保守政治学者の歴史観

―猪木正道『軍国日本の興亡』―


 2015年、戦後70年を飾る「安倍首相談話」がどういう形になるのか、注目を集めています。特に話題になっているのが、「侵略」の語を、村山談話・小泉談話から継承するのかどうか、という点です。

 念のためですが、「侵略」の表現は、別に「左翼」側の専売特許ではありません。少なくともかつての保守論壇では、「侵略」の事実を認める議論が、かなりの影響力を持っていました

 ここでは、その代表として、「反マルクス主義」の急先鋒として知られた政治学者・猪木正道氏、また、サンケイ新聞社刊の『正論』への常連寄稿者であり、保守論壇の重鎮であった元東大総長・林健太郎氏の二人の「歴史観」を見ていくことにします。




 猪木正道氏は、京都大学教授、防衛大学校長等を歴任し、2012年、98歳で逝去しました。ここで取り上げる中公新書『軍国日本の興亡』は、1995年、氏が81歳の時の著作です。

※入手は容易、かつ廉価ですので、関心を持たれた方はぜひ購入をお勧めします。


 まずは、氏の政治思想的な立ち位置を確認しておきましょう。


猪木正道『軍国日本の興亡』

まえがき

 戦前・戦中の軍国主義は、戦後の空想的平和主義とみごとな対照をなしている。敗戦で軍国主義から解放されたわれわれ日本国民は、戦後空想的平和主義にとりつかれた。たとえば社会党が野党の時代の村山富市氏の言動は、空想的平和主義そのものだといっても過言ではあるまい。

 その村山氏は、首相就任後最初の施政方針演説で自衛隊の合憲性を認め、日米安全保障条約の堅持を打ち出した。その意味では、日本社会党の空想的平和主義を克服しようとしたといえよう。しかし、村山氏はまだ空想的平和主義から完全に離脱したわけではない。国際連合への協力を論じ、PKOについて語る時、氏の空想的平和主義はつねに露呈される。

 もちろん、こういう空想的平和主義の基調は、社会党と村山氏に固有のものではない。平均的日本人の考え方だといってもよかろう。空前の敗戦により打ちのめされた日本国民にとって、ある程度の軍事アレルギーは避け難い。

 広く深く根を張った空想的平和主義が一体何に起因するのかを考察して、私は戟前・戦中の軍国主義を裏返しにしたものだと気付いた。戦前・戦中の軍国主義と戦後の空想的平和主義とはまるで双生児のようによく似ている。考え方が独善的であり、国際的視野を欠いて一国主義的であること等そっくりである。(P4-P5)


 戦前の「軍国主義」を批判すると同時に、返す刀で、当時の「社会党」の「空想的平和主義」を斬り捨ててみせます。また、防衛大学校の元校長らしく、「愛国心」「防衛」の重要性も強調します


猪木正道『軍国日本の興亡』


 軍国主義が愛国心を不当にゆがめ、中国人や韓国(朝鮮)人やアメリカ人の愛国心を否定して、日本人だけが愛国心を持っているかのごとく錯覚したことは、大きな禍根を残した。その反動として、戦後は日本人の愛国心そのものが軍国主義的なものと誤認され、愛国心が否定されてしまうという恐ろしい状況まで現出した。

 みずからの愛国心を否定する国民は、国際社会で尊敬されない。日本が国際社会の名誉ある構成員であるためには、軍国主義によってゆがめられ、汚辱された愛国心を軍国主義との癒着から救い出し、外国人の愛国心とも両立する本当の愛国心に純化しなければならない。この作業を完了するまでは、愛国心は軍国主義とのくされ縁から解放されないだろう。(P6-P7)



猪木正道『軍国日本の興亡』

 軍国日本が次第に軍国主義色を深め、中国ばかりでなく米英両国をはじめ、ほとんど全世界を敵とする自爆戦争に突入し、一九四五年八月にポツダム宣言を受諾するという形で降伏した後、敗戦国日本では、軍国主義に対する反動の時代がはじまった。

 軍国主義が軍事的価値、軍事力および軍人を不当に過大評価するものであったのに反して、戦後の反軍国主義は、軍事的価値を不当に過小評価した。アメリカ合衆国の占領軍が、日本の非軍事化を推進したのに即応して、敗戦後の日本では、軍事的価値一般、軍事力および軍人を軽侮する傾向が強まった。

 憲法第九条の戦争放棄に関する規定も、侵略戦争ばかりか、自衛の戦争も認めないかのように粗雑に解釈され、歴史上も前例がない空想的平和主義が喧伝された。これは軍国主義を裏返しにしたものといってよく、自国をみずから防衛することによって国際社会の平和と安全に対する責任を果たす、という重要な視野がまったく欠落していた。(P4-P5)


