山本武『一兵士の従軍記録』より


 「なぜ「証言」しないのか ―「加害証言」を拒む土壌―」で触れた通り、現代の日本では、「加害証言」が大変世に出にくい環境にあります。

 そんな中にあって、「加害証言」を率直に語った山本武『一兵士の従軍記録』は、貴重なものでしょう。かつてテレビ放送で取り上げられたことにより有名になりましたが、この本は国会図書館のデータベースでもヒットせず、現在では入手困難なものになっています。

 以下、その内容を紹介していきます。




 山本氏は、歩兵第三十六連隊第五中隊伍長(のち軍曹)として、上海戦、南京戦、徐州戦などに従軍しました。氏は戦場で詳細な陣中日記をつけており、それを元に、手記を書き下しました。
※本書の記述のベースになった「陣中日記」は、「福井大学教育学部紀要」(1996年)で見ることができます。

 氏は自らの執筆動機についてこのように語っています。


山本武『一兵士の従軍記録』

 近年健康も完全でなく、年齢も古希に近くなりましたので、冬期農閑を利用して日記を基にして一兵卒としての戦争体験を全罫紙四百枚程に纏めてみました。これは私の子供や孫達に読ませるつもりで記したもので、 勿論印刷刊行する気はなく、 出来れば息子に頼んで数部だけコピーしてみようかと考えています。若し余分にコピー出来ましたら御高覧の機会があるかも判りません。何卒よろしくお願い致します。(P289)

(山本武より坂武徳(第十一中隊長)への手紙(1980.9.11))


山本武『一兵士の従軍記録』

 平和と繁栄の現代社会、再び我々が辿った様な戦争の惨禍を繰り返してはならない。然し当時国難に立ち向かった我々の一身を顧みず身命を捧げて君国のため尽してきた崇高な精神と行動は大いなる誇りとして子や孫に語り伝えておかねばならぬと感じている現在です。(P301)

(山本武より坂武徳(第十一中隊長)への手紙(1984.1.16))


 ごく普通の一兵士が、素朴に自分の体験を綴った記録、と見ることができるでしょう。

 歩兵第三十六聯隊史の編纂に携わった坂武徳・第十一中隊長も、本書の「序」に、「これは誠に貴重な一大記録であり、聯隊史の資料としても誠に得難い極めて価値の高いものである」(P4)との評価を寄せています。
※ネットでは、この種の記録を見ると、条件反射的に「どうせ洗脳されたんだろう」的な心ない発言をする方を見かけますので、念のため。

 氏は1984年4月に死去しましたが、その後この手記は、遺族の手により、1985年、『一兵士の従軍記録』と題して出版されました。2000年にはNHKのテレビ番組「太平洋戦争と日本人」シリーズでも取り上げられました。
※この本は専門家の間では比較的よく知られており、山川出版社『福井県の百年』(2000年2月)では、「山本武の戦跡」と題する章を設けて、十数ページにわたり本書と『陣中日記』の内容を紹介しています。また、吉見義明『草の根のファシズム』(1987年)にも、山本武の体験談が登場します。




 まずは「捕虜殺害」の記録です。1937年11月には、2件の「捕虜殺害」事例が登場します。

山本武『一兵士の従軍記録』

 十一月二日、夜半、中国軍正規兵一名を捕えた。

 朝、小隊長伊藤少尉が、軍刀の試し切りをすると斬首する。竹藪の中に連れて行き、白刃一閃ひらめき、敵の首は斬り落ちるかと見ていたのに、手許が狂ったのか腕がまずいのか、気遅れがしたのか、刀は敵兵の頭に当たり、倒れて血が出ただけで首は飛ばない。(P66-P67)

 あわてた少尉殿は、刀を振るってめった打ちに首を叩いた。首は落ちないがやっと殺すことができ、見ていたわれわれもホッとする。(P67)


