信夫淳平『戦時国際法講義』より


※言わずと知れた、信夫淳平の代表作。全四巻、総計約5000ページと、そのボリュームは驚異的なものです。古本マーケットには滅多に出回らず、出ても数十万円というとんでもない高値がつきます。

 幸い現在では、「国会図書館」の「デジタル化資料」にて全文を閲覧することができます。

 そのうち私が関心を持ったごく一部のみを、こちらに書き写しました。ただしその時たまたま関心を持った部分のみの書き写しですので、全く系統的ではないことはご了解ください。

 最後の方の「一〇〇〇」は、ネットで「食糧がなければ捕虜を殺してもよい」なる暴論を見かけましたので、それに対する「国際法」上の「正解」を示すために加えたものです。

 なお同人の『戦時国際法提要』は、本書を「一面には繁を削り、他面には同書刊行以後の新資料を補足し、・・・原『講義』の大凡十分の四程度に要約したもの」(『提要』序言)とのことです。


<第二巻>

第三篇 陸戦

第一章 概論

第一款 陸戦の一般的性質

七七○

 陸戦の当事者はこの両者を遂行するに方り、往昔にありてはそれが全然若くは殆ど無節制的で、時には人道主義がその上に発露せる戦場の美談も無いではなかりしが、そは稀有に属し常事ではなかつた。(P7)

 然るに現代にありては、第一には交戦者と非交戦者−俗に謂ふ戦闘員と非戦闘員−の区別を設けて危害を漫に後者に加へざるを精神とし、第二には加害手段に特定に制限を加へ、 第三には抵抗力を失ひひたる(ママ)敵兵を人道的に取扱ひ、第四には一時の占領と永遠の征服とを区別して住民の権利を尊重する、この少なくも四つを戦闘の箴規と為し、 之を無視して行ふを許さずといふのが現代の陸戦法則の真髄となつてある。(P7-P8)

(以下略)


七七二

 敵の交戦者(即ち兵力を構成する戦闘員及び非戦闘員)に対しては如何なる手段を以てするも加害することの許容せらるる所以は、それが抵抗力を有するが故である。 隋つて既に抵抗力を失へる交戦者に対しては、最早や之に加害すべき交戦上の必要は無い理である。

 この理より推し、戦場に於て兵器を捨て又は自衛の手段尽きて乞降する敵兵、その他負傷して抵抗力を失ひたる敵兵は、謂ゆる hors de combatとして之に加害するを許されざることである。俘虜及び負傷兵の取扱に関する諸般の法規は、総てこの原則に発する。(P10)


第二款 陸戦関係の法規

第一項 国際条約に依るもの



七七六

 陸戦に関する前掲諸条約の内容は追て関係款項の下に於て随時解説すべきが、これ等諸条約の規定する所とても、陸戦の凡ゆる行動を律するに就て決して全掩的のものではない。

 戦闘手段の中には、成文の交戦法規の上に規定するに至らざりしものも多々あり、その当然違法行為を以て論ずべきものにして、明文の上には特に禁止又は制限されていないものも少なくない。

 然しながら、その規定が無いからとて、違法が化して適法となるに非ざるの理は銘記するを要する。

 陸戦法規慣例条約の前文には、『実際に起る一切の場合に普く適用すべき規定は此の際之を協定し置くこと能はざりしと雖、明文なきの故を以て規定せられざる総ての場合を軍隊指揮官の擅断に委するは亦締結国の意思に非ざりしなり。』

 又、『締結国は其の採用したる条規に含まれざる場合に於ても、人民及交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法規、及公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む。』と特に宣言した。

 即ち苟も文明国間の慣例に反し、将た人道に悖戻(はいれい)すること明白なる行為は、たとひ法規に明文なしと雖も、之を戒飭(かいしょく)すべきは当然である。

 第二回海牙平和会議に於て、追て海戦編にて述ぶる無繋維自動觸発水雷問題の討議の際、各国代表の意見殊に英国のそれが容易に妥協せざるや、英国代表は

『幸にして一條約の締結に到達するにもせよ、将た不幸にして之に到達するを得ざるにもせよ、人道的要求は之を無視するを許されない。特定條約が禁止せずとの単なる理由に於て或行動を適法なりと論ずるは当らず。』

と云へるに、独逸代表も勿論なりと述べて之を肯定した。

 曾ては海牙諸條約を以て単に徳義的拘束力を有するに過ぎずと放言したる独逸のその代表者ですら尚ほ且之を肯定せるに於て、この理の何人も反論を容れ得ざる当然のことたること以て知るべきである。(P14-P15)

 ただ成文法規の上に何等規定なく、而して国際法の原則に違反せず、人道上の要求に悖戻せざる行為たる限りは、適法の手段として交戦国の之に訴ふるに妨げなきこと勿論で、軍隊指揮官はその裁量にて適当に之を取捨すべきである。(P15)




第二章 交戦者

第二款 正規兵及び不正規兵

第一項 その資格の異動


八〇一

 交戦上に於て一定の資格を有するもの、即ち正当の戦闘者としての権利を有し、その待遇を敵より受くるを得る所のものとしては、往昔にありでは、 苟も武器を操りて敵に対抗することを国君より許されたる者は皆交戦者であった。(P50)