  以下、そんな氏が、日清戦争から第二次世界大戦に至る日本の近代史に、どのような評価を与えているかを見ていきます。




 まずは、朝鮮の植民地化に対する批判です。

猪木正道『軍国日本の興亡』

 一八九五年一〇月八日、日本の駐韓公使三浦梧楼中将の手でクーデタが行われ、閔妃は日本人の手で殺害された(乙未事変)。翌年二月韓国王は身の危険を感じてロシアの公使館に逃げ込み、一年ほどかくまわれた。韓国の政府が親ロシア派で固められたことはもちろんである。

 日本の一部軍人と浪人とは、閔妃殺害によって韓国王室と韓国民の反感を買い、ロシアの影響力を逆に強化してしまった。三浦将軍や無法者たちは日本で取調べを受けたが、証拠不充分ということで釈放された。(P16-P17)

 閔妃殺害事件に代表される一部軍人や無法者の蛮行は、日本の国際信用を傷つけ、日本の国益をいちじるしく害した。(P17)



猪木正道『軍国日本の興亡』

 朝鮮総督府による日本の支配は、米の生産額が着実に増加したこと、人口もふえ続けたこと等の一面が存することは疑いない。

 しかし、"皇民化"と称して朝鮮人を日本姓にかえさせようとしたり、日本の国家神道を強制したり、日本語の学習を義務づけ、韓国語教育に制限を加えるなど押しつけがましい干渉が加えられたため、朝鮮人の恨みはかえって深くなり、日本および日本人への憎悪がつのった

 英国のインド統治は、インド人の生活と文化への介入を極力避けたので、英国人はインド人からそれほど嫌悪されず、かえって畏敬される場合さえあった。

 伊藤博文のほか、第一次日韓協約によって韓国の外交顧問となり日本のために尽したスティーゲンスも、サンフランシスコで韓国人により暗殺されている。韓国人の恨みの深さを察することができよう。(P72)


 「閔妃殺害事件」の不当性に言及しています。また、「日本の植民地支配が朝鮮の発展を助けた」とする見方に対しては、「日本化政策」がいかに朝鮮人の憎悪を買ったかを強調し、「韓国人の恨み」に理解を示します。




 次に、「中国」に視点を移します。本の最初の方で、氏は、日本国民の中国人への「軽侮」を嘆きます。

猪木正道『軍国日本の興亡』

 ロシアと戦う決意を固めた当時の日本国民は、あまりにももろく敗退した清国を軽侮し、中国人を「チャンコロ」などと称して侮辱するようになった。従来、中国の偉大な文明に対する尊敬の念が高かっただけに、日本人は清朝中国の弱体ぶりに驚き、中国人を軽侮する弊風が一挙に強くなった。日中両国民にとって、非常に不幸なことである。(P17)


 残念なことですが、現在の日本にも、中国人を軽侮し、蔑称である「支那」という言葉を使いたがる一部勢力が残っています。(拙稿『「支那」という呼称』参照)




 さて、日中戦争の起原を探るにあたり、「右派」からはよく「中国側の挑発」が問題にされます。度重なる「日本人襲撃事件」や中国側による権益侵害に耐えかねて、日本は「自衛」のために戦争を始めた、という議論です。

 この種の議論に欠けているのは、なぜ中国側でここまで「抗日意識」が盛り上がったのか、という視点です。日本側が、一歩一歩着実に中国大陸における「勢力拡大」を進めてきた事実を捨象して、それに対する中国側の「反抗」のみを取り上げるのは、決して公平な視点であるとは思われません。

 以下、二十一ヵ条要求、満州事変を経て日中戦争に至る一連の経緯につき、猪木氏の議論を見ていきましょう。




 猪木氏はまず、「排日運動を激化させ」「日中両国民の対立を決定的にしたもの」として、1915年、第一次世界大戦中のドサクサに出された、「二十一ヵ条の要求」を取り上げます。

 わかりやすく解説されているので、この項の全文を紹介します。


猪木正道『軍国日本の興亡』

二十一ヵ条の要求

 渤海湾に上陸した日本軍が青島へ向け進撃する際、山東鉄道を押収したので、中国は日本に抗議した。中国は米国のウィルソン大統領に訴えながら、一一月一八日、日本軍の撤退を要求した。翌年一月七日にも中国の撤退要求が繰り返されたため、日本政府は中国に対して一八日、二十一ヵ条の要求をつきつけた。