山本武『一兵士の従軍記録』

 十一月十三日、雨の中を行軍開始、黄渡鎮に向かう。途中から雨があがり、一発の砲声も聞こえぬ。部落から部落へ、一列縦隊で歩く。午後三時前、黄渡鎮に到着する。

 黄渡鎮では、舟艇で対岸に渡り昆山方面に向かうとか、たくさんの将兵が渡河地帯で待機するうち捕えた中国兵を、試し斬りするとかで河岸に連れて来る

 命令は大隊長か中隊長(六中隊長)かわからぬが、第六中隊の脇本少尉が指名され、 衆人見守る中で軍刀を抜きはなち、一呼吸の後サッと切り下ろす。首は体を離れて前に飛び、体はあおむけにのけぞった。あまりの鮮かさに、一同が拍手かっさいする

 脇本少尉は隊長からも賞められ、面目をはどこしたが、哀れなのは中国兵捕えられた以上は死は覚悟しただろうが、まさか見せ物にされるとは思いもかけぬことであろう。(P79)

 「やっと殺すことができ、見ていたわれわれもホッとする」「あまりの鮮かさに、一同が拍手かっさいする」 ― 秦郁彦氏は『南京事件』の中で、上海戦当時、「すでに捕虜殺害は当然という気分が全軍に行きわたっていた」(P68)と書いていますが、山本氏も例外ではありえなかったようです。



 南京を目前とした十二月十一日にも、「捕虜殺害」の記述が見られます。最初の二例では氏は見ているだけでしたが、今回は「自ら手を下す」ことになります。

山本武『一兵士の従軍記録』


十二月十一日
、朝早く、砂原君の遺体を、道路前の畑で薪を集めて火葬にする。前方や右方の敵の火器は依然劣えず、くわえて敵の十五榴、追撃砲弾が絶え間なく飛来する。飛行場には友軍の十センチ加農砲が進出、敵陣を砲撃しはじめ、天地を揺がすようだ。)

 正午頃、一昨夜掃討した司令部後方の一軒家が怪しいとの情報があり、ふたたび掃討に行ったところ、地下室に八名の敵兵が武装した姿で集まっており、われわれの姿を見、銃剣をむけられるや、「曖」と言いなからなんら抵抗せず、両手をあげて降伏する。縄で数珠繋ぎにして、連れ帰る。言葉は通じないが、片言の中国語と手振りで調べてみると、この兵たちが一昨夜田中分隊長らを狙撃したやつとわかる。(中国兵としてはまことに勇敢なる軍人?)(P96-P97)

 第二分隊の者も来て相談の結果、ただちに殺すことを決め、田中や砂原の墓標の前に連れて行き、刺殺する。老兵たちは、人殺しはと尻込みするし、あまり無理に命ずるのも可愛そうなので、結局私と土本が主になって死刑執行する。 やれやれ、これで田中松男や砂原善作の霊も、仇を討ち取ってもらって喜んでくれているだろうと、胸がスーとして気持ちがよい。

 夕食の時、みんなに話した。「おれは元来きわめて内気な、恥ずかしがり屋で小心者だ。子どもの時から蛙や蛇一匹も殺すことはしなかった。 戦争とはいいながら、直接人を殺すなどとは想像もしなかった。 それがまことに平気にできるし、これで亡き戦友も浮かぱれるに違いないと思うと、後味が悪いどころか、かえって気持ちがよく、飯もおいしくいただけるんだから、戦争とはどんな者をも悪魔にしてしまうもんだナ。」と。(P97)


 山本氏は「後味が悪いどころか、かえって気持ちがよく」感じていたようですが、この「捕虜殺害」は、国際法上は明らかに「アウト」の事例です。

 氏も戦後にはそのことを認識して、このように文を続けています。

山本武『一兵士の従軍記録』


 中国兵を殺すことは、敵であっても捕虜は捕虜取扱いの国際法があり、不可であることは、教育を受けた兵ならばみんな承知していることである。

 しかし現実には、自分たちの食事も足りなくて困っており、また、 かれらを本部へ連行しても、結局は試し斬りとか、戦争のみやげ話にしたいなどの好奇心から殺してしまうのが当然となっていた。

