東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (1)
捕虜殺害は「合法」だったか (上海戦)


 私が東中野氏の『「南京虐殺」の徹底検証』の批判を行ったのは、もう5年以上前のことでした。その後東中野氏は、「南京事件」に関連する膨大な著作群を発表しつづけています。

 東中野氏の著作には、初期の頃に比較すれば「もっともらしさ」が加わり、少しはソフィスケートされたようにも思えます。しかし、論理の粗さ、引用のいい加減さについては、以前の著作とそう大きな差はないように感じます。

 ここでは、氏の最近の著作『再現 南京戦』を材料に、氏の記述の検討を行っていくことにしましょう。




 氏は、「上海戦」当時の「捕虜殺害事例」をとりあげ、果してこれは本当に「国際法違反」なのか、また、「国際法違反の処刑を当然視する気分」が当時一般的なものであったのか、という問題提起を行います。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第1章より


二つの「戦闘詳報」の検証


 一三頁で触れた二つの「戦闘詳報」をもう一度見ておくと、一つは名古屋三師団の静岡三十四連隊の 「大場鎮附近戦闘詳報自昭和十二年十月十六日至昭和十二年十月二十七日」で、そこには「俘虜ノ大部分ハ師団ニ送致セルモ、一部ハ戦場ニ於テ処分セリ」と書かれていた。

 もう一つは、仙台十三師団新発田百十六連隊の「戦闘詳報」で、そこには、「十月二十一日より十一月一日に至る」間の出来事として、俘虜数が「二九」と記され、備考欄には「俘虜ハ全部戦闘中ナルヲ以テ之ヲ射殺セリ」と記録されていた。

 この二つの戦闘詳報を秦郁彦教授は次のように論評していた。

《戦闘詳報は後世に残る公文書であり、作成仁当っては都合の悪い部分は適当に加除して体裁を整えるのが慣行になっていた。・・・その戦闘詳報に国際法違反の行為を堂々と記載したのは、すでに捕虜殺害が当然という気分が全軍にいきわたっていたことを物語る》(『南京事件』六六頁)

 はたしてこの「処分」や「射殺」を「国際法違反」と判定できるのであろうか。そしてまた「俘虜」の「処分」や「射殺」― すなわち国際法違反の処刑を当然視する気分が、すでに上海戦当時から日本軍全体に渡っていたのであろうか。

(同書 P22)



 そして東中野氏は、信夫淳平教授のいわゆる「戦数」論、すなわち「戦闘の都合上真にやむえない場合の捕虜殺害は違法とはいえない」という考えを紹介します。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第1章より


「捕虜殺害は当然という気分」はなかった

 信夫淳平(当時早稲田大学講師、戦後教授)は『戦時国際法提要』において次のように説いている。

《ハレックは、捕獲者に於て俘虜の収容又は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向かふこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと説く。事実、 之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである》 ( 上巻四二二頁 )

 すなわち俘虜 (POW=prisoner of war)を収容もできない、給養もできないといった状況のとき、しかも俘虜を解放して逃がせば、やがて俘虜が軍に刃向かってくることが歴然としているとき、軍としてはどうすべきか。 「俘虜を殺す以外に軍の安全を期する方途がないというようなときには、これを殺しても、勿論それを非難すべき理由はない」と、信夫博士はハレックに依拠して説いている。

 (同書 P24)


 この「論理」を援用して静岡三十四連隊及び新発田百十六連隊の「捕虜殺害」を正当化しようとするならば、常識的には、このケースが「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」であったことを説明しなければならないでしょう。

 しかし東中野氏の説明は、何とも乱暴なものです。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第1章より
 

 従って二つの戦闘詳報は、激戦の最中であったから、反抗的であることが歴然としている俘虜は解放できないので処刑したと解されるのである。すなわち「気分」で処刑したのではなく、「激戦」のなか合法と判断して処刑したのである。

 その証拠に、静岡三十四連隊の「戦闘詳報」は「俘虜の大部分は師団に送致したが、一部は戦場において処分した」というふうに、処分したのは「一部」であったと書いている。見境なく全員を処刑したのではなかった。

