731部隊(9) 安達(アンダー)野外実験場にて


 731部隊は、本拠のある平房から百数十キロ離れた安達(アンダー)に、広大な野外実験場を持っていました。そこには数十本の木の杭(あるいはベニヤ板)が円環状に立てられ、「マルタ」たちはその杭に縛り付けられて、「実験」に利用されていた、と伝えられます。

 そこで行われた「実験」の概要については、常石敬一氏の文に的確にまとめられています。


常石敬一『七三一部隊』

 七三一部隊では、細菌爆弾や砲弾の改良や性能を調べるための屋外実験場を、部隊から西へ二百キロほど、汽車で四時間の安達に持っていた。筆者はこの屋外実験場を、石井たちが生物兵器開発を本気で考えていた証拠であるとともに、きわめて荒っぼい「実験」と、よく考えられた緻密な研究とが混在した、石井のネットワークの縮図となっていると考えている。

 安達実験場での残酷な爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる一九四三年末以降活発化したことが、証言や資料から分かる。

 前出の柿沢は、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和十八年末あるいは十九年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは十〜二十人であり、その他に馬二十頭についても実験が行われたという。(P155-P156)

 細菌爆弾の屋外実験は悲惨なものだった。これら爆弾実験では、一回に十人が犠牲となるのが普通だった。十人の犠牲者は、半径十メートルの円形状に、約六メートル間隔で打たれた杭に縛りつけられた。その真ん中、あるいは数十メートル離れた所でペスト菌や炭疽菌の細菌爆弾を炸裂させ、それに感染するかどうかといった「実験」が行われた

 真ん中で炸裂させるのはまず感染が起こるかどうかを見るためのもので、離れたところで炸裂させるのはどの程度の距離であれば感染が可能かを見るためだった。

 炭疽菌爆弾の場合には、犠牲者は榴散弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。犠牲者は怪我で死亡することのないよう、臀部以外の身体は布団でくるまれていた。弾子による傷口から炭疽菌が体内に入る。犠牲者は担架で部隊に運ばれ、そこでどのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかを観察された。

 多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された。

 この「実験」の目的の一つは、炭疽菌の胞子は熱に強いが、実際にはどの程度までの熱に耐えられるかを見るものだった。またそれ以外にも、弾子による傷口からの感染(創傷感染)が起こることを確認したものだが、これはすでによく知られている感染経路であり、それについてあえて「実験」をする必要はなかった。(P156-P158)



 「フェル・レポート」にも、「実験」への言及があります。

フェル・レポート

(d) 爆弾試験

 野外試験の完全な細部の記述と図表がある。ほとんどのばあい人間は杭に縛りつけられ、ヘルメットとよろいで保護されていた。地上で固定で爆発するものあるいは飛行機から投下された時限起爆装置のついたものなど、各種の爆弾が実験された。

 雲状の濃度や粒子のサイズについては測定がなされず、気象のデータについてもかなり雑である。日本は炭疽の野外試験に不満足だった。

 しかし、ある試験では一五人の実験材料のうち、六人が爆発の傷が原因で死亡し、四人が爆弾の破片で感染した(四人のうち三人が死亡した)

 より動力の大きい爆弾(「宇治」)を使った別の実験では、一〇人のうち六人の血液中に菌の存在が確認され、このうちの四人は呼吸器からの感染と考えられた。この四人全員が死亡した。だが、これら四人は、いっせいに爆発した九個の爆弾との至近距離はわずか二五メートルであった。(P289)

(松村高夫編『<論争>731部隊』所収)

 以下、「安達実験場」についてのいくつかの証言を紹介します。




 郡司陽子『証言・石井細菌戦部隊』 『真相・七三一石井部隊』


 郡司陽子氏は、731部隊員の夫と結婚し、満州のハルピンに渡りました。一時帰国後、今度は自身が731部隊勤務(特別班動物舎)を命ぜられ、再び満州に戻ることになりました。

 氏の最初の著書『証言・七三一石井部隊』は、氏の体験、及び同じく部隊員の「弟」などから得た証言を記したもので、『悪魔の飽食』を攻撃する立場に立った元部隊幹部・佐々木義孝氏からも、「かなり正確に書かれている」と評されています

 また『真相・七三一石井部隊』はその続編としての位置付けで、5名の部隊員の証言を収録しています。
※詳しくは、「人体実験、これだけの根拠(5) 擁護側からの証言」をご参照ください。なお以下の証言内容は、この記事と一部重複します。

 ここでは、二つの書のうち、「安達実験場」に関係する部分を取り上げます。



 まず、『証言・七三一石井部隊』より、郡司氏の「弟」の証言を見ましょう。

 「弟」は、1938年より「731部隊」に勤務。所属部隊は「言いたくない」とのことで不明ですが、証言によれば、1940年寧波細菌戦にも、「現地調査」という形で関わりを持ったようです。

 「安達実験場」にも、何回か出動した経験を持ちます。一回に二、三十人の「マルタ」を連れて、部隊の本拠地「平房」を朝出発し、三時間弱で安達実験場に到着する、とのことです。


郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

安達での「丸太」を使った細菌実験 − 弟の証言

 「丸太」を使った実験にも、何回か出動した

 朝八時すぎに、所属の研究班長が「本日は、演習を行なう」と前触れなしに告げるのだ。自分たちは、作業衣(白い木棉の上下)のうえに武装して、「呂の字」の東側の、「七棟八棟」への特別出入口の前に集合する。鉄道引込線で「丸太」が到着するところである。(P93-P94)

 そこには、すでに「丸太」運搬用のトラックと隊員のトラックが待機していた。「丸太」用のトラックも隊員用のトラックも、後部は鋼鉄の箱のようになっており、そのうえからていねいに幌がかけられている。外からは内部がまったく見えない。

 あたり一帯は、すでに立入禁止令が出ていて、少数の関係者以外の人影は見あたらない。自分たち「演習」参加者は、全部で、四、五〇人ぐらいだった。

 やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、一回に二、三〇人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混っていた。服装は私服のままだった。

 みんなきわめておとなしかった。これまでいろんな実験をされてきて、度胸がついていたのだろうか。それとも、暴れたら一発で殺されると知っていたのだろうか。いずれにせよ、「最後のときがきた」と観念しきっていたのだろう。