 この要求は、(一)山東省に関するもの、(二)南満洲および東部内蒙古に関するもの、(三)漢冶萍公司(かんやひょうコンス)(大冶と萍郷および漢陽)に関するもの、(四)沿岸不割譲に関するもの、(五)その他の項目に分れている。

 ヨーロッパの列強が大戦に忙殺されているすきに乗じて、弱体な中国に進出して利権を手に入れ、日本の勢力を植えつけようとする諸要求が、火事場泥棒という非難を浴びたのも無理はない。

 第一号は、ドイツが山東省に関し、条約その他により中国から獲得した権利等の処分については、将来日独両国間に協定される一切の事項を承諾する旨約束すること。山東省の鉄道敷設権を日本に譲ること。

 第二号は、南満洲および東部内蒙古については、旅順、大連の租借期限ならびに南満洲鉄道および安奉鉄道に関する期限をいずれもさらに九九年間延長すること。および日本国国民は南満洲および東部内蒙古において各種商工業上の建設または耕作のため、必要な土地の賃借権または所有権を取得できること。(P114-P115)

 第三号は、漢冶萍公司(製鉄所)を日中合弁とすること。

 第四号は、福建省の沿岸を第三国に割譲しないこと。

  − を求めている。

 第五号がもっとも問題である。主要なのは第一に中央政府に政治および軍事顧問として有力な日本人を傭聘すること、次に必要な地方の警察を日中合同とするか、または日本人を傭聘すること、そしてもう一つ、日本から一定数量の兵器の供給を仰ぐか、または中国に日中合弁の兵器廠を設立し、日本から技師および材料の供給を受けること。

 このような無法な要求に対し、中国が強硬に拒否したのは当然である。中国がしぶしぶ認めたのは関東州(旅順と大連)の租借期限の延長だけであって、東部内蒙古と第五号とについては、交渉に応じることも拒否した。

 さすがの日本政府も、中国の植民地化を意味する第五号だけは除いて、一九一五年五月七日最後通牒をつきつけた。衰世凱を首班とする中国政府は五月九日、日本の要求に屈した。それ以来五月九日は、中国の国恥記念日となった。

 中国の民族主義は、軍国日本の非道な要求に対してはげしく燃え上った。日清戦争後、歴代政府の懸命な努力の結果、中国人は親日的となり、一九一五年には東京だけでも五千人の中国人留学生が学んでいた。二十一ヵ条の要求は排日運動を激化させ、多くの留学生たちは米国へ転進した。日中両国民の対立を決定的なものとしたのは、まさにこの二十一ヵ条の要求であった。(P115-P116)


 氏は「火事場泥棒」という強い表現で、この「要求」を嘆きます。「二十一ヵ条」が「反日」意識を決定的にした、というのは、別に氏に限った見方ではなく、保守派の歴史研究者、半藤一利氏、保阪正康氏も同様の見解です。


『東京裁判を読む』より


半藤(一利) 日本が対華二十一ヶ条を突きつけたからこうなったという因果関係ですからね。歴史は因果関係ですから。第一次世界大戦でヨーロッパが戦場になっているときに、アジアが手薄になったから、このときがチャンスとばかりに日本が二十一ヶ条を突きつけたわけでしょう。それまでは中国は反日、排日だけではなくて、反米であり排米でもあった。いろいろな外国の権益の横暴に対して、中国の人民はみんなして抵抗していたわけですよ。とごろが、二十一ヶ条以降は反日一色になっちゃった。

保阪(正康) アメリカやイギリスにも向かっていた中国のナショナリズムが全部日本に向かって来た。大隈重信内閣が対華二十一ヵ条を突きつけたのは、まったくお粗末な政策です。

半藤 中国人民の立場に立てば、二十一ヶ条はいくらなんでもやりすぎですよ。

保阪 植民地にするどころか、権益を全部抑えてしまおうということでしょう。この二十一ヶ条が世界にバレる。そうすると姑息にも「これは平和のためであり、中国の領土保全のためである」とか何とか言い換えをする。ああいうごまかしには腹が立ちます。

半藤 二十一ヵ条要求の後、芥川龍之介が新聞社の特派員として中国をルポルタージュして『支那游記』という本を出します。芥川は別に中国の時局を見るつもりで行ったわけではなく、遺蹟を訪ね風景なんかを描写しているんですが、そこにおのずと出てくるんですよ。中国側がいかに日本を恨みに思っているか、日本人を排撃しているか、日本人に抵抗しているかが。こういうものを読むと、中国に対してはどう贔屓目でみても立場が悪くなりますね。(P208-P209)



