トリミングと曲解と・・・

―中川八洋『近衛文麿と戦争責任』(2)―


 前コンテンツ「あるいは共産主義者でいっぱいの日本 中川八洋氏『近衛文麿と戦争責任』」では、この本のエキセントリックな内容を紹介しました。

 日本が泥沼の戦争に巻き込まれたのは、近衛文麿首相をはじめとした大勢の「共産主義者」の陰謀によるものであった。氏の主張は大胆ですが、その論拠が具体的な資料を離れた「空想」であってみれば、まともな歴史学者から相手にされないのは当然のことでしょう。

 さらに氏の本には、資料の強引な解釈、史実の捻じ曲げ等、杜撰あるいは乱暴な展開が目立つことも事実です。本コンテンツでは、この本の問題部分を、私の目についた範囲で取り上げてみます。




 「尾崎秀実」論文をめぐって


 尾崎秀実は、先のコンテンツでも見てきた通り、近衛ブレーン集団のうち、ほとんど唯一の「真性のマルキスト」でした。

 ただし尾崎の使命は、あくまで「諜報活動」にあり、それ以外の「政治工作」などはモスクワから固く禁じられていた、と伝えられます。またそれをくつがえすような具体的なデータも、「南進論」問題を除き、存在しません。 『「日中和平工作を妨害せよ」 太田尚樹『赤い諜報員』の「コミンテルン陰謀説」』参照)


 尾崎自身も、次のように語っています。

『検事訊問調書』

第二十二回訊問調書
治安維持法違反
被疑者 尾崎秀実



私は斯様な重要な仕事に携はりましたが、其の間に於ては嘱託たる地位を利用し、私の政治的意図を実現しようとしたことは全くありませぬ

其の理由は私としては予め政府の意図は明でしたから、之に応ずる具体的意見を述べて居たのであつて、 私の政治的意図の実現といふことよりも寧ろ此の地位を利用し、日本政治の現実の動向を正確に把握し、又確実な情報を入手し得ることを此の上なき便宜としてゐた訳であります。(P222)

(『現代史資料(供法.哨襯音件(二)』)

*「ゆう」注 厳密に言えば、「コミンテルンの意思に沿った政治的意図を実現しようとしたことは全くない」と読むべきところでしょう。 尾崎は当代きってのジャーナリストでしたから、「時事問題」に対して何も意見を持たないということはありえませんし、当時の論文などを見ても、さまざまな主張を行っています。 しかし「コミンテルンの意図を実現しようとした」気配は、のち、対米戦争直前に「南進論」を唱えたことを例外として、ほとんど見ることはできません。


 しかし中川氏にかかると、この尾崎は、「中国との全面戦争」を煽り、「日中戦争が終結するのは絶対に阻むべし」という考えに基づいて「宣伝活動」を行っていた、ということになってしまいます。

 以下、見ていきましょう。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』


 尾崎秀実の煽動(アジテーション)・宣伝(プロパガンダ)の一つとして、北平(北京)郊外の小さな小さな武力衝突の盧溝橋事件をあげる。

 尾崎はこの小さな事件を中国との全面戦争にまでいかにして拡大させるかが自らの使命だと考えた。(P24)



 さて尾崎は、具体的に、どのような「アジテーション」を行ったのでしょうか。中川氏の文を続けます。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』

 そう煽動すべく精力的に書きつづけた尾崎の詭弁のロジックは、蒋介石の国民政府について、その基盤が弱体であるとか、中国国民全体に支持されておらず正統性も存在しないとか、の偽りのイメージをつくり、蒋政権を貶めることによって、日本の武力攻撃の対象にしてもよい(正統政府として交渉の対象にはならない)程度のものと、誤った認識をさせることが目的であった。

 要するに、中国の唯一の政権である国民党政府への中傷誹謗をなして日本全体にこれへの深い侮蔑観を形成したのである。(P24-P25)

 「(国民政府は)半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョア政権」
 「(国民政府は)官僚(郷紳)階級、地主階級、および新興資本家階級、軍閥の代表者を主として構成されてゐる」
 「国民政府は労働者農民の政党的勢力を根絶すべくあらゆる精根を傾け尽くした・・・」
 「国民政府は党を以て国を治める建前をとつてゐる。しかしながら国民党は事実かくの如き寡頭的、血縁的・地縁的(ギルド的)支配の性質を呈してゐる」
 「南京政府の支配は一種の軍閥政治と見ることができる」

 右記の煽動は盧溝橋事件から一カ月しかたっていない八月十日に脱稿した『中央公論』九月号の尾崎論文「南京政府論」の一部である。このような煽動が後日の近衛文麿首相の独断専行の、あの暴走「国民政府を対手とせず」声明(一九三八年一月十六日)を支える(不思議とは思わない)日本国内のムードを先行的に形成していったのである。(P25)



