フィリピン戦線の実相を語る時、避けて通れないのが「人肉食」の問題です。
日中戦争期における「人肉食」は、ごく一部の異常者による、特異な事件であったと見られます。
しかしフィリピン戦線では、厳しい「飢え」を背景に、「人肉食」がかなり広い範囲で行われてしまったようです。それも、「たまたま見つけた死体を食う」というレベルを遥かに超え、「同胞の日本兵やフィリピンの民衆を組織的に襲って殺し、その肉を食べる」という、身の毛もよだつ事件まで発生しています。
以下、私の目についた資料を、何点か紹介します。
※「人肉食」などという猟奇的な事件が果たして本当にあったのか、軽い好奇心から調べ始めたのですが、予想を超える「気持ちの悪さ」にはいささか辟易しました。折角調べましたのでまとめてはみましたが、以下の記述は、私自身気分が悪くなるくらい、大変生々しいものです。閲覧には十分ご注意ください。
※※なお今回取り上げた資料は、そのほとんどが「ルソン島南部の「ゲリラ狩り」」を調べていた時にたまたま入手したものです。フィリピン戦線全般での「人肉食」に関する資料を系統的に集めたわけではありませんので、私の知らない資料が他にも数多くあるものと思われます。
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日本兵を襲う「ジャパン・ゲリラ」
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』 |
守屋正氏は、京都大学医学部卒。1944年から終戦にかけて、フィリピン戦に軍医として従軍しました(終戦時は軍医大尉)。戦後は内科医として、京都市で自宅開業しています。
氏はフィリピン戦従軍の体験につき、『フィリピン戦線の人間群像』『ラグナ湖の北』『比島捕虜病院の記録』という3冊の著を残しています。その最初の著作『ラグナ湖の北』では「人肉食」エピソードを避けていた氏でしたが、次の『フィリピン戦線の人間群像』では重い筆をとることになります。
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
とうとう、一番嫌な書きたくないことを書かねばならなくなった。この項は書くまいかと思ったが、やはり真実は伝える義務がある。
北部ルソンの戦記は多く出版されているのに、中部、南部ルソンの戦記は極めて少ない、この話は既に比較的よく知られていることなので、これを省略するわけにはいかない。戦争の惨果をこの項ぐらい深く印象づけるものはないと思うので、恥を忍び、眼を覆い、耳をふさいだ気持で重い筆をとる次第である。
それは比島戦記としては、いわば例外中の例外の記録であるが、ここまで追いつめられた原因は何かというこの事実の奥にあるものを、深く考える必要があると思っている。
この項は同志討ちの話であり、同胞相食むいまわしい恥部をさらけ出す話である。(P182)
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具体的な体験談に話を移しましょう。まず氏は、同胞の日本兵を襲ってその肉を食糧にしている、「ジャパンゲリラ」の存在を耳にします。
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
七月のある日、私の部隊のある曹長の大腿部の切創の手当をした。その負傷部位が普通では考えられないものなので、その曹長にそのわけをきいたところ、次のような驚くべきことを話してくれた。
彼は森の中の路傍で休んでいた。そこへ他の部隊の曹長が来たので、それと親しく話をしていたところ、その曹長が突然彼に斬りかかって来たのである。彼は大腿部を刺されたので、驚いて、二人で格闘となり、その曹長をおさえつけたところ、(P182-P183)
「実は自分は一等兵で曹長ではない。曹長の死体から襟章をとってつけているのだ。悪かったからかんべんしてくれ」
と哀願するので、助けてやったそうである。
彼は私に「私はあいつを助けるのじゃなかったです。あんな悪い奴はきっとまた他で悪いことをしているでしょう」といった。
これが私が実際にジャパンゲリラの存在を知った第一号の話である。(P183)
