保守政治学者の歴史観 ―猪木正道『軍国日本の興亡』― |
2015年、戦後70年を飾る「安倍首相談話」がどういう形になるのか、注目を集めています。特に話題になっているのが、「侵略」の語を、村山談話・小泉談話から継承するのかどうか、という点です。 念のためですが、「侵略」の表現は、別に「左翼」側の専売特許ではありません。少なくともかつての保守論壇では、「侵略」の事実を認める議論が、かなりの影響力を持っていました。 ここでは、その代表として、「反マルクス主義」の急先鋒として知られた政治学者・猪木正道氏、また、サンケイ新聞社刊の『正論』への常連寄稿者であり、保守論壇の重鎮であった元東大総長・林健太郎氏の二人の「歴史観」を見ていくことにします。 猪木正道氏は、京都大学教授、防衛大学校長等を歴任し、2012年、98歳で逝去しました。ここで取り上げる中公新書『軍国日本の興亡』は、1995年、氏が81歳の時の著作です。 ※入手は容易、かつ廉価ですので、関心を持たれた方はぜひ購入をお勧めします。 まずは、氏の政治思想的な立ち位置を確認しておきましょう。
戦前の「軍国主義」を批判すると同時に、返す刀で、当時の「社会党」の「空想的平和主義」を斬り捨ててみせます。また、防衛大学校の元校長らしく、「愛国心」「防衛」の重要性も強調します。
以下、そんな氏が、日清戦争から第二次世界大戦に至る日本の近代史に、どのような評価を与えているかを見ていきます。 まずは、朝鮮の植民地化に対する批判です。
「閔妃殺害事件」の不当性に言及しています。また、「日本の植民地支配が朝鮮の発展を助けた」とする見方に対しては、「日本化政策」がいかに朝鮮人の憎悪を買ったかを強調し、「韓国人の恨み」に理解を示します。 次に、「中国」に視点を移します。本の最初の方で、氏は、日本国民の中国人への「軽侮」を嘆きます。
残念なことですが、現在の日本にも、中国人を軽侮し、蔑称である「支那」という言葉を使いたがる一部勢力が残っています。(拙稿『「支那」という呼称』参照) さて、日中戦争の起原を探るにあたり、「右派」からはよく「中国側の挑発」が問題にされます。度重なる「日本人襲撃事件」や中国側による権益侵害に耐えかねて、日本は「自衛」のために戦争を始めた、という議論です。 この種の議論に欠けているのは、なぜ中国側でここまで「抗日意識」が盛り上がったのか、という視点です。日本側が、一歩一歩着実に中国大陸における「勢力拡大」を進めてきた事実を捨象して、それに対する中国側の「反抗」のみを取り上げるのは、決して公平な視点であるとは思われません。 以下、二十一ヵ条要求、満州事変を経て日中戦争に至る一連の経緯につき、猪木氏の議論を見ていきましょう。 猪木氏はまず、「排日運動を激化させ」「日中両国民の対立を決定的にしたもの」として、1915年、第一次世界大戦中のドサクサに出された、「二十一ヵ条の要求」を取り上げます。 わかりやすく解説されているので、この項の全文を紹介します。
氏は「火事場泥棒」という強い表現で、この「要求」を嘆きます。「二十一ヵ条」が「反日」意識を決定的にした、というのは、別に氏に限った見方ではなく、保守派の歴史研究者、半藤一利氏、保阪正康氏も同様の見解です。
この視点は、戦前のインド独立運動の志士、ネルー(のちインド初代首相)にも共有されています。1934年刊、『父が子に語る世界歴史』からです。
そして人類史上初めての世界大戦、「第一次世界大戦」が終わります。 全面戦争の惨禍を経験した世界各国は、新しい世界秩序へ向かって動き出そうとします。その象徴が、1928年の「不戦条約」です。
第一次世界大戦を境に、世界秩序を乱し、新たな戦争を招来しかねない「侵略」という行為に対して、「国際的糾弾」が行われる、という雰囲気が強くなってきます。 ただし、米英仏など列強の既往の「植民地」はそのままにして、新勢力の「侵略」のみを非難する形ですので、後世の我々から見ると身勝手の誹りは免れません。ナチスドイツなどは、列強が過去「侵略」によって植民地を獲得してきたのに、なぜ今ドイツが同じことをやってはいけないのか、と開き直りました。 しかしともかくも、「現状に変更を加えようとする、これ以上の侵略を容認しない」という考えは、当時の世界の合意になりつつあったことは事実です。 しかし、「空気を読めない」日本は、さらに勢力圏拡大を進めます。 1932年には、「満州国」が建国されました。