 この視点は、戦前のインド独立運動の志士、ネルー(のちインド初代首相)にも共有されています。1934年刊、『父が子に語る世界歴史』からです。

ネルー『父が子に語る世界歴史』5

 この「二十一ヵ条要求」は有名なものになった。わたしは、ここではそれらを一々挙げないが、それらはとくに満州、モンゴーリア、および山東省におけるあらゆる種類の権利、特権を日本に譲渡することを意味するものであった。

 もしこれらの要求に同意しようものならば、中国は事実上日本の植民地と化してしまっただろう。微力な北方中国政府ほこれらの要求に反対したが、しかし強大な日本にたいして、かれらはいったいな(に)をなしえただろう? そして、しかも、この北方の中国政府は自国の人民にたいしても、信望のあつい方ではなかった。

 とはいいながら、それは一つだけ役に立つことをした。日本の要求は公表された。たちまちすさまじい輿論の爆発が中国じゅうに起った。戦争に没頭していた諸外国でさえ、これには怒った。ことに、アメリカはこれに反対Lた。

 その結果、日本はその要求のあるものをひっこめ、またあるものは修正した。その他の条項にかんしては、日本は中国をいじめつけて、とうとう一九一五年五月に、これを受け容れさせてしまった。これが中国に、はげしい反日感情をいだかせる結果となった

※『父が子に語る世界歴史』は、のち新版が出ており、旧版の全6巻が新版では全8巻に編纂されています。上の巻数、ページは1966年初版の旧版のものですので、ご注意ください。



 そして人類史上初めての世界大戦、「第一次世界大戦」が終わります。

 全面戦争の惨禍を経験した世界各国は、新しい世界秩序へ向かって動き出そうとします。その象徴が、1928年の「不戦条約」です。

猪木正道『軍国日本の興亡』

不戦条約

 田中内閣時代のもっとも重要な出来事の一つは、一九二八年八月二七日、パリにおいて不戦条約が調印されたことである。参加したのは日本を含めて一五ヵ国であった。第一次大戦後の軍縮・不戦の気運を反映した画期的な条約といえよう。この条約は翌一九二九年七月二四日発効し、ワシントンで宣布式が挙行された。

 不戦条約が成立したからといって、戦争がなくなるわけではない。しかし、不戦条約の発効前と発効後とでは、侵略戦争に対する国際的糾弾の重みがすっかり変った。日本が満洲事変を起こした時、このことは誰の眼にもはっきりした。(P151-P152)

 ところが日本では、不戦条約の画期的な意義について深く考える人は少く、野党の民政党は、「人民の名において」という条文の一句が大日本帝国憲法に反するという愚劣な論議で、政友会内閣を攻撃するのに夢中であった。世界の国々は、日本が異様な国家であるという印象を強く持ったに違いない。(P152)



 第一次世界大戦を境に、世界秩序を乱し、新たな戦争を招来しかねない「侵略」という行為に対して、「国際的糾弾」が行われる、という雰囲気が強くなってきます。

 ただし、米英仏など列強の既往の「植民地」はそのままにして、新勢力の「侵略」のみを非難する形ですので、後世の我々から見ると身勝手の誹りは免れません。ナチスドイツなどは、列強が過去「侵略」によって植民地を獲得してきたのに、なぜ今ドイツが同じことをやってはいけないのか、と開き直りました。

 しかしともかくも、「現状に変更を加えようとする、これ以上の侵略を容認しない」という考えは、当時の世界の合意になりつつあったことは事実です。

 しかし、「空気を読めない」日本は、さらに勢力圏拡大を進めます。



 1932年には、「満州国」が建国されました。

猪木正道『軍国日本の興亡』


 こうした動きの背後には関東軍の幕僚たちの指導があったことはもちろんである。新国家を帝政にするか、共和制にするかで激論がたたかわされたが、板垣高級参謀の指導で薄儀を執政とする共和制に決した。薄儀の念頭には帝位につくことしかなかったから、大いに不満であったが、板垣大佐に従わざるをえなかった。

 一九三二年三月一日の清朝の紀元節当日、"満洲国"政府の名で建国宣言が発表された。こうして関東軍の謀略によって、一二〇万平方キロメートルの国土を有する、人口三四〇〇万人のかいらい国家が誕生した。(P191-P192)

 

 一部には無理やり「満州国建国」を正当化しようとする議論もありますが、氏はこれには従わず、あっさり「かいらい国家」と総括しています。




 そしてこの「満州事変」をきっかけに、日本は国際連盟から脱退することになり、国際的孤立の道を歩みます。猪木氏は、これを「狂気」とまで言い切ります。

猪木正道『軍国日本の興亡』

 国際連盟からの脱退

 松岡全権の退場は、日本国内では大変評判がよかった。しかし、原田熊雄男爵は 『西園寺公と政局』の中で、「ところが実をいうと、先般来新聞の論調を不必要にというよりも、むしろ有害に硬化させて、ひいては国家の品性を傷つけさせたのは、誰あろう、ジュネーヴにいる松岡全権その人だったのである」と説いている。