 「半植民地的・半封建的」「階級」「軍閥政治」などというのは、当時において、普通に「社会科学用語」として使われていたはずです。 中川氏のように、中国国民党を「貶める」目的である、とまで「深読み」する必要はないでしょう。また実際に論文を読むと、後述の通り、「貶める」目的というよりは、むしろ「客観的分析」を主眼としている、と見る方が自然だと思われます。



 つづく論文では、尾崎は、「ゲッペルスのごとく」「激しく執拗」に、「日中戦争を拡大せよ!!」「戦闘を長期化せよ!!」と「絶叫」しているそうです。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』


 尾崎秀実の、この「日中戦争を拡大せよ!」「戦闘を長期化せよ!」との絶叫と煽動は、次に挙げる、盧溝橋事件から僅か二ヵ月半後の九月二十三日に書いた『改造』臨時増刊号でもゲッベルスのごとくに激しく執拗である。

 「局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさない」
 「毒(=武力のこと)をもって制する方法しかない・・・」(※)
 「日本の伸長せんとする力を阻止せんとするものに対しては、日本の本能は或る場合は破壊力となつて爆破する」(※)
 「一局部(=盧溝橋)の衝突も全局(=全中国)に拡大しなくてはならない必然性を有してゐる」
(P26)
 「日支関係の破局(=講和の道がまったくないこと)は日本資本主義発展の特殊的事情性に即然してこれに内在する」


 最後の一節は、レーニン著『帝国主義』などのマルクス・レーニン主義の公式見解そのままであり、尾崎はこのようにしばしば自らが共産主義者であるシグナルを堂々と出していた。仲間にそうと知らせるためである。(「ゆう」注 「仲間」より先に「特高」に知られてしまう気がしますが・・・(笑))

 なお、(※)は他人の論文の引用だが、尾崎はこれを「(この)論者の言は誤りではない」とはっきりと自分の意見でもあると明記している。(P27)

*中川氏はなぜか論文名を省略していますが、これは、『改造』昭和十二年秋季増刊号に掲載された、「時局と対支認識」です。



 「絶叫と煽動」「ゲッペルスのごとくに激しく執拗」―お読みの方は、どんな論文を想像されるでしょうか。 おそらくは、「悪い支那をやっつけろ」式の勇ましい内容を思い浮かべるのではないか、と思います。

 確かに、上の引用部分をつなげると、こんなふうに読めます。というか、中川氏はこう読ませたいのでしょう。

 「局地的解決」や「不拡大方針」なんて、何の意味もない。いまや「武力をもって(中国を)制するしかない」。 そう、「日本の伸長せんとする力を阻止」しようなんてやつに対しては、日本は鉄槌を下してやるのだ。一局部の衝突だって、全支那に拡大すべきだ。


 実際に、尾崎の論文を見てみましょう。最初の一文です。

尾崎秀実『時局と対支認識』より

 「局地的解決」も「不拡大方針」も全く意味をなさないことになつてしまつた。 国民の大多数はただ敵に向つて突進する、そして少数の気弱な者が事態の成行に対して見透しを持たないまま呆然として眺めてゐるといつた状態である。(P43)

(『改造』昭和十二年秋季増刊号)



 だいぶ雰囲気が違います。今となっては、「局地的解決」「不拡大方針」など無理なものになってしまった。尾崎はそのように「客観情勢」を分析しているだけの話です。

 中川氏は「ことになつてしまった」を省いて、あたかも尾崎が「局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさない」(から、すべきではない)と主張しているかのように偽装しているわけです。



 さらに、これに続く「毒をもって制する方法しかない」「日本の伸長せんとする力を阻止せんとするものに対しては、日本の本能は或る場合は破壊力となつて爆破する」の部分は、 中川氏の書く通り「他人の論文の引用」であるに過ぎません。

 中川氏は「尾崎はこれを「(この)論者の言は誤りではない」とはっきりと自分の意見でもあると明記している」と「解説」していますが、 実際にこの論文を読むと、尾崎は別にこの部分に賛同しているわけではないことがわかります。これもまた、引用文中の過激な意見を尾崎自身の意見であるかのように偽る、中川氏のトリックでした。

*論文の該当部分を尾崎秀美論文集に掲載しておきましたので、関心のある方は、こちらでご確認ください。



 実際問題として、尾崎は、蘆溝橋事件直後には、明確に「不拡大」の考えを持っていたようです。

『検事訊問調書』

第二十二回訊問調書
治安維持法違反
被疑者 尾崎秀実



八問 次に内閣関係に付き述べよ。

 此の関係に就ては内閣嘱託関係の外牛場、岸両秘書官を中心とする朝飯会、富田書記官長を中心とする朝飯会並に近衛文麿公、風見章、犬養健、西園寺公一等との個人的関係を併せて申上げます。