 また新発田百十六連隊の「戦闘詳報」も俘虜の項目に俘虜数として「二九」と書き、その「二九」について「俘虜は戦闘中であったがゆえに全部射殺した」と、わざわざ備考欄に「戦闘中の処刑」であったことを断り書きしている。

(同書 P24-P25)


 念のためですが、東中野氏の前の文章とこの文章の間に、「省略」は全くありません。なぜここからいきなり「従って」ということになるのか。 この強引な論理展開に思わず呆れてしまったのは、私ばかりではないでしょう。

 言うまでもありませんが、「ルールがあるのだからみんなそれに従ってきたはずだ」という発想自体、おそろしく奇妙なものです。この「発想」を敷衍すれば、そもそも「交通違反」など、この世から消えてしまうはずです。

 そうでないからこそ、過去さまざまな研究者が「どうして日本軍は「国際法」のルールを平気で無視する軍隊になってしまったのか」という研究を行ってきているわけです。


 さて、秦氏のこの部分の記述を、確認しておきます。

秦郁彦氏 『南京事件』 より

 上海戦の捕虜処分

 まず上海派遣軍方面では、捕虜(俘虜)の処刑を記載した戦闘詳報が二つ見つかっている。

 一つは第三師団の歩兵第三十四連隊で、大場鎮の戦闘での「鹵獲表」に、俘虜一二二名とかかげ、「俘虜ノ大部ハ師団ニ送致セルモ、一部ハ戦場ニ於テ処分セリ」(歩兵第三十四連隊「自昭和十二年十月十六日至昭和十二年十月二十七日大場鎮付近戦闘詳報」)と注記している。

 もう一つは第十三師団の歩兵第百十六連隊の戦闘詳報で、「俘虜准士官下士官兵二九」として、「俘虜ハ全部戦闘中ナルヲ以テ之ヲ射殺セリ」(歩兵第百十六連隊「自昭和十二年十月二十一日至昭和十二年十一月一日劉家行四方地区ニ於ケル戦闘詳報」)とある。

 戦闘詳報は後世に残る公文書であり、作成に当っては都合の悪い部分は適当に加除して体裁を整えるのが慣行になっていた。不名誉な死亡事故を「壮烈な戦死」に修飾するぐらいは珍しくなかったが、その戦闘詳報に国際法違反の行為を堂々と記載したのは、すでに捕虜殺害は当然という気分が全軍に行きわたっていたことを物語る。

(P68)


 そのそも「戦闘詳報」のこれだけの記述では、どのような状況で「殺害」が行われたのかを知ることはできません。

 「三十四連隊」の記述は、「戦闘詳報」の「鹵獲表」として掲載されているものです。これだけの記述で、捕虜を殺害したのが果して「激戦の最中」だったのかどうか、という判断はできないでしょう。

 百十六連隊にしても、「戦闘詳報」の「戦闘中」との言葉を、東中野氏は勝手に「激戦の最中」と拡大解釈する「印象操作」を行っています。

 ましてや、捕虜が「反抗的」であったかどうかなど、何の記録もないのですから、判断のしようがありません。「激戦の最中であったから、反抗的であることが歴然としている俘虜は解放できないので処刑した」というのは、東中野氏の勝手な想像であるに過ぎません。


 だいたい信夫教授の記述を素直に読めば、捕虜殺害が正当化されるのは「絶対に他途なし」という極めて限定された状況でのことです。捕虜が反抗的であったかどうかなどわかりようもありませんので「材料」とすることはできませんし、 「激戦の最中」でありさえすれば処刑して構わない、という乱暴な考え方は、少なくとも信夫教授の容れるところではないと思われます。

 


 さらに言えば、そもそもこの「戦数」理論自体、争いのあるものです。吉田裕氏の記述を引用します。

吉田裕氏『国際法の解釈で事件を正当化できるか』より


 投降兵や捕虜の殺害を正当化するもう一つの論拠は、前掲『南京戦史』がいうように、「そもそも捕虜の処断は『ハーグ陸戦法規』により不法であるが、苛烈な戦場に於ては状況上止むを得ぬ場合があることを国際法学者も認めている」というものである。