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これは「未遂犯」の話でしたが、次に氏は、「日本兵を殺して人肉を食べる」ことを常習としている、「集団的な凶悪グループ」の噂を聞きます。
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
次は前多兵曹からきいた話である。
ある日前多兵曹らが、南の山へ食糧採りに行っていた時、数人の陸軍のグループと一緒になった。彼らと雑談をしていたところ、彼らは自分の方から次のような恐るべき話をしたそうである。
それは、彼らは日本兵を殺して人肉を食べるのを常習としているというのである。はじめは他の部隊の兵士を殺していたが、しまいには自分の部隊の兵を殺すようになった。
しかしさすがに自分の部隊の兵を射殺する時は、眼をつぶって引金を引いたといっていたそうである。
つまり強盗、殺人、食人罪を犯している犯人グループで、さすが剛胆の前多兵曹も、「軍医官、今日は実におそろしい奴に会いましたよ」と言って、上記の話をして、「あいらの眼付きは違っていました。きらきら光って、底気味の悪い人相でした。私は後であいつらをみんな殺してくればよかったのにと思いましたが、別れてしまって実に残念です」とつけ加えた。
これで、集団的な兇悪グループの存在がはっきりした。部隊は解体し、軍律は消滅した状態で、召集された兵の中には兇悪な前科者もいたわけで、これらの悪党が、兇器を持って、飢えの中に生きて行くためには、こうした地上最悪の行為をしたわけである。
殺人の上、人肉を食べていた現場を発見されて、射殺された例を私は数例きいている。当然の処置で、こんな人間は日本に帰っても悪事を働いて、獄舎につながれることであろう。
第三の例は、前多兵曹らが二回目に水牛を射殺したことがある。海軍の兵に、その肉を持たして、前多兵曹は一足先に帰らしたのであるが、遂に帰って来なかった。これも捜索したが死体も出て来ない。やはりジャパンゲリラの犠牲になったのであろう。(P183)
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この段階ではまだ「噂」のレベルでしたが、いよいよ具体的に犠牲者を特定しての話が聞こえてくることになります。
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
一七三〜四頁に海軍の兵曹と雇員と三人連れで、マンゴー採りに行き、ゲリラに撃たれ、その時川口兵曹が殺された話をした。翌日前多兵曹らはシャベルを持って、川口兵曹の死体を埋めに行った。
夕方前多兵曹らはパハイに帰って来て、「軍医官、陸の野郎はひどいことをしていましたよ。川口を埋めてやろうと思って、死体にかけてあったシャツを取ってみたら、骨だけになっていました。陸の野郎が一晩で川口を食ってしまったのです」 といった。
この話をきいて血が氷る思いがした。とうとうそこまで落ちぶれたかと思った。(P185)
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守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
しかしその頃から人肉を食べる話が森の中で耳に入りだした。
タナイ川の下の方にある大尉の中隊長がいた。この人は私の部隊ではないが、長身で男らしい立派な人であった。この人とは仲好しになって、ときどき話しに行った。
ところがこの大尉が病気で死に、それまでかいがいしく看病していた当番兵が、その大尉を食べてしまったそうである。腹の中に埋葬された大尉が気の毒でたまらなかった。
大尉が遺言して、自分の身体を恩人の当番兵に提供したのかも知れない。そうであったら救われるのだが。この大尉はそのような遺言をすることが考えられる立派な軍人だったと今でも思っているが真相はわからない。(P185)
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そしてついに、「解体犯」の話を聞くことになります。「私たちの部隊にすごく人間の料理の上手な兵がいる」という、ぞっとする話です。
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