 驚いたことには、看守と親しげに(そう見えたのだが)言葉をかわす「丸太」さえいた。

 九時頃に、トラックの列は、出発する。先頭は軍医たち幹部を乗せた乗用車、次に隊員用と「丸太」用の二台のトラックが続き、そのうしろに、ベニヤ板や防毒衣等の資材を積んだトラックがついていた。通常、四、五台の車輌が一列になって走るのだ。「丸太」は、トラックの床にじかに坐らされ、自分たちは、同乗の荷物等に腰かけていった。(P94-P95)

 行先は知らされていない。が、いつも行先は、安達にある七三一部隊の特別演習場だった

 平房から安達までは約一二〇キロ、トラックで三時間弱の距離だった。茫莫たる野原である。(P95)
google地図で現在の「安達市」を検索すると、ハルピン市の西北に当たる場所のようです。実験場の場所の特定まではできませんでしたが、実際に現地の実験場跡を訪れた方が「安達の駅から30キロほど先の草原」と書いており「約一二〇キロ」という距離感に特段の違和感はありません。他の証言者の証言、あるいはネットの記事などを見ると、「約二六〇キロ」としているものも多いのですが、こちらは何らかの理由で「勘違い」が定着したものであると思われます。なお最初に紹介した常石敬一氏の記述「部隊から西へ二百キロほど」は、方向、距離とも微妙なところです。


 「マルタ」たちは、放射状に立てられていたベニヤ板に縛りつけられます。そして部隊員たちは、後方に退き、待機します。

郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

安達での「丸太」を使った細菌実験 − 弟の証言

 その日の実験に使われる地域の中心に、棒が一本立てられている。その中心から放射状に、あるものは一〇メートル、あるものは二〇メートルといったふうに、さまざまな距離をもった三六(幅三尺×長さ六尺)のベニヤの一枚板が立てられていた。

 ちょうど扉大のベニヤ板には、それぞれ二本の脚がついていて、その脚が地中深く埋められているのだ。

 覆面トラックから降された「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。

 「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(P95-P96)

 すべての準備が終わると、自分たちはトラックで約一五〇メートル後方に避退した。そこで、用意された防毒衣、防毒マスクを着用し、待機するのである

 「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。(P96)


 部隊の爆撃機が、「マルタ」たちの中心に、爆弾を投下します。

郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

 まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。

 爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、二〇キロ爆弾、三〇キロ爆弾を投下した

 「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。(P96-P97)

 

 飛行機が過ぎ去った後に残っていたのは、「爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあもこちからおびただしい血を流している者」という、悲惨な光景でした。

郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

 爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場に駆けつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。(P96-P97)

 そこは、「丸太」の地獄だった。

 「丸太」は」例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあもこちからおびただしい血を流している者 − あたりは、苦痛の呻き声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった

 そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土手の状態を調べている隊員もいた。

 自分たちもまた、てきばきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行なわれた。

 「丸太」は、死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた。それがすむと、自分たちは全員がその場で噴霧器のようなもので消毒され、隊に戻ることになる。

 部隊に戻ると、ふたたび消毒され、さらに消毒風呂、シャワーを浴びて者換え、ようやく解散となるのだった。

 自分が耳にしたところでは、死んだ「丸太」も負傷した「丸太」も、それぞれ専門的に検査され、死体は消毒のあと、焼却場で焼かれるとの話だった。(P97)


 「弟」はこれを、「細菌爆弾の効果測定」実験であった、と推測しています。他の証言を見ると、「純粋に細菌の効果を見るために、爆弾で傷つかないようにマルタをガードしていた」とする証言が多いのですが、この実験ではそこまでの配慮は行われなかったようです。

郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

 こうした一連の実験が、細菌爆弾の効果測定のためであることは、疑いの余地はないと 思う。「口外無用」と命令されていたことや防毒衣、防毒マスクの着用、身体の厳重な消毒など、すべてのことが、それを物語っているからだ。

 さらに、この実験では、爆弾の効果をいかにして水平に拡大するかが、併せて研究されていたと思われる。(P97-P98)


 以上、体験談としては非常にリアルなもので、証言の信頼性は高いものと思われます。




 もう一つ、『真相・石井細菌戦部隊』に集録された、「写真班」員T・K氏の証言を紹介します。


郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

 安達の平原は「丸太」の血と細菌に染められた

 野外での実験には、部隊のあった平房から約一三〇キロ離れた安達の実験場が主として使われた。実験の目的は、P(ペスト菌)をつめた細菌爆弾の効果を各側面から調べることが多かった。

 Pを殺さずに広範囲にバラ撒くには、陶器製の爆弾が開発され、これを、どのくらいの高度で投下、爆発させればよいか、バラ撒かれたPは、被爆者にどの程度の感染力をもつのか等々が、くり返し実験されたのだ。

 出発は朝。幌つきのトラックに、「丸太」や資材を積んで、隊員は総勢二〜三〇人ぐらいである。写真班からは一名。予定は、ふつう二泊三日だ。

 安達の実験場は、広漠たる平原だった。ただ、半湿地帯なので、地面が凍る冬によく実験は行なわれた。冬といっても、雪が日本のように積もるわけではない。パサパサした粉雪が、うっすらと地表にかぶる程度である。

 実験の行なわれる場所は、だいたい決まっていて、そこには、土壁で造られた仮宿泊施設と二、三の掘立小屋みたいなものが建てられていた。

 トーピーズ(天日で乾した泥煉瓦)の壁に、コーリャン殻でふいた屋根の建物は、出動した隊員の仮宿泊所だった。たて五メートル、よこ一〇メートルほどの建物の内部は、幅一メートルほどの通路が走り両側に寝るようになっていた。床暖房のオンドルが備えられていた。アンベラを敷いた上に、隊員たちは、互いに足を向けあうようにして寝る。

 掘立小屋の方は、実験のために連れてこられた「丸太」の臨時監房で、内部には鉄格子がはめられていた。手錠、足錠をはめられた「丸太」は、ここで、まんじりともせぬ一夜を明かしたことだろう。(P28)


 こちらも「実験内容」は、航空機からの細菌爆弾投下です。マルタの「傷」の具合は、「弟」が体験したケースよりは浅かったようです。


郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

 安達での実験は、航空機から陶器製の細菌爆弾を投下したり、地上に仕かけられた爆弾を破裂を破裂させたりするものだった。いずれの場合も、「丸太」が標的にされた。(P29-P30)