 『封印の昭和史』が、「正当防衛、緊急避難の権利」を、『「南京虐殺」の徹底検証』が「自己防衛の権利」を、主張しているのも同様の意味である。

 特殊な状況の下では、戦争の法規・慣例の遵守義務より軍事上の必要性が優先されるとする学説は、一般に「戦数」とよばれ、投降兵の取り扱いなどがその典型的な事例とされる。

 しかし、そうした学説に対しては、当時からきびしい批判があった。例えば、横田喜三郎『国際法(下)』(有斐閣、一九四〇年)は、「かような範囲の広く不明確な例外を認めるときは、戦闘法規の違反に対して容易に口実を与へることになる」などとして、この学説を明確に否定している。

 さらに重要なのは、海軍大臣官房『戦時国際法規綱要』(一九三七年)である。「海軍士官の実務に資し兼て其の研究材料として適当」と認められて部内に配布されたこの本は、 「戦争目的を達成する為には、戦争法規を度外視し得べしとの説を為す者なきに非ざるも、正当なる見解に非ず」とした上で、「戦数」についてもこの学説を次のように、しりぞけていたのである。


独逸系学者中に、戦争法規の外に、戦数即ち戦争の必数なるものありて、普通の交戦法規に遵ふときは緊急状態を脱し得ざるか、又は戦争の目的を達成し難き場合には、戦争法規外の行動に出づることを得との説を唱ふる者あり。

畢竟或る場合には、戦争法規は之を度外視得べしとの主張に他ならず。右説は之を採用すべきに限に在らず。


 もっとも、『南京戦史』が指摘するように、ある状況の下では捕虜や投降兵の殺害は許容されると考える信夫淳平のような学者もいた。

 しかし、その場合でも、信夫の前掲『戦時国際法講義』第二巻が、「事実之〔捕虜ロを殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無い」としているように、そうした状況はきわめて限定的に解釈されていたことに注目する必要がある。

(『南京大虐殺否定論13のウソ』 P171-P172) 


 さらによく読むと、東中野氏は、信夫教授の記述を微妙に言い換えています。

A(信夫教授):《ハレックは、捕獲者に於て俘虜の収容又は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向かふこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと説く。事実、之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである》 ( 上巻四二二頁 )

B(東中野氏):すなわち俘虜 (POW=prisoner of war)を収容もできない、給養もできないといった状況のとき、しかも俘虜を解放して逃がせば、やがて俘虜が軍に刃向かってくることが歴然としているとき、軍としてはどうすべきか。 「俘虜を殺す以外に軍の安全を期する方途がないというようなときには、これを殺しても、勿論それを非難すべき理由はない」と、信夫博士はハレックに依拠して説いている。


 AとBを比較すると、東中野氏は、信夫教授の説のポイントとなる、「絶対に」という語句を落としていることに気が付きます。



 念のため、信夫教授の記述を確認しておきましょう。

信夫淳夫『戦時国際法講義』第二巻より


八四四 その条件及び限度 

 されど俘虜は如何に人道を以て取扱ふべきものとするにもせよ、元々彼は俘虜の身である。俘虜は権利を有するも、義務をも有すること勿論である。故に俘虜は捕獲国に於てその法令及び命令に逐一服従せしむべきは論なく、 徒らにお客様扱にすべきものでない。又俘虜としてそれを要求し得るものでない。(P112-P113)

 俘虜は人道を以て取扱はるべきことの当然の条件として、捕獲者の軍隊に抵抗するを許されず、抵抗すれば本来の敵兵に還元し、随って殺害に遭ふことあるべきは当然である。抵抗はせざるも、 戦場にて多数の敵を捕へたる場合に、俘虜として之を後送するは七面倒臭しとして、一挙之を殺戮して了ふのは古今の戦場にて有勝ちのことで、殊に捕虜後送中に敵の逆襲を受くるが如き場合には、 俘虜は手纏とて急ぎ之を片付て了ふことは想像するに難くない。

 一八七四年のブルッセル宣言案にも本条第二項の同様の条文あるが、当時同会議に於てこの問題を討議せる際、西班牙代表は俘虜後送中の軍隊は、 たとひ敵が之を奪回するの目的を以て攻撃し来るが如き場合に於ても、之を殺害することを得ざるものとす。但し俘虜にしてその攻撃に参加する場合には俘虜たるの性質を失ふ』との一項を挿加せんことを提議した。

