朝枝繁春=ソ連スパイ説


※本記事は、『731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(12) 「家永教科書裁判」 秦郁彦証言の変遷』のサブコンテンツです。

 「きよみどん」氏はさらに、私のサイトで取り上げた朝枝繁春証言につき、朝枝はソ連のスパイだったという情報がある、という一点の材料のみで、その全否定を試みます

togetterまとめ『「731部隊犯罪」信者に反論してみたーー客観的証拠と言えるものは何も無い』より

で、ゆう氏提示の朝枝とは、ここに名が出ているソ連工作員でしたね。警視庁公安部『外事警察資料昭和 44 年 4 月ラストボロフ事件・総括』



「ゆう」氏サイト原理主義者らは、 ”共同通信社が伝えた”  ”ラストボロフ事件で日米が認定したソ連工作員による手記や発言(伝聞)を”  証拠だと主張して憚らないから話が合わないことと言ったら。 向こうが自信満々に押し通してくるので、これはもうナンチャラの壁。越えられない壁。
※ここに「伝聞」の語が見えますが、朝枝が語る内容は間違いなく自分の直接体験ですので、きよみどん氏は何か勘違いしているものと思われます。

 まず大前提の話ですが、例え朝枝が「ソ連のスパイ」だったとしても、その発言がすべて虚偽、ということはありえません

 例えば、ある大物スパイが、自身の『回顧録』を出版したとします。著者が「元スパイ」であった、という理由だけで、この内容がすべてウソである、と断定する方は、まずいないでしょう。あくまで、個別の「内容」を見てからの判断になります。

 『回顧録』を記すに当って、立場上書けないことがあったり、自分の手柄を誇張したり、記憶違いがあったり、ということは当然あるかもしれません。

 しかしそれは、どんな『回顧録』についても多かれ少なかれありうることであり、歴史家としては、書かれた内容につき、「どれが真実で、どれが怪しいか」という「史料批判」の手続きをきちんと行えばいいだけの話です。



 さて、改めて朝枝証言の内容を振り返ってみましょう。

 氏の証言は、要約すると、「朝枝は、終戦直前に満州に飛び、石井四郎・七三一部隊長に対し、地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください」という指示を出した」というものです。


 終戦時の「証拠隠滅作業」は、多くの元部隊員が口を揃えて証言するところです。私のサイトでも、終戦時、「マルタ」の「処分」の記事に、その概要をまとめてあります。

 そして石井自身が、恩師・清野謙次氏の通夜の席で、「証拠隠滅」の事実を語っています

「清野謙次御通夜回想座談会」より

「石井四郎」の発言


 その為に、ハルビンに大きな、まあ丸ビルの十四倍半ある研究所を作つて頂きまして、それで中に電車もあり、飛行機も、一切のオール綜合大学の研究所が出来まして、ここで真剣に研究をしたのであります。(P19)


 所がここで不意に中立条約を破つてソ聯が出て来た為に、この敗戦の憂き目を蒙りまして、部隊は爆発し、一切の今迄の何十巻にのぼるアルバイトも、感染病理に関する心魂こめて作つた資料も全部焼かざるを得ない、悲運に到着したのであります。(P19)

※全文はこちらに掲載しました。

(『続・現代史資料(6)軍事警察』(みすず書房)所収)


 さらに、朝枝と石井の面会は、石井自身が記した「1945−8−16終戦当時メモ」により裏付けられます。

青木冨貴子『731』

 関東軍に見放され辛酸をなめたおよそ一〇〇万を超える避難民に比べると、石井部隊がいかに優遇され、いかに手際よく撤収したか、石井の「1945−8−16終戦当時メモ」(以下、「1945終戦当時メモ」)には、そのディテールが克明に記録されてある。

 ノートの後頁には、八月八日より十四日の「御聖断」まで続く国内の動きが年表ふうに記されてあって、その下の段には部隊の動きが書き込んである。

 これを見ると、神出鬼没で掴みどころのなかった九日からの石井の行動がほぼ姿をあらわしてくる。そのなかには、東京から新京まで飛んできて、石井自身に面会、指示を与えた軍司令官についての記述もある。

 この軍司令官とは、参謀本部作戦課の朝枝繁春主任のことで、これまで朝枝の証言のみで伝えられた両者の面会が、石井側からも確認されたことになる

 その表は〈八月八日、ソ連対日宣戦布告〉の日からはじまる。表の下段には(十二班の破壊)と石井は記した。ソ連の一方的な対日宣戦が決まれば、東京の指令をあおぐまでもなく、ただちに平房で十二を数える重要な研究班を破壊する方針が決定していたことをものがたる。(P125)
 