欧洲君主国の古い宣戦の布告文を見ると、己れの総ての臣民に許すに武器を手にして敵を撃攘すぺきことを以てす、といふやうなことを書いたのが往々ある。(P50-P51)

斯く国君に於て戦時その国民の何人にも交戦者たるの資格を与へ、敵も之を交戦者として取扱へる風習は十八世紀の後半まで往々ありたるが、 作戦の組織化すると共に戦闘には専門の人々をして之に当らしむるととが時代の要求となり、 漸次交戦者を一定の資格に制限やうになった。

勿論その間に於ても、如何なる資格者を以て交戦者と為すかに就ては議論慣例共に区々で、徴兵制を有する国は自然之を正規の兵種に限らんとするの傾向であつた。

八七〇年の普仏の役に際し、仏国議会にては同年八月『仏国民にして自発的に国土の防護のために起つ者は、少なくも所属隊伍の認識し得ぺき徽章を帯有する限り、国軍の一部を構成するものと看倣すベし。』 との法律を作りたるに、普魯西政府は之を認むることを拒み、 『凡そ俘虜にして俘虜たるの取扱を受けんとするには、正当官憲の本人への直接発したる召集令の下に召集せられ且組織ある団体の兵員名簿に登録せられたる仏国軍人なることを立証するを要す。』との布告を以て仏国に封し警告を与え、以て謂ゆる不正規兵を適法の交戦者と認めず、隋つて俘虜としての待遇を与へずとの意を明かにした。

然るに斯く適法の交戦者を制限することは、平時徴兵制に依る強大の陸軍を有する国に利益が偏重する嫌ありとて、他の欧洲諸国は之に賛しない。されば同役後三年にして開かれたるプルッセル会議に於ては、 交戦者は独り正規兵に限らず、特定の条件を具備する民兵及び義勇兵、竝に謂ゆる民衆軍をも亦交戦者と認めるといふことにした(第九条)。

その規定を第一同海牙平和会議に於ては踏襲し、更に第二回同会議に於て些少の修正(民衆軍に『公然兵器ヲ携帯シ』の条件を附加)が加はり、現行陸戦法規慣例規則の左記第一条の規定となったのである。(P51)



八〇四

 民兵及び義勇兵団の戦争法規及び権利義務の適用を受くるに必要なる第一條所規の四條件の第一は『部下の為に責任を負ふ者其の頭にあること』である。こは民兵又は義勇兵の動作をして乱雑ならしめず且能く交戦法規を遵守せしむるには、之を統率すべき責任者その頭に在るを必要とするからである。

 ブルッセル会議の露国原案には、該責任者は本国の本営よりの指揮命令の下に立つものたるを要すとの一條件もあったが、これは不採用になった。故に指揮命令の系統関係は必しも問はざるものと解せられている。

 ウェストレークは『此に謂ふ責任とは単に有効的取締を行ふの能力を意味するのみ。』と説く。(P54)



八〇五

 第二は『遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有すること』である。遠方とは要するに敵に向って加害行為を為し得る距離を意味し、即ち大体の標準を小銃の弾丸の大凡有効的に到達すべき距離と解するのが立法当時の定説であった。

 けれども輓近(バンキン)銃器の偉大なる進歩に伴ひ射程は著しく増大し、到底肉眼にて見究めのつかぬ遠距離に達するから、射程を以て特殊徽章を認識し得べき遠方と解することは常識の許さざる所である。(P54)

(略)

 固着の徽章は一定の制限に於いて最も善く表示せらるるが、必ずしも制服に限らるるものではなく、要は身体又は衣服に固着する徽章ならば可なりで、直ぐ取外れるやうなものでなければ可いのである。

 且その徽章は常に表面に露出せしめ置くことが必要で、ポケットその他に隠蔽し置くのでは『認識し得べき』にならない、

 特殊徽章は予め之を各国に通知し置くべしと第二回海牙平和会議に於て独逸代表は提議したが、これは否決となった。故に特殊徽章はその時々之を定めても可い訳で、つまり常人の尋常の帽その他と殊別せらるる徽章たるを要するのである。(P55)


八〇六

 第三の條件は『公然兵器を携帯すること』である。この一句は一八九九年の旧陸戦法規慣例規則には無かったが、一九〇七年の第二回海牙平和会議に於て独逸代表の提議に依り、更正の同規則に於て挿加せられたものである。

 即ち兵器たることを外部より明知し得べき種類のそれをば隠蔽することなく携帯するを要する。ピストルや短刀を懐中に忍ばせ、本式の刀剣に代ゆるに仕込杖を以てし、又は敵の近寄るに及んでその兵器を隠蔽するが如きは右の條件に副はない。(P55)


八〇七

 第四は『其の動作に付戦争の法規慣例を遵守すること』である。例へば以下追々述ぶる所の陸戦法規慣例規則第二十三條各号列挙の諸事項、その他掠奪を行ふが如き、俘虜を虐待する如き、諸般の禁止規定に違反するなきの要求である。

 この要求は義勇兵の集団の全体に対するもので、その中の個々の兵が多少法規慣例に違反する行為ありたればとて、それにて該集団の交戦者たるの特権が失はるるといふ訳ではない。(P56)

(略)