 然るに俘虜は人道を以て取扱ふべしとの概括的条文は当然右の要求を包含すとの解釈を議事録に留むることにして、右の提議は否決となった。

 倖虜は後送に手纏になるからとて、その故を以て之を殺害すべきでなく、手纏になるようならば武装を解除せしめたる上之を解放すべきである

 但し後送中に俘虜が抵抗すれば別である。英国の野戦令には『俘虜にして後送中に抵抗する場合には之を射殺するを得』とあり(第二編第九章第二条)、仏国の同令にも 『俘虜の後送兵にして中途敵より攻撃を受けたるときは、倖虜に伏臥を命ずベし。その命令ありたる後尚ほ起立する者は之を射殺することを得。』とある(第百二十一条)。

 更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。(P113-P114)

 
之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く。

『極めて多数の俘虜を捕獲したるも之を安全に収容し又は給養することが能きず、しかも宣誓の上解放したればとて彼等能く之を守るべしと思へざる場合も時にあるであらう。 俘虜を収容するに方法なく且宣誓に依頼するを得る限りは、当然之を解放せねばならぬのであるが、 之を為す能はず文給養するの手段なしといふ場合には如何にすべき。軍の安全に直ちに脅威を感ずるをも顧みず之を解放せざる可らざるか、将た自衛の法則として彼等を殺害するに妨げなきか。 仮に軍の安全が敵−たとひ我軍に降伏したものにもせよ−のそれと両立し難しとせば、敵を殺害することが国に忠なる所以とすべきか。

『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。・・・自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。

 即ち要は、捕獲者に於て俘虜の収容文は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向うこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと為すのである。 事実之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしというが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである。(P783)

 要するに以上の如き特殊の場合は別とし、一般原則としては、俘虜は人道を以て取扱うべきが本体で、有も不従順の行為あるに非ざる限り、 敵味方の関係を離れ仁愛の情を以て適当に之を遇し、寧ろ祖国に忠勤を尽して志を達し得なかった者として之をいたわってやるといふのが武士の情けである。(P114-P115)

(『南京戦史資料集』 P782-P784)



 俘虜は、「人道を以て取扱うべき」ことを原則とします。信夫教授は、「戦数」理論が適用されるのは、「特殊な場合」と考えていました。 

 東中野氏の説明は、この信夫教授の考え方からすら離れた、強引なものであるといえるでしょう。




 しかも氏は、秦郁彦氏のあげる事例のうちたった二つに「解説」を加えただけで、もう秦氏の「すでに捕虜殺害は当然という気分が全軍に行きわたっていた」という論を否定したつもりになっています。

 しかし実証史家である秦氏の記述は、そんな単純なものではありません。秦氏の、これに続く記述を紹介します。

秦郁彦氏『南京事件』より

 それでも、捕虜の取り扱いについては一応の基準らしいものはあったようだ。第十三師団司令部が十二年十月九日付で通達した「戦闘ニ関スル教示」は、「11、俘虜ノ取扱ニ就テ」で次のように指示している。

「多数ノ俘虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス。又俘虜中将校ハ・・・師団司令部ニ護送スルヲ要ス。此等ハ軍ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝ニ利用スル・・・但シ少数人員ノ俘虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宜処置スルモノトス(「第十三師団戦闘詳報」)

 どうやら小人数のしかも下級兵士は、その場で処刑してかまわないという方針だったようで、その一例を第三師団兵士の手記から引用しよう。

 「占領した敵陣地のトーチカ内に敵兵が三人潜んでいた。満州事変に従軍して匪賊の首を斬ったことのあるという柴田上等兵が、斬首処分にしようと言いだした。(中略)斬首に決まると柴田上等兵は要領よく兵隊を指図して、三人の敵兵をクリークの土堤に並べて正坐をさせ・・・私は仕度をととのえて、借物の軍刀を構えて敵兵の背後に立った」(曽根一夫『私記南京虐殺』 )(P69)

