| トリミングと曲解と・・・ ―中川八洋『近衛文麿と戦争責任』(2)― |
前記事「あるいは共産主義者でいっぱいの日本 中川八洋氏『近衛文麿と戦争責任』」では、この本のエキセントリックな内容を紹介しました。 日本が泥沼の戦争に巻き込まれたのは、近衛文麿首相をはじめとした大勢の「共産主義者」の陰謀によるものであった。 氏の主張は大胆ですが、その論拠が具体的な資料を離れた「空想」であってみれば、まともな歴史学者から相手にされないのは当然のことでしょう。 さらに氏の本には、資料の強引な解釈、史実の捻じ曲げ等、杜撰あるいは乱暴な展開が目立つことも事実です。 本コンテンツでは、この本の問題部分を、私の目についた範囲で取り上げてみます。
尾崎秀実は、先のコンテンツでも見てきた通り、近衛ブレーン集団のうち、ほとんど唯一の「真性のマルキスト」でした。 ただし尾崎の使命は、あくまで「諜報活動」にあり、それ以外の「政治工作」などはモスクワから固く禁じられていた、と伝えられます。またそれをくつがえすような具体的なデータも、「南進論」問題を除き、存在しません。 (『「日中和平工作を妨害せよ」 太田尚樹『赤い諜報員』の「コミンテルン陰謀説」』参照) 尾崎自身も、次のように語っています。
しかし中川氏にかかると、この尾崎は、「中国との全面戦争」を煽り、「日中戦争が終結するのは絶対に阻むべし」という考えに基づいて「宣伝活動」を行っていた、ということになってしまいます。 以下、見ていきましょう。
さて尾崎は、具体的に、どのような「アジテーション」を行ったのでしょうか。中川氏の文を続けます。
「半植民地的・半封建的」「階級」「軍閥政治」などというのは、当時において、普通に「社会科学用語」として使われていたはずです。 中川氏のように、中国国民党を「貶める」目的である、とまで「深読み」する必要はないでしょう。 また実際に論文を読むと、後述の通り、「貶める」目的というよりは、むしろ「客観的分析」を主眼としている、と見る方が自然だと思われます。 つづく論文では、尾崎は、「ゲッペルスのごとく」「激しく執拗」に、「日中戦争を拡大せよ!!」「戦闘を長期化せよ!!」と「絶叫」しているそうです。
「絶叫と煽動」「ゲッペルスのごとくに激しく執拗」―お読みの方は、どんな論文を想像されるでしょうか。 おそらくは、「悪い支那をやっつけろ」式の勇ましい内容を思い浮かべるのではないか、と思います。 確かに、上の引用部分をつなげると、こんなふうに読めます。というか、中川氏はこう読ませたいのでしょう。 「局地的解決」や「不拡大方針」なんて、何の意味もない。いまや「武力をもって(中国を)制するしかない」。 そう、「日本の伸長せんとする力を阻止」しようなんてやつに対しては、日本は鉄槌を下してやるのだ。一局部の衝突だって、全支那に拡大すべきだ。 実際に、尾崎の論文を見てみましょう。最初の一文です。
だいぶ雰囲気が違います。今となっては、「局地的解決」「不拡大方針」など無理なものになってしまった。尾崎はそのように「客観情勢」を分析しているだけの話です。 中川氏は「ことになつてしまった」を省いて、あたかも尾崎が「局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさない」(から、すべきではない)と主張しているかのように偽装しているわけです。 さらに、これに続く「毒をもって制する方法しかない」「日本の伸長せんとする力を阻止せんとするものに対しては、日本の本能は或る場合は破壊力となつて爆破する」の部分は、 中川氏の書く通り「他人の論文の引用」であるに過ぎません。 中川氏は「尾崎はこれを「(この)論者の言は誤りではない」とはっきりと自分の意見でもあると明記している」と「解説」していますが、 実際にこの論文を読むと、尾崎は別にこの部分に賛同しているわけではないことがわかります。 これもまた、引用文中の過激な意見を尾崎自身の意見であるかのように偽る、中川氏のトリックでした。 *論文の該当部分を尾崎秀美論文集に掲載しておきましたので、関心のある方は、こちらでご確認ください。 実際問題として、尾崎は、蘆溝橋事件直後には、明確に「不拡大」の考えを持っていたようです。
上のエピソードは、革命の同志である川合貞吉の回想録にも登場しますので、比較的信頼性が高いものと思われます。