 手かせ、足かせのうえに、立ったまま、さらにロープで杭に縛りつけられた「丸太」を、わたしは、16ミリのムービーカメラで狙う。一五〇メートルほど離れた位置である。

 やがて低い爆音が聞こえてくる。地上の無線との交信が、復唱されていやおうなく耳に入ってくる―「高度○○メートル。……投下!」鈍い音とともに、一群の「丸太」の頭上を煙が覆う。わたしは、懸命にネジをまきまき、フィルムをまわす。

 煙がはれてしばらくすると、「丸太」に接近して、損傷状態を撮る。細菌爆弾は、内部の菌を殺さぬように、特殊な爆弾であったが、直撃を受けると死ぬ場合もある。が、そのようなことは、めったになかった。

 無傷の者も多かった。破片で切りでもしたのか、血を流しているものもいるが、重傷ではない。しかし、それが表面的なものにすぎないことは、誰もが知っていた。彼らの体内深く、恐るべき細菌が注入されたのだ

 実験がすむと、手早く「丸太」を収容して、跡を残さぬようにかたづけると、急いで撤収するのである。

 「Pの攻撃」の時は、たいへんだった。全員、用意された防毒衣と防毒面を着用せねばならない。(P30)




 はじめて安達に行ったとき、わたしは、本部で目撃した光景とは比較にならないほどのショックをうけた。それは、医学研究的な雰囲気をとりはらった、いわば、処刑場的な風景だったからかもしれない。

 安達には、「丸太」ばかりでなく、牛を連れていったこともある。何の実験かは忘れたが、二、三〇頭の牛が安達にいた。この牛が、夜になると、狼に襲われるのだ。毎晩、何頭という牛が喰い殺される。狼は、牛のハラワタをひきずり出して殺してはいるが、別に食べている様子はなかった。

 補充しても、牛が次々にやられるので、とうとう、夜になると、周囲にかがり火をたいて、狼を防ぐことになった。その火が、漁火のように美しいので、「写真に撮ってくれ」と隊員たちに頼まれたのを覚えている。そのころカラー・フィルムはまだなく、モノクロ・フィルムしかないので、たとえ撮っても、白くわけのわからないものがうつるだけだ、と思いつつも、わたしは、頼みをきいてやった。(P31)

 安達から連れ帰った「丸太」は、やがて発病する。そして絶命、解剖。この時は、安達での「丸太」の位置や傷の程度等の記録を参照しながら、念入りに解剖が行なわれたようだった

 写真班員が安達に行くのは、ひと冬に、二、三回のものだったから、安達での実験は、それはどひんばんに行なわれたわけではないだろう。(P32)






 越定男『日の丸は紅い泪に』

 越定男氏は、石井四郎部隊長の専属運転手を務めていました。

 「731部隊」についての証言を始めたきっかけを、氏はこのように語っています。

越定男『日の丸は紅い泪に』

 三年前赤旗の日曜版に森村誠一氏の「悪魔の飽食」が連載された。私は興味を持って眼を通してみると、ずいぶん事実と違う所があるのに気付いた。第一に第七三一部隊の配置図が違っていたし、「丸太」運搬の特別車の説明が違っていた。またハルピンの忠霊塔の近くに「丸太」のたまり場があったとしてあるが、それは日本領事館の地下室であった。

 私はこれではいけないと思って、森村さんに電話をした。そんなことが縁で、森村さんに未公開の資料も提供することになり、「続・悪魔の飽食」に証言することにもなった。

 このことを通して、一層歴史の空白をきちんと埋めなければならないと強く自覚するようになった。歴史の空白は事実をもって埋めなければ価値がない。そのためには自分の身分、氏名を明らかにして証言に立つのだという決意をした。

 現に行なわれている第七三一部隊の証言の多くは仮名でなされている。名をかくしたい、かくさねばならないという気持ちは私にも痛いほどに分るが、一体身分をかくしていて、世間の人様に信じてもらえるものだろうか。いや信じてもらえるはずがないのだ。(P187-P188)

 


 余談ですが、氏が証言を始めると、「脅迫の電話や手紙が殺到した」とのことです。

越定男『日の丸は紅い泪に』


 ところがいざ身分を明らかにして私が証言を始めると、脅迫の電話や手紙が殺到した。なかにはわざわざ地獄の絵を書いて、「つまらぬ証言をすると地獄へ落ちるぞ」とか、「家族が怪我しないように気をつけろ」とか、またなかには「大切なことは魂を洗い清めること、○○教へ入って救われなさい」というのもあった。

 困るのは夜中の一時、二時にかかってくる電話である。なかには明らかに酒に酔っている者もいた。「売国奴」「気が狂っているんじゃねーか」「精神病院へ行ってみてもらえ」「ブッ殺スゾ」といったもので、その都度家内が心配そうな顔で「もういいかげんにした方がいいんではないですか。父さんの身の安全も考えてください」と声をかける始末だった。

 しかしこれらの脅迫より激励の方が多いことが私の救いだった。私の味方は多い、戦争反対の声の方が多い、私はこの激励でまた元気になるのだ。脅迫より嫌なのは、お前のやることは売名行為だ。どのくらい儲けたというものもあった。(P186)


 このあたり、「南京事件」についての証言者たちが大変ないやがらせを受けた事例を想起させられます。




 のちに氏は、自身の「部隊」での体験を、『日の丸は紅い泪に』という本にまとめました。この本に掲載された、越氏の「安達実験場」での体験を見ていきましょう。

 
越定男『日の丸は紅い泪に』

 安達実験場は、第七三一部隊のあった平房の北方約二百六十キロにあたり、車でたっぷり六時間はかかった。この実験場は、飛行場でもあり、十キロ四方に及ぶ広大な平原であった。

 朝四時に起き、真暗なうちに出かけても、実験が終って部隊に帰るのが、夜中の十二時、一時になった。

 また二、三日泊りがけで実験することもあった。(P88)

 目じるしもない大平原でのこと、わだちを追って車を走らせ、やっと安達実験場に着く。なだらかな斜面をバックでおりていくと、特別車の格納庫がある。格納庫のすぐ横に四寸角の木の格子がはめ込まれている半地下の牢獄がある。