一、先づ内閣嘱託関係に付き申上げます。私は昭和十三年七月より昭和十四年一月第一次近衛内閣の総辞職迄の間、内閣嘱託をして居りました。

昭和十二年七月七日蘆溝橋事件が起きた時、私は此の事件は日本の態度如何により世界的動乱に迄発展する可能性があると考へ、 同月十一日重大閣議の開かれんことを聞いた時には、事重大と思ひ早速朝日新聞社の自動車で首相官邸に乗り付け、風見書記官長に会ひ警告しましたが、 風見書記官長には私の言はんとした意味が通じなかつたらしく「すつかり決心は出来てゐるから心配は要らぬ」と言ひますので、已むを得ず牛場秘書官に会ひ自分の懸念する処を述べて退去しました。(P221)

(『現代史資料(供法.哨襯音件(二)』)




 上のエピソードは、革命の同志である川合貞吉の回想録にも登場しますので、比較的信頼性が高いものと思われます。

川合貞吉『或る革命家の回想』より

 第二次上海事変勃発の直後、私は尾崎と朝日新聞楼上の喫茶室で会った。彼はその時やや興奮して、

「今日風見章に会って来た。上海に五個師団ぐらい派兵するといっていた。 僕は、これ以上戦争を拡大することは、第二次大戦を誘発することになって、支那の長期戦の陥穽に落ち、日本は大陸の泥沼に溺れる結果になるから派兵は即時取止むべきであると、具申した。 しかし、風見は事ここに至っては止むを得ないといった。残念だけどどうしようもない」

といった。(P299)


 尾崎は、1938年6月頃、「武漢作戦」の前後には「対中強硬派」に転じた、と伝えられます(田中悦子『尾崎秀実の中国情勢の分析』)。 しかし「転向」後の論文にしても、素直に読めば、別にアジテーションを目的とするものではなく、あくまで「客観分析」を重視する学術的なものである、と見るのが自然でしょう。

 いずれにしても、盧溝橋事件当初から尾崎が「アジテーション」を行っていたかのように描く中川氏の文は、「トンデモ」の域に入るもの、とは言えるでしょう。


 



 河上肇と近衛文麿


 近衛文麿が、若いころどの程度「社会主義」に傾倒していたのかは、微妙なところでしょう。思想は「内面」の問題であり、本人が語らない以上、外部からは「推察」するしかありません。

 しかし少なくとも、首相になってからもなお「社会主義」一辺倒だった、と見る人はいないでしょう。近衛の思想については、私としては、次の杉森氏の記述が、最も妥当なもののように思われます。

杉森久英『近衛文麿』(下)より

 近衛文麿は、洗練された風貌態度と、ヨーロッパの思想や文学についての深い教養と、柔軟な人柄と、 学生時代に社会主義の影響を受けていたという前歴から、左翼に近いと見られていたが、どちらかというと右翼に近かった。 学生時代の左翼は、一時の気の迷いといった程度だった。(P195)



杉森久英『近衛文麿』(上)より

 近衛文麿は若いころ河上肇に師事して、社会主義を信奉するようになり、門閥打破、華族の特権廃止を叫び、自らも栄爵拝辞を考えたりしたが、 中年になって、多少とも政界の空気に馴れるようになってからは、清濁併せ呑む気分も生まれて来た。

 河上肇風の社会主義の立場からは、右翼は敵だが、文麿としては、父篤麿が右翼の巨頭だったという、特別の関係もあって、右翼にはむしろ好感情を持っていた。 篤麿死後、近衛家が債鬼の攻撃に曝されたとき、鷹の眼の一睨みで、退散させてくれたのは、これら右翼の人たちであった。

 彼等は一時、近衛文麿が社会主義にかぶれ、華族を辞退するの、外国へ移住するのと、勝手な熱を吹きだしたとき、不肖の息子と呼んで、失望を隠さなかったが、 その後、彼も落着を取り戻して、政界に地歩を占め、将来の活躍に備えようとする気構えを見せはじめると、再び彼に期待をかけ、志賀直方、後藤隆之助らと共に、彼を守り立てて、旗揚げさせようという動きを見せた。(P316-P317)


 上に見る通り、近衛が若い頃「社会主義」の影響を受けていたことは事実かもしれません。 しかし以下のように、「共産主義」に「傾倒」していた近衛が、「共産主義者」河上肇に学ぶために京都帝大に転学した、という中川氏の記述は、いささか書き過ぎです。


中川八洋『近衛文麿の戦争責任』

共産党員河上肇との師弟関係

 もともと近衛文麿は東京帝大(哲学科)をわざわざ中退し、京都帝大(法科)へ入りなおしているが、その理由は近衛自身が述懐しているように、『貧乏物語』の著者として著名なあの 当代随一の共産主義者の河上肇(京大助教授、共産党員、懲役五年の実刑)のもとで学びたかったからであった。 それほどまでに近衛は共産主義に傾倒していたのである。