八一七

 民衆軍には民兵又は義勇兵団の交戦者として認めらるるに必要なる四條件中の(一)部下のために責任を負ふ者がその頭に在ること、及び(二)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有することの條件は之を要せず、ただ(三)の公然兵器を携帯すること、及び(四)の交戦法規慣例を遵守することの二條件さへ具備すれば、以て之に交戦者たるの資格を認むるのである。

 蓋し敵兵が眼前に近寄る場合に於て、その土地の民衆が自発的に兵器を執りて防戦するのは、畢竟自国のため将た自郷のための人情自然の発露であるから、民兵及び義勇兵団に必要なる第一及び第二の條件を併せて具備せざるを故を以て、交戦者として遇せずして之を戦律犯に問ふのは、人情の戻るや大なりといふ思想に出でたものである。(P71)

(略)






第三款 俘虜

第三項 俘虜の取扱の基本的原則



八四四 その条件及び限度 

 されど俘虜は如何に人道を以て取扱ふべきものとするにもせよ、元々彼は俘虜の身である。俘虜は権利を有するも、義務をも有すること勿論である。故に俘虜は捕獲国に於てその法令及び命令に逐一服従せしむべきは論なく、 徒らにお客様扱にすべきものでない。又俘虜としてそれを要求し得るものでない。(P112-P113)

 俘虜は人道を以て取扱はるべきことの当然の条件として、捕獲者の軍隊に抵抗するを許されず、抵抗すれば本来の敵兵に還元し、随って殺害に遭ふことあるべきは当然である。抵抗はせざるも、 戦場にて多数の敵を捕へたる場合に、俘虜として之を後送するは七面倒臭しとして、一挙之を殺戮して了ふのは古今の戦場にて有勝ちのことで、殊に捕虜後送中に敵の逆襲を受くるが如き場合には、 俘虜は手纏とて急ぎ之を片付て了ふことは想像するに難くない。

 一八七四年のブルッセル宣言案にも本条第二項の同様の条文あるが、当時同会議に於てこの問題を討議せる際、西班牙代表は俘虜後送中の軍隊は、 たとひ敵が之を奪回するの目的を以て攻撃し来るが如き場合に於ても、之を殺害することを得ざるものとす。但し俘虜にしてその攻撃に参加する場合には俘虜たるの性質を失ふ』との一項を挿加せんことを提議した。

 然るに俘虜は人道を以て取扱ふべしとの概括的条文は当然右の要求を包含すとの解釈を議事録に留むることにして、右の提議は否決となった。

 倖虜は後送に手纏になるからとて、その故を以て之を殺害すべきでなく、手纏になるようならば武装を解除せしめたる上之を解放すべきである

 但し後送中に俘虜が抵抗すれば別である。英国の野戦令には『俘虜にして後送中に抵抗する場合には之を射殺するを得』とあり(第二編第九章第二条)、仏国の同令にも 『俘虜の後送兵にして中途敵より攻撃を受けたるときは、倖虜に伏臥を命ずベし。その命令ありたる後尚ほ起立する者は之を射殺することを得。』とある(第百二十一条)。

 更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。(P113-P114)

 
之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く。

『極めて多数の俘虜を捕獲したるも之を安全に収容し又は給養することが能きず、しかも宣誓の上解放したればとて彼等能く之を守るべしと思へざる場合も時にあるであらう。 俘虜を収容するに方法なく且宣誓に依頼するを得る限りは、当然之を解放せねばならぬのであるが、 之を為す能はず文給養するの手段なしといふ場合には如何にすべき。軍の安全に直ちに脅威を感ずるをも顧みず之を解放せざる可らざるか、将た自衛の法則として彼等を殺害するに妨げなきか。 仮に軍の安全が敵−たとひ我軍に降伏したものにもせよ−のそれと両立し難しとせば、敵を殺害することが国に忠なる所以とすべきか。

『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。・・・自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。

 即ち要は、捕獲者に於て俘虜の収容文は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向うこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと為すのである。 事実之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしというが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである。(P783)

 要するに以上の如き特殊の場合は別とし、一般原則としては、俘虜は人道を以て取扱うべきが本体で、有も不従順の行為あるに非ざる限り、 敵味方の関係を離れ仁愛の情を以て適当に之を遇し、寧ろ祖国に忠勤を尽して志を達し得なかった者として之をいたわってやるといふのが武士の情けである。(P114-P115)



八四九 支那事変に於ける支那俘虜

 昭和十二年以降の支那事変は、名は事変と云ひながら実に於ては近代の大戦の一なりしことは既に述べた如くで、随って該戦役中の累次の会戦に於て我軍の俘虜となりたる支那兵は、 蓋し夥しき数に達したことと想像するが、之に関する完全の公的資料は本講執筆の際までには之を閲するを得なかったので、その俘虜状況に関しては之を記述する能はざるを遺憾とする。

 然しながら事変の初期即ち昭和十二年の九月末頃に於ける俘虜取扱状況に関しては、当時我が陸海軍の当該官憲の好意に由り、その草せる簡単ながらも有益の一記事を入手するを得た。(P130-P131)

 これは当時日支両戦線の衛生状況視察として来滬の在瑞西国際赤十字代長ドワットヴィユのために起草し且彼に交付したもので、随って公表に妨げなきものであるから、之を左に紹介する。

