林健太郎『歴史からの警告』



 林健太郎氏は、ドイツ近代史を専攻とする歴史学者です(1913-2004)。1973年から1977年にかけて東大総長を務め、その後1983年には参議院議員(自民党)に当選しています(一期)。

 氏は戦前から戦後の一時期にかけて、マルクス主義に傾倒していました。しかしその後、ソ連の実態を知るに従って転向し、やがて保守派の主要論客のひとりとして知られるようになりました。この『歴史からの警告』の中にも、「マルクスの誤算」「日本共産党の天皇批判の批判」「村山政権は危険だ」等、左翼批判の論稿を見ることができます。
※氏の思想的変遷については、自伝『昭和史と私』で詳しく述べられています。
 ここで紹介する『歴史からの警告』は、1985年から1994年にかけての氏の時事的な論稿を集めたものです。掲載誌は、この『正論』をはじめ、『諸君!』『文藝春秋』など、どちらかといえば「保守派」のメディアが中心です。

 保守派である林氏の「侵略」認識は、歴史学会における概ねの合意に沿った教科書的議論、ということができるかもしれません。以下、見ていきましょう。



『「奥野大臣発言」の問題点』
―「侵略と言わずして何であろう」


 まずは、『知識』1988年9月号に掲載された、『「奥野大臣発言」の問題点』です。

 当時、竹下内閣で国土庁長官を務めていた奥野誠亮氏は、日本には侵略の意図はなかった、という趣旨の発言を行いました。


奥野誠亮『"侵略発言"どこが悪い!?』より


 「侵略戦争という言葉を使うのはたいへん嫌いな人間でございます。(中略)そういう意図はなかった、こう考えておるものでございます」(P114-P115)

(『文藝春秋』1988年7月号)

※「ゆう」注 国会答弁の内容。(中略)は原文通り。



奥野誠亮講演『それでも信念は変わらない』より

 「侵略とは、日本語で解釈すれば、土地を掠め取るの意を含んでいる。侵略の略の字を見ればすぐにわかる。

 しかしあの時の日本は、決して中国の土地をかすめ取ろうとは思っていなかったのではないか。だから私は、"侵略戦争"とは言いたくないのだ」(P30)

(『諸君!』1988年7月号 「奥野発言を支持する国民集会」での発言)

※一応ですが、奥野氏は弁解のつもりか、これに続けて、「しかし自分は何も、中国が侵略戦争と言うことまで否定しているわけではないし、日本が戦時中に侵略的行為を行ったことまで否定するものではありません」と、前段と整合しない発言を行っています。



 その根拠は、どうやら、「盧溝橋の第一発」が日本側からのものではない、という点にあるようです。


奥野誠亮講演『それでも信念は変わらない』より

 蘆溝橋事件で第一発を撃ったのは日本ではない。そう確信しているのです。中国の反発がいかに強く、またどう恫喝しようとも私たちはこの見解を守り続けたい。中国が違った見解を示し、その結果くい違いが生じても已むを得ないことです。

 このことは蘆溝橋事件に端を発する日中の戦いが、日本の侵略の意図に基づくものか否かを決定づけるものであり、将来にわたる日中の真の友好関係の樹立とも深くかかわりを持つと考えるからであります。(P32)

(『諸君!』1988年7月号 「奥野発言を支持する国民集会」での発言)



 しかしこれは、いささか短絡的な見方であると思われます。

 問題は、「戦争の直接のきっかけ」ではなく、「戦争に至る一連の経緯」であるはずです。秦郁彦氏の言を借りれば、盧溝橋事件の第一発は「現場の中国側当事者から見ると、爆発寸前の張りつめた空気のなかで起きたと言えそうだ(『盧溝橋事件』P97)という状況だったことは銘記しておくべきでしょう。


 林氏は、奥野発言を真っ向から否定します。

林健太郎『「奥野大臣発言」の問題点』


 ここで忘れてならないのは、日中戦争はその六年前の満州事変の延長として起こっているということである。そしてこの満州事変はさらにその三年前の張作霖殺害に始まり、自らの鉄道爆破を中国人の仕業と誣いる謀略によって、満州全土を日本軍の占領下においたものであった。

 しかも日本陸軍は満州の領有に満足せず、さらに内蒙古の熱河に兵を進め、一九三五年には冀東防共自治政府という傀儡政権をつくって北京の近郊までの地帯を支配下におき、引き続いて華北五省の広汎な地域に冀察政務委員会という政権を発足させた。

 このような止まるところなき日本の進出 − それは侵略と言わずして何であろう − に対して中国国民の間に広汎な反日運動が起こったのは当然であった。(P108-P109)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 追記すれば、林氏は別論稿で、「満州事変」は「侵略という外はない」との発言を行っています。