 とくに後方の非戦斗員の兵(将校をふくむ。)ほど、無尽な殺傷、破壊、火つけなどの非行を平然と行なうのが実情であった。

(P97)



 南京占領直前にも、「捕虜殺害」事件が発生しています。

山本武『一兵士の従軍記録』

 (十二月十二日)午後、第六中隊の兵隊が、飛行場附近にて捕虜にした敵兵三十名を前の畑に連行し、全員殺して、穴を堀り埋める。 残酷と思っていたら、われわれ中隊も飛行場方面の残敵掃討に行き、二十六名の敵兵を捕えて来て、これは後続部隊の砲兵や輜重隊に分配して、処置を委す。

 当然かれらの試し新りにされたものと思う。なんと言っても、戦争とは互いの殺し合い、この世の地獄とはどこにもなく、ここ戦場こそが地獄の修羅場であることを痛感する。(P98)

※「ゆう」注 南京では城内東部にあった「飛行場」がよく知られていますが、これは南京占領以前の事件であり、この「飛行場」は城外のものと思われます。



 ただしこれらは、いずれも規模の小さい「虐殺事件」です。

 山本氏が所属する歩兵三十六連隊については、「南京戦」で大規模な虐殺に関与した記録はありません。 「自信をもって答えられることは、私自身それに手を染めなかったばかりでなく、現場を目撃したこともない」と発言している元兵士もいます。

「郷土部隊戦史に見る「南京事件」」参照。ただしこの兵士にしても、後日他部隊の兵士から「南京虐殺」の体験談を聞いていたようです)


 それでも、「大虐殺」の噂は漏れ伝わっていたようです。

山本武『一兵士の従軍記録』

 十二月十九日になって、半月余りも勤めた、旅団長閣下警護の直括部隊の任を解かれ、やっと懐しの中隊に復帰する。みんなが喜んで迎えて下さったが、与えられた部屋は三階の屋根裏みたいな、ごみごみした所であり、うんざりする。

 午後、友達と南京の市内見物に出かけたが、かなり立派な洋館建ての建物は目立つけれど、市民はほとんど逃げて、索漠とした感じである。やはり人びとが働き、商いをやり、工場が活動しておらねば、砂漠を見るに等しい。市政府まで行ったが、国民政府は遠いし、行くのはやめにする。

 なお、この朝風聞するところによると、こんどの南京攻略戦で、杭州湾に上陸した第六師団(熊本)が、南京の下関において、敵軍が対岸の浦口や蕪湖方向に退却せんと揚子江岸部に集まった数万の兵達を、機銃掃射、砲撃、あるいは戦車、装甲車などによって大虐殺を行ない、 白旗を掲げ降伏した者を皆殺しにしたというので、軍司令官松井大将が「皇軍にあるまじき行為」として叱り、ただちに死体を処理せよとの厳命を下し、毎日六師団が死体を焼却するやら、舟で揚子江上に運び捨てているなど、現場はじつに惨たんたる情況である、という。

 物好きにも、わざわざ遠く下関まで見物に出かけた馬鹿者がいるらしい。なお戦後、極東軍事裁判で、松井大将が絞首刑に処せられたのはこの南京虐殺の責任を問われたものと聞き、まことにお気の毒に感じた。(P103)

 「第六師団」は「第十六師団」の誤りと見られます。また細かい内容も、実態通りとは言えず、やや不正確です。

 しかし氏が「下関における虐殺」を認識していたことは注目されます。現場兵士が「大虐殺」を全く知らなかったわけではない、という一つの資料でしょう。

 稲木信夫氏の解説です。

山本武『一兵士の従軍記録』

編集あとがき 稲木信夫

 たとえば、首都南京での日本軍による虐殺事件のことがある。

 氏の分隊はこの時城外にあって予備隊の配置にあり、直接戦斗に参加せず、いわゆる光華門の「一番乗り」にも参加していない。当然のことながら、「記録」に大虐殺の記事はない。