 そこは三方土壁で囲まれ、アンペラの敷いてある暗い牢獄で、ちょうどテレビの時代劇に出てくる地下牢と同じだった。天井の上には土が積みあげられ、冬季だと雪が積もっていて、簡単に発見できないように工夫して造られていた。(P88-P90)

 格子の前には、これも戦国時代の合戦でみられるような鉄で組んだカゴに薪を燃やすかがり火がおかれている。これは明りとりと暖房をかねたものでであり、火は外からは見えにくい仕組になっていた。

 私はそこにマルタを受けとりに行く任務を持っていた。マルタを積み込んだ後、私は自動車のエンジンをかけっばなしにしながら暖をとり、特別車の運転台でよくねた。でもやはり熟睡はできず、時々荷台の方をのぞくと、かがり火に照らされた大きな黒いかげが、にぶい鎖の音をさせながら、うごめいているのが見えた。無気味だった。(P90)

※「ゆう」注 先の郡司本にに登場した「弟」の証言、「平房から約一二〇キロ」とは、距離感がかなり異なります。また方角も、今日の「安達市」はどちらかといえば「北東」です。実際に地図を確認すると、「弟」の証言の方がより正確らしいことは前述の通りです。

 ただし、安達実験場の「位置」に関しては疑問符がつくものの、以下の証言は詳細、かつ十分なリアリティがあり、証言のきっかけや他の証言との整合性、また氏の部隊でのポジションから考えても、「実験風景」についての証言内容は十分信頼できるものであると判断します。あるいは、全くの私見ではありますが、「安達」を冠する実験場が複数あった、という可能性も、完全には捨てきれません。


 「細菌実験」には、「細菌そのものをばら撒く」「細菌を詰めた爆弾を投下する」という二つのパターンがあったようです。(それ以外に、「ノミ」を撒いた実験があった、という証言もあります)

 越氏が最初に取り上げているのは、「マルタ」に細菌をふりかける「雨下実験」でした。 「爆弾」を使用しない、純粋な「細菌吸入実験」です。

越定男『日の丸は紅い泪に』

トタンの詰襟

 安達実験場では、ペスト菌かコレラ菌の雨下実験があった。

 飛行機が超低空で飛んできて、十字の木にしばりつけられているマルタの上を、くり返し旋回する。直接よくは見えないが、飛行機に積んだ細菌のカンが開かれ、細菌が霧状になってゆっくり降下する。この場合、細菌がマルタにふりかかって、その吸引効果を見る実験なので、何としてもマルタが菌を吸いこむ必要がある。そのため、マルタの首に部厚いトタンでつくった詰襟、つまりカラーが巻かれるのだった。(P91-P92)

 厚いカラーであるから、マルタはどうしても頭を上に向けざるをえない。細菌雨をさけようとしてうつ向けば、トタンが首にくい込むしかけになっている。どんなにこらえても、雨下実験中何度か呼吸をし、超低空の爆音に脅やかされて、何度か眼も開かざるをえない。私は、その実験をみていて、誰が考え出したのかしれないが、「よくもまあここまで……」と思ったものである。

 こうした実験は後が大変である。細菌には免疫というものがあるから、すぐその場で死ぬことはない。マルタを再び車に全部つめ込んで帰らねばならない。

 平房の部隊にたどりつくのは大低深夜である。同乗の憲兵もおりて官舎へ帰ってしまう。特別班が待っていて、マルタを受けとり、ロ号棟の独房へもどす。免疫後の発病状況を、子細に見守る仕事が待っているわけである。

 所どころ警備灯がついているだけで、寝しずまった舎屋の中で、ロ号棟へのしきりとなる鉄の扉が、大きな音をこだまさせて閉まる。続いて鉄鎖を引きずる音が、無気味な余韻を残して伝わってくる。

 やがて、警備班の人かげも消えて誰もいない暗いしじまの中で、私一人が車を格納し、片づけねばならない。すべての仕事を終え、外灯の下をコツコツと靴音を響かせて歩く。いまは不夜城を誇る七三一部隊官舎の灯も、さすがに消えて、ただひとり帰る。こういう時ばかりは、ひしひしと孤独を感じたものである。(P93)





 越氏はまた、安達実験場での「マルタの逃亡事件」について語っています。 これは、「悪魔の飽食」でも紹介されたエピソードです。


越定男『日の丸は紅い泪に』

 昭和十九年、終戦前年の二月か三月だったと思う。新雪が凍土に薄く積もっていた。その日は安達実験場でペスト弾を使って感染度をみる試験の日であった。

 飛行機でマルタを運ぶ場合は、手錠足錠をかけ、怪しまれないように軍属の服を着せ、その上に頭から袋をかぶせて運ぶ。この場合十本運ぶのが限度である。しかし、米国ゼネラルモータースのダッチブラザースという特別車だと、四十本は運べるのだ。当日、私はその特別車で、四十数本のマルタをつめこんで、実験場へ向かった。

 細菌爆弾の実験で、もっとも気を使うのは、汚染を防ぐことである。このため吹流しを掲げて風の流れを確認し、私たちは三キロも風上で双眼鏡で見守っている

 実験はほとんど冬期で、零下四十度、五十度の吹きっさらしでやるわけだから、土を掘るまでもなく、十字の木を立て、根元に水をかければたちまち凍って固定する。それにマルタを結いつける。マルタ四十本を円状に並べ、円の中心に細菌爆弾を二つ置き、五キロもの風上から電気着火で破裂させる。

 ペスト弾は破弾といって、高射砲のように弾丸が細かく飛ぶようになっている瀬戸物弾丸である。瀬戸物の弾丸は火薬が少なくてすみ、中に入っている菌も死なず、証拠物件も残らないという七三一部隊でつくり出された特有のものである。(P127-P128)

 マルタは鉄帽をかぶり、前の部分に鉄板のプロテクターみたいなものをつけている。弾丸の破片で死んでは、細菌の効果がみられないからである。(P128)


