東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (3)
第十六師団と捕虜
―その2 「投降後の逆襲」―


 東中野氏は、「捕虜ハセヌ方針」の意味を「最悪の事態を解消するための緊急避難命令」に過ぎないと決め付け、第十六師団、ひいては日本軍が、基本的には「国際法」を守った人道的な捕虜取扱いを行う軍隊であるかのように読者に印象づけようと試みました。

 その延長として、東中野氏は、「第四章 紫金山北麓や下関の京都十六師団」の中に「投降後の逆襲」と題する節を4つつくり、「降伏後も実は戦意旺盛、いつ隙を見て襲ってくるかわからない、恐ろしい敗残兵のイメージ」を定着させようと試みます。 氏は、「捕虜とした敗残兵」がこんなに危険なものであるならば、「捕虜はせ」ずに殺害してもやむえない、と言いたいのでしょう。

 しかし原文と東中野氏の紹介を読み比べると、必ずしも東中野氏望む結論を導きだせるとも限らないことがわかります。以下、氏が根拠とする4つの具体例を見ていきましょう。




事例1  紫金山南麓付近にて


 最初の事例は、六車正次郎少尉の証言です。余談ですが、六車少尉は「百人斬り競走」の野田少尉の戦友で、野田少尉のために「百人斬りの歌」をつくった、と伝えられます。 (百人斬日本刀切味の歌 参照)

東中野修道氏『再現 南京戦』第四章より

○投降後の逆襲 ― 紫金山南麓付近にて


 京都十六師団の京都九連隊は紫金山の南麓に展開していた。その第一大隊の副官であった六車政次郎少尉は次のように証言している。

《一ケ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、激戦により小隊は約三十名に減少していた。夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、日本軍が居るのに気付かず、南京に向って来たのを捕えた》( 「証言による〈南京戦史〉」七頁 )

 夜半に東の山中から敗残兵数百名が南京に向かってきたというから、それは十二月十三日の夜半のことであったろう。平時ならば七十名ほどの一個小隊が、この間の戦闘で三十名に減っていた。投降してきた数倍もの敵兵を、凹地に集結させ、武器を取りあげ逃げられないようにして、監視することになった。

《ところが、日本軍が少人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った》 ( 同右 )

 中国兵はしばしば懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っていた。このときもそうであった。

 拘束された数百名の敗残兵は京都九連隊の一ケ小隊を少人数と侮ったのであろう、手榴弾を投げつけ、攻撃してきた。そこで京都九連隊の三十名はやむなく反撃し、弾のあるかぎり撃ちまくった。

 あちらこちらで日本軍部隊が敵の逆襲を受けているなか、このように投降兵が、投降後に逆襲してくることがあった。

(P93-P94)



 さて、これだけ読むと、読者は間違いなく、この事例は六車少尉の直接体験であろう、と錯覚します。しかし実際には、この話は「直接体験」ではなく、「城外掃蕩に任じていた小隊長」からの伝聞でした。

六車正次郎氏の証言(歩兵第九聯隊第一大隊副官)

 大隊は15日頃、城内の宿舎を割り当てられ、17日頃城内に移駐したよしであるが、私が原隊復帰後に、城外掃蕩に任じていた小隊長から、次のような話を聞いた。

 「一ヶ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、日本軍の居るのに気付かず、南京に向かって来たのを捕えた。

 しかし我々の人数が少なく、もし小人数と判れば危ないので、銃を取りあげ凹地に集結させ、外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。

 ところが、日本軍が小人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った。小隊長も、手向かってくる敵を斬りまくり刀が折れた」

(「証言による『南京戦史』(8)=「偕行」1984年11月号 P7)


 東中野氏がなぜ「伝聞情報」であることを隠したかは、容易に想像がつきます。

 氏は、「外国人の報告する事例」に対して、しばしば「伝聞であり信頼性がない」という評価を行います。その一方で自分が「伝聞情報」を「確定した事実」として取り上げるのでは、明らかな自己矛盾です。氏としては、読者にこのような「自己矛盾」の印象を与えることを避けたかったのでしょう。
*念のためですが私は、「伝聞情報」だから信頼性が低い、とは考えていません。証言の信頼性は、証言者の資質、証言の状況、証言内容等によって総合的に判断されるべきものであり、信頼できる情報源からの信頼できる情報であれば、十分に「史実」として認定できる可能性はある、と考えています。 ただし「伝聞」である以上は、「聞き違え」「伝達ミス」のリスクが伴いますので、細部についてまでの事実認定には慎重になるべきでしょう。