 しかし、南京で虐殺そのものはあった。「数万の中国兵が揚子江岸で虐殺された」と「記録」にある。風聞のことながら、ここから相当数の虐殺をうかがわせるものがあり、「三十万の虐殺」の事実の真偽が問題となっている折りから、注目される。

 しかも、これは手帖にはまったく書かれていない記事で、氏の胸中にのみあったのである。(P312)

※「ゆう」注 実際には日本側には「三十万の虐殺」を主張している論客はいませんので、氏の「「三十万の虐殺」の事実の真偽が問題となっている折りから」という記述にはやや違和感を感じます。
 




 さて、氏の部隊は12月24日に南京を離れ、東に向かいます。『従軍記録』の元となった『陣中日記』には、「便衣隊員らしい者一名」を「惨殺」した、という記録が出てきます(『従軍記録』ではカットされているようです)。

『山本武の「陣中日記」』上

十二月二十九日

 昨夜来の雪は約二寸積る。午前七時二十分整列にて、八時より鉄路伝ひに、常州に向ふ。大平達は舟にて行く。雪道にて極めて道悪し。約五里前進して一小町に泊る。

 午後七時頃、便衣隊員らしい者一名連れ来り、土本等と共に惨殺す。大根のお菜おいしかった。(P38)

(隼田嘉彦『山本武の「陣中日記」上』=福井大学教育学部紀要 第51号(1996年)収録)


 続いて翌1938年1月の事件です。

山本武『一兵士の従軍記録』

 その一。一月末、浮橋鎮方面に有力な敵出没との情報で、わが五中隊から二個小隊が討伐に参加したが、敵と遭遇することもなく、三日後無事に帰隊した。(P112)

 ところがそれから数日後、上海より二人の憲兵隊が来て、

 「上海の某商社が、社員に命じ、得意先へ、諸物資をジャンク(船)に積んで配達に行かせたが、浮橋鎮の町で行方不明になってしまった。 噂によると、貴中隊がその頃残敵討伐に行っておられ、浮橋鎮に泊っておられた事がわかった。が、その際不逞な中国人ら数名を処刑したと町の者が噂していて、その中にその社員が含まれているらしいから調べてくれとの商社の社長からの依頼でお訪ねした。」

という話。

 討伐隊長海道少尉は、そんな無辜の住民を殺害したことはないと説明して、憲兵を帰らせたが、なお詳細を調査すると言って引き取った由。海道少尉は早速私の所へ来て、

「じつは中隊長にも報告してないんだが、あの折、クリークにある船を全部取り調べたところ、或る一艘の荷物の中に抗日新聞がたくさん隠されていて、舟主をただしたが、彼は日本人で○○商社の社員だと頑張った。 だが、実際は朝鮮人であるから、中国軍と連絡のあるスパイであると断定し、みんなが殺ってしまえと言うので、殺して埋めてしまった。 ついては兵十名ぐらい連れて行き、死骸を堀り出して、どこかへ運び埋めるなどして証拠をなくしてしまおうと思うから、夜になって気の毒だが、おまえもいっしょに来て応援してくれ。」とのこと。

 早速兵十名を連れ、小隊長と私は中国人の一輪車に乗り、三里の道をギィーコギィーコと一輪車のきしむ音を聞きながら浮橋鎮に着き、自治委員会長には小隊長からしかるべき手みやげを渡して一般民の口封じを頼み、兵隊はその朝鮮人の死体を堀り出して、帰り途で田の隅に埋めて帰った。

 後に憲兵隊が現地調査をしたかせぬかは知らぬが、それで何事もなくすんだのはほんとによかったと胸をなでおろした。当時の朝鮮人は、完全に日本人として処遇しており、殺害事件が表ざたになると、かなりうるさい問題化するのではないかと案じたのに、うやむやのうちにすんで、小隊長とともにホッとして、喜びあったのである
(P113)