林健太郎『「永野法相発言」を考える』

 私は侵略戦争という言葉は余り好きではないのですが、それでも満州事変が侵略であるか否かと言えば侵略と言う外はないでしょう。また満州国が本当に満州の人々による国民国家だったと信じた人は当時の日本ですら一人としていなかったと思います。

 日本はヴェルサイユ条約を結び、国際連盟に加入し不戦条約にも調印していたのですから、一九三〇年代以後の日本の行動は確実に国際ルールを逸脱したものでした。(P263)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収

 この認識は、同じ保守派の歴史家、北岡伸一氏にも共通するものがあります。

インタビュー・戦後70年談話 北岡伸一さん


 「私が侵略について発言するたび、『日本に侵略の意図はなかった』『マッカーサーも自衛だと言っている』などと批判する人がいますが、侵略には明確な定義があります。辞書的に言えば『他国の意思に反して軍隊を送り込み、人を殺傷し、財産を奪取し、重要な指揮権を制限する』ということです。

 政治学でも歴史学でも、大きな定義の争いなどありませんし、規範性が絡む国際法にも一応の定義はあります」

 「その定義に照らした時、どこから見ても侵略に当てはまるのもが例えば満州事変です

 日本は、満州事変を経て北満州まですべて支配し、満州国という傀儡国家をつくった。これを否定する歴史学者はいないでしょう」

(2015.5.30 『朝日新聞』15面)

 ネットではたまに、「満州事変は「侵略」ではない」という発言を見かけることがあります。しかしこれは、歴史学会の大勢からは到底受け入れられない特異な意見、ということができるでしょう。



 さて、「民族主義」(ナショナリズム)は、20世紀の歴史を見るキーワードのひとつでしょう。帝国主義諸国の支配下にあって「植民地」に甘んじてきたアジア・アフリカの諸国が、「ナショナリズム」に目覚め、続々と「独立」を果たしていきました。

 林氏も、この世界史的流れに沿って、「中国ナショナリズムの覚醒、そしてそれを抑圧した日本」という視点を提示します。

林健太郎『「奥野大臣発言」の問題点』

 日本は日露戦争によってアジアにおけるナショナリズムの覚醒の先鞭をつけた。それは偉大なことであった。しかるに次いで隣国にそのナショナリズムが勃興すると、今度はそのナショナリズムを抑圧する態度に出たのである。そしてこれが偽らざる歴史の事実である。

 ナショナリズムが民族の独立を求めるのは当然で、自民族の領土内に外国の軍隊が駐屯して支配力を行使している時に、その撤退を求めるのも自然の勢いである。その軍隊の駐屯が条約による合法的なものであっても、やがてはそれに対する反抗が起こるであろう。(P108-P109)

 その反抗も合法的に行われるのが望ましいかもしれないが、先進国の既得権そのものが元来力によってかち取られたものであり、合法的な運動によってそれを実現することが望めないとすれば、実力による反抗もまた起こらざるを得ない。いわんや日本陸軍は満州においてすでに合法性をふみにじっているのである。(P109)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 蒋介石による中国統一への動きも、歴史学的には、半植民地状態を脱するための「民族主義(ナショナリズム)の覚醒」の一環であると見られています。そして日本は、そんな「中国ナショナリズム」への妨害者として立ち現われた、という認識です。



 参考までに京都大学教授・永井和氏は、これをもう一歩進めて、日中戦争を「民族解放戦争」と位置づけています。

永井和『日中戦争から世界戦争へ』

 上海・南京戦、徐州会戦、武漢攻防戦など大規模な会戦も少なくないとはいえ、戦争全体の流れは中国軍の持久戦略=ゲリラ戦争のシナリオにそって展開した。日中戦争は、日露戦争型の古典的近代戦争ではなくて、より現代的な民族解放戦争に属するのである。(P350)

 


 余談ですが、このような見方に立てば、しばしば「右」の陣営から提起される、「どちらがより戦争を望んだか」、あるいは「どちらが戦争のきっかけをつくったか」という議論はほとんど無意味なものになるかもしれません。 「独立」を求める側と「支配」を続けようとする側の戦争では、「正義」は明らかに「独立」を求める側にある、とするのが世間の一般的な見方でしょう。





 ただし「侵略」を行い、さらに「ナショナリズム」を抑圧する側に立ったのは日本のみではありません。欧米諸列強も、多かれ少なかれ同じような立場にありました。奥野氏もこの点に言及しています。


奥野誠亮『"侵略発言"どこが悪い!?』より

(国会答弁)

