思考錯誤投稿集 2005年−2006年
『思考錯誤』投稿集 2005年−2006年


 『思考錯誤』投稿集 2008年−2009年

 『思考錯誤』投稿集 2007年



<目次>


[3644]ベイツ教授論文『南京の人口』 - 06/12/10(日) 6:56 -

[3199]何を今さら、長沢連治証言 −盧溝橋事件『正論』記事 - 06/9/3(日) 17:03 -

[3186]必見! K-Kさんvs東中野氏 - 06/8/28(月) 20:52 -

[2894]「被害者の出産ラッシュ?」 その後 - 06/7/16(日) 8:49 -

[2891]第百十四師団の射耗弾薬数 - 06/7/16(日) 7:55 -

[2450]「東京裁判 勝者の裁き」著者、リチャード・マイニア氏インタビュー - 06/5/4(木) 8:01 -

 [1578]「毒ガス」の捨て方―『告白的「航空化学戦」始末記』より - 05/10/26(水) 21:03 -

[812]リンドバーク日記 - 05/8/10(水) 20:24 -

[710]東中野氏「証拠写真を検証する」より、類似事例 - 05/8/2(火) 21:17 -

[304]Re(1):松尾板、復活してら(^^;  - 05/5/13(金) 7:07 -

[285]佐々木野戦郵便局長、ヴォートリン女史と出会う - 05/5/8(日) 13:35 -

[258]もう一つの「転戦実話」 − 「毒ガス戦」資料として - 05/5/1(日) 5:47 -

[241]「幕府山事件」から6か月 第十三師団・「蒙城」での捕虜殺害? - 05/4/24(日) 6:33 -

[149]岐阜県武儀郡板取村 『日中戦争 太平洋戦争 従軍記』 - 05/4/9(土) 5:06 -

[9]文藝春秋社『話』(昭和十三年四月号) - 05/3/19(土) 10:33 -




[3644]ベイツ教授論文『南京の人口』

- 06/12/10(日) 6:56 -


おそらく皆さん、まだご存知ないかと思いますので、こちらで紹介しておきます。

『南京の人口 雇用、所得、消費』と題する論文があります。著者は、あのベイツ教授。中村哲夫氏が上海図書館の蔵書から筆者・影印(コピー?)し、その全文(英文)を自署『日中戦争を読む』(晃洋書房、2006.11.30初版)で紹介しています。

私の英語力は心もとないので、とりあえずは中村氏の解説を頼りに斜め読みしているのですが、内容は、南京の戦前戦後の人口構成(家族、性別、年齢別)を分析したものであるようです。


まず、序文より。中国の「人口調査」の不完全さについてです。(以下、翻訳は中村氏によります)

過去にあっては、この種の数字は、よくある不注意と、官庁の調査にたいしては隠し立てする習慣があるため、たいていは不完全なものとして疑わしいとされてきた。(ゆう注 後の文を見ると、「隠し立て」の理由は、労役・兵役逃れのためであるようです)

そのうえ、幼い子供、特に女の子が報告から省かれている。このような欠陥は、戦争になる以前からずっと続いてきたのであるけれども、現在の統計では、男性がやや多めに報告されているかもしれない。なぜなら、女性より隠される傾向が弱く、証明を得るために自ら進んで登記するからである。また、市部の外側に暮らす男性のうちには、交易や輸送のため市内にはいるのに不自由しないよう、城郭の内部で登記している。そのうえ、短期滞在者の多くは男性であるから、報告結果に影響しているかもしれない。(P168-P169)

戦後人口(1939年1月)について、ベイツ博士はこう分析しています。

(1)この都市から、かつての居住者の半数が減少している。その大部分は、直接あるいは間接に、公的な機構や教育機関に関係し、この都市における経済生活に重要な意味をもち、旧来の財政的、商業的な機関と指導制をあわせもっていた。

(2)現在の人口数には、南京の城内よりもずっと安全性が乏しく、生き延びる希望が少ないと感じている近郊の農村からの放浪者が数万人も含まれている。(P174)


さて、論文には、こんな表が掲載されています。

男女比の推移。1932年115→1938年(スマイス報告)103→1939年(ベイツ調査)93。

年齢層別の男女比推移は、
0-14歳  1932年109→1938年105→1939年102。
15-49歳 1932年124→1938年111→1939年91。
50歳以上 1932年94→1938年85→1939年79。

なかなか興味深く、いろいろな「分析」が可能であると思います。


ただどうも、中村氏の解説は、ちょっと「偏り」があるような気もします。

中村氏は、「徹底的に学術的な厳格さをたもつ研究こそ、隠された真実の扉をあける鍵を握っていることを知る学者」「その分析は学術的な批判に耐えうる」と徹底的に持ち上げておいて、「むしろ、その後の1938年から1939年にかけ、さらに大きな年齢別の男女比の変化があるとみていることがわかる。つまり、占領の直後の「大虐殺」が、男女人口比の構造的な変化を招いたとは論証できないのである」と結論づけます。

「否定される」ではなく「論証できない」ですので言い方は慎重なのですが・・・。


もっとも、氏の「大虐殺」認識は、こんなものです。

ところで、極端な大虐殺論者は、1938年2月の統計から消えた50万人が日本軍に虐殺されたという。通常の虐殺論者は、消えた20万人は国民党政府関係者とその家族とみなし、日本軍占領前に南京から避難していたので、残りの30万人が虐殺されたと宣伝する。(P171)

思わず引っくり返ってしまったのですが、これが氏の「大虐殺」のイメージなのであれば、さすがにちょっと「論証」できそうにありません。中国側の主張だって、「戦死者を含む軍民合計」であったはずです。


だいたい、最初のページからしてこうです。

1937年7月13日からの日本軍の上海攻撃に際し、上海でユダヤ人が被災する。その救済を目的として、国際救済委員会ができる。ユダヤ系の組織である。その南京支部の活動と深く関係する調査研究の成果が本書である。(P165)


どうも世間一般のイメージとは、ちょっとずれているような・・・・。


さて、時間ができましたら、辞書を引き引き、英文の方にもチャレンジしてみることにしましょうか。
*「ゆう」解説 中村氏が上海図書館で発掘したというこの論文、まさか誰も知らないだろうと思ってこちらに投稿したのですが、直後に渡辺久志さんからこんなレスがつきました。

>それって、The Nanking Population という南京国際救済委員会が1939年に刊行した小冊子じゃないでしょうか。それなら、上海まで行かなくてもT大学内の図書館に実物があります。大学関係者以外は事前に予約が必要ですが複写できます。

本職の「学者」をさらに上回る情報収集能力。渡辺久志さんのすごさを、改めて思い知らされました。


まあ上に書いた通り、「資料」自体は一級品なのですが、中村氏の見当違いの「解説」には「?」を付けざるを得ません。




[3199]何を今さら、長沢連治証言 −盧溝橋事件『正論』記事

- 06/9/3(日) 17:03 -


『正論』今月号(2006年10月号)に、『盧溝橋「当事者」が重大証言! 日本軍からの発砲はあり得なかった』という記事が掲載されています。「支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊」の分隊長として事件の現場にいた、長沢氏の証言です。

タイトルだけを見ると(というか、記事本体を見ても)、一般の読者は、長沢氏というのは「事件」の新証言者なのか、と錯覚します。

しかし実際には、長沢氏はあちこちで「事件」について語っている有名な証言者であり、「証言を得た」こと自体に価値があるわけではありません。私のページでも、過去の長沢証言を取り上げています。
http://yu77799.g1.xrea.com/rokoukyou/daiippatu.html


今回の証言の内容は、要するに、「いかに銃弾の管理が厳しかったか」ということに尽きます。従って、「第一発」が日本軍からの発砲である、ということはありえない。日本軍は何の準備もしていなかったから、日本軍があらかじめ「計画」をもって事件の拡大を図っていた、ということもありえない。まあこのあたりは、日本側研究者の概ねの共通見解であり、問題はありません。

(ただし、「第一発」が日本軍からのものでなかったとしても、また日本軍が「事前の計画」に基づいて事件の拡大を図ったものでないとしても、現場は「突発事態」を受けて「事件の拡大」を図る方向に行動していたことは事実です。また「第一発」は、日本軍が「華北分離工作」を積み重ねた挙句の、「過飽和溶液の最後の一滴」だった、と見ることも可能でしょう。詳しくは私のページをどうぞ)