 逃亡しようとしたマルタたちは、「ペスト弾」実験の被験者でした。爆弾そのもので傷つかないように、彼らは「鉄板のプロテクターみたいなもの」で保護されていたようです。

 越氏らは、「三キロも風上」で待機します。しかし爆発前、たまたま縛めがほどけたマルタが逃げ出し、次々と他のマルタのロープを解き始めました。

 越氏はあわてて車に飛び乗り、「機密保持」のため、逃げ出したマルタたちを片っ端から車ではね殺します。


越定男『日の丸は紅い泪に』

 その日、私も爆発の瞬間を今か今かと待っていて、双眼鏡でのぞいていた。すると異様な光景が映ってきた。二、三人のマルタが逃げ出し、次々と他のマルタのロープを解きはじめたのだ。そして彼らは、プロテクターを投げ出し、たちまち四十本全部がチリヂリバラバラになって逃げ出したのである。

 これはどえらいことになった。二十人ほどの隊員はただ右往左往するだけである。すると憲兵がまっしぐらに私たちの所へ走ってきて、「車でみんなつぶしちゃえ」と叫んだ。

 感染を怖れて、警備隊は三キロも離れているうえ、実験中のことなので、手元に武器もおいていない。

 隊員たちは、憲兵のいうことものみこめず、武器がない不安から、腰が落ちつかなかった。(P128)

 私はすぐに憲兵のいわんとすることがわかり、車にとび乗った。ダッチ・八十五馬力のエンジンは悲鳴をあげ、スピード四十キロから五十キロでマルタを追った。

 私は無我夢中だった。この時、これから、私自身が殺人を犯すのだという苦悩などまったくなかった。ただ逃げられてはまずいということだけだった。私はとりあえずマルタに車のバンパーをぶっつけていくしかないと思った。

 まず逃げ足の遅れたマルタをとらえた。真正面に必死で逃げるマルタを確認すると、一杯にアクセルを踏んだ。特別車のボンネットは一メートル五十センチと高いので、ぶっつけられたマルタは大低車の下にもぐる。柔かいゴトゴトというようなショックが、私たちにも伝わってきた。それが一人目だった

 以後私は殺人鬼のような形相でハンドルを回していったように思う。

 時には私がひるむと、憲兵の厚い大きな手が直接ハンドルにかかる。車は横倒しになりそうなほど急カーブを切る。前輪でマルタの背後からひっかける。ふりむくマルタの恐怖でひきつった眼、大きく開けた口をめがけて車をぶつける時は、さすがにプレーキを踏んだ。(P131-P132)

 うめき声や悲鳴が時々エンジンの音をこえて耳に入る。人間という動物はもろいもので、そのまま血を吐いて動かなくなる。私たちはこの時、とにかく逃げられては困る。相手を捕えなかったらこっちが腹切りものだと思って必死だった。

 最後の一本まで車を止めることはできない。新しい雪の上にマルタの血が憤き出し、染まる。はらわたを出したマルタ、虫の息のマルタも目に入る。おそらく車でつぶしたマルタは三十本余はあったと思う

 そうして、つぶしたもの、半死半生になっているもの、うめいているもの、血を吐き続けているもの、それらを一本一本始末しなければならなかった。

 憲兵と力を合わせて、マルタの足錠のくさりと肩をつかんで、反動をつけて荷台にほうりあげるのである。死にきれぬものは収容所にほうり込み、あとはすべて解剖に廻す。すべてが終った時はくたくたになり、膝元がふるえ、手腕がしびれた。バンパーやタイヤに毛髪や血のついた肉片がぐびりついていて、事件のあとをとどめていた。

 現場は殺気だって、演習どころではなく、マルタの処理でその日は終りになった。すべて片付いた時は「これでよかった」というほっとした気持ちだけであった。

 マルタを逃がして、七三一部隊の秘密が、中国やソ連にばれたら大変なことになる。私はとにかくふみつぶすしかなかったのだ、と自分にいいきかせた。万一逃がしたら、七三一全部隊の大出動で、草の根をわけても一人ひとり探し出し、殺しただろうし、おそらく警備責任者は厳しく処分されたろうと思う。(P132-P133)

 そんなことで「よかった」としか思えない当時の私だったのである。(P133)


 かくして、マルタたちの「逃亡」は失敗に終わりました。


※なお、先程紹介した写真班の「T・K」氏は、この「逃亡事件」の存在に疑念を呈しています。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

 ところで、安達の実験場で、数十名の「丸太」が逃亡したという話があるが、わたしは、まったくそれを知らない。

 
手かせ足かせのうえに、ロープで杭に縛られた「丸太」が、一五〇メートルくらい離れたところから武装した隊員が見守っているなかで、自らのいましめを解き、他の「丸太」まで解放して逃げられるものかどうか、現場の状況を知っているものとして疑わしく思う
。あるいは、別の場所での出来事か。(P32)


 T・K氏自身は、「一五〇メートル」の距離で「実験」を見守った体験を語っていますので、「この距離で逃亡できるはずがない」と判断したものと思われます。

 しかし 実際に越氏の文を読み直すと、「
私たちは三キロも風上で双眼鏡で見守っている」と述べています。広範囲に細菌が広がる可能性を怖れ、「待機距離」を大きくとったものであるようです。これだけの距離があれば、越氏が述べたような「集団逃亡」は十分可能でしょう

 なお、二人の証言者の間で平房から「安達実験場」までの距離が大きく異なることを考えると、「あるいは別の場所での出来事か」というT・K氏の「感想」も、可能性がないこともないのかもしれません。





 その他の元部隊員たちの証言


 「安達」は大規模な実験場であっただけに、それに関わった隊員たちの証言は多数見られます。その中の主なものを、以下、紹介していきます。

 航空班の松本正一氏は、自ら「陶器爆弾」や「ハ弾(細菌弾)」を投下した体験を語ります。なお松本氏は、「細菌戦裁判」で証言台に立つなど、有力な証言者の一人として知られます。

航空班・松本正一証言

マルタを使った陶器爆弾実験

 「七三一部隊の飛行場から四〇分も飛ぶとすぐ安達(アンダー)の実験場へ着きますよ。私らが行くと、下には『マルタ』が杭に縛りつけられているのが見えます。そこヘウ弾を落とす。ウ弾と私らは呼んでいたけどウジ弾ともいっていたね……」(P144-P146)

 七三一部隊から北西へ約二六〇キロの所(現在の大慶油田の近く)に七三一部隊専用の特設の実験場「安達実験場」がありました。そこでは中国人捕虜たちを使ってのさまざまな細菌投下実験が行なわれたのですが、松本さんは腸チフス菌を充填したウジ弾(宇治式陶器爆弾)の実験に参加したのです。