*「ゆう」注 文章が続いておりますので一応引用文に含めましたが、曽根氏のこの著作については、氏が実際に体験した通りの正確な記述を行ったのかどうか、板倉由明氏などが疑問を呈しています。

(同書 P68-P69)



 「捕虜殺害は当然という気分」どころか、「少数人員の俘虜」は「適宜処置するものとす」という師団命令が出されていました。東中野氏は、秦氏のこの記述をスルーしてしまったわけです。



 実際の話、「上海戦、および南京追撃戦における捕虜殺害」の資料は、あちこちで目にすることができます。

 例えば、既に私のサイトで紹介済みですが、第十八師団の一兵士として従軍した「麦と兵隊」の作者、火野葦平氏の手紙です。

火野葦平の手紙より

 つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、 誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。

 支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。

 中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。

 散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。

 すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出eして動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。 泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。

 壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。


 どうみてもこれは、「激戦の最中」の出来事ではありません。




 さらに秦氏は、之に続く記述で、「捕虜殺害」どころか、「住民の無差別殺害」までもが横行していたことを示唆しています。

秦郁彦氏『南京事件』より

 平松鷹史『郷土部隊奮戦史』に、一時、上海派遣軍へ編入され崑山へ進撃中の第六師団司令部へ、「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という命令が届き、「こんなバカな命令があるか」と平岡副官が握り潰した話が出てくる。
* 従軍カメラマンの河野公輝氏の回想もある。『証言記録・三光作戦』四六〜四七ページを参照。筆者も当時第六師団歩四十五連隊長だった竹下義晴氏から、火の始末を注意したところ、部下の大隊長から「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのを新連隊長は知らないのですか」と反問された話を聞いたことがある ( 昭和二十八年十一月二十八日竹下談〉。

 また国崎支隊の歩四十一連隊に従軍した宮下光盛一等兵は、杭州湾上陸時に、「我が柳川兵団は上陸後、(1)民家を発見したら全部焼却すること、(2)老若男女をとわず人間を見たら射殺せよ」(宮下手記『徒桜』〉との命令を受けたという。

 第十軍の命令綴にはこの種の資料は欠けているが、「山川草木すべて敵なり」と異常なまでの敵愾心を燃やしていた柳川平助軍司令官のことだから、類似の訓示や督励があったのかも知れない。
*杭州湾上陸前に交付された第十軍の「軍参謀長注意事項」〈池谷資料 ) には、軍紀の厳守、不必要な家屋焼却の禁止、弾薬の節約、生水飲用の禁止などと並んで、「七、支那住民ニ対スル注意」という項目があり、 住民には老人、女、子供といえど危険なことがあるから注意せよ、と戒め、「斯ノ如キ行為ヲ認メシ場合ニ於テハ些モ仮借スルコトナク断乎タル処置ヲ執ルベシ」としている。誤解を招きやすい表現であり、末端に伝述されるときには、宮下証言のような主旨で伝わった可能性がある。
 ところが民家を焼いて行く悪習は味方の後方部隊を苦しめることになったので、あわてた軍司令部は禁令を出した。たとえば歩兵第九旅団 ( 国崎支隊 ) の陣中日誌に、「会報ヲ開キ各隊ニ注意ス、1、何等ノ目的ナク故意ニ家屋ヲ焼却スルモノアルモ・・・十分取締ラレ度」(十二月三日)とある。


 命令の有無はともかく、住民の無差別殺害は現実に横行した。第十軍に従軍した前記の河野カメラマンは、「川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から崑山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた」 ( 『証言記録・三光作戦』四六〜四七ページ ) という見聞を書きとどめている。

 敗残兵や捕虜の処刑も当然のように続発した。第十八師団に下士官で従軍した作家火野葦平の『土と兵隊』にもいくつかの処刑場面が描かれているが、同じ師団の村田和志郎伍長(歩百二十四連隊)が書いた『日中戦争日記』には、小人数の女性殺害、捕虜斬殺が数件あるほか、十一月二十四日湖州城外で、三百人の捕虜が刺殺、焼殺された惨劇のあとを記している。

