東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (1) |
捕虜殺害は「合法」だったか (上海戦) |
私が東中野氏の『「南京虐殺」の徹底検証』の批判を行ったのは、もう5年以上前のことでした。その後東中野氏は、「南京事件」に関連する膨大な著作群を発表しつづけています。 東中野氏の著作には、初期の頃に比較すれば「もっともらしさ」が加わり、少しはソフィスケートされたようにも思えます。しかし、論理の粗さ、引用のいい加減さについては、以前の著作とそう大きな差はないように感じます。 ここでは、氏の最近の著作『再現 南京戦』を材料に、氏の記述の検討を行っていくことにしましょう。 氏は、「上海戦」当時の「捕虜殺害事例」をとりあげ、果してこれは本当に「国際法違反」なのか、また、「国際法違反の処刑を当然視する気分」が当時一般的なものであったのか、という問題提起を行います。
そして東中野氏は、信夫淳平教授のいわゆる「戦数」論、すなわち「戦闘の都合上真にやむえない場合の捕虜殺害は違法とはいえない」という考えを紹介します。
この「論理」を援用して静岡三十四連隊及び新発田百十六連隊の「捕虜殺害」を正当化しようとするならば、常識的には、このケースが「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」であったことを説明しなければならないでしょう。 しかし東中野氏の説明は、何とも乱暴なものです。
念のためですが、東中野氏の前の文章とこの文章の間に、「省略」は全くありません。 なぜここからいきなり「従って」ということになるのか。 この強引な論理展開に思わず呆れてしまったのは、私ばかりではないでしょう。 言うまでもありませんが、「ルールがあるのだからみんなそれに従ってきたはずだ」という発想自体、おそろしく奇妙なものです。この「発想」を敷衍すれば、そもそも「交通違反」など、この世から消えてしまうはずです。 そうでないからこそ、過去さまざまな研究者が「どうして日本軍は「国際法」のルールを平気で無視する軍隊になってしまったのか」という研究を行ってきているわけです。 さて、秦氏のこの部分の記述を、確認しておきます。
そのそも「戦闘詳報」のこれだけの記述では、どのような状況で「殺害」が行われたのかを知ることはできません。 「三十四連隊」の記述は、「戦闘詳報」の「鹵獲表」として掲載されているものです。これだけの記述で、捕虜を殺害したのが果して「激戦の最中」だったのかどうか、という判断はできないでしょう。 百十六連隊にしても、「戦闘詳報」の「戦闘中」との言葉を、東中野氏は勝手に「激戦の最中」と拡大解釈する「印象操作」を行っています。 ましてや、捕虜が「反抗的」であったかどうかなど、何の記録もないのですから、判断のしようがありません 。「激戦の最中であったから、反抗的であることが歴然としている俘虜は解放できないので処刑した」というのは、東中野氏の勝手な想像であるに過ぎません。 だいたい信夫教授の記述を素直に読めば、捕虜殺害が正当化されるのは「絶対に他途なし」という極めて限定された状況でのことです。 捕虜が反抗的であったかどうかなどわかりようもありませんので「材料」とすることはできませんし、 「激戦の最中」でありさえすれば処刑して構わない、という乱暴な考え方は、少なくとも信夫教授の容れるところではないと思われます。 さらに言えば、そもそもこの「戦数」理論自体、争いのあるものです。吉田裕氏の記述を引用します。
さらによく読むと、東中野氏は、信夫教授の記述を微妙に言い換えています。 A(信夫教授):《ハレックは、捕獲者に於て俘虜の収容又は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向かふこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと説く。事実、之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである》 ( 上巻四二二頁 ) AとBを比較すると、東中野氏は、信夫教授の説のポイントとなる、「絶対に」という語句を落としていることに気が付きます。 念のため、信夫教授の記述を確認しておきましょう。
俘虜は、「人道を以て取扱うべき」ことを原則とします。信夫教授は、「戦数」理論が適用されるのは、「特殊な場合」と考えていました。 東中野氏の説明は、この信夫教授の考え方からすら離れた、強引なものであるといえるでしょう。 しかも氏は、秦郁彦氏のあげる事例のうちたった二つに「解説」を加えただけで、もう秦氏の「すでに捕虜殺害は当然という気分が全軍に行きわたっていた」という論を否定したつもりになっています。 しかし実証史家である秦氏の記述は、そんな単純なものではありません。秦氏の、これに続く記述を紹介します。
「捕虜殺害は当然という気分」どころか、「少数人員の俘虜」は「適宜処置するものとす」という師団命令が出されていました。東中野氏は、秦氏のこの記述をスルーしてしまったわけです。 実際の話、「上海戦、および南京追撃戦における捕虜殺害」の資料は、あちこちで目にすることができます。 例えば、既に私のサイトで紹介済みですが、第十八師団の一兵士として従軍した「麦と兵隊」の作者、火野葦平氏の手紙です。
どうみてもこれは、「激戦の最中」の出来事ではありません。 さらに秦氏は、之に続く記述で、「捕虜殺害」どころか、「住民の無差別殺害」までもが横行していたことを示唆しています。
さらに東中野氏は、上の文章に続けて、こんな記述を行っています。
これを読んだ方は、間違いなく、「静岡三十四連隊の捕虜は捕虜収容所に収容されたはずだ」と錯覚します。 しかし、信夫教授の実際の記述は、こうでした。
この「捕虜収容所」の記述は、三十四連隊の戦闘に先立つ九月のものです。収容人員はわずかに四十七名。この時点では、「未だ全部を一定の場所に収容するの域に達せす。その大部分は各司令部本部に収容中なり」という状況でした。 そしてその二年後のこの本の執筆時点ですら、信夫教授はそれ以外の「捕虜収容所」の記録を見出せていないことがわかります。 南京戦の捕虜が上海に送られたという記録もあり、「南京戦」以降において一定規模の「捕虜収容所」が存在したこと自体は事実でしょう。しかし、この時点での「捕虜収容所」の記録は、たった四十六名分だけです。三十四連隊の捕虜がどのような待遇を受けていたのかは、「不明」としておく他はありません。 (2007.8.6)
|