そもそも『正論』は、何でこのような目新しくも何ともない証言者を登場させたのか。要するに、中国側の「日本軍発砲説」に対する反論を、何とかメディアに載せたい。しかしそれには、何か「新材料」が必要である。そのために長沢氏に再登場を願った。おおよそ、そんなところでしょう。

繰り返しますが、長沢氏の証言自体には、問題はありませんし、特に「通説」をくつがえすような材料もありません。しかし、この「聞き書き」を行った江崎道朗氏のコメントには、「証言内容」を離れた、おおい、ちょっと待て、という点が目につきます。

江崎氏はまず、「日本軍が中国大陸にいたことの是非」から話を始めています。当然ながら氏は、条約に基づいた駐留なのだから問題ない、という古典的擁護論の立場をとりますが、「条約」自体が「押し付け」なのであれば、それで問題なし、というわけにはいかないでしょう。このあたりは私のページの「盧溝橋事件 衝突前史」で説明しておりますので省略。
http://yu77799.g1.xrea.com/rokoukyou/zensi.html


さて、問題となるのが、この記述です。
「三回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると」(P65)。

「その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊であるかを確かめるため」。こらこら、ごまかしてはいけません。本当は、こうでした。

「こうした事情で攻撃中止を余儀なくせられて、今後の作戦を黙考中であった大隊長の側には、小岩井、荒田両青年将校がいた。大隊長に対して、「攻撃前進を開始しましょう。前進したら撃つでしょう。撃たれたら撃ちましょう」と進言した。大隊長は、「よし、それだ」即座に同意して、休憩中の部隊に前進準備を命じた。」(寺田浄氏『第一線の見た盧溝橋事件史』P65)
http://yu77799.g1.xrea.com/rokoukyou/shoutotu.html

要するに、「中国軍から先に手を出させるための「挑発前進」」だったわけです。また、氏はもちろん、その前に牟田口連隊長が「攻撃許可」を出していたが偶然の行き違いから「攻撃開始」は延期されていた、という有名な「史実」には触れません。


それに続く文章です。ちょっとニヤニヤさせられました。

「約二時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、八日の午後三時三十分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(宛平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、十一日に日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた」

この文章、見覚えがあるぞ。下の文章と、比べてみてください。

「約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。」

そっくりですよね。下の文、実は、私がWikipediaに書いた「盧溝橋事件」記事の一部です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

今やプロのライターも、ネットの記述を参考にするようになったのですね。まあ、私の文章をそのまま使っていただいた、ということで光栄に思っておきましょう。


氏の文章を続けます。

「しかし、中国側は二十五日に北平東方の廊坊駅付近で、二十六日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに二十九日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(一九三五年十二月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである」

読んでいると、「通州事件」が「日中戦争」の発端となったように錯覚しますが、もちろんそんなことはありません。

事実経過としては、二十八日に日中国両軍の全面衝突が発生、日本軍の移動によって「通州」に軍事的空白が生じ、ここに「通州事件」が発生した、ということになります。まさかこのあたりをご存知ないとも思えませんが、わざと錯覚を誘うように記述を端折ったのでしょうか。

ついでですが、通常は「中国側の冀東防共自治政府」という表現はとらず、「日本が北支分離工作によって成立させた傀儡政権である冀東防共自治政府」というのが一般的な見方であると思います。北支軍閥が「蒋介石政権」の一部であったかどうかも、微妙なところでしょう。


さて、「解説」で氏は、暴走します。

「第一に、当時の中国駐留の日本軍は弾薬の管理が厳しく、たとえ一発でも無断で実弾射撃をできる態勢になかった。このため、たとえ偶発的であったとしても、盧溝橋事件の「最初の一発」が日本軍によるものである可能性はほとんどないということである」

ここまでは結構。しかし、問題はそのあと。

「ちなみに、中国側の反日宣伝を真に受けて、中国大陸にいた日本軍の兵士たちは規律が乱れ、好き勝手に武器を使って中国の民間人を殺害し、民家に押し入って食糧やお金などを略奪し、女性に暴行を働いていたといった印象を持つ人が多いが、それがとんでもない誤解であることも判る」

判るかあ(笑)。

この方には一度、私のサイトをじっくりと読んでいただきたいものです。


さて、最後の方では、おなじみの「中国共産党陰謀説」。例の「中国共産党の通電」がネタになります。このあたりの記述は、慎重に断定を避けた、ストライクゾーンぎりぎり、といったところ。

でもまあ、どうも「タイプ1」と「タイプ2」のを明確に区別して考えている気配がないなど、私のサイトをご覧になった形跡はありません。読んでいただければ、もう少し書きぶりが変わってきたと思うのですが。
http://yu77799.g1.xrea.com/rokoukyou/inbou1.html


総じて言えば、長沢氏の証言自体はまともなものなのですが、肝心の「聞き書き・解説者」江崎氏が明らかに「政治的意図」をもってこの証言を紹介しているものですから、あちこちに「ほころび」が目立ちます。

しかし長沢氏、ご健在であったのですね。大正四年生まれということは、もう90歳ですか。




[3186]必見! K-Kさんvs東中野氏


- 06/8/28(月) 20:52 - 

*「ゆう」解説 2006年8月、ネットを代表する論客であるK−Kさんと、クマさんこと熊谷伸一郎さんが、東中野氏の「公開講座」に「潜入」(笑)しました。そこでお二人は、質疑応答の場で、東中野氏をコテンパンにしてしまった、ということです。

あまりに痛快でしたので、K−Kさんの文章を、「思考錯誤」板に転載してみました。

さて、クマさんのご了解はまだですが、とりあえず(人づてではありますが)K-Kさんのご了解が得られましたので、K-Kさんの分を全文引用しておきます。

なお、見やすくするために、私が勝手に改行を加えています。ご了解ください。

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基礎的な史料を知らない東中野

 七月一五日、亜細亜大学における東中野修道氏の公開講座での質疑応答の模様を紹介したいと思います。

 私の質問の主旨は、H・J・ティンパレー編『戦争とは何か』が国民党の資金によって書かれた宣伝本であったという主張は間違っているのではないか、というものでした。

 東中野氏の見解では、『戦争とは何か』は、第三者的な立場から戦争の被害を訴えるために書かれたものではなく、国民党が資金を提供して書かれた宣伝本であった、ということです。

 今回の講義ではその根拠として、東中野氏が発見した「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概況 一九三八年〜一九四一年四月」を挙げていました。この史料では「本処が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である」としてその一つに『戦争とは何か』が挙げられています(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社、二〇〇六年五月、一九ページ)。

 また、講義では触れられていませんが、『戦争とは何か』が国民党からの資金によって書かれた宣伝本であることの根拠として、同書の英語版と漢訳版が同時に出版されていること、国際宣伝処長であった曽虚白の自伝『曽虚白自伝』において「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版した」という記述があることの二点を指摘しています(東中野、前掲書二〇ページ)。

 ところが、この東中野氏の見解に対しては、井上久士「南京大虐殺と中国国民党国際宣伝処」(『現代歴史学と南京事件』柏書房、二〇〇六年三月)において反論がなされています。井上氏の反論において重要な点は、「中央宣伝部国際宣伝処民国二十七年工作報告」という史料が紹介されていることです。

 この史料では「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」(同書二四九ページ)と書かれています。つまり『戦争とは何か』は、東中野氏が主張するように国際宣伝処から資金提供を受けて書かれたのではなく、すでに書かれていた原稿を国際宣伝処が買い取り、翻訳し出版したということです。もちろん、この報告の記述は『曽虚白自伝』と一致しませんが、同報告は当時書かれた公文書であり、史料的価値が高く、信憑性が高いことは一目瞭然だといえるでしょう。

 私は質疑応答の際、以上のような史料があり反論がなされているということを指摘し、この史料に対する東中野氏の見解を伺いました。

 ところが驚いたことに、東中野氏は、井上氏の反論も「民国二十七年工作報告」も知らないと答えました。私は、やむをえず、その史料を読みあげ、再度見解を伺ったのですが、東中野氏は予備知識がなく、また私の説明にも足りない点があったこともあり、なかなか論点が理解できないようでした。

 その後、いくつかやり取りをへて、東中野氏も論点が理解出来たようでしたので、私は、この史料の存在により見解を修正すべきではないかと問い質しました。

 これに対し東中野氏は、『曽虚白自伝』の記述を根拠として、見解を修正する必要はないと主張しました。もちろん、『曽虚白自伝』と「民国二十七年工作報告」の史料的価値の違いは明白です。その点を指摘すると、東中野氏はその反論が適当ではないと気付いたようです。