 松岡全権が国内向けの宣伝にばかり熱中したという宇垣大将らの非難は、松岡にとって心外かも知れないが、陸軍や右翼と組んで日本の国論を硬化させることによりみずからの国際的立場を強くしたいという松岡の計算は裏目に出た。松岡自身が自分の宣伝のとりこになってしまったからである。

 日本の国際連盟脱退がどれほど重大な意義を持っていたかを、もっとも深刻に洞察していたのは、一九三三年三月二七日に発せられた昭和天皇の詔書であろう。斎藤実以下全国務大臣が副署しているが、この詔書の本当の意味をもっとも深く理解しておられたのほ、昭和天皇であったと思われる。

 国際社会の一員として世界各国と協力しなければ、日本には生きる途がないということは、明治以来、日本の不動の国是であった。国際連盟からの脱退が日本の孤立を意味することを、日本の為政者は皆正しく理解していたはずである。満洲で関東軍の一部が独断で行動を起こし、「満洲国」を作ったことは、中国に関する九ヵ国条約に反するばかりでなく、不戦条約にも違反する。(P209-P210)

 内田外相や著名な外政家までが、満洲国を承認すれば国際連盟から脱退しなければならなくなることの意味を深く考慮しなかったことは、不思議としか形容できない。正気が失われれば、狂気が支配するようになる。(P210)


 「満州国建国」後も、日本の膨張政策は止まりません。華北に軍事侵入を試み、武力を背景に華北に「非武装地帯」を設定することに成功します。


猪木正道『軍国日本の興亡』

 日本軍の華北侵入

 日本が国際連盟から脱退した直後の一九三三年四月一〇日に、関東軍は万里の長城線を越えて華北に侵入を開始した。このときは軍の中央部も反対したので、四月一九日、いったん長城線へ復帰したが、五月七日には陸軍の中央(陸軍省と参謀本部)は、関東軍の圧力に負けて、華北侵入を認めた。五月二一日には、日本軍は通州を占領し、北京(北平)城外に迫った

 翌日、中国の何応欽将軍が中国軍に北京からの撤退を命令し、五月二五日から日中両軍間に停戦交渉が行われ、五月三一日、「塘沽(タンクー)停戦協定」が成立した。この協定は、長城線以南に非武装地帯を設定することになっており、中国軍の撤兵に続いて日本軍も撤兵した。(P243-P244)

 そして、一九三三年七月三日、関東軍の岡村寧次少将と中国の駐平政務整理委員会代表とが大連で会談し、七月五日には非武装地帯の処理、満洲と中国との間の鉄道通車問題について交渉がまとまった。これを、「第一次大連会議」という。同じ年の一一月七日、関東軍の岡村少将は何応欽らと北京で会談し、非武装地帯を駐平政務委員会が接収することについて合意した。これを「北平会議」という。

 こうして、関東軍の華北への侵入はかろうじて阻止されたが、日本陸軍の中には、満洲に次いで華北をも日本の事実上の領土にしようとする膨脹主義の熱が冷めなかった。出先の軍が既成事実をつくれば、東京の陸軍省も、参謀本部も、政府そのものも、これを追認する。そして、「自分たちは国民的英雄になれる」という信念が、もはや抜きがたいものになっていた。(P243)





 そして、のちの「通州事件」で有名な、「冀東防共自治政府」(冀東政権)の成立につながっていきます。猪木氏は、「冀東政権」の「影」の側面を伝えることを忘れません。

猪木正道『軍国日本の興亡』


 一九三五年一一月二五日には、日本軍の指導下に、万里の長城以南の非武装地帯に冀東防共自治委員会が成立した。委員長に就任したのは、悪名高い殿汝耕であった。この冀東政権は日本商品の密輸出の拠点となり、中国は巨額の関税収入を失うことになる。(P246)



 参考までに、当時の日本側の「正当化論」を見ておきましょう。参謀本部の文書です。

支那時局報第十一号 『最近北支の一般情勢に就て』

(昭和十一年六月五日 参謀本部)

(略)

一、冀東の低関税問題

 支那に於ける密輸入は南京政府の民衆の利益を犠牲とせる不合理なる高率関税必然の所産として従来南北支一帯に亘り殆んど公々然と行はれ来りし不可避普遍的現象なり

 殊に冀東は昔より密輸の旺なる地域なりしが偶々冀東政権の独立により其沿岸に於ける支那海関の監視船の遊弋を禁止せる為海路密輸の激増を見 冀東側としても之が取締りに困難を感じたる結果 合理化せる関税政策の樹立を必要とするに至り 本年二月其弁法を制定し 低廉なる手数料を徴集して貨物の陸揚げを合法的ならしめたり

