後、駐屯軍司令部から二万ドル受け取った」、 さらに十二月七日には「最高司令部から、たったいま、さらに二万ドル、私のところに払いこまれた」とする記述が残されています。

 この「三万ドル」も、これらと同様に、蒋介石による同胞保護、「安全区」設立への人道的支援の一環と考えて、別に問題はないでしょう。


 仮に、この資金が「便宜への見返り」だったとします。ラーベが公開するつもりで日記をつけていたとすれば、「3万ドルの授受」などという「危ない」ことは書かないでしょう。 逆に公開を意図しないのであれば、誰にも見られないであろう日記で「資金の性格」を隠す必要はありません。どちらにしても、小林氏の「邪推」は成立しません。


 ちなみに国際委員会の「財力」については、このような資料が残っています。

『第二十六号文書』(Z46)より

 当委員会が救援のためにもっている資金は当然のことながら非常に不十分であります。南京市内に東方の手持ち分として一〇万ドルあり、さらに上海に五万七〇〇〇ドルあります。

  しかし、この一五万七〇〇〇ドルという金額をもってしても、現在市内にいる二十五万人の難民を救うのには焼け石に水であります。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P149)


 資金は「難民救済」という人道的な目的に使われた、と見るのが妥当でしょう。



 参考までに、板倉由明氏の「東中野論文「ラーベ日記の徹底検証」を批判する」です。

板倉由明「東中野論文「ラーベ日記の徹底検証」を批判する」より 

 十二日夜の、龍大佐と周大佐の避難申し入れに対し、ラーベが匿ったことを (「ゆう」注 東中野氏の)論文は、「良心の呵責を覚えることなく」と評しているが、逆にラーベの良心とも言える。

 米英仏伊など各国大使館、公使館には大勢の中国軍人が逃げ込んだ。蒋公穀のアメリカ大使館、郭岐のイタリヤ大使館などが有名だが、日本だって中国やアジアの独立運動などで「志士」たちを大勢匿っている。 汪兆銘は蒋介石の暗殺を逃れて、ハノイから日本側の護衛の下に上海を経て東京へ脱出した。

 「窮鳥懐に入れば殺さず」と言うが、これは一般に当然の措置で、 匿われた側から見れば、ラーベは「南京のシンドラー」になる。

(「正論」平成10年6月号)


小林氏のように「重大な協定違反」と騒ぎ立てるよりも、はるかに冷静な見方であると思います。




さて小林氏は、以上の怪しげな事実認識に基づいて、「ラーべと「反日撹乱工作隊」とはグルだったのではないか」という妄想に飛躍してしまいます。

小林よしのり氏『戦争論』より

 以上のことから考えてラーベや安全区委員会のメンバーは支那の撹乱工作兵とグルだったのではないかとさえ思えるのである

 となるとジョン・ラーベは「南京のシンドラー」ところか難民が支那撹乱工作兵に略奪され犯され殺されるのを見て見ぬふりをしてそれをすべて日本軍のせいにして報告していたのではないか?  という疑惑まで充分持てるのだ!


(P138)




 ネタ元が質の悪い「否定本」だったせいか、小林氏はラーベに対して明らかに強い偏見を持っています。

 日記を素直に読めばわかる通り、ラーベの関心は、「中国民衆の保護」でした。 「加害者」が誰であれ、中国民衆が「略奪され犯され殺される」のを「見て見ぬふり」をすることなど、あるわけがありません。


 そもそも「撹乱工作兵」説自体、到底「事実」として認定することはできそうにない、怪しげなヨタ話です。「存在しないもの」と「グル」になることはできません。

 ここまでの無茶な記述は、「ネタ元」の東中野修道氏ですら行っていません。小林氏はどうしてここまで妄想をふくらましてしまうのか、理解できないところではあります。
 

(2008.9.17記)


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