 しかし、それでも東中野氏は自身の主張を修正しようとはせず、講義で述べていた「ベイツが不法殺害を五度も否定した」という「事実」をどう思うかと私に質問をした上で、そのことが根拠となるかのような主張しました。これは本来の論点とは関係ないことであり、反論にはなっていないのですが、とりあえず私としても一応反論しようと思った矢先、時間が長すぎるという理由で質疑を打ち切られてしまいました。

 以上のような質疑応答でしたが、まとめると、東中野氏はこの問題に対し意味のある反論は出来なかったと言えると思います。中途半端な質疑で終ってしまいましたが、ある一定の成果は出せたのではないかと思っています。
(文責:事務局員K‐K)

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この後のクマさんの分も、非常に面白いのですけれどね。関心のある方、リンク先をどうぞ。

http://jijitu.gaou.net/wiki/wiki.cgi?page=%BB%CB%B【URL短縮表記:C-BOARD】
(2020.5.19現在 リンク切れとなっています)




[2894]「被害者の出産ラッシュ?」 その後


- 06/7/16(日) 8:49 - 


「大量のレイプ事件があれば、必ず大量の混血児が生まれるはずだ」という「論理」を、私はコンテンツ「被害者の出産ラッシュ?」で批判しました。


ネットでは、「レイプによる大量出産」の事例として、「ベトナム戦争での韓国系混血児問題」の記述をしばしば見かけます。その人数も、最大限で3万人。いったいこの情報源はどこなのか、と気になっていたのですが、Wikipediaでの議論の中で、それらしき記事を相手の方にご紹介いただきました。

元記事はこちらです。
(2020.5.19現在 リンク切れとなっています)

韓国語なんか読めん、と文句を言ったら、その方が、わざわざ翻訳してくださいました。その方の許可を得て、転載します。

(ただしこの「紹介の仕方」は、おそらくはその方の意図に沿わないものであると思います。なお、記事自体にも「著作権」があるはずだ、と相手の方は気にしていらっしゃいましたが、とりあえず「著作権」については私の責任、ということで)


[朝興国交の東南アジアのぞき見ること] ライタイハン問題  (釜山日報 2004. 09.18. 09:45)

「敵軍の子」 蔑視の中 成長 ・ベトナム戦当時の現地女性の出産 韓国系混血児

(前略)

20世紀に入って二つの国家関係は、ベトナム戦争を通じて非常に深くて複雑に縛られるようになる。 その縛られた関係の一方には韓国軍人たちのベトナム戦争参加と戦争遂行過程でのベトナム民間人虐殺歴史の暗い影が垂れ落ちて、また、他の一方にはライタイハン問題が置かれている。

「ライタイハン」と言うのはベトナム戦争に参加した韓国人たちと、ベトナム女性たちの間に生まれたベトナム韓人2世を示す。 1964年から 1975年までベトナム戦争に参加した韓国軍人たちと民間人たちは約 40万人に推算される。 軽蔑的な「混血雑種」を意味する「ライ」と戦争当時ベトナムで韓国に対する名称で通じた「タイハン」の合成語である「ライタイハン」は凡そ「韓国系混血児」に翻訳されることができる。

「ライタイハン」 問題は韓国人たちがベトナム戦争期間そして特に 1975年ベトナムの共産化後ベトナム妻とお子さんたちを捨てて無責任に韓国で帰国したことで始まる。 ここにベトナムに対する韓国政府の無関心が加勢する。 それに比べてアメリカ人たちとアメリカ政府はいろいろな手段を動員して彼らのベトナム「家族」をアメリカに連れて来るために努力した。

今日ライタイハンは最小 5千人で多くは 3万人に推算される。 現在 30〜40歳の間の年令層に属している彼らは去る 30年間ベトナム社会で 「敵軍の子」で弾き出すことを受けながら暮して来た。 独身と共に貧しく暮しながらまともに教育受けることができなかった彼らは、多くは大変な労力が要求される仕事や蔑視受ける職業に携わって来た。外貌でもたびたびベトナム人たちと区別されるライタイハン(子供)はベトナム社会で空回りしている

1992年韓国とベトナムの修交以後、両国間経済的及び人的交流が増大されながら 「新ライタイハン」ができている。 事業上ベトナムに長期的に行っている韓国人たちと現地先の間で生まれた混血2世たちが 彼らだ。 問題は韓国人たちが、ベトナムで(事業)撤収する時、現地妻と子供を捨てるというのだ。ベトナム戦争で見せた韓国人たちの姿が繰り返されている。

ライタイハン(子供)の生計とベトナム社会での適応を助けるために韓国の多くの民間団体たちが多様な教育及び職業プログラムを運営している。 しかし根本的な問題解決のためには一方では、ライタイハン自らがベトナム社会に同化するために努力しなければならないし、 他の一方では韓国男たちがベトナムで成した家庭に対して責任を負うことができる認識転換をしなければならないでしょう。 プサン大学校国際専門大学院

この記事を見る限りでは、「「ライタイハン」問題は・・・ベトナム妻とお子さんたちを捨てて無責任に韓国で帰国したことで始まる」との記述の通り、「混血児」の発生原因は、「合法的なロマンス」によるものが主流であるようですね。

*「ゆう」解説 本投稿の趣旨とは直接関係しませんが、「思考錯誤」板のコメントの中で、「合法的なロマンス」というよりは、戦後日本で見られたような「オンリーさん」、つまり実質的な「売春行為」が中心だと考えるべきではないか、との指摘を受けました。今さら当時の投稿を改変するのもどうかと思いましたのでそのままにしてありますが、この点はその通りであり、「合法的ロマンス」という言葉はいささか不穏当であったことは確認しておきます。

※※なお「オイラ」なる人物が、この点で執拗に私を攻撃しているようです(2012年3月現在)。彼は私に対して見当違いの攻撃を仕掛けて思い切り自爆してしまった「前科」があり(詳細はこちら)、これは明らかな「逆恨み」でしょう。しかし、こんな6年も前の、誰も覚えていないような投稿の、かつ本題に関係しない「片言隻句」しか「攻撃」の材料がないのかなあ、と、私してはむしろあきれてしまうのですが。


なお、ネットには、「混血児の発生原因」を「不法行為」に求める記述も存在します。
http://www.tamanegiya.com/betonamudeno.html


名越二荒之助氏が平成八年ベトナム訪問時に直接ベトナムの方から伺った話として

「第二次世界大戦後、我々はフランスとの戦争を含めて合計三十年間にわたって侵略者と戦ってきた。そのため国土は破壊され、経済成長は遅れてしまった。その中で特に残虐で野蛮なのは韓国軍であった。村を丸ごと焼き払い、死者の耳までそいでいった。アメリカの捕虜になった方が待遇が良かった。韓国の捕虜になったら殺されるのである。韓国兵はベトナム人を蔑み、人前で平気でビンタをとる。ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児は名乗りでないので、はっきりとした数は判らないが、一万人以上はいるはずだ」

名前もわからない「ベトナムの方」が、特に根拠もなく語った数字であり、先の釜山日報の記事よりも、はるかに信頼性は落ちるものであると思います。


[2891]第百十四師団の射耗弾薬数


 - 06/7/16(日) 7:55 -

*「ゆう」解説 「思考錯誤」板で、「日本軍は弾薬不足だったから「大虐殺」などできるわけがない」という陳腐な否定論が話題になりました。この「論」は銃剣などによる「刺殺」という殺害方法を無視していますので、そもそものところで成立しえないのですが、一師団分ですが「弾薬数」のデータはすぐに発見できましたので、議論のサポートのために投稿してみたものです。
『南京戦史資料集』をパラパラと見ていましたら、たまたま、第百十四師団(末松部隊)の「射耗弾薬概数調査表」が目に入りました(旧版P660)。ご参考までに。

『第百十四師団『戦闘詳報』
附表第二其一 射耗弾薬概数調査表 昭和十二年十二月十五日 末松部隊

品目      三八銃実包
戦闘前の携行数 二、九五九、六五〇
受数          二二〇、三二〇
射耗数         五九一、九二五
残数        二、四九四、九七〇
補填を要する員数  四六四、六八〇
摘要 本表射耗弾薬は金山衛上上陸以後南京に至る間の射耗弾薬とす

これ以外に、「三年式機関銃実包」も八三二、八〇〇発携行しています。

各「戦闘詳報」を見ればいくらでも出てきそうですが、とりあえず。この「射耗数」を見る限りでは、どう見ても「弾薬不足に苦しんだ」という状況には見えません。

 