 この事例については、証言の状況、証言の内容を考えて、事件の概要については一定の信頼性を付与することが可能でしょう。

 しかし、「暴れだし」た動機が本当に「日本軍が少人数とあなどった」ことだったのかどうか。六車氏の「伝聞」の伝え方が正しいかどうかという問題もありますし、たとえ正確であったとしても、これ自体小隊長の「推察」であるにすぎません。捕虜が反抗してきた具体的な状況もはっきりせず、ここまでの断定を行えるかどうか、微妙なところです。

 いずれにしても、「伝聞」であることを断らず、証言者本人の体験であるかのように紹介することは、フェアな態度であるとは言えません。




事例2  太平門外にて


 東中野氏の、次の事例です。

東中野修道氏『再現 南京戦』第四章より


○投降後の逆襲 ― 太平門外付近にて

 第六中隊の古山義規一等兵は次のように証言する。

(中略)

三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます。このことが南京虐殺と宣伝されているのではなかったのでしょうか(宣伝されているのではないでしょうか)。 ・・・戦争ですから反抗して来た部隊には攻撃しました。それでないと私たちが虐殺されますから》(『魁』〈第一巻〉五二九、五三〇頁)

 第六中隊が投降兵三百人を拘束したまではよかったが、拘束された投降兵が第六中隊の指示に従おうとはせず、反撃に出た。互いに、相手の動きを封じ込めようと、双方が大変な騒ぎとなった。 なにしろ久居三十三連隊第六中隊の兵力は「五十四名」、対する中国兵は三百人であった。六倍の敵兵が立ち上がって反撃してきたのである。

 その場合どうすべきか。古山一等兵が「戦争ですから反抗して来た部隊には攻撃しました。それでないと私たちが虐殺されますから」と言うように、第六中隊が発砲して射殺せざるを得なかったのも当然であろう。

(P95-P96)


 元の文と、東中野氏の「解説」を比較してみましょう。

 古山一等兵は、敗残兵が「反抗した」と述べています。それを東中野氏は、いつのまにか「反撃に出た」という言葉に置き換えてしまいました。前者であれば単なる「捕虜の反抗」ですが、後者では「軍隊としての組織的抵抗」というイメージが強くなります。

 そして次の文では、ついに「立ち上がって反撃してきた」とまで話が大きくなってしまいました。東中野氏は、明らかに古山証言の「自説に都合のよい方向への拡大解釈」を行っています。



 それはともかく、東中野氏は気がつかなかったようですが、この事例は実は、部隊名(三十三連隊第六中隊)、場所(太平門)、状況を考えて、板倉由明氏が紹介する次の事例と同一のものであると思われます。

板倉由明氏『本当はこうだった南京事件』より

 ここで、たった七名で捕虜五百を得た第十六師団通信隊の堀曹長の手記を『想出集』(込山繁上等兵編、戦前の手記集と思われる)から抜粋引用してみたい。

 紫金山から太平門めざし降りだすと、各所に敗残兵と遭遇し、一緒に行動する予定だった野田部隊(歩三三)の十四、五名は危険を感じて引き返してしまう。残る通信隊の一コ分隊七名は、いやがる苦力(六名)を督励してさらに進んで、紫金山頂北西二キロの地点で白旗を掲げた一団の敗残兵と遭遇する。

  さらに後方から一団また一団と続々と続く状況から、師団本部にこの状況を通信するとともに、全員を武装解除し、その場に座らせて命令をまつことにした。捕虜の数は五百を越えている。

 「直ちに救援隊を送るから、その位置におれ」とのことで、夕方まで待ったが救援隊は到着しない。捕虜は動揺し始め、必死に静めることに努力したが、日本兵にも恐怖感が漂いだした。

 やむなく伝令を太平門に走らせ、増援を依頼したが、門の守備兵力(第六中隊)は僅少(二百名以下か)で、守備の中隊長からは「君等が此所迄引張ってくれば引受ける」とのこと。