第一、俘虜収容状況

(一)支那軍の抗日意識強かりしこと、(二)多少とも我軍に投降の疑あるものは督戦隊に依り処分せられあること、 (三)上海附近の戦闘は活発なる運動戦と異なり市街戦及陣地戦的性質を有すること等のため、従来支那兵の投降し来たりるもの少なかりしも、最近急速増加の兆あり。

 然れども上海背面の広大なる戦線に於て右の如く急速増加する俘虜に対し調査、防疫、治療等仮収容を為すため時日を要し、未だ全部を一定の場所に収容するの域に達せす。その大部分は各司令部本部に収容中なり。

 従て上海市内に於ける収容所たる三元宮及眉州の二ケ所の俘虜総数は現在四十七名なり。

 上海武昌路三〇六番地の三元宮収容所に収容中の俘虜は支那陸軍准士官二名、下士官四名、兵二十名、計二十六名にして、 帝国海軍陸戦隊安田海軍中佐以下憲兵二名、在郷軍人七名を以て之か取扱監視に任ぜしめあり。

 楊樹浦眉州の収容所に於て取扱ひつつある俘虜は将校一、下士官二、兵十八計、二十一名にして、帝国陸軍の佐藤中佐を主任とし、之に尉官二(内一は軍医)、下士官ニ、憲兵一、及衛兵一〇をして之が取扱監視に任ぜしめつつあり。

第二、俘虜の取扱

 俘虜の取扱は一九〇七年陸戦法規慣例規則中俘虜取扱に関する条項並に一九二九年俘虜待遇に関する条約の規定に依り之を行ひ居れり。後者は日本国は未だ批准し居らざるも、同条約の精神に鑑み自発的に之を実施し居れり。(P131)

( 一〉日課
俘虜の日課左の如し

 午前七時起床、点呼
 午前八時朝食
 午前九時−十時体操又は運動
 午前十時−正午使役、作業
 正午−午後二時昼食及休憩
 午後二時−四時使役、作業
 午後五時夕食
 午後七時点呼、爾後適宜就寝

〈ニ〉衣、食、住及慰安
 投降時の兵服は汚損甚しく、或は故意に便服と着換へ来れるものあり。且漸次寒気加はるを以て毛布、襦袢、其他必要被服を貸与しあり。

 食事は毎食共我軍兵員と全然同一食物を供しあり。

 准士官以上は独房に、下士官兵は集団して収容す。

 毎週日曜は慰安日とし、時間を限り娯楽室に於て慰安せしめ、特に茶菓を給す。

 娯楽室には囲碁、麻雀、楽器等を設けあり。

(三)使役作業
 准士官以上は之を使役せず、健康なる下士官兵のみ掃除等軽度の労働に従事せしむ。現在は特定の作業に従事せしめ居らざるも、将来本人の希望に応じ自己専門の職業的作業に服せしむる計画を進めつつあり。

(四)俘虜の医療(P132)
 現在三元宮収容所に於ては急性腸炎二、頭部湿疹兼頚部淋巴腺炎一、計三名の患者あり。急性腸炎患者二は疑似赤痢の疑あるを以て隔離収容しあり。

 眉州収容所に於ては戦傷者四、■患者一、急性胃腸炎一、計六名にして、皆軽症なり。

 毎日午前九時、兵站司令部及陸戦隊より軍医官及衛生部員収容所に出張し、診療並治療を行ひ居れり。

第三、俘虜の態度

 俘虜は一般に教養低く、且当初は興奮乃至恐怖の念に駆られ、時に統制を紊るものありしも、時日の経過と共に漸次沈静し、目下特に警戒を要するものなし。彼等の大部分は食餌の粗悪欠乏、 給料の不払等、物質的不満を動機とし、寧ろ此苦痛を免れんとして投降せるものなり。従て投降後定時に定食を給せられ、他方安堵の心理と相俟て頗る満足を感じ居るものの如し。

 其中適任者を以て班長、副班長を命じ、彼等相互自治精神の向上に努め、且人情心を以て待遇しあるため、休戦後の就職斡旋を願出づる者ある等、全く我軍を信頼する状態に在り。 従て克く指導者の統制に服し、行状一般に温順なり。然れども支那人の通有性として恩に馴れんとする傾向あるを以て、思威平行を主義として指導しつつあり。



 右は陸海軍双方の俘虜収容状況を綜合したるものなるが、海軍の俘虜取扱状況に関しては、別にドワットヴィユに開示したる左の記事がある。

海軍俘虜取扱状況

一、俘虜の現状

 現在帝国海軍に於て取扱ひつつある俘虜は准士官二名、下士官四名、兵二十名、計二十六名なり。

 上海武昌路三〇六番地三元宮(寺院)を収容所と為し、収容所長帝国海軍陸戦隊虹口方面部隊指揮官溝口海軍少佐以下憲兵二名、在郷軍人七名を以て之か取扱監視に任ぜしめあり。(P133)

二、俘虜の取扱

 一九〇七年陸戦法規慣例規則中俘虜に関する条項並に一九二九年俘虜取扱に関する国際条約(本条約に対しては帝国は未だ批准しあらざるも、同条約の精神に鑑み自発的に之を実施しつつあり) の規定に依り俘虜の取扱を為しつつあり。