 この河上肇と近衛文麿の師弟の関係の一コマを、近衛自身は次のように述べている。


「当時の河上氏は已にマルクスの研究をしてゐて、我々にマルクスが読めるやうにならなければだめだと終始云つてゐた・・・ 氏の宅を訪問すると、書斎に通され、火鉢を囲み刻煙草を吹かしながらもの静かな気持でいつまでも話相手になつてくれた。

この頃私は河上氏から二冊の本をもらつた。一つはスパルゴーの『カール・マルクスの生涯』であり、一つはイタリーのトリノ大学のロリア教授の『コンテンポラリー・ソシアル・プロブレムズ』であった。 後者に就ては・・・私も亦昂奮して、一気呵成にそれを読み了つた事を今も記憶してゐる」
(「清談録」千倉書房)(P90-P91)


 近衛は、約一年間にわたるこの河上肇との師弟の交流によって社会主義思想のエッセンスを学び、共鳴するようになった。



 近衛の原文を見ると、中川氏が、こんな短い引用文の中でも、都合の悪い部分を適当にカットする「ぶつ切り引用」をやらかしていることに気がつきます。 青字が、上の中川氏の引用部分です。


近衛文麿『清談録』より


 岩元先生の感化で哲学者にならうと思つて居た私は、高等学校の三年頃から、今度は社会科学に興味を感じ始め、京都帝大の米田庄太郎氏や河上肇氏の書いたものに親しむやうになつた。

 そんなわけで一時東大の哲学科に入り、井上哲次郎氏あたりの講義を聞いて見たが面白くない。そこで米田氏や河上氏のいる京都大学に行きたくなり、十月頃東大をやめた。京都へ行き、入学の期限が過ぎてゐるのに、法科に入れてくれと学生監に坐りこんでやつと入れて貰つた。

 その頃の法科は織田万博士などの時代であつたが、法律の勉強が目的でなかつたから、法律の講義等には殆んど出ない。従つて点もわるく、やつと落第しない程度だつた。(P5)

 当時の河上氏は、已にマルクスの研究をしてゐて、我々に、マルクスが読めるやうにならなければだめだと始終言つてゐたが、 極端に左傾してはゐなかつたやうだ氏の宅を訪問すると、書斎に通され、火鉢を囲み刻煙草を吹かしながら、もの静かな気持でいつまでも話相手になつてくれた。

 その頃私は河上氏から二冊の本を貰つた。一つはスバルゴーの『カール・マルクスの生涯と事業』であり、一つはイタリーのトリノ大学のロリア教授の『コンテンポラリー・ソシアル・プロブレムス』であつた。

 後者については
特に、『とても面白い本でやめることが出来ず徹夜して読んだ』といつて渡された。 私も亦昂奮して一気呵成に読み了つた事を今も記憶している。

 思うにその頃は、河上氏もマルクス主義の勉強時代であつたらう。実際運動には勿論携はつてゐなかつた。 然し時々『人はその志の為には国外に追放される位のことは始終覚悟していなくてはならぬ』等と云つてゐた。(P6)

 京都で一年程、氏の書斎に出入している中に、氏は海外留学を命ぜられて渡欧した。其渡欧に先立ち、唯一の親友だとして、一人の友人を私に紹介してくれた。それが今の代議士瀧正雄君だつた。

 併しその後だんだん瀧君の思想も変つて今日に及んでゐるが、大正六年同君が最初に代議士の選挙に立つた時は、河上氏も応援に出かけて行つた筈だ。 その後両氏の思想は益々遠ざかり、何度目かの選挙の時に、瀧君が応援を頼みに行つたらキッパリ断られたそうだ。

 そのほか、京都に行つたために、西田幾多郎氏や戸田海市氏に教を受ける事が出来たのは、今も尚仕合せだつたと思つてゐる。(P7)

※「ゆう」注 青字は中川八洋『大東亜戦争と『開戦責任』』引用部分。



 もとの文を素直に読めば、近衛は単に「社会科学」の勉強のために河上を訪ねた、という印象になるでしょう。自説に都合の悪い、 「極端に左傾してはゐなかつたやうだ」「実際運動には勿論携はつてゐなかつた」という部分を、中川氏は見事にカットしてみせました。

*さらに言えば、筒井清忠氏によれば、近衛は実態以上に河上肇との関係を強調している ようです。 筒井氏によれば、その動機は、「河上は・・・危険人物ではあったが、特権の多い京大(帝大)教授を辞して苦労の多い地下運動に入った人、口先だけではない人としてひそかに尊敬を集めていた人物でもあった。従って、 河上=近衛の近接性の提示が「弱者の味方」というイメージに・・・連なることが期されていたように思われるのである」とのことです。(筒井清忠『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』P21)





