盧溝橋事件 一周年座談会
盧溝橋事件 一周年回顧座談会

ー昭和十三年 東京朝日新聞ー


 事件一周年を記念して、「東京朝日新聞」により開かれた「回顧座談会」です。当事者たちの生々しい発言は、現代でも一級資料として利用されています。

 ここでは、「盧溝橋事件以前」が話題になった´△鮟き、から┐泙任鯀簡玄録しました。

 

出席者

陸軍少将    牟田口廉也氏(紙上参加)
陸軍歩兵中佐 桜井徳太郎氏
陸軍歩兵中佐 一木清直氏
陸軍歩兵中佐 川本芳太郎氏
陸軍歩兵少佐 岩崎春茂氏
陸軍歩兵大尉 寺平忠輔氏
当時本社北京支局長、現東亜部支局
          園田次郎氏


本社側 緒方主筆、美土路編集局長、野村編集局次長、北野整理部長、細川政治部長■

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●東京朝日新聞 昭和十三年六月三十日

盧溝橋事件一周年回顧座談会

  断・午前四時ニ十分  我が堪忍自重も空し



緒方主筆 当時の部隊長であられた一木さんから事件発生の当夜の事情を一つお話願ひませう

一木中佐 事変がどうして起つたかといふと、七月十日から第二期検閲があるので各部隊は気合をかけて演習をやつた、そこで夜間演習を七月七日の夜までやつて十日から検閲を受けるといふことになつていた、

 そこで○○部隊は盧溝橋の東の方所謂砂利取り場で△△部隊は北の方で夜間演習をやり各部隊の検閲もそこで受けることになつてゐた、

 私は○○部隊の演習を見て一旦帰つて、朝方△△部隊の演習を見てやらうとかう思つてゐた、○○部隊の演習を見て、帰りましたのは丁度十時半頃でありましたが

 その時にこれは余談になりますが、かういふものが虫の知らせとでもいひますか何時もは演習の成績に就て、どこが悪いとかよく出来たとかかういふ話をするのですが、その時私はそんな気分になれなくて、丁度七夕の晩でしたから七夕の話をした

「今夜は七夕であつて恐らくお前達の郷里でも七夕のお祭りをやつてゐるだらう、我々は此処で御奉公してゐて、環境は何時何事が起るか分らぬ状態である。さうすると来年七夕の日に再びお前達に会へるかどうか分らぬ、又郷里の父兄ともさうだらう」

という一寸こんなセンチメンタルな話をしてお互に一生懸命やらねばならぬといふやうな話をした

 そして兵に別れて明日の朝△△部隊の方に行かねばならぬといふので帰りました、

 官舎に帰つて着物を脱いで寝ようとすると、トツトツトツと馬で誰か飛んで来る、私は今頃馬に乗つて演習をやつてゐるものはないがなと思ひながらやつて来たのを見ると△△部隊から来た伝令の岩谷といふ曹長で、 この曹長は七月二十八日南苑の戦闘で壮烈な戦死を遂げましたが
 今龍王廟の附近から支那軍に射たれて△△部隊は演習をやめた 調べて見ると兵隊が一人居らん 兵隊が一人居らぬから部隊長に報告せよといふ△△部隊長の命令で飛んで来た、 △△部隊は兵を探すと共に戦闘に応ずる姿勢で待つてゐるといふ部隊長の命令だ
という話、

 そこで私も射たれたといふだけならピンと来なかつたが兵隊が一人をらんといふことになつたら一大事だと思ひましてすぐ警備呼集をやる決心をとつた訳です、 かう決心しますと認可を受けるためにすぐ河辺将軍の高級副官の所に電話をかけた、丁度それが七日の夜十二時頃でした

 河辺将軍は秦皇島の西の所で天津の萱嶋部隊の検閲にをられた、河辺将軍が出発される直前七月五、六日頃と思ひますが私の所に電話がかかつて当時の一般情勢を話され大体かういふ空気になつてゐるから気をつけて事件を醸さぬやうにしろと言はれた、 それで将軍は北京に居られぬといふことは知つてゐたけれども私も多少昂つてゐたのですな