 要するに、中隊の兵士が民間人を「スパイ」と誤認して殺してしまった、という事件です。

 部隊はこの事件を隠蔽し、「うやむやのうちにすん」だことを「喜びあっ」ています。とんでもないことをしてしまった、という感覚はなかったようです。




 氏の部隊は、1938年5月の「徐州戦」に参加します。部隊は、「一般住民に化けた中国兵」を強く警戒していたようです。

山本武『一兵士の従軍記録』

(五月十五日)わが軍は約一個大隊を反転して遜奸城を奪取するため急派した由、この附近の土民(一般住民)は良民のような姿をしているが、家の中には銃を隠しており、手榴弾もあり、少しも油断できぬ者が多いから、よくよく注意するようにとも伝えられる。

 また、参謀長命令とか、一般住民も土匪も中国兵も区別し難いから、見つけ次第殺してしまえなどとも伝わってくる。

(P139)



 「区別し難いから、見つけ次第殺してしまえ」とは何とも乱暴な「命令」ですが、この「命令」は結局翌日には実行されてしまうことになりました。

山本武『一兵士の従軍記録』

 十六日の彿暁頃、わが司令部の左後方より猛烈な射撃とともに敵襲があり、司令部の乗馬姿の偉い人たちには驚き慌てて馬を放ったらかしにして逃げ出した者もあり、一時は大混乱に陥ったが、わが隊は直接警戒部隊なので直ちに応戦、まもなく敵は退散した。

 きょうは、連日の炎暑に加えて乾いた南風が強く、目も口も鼻も開けられぬくらい大変なほこりの中を進む。 やがて四方は山ばかりの地形となり、夕方河挂という部落に着く。久しぶりに雨が降りだす。部落内の掃討を行ない、一般男子住民多数を捕えてくる。 家の中に三十年式日本の歩兵銃があったと持ってくる者があり、手榴弾を発見した者もあり、やはり参謀長命令の通りかナーと思う。

 全部殺してしまえとの隊長命令とか、補充兵の刺突訓練を兼ねて十数名を死刑執行する。兵隊の姿ならば別にどうとも思わぬが、一般住民を殺したのはなんとも不憐であり、後味の悪いものである。

 指名された補充兵にはブルブル震えている者もあり、殺される者も殺す者もまことにかわいそうであり、気の毒に思う。たびたび思うことながら、なんと戦争とは無慈悲で惨酷なことであろうか。地獄とはどこでもない、ここ戦場こそ地獄にまちがいない。(P140)



 国際法上、このような場合の正しい扱いは、「容疑者を裁判にかけ、「ゲリラ」と確認できた者のみを「罪状」に応じて処罰する」というものですが、もちろん現場兵士にはそのような発想はありません。 「怪しければみんな殺してしまえ」という乱暴な発想がまかり通っていたようです。


 この時の殺害対象はまだ「一般男子住民」にとどまっていましたが、五月二十日には「女」「子供」を含む民間人殺害事件にまでエスカレートしてしまいました。

『山本武の「陣中日記」』中

五月二十日

 午前八時頃僅か三時間の睡眠にて出発、山を越えて当方に向ふ。

 途中部落を焼き、敵の拠点となるを防ぐ。さらに中隊長命により、良民と言へども、女も子供も片端から突き殺す。惨酷の極みなり。

 一度に五十人、六十人、可愛いゝ娘、無邪気な子供、泣き叫び手を合せる。此んなに無惨なやり方は始めてだ。


 あゝ戦争はいやだ。支那兵ならいざ知らず、罪ない婦女子を殺す。全く見るに忍びず。

 此んな事をやり乍ら約六里前進、午後五時頃津浦線に出る。(P27)

(隼田嘉彦『山本武の「陣中日記」中』=福井大学教育学部紀要 第52号(1996.12)収録)