海軍のバハイの人が、決定的なことを言った。それは私たちの部隊にすごく人間の料理の上手な兵がいるというのである。これをきいて驚き、そんな破廉恥な奴がいるのかと思うとやり切れなかった。(P185)
一体この男は誰だらうと三十数年間頭を離れなかった。
ところが最近大体想像がついた。ある所で肉屋をしていた男である。この男だったら、大きな牛をばらすのが本職であるから、手際よくやったであろう。私は京大で人体解剖の講義をしていたので、人間の身体を切り開くことは専門的な知識がないと、そうたやすいことではないことをよく知っている。(P186)
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落伍兵に襲われて・・・
石田徳『ルソンの霧 見習士官敗残記』 |
石田徳(いしだ・いさお)氏は、1923年生。1944年5月、熊本陸軍予備士官学校へ入学、同年9月南方に派遣され、マレーを目指しましたが、乗っていた船が米軍機の襲撃を受けて沈没し、そのままマニラ湾に上陸しました。
1946年12月、ルソン島から帰国。その後1952年に東京大学法学部を卒業し、農林省(当時)に入省。大臣秘書官、水産庁企画課長等を歴任しています。
石田氏は「ジャパン・ゲリラ」の存在を耳にし、落伍兵にそのことを教えて警戒を呼びかけます。そうしたら、彼らは忠告を逆用して自らが「ジャパン・ゲリラ」に早変わりし、氏を殺そうとした、という体験談です。
石田徳『ルソンの霧 見習士官敗残記』より
煙のそばには、二人の兵隊がいた。化物みたいな、こんにゃくの茎を採ってきて、さかんに、あくを抜いているところであった。彼等の夕食である。私は、まず、ふかした芋を与え、一夜の宿を乞うた。陽はとっくに西山に落ち、あたりには、しっとりと夜露がおりていた。
マラリアの私は、彼等のテントに同宿させてもらう以外に、手がなかった。幸い彼等は、私の願いをすぐ快諾してくれた。
焚き火の周りで、暫く話しているうち、彼等は落伍した衛生兵であることがわかった。私とは師団も違っていた。私は、見習士官の手前、自分も落伍兵であることを忘れて、同じ落伍兵に忠告を与えた。
「お前たちも知っているだろうが、近ごろは物騒だぞ。脱走した味方の兵隊で、野盗になっているものも多いようだ。この付近にも、ときどき出没するらしい。やつらにとっては、少人数の落伍兵が、一番いい獲物で、身ぐるみはぎとり、肉は食うらしい。味方の兵隊に食われないよう、よく気をつけろ」
「友軍の兵隊が、そんなひどいことをするのでありますか?」
二人は、到底信じられない、といった顔つきをした。
へとへとに疲れていた私は、間もなく破れテントの下、石の枕で眠りに落ちた。彼等二人は、私の寝息をうかがいながら、何ごとか相談したらしい。(P152-P153)
私は、知らぬが仏で、グウグウ眠り続けた。そして、夜半に気がついたときには、私の顔面は、いやというほど、円匙でなぐりつけられていた。
私は、無意識のうちに、瞬間的にたち上がり、突きつけられた銃身を、必死で握った。墨を流したような真っ暗闇では、何がなんだか、わからなかったが、銃には銃剣が着いていなくて、助かった。激しい格闘の末、やっとのことで、相手から、騎兵銃を奪い、逆にその銃床で、彼等をなぐりつけた。
その悲鳴で、私を襲ったのは、野盗ではなく、一夜の宿を貸してくれた、彼等二人の衛生兵であることがわかった。まさに、恩を仇で返されたのである。私の忠告を逆用した二人は、たちまち自ら人食いに早変りしていたのだった。
怒りの焔が燃えさかった。だが、衰弱しきった体力では、長続きがしない。幸か不幸か二人の悪党も、へっぴり腰であった。暫くすると、二人はかなわぬと見たのか、
「つい、でき心から、申し訳ないことをいたしました。どうか許して下さい」
と、今度はあやまりに出た。許す許さぬではないが、私も力尽きていた。(P153)
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あいつめ、生きてやがる。よく食われなかったなあ
友清高志『ルソン死闘記』 |
友清高志氏は、86飛行場大隊所属の上等兵。リパの虐殺について詳細な証言を遺していることで知られます。
氏は、戦後カランバン収容所で聞いた話として、以下のエピソードを紹介しています。「食人」の話は、随分広範囲に広がっていたようです。