[2450]「東京裁判 勝者の裁き」著者、リチャード・マイニア氏インタビュー

- 06/5/4(木) 8:01 -

昨日の憲法記念日、「朝日新聞」にマイニア氏へのインタビューが掲載されていました。大変興味深い内容で、またマイニア氏の考えを知る上で貴重なものだと思いますので、最初の方だけ紹介しておきます。


―マイニアさんの著書は,日本でよく読まれています。

「私はこの本を、ある特別の関心から米国の読者のために書きました。60年代のベトナム戦争への批判です。米国がインドシナで繰り広げられた行為は、道義的に支持できないものでした。東京裁判に表れた偏狭で自己中心的な米国の考え方が、後のベトナム介入の過ちにつながっていると考えたのです。この本は、米国人向けに書いた米国批判の本なのです」

ところが、この本が日本語に訳されると、東京裁判を否定する日本の保守派の人たちは、自分たちの味方が現れたと喜んだわけです

―どうもねじれがあるようですね。

「同じようなことが、東京裁判の役割を肯定する側の歴史家・家永三郎氏の著書『太平洋戦争』が英語に訳されたときにも起きました。米国の保守派は、『やはり私がちが正しいのだ。日本が間違っていると日本人の歴史家も言っている』と考えました。米国の左は日本の右に歓迎され、日本の左は米国の右に歓迎されるというわけです

「多くの日本人は私の本を誤解しています。東京裁判には過ちがあり、欠点の多い裁判でしたが、私は、日本の戦前の政策を免責したり、弁護したりするつもりはない。法的には無罪であっても、歴史的な責任の問題は残っている。ただし、あのような裁判で裁こうとしたことは間違いだったというのが私の主張です。どんな文脈で言われているかを理解することが大切です」
(以下略)

 


 [1578]「毒ガス」の捨て方―『告白的「航空化学戦」始末記』より

- 05/10/26(水) 21:03 -

ちょっとトピずれですが、光文社『告白的「航空化学戦」始末記』より、岡沢正氏の手記です。終戦時は、三方原教導飛行隊の大尉でした。

有名な本ですので、あるいはお読みの方も多いかもしれません。しかし、これはいくら何でも・・・という感想を持たざるを得ない「毒ガスの捨て方」についての記述が目につきましたので、ご存知ない方のために、ここに紹介しておきます。どこかに既出でしたら、ゴメン、ということで。



八月十六日も快晴だった。

信貴山より西方に見える司令部から上る黒煙がまだつづいていた。徹夜で重要書類の焼却をつづけていたのであろう。

私はなにもしたくなかった。が、派遣隊長として米軍進駐前に早急に処理すべき、三つの仕事があった。

第一は毒ガスの処分。第二は下士官兵の復員。最後は、将校の進退である。

なんといってもガス処分が先決だ。この尼院の庭に、ドラム缶二トン(十本)が野積みになっているのだ。

早急にどこかに放棄せねばならない。大阪湾では遠すぎるし輸送手段もない。また時間もない。思案にあまってよわっていると、灯台もと暗しというか、本堂の横に小さな古池があるのに気がついた。兵隊が名づけて「尼さん池」という。恐るおそる老庵主さんに交渉する。

「あのドラム缶をすてはるのですか? かましまへん。おすてやす。お国のためなら遠慮のうお使いやす。むかし正成ハンも、なんぞ隠されたそうどすえ。アメリカきても、いいしまへん」

まったくありがたかったが、大楠公が登場したのにはいささかおどろいた。

建武六百年のむかしをたんたんときのうの出来事のように語るこの老尼に、日本の悠久を感じ、"日本いまだ亡びず"と、敗戦に虚脱になった自分が、これほどはずかしく思ったことはなかった。

ドブンドブンと十本のドラム缶が姿をけすのに五分と要しなかった。その後四十数年、このドラム缶は浮上していない。よほど、この池は底なし池であるのだろう。

(同書 P69〜P70)


いやあ、呑気な風景です。老尼さん、ドラム缶の中身をご存知なかったんでしょうね。

その後にも、遠州灘に捨て忘れた(!)毒ガス(黄剤ドラム缶十本)を発見して大騒ぎした話が出てきます。



「なにっ、まだあったのか?」

(中略)

「何本くらいあるんかっ?」

「十本くらいです。どうしましょうか?」

「佐鳴湖に投げこんでしまえ!」

とはいったが、三方飛(「ゆう」注 三方原教導飛行団)から佐鳴湖まで、片道十キロ以上はある。・・・・そこで夜になって十本の黄剤ドラム缶をトラックに積みこんで、ひそかに音を殺して輸送し、トラックごと湖底に沈めてしまったのである。

(同書 P72)



その後の「住民被害」の可能性など、何も考えていません。同書によれば、昭和33年頃、地元紙に毒ガス入りドラム缶が浮上した記事が載っていたそうです。

終戦直後の「毒ガス」の捨て方って、こんな感じだったのでしょうかね。


ついでですが、サブコンテンツとして、「中国軍の毒ガス使用」をアップしました。中国軍が「毒ガス」を使用した可能性は確かにあるが、その規模は極めて小さなものであり、日本軍の被害はほとんどゼロ。日本軍の大量使用を正当化するようなレベルにはない・・・という、ごくごく常識的な結論になっています。

http://yu77799.g1.xrea.com/dokugas/dokugas4.html




[812]リンドバーク日記

- 05/8/10(水) 20:24 -


 ネットでは、しばしば「連合軍の残虐行為」の例証として紹介されます。どうやら引用者の意図は、「日本軍の残虐行為」(特に中国大陸におけるもの)と相殺を行おうということであるようです。

最も引用頻度が多いのが「1944年8月11日」の記述ですが、ほとんどの紹介がごく一部分にとどまります。以下、同日分の主要部分を紹介します。

確かに「連合軍の残虐行為」が行われた気配はあるのですが、個々の話については、これだけで「史実」と断定してしまうには、私にはちょっと弱いように思われます。また、リンドバークは同時に、日本軍の人肉食などを取り上げ(これもまあ「噂話」のレベルではありますが)、「東洋人の方がもっとひどいように見受けられる」と、日本軍に対する非難を行っていることも見逃せません。

まあ、あまり私の詳しい分野ではありませんので、見当違いの紹介をしていても、どうぞご容赦ください。


1944年8月11日 金曜日

(略)

 数日前、私は十九人にのぼる日本軍将兵の捕虜を目撃した。ピアク島の原住民が戦闘用のカヌーで運んで来たのである。そのうちの一人 ― 若者で、誇りが高く、胸を張って健康状態も良好だったが ― 将校だということであった。

 ほとんどが知的でない顔付きをしていた。かなり栄養が良く、健康状態も良好とみられる捕虜が何人かいた。若干名は全身が皮膚病に覆われ、憔悴して脚を引きずっていた。

 二人は餓死寸前に見えた ― 手足は骨と筋だけ ― 自力ではたっておれぬので、原住民に片側から抱きかかえられていた。

 彼らはあの石灰岩の湿気と悪臭とに満ちた洞窟に住み、戦い、そして戦友の死体がなお腐り続けているあの日本兵と同じ人間なのだと思った。

 ライフルで武装された原住民に囲まれながらトラックに押し込まれる彼らを、わが方の将兵は集まって物珍しげに眺めやった。


 明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本兵捕虜の問題を話し合った。

 私は自分の考えを述べた、相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け容れればわれわれの進撃は一段の速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう ― そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将兵を殺すであろう、と。

 大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。

 「たとえば第四二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」

 「将校達は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

 「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を覚えてるかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ、捕虜を機上から山中に突き落し、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

 「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」

 「ニップスも、われわれに同じことをやってのけたのだからね」

 「オーストラリア軍ばかりを責めるわけにはいかない。性器を切り取られたり、ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ」

 「オーストラリア軍は、ジャップが本当に人肉を料理していた場所を占領したことがある」(咋日、戦闘飛行隊の掲示板に、ピアク島で戦友の人肉を料理中の日本兵数名が捕えられたという告知が出たばかりである )

 侵攻作戦の初期に、人間らしい慈悲心が僅かしか示されず、わが軍が数知れぬ残虐行為を犯したという事実はかなり明白に立証される。後日、戦略拠点が確保されてからは、一部の日本軍将兵も殺害される心配がなく投降できるととを悟るに至った。

 しかし、わが軍も時には野蛮だが、東洋人の方がもっとひどいように見受けられる。

(リンドバーグ『第二次世界大戦日記』(下)P549〜P550)