 また、侵略国家云々については、

白人が自分たちのことを棚上げにして、日本だけが特別な悪い国であったような指摘がされ、その通りに受け止められていることは自虐の精神に侵されすぎている」

といった主旨の答弁をした。(P114)

(『文藝春秋』1988年7月号)



 しかしこれは、「第一次世界大戦の前と後では国際世論の風向きが大きく変わってしまった」ことを理解しない、一面的な議論でしょう。

 日本が中国大陸への進出を進めていた時期には、どうやら「帝国主義の時代」は終わりかけていて、少なくとも「現状以上の帝国主義的侵略」は許されないような空気が生まれていました。例えばイタリアのエチオピア侵略(1935年)は、国際世論の轟々たる非難を浴びていました。

 林氏の議論も、これに沿ったものです。


林健太郎『「奥野大臣発言」の問題点』

 西洋諸国がそれまでに行っていたと同じことを日本が行ってなぜ悪いかという議論があり、「日本だけが侵略国家だと言われる」ことに反発する奥野氏はその意見であるようにみえる。

 しかしこれは、世界の大勢という歴史認識を欠いた意見である。そしてこの点で、第一次世界大戦後、世界は明らかにそれまでと異なる新しい時代に入ったのである。

 その特徴は、第一に国際協調が時代の指導精神となったことであり、第二に従前の後進的諸民族にナショナリズムが勃興し、その力が抑え難くなったことである。

 この二つの傾向はもちろんまだ不十分であり、不徹底なところもあった。しかし大戦後の一九二〇年代はともかく国際協調が時代精神として一応確立し、後進諸民族の自立はヨーロッパにおいてはほぼ実現した。

 もっとも後者はヨーロッパ以外では達成されなかったが、それでもエジプト、インドの民族運動は熾烈であり、かつての植民帝国イギリスはびざもとのアイルランドをはじめエジプトの独立を認め、インドヘの逐次的譲歩を行わざるを得なくなった。(P109-P110)

 ところがこの形勢に変化が起こったのは一九三〇年代であって、しかもそれを起こしたのは東の日本、西のナチス・ドイツであった。

 日本はパリの講和会議において人種差別撤廃という立派な提案を行ったにもかかわらず、中国と韓国に対しては対等の立場を認めないばかりか、前者には二十一ヵ条の要求をつきつけ、後者に対しては独立運動(一九一九年三月一日に起った万歳事件)を苛酷に鎮圧したのである。

 以上のような見方とは異なって、その当時には、ヴェルサイユ条約体制は「持てるもの」(ハヴ)の世界であり、それに対し「持たざるもの」(ハヴノット)の闘争が始まったのだというような言い方が流行した。しかしそれはナチス・ドイツの宣伝に迷わされたもので、当時は戦勝国といえども植民地を手放さざるを得ない状態に立ち至っていたのが世界の実情だったのである。(P110)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 別の論稿でも、氏は同様の議論を行っています。


林健太郎『戦争責任というもの』

 第一次世界大戦の終了後、世界は一つの新しい時代に入る

 その新しい時代の特徴は、第一にこの未曾有の戦争の戦禍のはなはだしさの認識から生まれた、紛争解決の手段としての武力の不行使を原則とする国際協調主義、そして第二に世界の後進地域におけるナショナリズムの擡頭である。前者は国際連盟や不戦条約によって表現され、後者はヨーロッパにおける多くの民族国家の誕生を齎した。

 もちろんそれは、ともに未だ不徹底であって、その国際協調主義はとかく戦勝国の都合によって左右されたし、民族の独立はヨーロッパ以外の地域では未だ実現されなかった。しかしこれらの地域においても目覚めたナショナリズムの力ははなはだ強力であって、植民帝国イギリスはその治下の熾烈な民族運動に悩まなければならなくなった。(P129-P130)

 イギリスは夙にアイルランドという厄介な植民地を膝下に持っていたが、この期において遂にそれを手放し、アフリカにおいてもエジプトの独立を認め、アジアではインドに対し逐次的譲歩を重ねなければならない状態に立ち至ったのである。(P131)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 この視点は、先に紹介した猪木正道氏の見方にも共通します。歴史学会では一般的な見方、ということができるでしょう。

猪木正道『軍国日本の興亡』

不戦条約

 田中内閣時代のもっとも重要な出来事の一つは、一九二八年八月二七日、パリにおいて不戦条約が調印されたことである。参加したのは日本を含めて一五ヵ国であった。第一次大戦後の軍縮・不戦の気運を反映した画期的な条約といえよう。この条約は翌一九二九年七月二四日発効し、ワシントンで宣布式が挙行された。