 之に依り従来高関税の桎梏下にありし優良にして廉価なる日本よりの輸入品は冀東を通じて天津に殺到し次で支那各地に進出し今や遠く中支方面迄に及び 為に一般大衆の生活は安易になれりと雖も 支那市場は一大衝撃を受け 且国民政府収入の大宗たる関税収入は巨額の減収を告げ 支那財政の基礎を脅かすに至れり(P157)

 思ふに冀東政権の低関税設定は該政権自体の必要と民衆生活安定の要望に従ひ実施せられたるものに過ぎず固より帝国の与り知らざる所なり

 然るに南京政府等が之を以て帝国就中皇軍の計画的支持の結果とするは省みて敢て他を謂ふものにし啻に当を得ざるのみならず皇軍の栄誉を傷くるの甚だしきものにして斯くの如く歪曲せられ且為にせんが為の放言は断じて看過を許すぺからざる所なり

(みすず書房『現代史資料(8) 日中戦争(一)』より)

 高関税のため密輸が盛んに行われていた。その取締りに限界を感じた冀東政権は、「民衆生活安定」のために関税を下げて日本の商品を輸入しやすくした
。それは冀東政権の自主的判断で日本には関係ない、というわけです。

 しかし今日においても、脆弱な経済を持つ国が自国産業を保護するために輸入品に「高率の関税」をかける、ということはごく普通に行われています。日本でも、「米輸入」に大きな制限をかけていることは、読者の方もよくご存じだと思います。

 冀東政権の「関税引き下げ」は日本の経済界の要求を丸呑みにした形であり、「南京政府」の反発は理解できるところでしょう。

 この参謀本部見解でも、「支那市場は一大衝撃を受け」、かつ「国民政府収入の大宗たる関税収入は巨額の減収を告げ 支那財政の基礎を脅か」すに至ったこと、そして中国政府から激しい抗議を受けたことを認めています。

 当時憲兵として上海にいた塚本誠は、以下のように、この問題をわかりやすく説明しています。

塚本誠「ある情報将校の記録」より 

 昭和十年十一月、日本の工作により華北に段汝耕を主班とする冀東政権が樹立された。これは段汝耕という留日学生出身の、中国ではあまり高く評価されていない男に、通州を中心とした停戦地域内に地方政権をたてさせ、 そこを通じて日本の商品を合法的に中国に「密輸出」しようとしたものである。

日本の商品は大連に陸上げされると、鉄道で満州を通ってこの政府の「領土」にはいる。その時、その商品はごく安い税がかけられる。 冀東政権は中国のなかにある地方政権ということになっているから、ここで一度税をかけられた商品はそこから中国のどこに運ばれようと、中国では二度と税はかけられない。 いや中国があえてそれに税をかけようとすれば日本から厳重な抗議が出ることを覚悟しなければならない。

だからこういう合法的密輸品が中国の市場に大手をふって汎濫すれば、中国の商工業は破算するしかない。もし中国政府にそれを阻止する力がないとすれば、 中国はもはや国家の破算を待つばかりだ。これが中国の愛国者を捉えた切迫した感情だった。この感情で一番ゆさぶられたのは若い学生たちだった。

 十年十二月、北京の学生が冀東政権に反対して起ちあがると、それにつづいて上海では学生が蒋政府に対して対日抗戦の請願デモを行った。これは必然的ななりゆきである。この運動はたちまち全土に波及した。 (P149〜P150)

 また「密輸出」については、むしろ「アヘン」の密輸出を問題とすべきところでしょう。

江口圭一「十五年戦争研究史論」より 


 第二は、中国側にとってもある意味で「魔の通州」と呼ぶべき事情が存在していたことである。

  通州は冀東政権の本拠地であり、華北併呑の舌端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。

 ヘロイン製造にあたった山内三郎は「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」と記し、 中国の作家林語堂は「偽冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」と書いた。 (P240)

 




 さて、当時の一エピソードに、「幣制改革」問題があります。

 成功すれば、国民政府による中国の統一・中国経済の近代化が促進される。しかし日本は、あえて「改革」に反対し、中国側の恨みを買うことになりました。

猪木正道『軍国日本の興亡』

 中国の幣制改革

 この頃、英国は中国の貨幣制度を改革するため、援助する目的で経済使節リース=ロスを派遣した。リース=ロスは日本を訪れて当時の広田外相、高橋蔵相らと会い、日本の協力を求めた。