 近衛文隆への「拷問」



 近衛文麿の長男、文隆は、戦後シベリアに抑留され、1956年に「病死」しました。その死因については不明な点もあり、ソ連による「謀殺」ではないか、との疑いも捨てきれません。

 しかし、次の中川氏の一文は、書き過ぎです。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』


 近衛文麿の長男の文隆(陸軍中尉)がシベリア抑留中にKGB(一九五四年にNKGBが改組) の拷問によって、鳩山一郎による日ソ共同宣言調印の十日後、モスクワで死亡した(一九五六年十月二十九日)。

 ソ連を「理想国家」と心酔していた父親としての近衛文麿が、もし自殺せずに生きていたら、この悲報をどう聞いただろう。 ソ連に憧れた日本共産党員・杉本良吉の恋人で、一九三八年一月にソ連に一緒に亡命した岡田嘉子(女優)が、この杉本が拷問のうえ銃殺された報をきいたときと同じ心境なのだろうか。

 なお、一九九三年十月に来日したエリツィン(ロシア大統領)が"お土産"として、近衛文隆の抑留中の身分証明書の写真を首相の細川護煕に渡した。 細川は伯父のこの写真に落涙したらしいが、エリツィンに共産ロシアの非道をなじったという話を聞いたものはいない。(P93-P94)




 「抑留」自体が「拷問」である、と強弁するのであればともかく、「拷問」が近衛文隆の死因であった、という「中川説」には何の根拠もありません

 例えば、近衛と同じイワノボ収容所に収容されていた、三友一男氏の証言を見ましょう。

三友一男『細菌戦の罪』

 近衛さんが脳出血で死亡されたのは、帰国も間近に迫った三十一年秋のことであった。収容所へやって来たのはその年の六月で、日ソ国交回復の為の交渉も大詰に近づき、河野農林大臣が収容所を訪れた直後であった。

 来所した当時は元気そうに見えたが、やはり血圧が高かったという。死亡の原因について様々な噂が流れたと聞いているが、脳出血で、解剖には野原ドクターが立会った。(P238)


 収容所内では、死因は「脳出血」である、と認識されていました。

 また三友は、この本の中でイワノボ収容所での暮らしぶりを詳細に語っています。将官向けの収容所だったため、ソ連の他の収容所の「悲惨」からはほど遠い、優遇された環境だったようです

 三友によれば、労働のノルマもなく、ブリッジ・麻雀などの娯楽も盛んで、また食料も収容所仲間のドイツ人たちからの「おすそ分け」で十分なものであった、とのことです。とても「拷問」が行われる雰囲気には思われません。

三友一男『細菌戦の罪』

4 虜愁惜日

日課と娯楽

 イワノボ収容所の日課も、シベリヤに居った時と同じく、朝六時に起きて夜十時の消燈だ。七時と夕方九時に点呼があるが、ここでは廊下に出るだけだし、人数も少なかったのですぐ終った。八時から五時までが作業の時間だが、主に自活の為の仕事で、外勤者の作業指示は、朝の点呼の時日直将校から伝達された。

 日曜日は、特別な仕事でもない限り勿論休みである。ソ連の祭日は、五月一日のメーデーと十一月七日の革命記念日だけであるが、特別に、正月三ヶ日と、日本人には八月のお盆、ドイツ人には十二月のクリスマスが休日になった。休日には読書や散歩をしたり、或いは娯楽に興じたり、時にはドイツ人からお茶に呼ばれたりすることもあった

 二階のベランダ寄りの一室が日本人の娯楽室になっていて、よくブリッジが行われていた。トランプゲームでブリッジというと、普通コントラクトブリッジのことを言う。四人でテーブルを囲み、ペアを組んだ相手と向い合って座る。十三枚ずつ分けたカードを一枚ずつ出して、ペア間で勝ち負けを争い、最終的に過半数の七組以上を取れば勝になった。

 ゲームの最初のオークションで何校とるかを 約束(コンクラクト)し、その約束通りかどうかで得点をつけるのだが、オークションの時のかけ引と、目標通りカードを集めた時の楽しさが魅力で、舌戦を混えて熱戦が繰り広げられた。この遊びも理屈を知っているだけでは勝てないようで、山田大将は、「ブリッジの手引」などという解説書を作る程の理論家だったが、いざ勝負となると、少しばかり博才に長けていた梶塚さんの方が、何時も有利なように見うけられた。(P219-P220)