 不戦条約が成立したからといって、戦争がなくなるわけではない。しかし、不戦条約の発効前と発効後とでは、侵略戦争に対する国際的糾弾の重みがすっかり変った。日本が満洲事変を起こした時、このことは誰の眼にもはっきりした。(P151-P152)

 ところが日本では、不戦条約の画期的な意義について深く考える人は少く、野党の民政党は、「人民の名において」という条文の一句が大日本帝国憲法に反するという愚劣な論議で、政友会内閣を攻撃するのに夢中であった。世界の国々は、日本が異様な国家であるという印象を強く持ったに違いない。(P152)


 既得の植民地はそのままに、「遅れてきた帝国主義国」の新たな植民地獲得のみを非難する欧米諸国の言動には、あるいは「身勝手」という言葉を冠するべきかもしれません。しかしともかくも、「現状を変更する、これ以上の侵略は容認しない」という雰囲気は生まれつつあり、にもかかわらず日本は正面切ってなお「侵略」を進めようとした事実は残ります。

※全くの余談ですが、「価値判断」はともかく、これは今日の、「新たに核兵器を保有しようとする国を批判する核保有国が、自ら核兵器を放棄することは決してしない」という状況とも共通しているようにも思います。





『戦争責任というもの』
―「自衛戦争」論の無理


 次に紹介するのは、『文藝春秋』1889年3月特別号に掲載された、『戦争責任というもの』(原題『戦争責任とは何か』)です。

 本稿は、昭和天皇の逝去にあたり、日本共産党などから提示された「天皇の戦争責任」論に反駁する目的で書かれた論稿です。ここでは「天皇の戦争責任論」に立ち入ることはしませんが、論稿に現れた、林氏の「太平洋戦争=自衛戦争」論に対する異議を見ていくことにしたいと思います。


林健太郎『戦争責任というもの』

 ところがまさにその意味において、太平洋戦争−当時の日本の称呼は大東亜戦争−を日本の自衛のための戦争であったと言う人がある。そしてそうならば、不戦条約も自衛のための戦争は禁じていないのであるから、これは決して責められるぺきことではないことになるのである。

 この点でよく言われるのが、十一月二十六日の「ハル・ノート」である。これは満州までをも含めた中国からの日本の撤兵を要求しているのであるから、これは日本に対する最後通牒に等しいとそれらの人は主張するのである。

 あるいはまたさらに遡って、ABCDラインというもの、そしてそれと事実上は同じであるがアメリカの対日石油輸出禁止が日本の存立を困難にするものであったが故に、大東亜戦争は自衛のために起こったのであると言う人もある。しかし、これらの主張は正しいと言えるであろうか。

 この「ハル・ノート」は東京裁判でインドのパル判事も非難したものである。しかしハルはこの時すでに暗号解読によって日本の開戦の意志を知り、日本との戦争を覚悟したのであって、アメリカが進んで日本に戦争をしかけようとしたわけではないから、これを「最後通牒」などというのは当らない。

 ABCDライン云々についていえば、それは日本がその前に行ったヴェトナム(仏印)への出兵、とくにこの年七月の「南部仏印進駐」が決定的だったと私は思う。これは日本が中国の領域を越えてさらに南方に勢力を拡大することを意味しており、ことに南部仏印への進出については、それが実行されればアメリカが経済制裁を行うことは事前に言明されていたところであった。(P126-P127)

 たしかに日中戦争から大東亜戦争へ進んで行った過程は決して、最初から計画的だったのではない。その点、東京裁判の「共同謀議」説は明らかにまちがっている。

 それは日中戦争がおさまりがつかなくなり、さらにその戦争遂行のための資源を確保する必要上東南アジアに支配を進めようとし、それを経済的手段をもって阻止しようとした勢力に武力攻撃を加えたというのがその経緯である。

 これもさきほど言った「未必の故意」の中に入るかもしれないが、だからと言って真珠湾奇襲が自衛権の発動だというのははなはだしく無理であろう。(P127)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 「日中戦争」は侵略戦争だったかもしれないが、太平洋戦争は「自衛権の発動」であった―どちらかというと「中道」を標榜する方から、巷間よく耳にする議論です。

 私はこの点に関する判断は控えますが、火事場泥棒的な「南部仏印への進駐」が対米関係を決定的に悪化させたことを思えば、日本が自らを一方的な「被害者」になぞらえる、という議論に無理があることも事実でしょう


 なお「ハル・ノートが戦争を引き起こした」という「俗説」の間違いについては、私は、「日米開戦」まで1ヵ月(1)以下のコンテンツで取り上げています。

要約すれば、

‘本は、開戦より1か月以上前、1941年11月1日の「大本営政府連絡会議」にて、「外交交渉が12月1日までにまとまらなければ開戦する」趣旨の決定を行っていた。

現実問題として、日本側が掲げた条件(米国は蒋介石支援をやめる、など)では外交交渉がまとまる可能性はほとんどなく、これは事実上の「戦争決意」だった。この時点で、「開戦」は事実上決定していた、と言ってよい。