友清高志『ルソン死闘記』
夕方になると、PWは幕舎のベッドに寝そべったり、柵の横の空地にグループで腰をおろし、食べ物の話からお国じまんに花を咲かせるのが慣わしとなった。
ある夕方、小グループのそばを通りかかった私は、耳をそばだてた。
「おや、あいつめ、生きてやがる。よく食われなかったなあ」
どこの部隊の兵隊たちであろうか。車座の中の一人がいい放った。その男の視線を追うと、衰弱しきった一人の男が、グループの向こうをヨロヨロ歩いて行くところだ。私たちより、もっと深刻な飢餓を体験した兵隊たちであろう。
私の幕舎にSという海軍の補充兵がいた。私は彼から一つの体験談を聞いた。
ルソン島の南部レガスピーから南下すると、東海岸寄りにブルサンと呼ぶ地区がある。このジャングルに、Sは敗走中、一人足を踏み入れた。
水の枯れた河床を山上へと登って行ったある夕方、巨大な岩陰からおどり出た日本兵に、Sは銃剣を突きつけられた。両手を挙げると、背後から別の兵隊が近づき、声をかけた。
「塩を持ってるか……」(P230)
「……うん」
「米は」
「粗米ならある」
塩は生命のつぎにたいせつなものだ。二人は、Sを別な岩陰に組まれた小舎に案内した。塩と粗米を少し出すと、相手は一片のソテをSに差し出した。
ソテとは、豚肉に塩をまぶし陽干しにしたものである。太陽に灼けた岩肌にくっつけると両側が焼けてくる。住民たちはこうして肉の保存食を作っていた。
Sがもらった肉は、塩の代りに野生のコショウをくだき、まぶしてあった。
その二人は、Sにこういった。
「これ以上奥に行っても何もないんだ。おまえさえよければおれたちといっしょに、ここで暮らさんか、わりに住みいいところだぜ」
彼も仲間がいれば心強い。二つ返事で仲間に入れてもらった。
翌朝、早めに眼をさましたSは、三十メートルほど離れた場所に小用に行った。小用しながらバナナの葉でおおった物体を発見した。異様な臭気がする。
バナナの葉をめくってみると、臀部から大腿をごっそりえぐられた日本兵の死骸であった。
二人が眠っているのをさいわい、彼は雑襲を手に持つと逃げ出した。足のふるえで思うように走れなかったが、二人は眠ったままなのか、追いかけてこなかった。(P231)
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夢中で「人肉」を飲み込む
長井清『悔恨のルソン』 |
さてここまでの話は、あくまで「聞いた話」です。「人肉食」に関する証言は、事の性格上、おおっぴらにできないという事情が働いてか、自らの体験談として語る者は、ほとんどいません。
そんな中にあって、自ら「人肉を食べた」体験を語っているのが、長井清氏です。
長井清氏は、慶応大学法学部卒業後、海軍に入り、1944年7月、南西方面艦隊司令部付暗号士としてマニラに赴いています(終戦時中尉)。終戦後は川崎汽船に復職し、その後雅叙園、NKホームなどの役員を歴任しました。
長井清『悔恨のルソン』
私たちの食糧がまったくなくなってから、すでに何日もたっていた。「野タバコだけは食えないな」などといいながら、春菊によく似た野草を探し、湿地に生えるフキの化け物のような、味もなにもない雑草を採っては食いつないだ。
私たちは日一日と痩せ細り、体力はすでに限界を超えようとしていた。このころになると、あちこちでコガネ虫などの食糧争奪のために、友軍同士の喧嘩や撃ち合いまでがはじまった。
「人間の肉はうまいらしいぞ、やっぱり」「そうか、一度食ってみるか、本当に」などという異様な会話が部下たちの間で自然に交わされるようになった。それが、少しも異常ではない空気が漂っていた。
二、三日後のこと。兵たちが食糧探しに出掛けた。
ダ、ダダァーン
近くで突然、銃声が響いた。また友軍同士の撃ち合いか、と思っていると、やがてさっき出掛けたばかりの兵たちが戻ってきた。
「隊長、うまいものが手にはいりましたよ」
太田兵曹が、血だらけの肉塊を入れた飯ごうを私に差し出してみせた。私は、それが普通の肉ではない、と直感した。とうとう殺ったのかと内心びっくりしながらも、反射的に「すぐ、煮ろ!」と平気な顔をして兵に告げていた。(P68-P69)
私も、彼らも、極度の飢餓のなかで、頭脳の電流回路がどこか狂っていた。被害者は弱り果てていた陸兵だった。その太股の肉をえぐってきたのである。