三、日課及給与

 俘虜の日課は起床午前六時、朝食九時、体操十時、夕食午後五時、点呼八時、就寝九時とす。

 食事に関しては毎食共我海軍陸戦隊員と同一食物を供しあり(朝食のみは支那人の習慣に依り粥食とす〉。又毎週月、木曜両日は慰安日として特に茶菓を給す。何れも我厚意を極めて感謝し居り、行状概して温順なり。

四、居住及び被服
 准士官は独房に、下士官兵は集団して収容す。
 被服は俘虜収容所当時炎暑の候にして何れその用意なかりしを以て毛布、襦袢、其の他必要被服を貸与しあり。

五、使役
 准士官は之を使役せず、健康者たる下士官兵のみ掃除等軽度の労働に従事せしむ。現在特定の作業に従事せしめ居らず。
 労働に従事せる場合は特に労働食として食物を増与す。

六、衛生状況及び施療
 現在急性腸炎二、頭部湿疹並に頚部淋巴腺炎一、計三名の軽症患者あるも、其の他一般に衛生状況良好なり。
 収容所は一日一回消毒を行ふ外、毎日午前九時三十分頃海軍陸戦隊虹口方面部隊所属軍医官並に医務部員収容所に出張し、診察並に治療を行ふ。(P134)


 当時講者は上海に在りて帝国艦隊の国際法事務に参与し居れる関係上、海軍側に属する右の俘虜収容所は勿論とし、楊樹浦眉州の陸軍のそれをも広瀬陸軍軍医大佐(義夫氏)の好意に依り、 共に巡視するの機会を得た。而してその執れも所内極めて整頓し、俘虜の取扱方に於ても何等間然する所なきを目撃した。

 尤も収容俘虜の数は海軍側二十六名、陸軍側二十一名という極めて僅少の数に過ぎざりし当時であったから、法規慣例の命ずる所に則りて之を取扱ふに格別困難を感ぜざりしならんが、兎に角該事変の初期に於ける在上海帝国陸海軍官憲の俘虜の収容及び取扱振に就ては、寸毫の遺憾だに無かりしものであった。

 その後海軍側には、敵兵を新に俘虜とせるもの幾許もなかったが、陸軍には敵の大部隊との累次の大戦闘と共に俘虜も相当数に累計せられたことと察する。上海戦の如き陣地戦にありでは、敵は退却に方り概ね村落を焼払ひ、 殆ど一兵を残さずして撤退するの余裕もありしなるべく、随って陣地戦に於ては俘虜の割合に少なきは想像すべきが、山野の運動戦となると包囲も追撃も行はれ、この間には敵の乞降兵も相応にあったであらう。

 その俘虜は如何に之を取扱へるか。徐州方面の戦闘の一通信記事に『午後六時〔五月十九日〕までに判明した報告に依れば、徐州にては約三千人、臥牛山で一千人、宿県附近で二千人、 固鎮で一千人と相次で我軍への敵大量投降者が続出し、我軍はその収容に大童になってゐる』とあるが(読売新聞社編、支那事変実記第十輯、第一七二頁)、俘虜に関するこの稀有の記事も、 その収容後に於ける皇軍の俘虜取扱状況には触れてない。

 その後の大小会戦毎に、新聞通信の上に現はれたる戦闘そのものの記事の詳細なるに比較し、俘虜に関するそれは常に割合に乏しかりしを感ずる。

 皇軍は対支戦に於ても俘虜の取扱に関し如何に国際法則の遵由に忠実なるかを講者は全世界に紹介せんと欲し、必要なる資料を獲んと努めぬではなかったが、 事実全然之を入手するに由なく、又新聞紙の報道記事とても、稀に捕虜の支那将兵の皇軍礼讃の談片を掲ぐる以外に、凡そ俘虜に関しては殆ど伝ふる所ありしを見ない。(P135-P136)

 徐州陥落の直後、同地の北郊に『徐州交戦抑留者収容所』なるものが旧支那兵舎跡に出来て、現在○○○名の俘虜が収容されてある由当時一新聞の通信に見えたが(昭和十三年六月十七日『読売』)、 収容の俘虜数の如きは之を明示するに利あればこそ害は無き筈と思はるるに、故さら之を伏字にせる理由は解し難い。

 稀には特定の戦闘に於ける俘虜数を公然報道したのもある。例へば南京の攻略戦中烏龍山及び幕府山附近に於て皇軍の俘虜とせる支那兵数を大阪朝日は一万四千七百七十七人、 中に将校少なくも十人あり、筆頭は教導総隊参謀沈博施なる者と報道したるが如き(昭和十二年十二月十八日の同紙所載、横田特派員の南京発通信)、又軍発表の公報にありても、例へば南京攻略戦に於ける支那兵俘虜を概数一万零五百と報じ(同年十二月二十九日上海軍発表)、 又広東の攻陥後、同方面の俘虜数を二百六十六(昭和十三年十一月五日大本営陸軍部発表)、更に武漢攻略戦に於けるそれを五千二百七十(同年十一月八日同上)、 又昭和十四年春の敵の謂ゆる四月攻勢を反撃したる皇軍の四月中の戦果を公報したるものに捕虜約二百三十とった(同年五月十一日大本営陸軍部発表〉。