そして案の定、米国側は日本側の条件を呑まなかった。ハル・ノートはか細い外交交渉の糸を最終的に断ち切ったにすぎず、これ自身が「戦争」の原因であるわけではない。


ということになるでしょう。

 林氏の言うように「最後通牒にあたらない」かどうかについては判断を保留しますが、日本は「ハル・ノート」以前に事実上の開戦決意を行っていますので、少なくとも「ハル・ノートの要求が無茶苦茶なものだったから日本は戦争せざるを得なかった」という俗なイメージは、明らかに「事実」と相違します




『正論』誌上の「侵略」論争
フィリピン・ビルマの「独立」
をめぐって


 さて1993年から1995年初めにかけての一年以上にわたり、サンケイ新聞社の総合雑誌『正論』を舞台に、「侵略」論争が繰り広げられました。先の戦争を「侵略といわざるをえない」とする林健太郎氏に対して、小堀桂一郎氏、渡部昇一氏らの「右派」論客が、激しく林氏を批判する論陣を張りました

 この期間、『正論』に掲載された林氏の「侵略」論稿は3回を数えます。また他にも、関義彦氏・西義之氏らの、林氏側に立った論稿も掲載されています。

 当時の『正論』には、このような議論を許容するだけの懐の広さがあった、ということでしょうか。現在の『正論』の立ち位置を考えると、隔世の感があります。
※『正論』1994年5月号で、西義之氏は(細川首相は)「(外国、とくにアジアから見れば)「侵略戦争と受け取られても仕方ない」と言ったわけで、私にはべつに違和感はない」(P72)、 関義彦氏は「中国に侵略した軍国主義」「過去の一時の誤りを率直に認める歴史観に立つことが必要である」(P86)などの発言を行っています。

※※本稿の目的は、「論争」を紹介することではなく、「論争」の中に現れた林氏の見解を解説することです。従って「侵略否定」側の発言は、林見解を説明する上で必要な最小限の紹介にとどまることはお断りしておきます。


 論争のきっかけとなったのは、林氏の『「東京裁判史観」論議』(原題『「東京裁判史観」というもの』でした。

 氏は、細川首相の「謝罪」発言に反発し、さらに「東京裁判」を認めない立場を鮮明にしますが、その一方で「(アジアの)諸民族が独立しているのは日本のおかげ」という俗論にも異議を唱えます


林健太郎『「東京裁判史観」論議』

 細川首相が所信表明演説で述べた太平洋戦争への責任、侵略行為への謝罪ということが大分物議を醸している。戦後すでに半世紀近く、平和条約から四十年、日韓、日中の国交正常化からもすでに三十年、二十年を経た今日、新内閣の宣言にこの問題を事新しく取り上げることに私も反対である。

 それは不要でかつ有害のおそれもあるからだ。しかし他方で、次のことも少なからず私の気にかかる。

 この細川演説に反対する人はすぺて東京裁判史観の克服を説く人である。そしてそれにも私は賛成である。東京裁判は戦勝国の戦敗国に対する裁判であって、それは国際法的に認められないものであり、その判決にもまちがいが多い。とくにソ連が戦勝国の中に入っているため、ソ連の犯した国際法違反はまったくネグレクトされている。

 それ故我々はこの東京裁判の判決に拘束されるべきではない。しかし私がその克服を言う人の言論に時に賛同しないのは、そこに往々、満州事変以後の日本の軍事行動を日本の自衛戦争とし、「大東亜戦争」は東亜解放の戦いであって今日その諸民族が独立しているのは日本のお蔭だという言論が見られるからである。(P168-P169)

 私がそれに賛同しないのは、それが歴史の事実に反しているからである。中国に対し日本はその国民の意思に反してその領土を武力占領したのだから、これは侵略以外の何ものでもない。南方の諸民族が独立したのは日本が負けたからであって、日本が占領中に独立させたものではない。日本がつくった満州国や汪兆銘政権は要するに傀儡国家であって、民族の政権ではなかった。(P169)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 南方の諸民族が独立したのは日本が負けたからであって、日本が占領中に独立させたものではない―これは、いささか誤解を招く表現だったかもしれません。

 『正論』1993年12月号には、田中正明氏の投稿が、「読者の指定席」欄に掲載されます。


田中正明『林健太郎先生に一言』

 本誌十一月号の随筆で林健太郎先生は「『東京裁判史観』というもの」と題して次のように述べておられます。「南方諸民族が独立したのは日本が負けたからであって、日本が占領中に独立させたものではない」と。これはとんでもない間違いであります