一部には無理やり「満州国建国」を正当化しようとする議論もありますが、氏はこれには従わず、あっさり「かいらい国家」と総括しています。 そしてこの「満州事変」をきっかけに、日本は国際連盟から脱退することになり、国際的孤立の道を歩みます。猪木氏は、これを「狂気」とまで言い切ります。
「満州国建国」後も、日本の膨張政策は止まりません。華北に軍事侵入を試み、武力を背景に華北に「非武装地帯」を設定することに成功します。
そして、のちの「通州事件」で有名な、「冀東防共自治政府」(冀東政権)の成立につながっていきます。猪木氏は、「冀東政権」の「影」の側面を伝えることを忘れません。
参考までに、当時の日本側の「正当化論」を見ておきましょう。参謀本部の文書です。
高関税のため密輸が盛んに行われていた。その取締りに限界を感じた冀東政権は、「民衆生活安定」のために関税を下げて日本の商品を輸入しやすくした。それは冀東政権の自主的判断で日本には関係ない、というわけです。 しかし今日においても、脆弱な経済を持つ国が自国産業を保護するために輸入品に「高率の関税」をかける、ということはごく普通に行われています。日本でも、「米輸入」に大きな制限をかけていることは、読者の方もよくご存じだと思います。 冀東政権の「関税引き下げ」は日本の経済界の要求を丸呑みにした形であり、「南京政府」の反発は理解できるところでしょう。 この参謀本部見解でも、「支那市場は一大衝撃を受け」、かつ「国民政府収入の大宗たる関税収入は巨額の減収を告げ 支那財政の基礎を脅か」すに至ったこと、そして中国政府から激しい抗議を受けたことを認めています。 当時憲兵として上海にいた塚本誠は、以下のように、この問題をわかりやすく説明しています。
また「密輸出」については、むしろ「アヘン」の密輸出を問題とすべきところでしょう。
さて、当時の一エピソードに、「幣制改革」問題があります。 成功すれば、国民政府による中国の統一・中国経済の近代化が促進される。しかし日本は、あえて「改革」に反対し、中国側の恨みを買うことになりました。
そして「盧溝橋事件」をきっかけに、ついに日中戦争が開始されることになります。 右派からは、「戦争を望んだ中国、望まなかった日本」と、あたかも「戦争」の責任が中国側にあるかのような表現を見ることがあります。 これ自体は、単純化すぎる嫌いはありますが、一面の真実ではあるかもしれません。例えば猪木氏も、このように表現しています。
確かに日本側は、「拡大派」を含め、「全面戦争」を望んではいなかったのかもしれません。しかし別に、「権益拡大」を全く念頭に置かなかったわけではなく、今まで通り、武力の威圧によって中国側が屈服し、日本の勢力圏が「平和的に」広がっていくことを期待した、とみるべきところでしょう。 「満州事変」以降、日本軍の着実な勢力圏拡大の動きに、中国側は強い危機感を抱いていました。猪木氏の記述からは離れますが、その「臨界点」が「戦争」という形に現れたという理解が一番妥当ではないか、と私は考えています。 そしてこの日中戦争は、アメリカとの関係悪化につながっていきます。
このあたりの経緯は複雑であり、通常は、日本の「侵略」を非難する国際世論の盛り上がり、日本の仏印進駐などが「対米戦争」の原因として語られますが、紙数の関係からか、猪木氏のこの本では省略されています。 太平洋戦争についての記述は次の通り簡単ですが、「自爆戦争」と評したことが印象に残ります。
さて氏のこの著書は、次の文章で締められています。氏の歴史観が最もわかりやすく示されている箇所ですので、本稿も、この部分を紹介して「締め」とすることにしましょう。
「軍部の暴走」を必死になって擁護しようとする「大東亜戦争万歳」史観よりも、私にははるかに納得性の高いものに思われます。 (2015.5.10)
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