 もしリース=ロスが推進する中国の幣制改革が実現すれば、国民政府による中国の統一が促進される。日本は、英国から協力を求められ、日・英・中三国の合作によって、中国経済の近代化に大きな役割を果たす機会を与えられた。

 しかし、中国を分割して徐々に日本の支配下におさめようとする軍部にとっては、英国が指導する幣制改革を認めるわけにはいかなかった
。(P245-P246)

 二月九日、日本の外務省は、中国の幣制改革とこれを実現するための中国に対する共同借款に反対する声明を発した。日本はこのため、中国の公敵となった。英国などとともに中国の国民国家への脱皮に協力することを拒否して、むきだしの軍事力で中国に侵略を続ける道を選んだのである

 北京の日本大使館付き武官、磯谷廉介少将は一一月八日、「幣制改革に反対するため軍事力を行使する」とまで言い切った。中国の幣制改革は、その後、大成功をおさめ、中国は国民政府のもとに統一・強化されていくことになる。(P246)




 そして「盧溝橋事件」をきっかけに、ついに日中戦争が開始されることになります。

 右派からは、「戦争を望んだ中国、望まなかった日本」と、あたかも「戦争」の責任が中国側にあるかのような表現を見ることがあります。

 これ自体は、単純化すぎる嫌いはありますが、一面の真実ではあるかもしれません。例えば猪木氏も、このように表現しています。


猪木正道『軍国日本の興亡』

 盧溝橋事件

 一九三七年七月七日、盧溝橋で、日本の天津駐屯軍の小部隊が演習中に中国軍の小部隊と衝突した。これを「盧溝橋事件」という。

 最初の一発が、日中両軍のどちらによるものかは、いまだに明らかでない。しかし、この盧溝橋事件を拡大することなく現地で解決しようという空気は日中双方に強かったから、七月一一日の午後八時に現地で停戦協定が成立した。

 ところが同じ七月一一日、東京では、華北の治安維持のため五個師団の兵力を中国に派遣することが閣議で決定された。その内訳は、関東軍から二個旅団、朝鮮軍から一個師団、そして内地から三個師団であった。しかし、ただちに内地から出兵されたわけではなく、さしあたり満州と朝鮮から現地に兵力が出動した。

 この頃、日本陸軍では現地解決派と拡大派とが激しく対立、抗争していた。七月八日の朝、事件の第一報が参謀本部と陸軍省に届いたとき、参謀本部戦争指導課長、河辺虎四郎大佐に対する電話の中で、二つの対立的な意見が表明されている。

 一つは陸軍省軍務課長の柴山兼四郎大佐のもので、「やっかいなことが起こったな」というのであった。これに反して参謀本部作戦課長、武藤章大佐は「愉快なことが起こったね」と、語った。(P256)



 拡大派の武藤作戦課長は「千載一遇の好機だからこの際やったほうがよい」と説き、田中新一軍事課長は、戦争指導課が提示した用兵規模を、日本と中国の軍隊を混同したものとして、一笑に付した。参謀本部支那課の永津佐比重課長は、「上陸せんでもよいから、塘沽附近まで船を回して持って行けば、それで北京とか天津はもうまいるであろう」と述べたという。

 拡大派も中国との全面戦争を希望したわけではなく、出兵という武力の威圧によって中国は屈伏するものと楽観視したわけである。(P257)


 確かに日本側は、「拡大派」を含め、「全面戦争」を望んではいなかったのかもしれません。しかし別に、「権益拡大」を全く念頭に置かなかったわけではなく、今まで通り、武力の威圧によって中国側が屈服し、日本の勢力圏が「平和的に」広がっていくことを期待した、とみるべきところでしょう。

 「満州事変」以降、日本軍の着実な勢力圏拡大の動きに、中国側は強い危機感を抱いていました。猪木氏の記述からは離れますが、その「臨界点」が「戦争」という形に現れたという理解が一番妥当ではないか、と私は考えています。



 そしてこの日中戦争は、アメリカとの関係悪化につながっていきます。

猪木正道『軍国日本の興亡』


 日中戦争が長引くに伴って、米英両国と日本との間の関係は悪化した

 一九四一年四月一六日、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官との会談において、ハル長官はいわゆるハル四原則を強調した。第一にはあらゆる国家の領土保全と主権尊重、第二は内政不干渉、第三は通商の機会均等、そして第四は平和的手段によらないかぎり太平洋の現状不変更 ― となっている。(P261)