 河辺将軍が居られぬといふので、今度は牟田口部隊長の所に電話をかけました、暑い日で部隊長は屋根が焼けて暑くて寝られないといつて丁度起きて居られ、すぐ電話に出られた、 今から私の部隊は警備呼集をして盧溝橋に行き支那側と談判するといふことを申上げると部隊長は同意されて
 「宜しい、それでは豊台の駐屯隊はすぐ出て行つて一文字山附近を占領し夜明けを待つて盧溝橋にゐる営長 − 大隊長のことですが − と交渉しろ、一文字山を占領して戦闘隊形をとつて支那側と交渉せよ
とかういふとでした(ママ)、私もさう致しますといつて電話を切つた、

 そこへ○○部隊長が飛んで来て○○部隊は演習をやめて帰り際に△△部隊方面で銃声を聞いた、どうも今のは空砲ではなく実砲だ、をかしいと思つて飛んで来たといふ、

 その通りだ、今岩谷といふ曹長がやつて来た、君のとこはすぐ廻れ右だ、といつて全部隊には非常呼集をかけた、

 その時私達の兵営のお話をしますと官舎と兵営とがすぐくつついてゐてそこに半鐘がある、何があつたらそれを打つ、ラツパで呼んでたら間に合はぬから急ぐときには半鐘を叩くといふことになつてをり、官舎の前の半鐘を叩いた、 半鐘を叩いたのは前後この時が初めてです

 私の方では警備演習は絶えず訓練してゐるから非常に迅速に行つた、警備呼集をやらせて中島といふ古参の部隊長に部隊の引率を命じ私は通信班長とか副官とか書記とかを連れて現地に行つた、

 それより先に亀中尉を将校斥候にやつて△△部隊と連絡させた、亀中尉は一昨日(六月廿日)かの新聞にも出ましたが今度の黄河附近の戦闘で戦死したといふ情報がありましたが大変残念に思つてます、

 一方豊台の居留民に対しては領事館警察その他を通じまして自ら警備をさせ、憲兵にも出動を命じました、これは南苑や西苑の兵営から支那が攻撃して来ればすぐ豊台がやられるので私の方は小部隊を残し居留民、義勇兵にも自ら警備をさせるやう手配したのです

 そして私達が盧溝橋の砂利取り場に行くと△△部隊が待機の姿勢でゐる、丁度それが八日午前一時過ぎ頃でした、

 部隊長に聞きますと行方不明になつてゐた兵隊は見つかつたといふ

 最初射たれた時このまま演習をやつてゐては危ないといふので演習を止め兵隊を集めやうとして集合ラツパを吹いて集合させた、所が兵隊が一人居らぬ、それは初年兵でしたが、 その初年兵を教へた教官などが心配してあつちこつち探した所がふらふらしてゐるのを見つけた、

 その兵にどうして遅くなつたかと聞いたら伝令に出された所がその中演習中止で今まで居た部隊が居らぬやうになつたからあつちこつち迷つて遅れたとの事で兵隊は見つかつて異状はないといふ報告であつた、

 だが私の考へとしては部隊長からも交渉しろといふ命令を受けて来てゐますし又これで打切つたといふことになると支那側が何と宣伝するか分らぬ、豊台事件の前例もあつて、 実砲射撃をやれば日本軍は演習をやめて逃げて行くといふ観念を彼等に与へるのは遺憾だからこれはどうしても厳重に交渉しなければならぬ、

 私の方は一文字山を占領してから交渉しようといふので、部隊は三時少し前に到着しました

 ―これは一寸自慢話になりますが一文字山の名称の由来を申上げて置きます、

 一文字山といふのは苑平県城の西北にあつて京漢線と長豊支線とが合する手前にある盧溝橋方面に対する要点であります、

 一文字山は山といつても小さい丘で名前がなかつた、それで演習の指導上困るから私が一文字山と仮りにつけたのです それが事件が起きるとすぐ使はれて立派な固有名詞になつた、一文字山といふ名前の起りにはさういふいはれがあるのです

