| 731部隊(9) | 安達(アンダー)野外実験場にて |
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731部隊は、本拠のある平房から百数十キロ離れた安達(アンダー)に、広大な野外実験場を持っていました。そこには数十本の木の杭(あるいはベニヤ板)が円環状に立てられ、「マルタ」たちはその杭に縛り付けられて、「実験」に利用されていた、と伝えられます。 そこで行われた「実験」の概要については、常石敬一氏の文に的確にまとめられています。
「フェル・レポート」にも、「実験」への言及があります。
以下、「安達実験場」についてのいくつかの証言を紹介します。
郡司陽子氏は、731部隊員の夫と結婚し、満州のハルピンに渡りました。一時帰国後、今度は自身が731部隊勤務(特別班動物舎)を命ぜられ、再び満州に戻ることになりました。 氏の最初の著書『証言・七三一石井部隊』は、氏の体験、及び同じく部隊員の「弟」などから得た証言を記したもので、『悪魔の飽食』を攻撃する立場に立った元部隊幹部・佐々木義孝氏からも、「かなり正確に書かれている」と評されています。 また『真相・七三一石井部隊』はその続編としての位置付けで、5名の部隊員の証言を収録しています。 ※詳しくは、「人体実験、これだけの根拠(5) 擁護側からの証言」をご参照ください。なお以下の証言内容は、この記事と一部重複します。 ここでは、二つの書のうち、「安達実験場」に関係する部分を取り上げます。 まず、『証言・七三一石井部隊』より、郡司氏の「弟」の証言を見ましょう。 「弟」は、1938年より「731部隊」に勤務。所属部隊は「言いたくない」とのことで不明ですが、証言によれば、1940年寧波細菌戦にも、「現地調査」という形で関わりを持ったようです。 「安達実験場」にも、何回か出動した経験を持ちます。一回に二、三十人の「マルタ」を連れて、部隊の本拠地「平房」を朝出発し、三時間弱で安達実験場に到着する、とのことです。
「マルタ」たちは、放射状に立てられていたベニヤ板に縛りつけられます。そして部隊員たちは、後方に退き、待機します。
部隊の爆撃機が、「マルタ」たちの中心に、爆弾を投下します。
飛行機が過ぎ去った後に残っていたのは、「爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあもこちからおびただしい血を流している者」という、悲惨な光景でした。
「弟」はこれを、「細菌爆弾の効果測定」実験であった、と推測しています。 他の証言を見ると、「純粋に細菌の効果を見るために、爆弾で傷つかないようにマルタをガードしていた」とする証言が多いのですが、この実験ではそこまでの配慮は行われなかったようです。
以上、体験談としては非常にリアルなもので、証言の信頼性は高いものと思われます。 もう一つ、『真相・石井細菌戦部隊』に集録された、「写真班」員T・K氏の証言を紹介します。
こちらも「実験内容」は、航空機からの細菌爆弾投下です。マルタの「傷」の具合は、「弟」が体験したケースよりは浅かったようです。
越定男氏は、石井四郎部隊長の専属運転手を務めていました。 「731部隊」についての証言を始めたきっかけを、氏はこのように語っています。
余談ですが、氏が証言を始めると、「脅迫の電話や手紙が殺到した」とのことです。
このあたり、「南京事件」についての証言者たちが大変ないやがらせを受けた事例を想起させられます。 のちに氏は、自身の「部隊」での体験を、『日の丸は紅い泪に』という本にまとめました。この本に掲載された、越氏の「安達実験場」での体験を見ていきましょう。
「細菌実験」には、「細菌そのものをばら撒く」「細菌を詰めた爆弾を投下する」という二つのパターンがあったようです。(それ以外に、「ノミ」を撒いた実験があった、という証言もあります) 越氏が最初に取り上げているのは、「マルタ」に細菌をふりかける「雨下実験」でした。 「爆弾」を使用しない、純粋な「細菌吸入実験」です。
越氏はまた、安達実験場での「マルタの逃亡事件」について語っています。 これは、「悪魔の飽食」でも紹介されたエピソードです。
逃亡しようとしたマルタたちは、「ペスト弾」実験の被験者でした。爆弾そのもので傷つかないように、彼らは「鉄板のプロテクターみたいなもの」で保護されていたようです。 越氏らは、「三キロも風上」で待機します。しかし爆発前、たまたま縛めがほどけたマルタが逃げ出し、次々と他のマルタのロープを解き始めました。 越氏はあわてて車に飛び乗り、「機密保持」のため、逃げ出したマルタたちを片っ端から車ではね殺します。
かくして、マルタたちの「逃亡」は失敗に終わりました。 ※なお、先程紹介した写真班の「T・K」氏は、この「逃亡事件」の存在に疑念を呈しています。
T・K氏自身は、「一五〇メートル」の距離で「実験」を見守った体験を語っていますので、「この距離で逃亡できるはずがない」と判断したものと思われます。 しかし 実際に越氏の文を読み直すと、「私たちは三キロも風上で双眼鏡で見守っている」と述べています。広範囲に細菌が広がる可能性を怖れ、「待機距離」を大きくとったものであるようです。これだけの距離があれば、越氏が述べたような「集団逃亡」は十分可能でしょう。 なお、二人の証言者の間で平房から「安達実験場」までの距離が大きく異なることを考えると、「あるいは別の場所での出来事か」というT・K氏の「感想」も、可能性がないこともないのかもしれません。
「安達」は大規模な実験場であっただけに、それに関わった隊員たちの証言は多数見られます。その中の主なものを、以下、紹介していきます。 航空班の松本正一氏は、自ら「陶器爆弾」や「ハ弾(細菌弾)」を投下した体験を語ります。なお松本氏は、「細菌戦裁判」で証言台に立つなど、有力な証言者の一人として知られます。
次に、1938年に「少年隊員」として入隊し、その後高橋班(ペスト研究)に配属された、鎌田信雄氏の証言です。 「安達実験場」に隣接する実験場での「毒ガス実験」に触れています。また「細菌」については、単純に菌そのものをばら撒く「雨下実験」、また「ノミの投下」、「陶器爆弾」という、すべてのパターンを経験したようです。
TBSテレビのディレクター、吉永春子氏は、「レントゲン班の班長」の証言を発掘しています。この証言は、「一九七六年八月十五日の(731部隊)二回目の放送の大きな柱となった」(P105)とのことです。
気象班・西島鶴男氏は、西里扶甬子氏・太田昌克氏の二人のジャーナリストのインタビューに答えています。
興味深いのは、細菌を吸わせるために、「ピストル突き付けて」「上向いて口開けろ」と命令していることです。 越氏の証言では、「マルタの首に部厚いトタンでつくった詰襟、つまりカラーが巻」いて無理やり上を向かざるを得ない体勢をつくっています。越氏証言の方が、よりソフィスティケートされたやり方、ということかもしれません。 最後に、高知新聞社が取材した、尾原竹善氏の体験です。取材内容をまとめた『流転 その罪だれが償うか』は、第四十回日本ジャーナリスト会議賞を受賞しています。
この体験は、尾原氏に、大変なトラウマをもたらしました。五十年間にわたり、氏は、「悪夢」に「うなされ続けた」そうです。
「ハバロフスク軍事裁判」でも、多数の被告、証人が、「安達実験場」の実験について触れています。 これらの証言は、これまで紹介してきたような一連の証言と特段の齟齬はなく、「ハバロフスク裁判」の証言が比較的正確であったことを裏付ける形となっています。 ここでは、コメント抜きで、関連証言を並べます。
(2018.5.5)
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