| 山本武『一兵士の従軍記録』より |
「なぜ「証言」しないのか ―「加害証言」を拒む土壌―」で触れた通り、現代の日本では、「加害証言」が大変世に出にくい環境にあります。 そんな中にあって、「加害証言」を率直に語った山本武『一兵士の従軍記録』は、貴重なものでしょう。 かつてテレビ放送で取り上げられたことにより有名になりましたが、この本は国会図書館のデータベースでもヒットせず、現在では入手困難なものになっています。 以下、その内容を紹介していきます。 山本氏は、歩兵第三十六連隊第五中隊伍長(のち軍曹)として、上海戦、南京戦、徐州戦などに従軍しました。氏は戦場で詳細な陣中日記をつけており、それを元に、手記を書き下しました。 ※本書の記述のベースになった「陣中日記」は、「福井大学教育学部紀要」(1996年)で見ることができます。 氏は自らの執筆動機についてこのように語っています。
ごく普通の一兵士が、素朴に自分の体験を綴った記録、と見ることができるでしょう。 歩兵第三十六聯隊史の編纂に携わった坂武徳・第十一中隊長も、本書の「序」に、「これは誠に貴重な一大記録であり、聯隊史の資料としても誠に得難い極めて価値の高いものである」(P4)との評価を寄せています。 ※ネットでは、この種の記録を見ると、条件反射的に「どうせ洗脳されたんだろう」的な心ない発言をする方を見かけますので、念のため。 氏は1984年4月に死去しましたが、その後この手記は、遺族の手により、1985年、『一兵士の従軍記録』と題して出版されました。2000年にはNHKのテレビ番組「太平洋戦争と日本人」シリーズでも取り上げられました。 ※この本は専門家の間では比較的よく知られており、山川出版社『福井県の百年』(2000年2月)は、「山本武の戦跡」と題する章を設けて、十数ページにわたり本書と『陣中日記』の内容を紹介しています。また、吉見義明『草の根のファシズム』(1987年)にも、山本武の体験談が登場します。 まずは「捕虜殺害」の記録です。1937年11月には、2件の「捕虜殺害」事例が登場します。
「やっと殺すことができ、見ていたわれわれもホッとする」「あまりの鮮かさに、一同が拍手かっさいする」 ― 秦郁彦氏は『南京事件』の中で、上海戦当時、「すでに捕虜殺害は当然という気分が全軍に行きわたっていた」(P68)と書いていますが、山本氏も例外ではありえなかったようです。 南京を目前とした十二月十一日にも、「捕虜殺害」の記述が見られます。最初の二例では氏は見ているだけでしたが、今回は「自ら手を下す」ことになります。
山本氏は「後味が悪いどころか、かえって気持ちがよく」感じていたようですが、この「捕虜殺害」は、国際法上は明らかに「アウト」の事例です。 氏も戦後にはそのことを認識して、このように文を続けています。
南京占領直前にも、「捕虜殺害」事件が発生しています。
ただしこれらは、いずれも規模の小さい「虐殺事件」です。 山本氏が所属する歩兵三十六連隊については、「南京戦」で大規模な虐殺に関与した記録はありません。 「自信をもって答えられることは、私自身それに手を染めなかったばかりでなく、現場を目撃したこともない」と発言している元兵士もいます。 ※「郷土部隊戦史に見る「南京事件」」参照。ただしこの兵士にしても、後日他部隊の兵士から「南京虐殺」の体験談を聞いていたようです) それでも、「大虐殺」の噂は漏れ伝わっていたようです。
「第六師団」は「第十六師団」の誤りと見られます。また細かい内容も、実態通りとは言えず、やや不正確です。 しかし氏が「下関における虐殺」を認識していたことは注目されます。現場兵士が「大虐殺」を全く知らなかったわけではない、という一つの資料でしょう。 稲木信夫氏の解説です。
さて、氏の部隊は12月24日に南京を離れ、東に向かいます。『従軍記録』の元となった『陣中日記』には、「便衣隊員らしい者一名」を「惨殺」した、という記録が出てきます(『従軍記録』ではカットされているようです)。