 フィリピンは一九四三年(昭和十八年)の十月、日本は軍政を廃止し、フィリピンを独立させ、ラウレルが初代大統領に就任しました。ビルマ(現在のミャンマー)は、それより少し早く一九四三年の八月、日本は軍政をやめて独立を承認し、バー・モウが初代首相に就任しました。(P401)

(『正論』1993年12月号 「読者の指定席」欄掲載)


 同じ号には、伊藤陽夫という方の林論文批判の投稿も掲載されています。さらに『正論』1994年3月号には、林氏を直接批判するものではありませんが、小田村四郎氏、総山孝雄氏の、「侵略」を否定する論稿が掲載されます。

 1994年4月号に、林氏は、田中・伊藤両氏の批判に答える、『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』という論稿を寄稿しました。

 氏はまず、

林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』

 まず田中氏は「南方の諸民族が独立したのは日本が負けたからであって、日本が占領中に独立させたものではない」と私が書いたのを「とんでもない間違い」とされる。私のさきの文章は四枚以内という制限の下で書いたので、叙述を極度に圧縮せざるを得なかった。(P171)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収


 と説明した上で、

林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』

 しかし私はもちろん、このことを知っている。それにもかかわらず、私は、それらを、かつての満州国や汪兆銘の国民政府と同じく、民族独立の政権と認めることはできない。そして今日のビルマ、フィリピン両国においても、それをもって彼らの独立の日と見なしてはいないのである。(P171-P172)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収


 と、これは実質的には「独立」と見ることはできない、という見解を述べます。そして以下、フィリピン、ビルマの「独立」について解説を加えます。




 まずフィリピンについては、日本軍の進攻以前にすでにフィリピンの独立が決定していたことを指摘します。

林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』

 そもそもフィリピンは、一八九八年、スペイン植民地からアメリカの植民地に変っていたが、アメリカは一九〇七年フィリピン議会を開設し、一九一六年にはアメリカ議会を通過した「ジョーンズ法(フィリピン自治法)」によって将来の独立を約した。

 そして一九三四年には、十年間の独立準備期間(コモンウェルス期)をおいてフィリピンの独立を認める「タイディングス=マックダフィ法(フィリピン独立法)」が成立し、フィリピン議会もこれを承認した。一九三五年にはフィリピン憲法が議会の議決と国民投票によって成立した。

 つまり日本が対米宣戦によってフィリピンに進攻した時、フィリピンにはすでにフィリピン人によるコモンウェルス政府、大統領、副大統領が存在し、数年後の独立も既定事実となっていたのである。(P172)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収



 そして日本が与えた独立が、およそ「独立」の名に価するものではなかったことを、説明します。

林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』


 そしてラウレルを大統領とする「フィリピン共和国」成立が宣せられたのは、(一九四三年)十月十四日であった。しかしその「独立国」の実情はどのようなものであったろうか。

(略)

 この独立政府は日本との間に同盟を結んだが、それは軍事行動に関しては日本軍が全権を行使するだけでなく、戦争遂行のためフィリピンの資源を自由に開発、使用することをも定めたものであった。そして日本軍隊の糧秣は現地調達を原則としたから、それは当然現地住民からの収奪となり、国民の怨嗟を受けること少なくなかった。

 たとえ独立が宣せられたとしてもその領内に厖大な外国軍隊が存在し、その行動およびその維持のための手段がすべて外国の全権に委されている政権を独立国と呼ぶことはできない。(P173-P174)

 そしてラウレル政権といえども、真に日本を信頼していたか否かは疑わしい。というのは、日本はこの政権に対しフィリピン国防軍の創設を要求したけれども、彼は巧みにそれを拒否して遂に実行しなかった。そしてフィリピン全土に起こっていたゲリラの鎮圧に対しても格別の熱意を示さなかった。

 このゲリラこそは日本軍が占領の当初から悩まされつづけたものであった。ゲリラは百団体、三十万人にもおよび、日本軍が、制圧し得た地域は全土の三割程度にすぎなかったと言われている。これらのゲリラにはアメリカ軍と結びついたものと共産系といわれるものとあって、両者は対立していたが、日本軍に抵抗する点においては一致していた。

 積極的に日本軍に協力した親日派がいなかったわけではなく、むしろ反ラウレル的な「フィリピン愛国連盟」という団体が日本軍の援助の下につくられたが、それはフィリピン全体の中ではあくまでも非常な少数派であった。