兵たちは、谷川に下りてそれぞれの飯ごうに水を一杯汲んできた。枯れ枝を集めて、すぐ火が焚かれた。調味料はわずかに残っている岩塩だ。やがて炎の上に七、八個並べて吊り下げられた飯ごうのなかで、ギラギラと光る脂肪がぶくぶくと泡立ってきた。
取り囲むみんなの目は異様に光っていた。目の前で世にも恐ろしい光景が展開していた。私たちはそのとき、獣になり下がり、餓鬼道に落ちていた。
「隊長、どうぞ」
太田兵曹が沈黙を破った。箸で取り上げた肉の一切れを差し出す。私は、ものも言わずに自分のスプーンで受け取ると、焼けるように熱いのもかまわずむしゃぶりついた。
肉はひどく硬かった。いくら噛んでも歯槽膿漏にかかっていた歯では、とても噛み切れない。栄養失調の兵隊の肉だから筋張っているのだろう、と思って、そのまま無理やりに呑み込んでしまった。
私は今でも、その味がどうであったか、少しも記憶にない。ただ夢中で呑み込んだ感触だけが、ぼんやりと残っている。(P69-P70)
「もう少し、どうですか」
私はこれを断って、皆の様子を眺めた。彼らは平然と、うまそうに肉を平らげ、「これで大分、元気がつくぞ」と、うなずき合っていた。(P70)
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「貴重な食糧」としての「人肉」
石長真華『人肉と日本兵』 |
次は、そのものタイトル、『人肉と日本兵』です。
石長氏は、1944年12月、ルソン島に渡っています。「本書は小説の形をとってはいますが、書かれていることはフィリピンの戦場(ルソン島の山中)ですべて実際にあったことです」(P1)とのことです。(なお、以下の人名はすべて仮名。石長氏本人は「今井」の名で登場します)
氏は、山中をさまよっている時に出会った「山脇軍曹」から、こんな話を聞きました。
石長真華『人肉と日本兵』
「われわれが大川を捗るときは、ひどい目にあいまスたヨ。何部隊の兵隊か知りませんがネー。向こう岸に先に捗った兵隊が三人おったんでシ。われわれが、この川を捗れるだろうか、どうだろか、と心配しちょったんでシよ。からだが弱っちょりまシけんネー。
ところが向こう岸の兵隊が、大丈夫だけん捗って来いって大声で呼んじょるでシよ。わスの分隊の兵隊で宮下っていう元気のエエのがいまスてネー。そいチが、わスが先に捗ってみるてって裸になって一人泳エだんでシよ。ところがでシネー、ひどい目にあったんでシよ」
彼は恐怖におののくように身ぶるいした。
「宮下が泳エで向こう岸が近ジエたとき、向こうの兵隊が竹を差ス出スたんでシよ。宮下はそれにちかまって割合かんたんに向こう岸へ捗ったんでシよ。親切な兵隊だ、今頃珍らスいと思ったんでシがネー。ところがでシよ」
彼の限に異様な光がはしった。
「ところがでシネ。最初はなんのことじゃらわからんだったんでシがネー。宮下の腕を二人で両側からかかえるようにスて、一人は彼から背を抑スて、むりやりに、ジャングルのなかへ連れて行ってスまったんでシよ。ところがでシネー」(P192-P193)
彼は前より大きく身ぶるいした。話し方がスローなので、いらいらさせられながらも皆はじっと聞き耳をたてていた。
「びっくりスまスたネー。自分たちもようやく捗って、ジャングルのなかへはいって見たんでシよ。そしたら、なんと、ほんに、びっくりスまスたよ。宮下のからだがでシネー」
彼はまたぶるっと身ぶるいした。
「バラバラに切られちょるんでシよ。スかも、それがでシネー、肉が一つも付いてないんでシよ。頭はそのままでスたがネー。それに腸とネー。心臓や肝臓はなかったでシがネー。ほんに、びっくりスまスたよ。地獄っていうもんでシよ。帝国軍人もこうなったら、もう手も付けられんでシネー」
彼は大きくためいきをもらした。
誰かに会ったら先ず最初にこの話をしなけれはならないと思っていたのだろう。彼はそれが癖らしく、話しながら手の甲でダンゴ鼻を何回もツソツソとこすった。あの大川へ来たときもそうしたようである。
その宮下という兵隊を殺したのも、水牛を盗ったのも、この兵隊たちだと、あのとき思ったのだろう。少尉とこの軍曹のひどく昂奪していたのが、いま納得された。装具のなかを調べたのは、『肉』を発見するためだったのだ……。