 鹵獲した武器弾薬は後に残し、兵三名が手真似足真似で捕虜を引き連れ、残りが警戒と通信機材を担ぐ苦力を監督しつつ歩き、やっと守備隊長に引き渡したという。

 堀曹長は、この約一時間後、この敗敵は数発の手榴弾を投げ、警備兵に損害を与え、約二百名は遁走した、と記す。これが「太平門一千三百」の真相か否かはここで断定できないが、少数の兵士が数倍の捕虜を監視するその困難さ、恐ろしさ、危険性などが実感をもって如実に証言されている。

(「本当はこうだった南京事件」P382-P383)
 


 「逓信隊」が得た捕虜が、「太平門」を守備する「第六中隊」に引き渡されたとのことです。古山一等兵の話は、その「引き渡し」後の出来事であると思われます。(堀手記は捕虜が「遁走した」と書きますが、古山証言では「大変な被害が出たと思われます」となっています。太平門外で大量の死体が目撃されていること (『「捕虜ハセヌ方針」をめぐって』記事中「「大なる壕」の使い方」の項参照) から考えると、おそらく古山証言の方が正確なものでしょう)

 東中野氏は「拘束された投降兵が第六中隊の指示に従おうとはせず、反撃に出た」と書きますが、これでは「実はまだ戦意旺盛だった投降兵たちが日本軍を攻撃した」かのようなイメージを読者に与えてしまいます。

 しかし上の文を素直に読むならば、捕虜たちは、折角降伏したものの、殺されるのではないかという不安感が高まってきて、思い余って逃走のために手榴弾を投げつけた、と解釈するのが自然でしょう。 少なくとも、古山氏の表現は「反抗」であり、軍隊の組織的行動を連想させる「反撃」というのは、東中野氏の「作文」であるに過ぎません。

 

事例3  再び太平門外にて


 古山元上等兵の語る事例が、もうひとつ、続きます。

東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より


○捕虜の逆襲 − 再び太平門外にて

 その日(十二月十三日)の二十時過ぎ、夜の暗闇のなかで久居三十三連隊第六中隊は戦場整理をおこなった。そのとき古山一等兵はもう一つの戦場の現実を記している。

《こうして夜に入り八時すぎ、敗残兵の死骸整理中、突然三発の手榴弾に見舞われて、六名の死傷者が出た。その一人が私で、明けて十四日早朝、城内飛行場に開設された野戦病院に入院した》(『魁』〈第一巻〉五三六頁)(P97)

 このとき襲撃してきたのは拘束中の投降兵であった。


 久居三十三連隊の第二機関銃中隊長であった島田勝巳大尉が「小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた」(「証言による〈南京戦史〉」五頁)と証言するように、投降兵は日本軍の警戒が弱いと見ると手榴弾などを使って反撃に転じることがよくあったのであろう。

  そのため第六中隊の一割にあたる六名が死傷した。その一人の古山一等兵が野戦病院に入院中の十二月二十二日ごろ、上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦中将が古山一等兵らを見舞っている。

(P97-P98)


 『魁 郷土人物戦記』の記述を、確認します。

『魁 郷土人物戦記』より

 城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山。バリバリと銃声、機銃の音がすれば、死体が何十何百と増えて行く。凄惨! これが戦場である。

 こうして夜に入り八時すぎ、敗残兵の死骸整理中、突然三発の手榴弾に見舞われて、六名の死傷者が出た。その一人が私で、明けて十四日早朝、城内飛行場に開設された野戦病院に入院した。

(P536)


 東中野氏は、「事例2」と「事例3」を完全に別々の事件として扱っています。しかしこれは、おそらく同一の事件であると思われます。

 「第十六師団通信隊」が得た捕虜を、太平門を守備する「第六中隊」が引き継いだ。殺されるのではないかと動揺した捕虜が、守備隊に手榴弾を投げつけて逃走しようとした。「事例2」「事例3」は、その一連の事件の一部として読むのが、自然です。

 東中野氏はこの同一性に気がつかず、わざわざ「違う事例」として記述しているわけです。

*余談ですが、東中野氏がこれを「事例2」とはまた別の事例と考えているのでしたら、東中野氏がこの文章からどうして「拘束中の投降兵」の仕業と判断できたのか、不思議に思うところです。