[710]東中野氏「証拠写真を検証する」より、類似事例

- 05/8/2(火) 21:17 -

グース氏批判ではありませんが、「証拠写真を検証する」に、似たような例がありましたので、参考までに。

まずは、「検証する」の文章です。


一月二十六日(水曜日)

  「ある女性が今朝病院に入ってきた。一ヵ月以上も前に城内南部に連れ出されたという。(中略)日本軍兵士たちが彼女を毎日七回から九回もレイプして、ついに彼女は使えなくなったので放免された。彼女の経験の結果として彼女の性病の三つの形状は最悪の状態にあるが、しかし勿論日本軍は決してこのようなことはしないし、これらのウソをでっち上げて中国人を元気づけるのは我々外国人なのだ」(南京の聖パウロ聖公会教会の宣教師アーネスト・フォースター師の手紙)
(「検証」P67〜P68)


素直に読めば、フォースターが「外国人によるでっち上げ」を認めた文章、ということになりそうです。しかし、前の文章と「でっち上げ」部分がどうもつながらないし、何よりも、フォースターがそんな発言を行うとは考え難い。

さて、原文は、と探してみたのですが、残念ながら、青木書店「南京事件資料集」の掲載部分は、1月20日まで。
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/forster0.html

しかしどう見ても、フォースターが上のような発言を行うとは信じられない流れです。


この文章、"Eyewitnesses To Massacre"で原文を発見できました。以下、引用します。



 A woman came into the hospital this a.m. who had been carried off to the southern part of the city more than a month ago. Her husband was carried off at the same time and has not yet returned and probably never will. they had been married four years and had had no children.

 J.soldiers raped her from seven to nine times every day and finally released her when she could no longer be used. She has three forms of venereal disease in their worse state as a result of her experience,
but of course the J.army never does such things and it is we foreigners that invent these lies to encourage the Chinese!

 So you see we are not exactly popular. But you can imagine what is in store for the Chinese if Japan has her way. After I had investigated the case of the girl who had been shot yesterday, I attended another meeting of our rehabilitation committee which lasted until five.

("Eyewitnesses To Massacre" P137〜P138。なお原文には、改行はありません)


訳してみると、こんな感じでしょうか。東中野氏の翻訳部分は、どうしても我慢がならない部分を除き(a.m.がなんで「今朝」なんだ)、そのまま採用しました。(私の英語力は高卒時点で止まっておりますので、おかしなところがありましたら、どうぞ、ご指摘ください)



午前、一人の女性が病院に入ってきた。彼女は一ヶ月以上も前、市の南部にさらわれていたのだった。彼女の夫も同時にさらわれ、未だに戻らない。おそらくもう戻らないのだろう。結婚生活は4年間、子供はない。

日本軍兵士たちが彼女を毎日七回から九回もレイプして、ついに彼女は使えなくなったので放免された。彼女の経験の結果として彼女の性病の三つの形状は最悪の状態にあるが、しかし勿論日本軍は決してこのようなことはしないし、これらのウソをでっち上げて中国人を元気づけるのは我々外国人なのだ!

 我々が必ずしも人気者でないことはおわかりだろう。しかしあなたは、もし日本が我が道を行けば何が中国人を待ち構えているか想像することができよう。昨日少女が射たれた事件を調査した後で、私は五時から続いている復興委員会のもうひとつの会合に出席した。


いやはや、原文の通りに "!" をつけるだけで、印象が一変しました。「しかし勿論日本軍は決してこのようなことはしないし」の前に、「何とまあ」の一言を付け加えたくなりますね。どう見ても、「日本軍が自分の悪さを認めない」ことを嘆く文章でした。

読み返すと、東中野氏、ここはただ原文を忠実に訳しただけで、「ウソ」はついていません。騙されるのは読者が悪い、というわけです。「マッカラム日記のトリミング」の失敗に懲りて、少しは進歩した、ということでしょうか(^^)


[304]Re(1):松尾板、復活してら(^^;

- 05/5/13(金) 7:07 -

*「ゆう」解説

「松尾板」というのは、ネット否定派の大御所、松尾一郎さんのサイトの掲示板のことです。本投稿は、とほほさんの下記投稿を受けたものです。

>松尾板が復活してますね(笑)
>半年ぶりですかね?
>いきなり、思考錯誤の悪口投稿です。(^^;

覗いてみると、私の批判(というか、単なる「悪口」)を投稿している方をみかけました。

なおこの掲示板、折角復活したのに、この直後、6月初めにはまた閉鎖されてしまったようです。




なーんだ、よく見ると、私の悪口まで言っているではありませんか。いい度胸じゃん。遠慮なく、ネタにしてやりましょう。

まあ、どうせこちらを見ていると思うし、あちらまで出張する気はしないので、話はこちらで。何といっても、ログがすぐに流れてしまうあちらと違って、こちら「思考錯誤」板は、投稿を何年も残すことができるんですよね(^^)


しかし復活した松尾板、投稿者のレベルは推して知るべし。なにしろ、こんな御仁まで堂々と登場しちゃっているもんなあ。



中国からいくら金もらってるの?便意兵さん



共産党の代理人として頑張ってるね便意兵さん


何とこれで、投稿2回分です

自分の頭の悪さを宣伝したいとしか思えない、しょうもない一行レス。投稿場所を間違えているとしか思えん。松尾さんも、さぞかし迷惑だろうに。(君のことだよ、BBさん(^^))


さあて、これか。署名は、「DIGIT」さんね。聞いたことのないお名前だけど、ステハンでなければ幸い。


中には食人、強姦殺人後陰部に異物を挿入、などという事柄を「日本兵の隠れた習慣」であった、とさすがに断定口調ではないものの、読後感としてそれとなくにおわしている。 正直な日本人がびっくりして問い糾していましたが・・・



しかしまあ、勝手な印象操作をしているなあ。「日本兵の隠れた<習慣>(!)」なんて言葉、私は使っていませんし、そういう主張もしていません。DIGITさんがそんな印象を受けるのは勝手だけど、こりゃあ、私の主張を捻じ曲げる、トリックだな。

私の実際の表現は、こうでした。

>一部異常者の仕業とはいえ、「脳を食う」というとんでもない行為が、ある程度日本軍の中で行われていたことをうかがわせます。

私はこれを、「一部異常者の仕業」と認識しています。日本兵の一般的な<習慣>だ、なんて主張はしておりません。相手の言い分をデッチ上げて、それにもっともらしくイチャモンをつける。まるで東××先生みたいだな。


さて、「事実」はどうだったか。まとめて読めるように、こちらにまとめておきました。

http://yu77799.g1.xrea.com/nicchuusensou/nou.html

ま、私もこれを「日本兵の隠れた習慣」であるなんて思っておりません。せいぜい一部異常者の仕業と考えておりますので、こちらを正式コンテンツとして公開するつもりはありません。こんな話もあるんだよ、という程度の投稿です。・・・日本兵が人肉を食った事実は一切ない、という無茶な主張する方が出てきたら、話は別ですが。


ご覧の通り、「仙台百四連隊」の公式戦史とも言える「歩百四物語」に、「病院で聞いた話」として、「迷信に基く純朴な犯罪」としての「食人」を取り上げる記述が登場します。これだけでしたら、噂話のレベルですし、私としても「事実」とまで断定する気はおきません。

しかし、手元資料を読んでいたら、井上氏、草川氏の本に、「食人」の記述があるのを発見したんですよね。



ある夜、二名の捕虜が逃亡をくわだてた。これをとらえた小隊では他の捕虜たちへの見せしめのため斬首して校庭のすみへ埋めた。これを見た彼らはさっそくこの首を掘りかえし、脳をとりだしてくってしまった。(井上氏) (「K」は原文実名です)


黒焼きの脳味噌、ナイフで突いてひとつまみ口の中に入れ、目を宙に味見するK、皆んなあきれて嘆息ついて、何んと変った事をする偉いお方が御座るものかと、つくつく感心したものです。(草川氏)


お二人とも、アホウヨ言うところの「反日日本人」(笑)からはほど遠い、ごく普通の元軍人です。草川氏の記述は目撃談、井上氏にしても、「何か肉を食っている」現場を目撃した上での証言。まあ本当なんだろうな、と思えば、普通の感覚でしょう。

それともDIGITさん、どうしてもこの「目撃談」を否定したいですか? でしたら、その「根拠」をどうぞ。「日本人がそんなことをするはずはない」なんて根拠レスの思い込み、なしだよ(^^)