 フィリピンの独立は日本軍の敗退とともに復活したコモンウェルス(ワシントンの亡命政府の大統領は戦争中客死したので、副大統領が大統領に就任していた)最後の総選挙が一九四六年四月に行われ、その結果としての七月四日のフィリピン共和国の発足をもって実現したのであるフィリピン人自身がそう見なしているし、ラウレル政権は独立国の体をなしていなかったから、やはり傀儡政権と言わざるを得ないのである。(P174)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収


 ラウレル政権は、事実上日本の傀儡政権であり、独立国の体をなしていなかった。またフィリピン国民の支持もほとんど得られず、抗日ゲリラが跳梁跋扈する状況であった、というわけです。(当時のフィリピンにおける反日感情の強さ、ゲリラの強力さについては、拙サイトのルソン島南部の「ゲリラ狩り」(1)で詳細に解説しています)

 ラウレル自身も、このように嘆いていた、と伝えられます。終戦時に大東亜次官の地位にあった外交官、田尻愛義の手記からです。

 
『田尻愛義回想録』より

 しかし情勢は二ヶ月の間に急転し日本軍にいよいよ不利に傾く一方で、フィリッピン側にとっては軍の強圧がいよいよ激しく感じられていきつつあった。

 たとえば、ラウレル大統領の権威を無視して対等な地位におくような姿勢で、ラモスの愛国党結成を軍が歓待する式があった。 ラモス党の決死の奉仕は尊いものにちがいなかったが、珍しくタイプした式辞を読みおえた大統領が、司令官を前にしてもち前の原稿なしの演説調になり、天に二日なし、 フィリッピン大統領を軽視することを許せないとタンカを切ったのはその一つであった。(P113-P114)

 また私は大統領と昼食を一緒にしながら彼の軍にたいする不平の聞き役、慰め役をつとめたが、一度はこんな場面があった。

 彼の近親が軍の出先のものに苦しめられた事件のあった後であったが、

「われわれフィリッピン人は日本軍のお蔭で独立しました。心底から有難い。この感謝は永久のものです。 しかし独立後に一体日本軍は何をしてきたか 。われわれを抑圧するばかりである。われわれには現在実力がない。 しかしもしわれわれが実力をもった後でもなお日本軍が今のように無軌道であるならば、必ず復讐します。」

 歯をくいしばって、拳で机をたたいて、私を前にして「復讐をする」と憤懣をもらした。ラサールの血を引いたナショナリズム、独立心の発露、まさに愛国の志士だと私は感銘したことであった。(P114)



 次に、「ビルマ」です。ビルマの場合は、英国に「独立」を許す雰囲気は全くありませんでしたので、フィリピンのケースとはやや様相を異にします。

 しかし日本が与えた「独立」は、決してビルマから全面的に歓迎されるものではありませんでした。

林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』


 日本はビルマを支配下におくことによって、ビルマの国民経済に対し責任を負うことになった。しかしこれは戦争遂行中でやむを得なかったかもしれないが、ビルマの対外貿易の中絶によって消費物資は不足し、軍票の発行による物資購入はインフレを招き、ビルマ国民の生活を圧迫した。

 軍事的必要のためにはビルマ人の強制労働も行われた。泰緬鉄道の建設はイギリス兵の捕虜を使役したことで後年悪評を浴びたが、ここではビルマ人も多数徴用されて酷使され、かつ疫病のため悲惨な犠牲者を出したのである。

 そこで当初ビルマ人に歓迎された政権も、早くもその一年後には、その政権の重要人物であったアウンサン自身が「我々の独立は紙上の独立に過ぎない。自分のような大臣やその取巻き連、産業開発者、新興成金などの少数の恵まれたものだけがこの独立の甘い果実を得ているのみ。現状と我々の目標との間には長くて険しい道がなお横たわっている」という演説を行うようなことになったのである。(P176-P177)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収


 この不満は、日本への反抗につながっていきます。


林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』


 そしてバ・モー政権の外相であるタキン=ヌの私邸にアウンサン等の閣僚や二派に分れた共産党の代表が集まり、反日蜂起の相談がなされるに至ったが、それは八月、ビルマ国民軍、ビルマ革命党(アウンサンの党)、共産党の他多くの党派を連ねた抗日統一戦線「パサパラ」の結成となったのであった。

 この一九四四年には、三月日本軍の無謀なインド進攻、インパール作戦があったが、それはただちに失敗が明らかになり、七月ビルマ国内に退却すると、英印軍のビルマヘの進出が激しくなった。そして四五年三月、これを迎え撃つために日本軍とビルマ国民軍がラングーンから出撃すると、その途次このビルマ国民軍一万五千が反乱を起して人民独立軍と称し、英印軍と協力して日本軍と戦った。日本軍は五月ラングーンを放棄し、八月連合軍に降伏する。(P177)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収