 古山氏は、この部分では、「敗残兵の死骸整理中」に「手榴弾に見舞われ」た、としか証言していません。東中野氏は「拘束中の投降兵」の仕業と断定してしまっていますが、少なくともこの証言だけからでは、その事実を確認することはできないでしょう。東中野氏のいい加減なところです。


 ついでですが、「久居三十三連隊の第二機関銃中隊長であった島田勝巳大尉が「小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた」 (「証言による〈南京戦史〉」五頁)と証言するように、投降兵は日本軍の警戒が弱いと見ると手榴弾などを使って反撃に転じることがよくあったのであろう。」というのも、東中野氏の「拡大解釈」です。

島田勝己氏の遺稿(歩兵第三十三連隊第二機関銃中隊長)

  太平門のあたりでは、多くの敗残兵を捕えたが、”ヤッテシマエ”と襲いかかるケースが多かった。城内掃蕩中でも、獅子山付近で百四・五十の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した。

 中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた。紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理をふり返ってみると、「敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される」という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。

(「証言による『南京戦史』(9) =『偕行』1984年12月号P5)
 


 島田氏の証言は「隠し持っている」までで、「投降兵が手榴弾を使って反撃」した、などということは一言も語っていません。東中野氏は、 「懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた」という証言を、むりやり「投降兵は日本軍の警戒が弱いと見ると手榴弾などを使って反撃に転じることがよくあったのであろう」と「翻訳」してしまったわけです。



事例4  和平門外にて


 この節は、「投降後の逆襲 和平門外にて」との副題がつけられています。しかし、どこが「投降後の逆襲」なのか、何度読んでもさっぱりわかりません。一応、この節の全文を引用します。


東中野修道氏『再現 南京戦』 第4章より


 投降後の逆襲 ― 和平門外付近にて

 十二月十三日午後二時半、京都十六師団三十三連隊が下関から揚子江上に逃走中の中国兵を猛射し始めたころ、紫金山山麓の和平門付近では、逃走は無益と諦めたのであろう、中国兵が続々と投降してきた。

そのことが十三日の京都十六師団の佐々木旅団長の陣中日記に窺える。

《午後二時頃、概して掃蕩を終って背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門に至る。その後、俘虜続々投降し来り、数千に達す。激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる》(技絢携頁)

 この十二月十三日は、京都十六師団の受けた攻撃を振り返ってみただけでも、午前零時半ごろから仙鶴門鎮で、のちには湯水鎮で、逃走兵集団の襲撃や逆襲にあっていた。

 そのような「数里の長きに亘って・・・到る処、激戦を交へて」いた佐々木旅団長が、 午後二時ごろようやく和平門に達したとき、今度は投降兵が続々と出てきた。しかし他方ではその日の夕方まで、各部隊から援軍の要請がひっきりなしに届いていた。

 中山門の東二五〇〇メートル先の西山にいた京都十六師団後方参謀の木佐木久少佐十二月十三日の陣中日記に次のように記している。

《夕方(十二月十三日の夕方)になると、敵兵の一連隊だの一ケ師団だの現出して、援兵を請ふ伝令が、引きりなしに来る。デマをとばすな。あわてるな》(技容麁麒如

 すでに八九頁で述べたように、このような状況のなか佐々木少将は「自衛力を有する者を顧みる遑は無かった」 (技絢啓景 ) と回想していたのである。

 つまり京都十六師団の戦場では、一方では逃走兵との激烈な戦闘があり、多くの死傷者を出していた。他方では投降兵が出現していた。

 すべての中国兵が全軍揃って投降していれば、どんなによかったことか。指揮官不在の中国兵は前述のとおり、日本軍を弱小と見て逆襲してくることもあり、油断は禁物であった。

 これにはほとほと困惑させられたのであろう、 思わず「『皆やってしまへ』と云ひ度くなる」と書いているほど、佐々木旅団長の語気は荒くなっている。しかし「皆やってしまへ」ではなく、そう「云ひ度くなる」と言っているのである。