 つまり少なくとも、…枝が満州に飛び石井に面会したこと、∪舒罎部隊として「証拠隠滅」を行ったこと、の2点は、石井側の資料でも裏打ちされたことになります

 朝枝の証言を全くの虚偽と決めつけることは、困難でしょう。



 さて次に、果して朝枝が「ソ連のスパイ」であったのか、という点を、資料により検討していきます。


 1954年1月、ソ連内務省所属の情報要員・ユーリー・ラストボロフは、在日米陸軍防諜部隊に保護を求め、米国に亡命しました。

 この時、陸軍少尉志位正二らがソ連の「協力者」であった、と判明しています。同じくソ連帰りの朝枝にも、「疑惑」が囁かれました。

 これに対して朝枝は、三根生久大『参謀本部の暴れ者』生出寿『元大本営作戦参謀 ビジネス戦記』という二つの朝枝へのインタビュー本の中で、自らの体験を明らかにしています。(詳細はこちらに掲載しました)

 要約すれば、

.シベリア抑留中、ソ連から「協力依頼」を受けた。断れば命の危険を感じた朝枝は、とりあえずこれを了承した。しかし実際に協力するつもりはなかった、

2.帰国後、朝枝はGHQと接触し、ソ連に「偽装協力」を約した旨を報告した。

3.帰国後は、ソ連とは一切接触はなかった
(『参謀本部の暴れ者』)。朝枝は、米国側の「キャノン機関」に「顧問」として協力することになった。(『ビジネス戦記』)

ということになります。

 つまり、氏自身の証言によれば、ソ連に対する協力は偽装であり、それどころか帰国後は米軍に協力する立場にあった、ということです。



 次に、「きよみどん」氏が「朝枝=ソ連スパイ説」の唯一の根拠としている、警視庁公安部『外事警察資料昭和 44 年 4 月ラストボロフ事件・総括』を見てみましょう。

 その内容は、進藤翔大郎氏の論稿『アメリカ国立公文書館(NARA)から見たラストボロフ事件』に収録されており、ネットで見ることができます。

進藤翔大郎『アメリカ国立公文書館(NARA)から見たラストボロフ事件』

朝枝繁春(大本営参謀本部付陸軍中佐)

警視庁公安部『外事警察資料昭和 44 年 4 月ラストボロフ事件・総括』 10

「朝枝は大本営参謀本部付陸軍中佐で昭和20年8月19日ソ連軍によって逮捕抑留 された。 彼はソ連側から数回取り調べを受けているうちソ連側の意図を察し帰国したい一心から諜報誓約を行い、帰国のシグナル(合図)、埋没などの訓練を受けて昭和24年8月7日引揚げた。

  引揚直後、教育されたとおり東京世田谷の松陰神社の石燈篭に記号を書き、同月12日には都内の墓場から 5 万円を掘り出し、昭和27年5月19日日本橋の“丸善” 2階で見知らぬソ連人から次回連絡についての指示を受けたがその後の連絡は行われなかった。」

「誓約後の諜報訓練 朝枝は誓約後昭和24年3月14日キリロフ中佐により、南樺太豊原のソ連極東情報 本部に連行され、3月18日から4月13日の間に政治思想の改造教育を受けたほか、
〇諜報活動方法
〇機密情報を無電で送るときに用いる暗号
〇東京における無電操作補助者との連絡方法
〇秘密通信の隠匿および連絡場所
〇必要があって無電技師と連絡する場合の新聞広告、郵便による通信方法

などについても教育訓練を受けた」

→酷似したケースに種村佐孝の場合 Cf. 種村佐孝 (参謀本部第 20 班(戦争指導)班長)


 ここでは朝枝がソ連から「諜報訓練を受けた」までで、帰国後の具体的な活動にはほとんど触れられていません。

 朝枝が言う通り帰国後は全く接触がなかったのか、この文書が伝える通り1952年まで一応の接触があったのかはわかりませんが、いずれにしても、「偽装協力」であった、という朝枝証言を覆すだけの材料は見当たりません
※なお、進藤翔大郎の別論稿『ラストボロフ事件および関・クリコフ事件』(京都大学大学院人間・環境学研究科『人間・環境学』第27巻 2018年)には、「NARA(米国国立公文書館)のRG319の個人ファイル(Personal Files)には約750枚に及ぶラストボロフの個人フォルダ(以下、ラストボロフフォルダ)ラストボロフの供述によってエージェントであることが判明した日本人のうち16名の日本人エージェントのフォルダが存在することが確認できた」(P184)とあり、その中の一名として朝枝の名前も挙げられています。

 ただしこれは、ラストボロフが朝枝の「偽装協力」を見抜けず、自陣営の「エージェント」の一人として認識していた、というだけの話と見るのが自然であり、これまた「朝枝がソ連のスパイであった」という証拠にはならないでしょう。


 さて、ネットで検索すると、もう一つ、「朝枝=ソ連スパイ説」を示唆する材料が発見できます。Wikipedia「朝枝繁春」の項ですす。(2020.10.24現在)