 村田は第六師団の仕業か? と見当をつけているが、崑山占領後反転して追及中の第六師団は、はるか後方にあり、下手人は前日に湖州へ突入した国崎支隊だったと思われる。

 歩四十一連隊第三大隊の戦闘詳報には、次のような記述がある。

「十一月二十二日一五○○、計家湾ニ到着、コノ時敗残兵約二百白旗ヲ樹テ数家屋ニ集結シアルヲ以テ捕虜トスベク努メタルモ、至近距離ニ達スルヤ、ピストル、手榴弾ヲ持テ抵抗セルニヨリ全部之ヲ刺殺又ハ射殺ス。一六二○、八里店東方ニ達スルヤ・・・敵約五、六百ハ全ク退路ヲ失ヒ俘虜トシ敵ヲ殲滅ス」(P72)

 ついでに紹介するが、国崎支隊の戦闘詳報によると、松江で五二八六人 ( 十一月九〜十日)、北橋鎮で七三三人(十一月十二日〉、湖州地区で六五○人(十一月十九日〜二十四日〉、浦口で六二五人(十二月十二〜十三日)、揚子江中の江興洲で二三五○人(十二月十四日)の捕虜獲得が記載されている。その行方は不明だが、処刑された例が少なくない、と思われる。

(同書 P69-P73)






 さらに東中野氏は、上の文章に続けて、こんな記述を行っています。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第1章より


 なお、静岡三十四連隊の「戦闘詳報」は「俘虜の大部分は師団に送致した」と記しているが、日本軍は捕虜収容所を設置していたのかどうかも見ておきたい。

 上海戦が始まって一カ月も経たないころの一九三七年(昭12)九月末、スイスの国際赤十字代表としてドゥワットヴィユ大佐が視察にきたとき、日本の陸海軍は「俘虜収容状況」にかんする記録を手渡している。それが信夫淳平『戦時国際法提要』に出ていて、『南京戦史資料集I 』 (I 七八四頁以下 ) に抄録されている。

 それによれば、日本軍は三元宮収容所と楊樹浦眉州収容所を上海市内に設置している。その二つの捕虜収容所では一九〇七年(明40) のハーグ陸戦法規に基づいて、健康な下士官兵のみを軽労働に従事させ、負傷した捕虜の診療をもおこない、つねに日本軍兵士と同じ食事を提供していた。これは国際赤十字代表の現地視察のさいに手交された覚え書きであるから、日本軍が捕虜収容所を設置していたのは確かな事実であった。

(P25)


 これを読んだ方は、間違いなく、「静岡三十四連隊の捕虜は捕虜収容所に収容されたはずだ」と錯覚します。

 しかし、信夫教授の実際の記述は、こうでした。

八四九 支那事変に於ける支那俘虜

 昭和十二年以降の支那事変は、名は事変と云ひながら実に於ては近代の大戦の一なりしことは既に述べた如くで、随って該戦役中の累次の会戦に於て我軍の俘虜となりたる支那兵は、蓋し移しき数に達したことと想像するが、之に関する完全の公的資料は本講執筆の際までには之を閲するを得なかったので、その俘虜状況に関しては之を記述する能はざるを遺憾とする。

 然しながら事変の初期即ち昭和十二年の九月末頃に於ける俘虜取扱状況に関しては、当時我が陸海軍の当該官憲の好意に由り、その草せる簡単ながらも有益の一記事を入手するを得た。

 これは当時日支両戦線の衛生状況視察として来滬の在瑞西国際赤十字代長ドワットヴィユのために起草し且彼に交付したもので、随って公表に妨げなきものであるから、之を左に紹介する。

第一、俘虜収容状況

(一)支那軍の抗日意識強かりしこと、(二)多少とも我軍に投降の疑あるものは督戦隊に依り処分せられあること、(三)上海附近の戦闘は活発なる運動戦と異なり市街戦及陣地戦的性質を有すること等のため、従来支那兵の投降し来たりるもの少なかりしも、最近急速増加の兆あり。

 然れども上海背面の広大なる戦線に於て右の如く急速増加する俘虜に対し調査、防疫、治療等仮収容を為すため時日を要し、未だ全部を一定の場所に収容するの域に達せす。その大部分は各司令部本部に収容中なり。