 この外にも毎次の戦闘に於ける俘虜に関する公報があったかも知れぬが、概して世に多く知られてない。

 殊に物足らなく思はれたのは、俘虜の取扱方に関する公報の欠如たることであった。支那兵を捕獲したる皇軍の当該各部隊にては、執れも之を人道的に取扱ひたるに相違なからんも、 捕獲後俘虜を何処に収容し、如何に労務を課し、将校は如何に処置せしや詳でなく、随って大に皇軍の仁慈を内外殊に欧米の国際法学者の間に紹介せんとするも、 拠るべき官の公刊記事の殆ど見当らぬ憾があった。(P136-P137)

 察するに支那兵俘虜の多くは、捕獲軍に於てその儘現地の各種の労役に使用せしなるべく、而して俘虜彼等自身も、その受くる賃銀にて食足り、生命も安全であるから、執れも之に満足したものであろう。 これは善い方針であったに相違ない。

 一九三九年の独逸の波蘭攻略戦に於て波蘭兵の俘虜は七十五万と称された。波蘭の総兵力は約一百万であったから、その四分の三といふ俘虜の数は聊か過大の感あるが、兎に角独逸筋の情報にはそうあった。 この七十五万の中には俘虜となる直前に適法に殺害された者も多数ありしなるべく、純俘虜として独軍に収容された者の数は詳でないが、それにしても移しき数であったと思ふ。

 この俘虜は大部分その儘占領地の主として耕耘に使役せられたやうである。独軍は敵地を攻略する前に、自国の農民にて編成せる労働大隊なるものを用意し置き、陥落と共に之を占領地に前進せしめ、之をして俘虜を督励使役するの任に当らしめたと聞く。この組織的編成の下に俘虜は、その全部ではあるまいが、大部分は現地の耕作に当り、その結果は双方に取り少なからず利便を費したに相違あるまい。

 支那兵俘虜は前述の如く多くは之を現地の労役に使用し、而して労役の用なきに至った者にして性行善良との認定を受くれば、釈されてその儘現地の農夫にもなろうから、捕獲軍としても敢て俘虜を内地に後送するに及ばず、 又収容所を特設して彼等をそこに抑留し置くを須ゐず、自然の間に俘虜の身柄は解消となり、随って陸戦法規や俘虜待遇条約などの適用を要せずして済むという利便もあり、これ等は支那俘虜の特異性を商量し、便宜取捨するに勿論妨げない。

 支那兵俘虜収容せる我が或部隊にては、その抗日的迷夢より覚めて新支那建設に献身する旨を誓へる俘虜を支那新政権に引渡して解放したのもあったやうである。例へば上海戦にて俘虜となり、 爾来渡辺部隊に収容となれる支那兵百五十余名は、右様の宣誓の結果として該部隊にては昭和十四年二月その身柄を上海市政府に引渡し、市政府は之を浦東の警士教練所に入れて警士に養成することにしたと報ぜられた ( 同月七日『上海毎日』記事〉。これなども支那兵俘虜の処分方として善い臨機の一方法たりしを失はない。(P137-P138)

 然しながら孰れにしても、これ等の好処分は我が政府の宜しく進んで大に内外に披露すベかりしものでなかりしか。しかも本問題に甚大の関心を有したる講者としては、 資料不足のため世の国際法学者の参考となるべき記事を此に稿する能はざるの遺憾を告白するの外ないのである。(P139)




第三章 戦闘

第一款 害敵手段

第二項 陸戦法規慣例規則の特別禁止事項

第三目 乞降兵の殺傷及び不助命の宣言



九九九

 然しながら右の例外に関しても、実際の適用となると大に取捨を要する場合もあらう。

 先づ以て敵部隊にして白旗を掲げて降伏の意を表したる後尚ほ射撃を続行する場合であるが、軍隊の降伏は軍艦のそれの如くに包括的に行はるるものとは限らず、寧ろ局部的に行はるるを多しとすべく、隋って一部隊は降伏の意を表しても数町を隔つる他の一部隊は尚ほ射撃を続行することもあらう。

 斯かる場合に於て、敵軍隊の一部に射撃続行者あるの故を以て既に白旗を掲ぐる他の一部を助命せずと為すは妥当ではあるまい

 然しながら、同一部隊にして白旗を掲げながら尚ほ且射撃を続行するに於ては、そは敵が背信行為に出でたものであるから、助命の要求は自ら放棄したと同じで、隋って助命を為すに及ばざること論を俟たない。況して敵が白旗を佯用するに於ては尚ほさらである。

 第一次大戦中、英軍は独兵が時に白旗を佯用して依然射撃を続行すること屡々ありしを実験し、遂には白旗を掲ぐる降伏方法を容認せざるに至った由である。

 第二は報復手段であるが、敵の軍隊指揮官の交戦法則違反の責任を個々の兵に負はしむるのは理に於て妥当を欠くのみならず、暴を以て暴に酬ゆる報復それ自身理論として議すべきの余地なきに非ざるも、現代の国際法は報復を是認するものであるから已むを得ない。(P359-P360)

 ただ然しながら、報復は既に説きたるが如く、対手の交戦法則違反の程度に能ふ限り比例せしむべく、報復の名に於て漫に過度の蛮的暴挙を無辜の敵兵個々に加ふるなきの斟酌はあって然るべきである。