 「『マルタ』たちは部隊から車で運ばれてくる場合、その場合は八時間くらいかかったが、飛行機で運ぶ場合とがあったね。飛行機のときはせいぜい一〇人くらいを運んだと思いますね」

 運ばれた「マルタ」たちは、広い実験場の原野に一定の間隔で点々と木の杭に縛りつけられていました。そこへ飛来した松本さんは通常の爆弾と同じような方法でウジ弾を投下しました

 ウジ弾とは石井四郎が開発した陶器製の爆弾のことです。石橋証言にもあるように弾体の溝に火薬がセットされていて、投下後一定の高さに達すると自動的に点火されて爆破する仕組みになっていました。爆破によってなかに充填されている細菌が飛散するのです。(P146-P147)

 細菌を浴びせられた「マルタ」たちは、その後、再び車に乗せられ七三一部隊の監獄に収容され、経過が観察されることになりました。

 ほかに松本さんは、当時ハ弾と呼ばれた細菌弾の実験も行なわれたことを語っています。ハ弾とは、やはり陶器製で弾体のなかに細菌を塗った細かい玉を入れておき、爆破によって飛散したその玉が皮膚を傷つけ、そこから細菌を感染させるというものでした。

 「あの細かい玉はたしか真ちゅうでできていたような気がするね。黄色い色をしていた。塗られていた菌は炭疽菌だと思いますね」

 この話は、やはり安達で、炭疽菌による陶器爆弾の実験に立ち会ったとする柄沢十三夫の証言(前章で紹介したハバロフスク裁判証言)と同じ場面のものと思われます。(P147)

(森正孝『いま伝えたい細菌戦のはなし』より)




 次に、1938年に「少年隊員」として入隊し、その後高橋班(ペスト研究)に配属された、鎌田信雄氏の証言です。

 「安達実験場」に隣接する実験場での「毒ガス実験」に触れています。また「細菌」については、単純に菌そのものをばら撒く「雨下実験」、また「ノミの投下」、「陶器爆弾」という、すべてのパターンを経験したようです。

鎌田信雄『生体解剖をやらされた』

毒ガス実験

 ハルピン市の郊外には、毒ガス実験場が何ヵ所かありました。安達実験場の隣に山を背にした実験場があり、そこで行なわれた生体実験に使役として立ち会ったことがあります。私は安達実験場にも二回ほど行きました。そこでは、何日かおきに何らかの実験を行なっていたようです。

 あるとき、毒ガスの人体実験が行なわれたことがあります。二、三〇人の"マルタ"が木柱に後ろ手に縛られて固定されているところに、毒ガスのボンベの栓の口が開かれました。その日は、関東軍のお偉ら方が大勢視察にきていました。竹田宮もきていました。(P51-P52)

 一週間以上も前から、気象班が風向きや天候を調べていまして、この日は大丈夫ということだったのですが、そのうち風向きが変わり、視察している人たちの方に流れてきて大騒ぎで逃げたわけです。それで中止になりました。

 チフス菌とかコレラ菌を飛行機からばら撒く"雨下実験"もありました。航空班とその細菌を扱うことのできる者が飛行機に乗り込んで、上空から細菌を撒くわけです。その後、どのような効果があるか、雨下した場所に調査に入るわけです。

 ペスト菌の場合はノミを介してやる。陶器爆弾を使ってやったこともありました。ペストに感染したネズミ一匹が六〇〇グラムぐらいだったか、だいたい三〇〇〇〜六〇〇〇匹くらいのノミをネズミにたからせて、それを落とすから、地上でノミがちらばるというわけです。(P52)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)




 TBSテレビのディレクター、吉永春子氏は、「レントゲン班の班長」の証言を発掘しています。この証言は、「一九七六年八月十五日の(731部隊)二回目の放送の大きな柱となった」(P105)とのことです。

吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 七月に入ると放送まで一か月半となった。取材も最終段階に入ったが、研究班の取材は一向に進んでいなかった。私はレントゲン班の班長浅田剛(仮名)の取材を考えたが、期待は全く持っていなかった。むしろちょっとのぞいてみるかといった気持ちの方が強かった。(P99)



「後はどんな実験がありましたか」

安達で爆弾の実験もありました

囚人を並べておいて、飛行機の上から細菌爆弾を落下し破裂させる実験ですね」(P102)

「そう。爆心の近い所から、○、一、五、一〇メートルと柱に丸太を結わえつけてね。それに上から細菌をつんだ爆弾を落とす。爆撃するのです」

「つまり爆心地からの距離によって、細菌の汚染状況がどのくらい違ってくるのかを調べるのですね」

「そう。爆撃すると丸太達は兵隊の服装をしているんだが、近い所の者は裸になってしまったり、吹っ飛んでしまう者もいる」

「服もボロボロですか」

「そう。どういう被害が出るのか見てたんです」

「その実験はしょっちゅうやっていたのですか」

「いや、定期的にやっていたようです」

「ご覧になったことがありますか」

「一度行きました」

「すごい実験でしたか」

「もう凄惨というか、ああいうものは見れないですね」(P103)





 気象班・西島鶴男氏は、西里扶甬子氏・太田昌克氏の二人のジャーナリストのインタビューに答えています。

西島鶴男証言

 大阪の下町で隠居生活を送る西島鶴男は、七三一部隊の航空斑気象班に属していた。安達実験場での細菌の雨下実験には、風向き・風速などが非常に重要な問題だったから、しばしば参加した。そして、実験場に杭に縛られて並ぶ「マルタ」の姿を目撃した。


 細菌の培養液を爆撃機の爆弾倉に詰めて、五〇メートルくらいの低空から雨下(撒き散らす)するんです。地上にはですね、三〇人くらいの 「マルタ」がですね、五メートルおきくらいの鉄道の枕木みたいな杭に後手に縛り付けられているんです

 連中だってもう知ってますからね、そんなもん吸い込んだらすぐに死ぬこと分ってますからね、目つぶって口を閉じて息止めて吸いこまんようにするでしょう? けどね、それじゃ実験にならないですからね、一人一人特別班の者が傍についていてですね、ピストル突き付けてね、上向いて口開けろといってやらせるんですね。特別班はみんな千葉県出身の兵隊の下士官あたりでしたね。