 この事件の記述はオリジナルの「陣中日記」のみに見られ、『一兵士の従軍記録』ではカットされています。

 おそらく山本氏にとっても、これは「子供や孫」に伝えたくない痛恨の「事件」だったのでしょう。「編集あとがき」で、稲木氏は次のように解説しています。

山本武『一兵士の従軍記録』

編集あとがき 稲木信夫

 中国兵捕虜の殺害の記事は他にもいくつかある。殺すか殺されるかの戦場にあっては、捕虜にたいする扱いはやはり残虐をきわめ、虫の息となったところをさらに火で焼く。そういう行為に人間としての呵責は何もない。

 しかし相手が一般市民、村人となるとちかう。殺りくの記事はいくらかあるが、手帖にあって「記録」には書かなかったものがある。惨虐さのゆえに書けなかったといえるかもしれない。

昭和十三年五月二十日、徐州戦のさなか、ある村落で、火をつけ、「命令により良民と言えども女も子供も片端から突き殺す。 惨酷の極みなり。一度に五十人六十人、可愛いい娘、無邪気な小供、泣き叫び手を合せる。此んなに無惨なやり方は生れて始めてだ。ああ戦争はいやだ。・・・」

とある。氏が「記録」に書かなかったことをあえてあきらかにするが、氏が書けなかった思いの複雑さをおしはかり、戦争を記録した氏の心の痛みをあらためてしのぶ。(P312)


 さらに『陣中日記』には、こんな記述が続いています(『一兵士の従軍記録』にはなし)。

『山本武の「陣中日記」』中

(五月二十日)

 楡所に至り次の戦を準備す。田中伍長以下八名の斥候、敗残兵を捕へ来る。此れこそはうんと徹底的にやっつけるべきと、むしろ惨酷すぎる程な殺し方をしてやる。川去の牧野君も来て、火を付けて苦しめてやる。胸がすくやうだ

(隼田嘉彦『山本武の「陣中日記」中』=福井大学教育学部紀要 第52号(1996.12)収録)

 「捕へ」た「敗残兵」なのですから、これは通常「捕虜」と理解されるところです。それを、「火を付けて苦しめ」、「惨酷すぎる程な殺し方」で殺してしまっています。山本氏ら当時の兵士にとっては、捕虜を殺すことは「戦闘行為」の一環だったのでしょう。


 しかしさすがに、「戦闘行為」を離れた、明らかな「軍紀違反」行為に対しては、氏は強い憤りを示していることは付け加えておきます。

山本武『一兵士の従軍記録』

 討伐戦?はさらに(六月)二十三日から二十六日まで続行されたが、なんら見るべき戦果はなく、かえって、行く町々で目ぼしい金品を強奪して来たり、姑娘を強姦したり、良民を殺害したり、皇軍軍人にあるまじき行動をして、それを得々と自慢している のを見て、なんと情ない兵隊かと残念でしかたがない。しかもそれが下士官であったり、指揮班の幹部であるのを知り、噴激する。(P149)

 「皇軍軍人にあるまじき行動」が、かなり一般化していたことが伺えます。



 「記録」には、「毒ガス」使用の記録も登場します。

山本武『一兵士の従軍記録』

 五月十八日、第一線参加張二庄攻撃に出発する。朝のうちはものすごい風があり、ほこりに閉口する。

 張二庄は昨日来第七中隊を主力としたわが大隊が猛攻中だが、成功せず、わか中隊は増援隊として第一線に進出、 急造の松明をもって風上より火をつけ、部落を焼き討ちするとともに、赤筒(毒ガスの一種)をiA隊が射ち込み、これに相呼応して敵を一蹴せんとする作戦とのこと。

 各兵は銃と柳の枝などにポロ布を付け石油を浸した松明を用意して、麦畑を匍匐前進して敵陣に迫る。第七中隊が昨日来苦戦するだけあって、物凄い敵の銃砲火で、なかなか進むことができない。(P140)

 私の右隣に一分隊の古川一等兵が伏せて、「ナムアミダプツナムナムアミダブツ」と唱えながら、乳熟程度の麦の皮をむいて食べているのを見て、うんざりする。 腹が滅っているのであろう。仏様にお祈りする気持ちはわかるが、法華の信者の私には、なんとなく「ナムアミダブツ」は気が滅入って、いやな感じがする。