 第三は軍の安全のために絶対必要といふ場合であるが、これは事毎に判断すべきで、原則的に汎論するを得ない。(原則論で推し行けば、大概の場合は名を軍の安全にかりて敵を一切助命せざらしむることにならう。)

 然しながら例へば戦闘前にして勝敗の運命予断し難く、敵兵の生命を斟酌して居ったのでは味方が危殆に陥り、遂に敗潰を招くといふやうな間髪を容れざる場合には、之を斟酌するに及ばぬこと言を俟たない。

 独逸の『陸戦慣例』に『如何なる場合にも人道主義にて一貫せんとするのは、人道を誇大且不正当に感得することに基く所の交戦の意義、重大性、及び権利の誤解を表現するものである。作戦上の必要及び国家の安全は第一要義で、俘虜の無条件的自由の考量は次位に属するものたるを看却してはならぬ』とあるは当然肯定せざるを得ない。

 要するに絶対必要なるものは、敵を助命すれば到底自軍が助からずといふ真個の絶対必要の場合と狭く解すべきである。(P360)


一〇〇〇 収容困難の俘虜は解放を要す

 さりながら軍の絶対必要なるものは、之を濫用することなきの注意の下に取捨するを要する。

 オッペンハイムは右の所説に次で『俘虜捕獲者が多数の俘虜をば安全に警護する能はず将た給養する能はずとか、又は敵が間もなく形勢を盛返して俘虜を奪回するやも知れずとかの単なる事実は、捕獲者側に真個の死活的危険があるに非ざる限り、 未だ以て助命の拒絶を正当視せしむるに足らざることを銘記するを要する』と云へるが、敵兵の俘虜収容に力を割くことに依り戦局が不利に陥ること歴然たる場合には、その収容にあくせくするに及ばざるも、 収容するの余力ありて之を収容し、しかも安全の収容覚支なしと為して之を片付けて了ふが如きは妥当でない。(P360-P361)

 昔は一七九九年、ナポレオンはパレスタインの役に於て大に土耳其軍をJoppaに敗り、敵を捕虜にすること約三千。然るに仏軍は糧食欠乏して之を給養する能はずと称し、悉く之を殺害した。

 斯かるは今日の交戦法則の許さざる所で、その収容到底不可能といふ場合には、ホールが

解放すべき俘虜なり将たその奪回に成功すべき敵軍が、転じて我方に虐殺又は虐遇を加ふるものと認むべき理由ある場合は別なるも、然らざる限りは、俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合には之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればより小であ

と云へるが如く、之を解放するのが現代の国際法の要求する所で、実例としては南阿の役に、ポア軍にてはその俘虜とせる多数の英兵をば給養困難の理由にて解放したること数回あった。(ホールの右の所論はウェストレークも之を賛し、安全に収容するを得ざる俘虜は之を解放せざる可らずと説く)

 以上の外、例へば戦場混乱し、乞降者と不乞降者の識別の判明し兼ぬるが如き場合にありては、乞降者あるも之を助命することは事実不可能であり、既に不可能であらば、之を殺傷するも固より違法を以て論ずる限りでない。

 要するに上叙の特別なる場合は別とし、尋常の場合に於て予め敵兵は一切助命せず、俘虜は一切収容せずと脅すことの違法を戒むるのが本号の主眼である。(P361)



第五目 軍用標章等の擅用(せんよう)

一〇二五

 敵の制服の擅用禁止に関する本へ号の条句は、文字の上に不備の点が少なくも二つある。

 その一は、本号禁止の制服は単に敵のそれに係り、中立人の制服又は平服の擅用に関しては何等説及してないことで、 その二は、本号は単に敵の制服の擅用を禁ずるに止まり、敵兵が一般に平服を擅用することに関しては、これ亦明現する所ないことである。

 右の一に関しては、日露戦役中露兵の往々支那服を着用するものある所から、当時一問題となつたことがある。(P383-P384)

 我が外務省の明治三十七年十月十九日を以て内外諸新聞紙を通じ公表したる陳述書に曰ふ。

『満洲軍総司令官の報告に依れば、本月四日露国狙撃第三連隊に属する歩兵支那服を着し、奉天街道に在りし我軍隊を襲撃したる事実あり。其他近来露国兵は屡々支那服を着し、我軍に接近し若くは奇襲を試むる等の事実ある趣なり。

 而して近頃接受する各種の情報に依れば、露国軍隊は尚現に多数の支那服を購入しつつありと云へり。

『元来戦闘員にして其固有の制服を着せざる者は戦時公法違反者として之を処刑し得べきは勿論なりと雖も、右の如く制服を着せずして戦闘に従事するは、国際の慣例並に陸戦の法規慣例に関する條約附属規則第二十三條の趣旨に違反する不法の行為なるのみならず、支那服を着せる露国兵と真正の支那人とを遠方より識別すること能はざる結果、無辜の清国人に対し危害を及ぼすの恐甚だ大なりとす。

『依て帝国政府は露国軍隊の右不法行為に対し同国政府の注意を喚起することを必要と認め、在米高平公使に訓令して在露米国大使を経て露国政府の注意を促すの処置を執らしめたり。』


 帝国政府は斯く米国政府を通じて露国政府の注意を喚起せるのみならず、別に支那政府に対し、殊に日本軍の之がため誤つて支那人を狙撃することあるべき危険に就て同様注意する所あつたので、同政府は露兵の支那服擅用に関し抗議する所あつた。