 実験が終わったらすぐに連れて帰るんです。菌によりますが、二日目とか三日目には全部発病しますからね。何日経ったらどういう症状になるとか、データをとってる訳ですからね。

 「マルタ」の輸送は普通行きも帰りも幌のかかったトラックに放りこんでましたね。一見すれば普通のトラックですけど、実は宅急便の保冷車ってあるでしょう? ああいう頑丈な窓のない鉄の箱ですわな、それに幌がかかっているんです。

 そりや我々のような気象班でも厳重な防菌服を着てましたよ。マスクは普通のを使ってましてね、新米の中尉さんがうっかりマスクをはずしたものだから、細菌に感染して死にましたね。そんな実験はしょっちゅうやってました。
(P170)


(西里扶甬子『生物戦部隊731』より)


太田昌克『731免責の系譜』

 三八年秋に部隊気象班に配属された軍属の西島鶴雄(一九一二年生まれ)は、平房の部隊本部から二〇〇キロ以上離れた安達実験場での雨下実験に何度か立ち会った。気象班は飛行班の「班内班」で、毎日天気図を作成するのが任務だった。彼の証言を引用したい。


 安達の演習へはよく行った。飛行機にも乗ったことがある。演習では毎回一〇−一五人、多いときで二〇人くらいのマルタが本部からトラックで運ばれていった。(マルタは)手錠や足かせをしている。

 枕木が五メートルおきに立っていて、そこにくくられる。そこへ飛行機で赤痢、チフスを雨下投下した。(細菌にさらされるようにマルタは)みんな上を向かせて、嫌がる者は銃剣でぶん殴る。そして本部に連れて帰り、何日後に発症するか観察する。


(P101)



 興味深いのは、細菌を吸わせるために、「ピストル突き付けて」「上向いて口開けろ」と命令していることです。

 越氏の証言では、「マルタの首に部厚いトタンでつくった詰襟、つまりカラーが巻」いて無理やり上を向かざるを得ない体勢をつくっています。越氏証言の方が、よりソフィスティケートされたやり方、ということかもしれません。




 最後に、高知新聞社が取材した、尾原竹善氏の体験です。取材内容をまとめた『流転 その罪だれが償うか』は、第四十回日本ジャーナリスト会議賞を受賞しています。

高知新聞社『流転 その罪だれが償うか』

「なだらかに下った草原の真ん中に、十字架があったんです」

 途切れがちに、尾原さんは再び話し始めた。

 昭和十八年春、自分が培養した炭疽菌の人体実験に、立ち会った日のことであった。

 数十人の部隊員とともに軍用車で約三時間かけて、広大な草原にたどりついた。安達の特設人体実験場だった。十字架が二十くらい輪になって並んでいた。

「人が縛り付けられちょった。日本の軍服を着せられた中国人らじゃった。私らは防毒服に着替えました。消毒班員として実験後、消毒液をまけということじゃった…」

 実験は爆弾に詰めた炭疽菌などを傷口から感染させるというものだった。

 やがて軍用機が飛んできた。輪の真ん中に爆弾が落ちた。縛られた人たちは破片を浴びて、血だらけになった。体をくねらせて苦しんでいるのが見えた。

 特別班員が出てきて、被験者たちを車に乗せ、解剖室のある小屋へ運び込んだ。生きたまま解剖されるのだった。尾原さんたちは駆け寄って、地面に消毒液を噴霧した。散らばった爆弾の破片、肉片を拾い集めた。頭の中は真っ白だった。(P60-P62)

「ショックじゃった。かわいそうじゃった。同じ人間じゃのに、何ということをと思うた。悪いことをしたわけではあるまいに」。尾原さんはうつむいたまま顔を上げなかった。

菌の多くは炭疽菌じゃった。消毒班は一番前で見ておったから、苦しむのもよう見えた。あがく顔がね…。あの光景は頭にこびりついて、脳みそに焼きついて、私はどうしたち、よう忘れんの」

 尾原さんは十九年の春まで、安達の実験に七回参加した。一回につき三日から一週間、現地の宿舎に泊まり込み、何百人もの人がもがき苦しむ姿を繰り返し見続けた。

「上司の命令じゃった。仕方がなかった。私はためらわんようにした」。尾原さんはこの言葉を度々口にした。

 しかし、それはだれかに責任を転嫁するために言っているのではないことに、途中から気付いた。そう口にすることで、尾原さんは自分自身を責めていた。ためらいのかけらを見せず、上官に従った自分を責め続けていた。(P62)


 この体験は、尾原氏に、大変なトラウマをもたらしました。五十年間にわたり、氏は、「悪夢」に「うなされ続けた」そうです。


高知新聞社『流転 その罪だれが償うか』

 彼がうなされ続けた夢は、安達(アンダー)の細菌爆弾実験だった



 「暗い野原におった。目の前には十字架が輪になって立っておって、二十人ばかしの中国人やロシア人が、縛り付けられちょる。いつもどこからか軍用機が飛んできて、爆弾を輪の真ん中へすうっと落とす。爆弾は破裂して、血だらけになった人たちがあがく。あれは私が立ちおうた人体実験の夢でした」(序文)





4  「ババロフスク軍事裁判」より


 「ハバロフスク軍事裁判」でも、多数の被告、証人が、「安達実験場」の実験について触れています。これらの証言は、これまで紹介してきたような一連の証言と特段の齟齬はなく、「ハバロフスク裁判」の証言が比較的正確であったことを裏付ける形となっています。

 ここでは、コメント抜きで、関連証言を並べます。


被告川島清の尋問調書

 第一部の各実験室にて行われた実験以外に、第七三一部隊特設実験場及び戦場に於ても、生きた人間を使用する実験が行われました。私も一度、生きた人間を用いた実験に参加したことがあります。

 一九四一年六月私は他の部隊員等と共に、安達駅附近の部隊実験場に於けるペスト蚤を以て充填せる爆弾の試験に参加しました。同実験により、柱に縛り付けられた一〇名乃至一五名の囚人に対する細菌爆弾の作用が試験せられたのであります。此の実験に当っては、合計一〇箇以上の爆弾が飛行機より投下せられました。(P77)

 私は、庶務部長として同実験に参加したのでありますが、参加の目的は、実験の準備状況並びに私の起案せる、実験に関する第七三一部隊長命令の遂行状況を査閲するにありました。夫れ以外に私は、製造部長として同実験に関心を持って居ました。併し実験の実際指導は第二部長太田大佐が之を担当しました。(P78)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問


(問) 実験室の条件に於ける実験の外に部隊で、生きた人間を使用する他の実験が行われていたか?