1954年(昭和29年)1月27日、駐日ソ連大使館のラストボロフ二等書記官がアメリカに政治亡命する「ラストボロフ事件」が発生。ラストボロフはソ連の日本における諜報活動の元締めであり、同年8月にアメリカはラストボロフの自白により、日本でのソ連の諜報活動の一端を発表した。このニュースが日本の新聞に掲載された際に、朝枝と志位正二が「自分はラストボロフに協力していた」として警視庁に自首している


 Wikipedeiaはその出典を「保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』」としています。しかし実際に保阪本を確認すると、該当部分は、松本清張『現代官僚論』の内容をそのまま紹介した部分でした。

 ここでは、オリジナルの松本本から、該当部分を紹介します。「内閣調査室」の活動について書かれた章の一部です。(より長い引用はこちらに掲載しました)

松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 二十九年一月二十七日に駐日ソ連元代表部のラストポロフ二等書記官がアメリカ側機関に逃亡した事件が起った。

 元代表部では逸早く束京警視庁にラストポロフの失踪届けを出したが、ラストポロフの自供がアメリカ国務省から発表されたのは七ヵ月後八月十四日の記者会見の席上であった。

 発表の要点は、「ラストポロフ二等書記官はソ連内務省所属の陸軍中佐で、日本で情報活動に従事していたが、自発的に米当局に保護を求めてきたものである。若干の日本人がラストボロフと関係がある。その中で自首した者もいる。しかし、日本政府高官は関係していない」(新聞報道)といったものであった。(P25-P26)


 若干の日本人がラストポロフと関係があったという自供発表は日本側に大きな衝動を与えたが、これがアメリカから打電されて日本の新聞に発表されたとき、素早く警視庁に関係者として自首して出たのが志位少佐である

 当局の捜査が発動してからならともかく、新聞記事を読んで逸早くラストボロフの協力者は自分であると名乗り出た志位元少佐の行動は不可解だ。

 つづいて前記の浅枝元少佐も同じく自首した。しかし、この二人がラストポロフといかなる協力をしていたかは遂に具体的に公表されなかった。(P26)

(文藝春秋社、1966年8月)

 ただし松本の記述には出典が附せられておらず、どこまでが事実なのかは判然としません。

 私自身、10編ほどのラストボロフ事件関連文献を集めてみました。たいていの文献は「志位元少佐の自首」には触れますが、「朝枝元少佐の自首」に言及しているのは、この松本本のみです。

 また松本自身、『日本の黒い霧』(上)(文春文庫)で「ラストヴォロフ事件」に一章を割いていますが、こちらでは、「志位少佐の自首」が登場するのみで、「朝枝」の名を見ることはできません。

 以上、「朝枝の自首」が事実であるのかどうかは微妙なところですが、例え「朝枝の自首」が事実であったとしても、先の朝枝証言と合わせると、「自首」というよりは、せいぜい「事情説明」に過ぎなかった、と判断するのが妥当でしょう

 いずれにしても、これもまた、「朝枝=スパイ説」の裏付けにはなりません。


 
 なお、朝枝を「二重スパイ」と見る向きもあります。

柴山太『日本再軍備への道』

 さらに、朝枝繁春元陸軍中佐(当時GHQの二重スパイ)がGHQに伝えたところによれば、(1950年)八月一日の共産党幹部との会話で、「高山」(日本帰還者同盟副議長の高山秀夫と思われる)と呼ばれる幹部がソ連からの帰還者による共産党への忠誠は信用ができるとし、同党の武装蜂起を示唆していたという。(P310)


 柴山氏は、「日本共産党に接触し、その情報をGHQに提供した」ことを「二重スパイ」と表現している模様です。出典は明記されていませんが、米国側文書であろう、と思われます。

 柴山本にはこれに続いて「高山」は朝枝に対して、武装蜂起の司令官に就任するよう要請していた」との記述があり、事実とすれば、朝枝が日本共産党側から強い信頼を得ていたことを窺わせます。

 しかしこれが事実だとしても、朝枝は「ソ連のエージェントのふりをして、実際には米国側に情報提供していた」という話であり、「朝枝がソ連のスパイであった」という話ではありません



 以上、「朝枝=ソ連スパイ説」をめぐる資料状況を見てきました。

 まとめると、朝枝をソ連のエージェントであったと断定することは困難であり(少なくとも本人は否定)、資料のうち最も「スパイ説」に近いデータを採用しても、せいぜい「ソ連には自分の側のエージェントと思わせておいて、実際には米国に協力していた」という話になります。

 「きよみどん」氏がおそらくイメージしているであろう、「ソ連の利益のためにだけ動くソ連のスパイ」では、決してありえません。



 繰り返しますが、朝枝が例え「ソ連のスパイ」だったとしても、朝枝が行った証言がすべて虚偽である、と決めつける材料にはなりません。

 この視点から朝枝証言を否定するのは、到底無理でしょう。

(2020.10.25) 


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