 ここは麻雀の常連の溜り場にもなっていて、毎晩、賑やかな牌をかき廻す音が絶えなかった。私もよく仲間に入れてもらったが、勿論、賭け事は御法度なので、毎日の点数を記録しておいて、年間の成績で競ったり、年に一度、賞品つきで麻雀大会を開いたりしていた。熱海さんが雀歴も古く、日本麻雀連盟の理事だったという話しであったが、この人でさえ、なかなか優勝できない程、皆の腕前も上っていた。ドイツ人にも麻雀に興味を持っている人が居り、在日駐在武官当時少しやったことがある等というゲネラルもいて、見物に来る人も絶えなかった。

 麻雀のメンバーからあぶれた時は、有段者の草地さんや梶塚さんから、囲碁の手はどきを受けたりして、娯楽室は何時も賑やかであった。

 イワノボに着いた年の暮、二十名で隠し芸大会をやった。山田閣下が、年を感じさせない張りのある声で、かつて副官と組んで余興に演じたという「勘太郎月夜唄」を披露した。この歌に合せた踊りが副官の十八番で、出張の折には、衣裳や三度笠まで持ち歩いていたという。皆のアンコールに更に講談を語り、「大将が幼少の頃学んだ青山小学校で、下級生の中に詩吟の上手な生徒が居た。姓を東條、名を英機」等という話しまでとび出した。この他佐藤さんの謡曲、小泉さんの学生時代に覚えたという落語、菊地君の民謡等、次から次へと熱演が続けられた。(P220-P221)

 毎週土曜の夜には、本館二階の娯楽ホールで映画が上映され、『シベリヤ物語』『石の花』というような名作や、バレーやオペラなどを映画化したものを始め、東欧共産圏や、中共の映画なども観賞することができた。中には極端に宣伝臭いものや、ヒットラーを狂人扱いにしたり、ドイツ軍がソ連軍にたわいもなくやっつけられるような愚作もあって、こんな時には、腹を立てたドイツ人が一斉に退場し、日本人もこれに同調したので、折角の映画会がお流れになった。これに反し、古典的な作品を扱ったものや、オペラやバレーを映画化したものは好評で、何度もアンコールの声がかかった。

 音楽などというものは、軍歌と民謡の外は知らなかった私も、ロシアの生んだ偉大な作曲家チャイコフスキーの 『白鳥の湖』や『眠りの森の美女』というようなバレー音楽や、ムソルグスキー、グリンカ、ボロディン等の曲を耳にする機会に恵まれ、又、ドイツ人達が、モーツァルトやベートーベン、ワーグナー、ブラームス、シューマン等の、自国の芸術家達を誇りにしている姿を見るにつれて、ワルツの軽快なリズムに心を踊らせ、クラシック音楽に耳を傾ける楽しみを覚えるようになった。(P221)

 ラジオは有線で所内に放送されていて、ニュースは毎日欠かさず聞いていた。スターリンが死亡した時など、皆じっと耳をすませて聞き入っていた。「これで私達の境遇にも、少しは変化が現れるかもしれない」と、一条の光明を見出したような思いであった。新聞はプラウダやイズベスチェアが毎日届けられ、松村さんが必要なニュースを選択の上、翻訳、口述し、山田大将がそれを筆記して、皆に回覧するのが日課になっていた。(P221-P222)



三友一男『細菌戦の罪』

 故国からの味と便り

 捕虜の一日の食糧支給量は、兵の場合、殻物四百五十9、黒パン三百五十g、肉類五十g、魚百五十g、野菜八百g、その他油・砂糖・塩・タバコ少々である。イワノボ収容所は将官収容所なので、穀物(米が主であった)が若干少ない代わりに肉や砂糖・タバコ等の量が多く、バターやチーズもあって、一般収容所に比べ質的には恵まれていた。(P227-P228)

 と言っても、野菜とは馬鈴薯で、皮を剥けば半分近くになってしまうし、肉も骨付きなので実際に使える所は少ない。油・バターにしても決して充分な量とは言えなかった。

 こうした不足を補ってくれたのが故国から届けられる慰問袋だった。二十九年頃から小包が送られてくるようになり、粉末の味噌や醤油・乾燥野菜・餅粉・缶詰類・羊羹などが届いて、食生活も随分と豊かになった。

 ドイツ人にも小包が送られてきたが、彼らの場合は、量も内容も日本の場合とはまるで違っていて、単に慰問袋と呼ぶようなものではなく、捕虜生活に必要な生活物資を補給している、といった感じであった。

 様々な食料品の缶詰や、バター・砂糖・調味料を始め、コーヒー・ココアなどからワイシャツ・下着類・靴下・革靴・果てはゴム長に到るまで、毎月トラックで何台も送り届けられた。十一月頃になると、クリスマス用の飾り付け用品まで送ってくるのには、唯々驚くばかりであった。(P228)



 その当時、ドイツ人がソ連から受けとっていたのは、パン・馬鈴薯・肉の他は少量の雑穀位なもので、その他の副食品・調味料・衣服などは、総て送られてくる小包によって賄われていた。それも、彼等だけでは消化しきれず、相当量が日本人にも廻されてきた。

