安全区掃蕩 「裁判」は必要だった
安全区掃蕩 「裁判」は必要だった


 「安全区掃蕩」の概要については、拙サイト「南京事件 初歩の初歩」の説明を、そのまま再掲します。


 12月13日、日本軍は南京を占領しました。逃げ場を失った中国軍兵士は、大挙として軍服を脱ぎ捨て、難民が避難していた安全区に逃げ込みました。

 14日から16日にかけて、日本軍は、避難民の中から元兵士とおぼしき人物を選別し、そのまま揚子江岸などに連行して殺害しました。歩兵第七連隊の戦闘詳報によれば、その数は七千人弱、と伝えられます。

 その選別方法はアバウトなもので、その中には大量の民間人が混入していたものと見られます。

 さらに17日の入城式後も、「安全区掃討」は続きます。佐々木到一少将によれば、1月5日までに、さらに二千名が摘出されました。



 戦後になり、この「安全区掃蕩」が「日本軍の残虐行為」として問題にされました。

 「なかったことにしたい派」としては、「事実」を否定できない以上、何とか「論理」で「問題ない」ことにしてしまうしかありません。

 そこで「否定派」が編み出した論理が、「彼らは、「便衣兵=国際法違反の違法戦闘員」であった。従って「捕虜になる資格」はなく、捕え次第殺害することに問題はなかった」というものです。

 しかしこれに対しては、「もし中国軍敗残兵が「違法戦闘員」であるならば、その処刑には裁判の手続きが必要であったはずだ」という指摘が行われました。

 以下、安全区掃蕩における「裁判の必要」論につき、詳しく見ていきます。
※以下、一部他の記事との重複はありますが、この問題を統一的に俯瞰した「まとめ」の意味で掲載しました。


 まず、当時においても、「便衣兵」を「戦時重罪人」と認定して処刑しようとするのであれば、「裁判」の手続きが必要である、というのが、国際法上の定説でした。

立作太郎『戦時国際法論』

 凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。

 戦時重罪人中(甲)(乙)(丙)(丁)中に列挙したる者の如きは、死刑に処することを為し得べきものなるも、固より之よりも軽き刑罰に処するを妨げない。

(日本評論社、昭和六年発行、昭和十一年五版 P49)


篠田治策『北支事変と陸戦法規』より

 而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず
。何となれば、殺伐たる戦地に於いては動もすれば人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。

(「外交時報」 84巻通巻788号 昭和12年10月1日 P54-P55)


海軍大臣官房 『戦時国際法規綱要』

(ハ)処罰

(1)戦時重罪は、死刑又は夫れ以下の刑を以て処断するを例とす。

之が審問は、各国の定むる機関に於て為すものなるも、全然審問を行ふことなくして処罰することは、慣例上禁ぜらるる所なり。(P54)


(上記注)

(二)日露戦争の際、我軍の採用したる軍律、法廷の編成及裁判手続に関する原則、概ね左の如し。(有賀長雄氏著日露陸戦国際法論第六三九、及六四〇頁)

(イ)軍法会議と軍律法廷とを判然区別し、軍律を適用する為には軍法会議の如く綿密にして時間を要する手続を必要とせず、将校及相当官又は文官を以て特別の委員を組織し、更に敏速なる手続に依り犯罪を処決したり。

(ロ)軍律法廷に於ては形式を簡単にしたりと雖も、尚合議裁判の制を確守し、少なくも三名の委員に於て多数を以て有罪の決定を為したり。
(P55)


 当時の国際法の権威、立博士。外務省筋の「外交時報」。そして海軍大臣官房。このような当時一級の「権威」が、口を揃えて「戦時重罪人を処罰するには審問あるいは裁判が必要である」との認識を示しています。

 これが当時における、政府関係筋の一般的な見解であった、と言っていいでしょう。



 実際の話、「戦時重罪人の処罰には裁判の手続きが必要である」ということは、当時の世界においても「ルール」として認識されていました。

 例えば「南京事件」を目撃したスティール記者は、「便衣兵容疑者」を「略式裁判もなしに、殺戮」したことを非難しています

一九三七年十二月十八日

南京のアメリカ人の勇敢さを語る

A・T・ステイール


<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特電
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三七年


上海、十二月十八日発。

 日本軍の巡回部隊が街路を走り、家々を捜索し、多数の人々を便衣兵容疑者として逮捕していった。そのうち帰ってきた者は少数だが、それによれば捕らえられた仲間は略式裁判もなしに、殺戮されたという。