(答) はい、野外の条件に於て行われていました。

(問)その実験は何処で行われていたか?

(答) 安達駅にあった特設実験場で行われていました。(P306)

(問) これらの実験に関して貴方の知っていることを全部述べて貰いたい。

(答) それは、私が第七三一部隊勤務を任ぜられてから間もなく、即ち一九四一年の夏のことでした。安達駅でペスト蚤を充填せる「石井式」陶器製爆弾の使用実験が行われました。

(問) 供述を続けて貰いたい。

(答) 実験に使用された場所は入念に警備され、其処を通過することは禁止されていました。其の周囲には、特別な歩哨が立ち、局外者が誰も其処に行けない様に警備していました。(P306-P307)

 この実験に使用された一五名の被実験者は部隊構内の監獄から届けられ、実験が行われていた地域で特別に地中に埋めた柱に縛りつけられていました。飛行機が容易に方位を定め、容易に特設実験場を認め得るために特設実験場には旗が掲揚され、煙を昇らせました。

 平房駅から特別飛行機が飛来しました。飛行機は実験場地域上空を飛行し、実験場の上空にきた時二〇個ばかりの爆弾を投下しましたが、爆弾は地上一〇〇乃至二〇〇米の所に達せぬ内に炸裂し、中から爆弾に充填されていたペスト蚤が飛出しました。此等のペスト蚤は全地域に蔓延しました。

 爆弾投下が行われた後、蚤が蔓延し、被実験者を感染させることが出来る為、相当の時間待ちました。其の後これらの人間を消毒して、飛行機で平房駅の部隊構内監獄に送り、そこでこれらの人間がペストに感染したかどうかを明らかにするため彼等に監視がつけられました。

 此等の実験の結果について申上げたいことは次の事であります。

 即ち、実験の責任指導者太田大佐の言から私が知っていることは、実験は好結果を生まず、是れは高温、即ち非常な暑さに起因するもので、その為蚤の作用が非常に弱かったということであります。この実験について私が言える事は、これ丈であります。(P307)

(問) この実験に関する命令を作成したのは誰か?

(答) これに関する命令を作成したのは第二部長であります。庶務部長、即ち部隊の書記部長として私はこの命令を閲覧し、裁決を受けるため部隊長に提出しました。部隊長は命令を裁決しました。

(問) 特設実験場の条件下では如何なる細菌が最も屡々実験されていたか?

(答) ペスト菌であります。(P308)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


梶塚隆二の訊問調書

 夫れ以外に北野(正次。元731部隊長)は、安達駅附近に於て炭疽菌を装填せる時限爆弾の実験が行われたこと、其の破片は人間や動物を傷け、炭疽菌に感染せしめたことを私に語りました。

 北野の言葉に依れば、部隊内には伝染病に対する人間の感染性の研究に関する実験が開始され、病理学者たる部隊研究員川上・ゼン博士が其の指導に当りました。此の研究は健康なる日本人及び中国人の血液検査を以て開始されましたが、川上が死亡したため中止せられたのであります。(P140)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 安達駅の特設実験場に於ける実験について貴方の知っている事を全部述べて貰い度い。

(答) 安達駅は、哈爾濱から一四六キロメートルの地点にあり、その近辺に部隊の特設実験場が有りました。此の特設実験場で、第二部が野外の条件下で各種の実験を行っていました。(P354-P355)

 第七三一部隊長の命令で、一九四五年一月私は安達駅に赴きました。ここで私は第二部長碇と二木研究員の指導下に、ガス壊疽菌による感染実験が如何に行われていたかを見ました。

 此の為に囚人が一〇人使用されました。此等の人々は柱に面と向って縛りつけられ、相互の間隔は五乃至一〇メートルでした。囚人の頭は鉄帽で、胴体は楯で夫々覆われていました。

 身体は全部覆い隠され、只臀部丈が露出されていました。感染の為に約一〇〇メートルの所で電流によって榴散爆弾が爆発せしめられました。一〇人共全部露出部分に負傷しました。

 此の実験が終了した後一〇人共、特別の自動車に乗せられ、再び平房駅の監獄へ運ばれました。

 後に至って、私は碇及び二木研究員に、結果について質問しました所、彼等は、一〇人全部負傷し、ガス壊疽に感染されて死亡したと語りました。(P355)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


被告柄澤十三夫の尋問調書

 私の指導下に製造せられた細菌は、安達駅の部隊特設実験場に於て野外条件下の細菌撒布方法研究の為の試験が行われた際に使用せられました。斯かる試験が行われた際に、「丸太」と呼ばれる生きた人間が使用せられたのであります。

 私は部隊に勤務中、部隊構内に特別監獄があり、其処に実験の後殺害さるべき被実験者が収容されて居る事を知って居ました。

 安達駅特設実験場に於ける試験は間断なく行われました。私は斯かる試験の実施に直接二回参加しました。即ち第一回目は一九四三年の終りで、第二回目は一九四四年の春でありました。(P91-P92)

 右の何れの場合にも、中国人らしき十名の被実験者が特設実験場に送致せられました。是等の被実験者は試験の実施前に、地面に打込まれた柱に縛り付けられ、次いで彼等の近くで細菌爆弾が破裂せしめられたのであります

 私の述べた第一回目の試験が実施せられた結果、被実験者の一部分は炭疽に感染されました。後に私の知ったところに依れば、彼等は其の後死亡したとのことであります。

 私が以上の如く二回に亘って安達特設実験場に赴いた目的は、現場に於て、即ち試験実施の際に、私の製造せる細菌の効力を確めるにあったのであります……(P92)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


証人古都の尋問

(問) 安達駅附近の部隊特設実験場での実験に就いて貴方は何か知っているか?

(答) はい、知っています。

(問) 貴方が知っていることを裁判官に話して貰い度い。

(答) 安達特設実験場での実験は、一九四四年の秋と冬に行われました。其の時、チブス菌及びペスト菌が使用され、炭疽病菌も使用されました。(P464)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  

(2018.5.5)


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