 京都十六師団は紫金山の東では朝から激戦を続けており、夕方まで援兵を請う伝令が引っきりなしに来るなか、反抗的な兵士を処刑した。

 その一方で、のちに見るように、紫金山の西では従順な投降兵の収容に努めるという大混乱のなかにあった。 しかも投降兵はどんどん出てくる。

 指揮官としてはどうすればよいのか。命令を下さなければ部下が困惑するのは目に見えていた。

(P108-P109)


 さて読者は、この節から、「投降後の逆襲」事例を見ることができたでしょうか。

 前半は、和平門において「激昂せる兵」が投降してくる「俘虜」を「片はしから殺戮」した、という事例です。後半は、まだ投降していない敗残兵との戦闘により、「援兵を請ふ伝令」が司令部にひっきりなしに来る、という事例です。いずれも、「投降した敗残兵が投降後に反撃した」という話ではありません。

*なお前半の事例は、激戦の最中にやむえず投降兵を殺した、というものではなく、「激昂」のあまりの殺戮であることにご注意ください。東中野氏が描き出そうとする「人道的な日本軍」のイメージに、明らかに反する事例です。


 どうも東中野氏は、一部の戦線で敗残兵が投降してくる一方で、他の戦線では依然として敗残兵と激戦中であった、と言いたいようです。それであれば、「投降後の逆襲」という標題は、タイトルに偽りあり、と言わざるを得ません。

 なお参考までに、木佐木少佐日記の元の文を紹介しておきましょう。木佐木少佐は、何をおおげさに報告してくるんだ、とあきれているわけであり、東中野氏が「激戦の最中」であることを印象づけたいのでしたら、この日記の引用はかえって逆効果であると思われます。

『木佐木久日記』より 

第十六師団後方参謀・少佐


 たかが知れた敗残兵だ。そして小銃を持つ重砲や騎兵が、周章するも馬鹿げた話だが、之を丸呑み信じて大騒ぎするのも程がある。
自信の無いもの、信念の固くないもの、臆病な者程、物事を針小棒大にする癖がある。(P421)

 歩二○が午前三時十分、中山門を占領した。歩三三は紫金山より逐次西山の峰々を占領した。右側支隊たる歩三八は遠く南京の背後、下関を占領した。午後に至って、完全に南京を占領した。

 中山門東側に在る西山に登って、歩二○の四の戦闘した跡を見る。敵の陣地は野戦陣地であって、掩蓋を有する機関銃座と云ふ程度のものだ。湯水鎮付近のトーチカと比べると、薄弱だ。唯、数線になってゐる事が、頑強の度をなしてゐる訳だ。

 敵の遺棄死体約五十を算へた。突撃した部隊の奮戦を想像する事が出来た。

 南京城の南側に方って、飛行機の爆弾投下を目撃した。彼我の判断に迷ってゐたが、後で、敵機三機が約四千の高度を以て、我を爆撃した事が解った。小癪な奴である。

 中山門より入って市内を瞥見する。一国の首都だ。やっぱり大きい。

 敵の司令部の隣で地雷が爆破した。

 夕方になると、敵兵の一聯隊だの一ケ師団だの現出して、援兵を請ふ伝令が、引ききりなしに来る。デマを飛ばすな。あわてるな。

 湯水鎮軍司令部が敵の襲撃を受けたと云ふ事が輜重隊の弾薬補充をやった事に依って解った。トラックに依って、歩兵の輸送をやらんとするとき、遠慮の電話があった。師団長、参謀長、幕僚、部長にて、南京攻略の祝杯を挙げた。

(『南京戦史資料集機P421-P422)





 つまり、東中野氏が「投降後の敗残兵の反撃」として挙げる四つの事例のうち、「事例2」=「事例3」では、投降兵は逃亡目的で「反抗」した可能性があり、日本軍に対する「戦意」までを読み取ることはできません。「事例1」は細部の状況がわからない伝聞情報であり、事例4はそもそも「投降後の敗残兵の反撃」ですらありません。


 東中野氏は、「隙あらば日本軍に対する攻撃をたくらむ戦意旺盛な投降兵」のイメージをつくりあげようとしていますが、上の資料からそこまでの断定を行うことは困難でしょう。また、例え少数のそのような投降兵が存在したとしても、それは大量の敗残兵を「捕虜にせ」ずに殺戮してしまうことを正当化する材料には到底なりえません。

(2007.9.24)


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