 三時前後に一文字山を占拠して夜の明けるのを待たうといふ時に再び敵の方から何を射つたか分りませんがぱんぱんと射つた、

 そこで私はどうもこんなことをやつてゐたんでは明日交渉するといつたところで容易に交渉には応じないだらうし私の方では証拠がないから唯”射たれた”といふだけでは誰が射つたか、 どういふ将校がゐるかといふことも分らぬ、何とかして証拠を握らう、それでなければ断然盧溝橋攻撃をして一つ引つぱたいて置いて交渉しようと考へてをつた時に牟田口部隊長から電話に出ろといふことだつた、

 電話は小岩井といふ通信班長の中尉が軍用電線を一文字山まで延ばしたいといふ意見なので延ばさした、所が線が足りなくて一文字山まで来ず一千米ばかり離れた西五里店といふ部落まで来てゐました、

 それで北京にある部隊長と私が話が出来たのでありますが、電話口に出て見ると四時少し過ぎてゐましたが牟田口部隊長は

 今森田中佐を部隊長の代理として調停問責のため現地に派遣した、之と共に宋哲元の代理として苑平県の県知事王冷斉、外交委員の林耕雨、それらと一緒に森田中佐が苑平城に行つてゐるといふことでありました。

*ゆう注 「林耕雨」は、通常は「林耕宇」と表示されますが、ここでは新聞記事の表記に従いました。

 その話を承つてから私は部隊長に今の状況を申上げた
 今しがた又向ふから射つて来ました、これらから考へるとどうも断然盧溝橋を攻撃しなければ爾後の交渉はうまく行かぬと思ひます、私は断然攻撃をしたいと思ひますが部隊長はお許しになりますか
 と申上げた、

 部隊長は暫く考へて居られたやうでしたが「やつて宜しい」と電話口でいはれました、

 私は実は部隊長はまさかやれとは仰つしやらんかも知れぬと思ふ位の腹で申しましたのが本当にやつて宜しいとなると重大問題ですから本当に間違ひないかどうか、本当にやつて宜しいんでありますかといふと牟田口部隊長は

 やつて宜しい、今四時ニ十分、間違ひない

 とかういふ風に時刻と共に明瞭に言はれましたので私は「やります」と申上げて電話を切つた、

 私はやつて宜しいといふことを承つたので今度は落着いてやらなければならぬと副官の亀中尉に「おい、各隊長に今やるからといふことをいつて置け」と亀中尉を先に帰し落着かなければ駄目だと通信兵達の見てゐる所で大いに大便をやりました(笑声)

 大便をやつてゐる間にどういふ風にやらうかと考へて居つたが急がないと夜が明けてしまふので大便を急いでやつて(笑声)馬に乗って一文字山の方に帰らうとした時一文字山の方に行く前に大きな自動車道路がある、

 その道路まで馬に乗つて来ると一人自動車を降りて歩いて来る男がある、誰かなと気にも止めずに行くと桜井中佐でした 「おーい」といふ声で桜井中佐だとわかつた、

 これは拙いことになつたと思つた、何故かといふとこの前の豊台事件の時も桜井中佐とか中島顧問とかが仲に入つて極力鎮撫された、若い者はあんな人達が来たんでやめなければならぬと非常に顧問を煙たがつてゐた、

 私も悪い所で中佐に会つたと思ひこの前やられてゐるから今度は高飛車にこつちで先手を打つてやらうと桜井さんに
 「私はもう今度といふ今度は断じてやりますよ、今部隊長からも許可を受けて来た」
と馬の上からいふと桜井さんが
 「今度はとめない、とめやせんけども話しがあるから・・・」
といはれるので馬から降りた

 桜井さんが言はれるには今俺は馮治安に行き会つて来た ― 馮治安は三十七師の師長で、盧溝橋附近の軍隊も彼の指揮下です ― 馮治安がいふのには城外には俺の部下は一兵も出て居ない、 もし出てゐるとすればそれは俺の部下ぢやなくて匪賊か或ひは西瓜の番人だとの事です、だからその当時から既に馮治安は責任を回避してゐたんですよ

(続く)



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(2004.11.1)


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