尾崎は、1938年6月頃、「武漢作戦」の前後には「対中強硬派」に転じた、と伝えられます(田中悦子『尾崎秀実の中国情勢の分析』)。 しかし「転向」後の論文にしても、素直に読めば、別にアジテーションを目的とするものではなく、あくまで「客観分析」を重視する学術的なものである、と見るのが自然でしょう。 いずれにしても、盧溝橋事件当初から尾崎が「アジテーション」を行っていたかのように描く中川氏の文は、「トンデモ」の域に入るもの、とは言えるでしょう。
近衛文麿が、若いころどの程度「社会主義」に傾倒していたのかは、微妙なところでしょう。思想は「内面」の問題であり、本人が語らない以上、外部からは「推察」するしかありません。 しかし少なくとも、首相になってからもなお「社会主義」一辺倒だった、と見る人はいないでしょう。近衛の思想については、私としては、次の杉森氏の記述が、最も妥当なもののように思われます。
上に見る通り、近衛が若い頃「社会主義」の影響を受けていたことは事実かもしれません。 しかし以下のように、「共産主義」に「傾倒」していた近衛が、「共産主義者」河上肇に学ぶために京都帝大に転学した、という中川氏の記述は、いささか書き過ぎです。
近衛の原文を見ると、中川氏が、こんな短い引用文の中でも、都合の悪い部分を適当にカットする「ぶつ切り引用」をやらかしていることに気がつきます。 青字が、上の中川氏の引用部分です。
もとの文を素直に読めば、近衛は単に「社会科学」の勉強のために河上を訪ねた、という印象になるでしょう。 自説に都合の悪い、 「極端に左傾してはゐなかつたやうだ」「実際運動には勿論携はつてゐなかつた」という部分を、中川氏は見事にカットしてみせました。 *さらに言えば、筒井清忠氏によれば、近衛は実態以上に河上肇との関係を強調している ようです。 筒井氏によれば、その動機は、「河上は・・・危険人物ではあったが、特権の多い京大(帝大)教授を辞して苦労の多い地下運動に入った人、口先だけではない人としてひそかに尊敬を集めていた人物でもあった。従って、 河上=近衛の近接性の提示が「弱者の味方」というイメージに・・・連なることが期されていたように思われるのである」とのことです。(筒井清忠『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』P21)
近衛文麿の長男、文隆は、戦後シベリアに抑留され、1956年に「病死」しました。その死因については不明な点もあり、ソ連による「謀殺」ではないか、との疑いも捨てきれません。 しかし、次の中川氏の一文は、書き過ぎです。
「抑留」自体が「拷問」である、と強弁するのであればともかく、「拷問」が近衛文隆の死因であった、という「中川説」には何の根拠もありません。 例えば、近衛と同じイワノボ収容所に収容されていた、三友一男氏の証言を見ましょう。
収容所内では、死因は「脳出血」である、と認識されていました。 また三友は、この本の中でイワノボ収容所での暮らしぶりを詳細に語っています。将官向けの収容所だったため、ソ連の他の収容所の「悲惨」からはほど遠い、優遇された環境だったようです。 三友によれば、労働のノルマもなく、ブリッジ・麻雀などの娯楽も盛んで、また食料も収容所仲間のドイツ人たちからの「おすそ分け」で十分なものであった、とのことです。とても「拷問」が行われる雰囲気には思われません。
念のためですが、三友はソ連に捕まった初期、「アクチープ(共産主義煽動者)として各収容所をオルグしていた」時期がありました。しかしソ連の現実を見て、のちには批判的な立場に転じています。
なお右派論客として知られる工藤美代子氏は、文隆の弟道隆氏の言葉として、毒殺されたのではないか、という疑いを語っています。ただしその根拠は弱く、工藤氏ですら、「疑問」のレベルを超えようとはしません。
なおこの工藤氏ですら、「拷問」の疑いなど一言も語っていません。「拷問死」云々は、中川氏の根拠なき暴走でしょう。
近衛が私的なパーティーでヒットラーの扮装をした、というエピソードが存在します。 実態を知ってみれば他愛のないエピソードなのですが、中川氏はこれを、近衛がヒットラーを「心から憧憬し範とした理想の政治家」と考えていた、という根拠にしてしまいます。
しかし実際には、これはこの程度の話であったようです。
中川氏の書きぶりは、想像力過多、と言わざるをえないでしょう。 |