 お陰で私達も、油やバター・チーズ・砂糖などをたっぷりと使うことができ
、雑穀などは選り好みをして、燕麦や粟、小豆のような、必要なものだけを受けとり、肉なども、くせのある羊の肉を敬遠して、量は減っても、味のいい豚肉などに交換してもらったりする程の余裕ができた。

 三十年の九月、ドイツ人が先に帰国したが、その際沢山な物資を残していき、これらの物は、一年経っても使いきれず、今度は私達が帰国する際、米・穀物・バター・砂糖などをロシア人に分けてやった。日本人もドイツ人達と同じ炊事場に居ったので、彼等から、馬鈴薯を使った色々な料理を教えてもらったりした。彼等には、日本人が砂糖や醤油を料理に使うのが珍しかったようである。

 私達の料理は朝と晩が和風のメニューで、昼はパンとスープにした。正月とお盆には特別な献立になり、時々、ココアやバター・砂糖を使ってケーキや焼菓子・ゼンザイ等を作り、三時のおやつにした。支給された糧秣は、カロリー計算をして一週間分の献立を作り、ソ連軍医の承認の上で調理した。(P229)

 できた料理は、毎食毎彼等が検食してから配膳された。馬鈴薯の皮剥きは、後宮、梶塚、川島、武藤さんらの日課で、配膳は、大坪、小畑、久保、黒木、星子といった方々にお願いした。こうした日・独の送り物のお陰で、捕虜生活中最大の課題であった食料事情は、抑留中の後半、概ね満足すべき状態であった。(P230)


 念のためですが、三友はソ連に捕まった初期、「アクチープ(共産主義煽動者)として各収容所をオルグしていた」時期がありました。しかしソ連の現実を見て、のちには批判的な立場に転じています。


三友一男『細菌戦の罪』

 研究会の勉強を通じ、唯物論的、弁証法的思考方法には共感、理解することもできたが、社会主義の国のその底辺に身を置かれて、マルクス・レーニン主義的な党によって指導され、共産主義の社会を目指している国家の、理論と現実とが余りにもかけ離れている様子や、一般国民の実生活をつぶさに見聞する機会を得て、納得しかねる点が多かったことも否めない。(P156)



 なお右派論客として知られる工藤美代子氏は、文隆の弟道隆氏の言葉として、毒殺されたのではないか、という疑いを語っています。ただしその根拠は弱く、工藤氏ですら、「疑問」のレベルを超えようとはしません。

工藤美代子『ソ連抑留「近衛文麿」長男の謎の死』


 荻外荘のリビングで通隆氏は怒りを抑えるように静かに語る。すでに半世紀以上前の出来事だが、兄を慕っていた通隆氏にとっては、忘れるわけにはいかないソ連の国家犯罪なのだ。(P142-P143)

 「兄は病死と言われていますが、そうではありません。あれは毒薬を飲まされ、殺されたんです。 帰ってきた医者なんかに聞くと、兄はとても元気だったんですから。薬の名前までは私には分りませんが、血圧がうんと高くなって二、三日のうちに死んだのですから、毒殺されたと思いますよ。無念だったでしよう」

 文隆の身にいったい何が起きたのか。三十一年秋、イワノヴォ収容所、(モスクワ東北部)で診断された彼の病状の推移を検証してみる必要がある。 日ソ交渉に光明が見え、解放が近いと誰もが思っていた矢先のことだった。

 元来、人一倍健康で体力に自信のあった彼が、ある日を境に急激な衰えをみせた。当然、収容されていた日本人仲間も異変に気づき医師を呼んだ。 十月二十三日以来、突如として四十度からの高熱を発し、激しい頭痛に襲われたのである。

 二十四日、急性腎臓炎と診断され、正午、病室に移された。このとき血圧二百二十、熱は四十度。二十五日から二十八日の間はぺニシリン、ブドウ糖、強心剤などが投与されたが不眠と高熱が続く。 二十八日、じゃが芋の潰したものを茶碗一杯食す。二十九日午前四時二十分、脳出血を起こし、右手足のしびれを訴えたが間もなく意識不明となった。カンフル注射を一本、午前五時、死亡確認。

 同じ病室に最期の一時間前まで一緒にいた元陸軍中将・太田米雄の証言がある。老将軍も病に冒され数日間起居を共にしたが、脳出血の兆候である手足のしびれや麻痺、舌のもつれなどの異変には全く気がつかなかったという。二人は終始会話をしていたし、文隆は病室内を動き、最初は食欲もあり中将が進呈した桃の缶詰などを喜んで食べていた。