さて次は、「陰部に異物を挿入」ですか。

こちらのほう、ご存知とは思いますが、あの田中正明氏が、「日本人がそんなことをするわけがないからこれは中国側の仕業である」という無茶苦茶な論陣を張っておりました(再発見できないんで、記憶で書いています。不正確だったら、ゴメン)。私の説明は、これへのアンチテーゼであるに過ぎません。

http://yu77799.g1.xrea.com/souka.html

リンク先を開かずに読み飛ばれてしまうかもしれませんので、一応、転載しておきます。


<色川大吉氏 「ある昭和史 自分史の試み」>
Tという元陸軍伍長のトラック運転手がいた。私の家に仕事のことで出入りしていたが、ある日、私にこんなことを話した。その姑娘(クーニャン)(中国娘)をみんなで手ごめにしたあと、気絶していた娘の膣に、そばに転がっていた一升びんを突っこみ、どこまで入るか銃底で叩きこんでみた。そしたら血を噴いて骨盤が割れて死んでしまった、と。

<秦郁彦氏「南京事件」より 小原立一日記>
中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。

<小俣行男氏「侵掠」より>
通りがかって兵隊がやったものだろう。裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。



類似記述は、探せば他にもあると思います。確か「ラーベ日記」にも、伝聞の話ではありますが、似たような話があったと思いますし。

で、DIGITさんは、これらの記述を、何の根拠もなく「ウソ」と断定してしまうのでしょうか? ま、改めてご意見をお伺いしたいところではあります。

さて、DIGITさん。他に、何かありますか。もしあれば、松尾板で結構ですから、どうぞ、どんどんお書きください。半永久的にログが残るこちらで、お名前と投稿内容を、しっかりと残してさしあげます(^^)



[285]佐々木野戦郵便局長、ヴォートリン女史と出会う

 - 05/5/8(日) 13:35 -

(一部略)

ところで、「野戦郵便記」のもう少し後の方に、南京を再訪して、「金陵女子文理大学」を訪れたエピソードが登場します。



翌朝(ゆう注 12月31日朝)、曇り空を数十万の烏が群れて飛んでいる。自動車に憲兵がつき金陵女子大学に行く。・・・金陵女子大学はアメリカ教会の婦人が二名管理している。背広服の高等郵便長は流暢に、この外国婦人と会話する。会話の内容は兵隊の彼女らへの暴行についてである。(P230)



この「高等郵便長」氏、犬養参与官(「揚子江は今も流れている」の著書あり)とともに、日本から視察に来たようです。「郵務局規画課長兼任の大本営遠藤高等郵便長」と紹介されていますが、具体的にどのような権限を持った方なのかは、よくわかりません。(P229)

ひょっとしてヴォートリン日記にも書いていないかと見てみたら・・・。12月31日の記述です。



けさ、とてもすばらしい日本人がやってきた。遠藤という人で、彼の司令部は、かつての首都飯店にある。
遠藤氏だけでなく、いっしょにきた憲兵もたいへん好感が持てた。両人とも、やさしく思慮深そうな顔つきをしていた。遠藤氏は、難民救済の業務に深い関心があると言い、援助を申し出てくれた。(『南京事件の日々』P90)



残念ながら佐々木局長は無視されてしまっていますが、ヴォートリン女史にとって、遠藤氏との会見は大変印象深いものであったようです。

余談ですが、外務省筋や参謀本部筋が「国際委員会」の「日本軍の暴行記録」のみを材料として「南京の大規模な軍紀の乱れ」を認識していたかのように言う人もいますが、憲兵などからの報告の他、こんなルートもあったことがわかりますね。


[258]もう一つの「転戦実話」 − 「毒ガス戦」資料として

- 05/5/1(日) 5:47 -

今さら解説の要もないでしょうが、「転戦実話」は、昭和15年発行の、熊本第六師団兵士たちの手記集です。東中野氏は、「新資料発掘」と銘打って、何とこれだけをネタに、「1937南京攻略戦の真実」という本を書いてしまいました。

帯には「発見! 虐殺論争に終止符か!?」なんて大層なあおり文句があります。卒業文集に「荒れた」話がひとつもなかったからといって、「この学校で校内暴力があったというマスコミ報道はウソだ」と言っているみたいなものですね。生徒が「自主規制」したか、先生が検閲したか、に決まってるじゃない(^^)

この本、さすがに入手困難。少なくとも、私の力では捜しきれません。国会図書館にもないようです。はるばる偕行社まで出かけていって、見せてください、という度胸もないし(^^;


ただまあ、東中野氏の感動ぶりとは裏腹に、この「転戦実記」、実際には研究者の間ではよく知られた資料であったようです。確か、洞氏だったか吉田氏だったかの本でも、ここからの引用を見たことがあります。

吉見義明氏の「毒ガス戦と日本軍」と読んでいたら、この「手記集」がしっかりと「毒ガス戦」の資料として使われておりました。以下、紹介します。

項目の書き出しは、「この作戦(ゆう注 カン湘作戦)では、毒ガス戦に参加した熊本第六師団の兵士たちの体験記録が、町尻部隊編『第六師団転戦実話』カン湘編(一九四〇年)の中に数多く集録されている」(P102)となっています。具体的な手記は、4つです。


●工兵第六聯隊第一中隊 H・Y伍長(原文実名。以下同じ)

昭和十四年九月二十三日朝まだき、愈々新墻河の敵前渡河を決行するといふので、架橋材料中隊は無数の折畳舟を準備してゐます。・・・午前八時、攻撃の火蓋は切られ、天地も轟くばかりの壮観です。

間もなく赤筒がたかれました。始めて見る化学戦です。最初のうちは追風で、とても都合よく行きましたが、風が変って、私達の方に流れてきます。

予め命に依って皆装面をして居りましたが、気の毒なのは苦力です。フウフウ言って苦しんでゐます。前のクリークに顔を突込ませましたが、無駄です。



●熊本歩兵第一三聯隊聯隊砲中隊 H・R軍曹

愈々攻撃開始、
野戦瓦斯隊が盛んに特種発炎筒を焚き始めました。もくもくと黒煙が天地を覆ひ始め、盛んに敵陣に吹きかけて行きます。絶好のチヤンス、と思ふ間もなく、風向が変つたか、瓦斯は友軍陣地を覆ひ始めました。早速、防毒面の御世話になりました。土民が瓦斯に追はれ、一生懸命逃げて来ます。涙をボロボロ流して居ます。



●歩兵第十三聯隊第七中隊 K・S(階級不明)

「九月二十三日午前八時三十分、一斉に渡河に移る、状況により瓦斯を使用す」と云ふ命令が達せられました。瓦斯使用の戦闘は今回が始めてです。平常も欠かさず防毒面は携行するものの、今迄にない緊張を覚えました。

・・・・やっと八時になりました。野砲、山砲が火蓋を切りました。続け様の発射音に朝の静寂は破られ、俄かに戦禍を避けんとする土民の群が、何処も兵隊で一杯で、逃場も無いのにうろうろして居りました。

砲が斯んなに協力するのは今度が始めてです。砲が一寸でも沈黙すると、〔国民党軍の〕チエツコが気狂ひの様に癇高い音を立てます。

後方にある聯隊本部の真上に、白三星〔信号弾〕が打上げられたと思ふと、中隊長殿の右手がサツと挙げられ、私達は一斉に渡河し始めました。野砲は正面の敵陣に集中射を浴せて居ます。私達は装面して居ますので、敵弾が砂煙を上げるのは判りますが、音は全然聞へません。

目前に迫る敵陣、苦しい呼吸の中に、着剣をして対岸陣地に突入、血走った眼で四辺を見廻しますが、二、三の遺棄屍体があるだけで、もう潰走して居ます。野砲が敗走する敵兵の上に、小気味の良い榴散弾を浴せて居ます。未だ霧の様に瓦斯が残つて居ますので、脱面の命令が出ません。頭がズキンズキンと痛み出し、次第に感覚が痳れて来ました。

やがて霧のような瓦斯が晴れて、脱面を許されました。正面の第二線陣地は如何したのか、固い沈黙を守って居ます。



●歩兵第十三聯隊第一大隊本部 T・Y輜重兵一等兵

暫くすると前の方が霧がかつた様になり、だれかが「ガス」と叫んだと同時に目鼻が痛みだし、古兵殿達は直に装面しましたが、私達新兵五名は防毒面も無く、苦しくなるばかりです。早速タオルに水を一杯湿して口鼻に当てましたが、苦しさは激しくなる一方で、一刻も早く安全な場所に行きたいのですが、目は開けられず、口は利けずの有様・・・・生死の境を突破せんと一生懸命になつてゐる姿は真剣です。

他人事ばかりでなく、私も寄りついては行くものの、大きな石に突き当り、足は打つ、顔や頭を地面に按りつけ、タオルから服一切泥だらけです。顔を覆ってゐるタオルの水は、鼻から口に通り、舌にタオルが触れる度毎に、塩辛く苦い味が愈々増して来て、此処で死ぬのではないかと思ひました。



東中野氏が紹介する「卒業文集もどき」よりも、ずっと面白い。しかし当時、「毒ガス戦」について書くことは、タブーではなかったのですね。少し、驚きました。



[241]「幕府山事件」から6か月 第十三師団・「蒙城」での捕虜殺害?