軍曹が話し終ってから、皆がしばらく黙っていた。 − ひどい兵隊がいるものだ。そのようなことをするよりほかに、そいつらの生きる道はないのだろうか。生きる道をほかに求めなければ、最後には、そいつら同士が殺し合いになり、食い合いになるだろう。
それが本当に環境に順応するということかもしれない。人間はどこまでも向上する可能性と同時に、どこまでもおちこむ可能性ももっているのだ。(P193-P194)
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そして、自らも死体から肉をはぎ、人肉を食べた経験を告白しています。
主人公の「今井」(石長氏本人)は、山中で「栗林参謀」の死体を発見します。「今井」はその肉をはぎ取り、部隊に持ち帰って、「山豚」を捕えた、と称してみんなで食べてしまいます。
しかしそれが「人肉」であったことは、みなの暗黙の了解であったようです。
石長真華『人肉と日本兵』
小林は吐息をもらして兵長に小声で言った。
「兵長殿! 自分は早く山から出たいです。昨夜の肉、山豚ではないですね。みなが言っています」
射るような眼で博士を見た。
「わかったか。わしは昨夜からわかっていた。それでいいんだ。貴重な食糧をみすみす蛆に食わす法はない。猿も、蝙蝠もヘビも死んだら同じことだ。意識のあるうちはちがうけどな。生命を保つ。これがヒューマニズムの根本義だ。ここでは手段はとわない。一個の人間が原始の環境で生命を保つにはいかにすればよいか。いままで誰にも勇気がなかったんだ。其の勇気がな。小林、勇気を出せ。これから先、どのような環境が待っているかわからんぞ……」
博士が力強く言うのを今井は耳にした。(P210)
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さらに部隊は行軍を進めます。そして、「腕や脚」が切りとられた多くの死体を目撃します。
石長真華『人肉と日本兵』
参謀の死んでいた谷を出発してから、二日かかってけわしい山を一つ越した。途中、四、五人死んでいた。まだ十分骨になっていなかった。蛆は大きく育ち、その数は少なかった。蝿になって逃げたのだ。早いのは死んでから一週間くらいたっているようだった。
それから先の山には死体が多かった。早いのは骨になっている。死んで間もないようなのもある。何日もかかって、ぞろぞろと行軍したのにちがいない。どの死体も靴をとられ、装具はバラバラになり、腕や脚が切りとられている。
「人間は、しだいに苦しくなるにしたがって誰でも同じようなことをするね」
博士が言った。(P211)
「連隊本部とちがうな。知らん名前ばかりだ」
曹長は水筒の紐を見て言った。
七人は、ひょろり、ひょろりと離ればなれに歩いた。夢中で死体を調べながら進んだ。食えるようなものは何もない。後から来た者が、先に死んだ者の持物やその肉をとって進み、そして弱った者から次々に死んでいったのだろう。
「どいつも、こいつも楽をしちょる。早く死にやがって、畜生め!」
熊川は畜生めに力をいれて肉を切り取った。(P212)
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極限状況の中で、「死体」は「食糧」として認識されてしまっていました。「人肉を食う」話がここまでさりげなく語られることに、ぞっとせざるを得ません。
※追記 簡単な記述で、かつ「小耳にはさんだ」程度の話でしたので上では取り上げませんでしたが、三菱商事に勤務していたタイピスト、岡田梅子氏も、こんな記述を遺しています。
岡田梅子『アシンの緑よ、ありがとう』
私は、ふと田坂大尉の小屋にお世話になった時、小耳にはさんだ話を思い出した。
それは小高い山道に腰を下ろして一服していた兵隊さんが、後から軍刀で斬りつけられた時のことだった。犯人は人が近づいてくる足音を聞いて、そのまま立ち去り、斬りつけられた兵隊さんは田坂大尉が手当てをしたが、兵隊さんは何故、斬りつけられたか、全く見当がつかないという。
そこで田坂大尉がその兵隊の案内で、凶行のあった場所のあたりを捜索したところ、口唇部や大腿部を切りとられた裸の死体が点々としていたのだ。(P85)
(『ルソンに消えた夏』所収) |
(2015.10.4)
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