 従て上海市内に於ける収容所たる三元宮及眉州のニケ所の俘虜総数は現在四十七名なり。

 上海武昌路三〇六番地の三元宮収容所に収容中の俘虜は支那陸軍准士官二名、下士官四名、兵二十名、計二十六名にして、帝国海軍陸戦隊安田海軍中佐以下憲兵二名、在郷軍人七名を以て之か取扱監視に任ぜしめあり。

 楊樹浦眉州の収容所に於て取扱ひつつある俘虜は将校一、下士官二、兵十八計、二十一名にして、帝国陸軍の佐藤中佐を主任とし、之に尉官二(内一は軍医)、下士官ニ、憲兵一、及衛兵一〇をして之が取扱監視に任ぜしめつつあり。

(以下略)

(『南京戦史資料集』 P784)




 当時講者は上海に在りて帝国艦隊の国際法事務に参与し居れる関係上、海軍側に属する右の俘虜収容所は勿論とし、楊樹浦眉州の陸軍のそれをも広瀬陸軍軍医大佐(義夫氏)の好意に依り、共に巡視するの機会を得た。而してその執れも所内極めて整頓し、俘虜の取扱方に於ても何等間然する所なきを目撃した。

 尤も収容俘虜の数は海軍側二十六名、陸軍側二十一名という極めて僅少の数に過ぎざりし当時であったから、法規慣例の命ずる所に則りて之を取扱ふに格別困難を感ぜざりしならんが、兎に角該事変の初期に於ける在上海帝国陸海軍官憲の俘虜の収容及び取扱振に就ては、寸毫の遺憾だに無かりしものであった。

 その後海軍側には、敵兵を新に俘虜とせるもの幾許もなかったが、陸軍には敵の大部隊との累次の大戦闘と共に俘虜も相当数に累計せられたことと察する。上海戦の如き陣地戦にありでは、敵は退却に方り概ね村落を焼払ひ、殆ど一兵を残さずして撤退するの余裕もありしなるべく、随って陣地戦に於ては俘虜の割合に少なきは想像すべきが、山野の運動戦となると包囲も追撃も行はれ、この間には敵の乞降兵も相応にあったであらう。

 その俘虜は如何に之を取扱へるか。徐州方面の戦闘の一通信記事に『午後六時〔五月十九日〕までに判明した報告に依れば、徐州にては約三千人、臥牛山で一千人、宿県附近で二千人、固鎮で一千人と相次で我軍への敵大量投降者が続出し、我軍はその収容に大童になってゐる』とあるが(読売新聞社編、支那事変実記第十輯、第一七二頁)、俘虜に関するこの稀有の記事も、その収容後に於ける皇軍の俘虜取扱状況には触れてない。

 その後の大小会戦毎に、新聞通信の上に現はれたる戦闘そのものの記事の詳細なるに比較し、俘虜に関するそれは常に割合に乏しかりしを感ずる。

 皇軍は対支戦に於ても俘虜の取扱に関し如何に国際法則の遵由に忠実なるかを講者は全世界に紹介せんと欲し、必要なる資料を獲んと努めぬではなかったが、事実全然之を入手するに由なく、又新聞紙の報道記事とても、稀に捕虜の支那将兵の皇軍礼讃の談片を掲ぐる以外に、凡そ俘虜に関しては殆ど伝ふる所ありしを見ない。

(同 P786-P787)

 この「捕虜収容所」の記述は、三十四連隊の戦闘に先立つ九月のものです。収容人員はわずかに四十七名。この時点では、「未だ全部を一定の場所に収容するの域に達せす。その大部分は各司令部本部に収容中なり」という状況でした。

 そしてその二年後のこの本の執筆時点ですら、信夫教授はそれ以外の「捕虜収容所」の記録を見出せていないことがわかります。


 南京戦の捕虜が上海に送られたという記録もあり、「南京戦」以降において一定規模の「捕虜収容所」が存在したこと自体は事実でしょう。しかし、この時点での「捕虜収容所」の記録は、たった四十六名分だけです。三十四連隊の捕虜がどのような待遇を受けていたのかは、「不明」としておく他はありません。

(2007.8.6)


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