- 05/4/24(日) 6:33 -

「幕府山事件」に関わっていた「第十三師団」は、「事件」の6か月後の1938年5月9日頃、徐州作戦の中で、またもや「捕虜殺害事件」を起こしていた可能性があるようです。以下、「世界史の中の1億人の昭和史 4日中戦争から第二次世界大戦へ」より、キャプションのみを引用します。


<特別企画 軍医が見た華中最前線>

○華中の戦火は拡大し日本中が戦勝気分に酔いしれたころ、中国奥地へと入り込む日本軍は中国軍の抵抗と泥濘とマラリアに苦しんでいた。中支派遣軍の一軍医が昭和十二年一〇月一日上海に上陸して漢口に至る一年余・約一五〇〇キロの行軍の足跡をカメラに収めていた。

佐々木周一軍医が撮影した約七〇〇枚のネガはそのまま第十三師団の従軍日誌であり、この中には兵士達の素顔と並んで当事は発表できなかい中国人捕虜の虐殺死体が写されていた。佐々木軍医はすでに故人となりこれらのネガは長男嘉直氏が初めて公開したものである。

●5月8日 第13師団(歩兵第58・116・65・104連隊を中心に編成)は渦河河畔にある人口約1万の蒙城を 飛行機・山砲・戦車で攻撃した 城内の中国側は 女性や子供までが手榴弾で応戦し 激戦が夜半まで続いた 9日入城した日本軍は多数の中国兵を捕えた(このページの写真は東京日日新聞の堀江秋吉特派員撮影)

上右:蒙城西門を占領した山田旅団第65連隊
上左:蒙城城内の残敵掃討に向かう吉川部隊
右:第58連隊と蒙城南門を攻撃の岩仲戦車隊
下右:司令部の祝杯(手前が荻洲立平師団長)
下左:中国兵捕虜 総数は不明だが 第116連隊だけでも 捕虜337 遺棄死体1027 日本軍の死傷103 捕虜解放・連行の記録もない

○軍医はクリークに浮かぶ中国兵の死体をカメラに収めた 後ろ手に縛られた死体は捕虜 「捕虜は足手まとい」が日本軍の常識だった。

誰が命令し誰が殺したのか判っていない 第13師団先遣隊出発まで銃殺音は聞かれなかった 師団前進に際し秘かに処刑されたらしい 佐々木軍医は野戦病院と共に数日間蒙城に駐屯し これを目撃した



写真を見ると、「下左」はしゃがみこむ捕虜の群れ。画面に映っているのは50人程度ですが、画面外にどれだけの人数がいるのかは、わかりません。そして次の2枚の写真の「死体」の数は、いずれも数十体というところでしょうか。写真のキャプションにもある通り、明らかに後ろ手を縛られている写真もあります。

さて、この時の「捕虜」、第十三師団の関連戦史ではどのように記述されているか。手元の資料を見てみました。


『郷土部隊戦史』(ゆう注 歩兵第65連隊)

蒙城戦はまた完全な包囲掃滅戦であった。(中略)しかし敵軍はよくたたかい抜き、一部が城壁からとびおりて逃げたほかは、城内で憤死し、四千八百の守兵のうち捕虜千二百が残っただけだった。しかも捕虜となることをいさぎよしとせず、最後までたたかって手榴弾自爆をとげた敵兵もいたのである。(P136)

『桐崗塞の丘 歩六五・第九中隊』

西門へ第二大隊、北門に第一大隊、西北に百四連隊第三大隊と山砲十九連隊第二大隊が攻撃する。(中略) 五月九日午前十時すぎ、蒙城陥落。蒙城内守備兵は四千五百余と推定されていたが、どこをどう脱出したのか、最後まで城内に残っていた敵は少なかったという。ここでも我に多くの戦傷死者が出た。(P40、P41)

『第十一中隊史』(ゆう注 歩兵第65連隊)

公路はもうもうと立上る土煙にて眉毛や髭は汗とほこりで泥まみれとなり連隊主力が激戦の末占領した蒙城に入るや該街のクリークの中やその一角には敵遺体累々臭気鼻をつく有様であった。(P33)

◎『高田歩兵第五十八連隊史』

本戦闘におけるわが方の損害は戦死十四、負傷七十三。敵の遺棄死体は約九百、捕虜二十五、その他であった。(P140)


『山砲兵第十九聯隊史』『第十二中隊史(65連隊)』『歩一〇四物語』には、「捕虜」「敵死体」に関する記述はありませんでした。『ふくしま 戦争と人間』は未チェックです。なお、上の「第九中隊」「第十一中隊」を含む「第六十五連隊第三大隊」は戦闘自体には不参加だったようです。

捕虜の数については、「千二百」(『郷土部隊戦史』)の数字があります。「二十五」(『高田歩兵第五十八連隊史』は、連隊だけの数字でしょうか。

第十一中隊は、戦後に蒙城に入城、「敵遺体累々」を目撃していたようです。これが「戦死」だったのか「捕虜殺害」だったのかはわかりません。書き方を見ると、「戦死体」であったようには思われますが・・・。

とりあえずのデータとしては、以上です。



ついで。『京都師団資料集』所載の、「銃後に答ふ」(昭和十四年七月一日、井上隊編纂)よりの引用。帰還兵が故郷の人たちに戦争の話をする時の、想定問答集です。


A 捕虜は何うしますか。

B 作戦上止むなく殺す事も有りますし、さもない時は当方の使役に使ったり、後方へ送ってやったりして給与してやります。漢口、南京には相当居ります。行くいくは維新政府に於て教育編成される様になる事でせう。捕虜達は幸福そうに仕事をしてゐます。(P431)



・・・「公式見解」で、「作戦上止むなく殺すことも有ります」って認めてしまっていいんでしょうかね。


*「ゆう」解説

その後、私が個人的に入手した日記に、全く偶然にもこんな記述があり、驚きました。残念ながら公開はできないものですが・・・

五月十日 中隊と離れ、■■■城内支那兵約四百射殺せられ、その有様■■目も当てられず
五月十一日 午前十一時、蒙城内西側にて支那兵の射殺を行ふ 約五十名 断末魔の叫び真に惨たり

「蒙城の捕虜殺害」は事実であったようです。




[149]岐阜県武儀郡板取村 『日中戦争 太平洋戦争 従軍記』

- 05/4/9(土) 5:06 -


この本は、「板取村」が1987年にまとめた、村民たちの従軍体験記です。

発行者は、「板取村長 長屋實」。約500ページとぶ厚く、かつ装丁もなかなか立派。この村はもう「平成の大合併」で消滅して「関市」の一部になっているようですが、こんな小さな(たぶん・・・)村が、これだけの「事業」をやってのけたことに、驚かされます。

その中に、「南京攻略戦」に参加した村民たちの座談会がありましたので、ここに紹介します。



 従 軍 譚
 南京攻略従軍兵士の座談


        老洞  M・E
        岩本  N・Y
        田口  N・J、N・S  (以上、原文実名)


M・E 「わしの所属する第二機関銃は、六十八連隊の先遣隊として南京城の武定門に向った二大隊に配属されていたので、見渡すかぎりの畑地を夜の間に城門まで二百米ほどのとこへ進出して陣地を構築し、射撃準備をしたが、敵は気がつかぬか一発も射ってこん。

 城壁からこちらへ約三十米のところに巾五十メートルほどのクリークがある。クリークの橋は落されていて、クリークと城壁の間は貧民窟街や、敵がどれだけ隠れとるかもしれん。

 夜明けを待って大隊砲と機関銃で一斉に曳光弾を射ち込んでやったら、火がついて燃えだした。かくれていた敵兵が五十人ほど逃げだしてきたので、皆射ち殺したが、城壁の方からはちょっとも射ってこん。右方の光華門では九師団の脇坂部隊が激戦中でドーン・ドーンバリバリやっている。