続いて翌1938年1月の事件です。
要するに、中隊の兵士が民間人を「スパイ」と誤認して殺してしまった、という事件です。 部隊はこの事件を隠蔽し、「うやむやのうちにすん」だことを「喜びあっ」ています。とんでもないことをしてしまった、という感覚はなかったようです。 氏の部隊は、1938年5月の「徐州戦」に参加します。部隊は、「一般住民に化けた中国兵」を強く警戒していたようです。
「区別し難いから、見つけ次第殺してしまえ」とは何とも乱暴な「命令」ですが、この「命令」は結局翌日には実行されてしまうことになりました。
国際法上、このような場合の正しい扱いは、「容疑者を裁判にかけ、「ゲリラ」と確認できた者のみを「罪状」に応じて処罰する」というものですが、もちろん現場兵士にはそのような発想はありません。 「怪しければみんな殺してしまえ」という乱暴な発想がまかり通っていたようです。 この時の殺害対象はまだ「一般男子住民」にとどまっていましたが、五月二十日には「女」「子供」を含む民間人殺害事件にまでエスカレートしてしまいました。
この事件の記述はオリジナルの「陣中日記」のみに見られ、『一兵士の従軍記録』ではカットされています。 おそらく山本氏にとっても、これは「子供や孫」に伝えたくない痛恨の「事件」だったのでしょう。「編集あとがき」で、稲木氏は次のように解説しています。
さらに『陣中日記』には、こんな記述が続いています(『一兵士の従軍記録』にはなし)。
「捕へ」た「敗残兵」なのですから、これは通常「捕虜」と理解されるところです。それを、「火を付けて苦しめ」、「惨酷すぎる程な殺し方」で殺してしまっています。山本氏ら当時の兵士にとっては、捕虜を殺すことは「戦闘行為」の一環だったのでしょう。 しかしさすがに、「戦闘行為」を離れた、明らかな「軍紀違反」行為に対しては、氏は強い憤りを示していることは付け加えておきます。
「皇軍軍人にあるまじき行動」が、かなり一般化していたことが伺えます。 「記録」には、「毒ガス」使用の記録も登場します。
ここで使用されたのは、「きい」よりは毒性が弱いとされる、「あか」(くしゃみ性、または嘔吐性ガス)です。 国際法上、「あか」の使用が合法であったかどうかには争いがあり、当時の日本政府は「合法」との見解でした。 しかし「事実」として、以下の2点は指摘しておきます。 1.日本政府は、少なくとも1932年までは、「あか」どころか、もっと毒性の弱い「みどり」(催涙性ガス)までも、国際法上違法なものであるとの見解を持っていた。 2.その後日本は「合法」論に転じたが、「合法」論を世界に向けて積極的に主張することはできなかった。また、本当に「合法」であるならば「あか」使用の事実を積極的に宣伝しても問題はないはずだが、国際世論の反発を恐れて、日本は「あか」使用の事実を最後まで隠匿し続けようとした。 (このあたりの議論の詳細は、「毒ガス戦�掘 屬△�」は「合法」か」をご覧ください) 日本軍による「放火」の記述もあります。
「お茶」を持って日本軍を「歓迎」しようとした中国人の部落を焼き払っていたわけです。中国人側にとっては、たまったものではなかったでしょう。 余談ですが、本書では、中国側のこんな「抵抗」ぶりが紹介されています。
現代の「たんぼアート」を想起させられますが、苗が伸びるまで誰も気がつかないという何とものんびりした「抵抗運動」です。日本軍の「警備地域の真ん中」で、中国軍もしくは中国軍シンパの存在をアピールするという目的は果したようです。 さて最初に記した通り、この書の元になったのは、氏が戦場から持ち帰った詳細な「日記」です。このような内容であってみれば通常は検閲で没収されてしまうところですが、無事に「持ち帰り」できた裏には、こんなエピソードが記されています。
この「上等兵」の粋な計らいがなかったら、本書が日の目を見ることはなかったでしょう。< |