 しばらく進むうち、古川が右腕貫通でやられた。かねいそうに、あんなに突撃前まで祈っていたのに、まあ死ななくてよかった。 仏様のお加護かななどとつまらぬ事を思っていると、最右翼第二小隊の一部が七中隊と協力して一角に取りつき、屋根に放火する。折からの南西の暴風にあおられて、黒煙がもうもうと部落を覆う。

 砲兵は赤筒を集中射撃開始
、機銃の掩護射撃は一段と力強く、猛射を浴びせて、やがて信号弾を合図に全線いっせいに突撃を敢行し、敵陣を奪取する。 七中隊方面にては一部手榴弾戦を演じ、彼我混戦状態になったとのことながら、わが隊正面の敵はいっせいに退却した。敵の死骸が多数あり、あるいはわが毒ガスに倒れたのではないかとも思われる。

 この張二庄攻撃は張八営いらいの最大激戦にして、敵の砲火の激しさは言語に絶する状態であったが、最終の突撃時における抵抗と逆襲などがなかったのは、やはり焼き討ちもさることながら、毒ガスによって敵がいたたまれない状態にたちいたったためではないかと思われる。

 赤筒とはどんな種類の毒ガスかはわからないが、かなり強力なガス弾であるには違いない。わが軍がガス弾を使用するとは思いもよらぬことで、つねに携帯している防毒面は敵の毒ガス戦に対する準備であって、わが軍の使用時の準備とは思いがけぬこと。 しかしわが犠牲を少なくするためにはやむをえぬ作戦であろう。午後七時頃には部落内の掃討戦も完了し、部落を確保し露営する。(P141)

 ここで使用されたのは、「きい」よりは毒性が弱いとされる、「あか」(くしゃみ性、または嘔吐性ガス)です。

 国際法上、「あか」の使用が合法であったかどうかには争いがあり、当時の日本政府は「合法」との見解でした。

 しかし「事実」として、以下の2点は指摘しておきます。

1.日本政府は、少なくとも1932年までは、「あか」どころか、もっと毒性の弱い「みどり」(催涙性ガス)までも、国際法上違法なものであるとの見解を持っていた。

2.その後日本は「合法」論に転じたが、「合法」論を世界に向けて積極的に主張することはできなかった。また、本当に「合法」であるならば「あか」使用の事実を積極的に宣伝しても問題はないはずだが、国際世論の反発を恐れて、日本は「あか」使用の事実を最後まで隠匿し続けようとした。

(このあたりの議論の詳細は、「毒ガス戦掘 屬△」は「合法」か」をご覧ください)



 日本軍による「放火」の記述もあります。


山本武『一兵士の従軍記録』

 翌日(五月十九日)大庄攻撃を敢行するというので、また張二庄みたいかとはりきるやら不安やらしていたところ、早朝斥候の偵察の結果、敵は陣地を放棄して一兵もおらぬとの情報にて、 やれやれ、めざす徐州はきょう、あす中に陥落し、皇軍の入城は確実らしいのに、今頃になって、一兵たりとも死んだり怪俄させてはならぬとそれのみ祈っているから、なんとか敵に遭いたくないのが心底の希いである。

 大庄に来てみて、わが陣地の堅固さに一驚し、いまさらながらわれらの運の良さに感謝する。

 つぎに小張庄にはかなりの敵軍ありとの斥候報告にもとづき、戦斗準備を整え、わが中隊は左第一線、わが第一小隊は中隊の右第一線となり、攻撃を開始する。今まで相当熾烈なる敵弾が釆たのバッタリ止り、気味悪く、MGの掩護を受けつつ慎重に敵陣に近づくと、敵は全部退却のした後で、午後六時まったく無血で占領する。

 つづいて追撃命令が出て、部落の前のずいぶん大きな河を渡り、山あいを縫うようにして前進、夜半に一部落に到着、夜を徹して驚戒態勢、うとうとと仮眠、つづいて前進、わが小隊は尖兵隊となり、中隊の前方三百メートルほどを前進する。(P141-P142)