 されど露国側が之に鑑み果して之が擅用を止むに至りしや否やは詳でない。

 二の戦場に於て敵兵が常人の平服を擅用することに関しては、本へ号の上では明晰を欠くも、本規則第一条に於て交戦者たる正規軍の要求する条件の精神から推して、 それは許されざるものと解釈すべきであらう。(P384)





第四章 敵国領土の占領

第三款 占領地の軍事司法

第一項 軍律


一四〇三

 戦律罪とは、簡単に云へば交戦の法規慣例の違反行為である。

 而して敵軍幇助罪とは、必しも交戦の法規慣例に違反はせざるも、交戦国に於て自国の作戦上に有害と認定する所の特定行為である。(例へば間諜又は叛乱鼓吹の如き)。(P869-P870)

 戦律罪を以て論ぜらるべき事項は、その総てではないが、多くは国際法規の上に禁止のことが規定されてある(例へば陸戦法規慣例規則第一條及び第二條に依り適法の交戦者と認められざる者の敵対行為、第二十三條の各号、第二十五條、第二十八條等の禁止事項、赤十字條約の諸規定、一九三〇年の倫敦海軍條約中の潜水艦の遵由すべき法則等の違反の如き)。

 敵軍幇助罪にありては、概して一般公認の慣例に出るが、それ以外に陸海軍刑法その他戦時関係の国内法規にて之を規定し、将た或は侵入地域又は占領地域に於て特に軍律を以て臨機制定するのも少なからずある。(P870)


第三項 毒瓦斯

第二目 第一次世界大戦後の毒瓦斯問題 

信夫淳平氏『戦時国際法講義』より

一〇六七

(略)

 然るに支那軍自身には、却つて之を使用したる証跡があった。

 即ち上海方面軍の昭和十二年十月十六日発表したる所に依れば、

『十月十四日太平橋付近に於て敵陣地を奇襲せる際、その砲兵陣地跡に於て特異の塗料を施しある数個の敵迫撃砲弾を発見せるに依り、厳密なる調査試験を為したる結果、 四塩化チタニュームとホスゲンを混合填実せる瓦斯たるの確認を得るに至れり。』(P441-P442)

とあり。(P442)

(中略)

 その後にありても昭和十三年六月、皇軍は講馬鎮付近及び曲沃付近に於て孰れも敵の毒瓦斯弾数十発を発見したとあり(同月二十日太原発『同盟』)、次では

『山西にある我軍の後方撹乱を企図せる敵は・・・悪性の毒瓦斯を使用しつつあり。敵はこの毒瓦斯使用に方り彼れ自ら損害を招くので、之を防止せんがため何れも優秀なる防毒面を準備し、その後にありても昭和十三年六月、 過般山西西部にて我軍に押収せられた防毒面は独逸製二四式二千、自耳義(ベルギー)製二千五百、支那製一万、その他二万の多数に上ってゐる。』 ( 同年六月二十八日石家荘発「同盟」 )

『山西各地に於ける敵は先般来頻々と毒瓦斯を使用してゐたが、去二日には蒙城鎮(臨汾南方)の東方に於て我が猛撃に堪へ兼ねた第八十三師に属する敵部隊が、又も退却に際し大々的に毒瓦斯を放射し、 翌三日には更に聞喜付近の我が部隊に対し多数の毒瓦斯弾を発射した。今回のものは従来に比しその毒性更に強烈であったが、我が防毒防備完全なるため殆ど損害を受けなかった。我方は敵が遺棄した放射弾その他を押収したが、蘇聯製の疑ひ濃厚なるもの多数あり。』 ( 同年七月四日北京発「同盟」 )

『六日 [ 昭和十三年七月 ] 山西南部曲沃南方地区の戦闘で敵は突如毒瓦斯弾を発射し、一時同方面山嶽一帯は濛々たる毒瓦斯に鎖されたが、我部隊の神速果敢なる防御処置に依り兵九名が意識を失つたのみで、 幸ひ大なる被害はなかつた。・・・毒瓦斯は検査の結果塩化ピクリンサンと判明、蘇聯製の疑ひ濃厚である。』 ( 同月六日曲沃発「同盟」 )

と報ぜられ、降つては昭和十五年一月の南寧方面の戦闘に於ても、支那軍は我が陣地に対し毒瓦斯弾を発射した由である(同月十六日南寧発『同盟』)。(P443)

 抑も一九二五年のヂュネーヴ議定書は、我が日本は之に署名はしたるも批准はせぬから、全然その拘束を受けざるものである。随つて仮に毒瓦斯を使用したればとて国際法違反にはならない。それにも拘らず皇軍は之を使用しなかつた。

 然るに支那は該議定書の非署名国であつたが、後に之に加盟した。故に毒瓦斯の使用が国際法上非認すべきものなるや否やの問題とは離れ、日本は今日毒瓦斯を使用したからとて条約違反にはならぬが、支那軍が之を使用すれば、 謂ゆる連帯条項を有せざる本議定書のこととて、少なくも条約違反を構成する。にも拘らず之を使用したとすれば、英国政府の如きは前述の伊国の場合に顧み、真先きに支那の行動に痛撃を加へねばならぬ筈であつたのである。(P444)



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(2014.10.13)


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