 私はこれら処刑部隊の一つを目撃し、その他の人々の恐ろしい結末をいくつもいくつも見てきた。より辛かったのは、決して帰ってこないであろう息子や夫たちを返してくれるよう哀願する女たちの泣き喚き、むせび泣くのを聞かなければならなかったことだった。(P471)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)


 ドイツ大使館のクレーガー、ローゼンも、同様のことを書き残しています。 

外交史料(私的報告)一九三八年一月一三日付
作成者 クレーガー(南京)


 南京城内とくに難民収容所の徹底捜索は、一二月一四日に始まった。
 
 脱ぎ捨てられた多数の軍服は、城内に兵服をまとった大勢の兵士が潜伏していることを日本側に示唆していた。

 これを大義名分にして、残虐行為が容認され、無数の全く無意味な射殺が日常業務と化した。

 収容所の捜索はまったく無差別で、勝手気侭に何度も繰り返された結果、わずか数日の間に、いかなる軍法会議(軍律会議)もなく、また市民からの一発の発砲もなかったにもかかわらず、五、六千人が射殺された

 その大部分が、埋葬の手間を省くため、川岸で撃ち殺された。

 この数字は控えめに見積もったものである。(P55)

(「ドイツ外交官の見た南京事件」所収)


ドイツ外務省(ベルリン)宛報告 一九三八年一月二〇日付
発信者 ローゼン


 おびただしい数の中国兵 ― 部分的に武装解除されていたが、どのみち抵抗力はなかった ― が安全区に逃げ込むのを、わずかな警官で制止することはできなかった。

 そのため日本軍は大規模な手入れをおこない、兵士だと疑われた市民はすべて連行された。

 一般に、兵士の印として、頭にある円形のヘルメットの跡や、銃を肩にかついだり、背嚢を背中に背負ってできる痣などが調べられた。

 また、複数の外国人目撃者の証言によれば、日本軍は多くの中国兵に「危害は加えない。仕事を与えよう」と約束して彼らを安全区の外に連れ出し、殺害した。

 いかなる軍事裁判も、またこれに類する手続きも一切おこなわれた形跡はなかった

 そもそもこうした手続きは、あらゆる戦時国際法の慣例と人間的な礼節をかくも嘲り笑う日本軍のやり方にはふさわしくないものであったろう。(P115)

(「ドイツ外交官の見た南京事件」所収)


 さらに、「極東軍事裁判」でのやりとりです。

極東軍事裁判速記録

○ウェッブ裁判長 中国人は其の服を脱ぎ棄てたからと云ふ理由で、射殺することは出来ませぬ。彼等は後から正当な法律手続を履んでから処刑されるべきであります。さうして確証が上って後に・・・

○ローガン弁護人 併しながら此の兵服を棄てた中国人が、他の中国の民間人を掠奪し、さうして虐殺したと云ふことも、此の文書に依って明らかになるのであります。此の事件に付ての総べての事実を、只今此の時に当って裁判所側に打明ける必要があると思ひます。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P164)

 ウェッブ裁判長は、軍服を脱ぎ棄てた中国兵の「処刑」に当たり「後から正当な法律手続」が必要であった旨を述べています

 弁護人は、これには特に反論せず、彼等が「掠奪」「虐殺」を働いた者であることに触れるのみでした。



 また戦後のBC級戦犯裁判では、「処罰に当たり裁判の手続きがきちんと行なわれたか」ということが、しばしば争点になりました。

 岩川隆『孤島の土となるとも』は、戦後各地で行なわれたBC級裁判の事例を集めた労作ですが、起訴事実として、ゲリラやスパイなどを「正式な裁判の手続きなしに処刑した」といった表現が、あちこちに枕詞のように出てきます。

 各事例を見ると、裁判の争点は、概ね「軍律裁判を行なわなかったことに正当性(やむえない事情)はあったか」ということでした。「そもそも軍律裁判の手続きは不要」と主張した被告はいませんでした

岩川隆 『孤島の土となるとも』

 オーストラリア裁判のみならず、各国戦争裁判は、"人を殺すにはかならず裁判を経なければならぬ" "裁判を経ない処刑という行為は殺人罪である"という原則に拠っている。(P753)



 当然のことだが、裁判する側は"無裁判処刑"を最も憎んでおり、典型的な戦争犯罪とする。死刑の判決を受けた者のほとんどはこの範疇に属していた。(P54)