 二大隊は筏を組んでクリークを渡り、武定門に大隊砲を射ちこんだがビクともしない。武定門の一番乗りをあせった第五中隊長の命令で三十人ほどの兵士が人間ビラミットを作りだした。

 途中で何回となく崩れたが、とうとう城壁のてっペんへとどくビラミットができたので小銃隊の下士官がピラミットをよじ登り、城壁のてっペんに手が届いたとみえた瞬間、力つきた人間ピラミットはクシャクシャと崩れて、城壁の端に両手でぶら下がった下士官が宙にとり残され足をバタバタさせている。いまにも落ちるに違いなかったが、どうやらもがいて城壁の上へ這いあがった。

 しかし一番乗りの国旗をあげようとして、それを忘れてきた事に気がつき、「国旗をほうりあげてくれ」と呼ばっている。兵隊らが小石を国旗でくるんで投げあげるが、なんべんやってもなかなか届かない。

 そのうち第六中隊は他の部隊が占領した鉄道の通っている門へ迂回して城内へはいり、斜面になっている城壁の裏がわから悠々と武定門へ登ってきて国旗を立てる。立てさせまいとして先に登っている五中隊の下士官が争っている。

 下では五中隊長の鬼頭大尉がそれを見ながら地団駄を踏んでおったに。それで一番乗りの手柄は旗を立てた六中隊のものになってしまった。」


N・Y 「わしは第三機関銃で第三大隊の配属だった。光華門の左の通済門から城内に突入した。重傷を負って血まみれになって倒れていた中国軍将校が、わしの抜き放っている軍刀を指さし、手まねで首を斬ってくれと頼んだが、手向かわんものを斬れるもんではない。部下に命じて民家へ移してやったが、その途中息を引きとったに。それでM・E(原文実名)はどこから城内にはいったのや。」


M・E 「わしらは武定門が破れんから、他の部隊の破った門からはいった。はいってみてわかった。大砲でもなんでも破れん筈や、城壁の厚さは麓で十五、六米、頂上で五米もあり、武定門の鉄の扉からの奥行は三十米ほどあって、そこは土嚢でぽんぽんに埋められてあったのや。

 武定門の内側には数十人ほどしか敵兵はいなかったが、すぐさま射殺してしまった。

 城内では物凄い光景が目に入った。壕の中に手榴弾を投げこみ、かくれている中国人を生き死にかかわらず埋めこんでいるのだ

 主要道路は戦車に踏みつぶされてスルメ(のしイカ)みたいになった中国兵の死体で敷きつめられ、道路の両側は塹壕になっていたが投げこまれた中国人の死体で岡のように盛りあがり、それが一里も二里もつづいていた。

 それから後に戦場掃除は幾日かかったか知らんが、それらの死骸を紫金山の麓の玄武湖と揚子江に投棄して始末したのだ。」


N・J 「わしも第一大隊に配属の機関銃で、南京落城後、中華門から入城したが、戦いは終って城外では九師団の戦死者を焼いていた。

しかし城内ではさかんに中国人の虐殺が行われているのを見た。陸橋の上にまっ黒に中国人を並ばせ、機関銃で掃射し、死んだものも、傷ついてうめいている者もみさかいなく陸橋から投げ捨て、また次の集団を並ばせ掃射しているのだ。」


N・S 「中国人の成人男子は皆殺しにせよという命令が出ていたのだな。便衣隊と一般人の区別がつかぬからだ。でも生き残った中国人の非戦闘員は周囲十三里ほどもある難民収容所へ入れられ、そこから逃亡しようとしなければ殺されることはなかった。」

  (賢雄聞記)

 注 便衣隊=非戦闘員の紛装している兵士


(同書 P50〜P51)


なかなか凄まじい「証言」が揃っています。私には、これらの「証言」が事実を語っているのかどうか判断する術はありませんが、とりあえず、このような「証言」が行われている、という事実を紹介しておきます。


例えば、M・E氏の証言ですが、「主要道路は戦車に踏みつぶされてスルメみたいになった中国兵の死体で敷きつめられ」というのはちょっとどうか。

1メートルの高さに積み上げられた死体の上を車が通行していたという「ゆう江門」の光景のことを言っているのだとしたら、まあ納得できないではありませんが・・・。

なお、「玄武湖」で死体処理を行った、という部分は、奥宮氏の目撃証言と一致します。かつて「玄武湖に死体があるわけがないから奥宮証言はウソ」とする議論を見かけたことがありますが、これはひとつの「反証」となりうるかもしれません。

N・S氏の「中国人の成人男子は皆殺しにせよという命令が出ていたのだな」という証言も興味深い。実際にそのような「命令」が出ていたのかどうかはわかりませんが、少なくとも現場の兵士の間ではそのように意識されていたのかもしれません。


しかしこの頃(1987年当時)は、このような「証言」を、「村」の公的な出版物の上で行うことが可能だったのですね。隔世の感があります。


[9]文藝春秋社『話』(昭和十三年四月号)

- 05/3/19(土) 10:33 -

戦前の日本では、「南京事件」の実態がメディアに載ることはほとんどなかった、と言われます。しかし意外なことに、文藝春秋社が発行する総合誌『話』の昭和十三年四月号に、しっかりと「海外報道」が紹介されているのを見かけました。もちろん、「デマ記事」の例としての紹介ではありますが。


英・米・ソ・仏各国の「反日黄禍論」のデタラメ振りを暴く   北村文夫

次に日本軍将兵の行動についても、殊に南京占領後一斉にその暴行云々の記事を掲げ、殊にテレグラフ紙や、英国共産党の機関紙たるデイリーワーカー紙の如きは、香港通信として、信頼出来る筋から出た詳報と称して大体次のやうなデマ記事を報じてゐる。

「日本軍は南京占領後、数週間に亘つて戦慄すべき狂暴振りを示し、あらゆる財産は外支人の見境なく一様に掠奪破壊された。教会や寺院は掠奪され、図書館、病院などは焼打の難に遭ひ、多くの支那人は虐殺され、避難民は住むに家なく、飢餓と困窮の裡に累々たる屍体の間をさまよふ有様で、婦女子に対する襲撃は白昼日本大使館の真ん前でも行はれた。」と。

デイリーワーカーの如きはあやしげな写真まで添へて毒づいてゐる。然しながら、最近事実が明かにされたやふにその暴行の本人の正体は、日本語のわかる支那人であつたのだ。

(『話』昭和十三年四月特大号 P96)


いきなり「日本語のわかる支那人」なるものが登場します。以前紹介したこの記事が、そのソースだったのかもしれません。記事は「2月17日」付で、この文章は「四月号」ですから、だいたい時期は合いそうですね。

http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/ivhqrf/urwqrf.html#urwqrf
(上のURLは現在はリンク切れですが、この記事は、「新聞記事より」の最後に収録してあります)

しかしまあ、たった11名の強盗団が、これだけの規模の大事件を引き起こしてしまうとは・・・。北村氏、疑問を感じなかったのでしょうか。


『話』の同じ号に、ヴォートリン女史が守る「金陵大学」の話も出てきます。「乱暴な日本兵から女性を守るための避難所」としての「金陵大学」が、どのように紹介されているかと言うと・・・。

「上海・南京十六話」  新国劇文芸部 樋口十一

11 金陵大学

事変前は米国人が経営の金陵大学も、今は女子難民収容所にあてられてゐる。

ここに毎日々々、難民区の男どもが押しかけてワイワイ騒いでゐる。

彼らの女房子供が今でも収容されてゐるのだ。

彼女たちは自分の夫であり、父である、同じ昔は家族であつた者達にさへ、恐れを抱いて会はうとはしない。

それ程に支那の男は、支那の女達から恐がられてゐるのである。それも、これも元はと云へば敗残兵の仕業からである。

金陵大学の門前、市をなして、男どもは自分の女房、子の名前を呼び続けてゐる。

そして「女房の手を見た」「いや、己は女房の爪先を見た」と口々にわめき乍ら、僅かに無事であることを知つて慰めてゐるに過ぎない。

不幸な国民である。

併し我が軍は今も彼等を充分に守つてやつてゐる。(P112)


まともなのは最初の三行だけ。あとは一見して、そんなアホな、と突っ込みを入れたくなるようなトンデモ記事です。筆者は、どこからこんな「妄想」を仕入れたのでしょうか?


(2009.11.28)


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