 その後、頻繁に尿検査が始まりコノエの容態が急変した。脳出血だと聞かされ中将は部屋を立ち退き、入れ替わりに専属の女医が来てから一時間ほどで悲報を伝え聞くことになった(『近衛文隆追悼集』抜粋)。

 この一時間の間に何が起きたのだろうか。(P143)

(『週刊新潮』2008.8.28)


 なおこの工藤氏ですら、「拷問」の疑いなど一言も語っていません。「拷問死」云々は、中川氏の根拠なき暴走でしょう。





4
 ヒットラーの扮装


 近衛が私的なパーティーでヒットラーの扮装をした、というエピソードが存在します。

 実態を知ってみれば他愛のないエピソードなのですが、中川氏はこれを、近衛がヒットラーを「心から憧憬し範とした理想の政治家」と考えていた、という根拠にしてしまいます。


中川八洋『近衛文麿の戦争責任』

第一節 「政界再編成」の雪崩現象

 一九九三年の「政治改革」フィーバーのなかで誕生した総理大臣・細川護煕の母は温子といい、近衛文麿の次女であり、細川護貞に嫁いだ。 この温子の結婚式の前夜の宴で、近衛文麿が、首相に就任する直前であったが、ヒットラーに扮した仮装をしてはしゃいだことはつとに有名な話であろう。 一九三七年四月十五日の夕べであった。

 近衛文麿についての戦後に定着した誤ったイメージ(虚像)からは、ヒットラーに仮装したことをいぶかしく思われがちであるが、近衛文麿は、"一国一党"、つまり複数政党の競争による政党政治(プルーラリズム)を排して、独裁政党の体制をもって国家の政治のあるべき理想と信じ全智全能を傾けた政治家であった。ヒットラーやスターリンこそ、近衛文麿が心から憧憬し範とした理想の政治家であった。(P156-P157)



 しかし実際には、これはこの程度の話であったようです。


杉森久英『近衛文麿』(下)より

 続いて次女の温子が結婚した。昭子より二つ下で、大正七年の生まれである。嫁いだ先は侯爵細川護立の長男護貞である。上掲の手紙で「貞」と書かれている人がそれで、挙式は昭和十二年四月だった。(P55-P56)

 手紙の中には、長女昭子の結婚式の前夜の仮装会のことが書かれているが、温子のときも仮装がおこなわれた。何かめでたいことがあると、仮装パーティーをやったり、隠し芸大会をやったりして、みんなで楽しむのが、近衛家の習慣だった。

 長女の仮装パーティーのときは、近衛は夫人の毛皮の外套を借りて、洋装婦人に扮した。昭子がチャンバラの武士になって、化粧品にかぶれたことは、文隆への手紙にある通りである。また、家職や書生たちの白浪五人男も登場した。

 温子の結婚のときの仮装では、文麿はヒトラーに扮し、夫人千代子は中国服を着て、中国婦人になった。文麿の弟で音楽家の秀麿は、知り合いの浅草の芸能人から借りて来た本格的な衣裳で、水もしたたるような下町娘になり、ちょうど来合わせた後藤隆之助も、飛び入りで、何か得態の知れぬ山賊のような男になった。

 この仮装会の記念写真が、物好きなジャーナリストの手に渡って、新聞に載せられたとき、近衛がヒトラーに扮していることが話題になった。 ちょうど日独防共協定が締結された直後で、何か意味ありげに受け取られたが、その時の実際をおぼえている者にとっては、それは思い過ごしであった。

 近衛文麿という人は、生まれつきか、環境のせいか、おそらくその両方だろうが、物事に無頼着で、世間の事に疎かった。彼は碁、将棋、トランプなどに興味がなく、負けてもくやしがるわけでもなく、勝っても嬉しがらなかった。子供たちとかるた取りをやっても、悠然と構えて、相手の取るに任せているので(P56-P57)
 「おもう様とやっても、つまらない」
 と、忌避された。

 それで、仮装をすることになっても、自分で何になろうと、積極的に工夫をこらしたり、考えたりすることが全くなくて、(自分で考えなくても、代りに考えてくれる者がたくさんいた。自分で考えると、その人たちの楽しみを奪うことになるばかりである)茫然としているので、誰かが
 「ヒトラーにでもおなりになったら」
 といって、前髪を順に垂らし、あり合わせのバンドのついた服を着せ、長靴をはかせたら、即席にヒトラーができ上がった。

 ヒトラーは当時、なま半可な映画スターより人気があって、国際社会の花形的存在だったから、 日本の花形役者の近衛がこの人に扮することが、いかにも意味ありげに見えて、やかましく言う者もいたが、有り様を言えば、 近衛の無頓着と、側近の思いつきの所産に過ぎなかった。(P57)



 中川氏の書きぶりは、想像力過多、と言わざるをえないでしょう。
 

(2010.11.13記   2017.5.21 三友一男『細菌戦の罪』追記)
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