 このあたりの経緯は複雑であり、通常は、日本の「侵略」を非難する国際世論の盛り上がり、日本の仏印進駐などが「対米戦争」の原因として語られますが、紙数の関係からか、猪木氏のこの本では省略されています。

 太平洋戦争についての記述は次の通り簡単ですが、「自爆戦争」と評したことが印象に残ります。

猪木正道『軍国日本の興亡』


 "ジリ貧"を避けるために開戦するというのは、きわめて乱暴で、無責任な論理だ。その結果は空前の惨敗となった。米内光政元首相の表現を借りれば、"ドカ貧"にほかならない。日清、日露の両戦争をみごと指導した元老や文武の高官たちの緻密な計算と合理的判断と比較すれば、"大東亜戦争"という美名の下に始まった戦争は、自爆戦争としか名づけようがない

 ハル四原則を盛ったハル・ノートを読むと、日露戦争直後の一九〇六年三月に英米両国の大・公使が当時の西園寺首・外相にあてた二通の書翰を想起させられる。その内容は、本書の第六章でのべたとおり、日本軍占領下の南満洲で通商が妨害され、門戸開放・機会均等の原則が侵犯されているという抗議であった。

 一九二二年二月六日ワシソトンで調印された「中国に関する九ヵ国条約」は、中国の主権と独立、領土的および行政的保全の尊重、門戸開放と機会均等を定めていた。一九〇六年三月の英米両国の大・公使書翰から一九二二年二月の九ヵ国条約をへて、一九四一年一一月のハル・ノートまで、アメリカ合衆国の対日・対華政策は、息長く一貫している。日本が中国の主権と独立、領土の保全を侵すことを、米国は決して許していない

 満洲事変から日中戦争まで、中国の主権と領土を侵犯し続けた日本は、ハル・ノートに接して、自爆せざるをえなかったのである。大東亜戦争あるいは太平洋戦争と呼ばれる戦争は、自爆戦争以外の何ものでもなかった。(P264)





 さて氏のこの著書は、次の文章で締められています。氏の歴史観が最もわかりやすく示されている箇所ですので、本稿も、この部分を紹介して「締め」とすることにしましょう。

猪木正道『軍国日本の興亡』

 軍国日本が自爆したのは、軍に立憲国家を超えた特権的地位を与えた結果である。

 日露戦争に勝ってから、日本の軍人におごりが生じたのは、無理もない。しかし満州を中国から切り離して日本の支配下に置こうとする野望に対してほ、一九〇六年五月の"満洲問題に関する協議会"で、元老伊藤博文がきびしく児玉源太郎参謀総長を叱ったように、文民統制を貫徹するべきであった。

 軍人の野望を制御できないと、日本は二つの強敵によって、はさみ討ちにあうことになる。一つは中国の"門戸開放"という原則から、日本の中国への侵略を絶対に認めないアメリカ合衆国の圧倒的な力である。いま一つは、半植民地化の危機に直面して、ようやくめざめた中国民族主義の巨大なエネルギーにほかならない。

 一九二二年二月六日、ワシントンで、「中国に関する九ヵ国条約」に調印し、一九二九年七月に発動した不戦条約に前年調印して参加しながら、軍国日本は、一九二二年から中国への露骨な侵略を開始した。(P264-P265)

 中国に対する日本の侵略を、一八、一九世紀に英国が行った侵略と単純に比較して、日英同罪論を説くものがある。英国がインドや中国を侵略したころ、不戦条約はもちろんのこと、中国の主権と独立、領土の保全を約した九ヵ国条約も存在しなかった。侵略は美徳でないまでも、悪徳とは考えられていない。侵略をはっきりと非難し、戦争を排撃するようになったのは、第一次世界大戦の惨禍を経験した後である

 中国への日本の侵略行為が国際社会のきびしい非難にさらされた背景には、戦争、平和、侵略などに関する人棟の価値観がはっきり転換したという重大な変化があった

 軍国日本の自爆はもちろん、一部軍人だけの暴走によるものではない。広田内閣も、近衛内閣も、国際社会で日本を孤立化させるのにすこぶる寄与したし、浜口、若槻内閣は、間違った財政・金融政策に固執して、日本国民を未曾有の不況に追い込み、一部軍人の暴挙を支持する狂気を生んだ。

 国際協調主義を堅持していたかぎり、日本の軍事力は国民からも外国からも信頼されて、わが国の興隆の原動力となった。軍事力が暴走しはじめた時、わが国は国際社会に孤立して、自爆ないし自殺に追いこまれたのである。(P265)


 「軍部の暴走」を必死になって擁護しようとする「大東亜戦争万歳」史観よりも、私にははるかに納得性の高いものに思われます。

(2015.5.10)


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