 付近の支那人が手ににわか作りの日の丸旗を持ち、「茶水進上茶水進上」と言いつつ、変なお茶を持って出迎えてくれる。聞けばほんとのお茶でなく、柳の芽で作ったお茶らしく、余りおいしくはないが飲めぬようなことはない。

 しかしかわいそうに、後続部隊がかれらの部落を片っ端から火をつけて燃やしており、どの村も炎々と黒煙をあげて火災を起こしている

 聞けば、中国兵の拠点となるのを防ぐためとか、変な事を考える。指揮官か参謀かわからぬが、こんな田舎の部落の十や二十燃やしてもなんら大勢には影響ないのではないかと疑問に思うが、われわれ尖兵にはべつに命令が伝わらないので無視しつつ前進する。(P142)

 「お茶」を持って日本軍を「歓迎」しようとした中国人の部落を焼き払っていたわけです。中国人側にとっては、たまったものではなかったでしょう。



 余談ですが、本書では、中国側のこんな「抵抗」ぶりが紹介されています。

山本武『一兵士の従軍記録』

 (1939年5月)ある日、路口舗への連絡分隊を命ぜられ、三里の道を往復したが、田圃の中に苗代があり、その隣に変な苗代があると思ってよく見ると、 苗でもって「到底抗戦」と大きく書き表われているではないか。おそらく、田に種籾で文字の形に落とし、それが芽が出て、だんだんはっきりと現われてきたものにちがいない。

 一見平和に見える農村、わが軍に従順な態度をしているわが警備地域の真ん中で、心底ではあくまで徹底的に抗戦するぞというかれらの決意かとも思われ、まことに癪にさわる

 早速部落の自治会長を連れてきて取り調べたところ、「われわれは全く知らぬことであり、苗の芽が伸びてきてはじめて知った。」とあくまで否定し、中国兵が勝手に種を蒔いたものだろうと言う。

 いくら調べても、村の者がやったのではないと言いはるので、結局文字を消しておくよう命じて帰ったが、かれらの言うとおり中国軍がやった事なら、常時敵兵がわが足許に出没している証拠で、 まったく油断がならない現状である。(P201)



 現代の「たんぼアート」を想起させられますが、苗が伸びるまで誰も気がつかないという何とものんびりした「抵抗運動」です。日本軍の「警備地域の真ん中」で、中国軍もしくは中国軍シンパの存在をアピールするという目的は果したようです。



 さて最初に記した通り、この書の元になったのは、氏が戦場から持ち帰った詳細な「日記」です。このような内容であってみれば通常は検閲で没収されてしまうところですが、無事に「持ち帰り」できた裏には、こんなエピソードが記されています。


山本武『一兵士の従軍記録』

 さて、私が戦斗中に記した日記帳が、あまりに生々しく戦いの惨状、中国兵の刺殺、戦場の恐怖の心情をかき、そして戦斗詳報、記録もあるので、持ち帰りは許可できない、即ち没収すると言われたのである。(P207-P208)

 私は非常に困惑し、

 「なんとかお許し願えぬか。」

 と頼んだところ、その上等兵は、

 「これだけ刻明に書いたものを没収するのは、自分としてはしのびがたい。いちおう上官の指示を受けてみよう。

 と言って、手帳を持ち去り、少したって、

 「いちおうお返しする。ただし、今後絶対、出版、講演、その他一切公表をしないことを誓約してもらいたい。」

 「承知しました。約束します。」

 ということで、その憲兵上等兵宛の誓約書に官姓名、本籍地、住所氏名を記し、捺印して、返してもらうことができた

 その上等兵の名前を忘れてしまったが、理解あるその措置にいまなお感謝しており、とくに今度、この日記をもとにして私のたどった軍歴を記録するにあたっていっそうその感を深くしている。(P208)


 この「上等兵」の粋な計らいがなかったら、本書が日の目を見ることはなかったでしょう。

(2013.10.27)


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