 ビルマが英国から独立を勝ち取り、「ビルマ連邦共和国」を成立させたのは、1948年1月のことでした。林氏は、「以上を通観して、やはり日本がビルマを独立させたと言うことはできないと思う」(P178)と総括しています。



 ついでですが、日本の占領地支配について興味深い体験記を発見しましたので、こちらに紹介します。「北ボルネオ」の事例です。


関嘉彦『回想録 私と民主社会主義』

第4回 北ボルネオ戦記


 司令部に到着すると、先発の笠間長官は調査局長室におさまっていたが、随行した常見二郎君は財務部が要員不足だというのでそちらに配属されていた。私自身も到着早々シブ州廰の勤務に配属されかかった。

 これは笠間長官の懸命の努力で取りやめとなったが、軍政要員が極度に不足しでいる時二十名程のスタッフが一度に到着したから、他の軍政部局や地方州廰から狙われるのは無理もない。私は何はともあれ、調査の実績をあげないと調査局は解体されると考え、調査部員に早急に調査にとりかかって貰った。

 それから間もなくして私は参謀部から、近く軍司令部開設一周年を記念して軍司令官名で現地住民に布告を出すので草案を書くように命じられた。笠間長官とも相談の上、大東亜共栄圏の意義でも書けばよかろうと考え、その旨を書いて提出すると、軍政参謀の矢野中佐から呼び出された。

 矢野参謀は私の顔を見るなり

アジアを英米勢力から解放した後それに自由を与えるなど、誰がそのようなことを決めたのだ。現地住民には初めから力により威圧しなければ駄目だ

と大変な剣幕である。

 それに対する私の返事が悪かったのか、ますます大声で怒鳴りつける。とうとう隣室から馬奈木参謀長が顔を出し、取りなし顔に私に書き直してこいと命じてその場は収まったが、私はその時初めて、第一線の中堅将校の考え方が分かったような気になった。((P50-P51)

(『改革者』 平成9年4月号)

※関氏は、民社党結成の参加者の一人として知られています(のち参議院議員(一期))。また1970年代後半、『文藝春秋』誌上で森嶋道夫氏との間で「防衛論争」を繰り広げたことも有名です。「非武装論」を主張する森嶋氏に対し、関氏は「非現実的」との批判を行いました。

 「アジアの解放」というタテマエが、現場には十分浸透していなかったことを伺い知ることができます。





中韓は「アジア」でないのか


 最後に、この書の中で私の印象に残った部分を紹介しておきます。

林健太郎『フィリピン、ビルマの独立と日本の大陸進出について』

 しかし日本にそれを「白人の横暴」として非難する資格があったか否かは、はなはだ疑問である。というのは、日本はパリ平和会議に人種差別の撤廃を提案しながら、同じアジア人種内の他民族に対しては差別撤廃とは逆のことを行っているからである。

 日本が第一次大戦中中国に対して行った二十一ヵ条要求は日本の植民地支配の強化拡大に外ならなかったが、果然パリ平和会議で中国代表は旧ドイツの山東半島利権の回収とともに、二十一ヵ条の廃止を要求した。

 これに対し日本は強硬に反対してその主張を通したので、北京大学の学生を中心として五月四日大デモ運動が起った。これが「五・四運動」で、中国の民族運動上画期的なものであるが、それがまた反日運動の嚆矢ともなったのである。

 これに先立って朝鮮では、三月一日の「三・一事件」というものが起っている。これもウィルソンの民族自決主義に望みを託した穏やかな民族自立の運動であったが、日本の軍隊がこれに対して行った厳しい鎮圧行動が多数人民の殺傷を惹き起こしたことは、いまでは普(あまね)く知られている。(P183-P184)

(中略) 

 それ(「ゆう」注 イギリスの植民地独立運動弾圧)はやはり責められるべきことではあるが、それでもそこには自治に向ってのゆるやかな歩みが認められるのであって、それは「三・一事件」への苛酷な弾圧、そして戦時中「皇民化」などというものを押し進めた日本の朝鮮政策とは異なっていた。

 「大東亜戦争」によって日本がアジア諸民族を解放したと主張する人は、中国民族や韓民族はアジアの民族でないと主張するのであろうか。(P183-P185)

(林健太郎『歴史からの警告』)所収

 ネットでも、「日本のアジア解放」なるものを礼賛したがる人々が、肝心の日本の植民地支配には頬被り(もしくは正当化)する例が多数見られます。

 「大東亜戦争」によって日本がアジア諸民族を解放したと主張する人は、中国民族や韓民族はアジアの民族でないと主張するのであろうか。―まさに、単純な「アジア解放論」に欠落している視点、と言えるでしょう。


(2015.6.7記)



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