 
 きちんとルールに従って裁判が行なわれた場合は、連合国側でも「戦犯」認定はしにくくかったようです。例えば北博昭氏は、このように評します。

北博昭 『軍律法廷』(朝日選書)

 アメリカ軍が問うた空襲軍律の適用事例の場合はともかく、所定の手続きにしたがった軍事法廷の審判は、おおむね戦犯裁判の対象になりようがなかったようだ

 たとえば、つぎのような軍律審判の場合、戦後、イギリス側の戦犯委員によるきびしい取り調べがなされたものの、その審判に関して起訴すらされていない。(P38)




 「BC級戦犯裁判」の典型的なケースとして、「安全区掃蕩のシンガポール版」とも言うべき、「シンガポール華僑虐殺」(1942年4月)を紹介します。(詳細はリンク先をご参照ください)

 シンガポールを陥落させた日本軍は、ただちに住民に対する「検問」を開始し、敵性分子と思われる者を選別して処刑しました。その数は、少なくとも数千名に及ぶものと伝えられます。

 まずは、戦後の戦犯裁判で「事件」に関して有罪判決を受けた、河村参郎と大西覚です。(河村は絞首刑、大西は終身刑=のち釈放)

河村参郎『十三階段を上る』

 本来これ等の処断は、当然軍律発布の上、容疑者は、之を軍律会議に附し、罪状相当の処刑を行ふべきである。

 それを掃蕩命令によって処断したのは、形式上些か妥当でない点がある
が、それを知りつつ軍が敢へて強行しなければならなかった原因は、早急に行はれる兵力転用に伴ひ、在昭南島守備兵が極度に減少しなければならない実情にあったためである。(P167)



大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 不幸にもこの厳重処分の慣行は、大東亜戦争にも例外ではなく、南方作戦の至るところで実施された嫌いがある。

 その最たるものが、昭南(シンガポール)粛清事件であろう。

 占領軍が、その占領地の安寧を期するため、掃蕩作戦を行うことは、軍として当然の任務であるが、現に対敵行為をしていない者を捕え、それがたとえ、義勇軍または抗日分子であったとしても、即時厳重処分に附したことは大なる間違いであった。(P92)


 連合国側のみならず、「被告」の側である河村、大西とも、裁判抜き処刑は問題であった、と認識しています

 
 さらに全国憲友会編『日本憲兵正史』の記述を紹介します。

 以下の「シンガポール華僑虐殺」に関する部分は上の大西覚の記述になるものと思われますが、これは同時に、元憲兵の組織である全国憲友会の、「公式見解」に近いもの、と考えられるでしょう。

『日本憲兵正史』より

 シンガポール攻略戦に先立ち、軍首脳が華僑の反日行動を予想したのは当然であるが、逮捕した華僑を処分するには、やはりそれなりに納得できる証拠や法的手続が必要である。

 不満足な調査によって処分を急いだことは、何といっても軍の責任を免れることはできない。


 惜しまれるのは、軍上級幕僚の中に、職を賭しても正義を貫く真の勇者がいなかったことである。(P979-P980)

 憲兵は憲兵学校において必ず国際法を始め多くの法律を学んでいる。したがって裁判や刑の執行については、軍司令官以下の幕僚よりはるかに専門家であった。

 だからこそ、華僑粛清に初めから消極的であり、処刑には疑問をもっていたのである。

 しかしながら、命令によって刑の執行に当たったため、敗戦後、憲兵はこの事件の責任を負わされ戦犯の筆頭にされてしまった。

 憲兵の戦犯のほとんどはこのような例が多い。さらに憲兵の悪名は、いまもなおこの種のものから払拭されていないのは、まことに残念なことである。(P980)


 以上、「戦時重罪人の処罰には裁判の手続きが必要」ということが、当時においても「ルール」として認識されていたことがわかります。



 今日では、秦郁彦・中村粲・原剛・板倉正明・北村稔といった、「史実派」と大論戦を繰り広げてきた保守派・右派論客も、「安全区掃蕩は問題あり」という見解です「南京事件 初歩の初歩」でそれぞれの発言を紹介しています)

 さらに否定派の大御所、東中野修道氏までが、「便衣兵」を処罰するためには「軍事裁判ないしは軍律裁判」の手続きが「不可欠」であった、と述べるに至ります。(「敗残兵狩り」は「合法」か?−「国際法」をめぐる吉田・東中野論争−参照)

 「安全区掃蕩における無裁判処刑は問題であった」という認識は、論壇のほぼコンセンサスになっている、と言っていいでしょう。

(2021.5.5)


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